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2005年10月の35件の記事

2005年10月31日 (月)

【読】静かな大地(8)

10章目 「砂金掘り」 は、日高の山奥に入って砂金を採っていた男の独白である。
この頃(明治期)、山奥の川でずいぶん砂金が採れて、一種のゴールドラッシュのようだった。 アイヌの木彫り職人に、砂金掘りに使う道具「揺り板」と、背負子(しょいこ)を作ってもらったり、熊に出会ったエピソードが興味深い。
彼は、砂金掘りに山に入る途中、宗形牧場に立ち寄り、十日ほど居候して牧場の仕事を手伝う。 その思い出をこう語る。

<あれはよい夏であった。 暑いさなか、汗を流して働いて、夕方みなで川へ行って身を洗う。 さっぱりして大きな家に向かうと、飯が出てくる。 ・・・食い物もうまかった。 牛肉と馬鈴薯の煮付などあそこで初めて食った。 牛乳というものもたっぷり飲まされた。
 みなが話すのはアイヌ語で、わしにはわからんが、それでも和気藹々、みなが仲がよいことは伝わった。・・・まことよい夏であった。 ・・・アイヌはよい、とわしは思った。 アイヌのことを悪く言う者の気が知れない。>

続く章 「チセを焼く」
モロタンネという名のフチ(老婆)が亡くなる。 モロタンネはトゥキアンテ(勉蔵)の母、オシアンクル(五郎)の祖母にあたる。 炉辺でユカラやウウェペケレ(昔話)を語った偉大なフチ。
ここでは、アイヌの葬儀のやり方が詳しく述べられている。 死装束を着せ、墓標を作り、死者に言葉を付ける。
作者池澤夏樹の考え方がよく出ている部分。

<総じてアイヌは言葉の民である。
 民族には得手不得手があるらしい。 人でも、ある者は音楽に秀で、ある者は細工物がうまい。・・・民族もまた同じ。 そしてアイヌの場合は言葉の力、物語る力が抜きんでていた。 そうでなくてどうしてあれほどのユカラ、無数のウウェペケレ、さまざまな神や英雄や動物や美女や悪党の物語が残せるだろう。>

ところで、この章では物語の行く末を暗示するような事件が起きる。
起承転結の〝転〟にあたる章である。

アイヌの古くからの習俗として、死者の身の回りの道具を傷つけ、焼いて、あの世に送らなければいけない。
また、古くはチセ(住まい)も焼いて、あの世に送ることが行なわれていたが、これは明治政府によって禁令が出されていた。 だから、この頃にはチセを焼くことはしなくなっていたのだ。 ところが、このフチのチセが焼けてしまったのである。
息子のトゥキアンテは、この件で警察に連れていかれ、札幌から赴任してきていた巡査から拷問に近い暴行を受けて、十日間も拘禁される。
さらに、宗形三郎も、この事件が元で新聞記事でいわれのない誹謗中傷を受ける。

<記事にあった牙城という言葉を三郎はアイヌの言葉でチャシと呼んでみなに伝えた。 この言葉を聞いてみなの頭には染退川(しべちゃりがわ)の南岸真歌(まうた)の丘にあったというシャクシャインのチャシのことが浮かんだ。>

オシアンクルは、宗形牧場をシャクシャインのチャシに重ねあわせてしまうことを、縁起が悪い、と考える。
その後、三郎の前には怪しい和人・松田某があらわれ、にわかに暗雲が漂う・・・。

今日は、これに続く章 「神威岳」 まで読んだのだが、続きは明日にでも。

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2005年10月30日 (日)

【遊】サイボク「まきばの湯」

埼玉県日高市にある「埼玉種畜牧場」(サイボク)と、その敷地内にある「まきばの湯」へ、ひさしぶりに行ってきた。
平地の紅葉はまだまだこれから、という感じ。 温泉にゆっくりつかって、野菜と肉類の買物をして帰ってきた。 天気は曇り。

051030-1 まきばの湯
埼玉県日高市下大谷沢546 埼玉種畜牧場(サイボクハム)本店敷地内
圏央道「狭山・日高インター」から2キロ・10分ほど。
西武線狭山市駅からバス便あり。 駐車場900台。
http://www.saiboku.co.jp/

ぼくは、ここの温泉が気に入っていて、回数券を買って月に一度ぐらい通っている。
料金はやや高いが、回数券だとかなり割安。 通常1500円(中学生以上)のところ、12枚セット15000円。 日帰り温泉に高いお金をかけてまで・・・という方もいるかもしれないが、ここの温泉は広くて清潔、仮眠所やレストラン、休憩所なども充実しているので、遊べる。 浴場が大きい。 浴槽の種類が多い。 お湯がいい。
多数のスタッフが常に清掃やお湯のチェックをしているのも、好感が持てる。
料金面でもう少し勉強すれば、もっと繁盛すると思うが、あまり低料金だと、やたら混雑することもあるので、難しいところかもしれない。
ぼくの個人サイト「晴れときどき曇りのち温泉」の「日帰り温泉案内」でも紹介しているので、ご覧いただきたい。
http://yamaoji.hp.infoseek.co.jp/o_ogawa.html#makiba

051030-2 まきばの湯 ロビー
こんな感じで、入口のロビーからして広々としていて気分がいい。
「石の湯」という岩盤浴もある。 一度試してみたが、なかなかのもの。
わずか20分ほど、岩盤造りの部屋で横になっているだけなのだが、体の芯から汗がじとーっと出て、何やらリフレッシュした気分になれた。
「石の湯」は別途1000円、中で予約する。

051030-3 サイボクの野菜市場 (楽農ひろば)
広大な屋根付市場。 地元やその他地方からの野菜がずらーっと並んでいて、しかも安い。米、たまご、果物、なんでもあり。
わが家は、いつもここで何かしら仕入れて帰る。 今日は、市場の前で、泥つき大根、蓮根、キャベツを格安で購入。 市場では人参、里芋、エリンギ茸、舞茸を買った。 明日の夕食は豚汁だそうだ。

051030-4 サイボクのミートショップ(肉類、ハム類売場)
サイボク特製のハム、ソーセージ類や、肉類、コロッケ、その他食材、パン、飲料、調味料など、野菜類以外の買物はこちらで。
試食がいつも楽しみで、歩いてまわるだけでも楽しい。
今日は、ここでメンチカツと豚汁の材料の肉を購入。

051030-5 サイボク敷地内の炭火焼コーナー
ドラム缶を二つに割り、炭火で鉄板焼きを即売している。
豚ステーキ、豚足、レバーステーキ、ハムステーキなど。
連れは、たいてい、ここでつまみを手に入れ、缶ビール片手にくつろいでいる。
ぼくは、車の運転もあり、アルコールはもともと苦手なので、ハンバーガーショップでコロッケバーガーとホットコーヒーというメニューが多い。

以上が今日の遠足風景。

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2005年10月29日 (土)

【遊】みんぱく

大阪の千里、万博公園の中に「国立民族学博物館」(みんぱく)がある。
いまから4年前の春、一度だけ訪れた。
半日がかりで見たが、それでも駆け足でざっと見ることしかできなかった。 それほど展示物の多い大きな施設である。

minpaku 国立民族学博物館
大阪府吹田市千里万博公園10番1号
http://www.minpaku.ac.jp
1974(昭和49)年6月7日創設。1977年11月15日開館。
世界の諸民族に関する資料の収集、保管、展示公開とともに、民族学に関する調査・研究のための大学共同利用機関として作られた。
展示場での写真撮影(個人利用目的)OKという、開かれた博物館。2001年のパンフレットによると、建築面積約17,000平米、延床面積51,000平米。





chise アイヌのチセ(住居)の内部
この時はまだ、アイヌ民族に対する関心がそれほどでもなかったので、ゆっくり見なかった。今となっては、残念な気もする。
もちろん、チセは、北海道の各地博物館に行けば、たくさん展示されているはず。

attushi アイヌの民族衣裳 アットゥシ織
オヒョウの木の皮の繊維で糸を作り、織機を使って織りあげる。
モレウノカというアイヌ紋様の刺繍がほどこされる。
たいへんな手間ひまをかけて作られる衣裳である。

santan サンタンチミップ
中国大陸から海を越えて渡ってきた、清朝の衣服。江戸時代、「蝦夷錦」と呼ばれて珍重された絹織物。
山丹服とも言われる。 山丹とは、アイヌ語でアムール川下流域の民族を指す「ジャンタ」という言葉から来ているという。
船戸与一の小説『蝦夷地別件』に、この山丹服を着たアイヌの首長が登場していて、ぼくは一度、実物を見たかったのである。
(※この写真が山丹服だったかどうか、ちょっと自信がない。なにしろ4年前のことなので。・・・まあ、それに近いとは思う。)

