2019年11月 8日 (金)

【遊】北海道旅行2019年11月 (4)

11月1日から5日までの、北海道旅行。

◆2019年11月5日(火)
 小樽~新千歳空港~羽田空港

ライブ最終日の小樽「なまらや」で、深夜まで打ち上げ。
そのままお店の2階に泊めていただき、翌朝、小樽駅へ。
先に新千歳空港へ向かう友人夫妻と共演のI氏を見送り、荷物をコインロッカーに預けて、小樽市街を散策した。

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数年前にも立ち寄った「金融資料館」を見学。

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この建物の外壁に飾られているレリーフが、シマフクロウだったことを知る。

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新千歳空港では、温泉に入った。

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羽田へ向かう機内から。
窓際の席から、きれいな夕焼けを眺める。
羽田に近くなると、遠くに富士山のシルエットも見えた。

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【遊】北海道旅行2019年11月 (3)

11月1日から5日まで、4泊5日の北海道旅行。

4日目は、このライブツアー最後の会場、小樽「なまらや」。
芦別「貘(ばく)」と共に、私が楽しみにしている店だ。

◆2019年11月4日(月・祝)
 芦別~小樽

毎回立ち寄るようになった、小樽築港駅のショッピングモールにある回転寿司。

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小樽駅からバスですぐの場所にある「なまらや」。

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「なまらや」の前から見えた、夕暮れの風景。

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【遊】北海道旅行2019年11月 (2)

11月1日から5日にかけての北海道旅行。
その続き(滞在2日目と3日目)。

◆2019年11月2日(土)
 札幌~芦別

札幌駅前のバスターミナルから、高速バスで芦別へ。

いつも立ち寄る旭川ラーメンの店で昼食。
私は、味噌チャーシュ麺をいただく。

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芦別のライブ会場「珈琲 貘(ばく)」
店名は、高田渡さんのアルバムタイトルから。
店のロゴも、渡さんの許諾を得て、アルバムジャケットと同じデザイン。

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店内壁面に飾られている、山崎ハコさんのファーストアルバムのジャケット。

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◆2019年11月3日(日)
 芦別~札幌

高速バスの車窓から。
写真は撮れなかったが、遠く、雪をかぶった暑寒別岳が見えた。

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この夜のライブは、札幌市内の「SALINAS」

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【遊】北海道旅行2019年11月(1)

11月1日から5日まで、4泊5日で北海道に行ってきた。

長いつきあいの友人夫妻「MOTEL(須藤もん&対馬照)」のライブツアーに同行。
行き帰りの飛行機こそ別だったが、北海道では、ほぼいっしょに行動した。

ライブの様子は、Facebookにあげたので、ここでは、私の単独行動で撮った写真を掲載しておこう。

◆2019年11月1日(金)
 羽田空港~新千歳空港~札幌(北大構内散策)

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札幌駅に荷物を預けて、北口から少し歩き、北大構内を歩いてみた。

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北大博物館に入ってみた。

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博物館の売店には、食指を動かされるグッズがいろいろ。
買いたいきもちをぐっとこらえて、知里真志保の新書版書籍だけ購入。

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この日のホテルに入り、夕方、ライブ会場「Jack in the box」へ向かう。
スープカレーの店。
いただいた野菜カレーがおいしかった。

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2019年8月23日 (金)

【読】朝鮮戦争・朝鮮分断の起源

8月12日から、途中、中断もあったが、読み続けている本。
たしか、地元の図書館にリクエストして入れてもらった、新刊。

西村秀樹 『朝鮮戦争に「参戦」した日本』 三一書房 (2019/6/25) 319ページ

 

朝鮮戦争当時、大阪で発生した「吹田枚方事件」を詳細に追跡した内容だが、朝鮮戦争、それ以前の(日本敗戦後の)朝鮮半島の南北分断に至った歴史経緯が、綿密に検証されている。
第二部 朝鮮戦争と日本 第五章 なぜ朝鮮は分断されたのか、なぜ日本は分断されなかったのか P.84~P.105

その内容を忘れないように、テキストファイルに文字入力してみた。
ほぼ原文の書き写し(できるだけ箇条書きになるよう心掛けたが)。

歴史認識が喧伝される昨今、いわゆる慰安婦問題、徴用工問題の遠因を考えるために、公正な歴史認識が必要だと思う。
私も知らなかったことが多く、自身の歴史認識の整理が、少しはできたかな、と思う。

以下、長文。

西村秀樹 『朝鮮戦争に「参戦」した日本』 三一書房 (2019/6/25) 319ページ 【東大和市立図書館】
2019/8/12~

第二部 朝鮮戦争と日本
第五章 なぜ朝鮮は分断されたのか、なぜ日本は分断されなかったのか P.84~105

■朝鮮戦争の二つの要素
・国際的要素・・・第二次世界大戦末期からの朝鮮半島をめぐる米ソの勢力抗争
・国内的要素・・・統一朝鮮国家の指導権をめぐる半島内部の対立
二つの要素が交錯、融合した典型的な「国際内戦」
戦後日本の針路に決定的な影響を与えた (神谷不二『朝鮮戦争』中公文庫・1990)

■ドイツの東西分割・・・戦前の領土の四分の一の面積がポーランドに編入
「ある日、私のクラスの学生が手を上げて、どうして挑戦は45年に分割されたのか、なぜ日本はドイツのように分割されなかったのか」
「そのときは言葉を失ってしまった。その方が『正当な』解決策であったのだ。日本人はこんなことを聞きたくないと思うが、朝鮮よりも日本を分割する方が正当な処置であったはずだ。
(ブルース・カイングス『朝鮮戦争の起源』シアレヒム社・1989-91)

■なぜ朝鮮が分断されたのか
アメリカ政府の軍部は、日本を四分割する計画をもっていた。 (五百旗頭真『米国の日本占領政策』中央公論新社・1985)
このプランにアメリカ国務省が反対、日本の領土は三分割された。
・連合国軍最高司令官兼アメリカ太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥による北海道、本州、四国、九州の占領
・アメリカ太平洋方面(海)軍総司令官ニミッツ提督による琉球列島、小笠原諸島の占領
・ソ連極東軍総司令官ワシレフスキー元帥による「北方領土」(樺太、千島)の占領
(竹前栄治『占領戦後史』岩波書店・1980/1992)

■米国は日本の朝鮮支配を承認していた
黒船来航(1853)~日米和親条約締結(1854)
明治維新(1868)
日清戦争(1894-95) 朝鮮半島の支配権をめぐる清との戦争
日露戦争(1904-05) 中国・遼東半島、満州鉄道の利権をめぐるロシアとの戦争
アメリカが帝国主義路線に踏み出した時期
・キューバに対する覇権争いと独立をめぐるスペインとの戦争(1898)に勝利
・同時期、国王フェリペ二世ゆかりの島国スペイン領フィリピンでの米比戦争を鎮圧
 フィリピンを植民地として支配、宗主国となる
桂=タフト協定(秘密協定・1905/7)
セオドア・ルーズヴェルトの特使・陸軍長官タフトがフィリピンに向かう途中、日本を訪れ、当時の総理大臣兼外務大臣・桂太郎と面談、秘密協定を結ぶ
(1)日本はアメリカのフィリピン当地に同意し、同地に何らの野心もない
(2)極東平和のため日英米三国の好意ある理解が必要
(3)アメリカは、韓国(大韓帝国)に対する日本の保護監督権を承認する
「この協定は、この直後締結された日英同盟改訂、日露講和条約とともに日本の韓国保護国化を列強が保証したものであった」
(『岩波日本史辞典』)

■乙巳(いっし)条約と韓国
乙巳条約(第二次日韓協約)・・・韓国の外交権を奪って保護国とし、総督府を置く(1905)
アメリカはソウルの公使館を閉鎖(1905/11)
以後、36年間、アメリカは日本の朝鮮支配を承認、朝鮮独立運動へのサポートを抑制
韓国併合、植民地化(1910)
※「併合」=二つ以上のものをあわせて一つにすること。(類語として)統合・合併・合一・合体・合する
(三省堂『現代新国語辞典』)
外務省の政務局長倉知鉄吉が「其語調の余り過激ならざる文字」を目的に新たに作った言葉。
「この新語はオーストリア・ハンガリー帝国のように対等の連邦国家のように誤解する人もいたが、韓国が全然廃滅に帰して(大日本)帝国の領土の一部となる意を明かす」ためだと覚書に記載。(倉知鉄吉は、当時の対韓政策の原案を作成)

■韓国併合条約
カタチの上では、韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れた「任意」を装っているが、実態は、日本が軍隊・警察をつかって徹底的に弾圧した結果だ
ソウルの西大門(ソデムン)刑務所跡地にある「歴史館」には、かつての政治犯が受けた扱いが展示されている
西大門刑務所歴史館 | 観光-ソウルナビ https://www.seoulnavi.com/miru/24/

■朝鮮は日本の鏡
黒船来航(砲艦外交)~鎖国から開国へ~明治維新
日本は中国(清国)の冊封国朝鮮の支配を意図
征韓論(1873)・・・ベクトルが逆の砲艦外交で開国させる(江華島事件・1875)
日清戦争、日露戦争も原因は朝鮮、満州=中国東北部
日清戦争、三国干渉
遼東半島を清国に返還、ロシアが大連・旅順の租借権などを獲得、満州に軍隊駐留
日露戦争
日本海戦でからくもロシア艦隊を破る
日ロ双方の事情(日本:財政上の問題、ロシア:革命運動の激化)から、セオドア・ルーズヴェルトの斡旋を受け入れ、ポーツマス講和条約締結
結果、朝鮮の植民地化、遼東半島の租借権、満州の鉄道利権を手に入れる
明成(ミョンソン)皇后(=閔妃)暗殺事件(1895)

