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2006年3月の42件の記事

2006年3月30日 (木)

【山】谷川岳の花

1989年7月22~23日 谷川岳で撮った花の写真。
7月末という、高山植物の花の時期だった。

890723tanigawa1Tanigawa_flower1Tanigawa_flower8(左から)
ニッコウキスゲ
ホソバヒナウスユキソウ
(至仏山、谷川岳にしか見られない、ミヤマウスユキソウの変種)
ミネウスユキソウ

(下・左から) イワイチョウ タテヤマウツボグサ シナノオトギリ
 タテヤマリンドウ キタヨツバシオガマ
 ウサギギク ミヤマセンキュウ


Tanigawa_flower2Tanigawa_flower3Tanigawa_flower4Tanigawa_flower5Tanigawa_flower6Tanigawa_flower7Tanigawa_flower9         

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2006年3月27日 (月)

【山】谷川岳

谷川岳(たにがわだけ)
群馬県と新潟県の境の三国山脈にある標高1,977mの山。日本百名山の一つ。
もともとは、トマ・オキの二つ耳と呼ばれ、隣の俎品(マナイタグラ)のことを谷川岳と呼んでいた。しかし、国土地理院5万分の1の地図での誤記により、トマ・オキの二つの耳のことを谷川岳と呼ぶようになった。
実際には、近くの一ノ倉沢岳など、周囲の山域を含めて、谷川岳と呼ばれている。トマの耳(標高1,963m)は、薬師岳。オキの耳(標高1,977m)は、谷川富士という別称を持つ。
標高は2,000mにも満たないが、険しい岩壁と複雑な地形、変化の激しい気候であり、一ノ倉沢を始めロック・クライミングのメッカでもある。そのため遭難者の数も群を抜いて多い。
昭和6年(1931年)から統計が開始された谷川岳遭難事故記録によると2005年までに781名もの登山者が遭難死している(エベレストは178人)。 1960年には岩壁での遭難事故で、救助隊が近づけず、災害派遣された陸上自衛隊の狙撃部隊が一斉射撃してザイルを切断。遺体を収容したこともあった。
 ― Wikipediaから ―

tanigawa_ichinokura谷川岳には、1989年の7月末にいちどだけ登った。
土合から天神平ロープウェイを使い、肩の小屋に泊まって、翌日、稜線を北にたどって蓬ヒュッテから西へ、土樽へ下った。

有名な一ノ倉沢は東面にあり、ぼくが歩いたコースからは見えなかったが、稜線から恐る恐るのぞいた東側岸壁は怖かった。
ロッククライミングの真似事ぐらいは、教えてもらってやってみたことがあるが、ぼくには縁遠い世界である。
ただ、谷川の岸壁にひかれるクライマーの気持ちは、よくわかる。

890723tanigawa2左の写真は、谷川の稜線の北にある武能岳あたりから、遠く双耳峰(トマノ耳、オキノ耳)を眺めたもの。
このように、谷川連峰は緑の多いなだらかな山で、高山植物の宝庫でもあった。

この山行には、強い思いでがある。
時期的に花の季節だったから、高山植物をたくさん楽しめたことが一つ。
もう一つは、強烈な雷雨を経験したことだ。

890723tanigawa1989年7月22~23日
谷川岳 (土合~天神平~谷川岳~茂倉岳~蓬峠~土樽)

7/22(土) 10:00 土合駅
10:52 ロープウェイ駅発 11:04 天神平着
11:55 熊穴沢避難小屋(この小屋で休憩後、すぐに雷雨にみまわれて小屋に引き返した)
狭い避難小屋が、人でごったがえしていた。 約40分、雷雨は続いた。
15:45 肩の小屋到着。 この小屋も満員。
さすがに宿泊を断わることはなかったが、小屋番さんは困った顔をしていた。
ぼくが自炊だと言うと、ほっとした顔をしていた(食事も出す小屋だったが、小屋番は一人だけだった)。

山日記には、こう書いてある。
「肩の小屋では、到着がおそい(3時まで?)ということで管理人にしかられる。人は良さそうだが気分屋のようだ。 2階の寝床は超満員で、かろうじて蒲団半分のスペースを見付けてもぐりこむ。 50人はいた。 人が多いのであたたかい」
いま思うと、思わぬ宿泊客の多さに、小屋番さんもパニックになっていたのかもしれない。

翌日、早朝4:25に小屋を出て、谷川岳(トマノ耳)山頂には10分後に着いた。
まさに、肩の小屋で、山頂直下にあったわけだ。
オキノ耳までは、そこから15分ほど。
この頃からガスが出て(上空は晴れだったようだ)、一ノ倉岳あたりでは展望がなかった。
山日記には、「ガスで展望なし。ズボンのひざから下がビショぬれ(朝露、泥)」 とある。
ショートスパッツしか持っていなかったように思う。