アイヌの民具について興味のある方には、萱野茂さんが今年7月に出版した書籍を推薦する。
萱野茂 著/清水武男 写真 『アイヌ・暮らしの民具』
株式会社クレオ 2005/7/25 \1800 ISBN4-87736-110-3

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2005年10月28日 (金)

【読】静かな大地(7)

延々と続くのである。 7章目「戸長の婚礼」
明治18年、宗形三郎は、当時の静内郡下十六村を束ねる〝戸長〟に任命される。 いまでいう、村役場のようのものが〝戸長役場〟である。
そして、アイヌの友人のところにいた〝エカリアン〟という娘に惹かれはじめ、結ばれる。
アイヌの人たちの名前には、それぞれ意味があるということらしい。 〝エカリアン〟とは、エカリ=遠回り、アン=いる、という意味で、つまり〝遠回りしたところにいる〟〝向こう側にいる〟ということ。
この種明かしは、ここでは控えておこう。 この小説を読む楽しみを奪いかねないから。

ここで、いくつかアイヌの考え方、大げさに言うと精神世界にふれておきたい。
この小説で紹介されているし、これまでにぼくが読んだ、萱野茂さんの本などにも繰り返し書かれていることである。

「妻は借りもの」
アイヌは、嫁をもらうとは言わない。 嫁とりをアイヌ語では「マテトゥン」、マッ=妻、エトゥン=借りる。 他人の娘を借りて妻とする、と言う。 借りたものは、場合によっては返さなければいけない。 つまり、夫が妻を粗末に扱えば、妻は怒って元の家に帰ってしまうし、反対に、妻の方も、あまり行いが悪ければ元の家に帰される。

「アイヌプリの婚礼」
アイヌプリとは、アイヌの風習、古式にのっとったという意味。
米を小さな鍋で炊いて、できあがった飯を儀式用の立派な椀(アサマリイタンキ)に山盛りに盛る。 花嫁は、これに箸を添え、丁寧に礼拝して花婿に渡すと、花婿はやはり丁寧に礼拝してこの椀を受け、飯を半分まで食べる。
残る半分と箸を花嫁に渡すと、花嫁はその半分を食べる。
こうして二人は、この先も一つの鍋のものを分け合って、仲よく暮らすことを示す。


次の章 「函館から来た娘」 は、宗形三郎の弟・志郎(由良の父)の結婚譚が、由良の母(志郎の妻)によって語られる場面である。 この章も、なかなか面白い。
舞台は函館。 明治初期の函館の様子がわかって興味深い。
五稜郭にたてこもった榎本武揚の話も出てくる。

その次の章 「栄える遠別」。 いまや宗形牧場と呼ばれて繁栄する三郎とアイヌたちの牧場が舞台。
遠別(とおべつ)は、日高地方の静内の南東。 今は東別と呼ばれているあたりか。
三郎にも志郎にも子どもができて、彼らがアイヌの人たちと共同で始めた事業が、もっともうまく行っていた時期である。 しかし、一方では和人からの妬みも受け始める・・・。
波乱を含みながら物語は続く。

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【読】静かな大地(6)

桃太郎の話の続き。
「フチの昔話」の章の最後で、由良が夫の長吉に福沢諭吉の一文を読んで聞かせたのにはわけがある。

<「福沢諭吉がそんなことを書いているのか」
「ええ、『ひゞのをしへ』という御本」
「桃太郎は卑劣千万か」 と長吉は考えながら言った。 「言われてみればそのとおりかもしれないな。しかも、自分一人ではできないからと、加勢をつのっている。 黍団子で釣って犬と猿と雉を雇い入れている。 これではまるで、松前藩と場所請負の連中の仲とおなじではないか」
「そういうことになるわねえ」
「だが、ここは和人の国だ。 桃太郎の国だ。 みんなが桃太郎になりたがっている国だ。 ・・・桃太郎の話を鬼の側から読むなど、アイヌと和人の仲に重ねて読むなど、誰もすることではないぞ」>

と、まあ、引用を続けていくと、内容の丸写しになってしまうが・・・。
三児の母親である由良は、鬼の妻の立場に自分を置いて考えてしまう。 そこに、さらにアイヌの人たちの姿も重ね合わせているのである。

<「おまえは桃太郎の妻かもしれない。 故郷で舅や姑とのんびりと暮らして待っていると、夫が宝物を持って帰ってくる。 嬉しいことではないか」
「でも、その宝物は血まみれだわ」・・・>

桃太郎の話はこれぐらいにしておこう。

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2005年10月27日 (木)

【読】静かな大地(5)

620ページある本の、まん中あたりにさしかかった。
5章目の 「鹿の道 人の道」 からは、結婚して三人の子どもの母親になった由良が、夫の長吉に、叔父・三郎の追憶を語るというスタイルをとっている。 由良は、この数奇な生涯をおくった叔父のことを、なんとか書き残そうとしている。 由良夫妻が生きている時代は、昭和10年代。 2・26事件や5・15事件が遠い東京でのできごととして背景にあらわれる。

ここで語られる三郎は、遠別(とおべつ)の原野を開拓し、麦、大豆、馬鈴薯などの栽培を試みている時期。
ときに、明治12年の春。 五町×十町=五十町歩という広大な原野の木を切り、切り株を馬力でとり除き、耕すという、気の遠くなるような作業を、アイヌの友人の助けを借りて始めたのである。
いちどは三郎に背を向けたシトナも、三郎の熱意に負けて協力してくれることになった。
ところが、明治13年の秋、この地方をバッタ(アイヌ語で〝バッタキ〟)の大群が襲うという恐ろしい事態が起きる。 せっかくの作物は、地上部分をすべてバッタに食われてしまい、わずかに地中の馬鈴薯で飢えをしのぐ。 ここで、三郎は開拓使からの救援の及ばないアイヌのために、馬鈴薯を提供する。 このことで、彼はアイヌの信頼を勝ち得ることになる。

<和人でも飢えて危ない者がいたら、その時は私もこっそり馬鈴薯を届ける。 顔を見せずに置いてくる。 しかしまず私はアイヌに配る。
三郎さんが馬鈴薯をアイヌに分けると決めたのは、よくよく考えてのことでありました。
これは淡路から共にやってきた和人仲間を裏切ることになる。 ・・・しかし、それはもっと飢えた者の口に入る。>

続く章 「フチの昔話」 では、三郎や志郎、オシアンクルらが、幼い頃に囲炉裏端で〝フチ〟(アイヌ語でおばあさんのこと)から聞いたであろうアイヌの昔話が、由良によって語られる。 ぼくもよく知っている、アイヌのユカラ、カムイユカラである。

<「いい話だなあ」と長吉が溜め息と共に言った。
・・・「すべてに救いのしかけがあるわけだな」
「不遇のうちに亡くなった人も、あるいは熊などの獣でさえ、正しく供養して送れば、神の国に生まれ変わって、幸せな来世での生活ができるのよ」・・・>

という、アイヌの豊穣な物語の数々。
この時、由良の口を借りて語られる福沢諭吉の一節が、じつに興味深い。 あるいは、作者・池澤夏樹の生の声かもしれない、と思う。

<『もゝたろふが(と由良は読む)、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。 けしからぬことならずや。 たからは、おにのだいじにして、しまいおきしものにて、たからのぬしはおになり。 ぬしあるたからを、わけもなく、とりにゆくとは、もゝたろふは、ぬすびとゝもいふべき、わるものなり』 わたしは福沢諭吉の言うとおりだと思うの」・・・>