■「満州国」
韓国併合をアメリカは承認
満州事変(1931)
満州国樹立(1932)
リットン調査団報告
国際連盟脱退
日中戦争始まる(1937)
「大東亜戦争」(1941)

■ソヴィエト連邦の対日政策
社会主義国ソヴィエト連邦を仮想敵国とし、ソ連との距離感に悩む
ナチスドイツのポーランド侵攻(1939/9)、オランダ、フランスへの侵攻
ナチスドイツ、ソ連との相互不可侵条約締結(1939/8)、英仏との戦闘に専念
ナチスドイツ、ソ連に侵攻、条約破棄(1941/6)
ソ連、「満州国」に滞在する「関東軍」(万里の長城の東に位置する山海関から東エリアを「関東」という)の兵力を警戒、日本と日ソ中立条約締結(1941/4)、ナチスドイツとの戦争に専念
ソ連、英米に対して、早く西ヨーロッパに兵力を上陸させてナチスドイツを東西から挟み撃ちすることを望む
英米軍の上陸は遅れる
ソ連、英米がナチスとソ連という全体主義国家の共倒れを狙っているのではないかと疑う
英米を主力とする連合国のシチリア島上陸(1943/7)、イタリア本土上陸(1943/9)
フランスのノルマンディー上陸(1944/6)
ヨーロッパ第二戦線ができるまで、ソ連はナチスとの単独戦争を余儀なくされ、レニングラード攻防戦などで膨大な死傷者を出す

■カイロ会議
ミッドウェー海戦(1942/6)
ガダルカナル戦(1942/11)
英米首脳、中華民国総統・蒋介石をカイロに招き、対日政策を話し合う首脳会談=カイロ会議(1943/11)
チャーチルは蒋介石招聘に疑義を抱くも、フランクリン・ルーズヴェルトは中華民国が日本と抜け駆けで講和条約を結ぶことを警戒
英米首脳、カイロからテヘランを往復、テヘランでスターリンと会談、第二次大戦後のヨーロッパについて議論、カイロに戻る
英米中三首脳のカイロ宣言(1943/12/1)
この中で朝鮮について言及「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、朝鮮をやがて自由かつ独立のものとする」
「やがて」という制約条件の背景・・・英米が挑戦を信託統治にする考え(独立はその後)
イギリスは植民地インドの問題を抱え、独立に反対した

■ヤルタ会談
クリミア半島(ロシア・ロマノフ王朝のリゾート地、黒海北部)の保養地ヤルタに、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集まる(1945/2)
主たる議題:ヨーロッパの重要問題、とりわけポーランド問題
対日参戦については米ソだけで話し合う(チャーチルは外される)
「ナチスドイツ降伏後、ソ連は二、三か月のうちに対日戦争に参戦」が同意される
スターリンは、日露戦争で失った樺太南半分、満州での既得権益にとどまらす、外モンゴル(当時のモンゴル人民共和国)の現状維持、千島列島の獲得までルーズヴェルトに要求
ヤルタ会談の後、ルーズヴェルトが病死(1945/4/12)
副大統領のトルーマンが第33代大統領に就任(選挙を経ていない大統領という後ろめたさを本人は抱えていた)

■日本はソ連へ和平工作を依頼 (なんという間抜けさかげん)
日本の敗色濃厚
ソ連外相モロトフ、モスクワの中ソ日本大使・佐藤尚武を呼び出し、日ソ中立条約を延長しない旨通告(1945/4/4)
期限切れまでは現状維持と伝える
東京では総理大臣が変わり、鈴木貫太郎に(昭和天皇の信任が厚く、海軍大将、枢密院議長)(1945/4/5)
アメリカの知日派、鈴木内閣誕生を、日本が「無条件降伏」まではいかないまでも、戦争終結の準備を始めたと受け止める
(武田清子『天皇観の相克』岩波現代文庫)
ソ連、ヤルタ会談での米国の同意に基づき、対日参戦の準備に入る
「シベリアでソ連赤軍が軍備力を増強」との情報は、日本のスパイ網にかかり、東京に報告が上がっていた
(にもかかわらず、日本は間抜けなことに、当時の陸軍は連合国との和平仲介をソ連に求める)
ナチスドイツ降伏(1945/5/7)
ソ連、対日参戦準備を本格的に始める
昭和天皇、ソ連への特使派遣を決定(1945/7/9)―元総理大臣・近衛文麿
中ソ日本大使・佐藤尚武、外相モロトフに会えずじまい
(日本の外交ベタ、ソ連の外交巧者ぶりが際立つ)
ソ連、「日本が戦争を終結したがっている」という重大かつ貴重な情報を日本そのものから入手、英米に伝えた

■ポツダム宣言
ソ連、日本からの和平交渉依頼に対し邪険にふるまう中、スターリンとモロトフがモスクワ出発(1945/7/14)
目的地はドイツのベルリン郊外、ポツダム、連合国首脳会議に出席するため
ルーズヴェルト病死を受けて急遽大統領に就任したトルーマン、弁護士出身で外交に疎かった
就任間もない時期(1945/4/25)、原子爆弾開発の秘話を聞き、驚く
「一発で一つの都市全体を破壊できる爆弾」と、陸軍長官から聞かされ
原爆実験がネバダ砂漠で成功したとの報告をトルーマンが受け取る(ポツダム会談開始の前日、1945/7/16)
第二次世界大戦の終結は秒読み段階
問題は、日本をいかに降伏させるか
アメリカ軍の沖縄上陸作戦
次なる本土決戦は南九州から上陸する作戦(1945/11目標)の準備にとりかかる
トルーマンの手元には「原爆カード」、ソ連の対日参戦カード
あとは「天皇」をどうするか

■トルーマンの代理署名
ポツダム宣言に署名したのはトルーマンだけ
イギリス、中華民国の代表はトルーマンが代理署名した
(スターリンは宣言に当初参加せず、署名もしていない)
(小此木征夫『朝鮮分断の起源』慶應義塾大学法学研究会)
チャーチル、ドイツ降伏後二か月経って行われたイギリス総選挙で保守党敗北、首相に資格を実質的に失う
労働党党首アトリーが次席代表として参加
中華民国の蒋介石は、ポツダムにも招かれず、トルーマンは中国と無線で了解を求め、同意を得た
トルーマンが蒋介石の代わりに署名
しかも、中華民国の正式名称を使わず、単にチャイナと表記

■天皇、原爆、朝鮮分断
米英中三か国、日本に「無条件降伏」を要求(1945/7/26)
ポツダム宣言にスターリンが署名していない理由:この日の段階でソ連はまだ対日戦争に公式に参加していないからとの公式声明
トルーマンは、スターリンに弦悪の存在を耳打ち
スターリンは、すでにアメリカ国内のソ連の協力者の情報から原爆開発の経過を知っていたという
ポツダムでのトルーマンとの会談後、スターリンは軍部に対し対日参戦をそれまでの8月下旬から早め、すぐに攻撃開始できるよう繰り上げを命令

■日本降伏「秒読み」
通例、外交文書は大使館を通して直接通告するもの
第二次大戦中といえども、日本はヨーロッパに永世中立国スイスとスウェーデン日本大使館を設置したままだから、通告すればよさそうなものだが
連合国はポツダム宣言を日本に直接通告しなかった
サンフランシスコからのラジオ短波で放送、日本が傍受
日本が軍事的に連合国に圧倒的に負けている段階で、いかに天皇制を守るか日本の指導者層は苦闘

■米国内部の相克
アメリカは、1940年代初頭から日本研究
日米戦争後の日本の政治体制をめぐって、アメリカ政府内部で「知日派」と「知中国派」との意見対立が続く
蒋介石、中国を侵略する大日本帝国の軍国主義と天皇制がわかちがたく軍国日本の両輪を形作っている、戦後の日本は天皇制をなくすべきだと強く主張
アメリカ国務省内部の「知中国派」は、天皇制廃止を望む
「知日派」の代表ジョセフ・グルーは天皇制存続を主張(「天皇利用」説)
天皇の威光を利用した方が、日本軍の武装解除、戦後の統治がしやすいと考えた
トルーマンに対し、天皇制存続をほのめかせば日本の降伏は早まると説得
(グルーは、日米開戦時の駐日アメリカ大使、武田清子と逆の日米捕虜交換船でアメリカに帰国、国務省次官として活躍)
(武田清子:日本の思想史家、戦前からアメリカに留学、日米開戦に伴い日米捕虜交換船で帰国、『天皇観の相剋』という研究所あり)
相剋:対立するものが互いに相手に勝とうと争うこと

■日本政府の逡巡
日本国内の論点:連合国側が「国体護持」=天皇制を残すのか、共和制移行を要求するのか、その見極めだった
ポツダム宣言には天皇制存続を保全する文言なし
日本の降伏、原爆、ソ連の参戦、天皇制存続が互いに絡み合う
1945/7/26、ポツダム宣言を日本の外務省、陸軍、海軍が別々に短波傍受、翻訳
同盟通信(のちの共同通信)が「リスボン発同盟通信電報」を配信、新聞にはベタ記事掲載
日本政府内部では、ポツダム宣言に天皇制存続保全の文言がないことから、政府内部で厳しい論議
結局「コメントしない」と「黙殺」することを決めた
その「黙殺」を新聞社、通信社は「拒絶」と報道、連合国は日本がポツダム宣言を「拒否」したと判断
日本政府指導部の逡巡が大きな悲劇と朝鮮半島分断をもたらした