高山植物の写真を撮りながら歩き、茂倉岳に8:00頃到着。
武能岳10:10 蓬峠10:50
蓬ヒュッテは、雰囲気のある小屋だった。
谷川岳の稜線には、ドラム缶で作ったような、ほんとうに小さな避難小屋がいくつかあった。

蓬峠から西に下る蓬沢の途中から小雨が降り出し、車道に出た頃には本降りになった。
たたきつけるような豪雨だった。
折りたたみ傘をさして歩いたが、土樽の駅に着く頃にはズボンがびしょ濡れになっていた。

雨にたたられた山行だったが、たくさんの写真とともに、強い印象が今も残っている。
花の写真は、次回、掲載したい。

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2006年3月26日 (日)

【山】尾瀬の写真

むかし撮ったリバーサルフィルムを引っぱりだして、尾瀬の写真をみつけた。
フィルムスキャナーを使ってスキャンしてみた。

1990年6月 尾瀬

Oze_photo5Oze_photo1Oze_photo4Oze_photo6




(2006/4/2写真訂正)
たいへんなことに気づいてしまった。写真が裏表反対だったのだ。
スライド・マウントだったので、裏表がわかりにくく、スキャニングのときに間違えたらしい。
燧岳の形が、なんかへんだなぁ・・・と思っていた。
失礼しました。 差し替えました。       

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【山】尾瀬の花

またいつか尾瀬に行くことがあったら、ゆっくり花の写真を撮りたいと思う。
こんどは夏がいいなぁ・・・。

1990年6月初めに尾瀬を歩いたときの写真。
写真の枚数はすくないけど・・・。
このときは、ミズバショウ、リュウキンカが盛りだった。

oze_flower1oze_flower2oze_flower3oze_flower6



(上) 左から、ミズバショウ、リュウキンカ、ショウジョウバカマ、ミツガシワ。
(下) ヤマザクラ、ムシカリ(オオカメノキ)。

oze_flower5oze_flower4         

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2006年3月25日 (土)

【雑】二代目デジカメ

5年間使ってきた、初代デジカメを壊してしまった。
オリンパスのCAMEDIA D-460ZOOM という、130万画素のものだった。
単3乾電池4本のバッテリーを含めると370グラムで、さほど重くもないのだが、なにしろ図体がずんぐりしていて(厚さ53mm)重量感があった。
もともとデジカメにはそれほどこだわりがなかったので、価格と操作性だけで決めた機種である。

レンズキャップを兼ねた大きなカバーをスライドすることで、電源のON/OFFとレンズが飛び出し/収納されるというメカニズムに不安があった。
現に、カバーをスライドさせても電源が入らないことがあったが、それ以外に大きなトラブルはなかった。

今日の「事故」は、このメカニズムが裏目に出たものとみえる。
カバーを閉じておけばよかったものを、ズームレンズを出したまま、しかもストラップを首にもかけず、手首にも巻かずに持ったまま、自転車を停めたところで、手からすべり落ちた。
下が公園の芝生だったので高をくくっていたところ、どうしても電源が入らなくなってしまった。
ズームレンズは飛び出したままである。
デジカメも、電源が入らなければ、ただの塊(かたまり)。

あきらめきれず、カバーを無理やりはずしてスイッチ部分を見たのだが、これがじつにチャチな作りで、修復不能と判断。
デジカメがないと不便なので、パソコンショップに向かった。
一軒目ではこれといって気に入った機種にめぐりあえず、二件目の店で決めたのが下の機種。

camedia結局、またオリンパスになってしまった。
購入のポイントは、じつはバッテリーにあった。
どうしても単3乾電池を使う機種にしたかったのだ。
長期の旅行や、(最近は行かなくなったが)山に持っていく時、いちばん気になるのがバッテリーなのである。
乾電池なら、どこでも手に入るし、充電タイプの単3乾電池も8本持っている。

じつは、この際、軽量小型タイプ(ポケットに入るくらい)も考えたのだが、バッテリーの点で不合格だった。
デジタル一眼レフを買う気はない(カネもないし、ある程度コンパクトなカメラがいいから)。
単3乾電池を使うタイプとなると、どうしても大きなものになってしまう。