長くなるので、続く章 「戸長の婚礼」 は、明日にでも。
いよいよ、この小説も佳境に入る。

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2005年10月26日 (水)

【読】静かな大地(4)

この池澤夏樹の『静かな大地』を買って初めて読んだのがいつだったのか、過去のメールを探してようやくわかった。 去年の8月の終りだった。
同名の本(花崎皋平=はなざき・こうへい=著、『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』)とあわせて、北海道に住む親しい友人が教えてくれたのがきっかけだった。
あれから一年あまり、アイヌへの関心は高まり、あれこれ調べたり読んだりした後なので、今回の再読では初回に気づかなかったことがたくさん見えてきた。

池澤夏樹は北海道の帯広生まれ。 父親の福永武彦(作家)が戦争のために一家で疎開していた昭和20年にここで誕生した。 彼は著作のどこかで、この小説が自分の先祖をモデルにしたものだと書いていた。 三郎や志郎や由良が作者とどういう繋がりの人物をモデルにしているのか、興味深いことではあるが、わからない。

それはさておき、今日読んだ章「鹿の道 人の道」には、作者のアイヌに対する理解というか、共感というのか、考え方がはっきり出ている個所がある。
シトナという名の、オシアンクル(五郎)の叔父の仲間という設定の人物に、こう語らせている。 三郎が札幌から郷里に戻り、このシトナの協力で牧場を開くための広大な土地を見つけた時のこと。

<「本当によいところが見つかった。早速にも札幌に行って、開拓使本庁に払い下げの申請をしよう。・・・」
・・・「何を話している」とシトナさんがアイヌの言葉で三郎さんに問われました。
「この土地を私のものとするための算段です」と三郎さんは答えました。・・・
「なぜだ」と重ねてシトナさんは問いました。・・・>

三郎が、北海道の土地はすべて開拓使(という役所)が管轄しているから、そこに申請する必要があると説明する。

<「それを問うているのではない。なぜ、この土地の所属をシサムのヤクショが決めるか、それが知りたいのだ」
シサムという言葉を聞いて、三郎さんと志郎さんははっとしました。・・・
「それは、それは、アイヌモシリは今は北海道となって、日本のものとなったからですよ」・・・
「納得のいかないことだ」とシトナさんは言われました。・・・
「・・・わしらアイヌが祖父の祖父の祖父の頃から走り回っていた土地が、いつから、どういうからくりで、和人のものになったのだ」>

引用ばかりで気が引けるが、ここに示された考え方、北海道という土地がそもそも誰のものだったのか、いいや、誰のものでもなかったのだ、という認識は、とてもラジカル(根源的)なことである。
いや、それは昔のこと、やむを得なかったこと、などという言い訳は通らないと思うのだ。
これは、ぼくら〝和人の子孫〟の罪の意識などとは関係なく、人類の根源的な問題ではないのか。
アメリカ大陸やオーストラリア大陸の歴史を思い出せば、誰にでもわかることではないか。
それをごまかしたり、なかったことにしたり、そんなことはできない。

・・・とまあ、長々と理屈っぽく書いてしまったが、これはたぶんぼくの生涯かけてのテーマなのである。

そうそう、この章のはじめに、イザベラ・バードが登場する。
明治11年の夏、三郎が札幌から静内に帰る途中、平取に泊まっていたイザベラ・バード(『日本奥地紀行』を書いたイギリスの女性旅行家)に会った、という設定である。 この部分は事実にもとづいたエピソードかもしれないし、作者の想像から生まれたフィクションかもしれない。 イザベラ・バードの旅の足跡とは、もちろん一致しているが・・・。

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2005年10月25日 (火)

【読】静かな大地(3)

ニ連発だが、印象が薄れないうちに書いておこう。
池澤夏樹 『静かな大地』 4番目の章 「札幌官園農業現術生徒」 は、夫とともに旭川に渡った由良の許へ、姉の都志から送られた小包から始まる。

小包の中味は、亡くなった叔父・三郎から、都志・由良姉妹の父・志郎(三郎の弟)に宛てた古い手紙の束だった。
明治10年1月から12月までの1年間、宗形三郎は、札幌農学校に付属の学校(1年制)に寄宿し、農業現術生徒と呼ばれて、農学、牧畜学の実務を学ぶ。 講師はアメリカから来ていて、アメリカ式の農業・牧畜業を北海道に展開するのが目的だった。

クラーク博士で有名な札幌農学校は4年制だったが、こちらは、即戦力を養うための学校。 三郎は、このとき満15歳。 故郷の静内にいた弟(志郎)に宛てて、見るもの聞くもの珍しいものばかりの札幌での体験を綴った手紙である。

三郎はここで、馬鈴薯や唐黍(とうもろこし)の栽培を学び、馬を育て、馬を使って開墾することを実地で学ぶ。
チーズやバターを作ることも、葡萄を栽培して葡萄酒を作ることも、ポップコーンを作ることも、彼らににとって初めての珍しい体験だった。
明治期の北海道開拓に賭けた意気込みが伝わってくる手紙で、興味ぶかい。

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【読】静かな大地(2)

池澤夏樹 『静かな大地』 の2章(最初の夏)、3章(鮭が来る川)、4章(札幌官園農業現術生徒)と、読みすすんでいる。

「最初の夏」 初めの章と同じく、父(宗像志郎)がまだ幼い娘の由良に語る、昔物語だ。
淡路島から渡ってきた〝最初の夏〟に、幼かった三郎と志郎の兄弟は、アイヌの少年〝オシアンクル〟に出会い、ともだちになる。 こういうケースは特異である。 和人の親たちは、子どもがアイヌと親しくなるのを嫌っていたから。
三郎、四郎の父は、元士族でありながら、そういうことにこだわらない人だった。

彼ら兄弟は、アイヌの友人オシアンクルと互いの言葉を教えあった。 アイヌ語を教わり、日本語を教えた。
<私たちとオシアンクルはお互いに言葉を教えあった。 三郎が川の水を両手に汲んで、ミズという。 オシアンクルが同じことをして、ワッカという。>
<言葉というものは一つではないということを私たちはあの時に初めて知った。>

彼らは、とても幸せな体験をしたと、ぼくは思う。
続く章「鮭が来る川」は、時代がいっきに下って、大正9年。
由良は成人し、札幌で祝言をあげて、夫とともに静内を訪ねる。
そこには、もう年老いたオシアンクル(五郎という和名に変わっている)がいた。
由良はどうしても亡くなった父(志郎)と、叔父(三郎)のことを、五郎から聞きたかった。
五郎が訥々と語る、アイヌの本音は胸をうつ。
(親友だった志郎の娘とその夫だからこそ、心を開いて語った言葉である。)

<わしらアイヌは獲ったものを横取りされるのには慣れておった。 もう何百年もそういうことが続いてきた。 和人は来て、威張って、勝手なことを言って、アイヌが獲ったものを持ってゆく。・・・>

五郎(オシアンクル)の昔話の中で、鮭の豊漁の年、三郎、志郎兄弟を誘って彼らとともに鮭漁を手伝った時の様子が語られる。 鮭漁は、この時すでに和人が占領していたのだが、この年は鮭が多すぎて管理しきれなかった。 その隙をついて(というよりも、昔からの方法で)アイヌが鮭を自由に獲ったのである。
<アイヌが勝手気儘に鮭を獲れたのはあの秋ばかりだった。 そのいちばんいい秋に三郎と志郎はわしと一緒に川に出た。>

<昔々は蝦夷地はすべてアイヌのものだった。 だからここをアイヌモシリという。 アイヌの静かな大地とういうことだ。 平和な地ということだ。>

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2005年10月24日 (月)

【遊】江戸東京たてもの園(続)

きのうの続き。江戸東京たてもの園。

051024-1 これは「たてもの園」に行く途中の月極駐車場で発見した
「劇団ふるさときゃらばん」の移動用バスとトラック。
これを見つけたときは、嬉しかった。というのも、
今から5年ほど前、この劇団の公演を見たことがあるのだ。

051024-2 「劇団ふるさときゃらばん」のサイト
http://www.furucara.com/
移動車が駐車場にあるからには、公演はお休みなのだろうか。
なかなか面白い劇団だった。