■原爆投下
1945/8/6、マリアナ諸島テニアン島にある米軍の空軍基地から、新型爆弾を載せた爆撃機B29が飛び立ち、午前8時15分、広島の中心部上空で爆弾が炸裂
当時の広島の人口約35万人、うち14万人が一発の新型爆弾で死亡
犠牲者の中には在日朝鮮人やアメリカ軍捕虜数十人も含まれている
陸軍は調査団を派遣、広島赤十字病院のレントゲン写真がすべて感光していたことから、新型爆弾が原子爆弾だと判断
同じ日、スターリンは、赤軍に対し三日後(8/9)、対日戦の参戦を命令
ポツダム宣言の「黙殺」あるいは「拒否」がアメリカに原子爆弾投下、ソ連の対日参戦の大義名分を与えた

■分断は30分で決定
日本政府が天皇保障を連合国側から取り付けようと逡巡しているこの数日のタイブラグで、ソ連赤軍は怒涛の進軍
8/9午前零時(ロシア東部時間)、満州侵攻作戦を開始
満蒙国境の越境、朝鮮には日本海側の豆満江の渡河作戦と、日本海側の港・清津などへの上陸作戦(8/13)、南樺太への侵攻を実施、わずか数日のうちに赤軍は朝鮮半島を南下
はじめの作戦では京城(ソウル)をめざす予定だったが、原爆を二度までも落としたアメリカ軍の実力と真意を測りかね、京城へは先遣隊派遣にとどめた

■アメリカの戸惑い
ソ連軍の満州国と朝鮮への進軍開始(8/9)を受け、8/10深夜から翌日未明にかけ、アメリカ政府の国務・陸軍・海軍三省調整委員会は、二人の若い陸軍大佐に対し、朝鮮分割案を作るように指示
二人は、北緯38度線による分割プランを提出
理由は「アメリカ側に首都(ソウル)を含めるため」
作業時間はわずか30分だった
(ブルース・カミングス『現代朝鮮の歴史』明石書店)
「二人は朝鮮半島の中央部のくびれ付近を横切る線に目を止めた。北緯38度線だ。こうして地図にダーツを投げつけるより少々複雑といった程度の手順を経て、二人は分割案を持参した」
(デイビッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』新潮社)
立案者二人のうちの一人は、ケネディ政権で国務長官を務めたディーン・ラスク(当時、大佐)
ラスクは「地図は朝鮮の地形が明確に見て取れるナショナル・ジオグラフィック誌のものだった」と証言した
(饗庭孝典『朝鮮戦争』日本放送出版協会)
ハルバースタム:「アメリカには正しい判断のできる朝鮮半島の専門家がいなかった」(前掲書)
朝鮮民族の分断は、アメリカとソ連に大きな責任があり、日本がポツダム宣言受諾のタイミングを間違えたという意味で、日本の責任も小さくない
日本は受益者となり、朝鮮は新たな苦難を強いられた
ソ連は、この朝鮮分割案をすんなりと受け入れたが、立案者のラスクは「ちょっと驚いた」と証言した

■朝鮮分断は38度線か39度線か
境界線以北の日本軍はソ連に、南側は米軍に降伏し、武装解除することに
日本軍のうち対ソ戦を受け持つ関東軍と、朝鮮半島を受け持つ朝鮮軍の境界が北緯38度線だったという説があったが、そうではなかった
敗戦間際、日本軍はエリア再編を実施、関東軍と朝鮮軍の境界は北緯39度線だった
(宮田節子『朝鮮軍概略史』不二出版)

■国連信託統治案
アメリカは、フィリピンがそうであるように、ウィルソンの民族自決主義をそのまま適用するのではなく、国連の信託統治方式を採用する方針だった
その期間は40年~50年
その背景には、イギリスが植民地インドをかかえ独立に反対していたから
朝鮮半島でソ連赤軍が南下を開始した8/9の段階で、アメリカ軍は沖縄に軍隊を進めたばかり、南朝鮮は空白だった

■第一回目の御前会議
1945/8/8、モスクワでは外相モロトフが駐ソ日本大使館の大使佐藤尚武を呼び出し、宣戦布告、日ソ断絶
だが、日本大使館から東京の外務省への連絡は、ソ連当局の妨害でつながらなかった
東京での第一回御前会議(8/9)
三日前には広島原爆投下、8/9当日未明にはソ連の対日参戦、御前会議の最中、午前11時過ぎ、長崎に二つ目の新型爆弾(原子爆弾)投下
午前会議:昭和天皇、首相・鈴木貫太郎、外務大臣・東郷茂徳、陸軍大臣・阿南惟幾、海軍大臣・米内光政ら
8/10未明、ポツダム宣言を受諾することには全員同意したものの、受諾条件でもめる
・外務大臣の一条件案(天皇の地位存続のみを条件)
・陸軍大臣の四条件案(天皇の地位存続保障のほか、戦争責任者日本側処断など)
昭和天皇の聖断がないと結論を国民を含め軍部が受け入れないだろう―内大臣・木戸幸一らが事前に準備
キーパーソンは木戸、総理の鈴木貫太郎は「聖断」方式を採用
昭和天皇の「聖断」によって外務大臣案が採用された
この回答は、スウェーデンとスイスの日本大使館を経由して連合国に通知
連合国側は外務大臣案が求める天皇の地位保障に対して、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」(米国務長官バーンズ)と返答

■終戦の詔勅
二度目の御前会議(8/14、皇居御文庫)
その日の夜遅く「敗戦の詔書」を決定
「米英支蘇の共同宣言を受諾」(ソ連はポツダム宣言後に対日参戦したので、8/14の段階では日本と戦っている連合国の主要メンバーは四か国)
昭和天皇が直接日本国民、とりわけ日本軍兵士に降伏した事実を告げないと武装解除がスムーズに進まないとの理由で、昭和天皇が直接ラジオを通して呼びかけることが決まる
この日深夜遅く、NHK職員が皇居に出向き、昭和天皇が決まったばかりの「終戦の詔書」を朗読、その声をレコード盤に録音
(このレコード盤をめぐって近衛部隊が蜂起した「宮城事件」が発生)
日本政府は、14日夜、国民に対し「翌日正午に重大放送を放送すること」を臨時放送、新聞各社に対して翌日の朝刊を正午以降に配布することを命じた
(参謀本部や陸軍省の記者クラブを通して、全国新聞社はポツダム宣言受諾を一日早く知ったことになる)
当時、東京朝日新聞の記者だった武野武治(むの・たけじ)は、この夜を最後に出社しなくなった
(戦争責任をとった、ただ一人のジャーナリストと言われた)

■光復節
日本が負けた日はいつか?
・8/14説 昭和天皇が「終戦の詔書」に署名した日付、皇居で御前会議が開かれ「終戦の詔書」がまとまった日
・8/15説 玉音放送の日(ソウルとピョンヤンで日本が負け民族復権したことを祝う=光復節)
・9/2節 ミズーリ号上で連合国に対し降伏文書に署名調印した日

■玉音放送
8/15正午、玉音放送がはじまる
「忍び難きを忍ぶ」という文言は、明治天皇が日露戦争の後の三国干渉を受諾した際からの引用

■直接統治か間接統治か
日本の降伏にともない、連合国最高司令官一般命令第一号によって、朝鮮は北緯38度線以北ではソ連軍が、以南ではアメリカ軍が、それぞれ日本軍の武装解除にあたることに
アメリカ軍にとって、朝鮮人は「敵国人」なのか「解放された人民なのか、微妙な問題
アメリカ政府内部で議論していたものの、結論が出る前に日本が降伏
アメリカの朝鮮半島政策は後手後手にまわった
日本の植民地支配を36年間もの長きにわたって受け、朝鮮総督府や日本軍で朝鮮半島出身者が日本のお先棒として実直に働いている実情を見て、アメリカは判断に迷い、結論を出しかねた
(韓国国内でのちに「親日派」の扱いが問題になる根拠もこうした実情に起因)
フィリピンにいたアメリカ軍最高司令官マッカーサーが神奈川県厚木飛行場に到着(8/30)
マッカーサー日本来訪の数日前、日本を統治する方式が、アメリカ軍による直接統治から、従来の日本政府を仲介しての関節統治方式に変更
沖縄にいたアメリカ軍中将ホッジ率いる第24軍は、ソ連軍に遅れること一か月後の9/8、仁川に上陸
ホッジは、日本本土でマッカーサーがとった統治方式そのままに、従来の日本人の朝鮮総督府を利用しての間接統治を目指した
ホッジの記者会見には、朝鮮総督府の総督・阿部信行が同席、日本人官吏をそのまま留用すると言明したとたん、朝鮮人から猛反発を受け、三日後、しぶしぶ阿部を解任
アメリカは南朝鮮の民衆の心をつかむことに、スタート直後に失敗した