なにしろ急なことだったので、事前調査をしていない。
ならば、カタログを集めてじっくり検討すればよさそうなものだが、欲しいとなるとすぐ手に入れたい性分である。

パソコンショップの店頭で、うじうじと迷っていたとき見つけたのがこのカメラ。
光学10倍ズームというのがすごい。
液晶モニターも2.5型と大きい。
ボディーの大きさもまずまず。
手に持った感じも、単3乾電池4本を使っている割には、さほど重くない。
レンズの口径も大きい。
何よりも、操作性がこれまで使っていたオリンパスの機種と似ていて、ぼくには使いやすそうだった。

価格も3万円台のなかば。
しかも、この店では、デジカメを買えば記録メディアの1GBのものを半額にしてくれるという。
xDピクチャーカードの1GBのものは、1万円以上する。 ・・・半額! この言葉には負けた。

・・・と、まあ、こんな理由で買ってしまったのだが、じつはまだ手元にない。
店に在庫がなく、他の店舗から直接、宅配便で送ってもらう手はずにしたためである。
あさっての夜、届くはずだ。

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【遊】今日の散歩(サクラサク)

サクラが咲きはじめた。
ソメイヨシノ、ヤマザクラ、ヒガンザクラ、・・・身のまわりが桜色にそまってきた。

自転車に乗って、近くの小金井公園へ。

P0603250003P0603250001P0603250004小金井公園への道の途中で見かけた。
シダレザクラとヒガンザクラだろうか。
足もとには、オオイヌノフグリのかわいらしい花も。
今日は、ぽかぽかと暖かい日ざしだった。

P0603250011P0603250010P0603250012小金井公園で。
ヒガンザクラとコブシ。
これまで気づかなかったが、SL(C57)が展示されていた。 柵で囲われていて近くに寄れなかった。
入口に「本日終了」の看板があったので、中に入れる日もあるものとみえる。

このあと、悲しいできごとが・・・。

P06032500175年間愛用してきたデジタル・カメラがこわれてしまった。
左の写真が最後の1枚になった。
ストラップに手を通さずに持っていたデジカメを、公園の芝生の上に落としてしまったのだ。 ズームレンズが出たままの状態がまずかったらしく、電源スイッチ部分が壊れたようだ。
オリンパスのコンパクトタイプで、レンズのふたをスライドすると電源が入って、レンズが出てくるタイプで、以前から電源の入りがよくなかったのだが・・・。
修復不能と判断。 悲しい。
公園で持参の弁当(近所のスーパーで買った稲荷寿司とのり巻き)を食べて、早々に引きあげてきた。
この続きは、次の投稿で・・・。
      

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【山】至仏山

<尾瀬沼を引き立てるものが燧岳とすれば、尾瀬ヶ原のそれは至仏山であろう。>

深田久弥 『日本百名山』 「至仏山」 の冒頭である。
「至仏」という山名のいわれについて、深田久弥は次のように書いている

<おそらく至仏は宛字であろう。 この山の頂から北東へ流れ出る狢沢(むじなさわ)というのがある。 これはムジナ沢ではなく、ムジナッツァワと呼ばれているのは、尾瀬沼の早稲沢がワセッツァワと促音に発音されているのと同様である。 ・・・ 私の友人・・・田辺和雄君は、ある時土地の人がこのムジナッツァワをシブッツァワとも呼んでいるのを聞いた。 ・・・ シブッツァワは渋沢であって、山ではよくある沢の名である。 このシブッツァワの最初の三文字が至仏となったのではあるまいか。>

9005oze1至仏山 (2228m)
尾瀬ヶ原から南西に見える至仏山は、じつにいい形をしている。
(左の写真は1991年6月初め、残雪が見える)

1988年6月22日、快晴。
尾瀬沼キャンプ場でテントを撤収し、尾瀬沼北岸の道をまわって沼尻(ぬしり)を通り、白砂峠をこえて下田代十字路(見晴)に出て、そこから尾瀬ヶ原を南西に向かった。

8806oze4山日記には、途中みかけた花の名前がたくさん書いてある。
タテヤマリンドウ、ミツガシワ、ショウジョウバカマ、チングルマ、ワタスゲ、ヒメシャクナゲ、・・・。
13:30頃、竜宮小屋でひと休み。 山ノ鼻キャンプ場に着いたのは15:00すぎ。

翌日(6/23)も好天。 キャンプ場を5:40に発ち、至仏への登山道を歩く。
森林限界をすぎると、ほとんど直登の急坂。
燧ヶ岳、景鶴山、平ヶ岳、会津駒ヶ岳の展望をたのしみながら、8:00すぎ、高天ヶ原。
ここから遠く、越後駒ヶ岳も見えた。