これより、江戸東京たてもの園の写真。

051024-3これはボンネットバス。
中は開放されていなかった。
ぼくらが子どもの頃、バスといえばこういう形だった。
いかにも頼りになりそうなバスだ。
雨よけのためか、テントの下に展示してあったのが残念。

051024-4 「子宝湯」内部の脱衣場。
籐の脱衣籠がなつかしい。
鍵のかかるロッカータイプのものができた後も、
この籠を使うのが好きだったなぁ・・・。

051024-5 じっさいに使われていたものと思われる張り紙。
「ドライヤー御自由にお使かいください」
〝お使かいください〟という送り仮名が愛嬌。
10円を入れるタイプのものは、使うのをためらったものだ。
この「子宝湯」は、その点、太っ腹だったようだ。

051024-6 建築家・前川國男の自邸内部。
右手の階段を登ると中二階がある。
写真奥に見える人は、ボランティアのガイド。
このような人が、園内にはたくさんいらして、
質問すると丁寧に答えてくれる。

051024-7奄美の高倉(高床式倉庫)。
湿気や鼠の害から穀物を守るために、
建物本体を地面から高くあげている。
アイヌにも「プ」と呼ばれる貯蔵用の蔵があり、
発想が似ている。

051024-8ビジターセンターの特別展。
鉛筆と水彩で描いた精密画。
なつかしい「オート三輪」の絵。
他にもSLやクラシックカーなどの絵があった
埼玉県狭山市在住の栗原大輔さんという方の作品。
みごとな精密画だった。

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2005年10月23日 (日)

【遊】江戸東京たてもの園

天気がよかったので、近所の都立小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」まで遊びにいってきた。ここから自転車で15分くらいの近所である。
春の桜の季節は、五日市街道が渋滞して何時間かかるかわからない道を、自転車で走って気持ちがよかった。

051023-1都立小金井公園
東京都小金井市桜町3-7-1
五日市街道沿い JR中央線武蔵小金井駅からバス
園内はご覧のように広い 入園無料

051023-2 江戸東京たてもの園
小金井公園の中にある
入口は写真に見えている「旧光華殿」(ビジターセンター)
入園料:大人400円/都内の中学生は無料、小学生以下も無料
http://www.tatemonoen.jp

たてもの園に入るのは、これで4度目くらいか。
毎回、少しずつ建物がふえているのがうれしい。全部見てまわると数時間かかる広さである。

051023-3ぼくの好きな建物「高橋是清邸」(母屋)
港区赤坂七丁目/明治35年(1902)の建物
2・26事件の現場となった邸宅である
庭園の一部も復元されている
1階に喫茶室が設けられているのもうれしい

051023-4

都電7500型車両
中に入ることができる
この近くにボンネットバスも展示されていた
(バスは前回までなかった)

051023-5看板建築
(正面から見るとビルのようだが、裏は屋根のある家)
昭和初期に商店などで流行した造りで、いまでも神田の古本屋街などで見かける(立川にもこんな古本屋が残っている)
店舗内部には、ちゃんと商品も復元展示されている

051023-6 「子宝湯」という足立区にあった銭湯
煙突こそないが、立派な造りである
中も復元されていて見られる

051023-7

女湯から失礼して内部を拝見
浴室のペンキ絵、脱衣場の脱衣籠、体重計、「ドライヤーご自由にお使いください」という張り紙なども復元されているという念の入りよう

051023-8 「子宝湯」の隣りにある「鍵屋」という居酒屋
昭和45年頃の姿に復元されていて、店内には当時の値札がある
イミテーションの焼鳥の皿がカウンターの上にあるのが笑える
椅子は樽 風呂あがりにちょいと一杯、といったところか

051023-9

前川國男という建築家の自宅(昭和17年)
内部がじつに洒落ていて、こんな家に住んでみたいと思う
まるで別荘のような造り
品川区上大崎の見晴らしのよいところに建っていたという

051023-10数寄屋橋交番(明治後期〔推定〕)
かわいらしい交番で、内部には泊まり用の蒲団もあった
ガス台や電話機などもレトロなものが置いてある

こんな感じで、他にも茅葺き屋根の大きな農家、三井の豪邸、田園調布のお金持ちの家、昭和初期の写真館、奄美の高倉などなど、30くらいの建造物が移設・復元されている。
明治村にはかなわないが、なかなかの施設である。
園内に樹木が多いのもうれしい。
近くなので、季節ごとに訪れてみたい。
これだけでも、いいところに越してきたな、と思うのだ。

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2005年10月22日 (土)

【演】葛根湯

すこし風邪気味である。ふだん、薬というものを飲まないのだが、こんな時は葛根湯を飲むとたいてい治ってしまう。
胃の調子が悪ければ漢方胃腸薬、便秘気味なら「いけだや通じ丸」という富山の丸薬。薬を飲むのはこれぐらい。いずれも生薬である。西洋の薬はなんとなく恐いので、医者から薬をもらってもあまり飲まないようにしている。

葛根湯といえば、またまた落語ネタだが、「葛根湯医者」というのを思い出す。
どんな病気にも葛根湯を処方する医者をこう呼ぶ。
「先生、わたし頭が痛いんです」「いけませんなァ。葛根湯を飲みなさい」
「お腹が痛いんです」「いけませんなァ。葛根湯を飲みなさい」
「先生、わたしあの男について来たんですが」「いけませんなァ。ご退屈でしょう。葛根湯・・・」

ことほどさように、葛根湯はなんにでも効くのである。
丹沢の山小屋に泊まったとき、風邪が悪くなって困ったことがある。咳がとまらなくて同宿の登山者に気をつかいながら、なかなか眠れなかったが、これも寝る前に飲んだ葛根湯が効いたのか、翌朝には抜けてしまった。ほんとうの話である。

ところで「葛根湯医者」の続きだが、「寿命医者」(患者が亡くなったら〝ご寿命です〟)、「手遅れ医者」(なんでもっと早く連れてこんのじゃ。バカァ。こりゃ手遅れですなァ)、「雀医者」(藪へ飛んで行こう、飛んで行こうとしている、つまりこれからヤブ医者になろうとしている医者)など、落語の世界にはいろんな医者がいるそうだ。

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2005年10月21日 (金)

【読】静かな大地(1)

池澤夏樹『静かな大地』の〝読中感想記〟を始める。
この小説は15の章から成る。今日は、最初の章「煙の匂い」を読んだ。

のっけから複雑な語り口で、前回はじめて読んだときは正直なところイライラしたが、今回は池澤さんのよく考えられた文体に感心した。例をあげると
 <その晩は父上は帰って来なかった(と父は由良に話した)。>
 <東京は好きではなかった(と父は話した)。>
つまり、この章の語り手は「父」と、その幼い娘の「由良」なのだが、「父」が娘に話し聞かせているのは、自分の父親(父上)といっしょに北海道に渡ることになった、幼い頃のエピソード。時代は明治維新直後、淡路島から北海道に入植することになった、元武士の一団の苦労である。

屯田兵制度よりも前に、こんな形で故郷を追われるように北海道(まだ蝦夷地という言葉が残っていた当時)に渡った人々がいた、ということに驚く。
背景には、徳島の阿波藩と淡路島の家臣との葛藤があり、明治維新期の混乱がある。ほとんど体ひとつ、身のまわりのわずかな家財を船に積んで、日高の静内に渡った人々。それを、幼い少年(由良の父)の目で、じつに生き生きと描いている。

印象的なのは、次の一節(少し長い引用になる)。
三郎というのは「父」(志郎)の兄である。

<蝦夷地には誰がいますか、と三郎はたずねた。
 蝦夷地には蝦夷の民がいる。昆布を採り、鮭や鰊を獲る者たちだ。田は作らず、町を営まず、山野と海で暮らしている。
 蝦夷地は日本ですか、と重ねて三郎が聞いた(と父は由良に話した)。
 さあ、そこだ、と父上は言われた。
 もともとは日本ではなかった。大名もおらず、百姓が田を作ることもない。・・・別の国だったと言ってよい。いや、あそこには国というものがなかったのかな。>