■軍政下
なぜトルーマンは、グルーの助言を受けて、天皇制存続をポツダム宣言に入れなかったのか
もしそうしていたら、日本政府はただちに宣言を受け入れ、原爆やソ連の対日参戦もなかったのでは?
トルーマンが天皇保障の文言を入れなかった理由は、トルーマンが見据えていたのはすでに確定的な対日勝利よりも、さらなる将来のソ連との対立(のちに「冷戦」と名付けられる)を重視し、有利に展開するため、原爆の威力をソ連に見せつけるためだったなど、いろいろな解釈を研究者はする
朝鮮分断とは「帝国主義」と「冷戦」が生み出した鬼っ子なのだ
本当の悲劇は5年後に訪れる―朝鮮戦争勃発

(了)

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2019年8月18日 (日)

【読】ノーマ・フィールド

3月の終わりに投稿してから、5か月近く、このブログから離れてしまっていた。
毎日、日記ブログは書いてきたのだけれど。

ノーマ・フィールド(Norma M. Field)という人を、最近知った。

― Wikipedia より ―
<ノーマ・フィールド(Norma M. Field, 1947年 - )は、アメリカ合衆国の日本研究者、シカゴ大学名誉教授。
第二次世界大戦後の東京で、アメリカ人の父と日本人の母の子として生まれる。1974年、インディアナ大学で東アジア言語文学の修士号を取得。1980年に来日し研究。1983年、プリンストン大学で同博士号取得。シカゴ大学に奉職し、東アジア学科教授をへて名誉教授。
夏目漱石の『それから』の英訳(And Then)に続き、『源氏物語』論である『憧憬の輝き』(Splendour of Longing)で注目された。
1988年の再来日の折に昭和天皇の死去に至る日々を体験。ルポルタージュ『天皇の逝く国で』を著し、この著書の日本語訳によって日本でも一般に知られるようになった。>

私は、ある新書で、この人の『天皇の逝く国で』という本を知り、図書館から借りて読んだのがきっかけ。

中川成美 『戦争をよむ―70冊の小説案内』 岩波新書 (2017/7/20)

<克明な心理描写をまじえて戦争と人間の真実に分け入る小説作品は、戦争のリアルを伝える大切な語り部だ。物語のなかに封じ込められた、戦時下を生きる人びとの細やかな感覚と日々の葛藤と苦しみ、そして悲しみ。記憶の風化とともに失われていく、かつての時代の手がかりを求めて、戦争の文学を再読する。>

 

ノーマ・フィールド/大島かおり訳 『天皇の逝く国で [増補版]』 みすず書房 (2011/10/28)

<「自粛」「常識」という社会の抑圧に、抵抗できるか。
登場人物は体制順応という常識に抗った三人の日本人。
沖縄国体で日の丸を焼いた知花昌一、殉職自衛官の夫の靖国神社合祀に反対した中谷康子、天皇の戦争責任を明言して狙撃された長崎市長の本島等。
あれから20年余、増補版のために書かれた新たなあとがきを付す。
ノーマ・フィールドは、アメリカ人を父に、日本人を母に、アメリカ軍占領下の東京に生まれた。
高校を出てアメリカヘ渡り、現在はシカゴ大学で日本文学・日本近代文 化を講じる気鋭の学者である。
彼女は、昭和天皇の病いと死という歴史的な瞬間に東京にいた。そして天皇の病状が刻々報道され、自粛騒ぎが起こるなかで、日本人の行動様式と心性、そしてそこにさ まざまな形で顕在化したあまたの問題に想いを巡らせた。
登場人物は、〈体制順応という常識〉に逆らったために、ある日突然〈ふつうの人〉でなくなってしまった三人――沖縄国体で「日の丸」を焼いた知花昌一、殉職自衛隊員の夫の護国神杜合祀に抗した中谷康子、天皇の戦争責任発言で狙撃された本島長崎市長――と、もう一組、著者自身とその家族である。
かれらの市民生活の日常にそって、問題は具体的に考えられる。
基地内のアメリカン・スクールに通い、大方の日本人の知らない〈戦後〉を生き、いまも〈太平洋の上空に宙づりの状態〉にある著者が、みずからの個人史に重ねて描いた現代日本の物語。
[初版1994年2月/増補版(始まりの本)2011年11月発行] >

 

この本に打ちのめされ、図書館にあった他の本、ブックレットも読んでみた。

ノーマ・フィールド/岩崎稔/成田龍一 『ノーマ・フィールドは語る 戦後・文学・希望』
 岩波ブックレット781 (2010/4/7)
ノーマ・フィールド 『いま、<平和>を本気で語るとは 命・自由・歴史』
 岩波ブックレット990 (2018/12/5)
ノーマ・フィールド/大島かおり訳 『祖母のくに』
 みすず書房 (2000/5/12) 204ページ
ノーマ・フィールド/大島かおり訳 『へんな子じゃないもん』
 みすず書房 (2006/3/10) 253ページ

なかでも、次の2冊は、彼女の思想がぎゅっと濃縮されている良書だったので、図書館の本を読んだ後で、『天皇の逝く国で』とあわせて3冊、Amazonで中古本(古本)を購入してしまった。

  

ノーマ・フィールド:みすず書房
https://www.msz.co.jp/book/author/13912.html

ノーマ・フィールドは、1947年、米軍の軍属だったアメリカ人の父と、日本人の母とのあいだに生まれた。
進駐軍が日本を占領していた時期。
祖母の家に、両親、叔母たちといっしょに暮らし、米軍基地内の学校までスクールバスで通学。のちにアメリカンスクールに進学。
父親は、妻(ノーマの母)と娘を置いて、アメリカに帰国してしまう(両親は離婚)。

国籍はアメリカ、住まいの周囲は日本人ばかり。
学校ではアメリカの子どもたちと過ごしながら、アメリカ人と見られない。
そんな環境で育ったために、日本人でもアメリカ人でもない(あるいは両方)という意識が身についてしまう。

若くからアメリカに移住し、アメリカ人と結婚。
アメリカと日本のあいだを往復する。

上にあげた3冊の単行本には、幼い頃、彼女と暮らした祖母、母、叔母たちの回想と、日本という祖国へ向ける厳しく、あたたかいまなざしが詰まっている。
なかでも、『祖母のくに』『へんな子じゃないもん』には、脳溢血で倒れた後の祖母を見舞う毎日が、あたたかい筆致で綴られていて、感動的。

こういう著者との出会いは、得難いものだ。

【追記】
彼女の最近の写真を貼り付けようと思ったが、著作権に触れそうなので、下記リンク先の記事を参照願いたい。

「国家主義は史実を曲げる」 日本研究者187人声明:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASH574JV5H57UHBI017.html

有料会員限定記事 ※
ニューヨーク=中井大助、真鍋弘樹 2015年5月8日08時41分

※途中まで読めるし、ノーマ・フィールドの写真も見られる。
 魅力的な女性だ。

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2019年3月28日 (木)

【雑】チャリティ古本市、終わる

楽しみにしていた、小平図書館友の会の「第21回チャリティ古本市」が、日曜日に終わった。

今回、本の量が多く、搬入、配列、後片付けがたいへんだったが、たくさんの売上もあった。

今年から導入した「幟旗」10本も、お客さま誘導に効果があったようだ。

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速報値(概算)は次のとおり。いずれも開催期間中の合計値。
・古本を寄付してくださった方 350人以上
・寄付本の数 24,400冊
・ご来場者数 1,440人
・売上冊数 9,600冊
・売上金 329,000円
・小平市立図書館への寄贈本 252冊

珍しい個人全集なども出品され、あっという間にお買い上げいただいた。
ありがたいことだ。

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2019年3月12日 (火)

【雑】チャリティ古本市、近づく

毎年3月、恒例の小平図書館友の会「チャリティ古本市」。
21回目の会期が近づいている。

詳しい案内は、友の会ブログに書いているので、そちらを。

小平図書館友の会ブログ
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/kltomonokai/

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今年は、幟(のぼり)旗を10枚用意した。
小平市中央図書館・公民館の前の広場に、この幟がはためくことだろう。
今から楽しみ。
会期中に、公民館前のソメイヨシノも開くかな?

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2019年2月10日 (日)

【雑】冬の風景

強い寒波が日本列島を覆っている。

きのう、この多摩北部でも粉雪が舞い、夜になって本降りになった。
朝起きると、芝生の上にうっすらと積もっていた。

ずいぶん前から咲いている紅梅が、白い雪に映えてきれいだった。

2019/2/10 朝

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冬、このあたりでは晴天が続き、空気が澄んでいるせいで富士山がよく見える。
ベランダから、きれいな夕焼け、朝焼けの見られる日が多い。

Facebookには、その都度投稿している写真だが、ここにまとめて載せておこう。

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2019/1/3 夕刻

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2019/1/7 朝

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寒い冬は、まだ続く。
関東でも、あと何度か雪が降ることだろう。

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2019年1月19日 (土)

【遊】日帰りバスツアー

2019年1月13日(日)、旅行会社(クラブツーリズム)の日帰りバスツアーに夫婦で行ってきた。

日記にも書いたが写真を載せていないし、フェイスブックには写真しかあげていないので、ここにまとめておこう。

「クラブツーリズム 冬のびっくりミステリーツアー」

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朝から晴天、風もなく、絶好の旅行日和。
朝8時半頃のバスで、地元の東大和市駅前(集合場所)へ。
早めに着いたので、駅前にできて間もないコンビニ(セブンイレブン)に入る。
なんと、二階に休憩コーナー(イートインスペース)があった。
ここで集合・出発時刻まで時間をつぶす。