そう、蝦夷地はアイヌの人たちの「静かな大地」だったのだ。
そこに入植した〝日本人〟と、アイヌの人たちの微妙な関係が、この小説の底を流れる通奏低音である。幼い三郎、志郎の兄弟が、チプ(丸木舟)で迎えに来たアイヌをはじめて見たときに感じた、彼らの印象は感動的だ。

<私と兄は最初にアイヌを見て、あの面構えと、分厚い毛深い強そうな身体、速やかに舟を漕ぐ腕力、堂々とした態度、・・・よく通る声、そういうことに夢中になった。兄と私の目にはすべてすばらしいものと映った。私たちは彼らに夢中になり、それは終生ずっと変わらなかった。

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【読】長い物語

長編小説を読むのが好きだ。
といっても、あまり長いものは苦手。時代小説の文庫本で20冊にもなるようなものを、みんなよく読んでるなあと、いつも感心している。ぼくは根性が足りないので、途中で投げ出したくなるのをこらえて、なかばムキになって無理しておしまいまで読むから、後に印象が残らなかったりするのだろう。

ぼくが好きなのは、現代小説の長めのものだ。
たとえば、北杜夫の『楡家の人々』、五木寛之の『戒厳令の夜』『朱鷺の墓』、船戸与一の『蝦夷地別件』『砂のクロニクル』『猛き箱舟』あたりの、娯楽小説を愛する。
宮部みゆきの長編もずいぶん読んだが、読んでいる最中はとてもエキサイティングで、人情の機微を描くのがうまいなあと感心するけれど、読後の印象はわりと希薄である。宮本輝にはまったこともあった。この人も名手だと思う。

そんな中で、池澤夏樹の『静かな大地』からは、深い感銘をうけた。
はじめて読んだのは、去年だったと思う。近所の郊外型書店でたまたま見かけて買ったのだ。それまで池澤さんの小説やエッセイをだいぶん読み進んでいたので、この興味深い小説を読んでみようと思ったのである。

ikezawa_daiti

池澤夏樹 著 『静かな大地』
2003年 朝日新聞社 刊
初出は朝日新聞連載(2001.6.12~2002.8.31)
A5版、620ページに及ぶ長編
本の厚さ4cm、重量700g、通勤電車で読むにはやや重い


さて、この小説を今日から再読している。前回はじめて読んだときには気づかなかったことがいろいろ発見できる。読むスピードが遅いのと、通勤電車・バスの中でしか本を読む習慣がないので、とにかく時間がかかる。
ちょうどブログのネタにはいいかな、と思うので、少しずつ印象に残る部分など紹介していこうと思っている。・・・気長におつきあいいただけると嬉しい。

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2005年10月20日 (木)

【雑】車窓から見える煙突

秋である。果物がうまい季節だ。
柿や蜜柑が、これからだんだん美味しくなる。
この季節は、また、秋晴れの澄んだ空気が心地よい。朝の通勤電車、吊り革につかまりながら窓の外をぼーっと見ているのもいいものだ。

今朝もまた、本を読む気になれず、電車の窓から中央線沿線の街並をながめていた。
瓦屋根やらビルやら小さなアパートやらがぎっしり軒を連ねる景色の中で、ひときわ目立つのが銭湯の高い煙突。
まだあるんだな、この銭湯というやつが。
中央線沿線の阿佐ヶ谷、中野のあたりは、かつて二十代の頃住んでいた街である。当時、貧乏暮らしの若者にとって内湯のある住まいなどはとんでもないことで、風呂といえば週に一、二回、銭湯に通っていたものだ。
それら、昔かよっていた銭湯がいまも健在で、電車の窓から煙突が見えるのは嬉しい。なんだか30年前にタイムスリップしたような、不思議な気持ちになる。
この先も消えないで残ってほしい煙突である。

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2005年10月19日 (水)

【読】イザベラ・バード

きのうの話の続き。 イザベラ・バードを紹介したい。
Isabella L. Bird (1831-1904)
イギリス生まれの女性旅行家、探検家(といっていいのかな?)
幼少期は病弱だった。 23歳の時に医者に航海をすすめられ、アメリカとカナダを訪れる。2年後、初の旅行記『英国女性のみたアメリカ』を出版。
40歳を過ぎてから(!)本格的な旅行を始め、オーストラリア、日本、マレー半島、チベット、朝鮮などをはじめ、生涯の大半(!)を旅に終えた。
『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー)、『朝鮮奥地紀行』(東洋文庫)、『ロッキー山脈踏破行』(平凡社ライブラリー)など。

isabella 『日本奥地紀行』 高梨健吉訳
47歳で日本を訪れた時の旅行記。横浜に上陸後、東京から日光、横川、新潟を経て、花館、山形、久保田(秋田)、青森、さらに北海道に渡り、函館から森、室蘭、幌別、白老、苫小牧、平取、門別と、足を伸ばしている。主として馬と徒歩と船による、3ヶ月あまりの旅である。本書は、旅先から妹や親しい人にあてた手紙を主体としたもの。

ぼくにとって殊に興味深いのは、後半の半分近くを占める北海道旅行記。アイヌの人たちの生活、人がらなどにふれて、鋭い観察をしている部分だ。
アイヌを「未開」「不潔」などと評しているあたりは、当時の外国人(キリスト教徒)の限界で、仕方がないことだと思う。しかし、彼女が捉えたアイヌの特質(美点)は、なかなか的確である。

余談だが、池澤夏樹さんの小説『静かな大地』は、北海道開拓期の日高地方が舞台。この中で、イザベラ・バードが訪問した時のアイヌの人たちとの交流が、エピソードとして使われている。

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2005年10月18日 (火)

【遊】江戸東京博物館(続)

いやはや、皆勤賞もたいへんだ。
とりあえず、江戸東京博物館の続編。

051017-6 051017-7

これは、懐かしい車。左側は当時の高級車なのであまりお目にかかったことはないが、右側のクーペは、なんとも懐かしい。見たことがあるような気がする。


別館の特別展示会場で見つけた、イザベラ・バードという英国人(明治初期に日本を訪れた女性)の邦題『日本奥地紀行』の原書。051017-9
これを見つけたときには驚いた。
まさか、こんなところでお目にかかろうとは!
“Unbeaten Tracks in Japan”という原題。
この本の邦訳(平凡社ライブラリー)は、とても面白かったのだ。
人力車と馬と徒歩で、東京から北海道まで踏破した驚くべき女性である。

今夜はこれで。

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2005年10月17日 (月)

【遊】江戸東京博物館

ひと月ほど前に行った、両国の江戸東京博物館はおもしろかった。
大人が一日楽しめる場所である。建物はちょっと変わった近代風のもの。JR総武線の車窓からよく見える。 両国駅の前、国技館の並び。

050117-1長いエスカレーターとエレベータを乗り継いで入口に到達する。内部は、江戸ゾーンと近代(明治・大正・昭和)に分かれている。展示室は2フローアーで、かなり広く、全部ていねいに見てまわるとくたびれるほど。

 

051017-2 江戸ゾーンにある芝居小屋。実物大。中には芝居の一場面のセット(実物大の人形)や、からくり芝居のセットなどがある。この日は、小屋の前で、ちょっとした寄席をやっていた。こんな大きなセットが屋内にあるのには驚いた。

 

051017-3 これは小さな人形を集めたセット。両国橋の様子である。バックに人が写っているので、その小ささがおわかりいただけると思う。一つ一つがじつに精巧に作られている。


 

051017-4051017-5 これも呉服屋のセット。小さな人形がいい。ぼくは、こういうものが大好きだ。写真では見えないが、店の内部も、本物そっくりのミニチュアなのだ。

この続きはまた明日にでも。

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2005年10月16日 (日)

【遊】古民家

埼玉県にある、築280年という古い茅葺きの民家で、友人のお祝いごとの集まりがあったので行ってきた。内容は、プライベートなことなので書かないが、この古民家を紹介したい。

享保6年(1721)に建てられた、埼玉県内で実年代のわかる最古の民家だという。平成元年に国の重要文化財建造物に指定されている。
この古民家がユニークなのは、展示して中を見せるだけではなく、ふだんから囲炉裏の火をたいてさまざまなイベントに利用したり、飲食を提供したりして、今でも生きている建物、というところである。