9時半、武蔵村山からやってきたツアーバスに乗る。
立川駅近くの三番目の集合場所でもお客を乗せて、10時頃出発。

中央道~圏央道~小田原厚木道路経由で、まず小田原へ。
「鈴廣」で昼食となる。

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金目鯛炙り飯と小田原おでんの、なかなか豪華な昼食だった。

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ここから箱根を越えて、熱海へ。
謎の行き先の二番目は、パワースポットという謳い文句の神社だった。
来宮(きのみや)神社。

來宮神社
http://www.kinomiya.or.jp/

人気の観光スポットとあって、バスも駐車場に入れないほどの賑わい。
あまり時間がなかったため、大急ぎで本殿へ。
参拝の行列ができていて、参拝できず。
甘酒を飲み(ここも行列)、神木の大楠を見たりしているうち、あっという間に集合時刻になってバスに戻る(来宮駅前でバスが待機しており、そこまで歩く)。

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次にまわったのは、めんたいこ「かねふく」の「めんたいパーク伊豆」という、工場兼ショッピングセンター。
私は、めんたいこには、ほとんど興味がないため写真は撮らず。
妻は、めんたいこの試食に並んでいたが、土産は買わず。

最後の立ち寄りスポットは、沼津港展望水門「びゅうお」という場所。
なかなかの見ものだった。
ちょうど海に夕陽が沈む時刻で、きれいだった。
富士山は、雲の上に少ししか見えなかった。

沼津港大型展望水門「びゅうお」|見る・遊ぶ|沼津市公式観光サイト【沼津観光ポータル】
https://numazukanko.jp/spot/10020

展望台まで30メートル、エレベーターで昇る。

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沼津港

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この後は、土産物店に寄る。
鯖の味醂干し、押し鮨、昆布の佃煮などを買う。

お土産に、みかん1kgをひとりずついただき、軽夕食として小さな駅弁(蛸飯)も配られ、帰りの車中で食べた。

関越~圏央道~中央道を走り、高速道路がすいていたせいで、東大和市駅前には19時40分に到着。
路線バスで自宅に帰った。

(2019/1/19記)

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2019年1月 9日 (水)

【楽】川越へ(山崎ハコさんライブ)

2019年1月7日(月)。
川越市民会館(やまぶき会館)で開催された、山崎ハコさんのライブへ。
今年最初の、ハコさんのライブだった。

ひさしぶりに川越の街を歩いてみようと、昼過ぎ、川越に向かう。
自宅からバスで西武新宿線久米川駅へ、そこから西武新宿線で30分ほど、終点の本川越駅には午後1時頃到着。

蔵造りの町並みや「時の鐘」のある通りを歩き、まずは、この夜のライブ会場「やまぶき会館」まで場所の確認に向かう。
本川越駅から歩いて20分ほど。
「時の鐘」の信号から右に入ってしばらく歩き、川越小学校の向かい側、かなり年季のはいった建物だった。

途中、「時の鐘」などの写真を撮ってまわる。

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繁華街に戻って、あちこち歩きまわる。
メイン・ストリートは観光客が多い。

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「レレレノレコード」という面白そうな店があったが、残念なことに休み。
駅から来るときにみつけた、喫茶店(「ここで一服」とあった)に入り、コーヒーを飲み、パイを追加で注文、文字通り一服する。

この後、菓子屋横町を見てまわり(休みの店が多かった)、「札の辻」交差点から市役所方向に向かい、川越城本丸まで足をのばす。

近くの市立博物館・美術館は、月曜日だったので休館日。
またあらためて車で来てみようと思う。

川越城本丸(ここも休館)と、川越城中ノ門堀跡を見る。

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市役所にはいって、観光地図をもらう。

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市役所前にあった石碑。
川越城のお堀の跡は、みんな埋め立てられていることがよくわかった。

夕方になり、そろそろ夕食を、と思ったが、これといった店がなく、結局、本川越の駅ビルまで戻り、そこで軽く食べた。
駅に戻る道々、写真を撮って歩いた。
蔵造りの建物は絵になる。

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蔵造りの町並みにある郵便局。
ご当地切手に惹かれるが、高いので買わなかった。

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本川越駅まで戻り、軽く夕食をとって、会場の「やまぶき会館」へ。
途中、暗闇に浮かぶ「時の鐘」がきれいだったので、タブレットで写真を撮る。

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開場時刻の午後6時よりも20分ほど早く到着。
すでに入口前に、たくさんの開場待ちの人たちがいた。

ロビーにもすでに人がいたのは、主催の「川越音楽」(労音系列らしい)の人たちだろう。
物販コーナーには、ハコ・ファン仲間のいつもの顔ぶれも見えた。
ハコさんは所属事務所を持たないので、こうして、ファンの人たちが、ボランティアで物販を引き受けているのだ。

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午後6時、ホールに入り、ファン仲間に挨拶して席に着く。
ステージに向かって左側、前から3列目の左端の席だった。
緞帳がおりていて、ステージの様子は見えず。

ライブ開始は、午後6時半。
主催の労音の人の挨拶があって、緞帳があがる。

入口でもらったプログラム(会報)には、この日の演奏曲目が記載されていて、いかにも労音の「例会」らしい。
ふつうのライブだと、曲目は始まってみないとわからず、それがいいのだが……。残念な気もする。

プログラムに記載されていた曲目は、下のとおり。
ただし、実際の演奏曲順は、ハコさんの喉の調子がよくなかったせいもあって(年末に風邪をひかれたそうだ)、一部、前後した。
曲によって声が出やすいものと、難しいもの(喉が温まってからでないと出ない音域)があるようで、これには納得。
また、MCとのつながりで、曲順が変わってしまったものもあり、これも自然な流れだ。

私の隣りに座っていた方々(年配の女性陣)が、プログラムを見ては曲目を確認していたのが、微笑ましかった。

【配布されたプログラムに記載されていた曲順】

望郷 (これは後で歌った)
白い花 (これも後になった)
織江の唄 (これが最初に歌われた)
ヨコハマ
稲の花
未來の花

(15分間の休憩)

横浜ホンキートンク・ブルース
上級試験 (これも2曲目には歌われなかった)
ざんげの値打ちもない
ごめん
歌ひとつ
BEETLE
縁 ~えにし~

アンコール : 横浜から

私は、演奏中にメモをとらないため、演奏曲順には自信がない。
いつものように、MCで、九州(大分)のおばあちゃんの思い出(稲の花)や、阿久悠さんのことや、東日本大震災後に東北で録音したアルバム・作った曲の話など。

終盤、安田裕美さんのギターで一曲。
これが井上陽水の「帰れない二人」、ハコさんがワン・コーラス歌う。
安田さんのギターの音色には、いつもうっとりする。

私の席からは、前の人の頭に邪魔されることなく、ステージ上の安田裕美さん(左)とハコさん(右)が見通せて、演奏中は、ふたりの表情や演奏テクニックに見とれていた。
間近に見るお二人の演奏姿は、ホールならではの照明の効果もあって、神秘的な感じさえした。
ときどき、目を閉じて、ハコさんの歌の歌詞をかみしめる。

休憩時間に、物販コーナーでアルバム「未・発・表」を購入。
前半のMCで、このアルバムのことをハコさんが話していたので(なかなか入手できないそうだ)。もちろん、私はすでに持っているアルバムなのだが。

収録曲(全13曲) いいアルバムだ。

BEETLE
ヨコハマ
白い花
織江の唄
新宿子守唄
あなたの景色
リンゴ追分
横浜ホンキートンク・ブルース
気分を変えて
未来の花
会えない時でも
飛びます
BEETLE(Acoustic Ver.)

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ハコさんのCDが並ぶ隣りに、ファン仲間が作ったクリア・ファイルが売られていたので、これも購入。

終演後のサイン会で、CDの冊子にサインをいただいた。
市立公会堂なので、撤収時刻が指定されているようで、午後9時前に終演した後、慌ただしいサイン会だったが、気さくにサインしてくださった。

この日、ハコさんの体調が思わしくなく、演奏中に何度も声が出ない場面があったが(歌い直しもあって、ハラハラしたが)、しっかり歌い切る姿に胸が熱くなった。
「鬼気迫る」と言っていいような、この夜の演奏だった。

500席あるホールの9割方埋まっていた感じだった。
お客さんの反応もよく(ハコさんへの温かい声援)、それも嬉しかった。

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2018年12月29日 (土)

【遊】ぼちぼちいこうか総集編(2018年・イベント編)―補筆―

2018年も、ほとんど映画を観にいかなかったが、強く印象に残ったこの映画のことを書き忘れていた。

■2018/12/15(土) 東京都写真美術館(恵比寿)
 映画 「スケッチ・オブ・ミャーク」 大西功一監督 2011年
  http://sketchesofmyahk.com/ 
 映画 「津軽のカマリ」 大西功一監督 2018年
  http://www.tsugaru-kamari.com/

「津軽のカマリ」完成記念上映会。
同じ監督の旧作「スケッチ・オブ・ミャーク」も別の回で上映。

「スケッチ・オブ・ミャーク」のポスターを、数年前に見ていて、いつか観たいと思っていた。
「津軽のカマリ」は、初代高橋竹山を描いたドキュメンタリーだが(初代の演奏映像は既存のものを使っていた)、二代目高橋竹山も出演している。

上映後、監督のトークショーがあった。
「津軽のカマリ」では、二代目竹山もトークショーに加わり、なんと、ステージ上で二曲演奏してくれた。
マイクの事前調整が不十分だったため、マイクを使わない生の津軽三味線の音が場内に響いた。
得難い経験だった。