051016-1 ご覧のように、茅葺きの二階家で、一階は広い土間と座敷、二階は蚕部屋として利用されていたもの。
しっかりした造りだが、さすがに年月がたっていたんでいたものを、持主が修復して今の姿になったという。

051016-2 パチパチと囲炉裏の火のはぜる音を聞きながら、薄暗い建物の中にいるだけで、なにやら懐かしい気持ちになって、ほっとする。
維持管理がたいへんらしい。持主のご一家は、隣りの家に住んでいらっしゃるが、茅葺き屋根を傷ませないためには、いつも囲炉裏の火を絶やさないことが必要だそうで、火の管理だけでも気をつかうことだろう。

ネットで「吉田家住宅」と検索していただくと、情報が得られる。
重要文化財吉田家住宅  埼玉県比企郡小川町大字勝呂424
電話/FAX 0493-73-0040
最寄駅 JR八高線「竹沢駅」下車 徒歩10分
東武東上線「東武竹沢駅」下車 徒歩20分
高速道路 関越自動車道 「嵐山小川IC」から約15分
「花園IC」から約20分

yoshidake

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【演】桂枝雀

日付がかわってしまったが、今夜はニ連発。
引越しの荷物を整理していたら、桂枝雀のレコードがたくさん出てきた。
一時期、枝雀落語にはまっていて、TVにもさかんに出演していた時期だったので、ビデオも山ほどとってある。
ぼくが最も好きな噺のひとつが「壺算」である。
水壺を買いにいくはなしで、ネタばらしになってしまうが、いちばん面白いところを書いてしまおう。

落語によく出てくる頼りない人物と、その友だちの徳さんの二人が瀬戸物町へ水壺を買いに行く。
ある瀬戸物屋で3円50銭の一荷(いっか)入りの壺を3円まで値引きさせて買い、二人で担って店を出る。
ところが欲しかったのはニ荷(にか)入りの壺。それを言うと、徳さんは落ち着き払って、これがニ荷入りの壺に変わるという。二人で元の瀬戸物屋へ。
さっき買ったばかりの一荷入りの壺を、ニ荷入りに買い替えたいと言って、値段は倍の6円ということに交渉成立。
不要になった一荷入りの壺を、3円で引き取ってもらうことになり、「さいぜん現金で3円渡してある。壺の3円と銭の3円、あわせて6円で、この壺(ニ荷入り)もろて去ぬわ」・・・店のオヤジがこれに騙されて、なんとなく計算がおかしいと思いながらも、いったんは承諾する。が、やっぱりおかしいと気づいて、呼び止める。
このあたりのやりとり、文章で説明してもちっとも面白くないなぁ。

やっぱり音源で聞いてください。ビデオやCDで出ているので。
おやすみなさい。

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2005年10月15日 (土)

【演】お天気

今夜は、雨。めずらしく予報通りである。
秋の天気は変わりやすく、予想しにくい。俗に言うところの、○○○ゴコロと秋の空・・・いや、やめておこう。

天気予報の話である。
天気予報は、〝ハズレ〟るのではなくて〝ズレ〟るのだ、という屁理屈を聞いたことがある。
これには一理あって、おおまかな天気の移り変わりは予想できるが、その変化の速度が予想と微妙にズレていくので、ハズレたように見えるだけなのだという。そのズレが、あんがい早くくるのが問題だけれど・・・。

天気といえば、上方落語の故・桂枝雀がよく使ったマクラが好きだ。
枝雀さん独特の語り口を伝えたいので、本から引用する。
『まるく笑って落語DE枝雀』(PHP研究所)

お天気と申しますものは、なかなか当たらないものやそうでございます。これはもう、戦後すぐも、色々科学技術を使っております今日もほぼその的中率というものは変わりがないものやそうでして、ほぼ六割やそうでございますねェ。これがおかしゅうございます。・・・毎日、『晴』『晴』『晴』『晴』『晴』・・・言うてましても、五割は当たる勘定でございます。それをでございますねェ、『晴やァ』『雨やァ』『ちょっと曇りやァ』・・・てなことを言いながら、じょうずにはずしているわけでございます。(略)
なぜこのように当たらないかというと、何と申しましても人間よりお天気のほうが歴史が長いのでございます。我々人間というものは、偉そうな顔してますが、人間になりましたのはほんこないだからです。

・・・とまあ、こんな調子で、この後に単細胞生物から人類への進化の長い歴史を、おもしろおかしく語るのである。つまり、人類が誕生するまでにはたいへんな苦労があった、と。いっぽう、お天気の方はというと、その間、ずーっとお天気を続けていたわけで、しょせん年季が違う、というのだ。
お天気の歴史は何十億年、人間の歴史は「ほんこないだ(ほんのこのあいだ、の大阪風言いまわしですな)」というのが、ぼくは好きだ。
「気象庁のソフトボール大会が、雨で延期されたそうでございます・・・」なんてクスグリもあって、このマクラは何度聞いても可笑しい。

うーん、オチがつかないけど・・・おあとがよろしいようで。

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2005年10月14日 (金)

【雑】アンチ・カバー派

本のカバーの話。
電車の中で本を読んでいる人を見ると(コミック本を除く)、半数以上の人が本にカバーをかけている。書店でくれるカバーもあれば、専用の立派な革製カバーをかけている人もいる。はた目からは、読んでいる本が何かわからない。
ぼくも以前はカバー派だった。
本が汚れるのがいやだったのと、他人の目を気にしていたのである。

ある時期から、カバーはやめた。
丁寧に扱えばいいのだし、何よりも、隠すということに「いさぎよくない」感じを持つようになったのである。べつに隠さなきゃいけないようなモノを読んでいるわけでもないのだし。

そんなわけで、『夜這い・・・』なんてタイトルの本も、堂々と?電車の中で読んでいる。
べつに自慢するほどのことでもないけど。

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2005年10月13日 (木)

【読】通勤途上で読む本

家の中はまだ片づいていないが、気分的に落ち着きがでてきたので、そろそろ通勤電車の中で本を読もうと思う。
これまでよりも片道10分ほど通勤時間が短くなったが、それでも、バスと電車をあわせると一日に2時間半は乗物にのっている。この時間をただボーッと過ごすのも芸がないので、いつも何かしらの読み物を持参している。

今日持っていったのは、少年少女向けの『理科年表ジュニア』(丸善)という本。『理科年表』をベースにした読み物といったところ。難しい本や長い小説はまだ読めそうもないので、こんな気楽な読み物にした。拾い読みだが、面白い発見が多かった。

1万kmを10cmとしたときの長さ。
スペースシャトルの高度 5mm(500km)
地球の大きさ 13cm(1.3万km)
気象衛星ひまわりまで 36cm(3.6万km)
月の直径 3cm(0.3万km)
月まで 3.8m(38万km)
太陽の直径 14m(140万km)
太陽まで 1.5km(1.5億km)

・・・なんてのを読んでいると、見慣れた景色の中に、ゴムまりぐらいの地球やピンポン玉ぐらいの月、ちょっと大き目の太陽なんかがあって、それらの距離が数メートルだったり、せいぜい1.5kmぐらいだったりするのかと思うと、宇宙というものが身近に思えて、なんだか楽しくなってくる。

難しい本、といえば、せんだって読んだ異色の民俗学者・赤松啓介の本が面白い。
『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』(ちくま学芸文庫)というもの。題名がすごいが、中味もすごい。そうとうクセの強い人だが、学者臭のない、おっちゃんである。
大学などに行かず、丁稚奉公をしながら実践的な民俗研究を続けた人らしい。
1909年生まれ、2000年没。
戦前は日本共産党にいたというだけあって、戦前左翼の頭の固さが感じられるものの、なんたって「夜這い」である。実践である。いやはや・・・。

もう一冊、この人の著作で同じちくま学芸文庫の『差別の民俗学』も読み始めている。
柳田国男批判を堂々とやってのけた御仁である。
こういう人の手にかかると、柳田国男なんて人も、お坊ちゃんくさいエリート官僚に見えてくるのがおかしい。

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【雑】きしめんケーブル

夜中までかかって、LANケーブルの引き回しが完了した。
ふうー、たいへんだった。
これまで使っていた10mのケーブルは長さが足りなくて、パソコンショップで15mのケーブルを購入した。「きしめん」そっくりの平たいケーブルにした。少し割高だが、壁と天井の境目を這わせるにはもってこいの薄さ。

シールドが薄いのでノイズを拾わないか心配だったが、問題ないようだ。ADSLのスピード測定をしてみると、これまで住んでいたところより良さそうだ。
やっと本物の「常時接続」環境ができた。いちいちLANケーブルを繋いだりはずしたりという応急処置から解放されて、明日からは、早朝のメールチェックもできそうだ。
やれやれ。 おやすみなさい。

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2005年10月12日 (水)

【山】なくしたもの

引越しのたびに、どこかにいってしまうものがある。
前回(といっても数ヶ月前)の引越しでは、掃除機のブラシとパソコンラックの棚板一枚を紛失。たぶん、運送屋が引き揚げた資材にまぎれこんだものと思われる。掃除機ブラシは実費を弁償してもらったが、パソコンラックの棚板はあきらめた。
今回は、まだ荷物の整理が終わっていないので、何がなくなったのかは不明。

引越しの時ではないが、今でも探している「失せ物」がある。
高校生の時の山日記である。
高校山岳部3年当時、長崎国体に参加した。その記念品は大切にとってある。ロゴの入った爪切り、ぼろぼろになった(やはりロゴ入りの)ナップザック、他のチームからもらった(ハーケンを加工した)ペーパーナイフ、の3点である。
とっくに捨ててしまったと思っていたが、どこかに保管してあったらしい。我ながら物持ちがいいと感心してしまった。

国体の山岳競技というのは、意外と知られていないが、そういうものがあるのだ。
ぼくの頃は、純粋に登山や幕営の技術を評価する競技だったが、最近はタイムレースの色合いが濃いらしい(よく知らないが)。
インターハイの競技として山岳部門があり、ぼくのいた高校山岳部は、毎年、全道で1、2位を争う「名門」だった。インターハイの全道大会(地方予選)1位が全国大会出場権を得るが、2位は何故か国体の高校生部門に出場するのだった。ぼくの時は、全道大会2位で、ちょっと悔しい思いをしたものだ。そんなわけで、長崎まで行かせてもらった。

その高校山岳部には、2年生、3年生の2年間しか所属しなかったが、ていねいに山日記をつけていた。その手帳が、いまだに見つからない。とっくに捨ててしまったのかもしれないが、今になって見てみたいと、しきりに思うのである。

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2005年10月11日 (火)

【雑】開通

身辺あわただしいので、手短に。
とりあえずネット環境が開通したので、投稿再開。
皆勤賞を狙っていたのだけれど、10/10の一日分だけ書き込めなかった・・・。
ケイタイからもブログへの投稿ができるらしいが、携帯電話の文字入力が苦手なので(笑)。よく、まあ、あんな面倒なもの(携帯メール)をやるなぁと、感心する。

こんどの住環境は、これまでになく良いもので、満足。
近くの公園に「江戸東京たてもの園」があり、桜の名所でもある。チャリンコですぐの距離。
両国に「江戸東京博物館」というのがあり、先日、初めて訪問してみたが、面白かった。
「たてもの園」は、この博物館の分室にあたる。野外に、日本全国、江戸・明治・大正・昭和と年代もさまざまな建物が展示されていて、中にも入れるという面白いもの。明治村のミニチュア版といったところで、博物館や古い建物が好きなぼくには、絶好の散歩コースとなりそうである。

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2005年10月 9日 (日)

【楽】雨・・・

まだネット環境が使えるので、早朝の暗いうちからパソコンにむかっている。
どうやら外は雨。
♪窓の外は雨 雨が降っている・・・ というのは、イルカが歌った「雨の物語」(伊勢正三作詞作曲)という歌だった。
八代亜紀という、ぼくの好きな演歌歌手にも、「雨の慕情」という名曲があったな。
♪雨々ふれふれ もっとふれ 私のいい人つれて来い・・・ (阿久悠作詞)という詩は秀逸である。
こんな歌ばかり集めた、オムニバスのカセットテープを作って遊んでいたこともあった。

日が短くなって、朝起きる頃はまだ暗闇、という季節になった。
雨の朝は、やっぱりちょっと寂しい。

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2005年10月 8日 (土)

【雑】曇り、のち・・・

いよいよ宿替えである。
明日から数日は、ブログの投稿もお休み。
朝、雨が降っていたが、今はどんよりとした曇り空。晴れるといいな。

雨を歌ったうたに、いいものが多い。
山崎ハコ「サヨナラの鐘」は、♪小さな雨がふっている 一人髪をぬらしている・・・ という歌詞で始まる。
同じくハコの「ヨコハマ」は、♪雨ふれ 雨ふれ 雨ふれ うー 私のヨコハマ・・・ というリフレインがいい。
中島みゆきが小柳ルミ子のために作った歌に、その名もずばり「雨・・・」という佳曲がある。
♪冷たい雨、雨、雨、雨、私を あの頃に連れて戻って・・・ と、ここでも「雨」という言葉が効果的に使われている。

あめ、という言葉の響きに、いにしえからの言霊(ことだま)が込められているのだろうか。
晴れたらいいけど、雨もまた、いいのかもしれないな。

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2005年10月 7日 (金)

【山】急行アルプス

二日ほど前のこと。
勤め先から帰る夜の電車の中で、大きなザックを通路に置いて座っている男性をみかけた。ああ、これから夜行列車で山にいくんだな、いいな、と思いながら見ていた。
ぼくと同年輩の単独行らしい人。ザックにカバーをかけていたが、横にマットを付けていたから、たぶんテント山行だろうと思った。

また、昔話で淋しいのだが・・・ひと頃、週末のたびに夜行列車で北アルプスや八ヶ岳などへ、夜行一泊、二泊の山行を続けていた。だいたい月に2回のペース。多いときは、毎週末に行っていたもので、元気があったなぁと自分でも感心する。

たいてい、金曜の夜、仕事場を定時にあがって急いで自宅に帰り、用意していたザックをかついで立川か新宿駅に行った。急行アルプスという、特急列車のお古のような車両の夜行列車には、ずいぶんお世話になった。
夜行列車といっても灯りがついたままだし、人の話し声も聞こえてなかなか眠れるものではない。一週間の仕事の疲れがたまっているのに、妙に興奮しているし、リクライニングシートもそれほど楽ではないのである。

登山口の松本、大町、白馬などの駅には、翌朝暗いうちに着く。
駅からタクシーならいいが、バスの場合は始発時刻まで待つことになる。
乗物を降りて歩き始めるのだが、寝不足でいつもフラフラしながら登っていた。登っている途中でどうしようもなくなり、道端で横になって仮眠をとったこともある。一日目の宿泊地(山小屋か小屋近くのテント場)に着くと、早めに夕食をとって、あとはバタンキューである。

一泊の場合は、翌日頂上まで行って、下山して帰宅という、まことにハードな山行を続けていた。体はきつかったが、充実した日々だったなぁ・・・と思う。
なつかしい急行アルプス、まだ走っているのかなぁ。

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2005年10月 6日 (木)

【山】背広姿の登山者

昔話ばかりで気がひけるけれど・・・
背広姿で山道を歩いている夢を、ニ、三度みたことがある。
ふだんの通勤着のまま、鞄まで持って山道をとぼとぼと歩いているのである。何度も通って岩角の一つ一つまで覚えている、例の懐かしい山道。そこを歩きながら、なぜか途方に暮れている自分がいる。どうしてここにいるんだろう、という気分のまま、目が覚める。
あの夢は、いったいなんだったんだろう。

ところが、実際に背広姿で八ヶ岳を縦走して山小屋に到着した人がいるらしい。よく通っていた山小屋の小屋番さんからじっさいに聞いた話だ。
詳しいことは忘れてしまったが、きちんと背広を着て、ネクタイを締め、一見サラリーマン風の風体であらわれたという。足元は、運動靴だったか、登山靴だったか。荷物はビジネス用の手提げ鞄か、さすがにザックを背負っていたのか。そのあたりは聞いたかもしれないが記憶にない。