お二人の写真を撮ればよかった(遠慮して撮らなかった)。

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2018年12月28日 (金)

【遊】ぼちぼちいこうか総集編(2018年・イベント編)

好奇心を絶やさないでいたい。

今年も、許す限り、さまざまなイベントに参加したり映画を観たりした。
これは、なかば自分のための覚え書き。

■2018/1/20(土) 南方熊楠展 (国立科学博物館)

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科学博物館に入ったのは初めてだった。
常設展示も見てきた。

■2018/1/21(日) キタコマ沖縄映画祭プレイベント
 (狛江市西河原公民館)

喜多見(狛江市)のM.A.P.で、この後開催された「沖縄映画祭」のプレイベント。
映画、琉球舞踊、ライブ、などの催し。

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■2018/2/11(日) アフガニスタンを食べて、見て、もっと知ろう 2
 (東中野 「驢馬駱駝」)

アフガニスタン山の学校支援の会主催。
フォト・ジャーナリスト 長倉洋海さん(会の代表)のスライド・トーク、アフガニスタン料理、など、盛りだくさんの内容。
これが2回目の開催。
前回は一人で行ったが、今回は妻を誘っていっしょに行った。
ジャンケン大会で、妻は景品をもらった。

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■2018/2/17(土) 沖縄かりゆし演芸まつり (座・高円寺2)

藤木勇人さん(志ぃさー)主催のイベント。
漫才、琉球演芸、藤木さんの落語など。

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■2018/3/3(土) みずほ雛の春まつり
 (瑞穂町郷土資料館「耕心館」・「けやき館」)

わりと近いので、妻と車で出かけた。
これは、みごとだった。

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■2018/3/31(土) 高橋美香さん スライドトーク (国立市公民館)

フォト・ジャーナリスト 高橋美香さんの、パレスチナ報告会。

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■2018/4/7(土) 高橋美香さん パレスチナ帰国報告会
 (喜多見M.A.P.)

山崎ハコさんの前橋ライブの翌日、前橋から車で帰宅し、電車で出かけた。

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■2018/11/8(木) 関野吉晴展 (武蔵野美術大学)

近所の武蔵野美術大学キャンパスへ自転車ででかけた。
地下道展示場で、関野吉晴さんに出会ったので、いっしょに写真におさまっていただいた。
貴重な体験だった。

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■2018/11/23(金)・25(日) 江戸東京たてもの園 「たてもの園ライトアップ」

毎年、この時期に開催される江戸東京たてもの園(小金井公園内)のライトアップ・イベント。
今年は、二度、行った。

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■2018/12/1(土) 映画「縄文号とパクール号の航海」 (阿佐ヶ谷「ユジク阿佐ヶ谷」)

阿佐ヶ谷のちいさな映画館へ、映画を観に行った。
関野吉晴さんの「グレート・ジャーニー」、インドネシアから沖縄・石垣島まで、手作りカヌーで三年がかりで航海するという冒険の記録。
上映後、ロビーで監督の水本博之さんと関野吉晴さんのトーク・ショーがあった。
監督は、武蔵野美術大学の関野ゼミの卒業生。

観たかった映画を劇場の大きなスクリーンで観ることができた。
トーク・ショーもよかった。

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(2018/12/28記)

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2018年12月27日 (木)

【読】ぼちぼちいこうか総集編(2018年・読書編)

今年、2018年一年間に読んだ本のうち、強く印象に残ったものを書きだしてみる。

読んだ本の記録をPCに残しているが、今年は60冊ちょっとしか読めなかった。
夢中になって次々と読んでいた時期と、本から離れていた時期、といった具合で、まちまちだ。

■文庫10冊シリーズ 読破

池内紀・川本三郎・松田哲夫編 『日本文学100年の名作』 1~10
 新潮文庫 2014年9月~2015年5月発売

発売当時、毎月一冊ずつ購入して全巻揃っていたが、読まないまま本棚で眠っていた。
一念発起、2月から9月まで半年かけて読み継いだ。

『日本文学100年の名作 第1巻 1914-1923 夢見る部屋』
 新潮文庫 (2014/9/1) 490ページ
『日本文学100年の名作 第2巻 1924-1933 幸福の持参者』
 新潮文庫 (2014/10/1) 500ページ
『日本文学100年の名作 第3巻 1934-1943 三月の第四日曜日』
 新潮文庫 (2014/11/1) 514ページ
『日本文学100年の名作 第4巻 1944-1953 木の都』
 新潮文庫 (2014/12/1) 502ページ
『日本文学100年の名作 第5巻 1954-1963 百万円煎餅』
 新潮文庫 (2015/1/1) 555ページ
『日本文学100年の名作 第6巻 1964-1973 ベトナム姐ちゃん』
 新潮文庫 (2015/2/1) 543ページ
『日本文学100年の名作 第7巻 1974-1983 公然の秘密』
 新潮文庫 (2015/3/1) 555ページ
『日本文学100年の名作 第8巻 1984-1993 公然の秘密』
 新潮文庫 (2015/4/1) 503ページ
『日本文学100年の名作 第9巻 1994-2003 アイロンのある風景』
 新潮文庫 (2015/5/1) 510ページ
『日本文学100年の名作 第10巻 2004-2013 バタフライ和文タイプ事務所』
 新潮文庫 (2015/5/1) 639ページ

馴染みの作家、名前だけ知っていて読んだことがなかった作家、まったく知らなかった作家など、幅広い作品が収録されていて、面白かった。

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これまで読んだことのなかった作家の他の作品も、図書館で借りて読んでみた。

道尾秀介 『光媒の花』 集英社 (2010/3/30) 258ページ
木内昇 『茗荷谷の猫』 平凡社 (2008/9/25) 238ページ

 

現代作家にも、すばらしい書き手がいることを知ったのも、収穫だった。

■沖縄への関心

今年もまた、沖縄に関する本を読んだ。
どれも、図書館で借りてきた本。

沖縄タイムス社編集局 編著 『これってホント!? 誤解だらけの沖縄基地』
 高文研 (2017/3/25) 236ページ
行田稔彦(こうだ・としひこ) 『いまこそ、沖縄 ~沖縄に親しむ50問50答』
 新日本出版社 (2014/2/25) 173ページ
嬉田京子 『戦場が見える島・沖縄―50年間の取材から』
 新日本出版社 (2015/9/20) 158ページ
藤原書店編集部編 『「沖縄問題」とは何か――「琉球処分」から基地問題まで』
 藤原書店 (2011/2/28) 273ページ
アレン・ネルソン/國弘正雄 『沖縄に基地はいらない――元海兵隊員が本当の戦争を語る』
 岩波ブックレット444 (1997/12/19) 55ページ
金城実・松島泰勝 『琉球独立は可能か』 解放出版社 (2018/2/11) 310ページ
馳星周 『弥勒世(みるくゆー) 上』 小学館 (2008/2/25) 611ページ
馳星周 『弥勒世(みるくゆー) 下』 小学館 (2008/2/25) 589ページ
松島泰勝 『琉球 奪われた骨』 岩波書店 (2018/10/10) 264ページ
川満彰 『陸軍中野学校と沖縄戦』 吉川弘文館 (2018/5/1) 229ページ

   

フィクションだが、馳星周『弥勒世(みるくゆー) 上・下』が強烈だった。
また、松島泰勝『琉球 奪われた骨』は、琉球だけでなく北海道でもアイヌの遺骨が学者によって盗掘されたことを知っていたので、強く揺さぶられる内容だった。

金城実・松島泰勝 『琉球独立は可能か』は、ふたりの考え方の微妙な違いはあるものの、熱い思いが伝わってきた。
空想的かもしれないが、琉球も北海道も、独立を考えていいと思う。
元々、ヤマトとの支配の届かない、別の土地だったのだから……。

■イザベラ・バード 『日本奥地紀行』

金坂清則(訳注)で読む。
ただし、全4巻中、3巻目まで。
「完訳」とうたっているだけあって、翻訳にあたっての考証が半端ではない。

『イトウの恋』は、イザベラ・バードの従者だった”イトウ”をモデルにした小説。
以前から気になっていた小説だが、読んでみると面白かった。

イザベラ・バード/金坂清則(訳注) 『完訳 日本奥地紀行1 横浜―日光―会津―越後』
 平凡社東洋文庫819 (2012/3/21) 391ページ
イザベラ・バード/金坂清則(訳注) 『完訳 日本奥地紀行2 新潟―山形―秋田―青森』
 平凡社東洋文庫823 (2012/7/10) 439ページ
イザベラ・バード/金坂清則(訳注) 『完訳 日本奥地紀行3 北海道・アイヌの世界』
 平凡社東洋文庫823 (2012/11/16) 415ページ

中島京子 『イトウの恋』 講談社 (2005/3/5) 276ページ

   

■あの戦争

先の大戦(アジア・太平洋戦争)への関心は、ずっと続いている。
このところ目に余るほど顕在化してきた、戦争美化、戦争責任の忌避、といった風潮に抵抗するために、もっともっと「あの戦争」の実相を知りたい。

全部で20巻(他に別巻)もある膨大なシリーズ、『コレクション 戦争と文学』を買い揃えたのは、今から5年前だったか。
ようやく、そのうちの一巻を読破した。
全巻読破まで、まだまだ先は長い……。

鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋 (1973/3/10) 274ページ
北村稔 『「南京事件」の探求』 文春新書207 (2001/11/20) 197ページ
笠原十九司 『「百人斬り競争」と南京事件』 大月書店 (2008/6/20) 282ページ
石川達三 『生きている兵隊 【伏字復刻版】』 中公文庫 (1999/7/18) 214ページ
吉田裕 『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』
 中公新書2465 (2017/12/25) 228ページ

『コレクション 戦争と文学 7 日中戦争』 集英社 (2011/12/10) 743ページ

 

■印象に残った本

興味のおもむくまま読んだ雑多な本の中から、印象に残った本。
小説あり、エッセイあり、ノンフィクションあり。

木村友祐 『幸福な水夫』 未來社 (2017/12/15) 189ページ
池澤夏樹 『知の仕事術』 インターナショナル新書 001(集英社) (2017/1/17) 221ページ
河治和香 『がいなもん 松浦武四郎一代』 小学館 (2018/6/13) 317ページ
五木寛之 『七十歳年下の君たちへ こころが挫けそうになった日に』
 新潮社 (2018/7/30) 190ページ
篠原勝之 『戯れの魔王』 文藝春秋 (2018/11/20) 189ページ
植田絋栄志(うえだ・ひさし) 『冒険起業家 ゾウのウンチが世界を変える。』
 ミチコーポレーション (2018/10/23) 396ページ
斎藤美奈子 『日本の同時代小説』 岩波新書1746 (2018/11/20) 269ページ

      

(2018/12/27記)

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2018年12月25日 (火)

【楽】ぼちぼちいこうか総集編(2018年・音楽編)

今年2018年、印象に残ったライブ。

山崎ハコさん

年に数回、山崎ハコさんのライブに行っている。
今年は、4月に前橋へ、6月には豊橋まで、それぞれ一泊二日で出かけた。
豊橋へは、めずらしく妻も同行。

2018年4月6日(金) 前橋テルサ

自宅から車で行き、途中、博物館見学なども。
ライブ後の打ち上げにも参加させてもらった。

ちょうど、翌日4/7が安田裕美さん(ハコさんのご夫君、ギタリスト)の誕生日。
打ち上げでは、安田さんの誕生祝いも。

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打ち上げでの、ハコさんと安田さん。

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2018年6月30日(土) 豊橋芸術劇場プラット

新幹線で2時間ほど、豊橋へ。

会場は、モダンなホールだった。

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西川郷子さん

西川郷子さんのライブは、都内でひんぱんに開催されている。
できるだけ行くようにしている。

「星ノ飛ブ夜」という名前の三人編成のバンド――小沢あき さん(ギター)、関根真理さん(パーカション)、西川郷子さん(ボーカル)。
”フォーク者イサジ式”(イサジさん:ギター)とのデュオ「ニシカワMeetsフォーク」。
そして、西村直樹さん(ベース)とのデュオ「歌弦萬西西屋」(うたげんよろずにしにしや)。

どの編成も、西川さんの多彩な音楽性が表現されていて、好きだ。

今年は、狛江市(喜多見)の”M.A.P.”の高山正樹さんが企画された、年末のイベント「西川郷子と歌うクリスマスコンサート」がよかった。

狛江のミュージカルや合唱グループといっしょに、白石准さん(山猫合奏団)のピアノ伴奏で、西川さんが素敵なクリスマスソングの数々を聴かせてくれた。
ゲストに、上々颱風のリーダー・紅龍さんを迎えて、最後のアンコール曲は「いつでも誰かが」の大合唱。じーんときた。

2018年12月22日(土) 狛江市西河原公民館ホール

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サンタの扮装は、司会の高山正樹さん(山猫合奏団)。

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ゲストの紅龍さん。

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西川郷子さんと、ピアノ伴奏の白石准さん。

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これが聴きたかった。
サイモンとガーファンクルの「7時のニュース きよしこの夜」のカヴァー。
西川さんの歌と、高山さんの語り(ニュース朗読)。バックにコーラス。

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アンコール曲 「いつでも誰かが」。紅龍さんと西川さんのボーカル。
聴衆もいっしょになっての大合唱。

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(2018/12/25記)

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2018年11月13日 (火)

【遊】宮古島旅行(2018.11.4~11.6)

11月4日(日)から6日(火)まで、二泊三日の旅行会社のツアーで、宮古島へ行ってきた。

初日は、羽田を昼に発つ便だったため、宮古空港に着いたのは夜。
ホテルに直行して、島内と周辺の四島(伊良部島、下地島、来間島、池間島)を巡る観光は、翌日と最終日の二日間。

バスで巡る、めまぐるしいツアーだったが、珊瑚礁でできた平坦な島の景色と、エメラルドグリーンの海が美しかった。

こんどは、宮古本島の内部の名所、旧跡、博物館などを、ゆっくり廻ってみたいと思った。

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■2018/11/4(日) 晴れ
 羽田空港~那覇(沖縄)空港~宮古空港~ホテル

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宮古空港。

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ホテル近くのレストランで夕食。
メインディッシュの写真がなく、デザートの写真。

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■2018/11/5(月) 晴れ
 ホテル~伊良部島・下地島~池間島~西平安名崎~雪塩製塩所~砂山ビーチ~ホテル

ホテルのベランダからの眺め。

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バスで、まずは、伊良部島と隣接する下地島(島のほとんどを飛行場が占める)をまわる。
下地島の西端にある名所「通り池」は奇観。

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通り池。二つの池(海水)がつながっている。

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伊良部島で昼食。

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伊良部大橋を渡り戻る。

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宮古本島北端の池間大橋を渡って、島内をあっという間に一周して本島に戻る。

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大きな風力発電の風車が三基。

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この後、雪塩製塩所、砂山ビーチをまわって、夕方、ホテルに戻った。
この夜は、ホテル内でバイキング形式の夕食。

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■2018/11/6(火) 晴れ
 ホテル~来間島~東平安名崎(灯台)~宮古島海宝館(昼食)~宮古空港~那覇空港~羽田

朝食。前日、午前7時頃に朝食会場に行ったところ長蛇の列。
それに懲りて、この日は6時に降りて、出発時刻の8時まで、ゆっくり過ごした。

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来間大橋を渡って来間島へ。

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宮古本島東端の、東平安名崎へ。
突端に灯台があり、入館料200円を払って内部見学ができる。
100段近い螺旋階段を登り、灯台の天辺へ。

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このツアー最後の立ち寄り場所、宮古島海宝館で、膨大な貝のコレクションを見学し、昼食。

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島内のあちこちの交差点に立っていた「宮古島まもるくん」(警察官の人形)と、記念撮影。

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宮古空港を13:40の便で、那覇空港乗り継ぎ。
那覇15:15発、羽田17:50着。

天気に恵まれて(宮古島は、27度あって陽射しがきつかった)、いい旅になった。

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2018年7月17日 (火)

【遊】2018年夏、北海道旅行(その3)

7月12日から三泊四日の北海道旅行。
その最終日。

7月15日(日)

前日、置戸町の友人宅の二階に泊めてもらい、この日は女満別空港発20時20分のJAL最終便で帰京。

朝から曇天、風も強く雨もパラパラ降っていた。

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時間がたっぷりあったので、ゆっくりブランチ。
昼前、友人の車の先導、車2台で網走方面へ向かう。

女満別空港好前でレンタカーを返却。
友人の車に乗せてもい、まず、道立北方民族博物館へ。
この博物館、噂には聞いていたが、すばらしい博物館だった。

北海道立 北方民族博物館公式サイト( 網走 )
http://hoppohm.org/index2.htm

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この博物館をゆっくり見学し、しっかり図録も購入して、次に、友人が訪ねたかったという場所、二か所に立ち寄る。

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「豆灯(とうとう)」という喫茶店が面白かった。
外観は普通の民家のようだが、内部は立派なお屋敷(写真を撮らなかった)。
ひょっとして、昔は個人医院の建物だったのではないか、と思ったが、確かめなかった。

喫茶室 豆灯
北海道網走郡美幌町仲町2丁目80−1

https://goo.gl/maps/FbYvpW4HFd12

この後、女満別空港まで送ってもらい、友人と別れた。
空港で土産物を買い、最終便で羽田へ。

女満別空港

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羽田空港に22時過ぎ到着。
高速バスで立川まで、立川からタクシーで帰宅。
午後12時過ぎに家に着いた。

あちこち見ることができて、楽しい旅行だった。
来年、また行けるといいな。

(おしまい)

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【遊】2018年夏、北海道旅行(その2)

2018年7月14日(土)

美瑛から車で置戸町へ向かう。
距離にして160キロほど。

朝7時過ぎに宿を出て、近くのコンビニで朝食。
途中、長めの休憩をとりながら、置戸には昼前に到着した。
石北峠まで、小雨が降り続いていた。

友人宅は丘の上にある。
午前中は外出しているとのことだったので、置戸市街でしばらく休憩。
置戸町立図書館を覗く。

ここは、三年前にも見学しているが、すばらしい図書館。
木造の建物がいいし、収蔵図書も充実している。

置戸町立図書館
http://www.town.oketo.hokkaido.jp/kyouiku_bunka/library/

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12時半過ぎに、友人宅に到着。
周囲には人家がなく、隣りの家まで数百メートルもある。

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久しぶりの再会。
ひと休みしてから、ふたりで周辺を散策。
さらに、友人の車に乗せてもらって、同じ町内の名所「鹿の子沢」に連れていってもらった。