もちろん、いたずら心からである。
雨具や食糧なども、しっかりと持っていただろう。つまり、まじめな登山者である。
しかし・・・八ヶ岳の稜線を、こんな恰好で歩いている登山者を見たら、誰だってたまげるだろうなぁ。
ぼくは、こういうシャレたことをする人が好きだ。会ってみたかったなぁ。

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2005年10月 5日 (水)

【山】山で出会った人

ひと頃、単独行で北アルプスや八ヶ岳の山々に通った時期があった。
テントか小屋泊まりで、小屋泊まりの場合も自炊だった。
単独行は危険、という人もいるが、ぼくはそう思わない。単独行者は自分の力量を心得ていて、用心深いものである。むしろ、あまり気の合わないパートナーといっしょだったり、無能なリーダーに引率されての登山の方が危険な場合もある。

それはともかく、テント場や山小屋の自炊場で、同じような単独行の人と、初対面ながら打ち解けてしまうことがある。共通の趣味(登山、これは当然)を持ち、似た立場(単独行)で山に来ているから、気が合うと下山後もおつきあいが続くこともある。
おつきあいと言っても、別れ際に住所交換して葉書のやりとりをするくらいで、言ってみれば「淡いおつきあい」である。

ここからが前々回(幌尻岳とカール)に触れた、穂高山行の話の続き。
穂高岳山荘の自炊場で夕食の時に少し話をした人がいる。
翌朝、また顔を合わせて、どちらに下山ですか、などと話しているうちに同じコースだとわかって、なんとなく一緒に歩くことになってしまった。と言っても、あくまでもそれぞれのペースで歩くから、付かず離れず、といった状態だった。
最終的に、岳沢ヒュッテという小屋で休んだ時に、なんとなく椎名誠の話が出て、お互いにシーナ・ファンということがわかり意気投合。その後、上高地からの乗物でもずっといっしょで、あれこれとお話させてもらい、中央線の電車もいっしょ。別れ際に、どちらからともなく住所交換ということになった。

その後、おもに葉書のやりとりだけだったが、相当な数にのぼっているはず。
今は結婚されて二人のお子さんのお母さんになっている。
いまでも、家族ぐるみのおつきあいが続いていて、なんとなく二、三年に一度くらいのペースで顔を合わせる。まことにありがたい友人である。
山で出会った人とは、淡いおつきあいが長く続くことが多い。

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2005年10月 4日 (火)

【山】紅葉と雪

今から15年も前のこと、南アルプスの鳳凰三山を夜叉神峠から北へ、地蔵岳まで縦走したことがある。三泊四日、テントの単独行。
時期は、ちょうど今頃、体育の日に続く飛び石連休。

一泊目、夜叉神小屋のテント場は冷たい雨だった。
二日目、晴れ。南御室小屋のテント場までのんびり歩いてもう一泊。朝起きると、うっすらと雪が積もり、テントはバリバリに凍っていた。
三日目も快晴。砂払岳から薬師岳にかけての稜線は、花崗岩の砂地のような奇妙な地形が続く。甲斐駒、仙丈、白根三山と続く大パノラマが間近に見え、じつにいい山歩きだった。ダケカンバやナナカマドが色づいていた。

観音岳、地蔵岳と歩いて、鳳凰小屋まで下り、最終日のテントを張った。
この小屋のラジオで、北アルプス立山の遭難の報道を聞いた。
立山は北アルプスの北端、富山エリアだから、冷え込みもきつかったらしく、雪の降る中での疲労凍死で何人かが亡くなったのだ。

室堂まで乗物で入れるところだから、ハイキング気分で登れる山ではあるが、そうは言っても3000メートル級の高山。いったん天候が崩れると危険の多い山である。
遭難の直接の原因は思いがけない降雪だったが、聞くところによると衣服が問題だったらしい。亡くなった方に鞭打つようで心苦しいが、この時期、3000メートル級の山で木綿の下着は問題だった。クロロファイバー(ポリエステル系)の冬山用の下着を身に着けていれば、助かったかもしれないのに・・・残念でならない。

紅葉の山も、あんがいと厳しいものなのだ。

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2005年10月 3日 (月)

【山】幌尻岳とカール

テレビをほとんど見ないが、朝はニュースや天気予報を見るためにNHK総合をつけている。今朝の番組で、北海道日高山脈の幌尻岳(ぽろしりだけ)の秋景色が紹介されていた。
ぼくは登ったことがないけれど、日高山脈は北海道にいる頃から憧れの山域だった。
番組では、沢登りの後に到達した幌尻岳の山頂付近の様子が映されていた。
いい山だ。
日高山脈は古い地層なので、山頂付近にカールが残っていて、沼もあり、エゾサンショウウオなどもいるという。ナキウサギも紹介されていた。
ナナカマドの赤と、ダケカンバの黄色がみごとだった。

本州でカールの残っている山として、立山、仙丈岳、赤石岳などが知られている。カールとは、氷河によって削られた半球形の地形である。北アルプスにも、たくさん残っているという。五百沢智也さんの著作「鳥瞰図譜=日本アルプス」(講談社)が詳しい。

穂高連峰の涸沢カールは、紅葉の名所として名高い。
ずいぶん前、秋に訪れたことがある。紅葉の時期にはすこし早かった。涸沢の山小屋は超満員で、雨の中、文字通りすし詰め状態で寝た。翌日は晴れて気持ちがよかった。穂高岳山荘まで登ってもう一泊し、奥穂、前穂から岳沢に下って上高地に戻る、というコースだった。また訪ねてみたい山である。

秋の山には、他にもたくさん思い出がある。続けて書いてみたい。

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2005年10月 2日 (日)

【歩】朝の空気

ウィークデーのクセで、休みの日も朝6時前に目がさめてしまう。
年齢のせいもあるかもしれないが、早起きの毎日である。
朝のひんやりとした空気が心地よい季節になった。
この空気は、山小屋やキャンプ場の朝を思い出させて、なんとなく懐かしい。

ほんの少し前、せいぜい50年か100年前までの生活は、お日さんがのぼる頃起き、日が沈んで暗くなると眠る生活だったはず。夜は、せいぜいランプか焚火の明かりだけ。さっさと寝て、次の日に備える生活。
ぼくの理想(夢かな?)は、山の中でのそんな生活であるが、なかなか実現しそうもない。それでも、夢見ることを続けていれば、何かのきっかけが訪れるかもしれないのだ。
かすかに臭ってくるゴミ焼却場のケムリをかぎながら、そんなことを思っている。

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2005年10月 1日 (土)

【山】山とケイタイ

携帯電話を持つようになったきっかけも山である。
山小屋には無線の公衆電話機を置いているところも多いが、小屋以外の場所から自宅に電話するのは難しい。山に入ってまで電話しなくても、という声もあるが、無事に着いたことを家人に連絡したり、非常時の連絡手段として携帯電話は便利だ。・・・というわけで持つようになった。

携帯電話がよく通じる山域と、そうでないところは当然ある。森林限界以上の高山で麓との距離が短い場所だと、けっこうよく通じる。八ヶ岳の稜線など、東側(小海線側)に町があるためか通話はバッチリ。赤岳や編笠山から東京にかけたことがある。もっとも、通話先までの距離は関係なく、近くに中継アンテナがあれば通じるわけだ。
北アルプスも東側(大糸線側)に町があるから、山頂からでもよく通じる。南アルプスや、(たぶん)東北、北海道の山などは、山域が広く奥深いから、麓までの距離が遠すぎてまず通じないだろう。山奥のキャンプ場などもたいてい圏外である。
富士山頂から試みたことがあったが、まったくダメだった。(その代わり富士山頂には緑の公衆電話機が並んでいて驚いた。)

ガスや風が出ると電波の通りは悪いが、晴天だと街中のように相手の声が大きく聞こえる。たぶん、こちらの声もよく聞こえていることだろう。
「いま、赤岳の頂上。天気良好。360度の大展望。どうだ、いいだろう」などと趣味の悪い電話を、都会にいる友人にかけて悔しがらせたりしたものだ。

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