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清流、滝、巨木(三本桂)、遊歩道があって、静かな場所。
滝には、晴れた日の午前10時頃、虹がかかるそうだ。

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この後、日帰り温泉施設に立ち寄って、さっぱりした。
リニューアルしたそうで、きれいな温泉だった。

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おけと勝山温泉ゆぅゆ|北海道置戸町の温泉・コテージ
http://www.oketo-yuuyu.com/

(つづく)

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【遊】2018年夏、北海道旅行(その1)

2018年7月12日(木)から15日(日)まで、三泊四日で北海道に行ってきた。

14日が母の命日(七回忌)だったので、墓参りをかねて、置戸に移住して住んでいる友人に会いにいった。

2018年7月12日(木)

出発は羽田空港14時発のJAL便。旭川空港まで。
旭川空港前でレンタカーを借りる。

今回、美瑛にできて間もないコテージ「フォテージ イン 美瑛」を知り、連泊することにした。

美瑛好き、写真好きが多く集う宿泊施設
 Phottage inn Biei(フォテージ イン 美瑛)
http://inn-biei.jp/

素泊まりのみだが、しゃれた外観・内装で、ロビーにはパネル展示もあり、落ち着ける宿。

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この日は、宿に荷物を置いて、美瑛の叔父宅を訪問。
その後、「だいまる」食堂でカレーうどんを食べ、宿に戻った。

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7月13日(金)

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この日は、旭川空港近くの霊園へ。
スーパーが開く時間を待って、墓参りのための花、線香を買う。
コンビニで雑巾も。

墓参のあと、昨日、叔父夫妻に教わった旭川の介護施設に向かう。
旭川に住んでいた高齢の叔母夫妻が、介護老人ホームに入所していると聞き、そこを訪ねた。

施設の近くのコンビニに車を停めて、軽く昼食。
ちょうど昼休みの時刻だったので、目の前にあった「北鎮記念館」を見学した。
ここは、旭川に住んでいた頃も、その後も、行ったことがなかった。

http://www.mod.go.jp/gsdf/nae/2d/hokutin2/top.html

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陸上自衛隊第二師団が管理していて、自衛官が常駐していた。
開拓の歴史、旧陸軍第七師団の資料など、なかなか充実した展示。

施設の叔母夫婦を訪ねて、久しぶりの再会。
年齢相応に老け込んだ姿に胸を痛めたが、会話もできてよかった。

美瑛に戻り、いったん宿に帰って、シャワーを浴びる。
夕方、もう一軒の叔父夫妻の家を訪ねて、しばらく話す。

その後、ビエール(bi.yell)で軽く夕食。焼きカレー(小サイズ)。

https://biei-act.jp/biyell/

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この日は、雨が降ったり止んだりだった。
最高気温25度ほどで、曇天。やや蒸し暑かった。

(続く)

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2018年6月 3日 (日)

【山】ひさしぶりの山歩き(黒川鶏冠山)

梅雨入り前の好天をねらって、日帰り登山。

20年近く遠ざかっていた山歩きを今年こそ再開しようと考えて、登山靴を出したり、不足している用具を揃えた。
ヘッドランプを新調し、小さなザックカバーも買った。
ザックは、普段使いのデイパック。これが問題だったのだが……。

2018年5月2日(土) 晴れときどき曇り

自宅発(車) 7:10
新青梅街道~青梅街道~柳沢峠(駐車場) 9:45
登山口 10:20
黒川鶏冠山(1710m) 13:20~13:50
登山口・柳沢峠 16:25

往復約6時間。
登り約3時間、下り約2時間半。途中休憩を含む。

新緑がきれいだった。
花はヤマツツジがところどころ見られた。

柳沢峠の駐車場は、自家用車がたくさんとまっていた。
おまけにマイクロバスの団体登山客まで到着して大賑わい。

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しかし、黒川鶏冠山に向かう登山道に人はまばらで、途中の展望台で二人、下山してくる人に何人か、山頂で二人に会ったきりだった。

登り道では写真をたくさん撮った。

■登山口
駐車場向かいの登山口から登り始めたが、案内板を見て引き返し、少し北側(奥多摩寄り)のもうひとつの登山口(柳沢口という標識あり)から登りなおす。

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登山口からすぐのところの案内板(下の写真)を見て、なんとなく違う道だと思い、引き返した。後でわかったが、当初の予定コースはこの道でよかった。下山時はこのコースをとった。

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柳沢口には、何台か車がとめてあったが、駐車スペースは狭い。ここから登りなおす。

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ゆるく登る、きもちのいい登山道。遊歩道といってもよい。

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■すぐに「ブナ坂」という分岐に出る(下の写真)。
ここから右に折れると「花ノ木尾根」という分岐点に至るようだ。どうも、道が錯綜していてわかりにくい。
登山地図や地理院地図よりも、現地の案内板の方が役にたつ。
ここは「梅ノ木尾根」と書かれた方向へ直進した。

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広葉樹林帯。写真には撮らなかったが、樹木の名前を書いた標識が多い。
しかし、下枝がない巨木では葉の形が近くで見られず、よくわからない。
時間がたっぷりあれば、樹木観察にもってこいの道。

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■「芋ノ木尾根」分岐。10:45頃。

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北側に開けた展望台がある。
テーブルとベンチが完備され、ご夫婦らしい先客が食事中だった。
奥秩父連山の山名標識(案内板)があり、木賊山(左)から飛龍山、小雲取山(右)に連なる山々が一望のもと。
いくつか登ったことのある山も。

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ここは、下を走る青梅街道までさえぎるものが少ないためか、携帯電話がよく通じた。
タブレットで写真を撮り、その場でフェイスブックにアップできた。

■展望台から南へすぐのところに指道標がある。
「花ノ木尾根」分岐。
右が登ってきた「ナラ坂」、手前が帰路にたどることになった「ブナ坂」、左が目指す黒川鶏冠山方向の「六本木峠」。

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上の写真の標識を裏側から見ると、「梅ノ木尾根」とある。

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この先の「六本木峠」まで、道は山の中腹を巻きながらゆるく登ってゆく。
標高差がほとんどなく、ゆるいアップダウンが続く。
下の写真のような桟道もあらわれ始める。

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■「六本木峠」分岐。11:35分頃。

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左が「横手山峠」を経て黒川鶏冠山へ向かう道。
右に行くと丸川峠を経て大菩薩嶺に続く道。

また桟道があったが、よく整備されていて歩きやすい。
道はゆるく下って、「新横手山峠」(林道と交わる地点)に続く。

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■「新横手山峠」分岐。11:55頃。

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なぜか、黒川鶏冠山に続く登山道をさえぎるようにロープが張られている。
写真には写っていないが、標識の手前左右に広い林道が通っている。
たぶん、森林整備の車が入るための林道だろう。青梅街道からの入口はゲートが閉まっていたので。

ここから「横手山峠」までは、山腹を巻くゆるい上り坂。
指道標もあって、道はわかりやすい。

■「横手山峠」分岐。12:10頃。(下の右の写真)
右に折れると「黒川金山跡」に至る道。ただし、歩く人が少なく一般的ではないようだ。

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ここから1kmほど歩くと、ようやく黒川鶏冠山の直下。
三角点のある西方ピークが見晴台になっていて展望がよさそうだが、ここまで歩いて、かなり足腰に来ていたので、寄り道せずにまっすぐ鶏冠山山頂を目指す。

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■最後の分岐。13:00頃。
ここから痩せ尾根を鶏冠山の山頂に続く。ここからも黒川金山跡へ向かう道もあるようだ。
「鶏冠神社方面」とある道標が、鶏冠山山頂方向を指す。

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いよいよ鶏冠山山頂直下の直登。
木の根が張り出し、岩場もあって、けわしい。

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この先、山頂まで写真を撮る余裕がなかった(かなり足腰に来ていたため)。
岩場が続くが、距離は短い。
最後のピークを北側に巻くと、とつぜん視界が広がり、そこが鶏冠山(黒川山、黒川鶏冠山とも呼ばれる)の山頂。

■黒川鶏冠山山頂。13:20頃。
ここで30分ほど過ごし、持って行ったコンビニのおにぎりを食べる。
南側は断崖絶壁。正面に大菩薩嶺が大きく見える。

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たまたま後から登ってきた人が写真に写ってしまった。

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よれよれになった足腰をかばいながら、長い下山道。
頂上直下の岩場もあるので、カメラをザックにしまって、ゆっくり下山。

かなり下に降りてからカメラを取り出し、首にかけて写真を撮る余裕ができた。

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下りは「梅ノ木尾根」分岐から左へ、ナラ坂方面へ。

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■「ナラ坂」分岐。16:15頃。

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ここから10分ほどで、登山口が見えてきた。
青梅街道を走るバイクや車の音が聞こえてきて、ほっとした。

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■柳沢峠。16:25頃。

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出発時とちがって、車の台数が少なくなっていて、バイクの人が多かった。
少し休憩して、ここから車で帰宅した。

たぶん、20年ぶりぐらいの山歩き。
この山にも二度登っているはずだが、ほとんど覚えていない。

山歩き再開には、ちょっとハードだったかもしれない。
筋力の衰えは争えず、歩いている途中で足腰が痛くて何度も立ち止った。
いやはや、情けない。
すこしトレーニングしなければ。

背負っていったデイパックも、しっかりした山用ではなく、しっくりこなかった。
荷物の重量も重めで、背中で安定せず、腰に負担がかかったようにも思う。
反省点、多々。

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