8806oze_shibutsu8806oze_shibutsu28806oze5至仏山の山頂には、8:30頃着いた。
菓子とコーヒーでゆっくり休憩し、稜線を南へ小至仏山からワル沢ノ頭をたどり、鳩待峠へ。
鳩待峠から山ノ鼻へ戻ったのは14:00頃。
もう一泊し、翌日、鳩待峠経由で下山、戸倉から新宿行きのバスに乗って帰宅した。
いい山旅だった。   

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2006年3月24日 (金)

【山】尾瀬ヶ原

尾瀬の地図を見るとわかるが、東側の尾瀬沼にくらべて西側の尾瀬ヶ原は広い。

尾瀬ヶ原へ入るには、南(群馬県側)の鳩待峠が便利だが、ここはとても混雑する。
一般車両は戸倉止まりだが、戸倉から鳩待峠までマイクロバスが入るので、ミズバショウのシーズンなど、そうとうな人でごったがえす。
鳩待峠から尾瀬ヶ原へは、下りの山道。
水平距離3キロ、高度差150メートル、歩行1時間ばかりで、尾瀬ヶ原の西南端「山ノ鼻」に着く。

oze_hikingozemap山ノ鼻には、山小屋3軒とキャンプ指定地がある。
ぼくが訪れた1988年には、山ノ鼻から至仏山へ登る登山道があったが、崩壊がひどくなったために、その後、閉鎖されたと聞く。
鳩待峠から至仏山へ、約3時間半の登山コースが利用可能。

鳩待峠から尾瀬ヶ原への川筋には、ミズバショウが見られる。
尾瀬ヶ原には無数の池塘(高層湿原の池)が散在し、木道の上を歩く。
山ノ鼻から北東の下田代十字路(見晴)まで、約6キロの道のり。
2時間ほどかかる。見晴(みはらし)には、6軒の山小屋がかたまっている。
また、山ノ鼻と見晴の中間に、竜宮十字路があり、竜宮小屋が建っている。
この小屋には、1991年の6月に泊めてもらったことがある。

arai_yukihitoぼくが尾瀬を訪ねた時期は、花といえばミズバショウぐらいで、尾瀬ヶ原はまだ枯野原だった。ワタスゲ(花期5月~6月初め)、リュウキンカ(花期5月~6月中旬)も、盛りを過ぎていて少ししか見られなかった。

新井幸人さんの写真集 『尾瀬 四季と花』 (偕成社・1989年出版、写真展でサインをもらった)の表紙のように、7月の最盛期にはニッコウキスゲの大群落が見られるらしい。
ヒツジグサ(花期7月~8月中旬)、オゼコウホネ(花期6月下旬~8月)も、池塘を飾る水草である。

1988年6月下旬、ぼくは尾瀬沼北岸をまわって、沼尻(ぬしり)から下田代十字路を経由し、山ノ鼻へと歩いた。
前日(6/21)燧岳に登り、翌日(この日は奇しくも誕生日だった)尾瀬ヶ原をまわって至仏山へ向かったのである。

8806oze_nujiri8806oze_miharashi8806oze_keizuru(写真左から)
沼尻の休憩処
(長蔵小屋経営)
 ここの蕎麦がおいしい。
下田代十字路(見晴)から南西に見える至仏山
北西にみえる景鶴山(けいづるやま)。

<尾瀬ヶ原の北側に景鶴山がある。 これなども平鶴山と書いた文献もあるそうだから、ヘエズルから来たのに相違ない。 ヘエズルは匍いずるのなまったもので、トラヴァースの意である。> (深田久弥 『日本百名山』 至仏山)

8806oze38806oze_ryuuguu8806oze6(写真左)
尾瀬ヶ原から見た燧岳
(写真中)
竜宮から見た至仏山
(写真右)
山ノ鼻の山小屋。

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2006年3月23日 (木)

【山】燧岳

燧ヶ岳(ひうちがたけ)
福島県にある火山。山頂は南会津郡檜枝岐村に属する。
日光国立公園尾瀬地区内にあり、尾瀬を代表する山でもある。
東北地方最高峰 (2356m)。
火口付近には5つのピークがあり、それぞれ、柴安ぐら(しばやすぐら、柴安嵓とも、2356m)、俎ぐら(まないたぐら、俎嵓とも、2346m)の2つが、他所からよく見えるピークであるが、このほかに若干低いミノブチ岳赤ナグレ岳御池岳の3つのピークがある。ただし、登山道があって行くことのできるのは、柴安ぐら、俎ぐら、ミノブチ岳の3つである。俎ぐらには二等三角点がある。登山道は4方向から計5本が存在する。
記録に残る最初の登頂者は平野長蔵で、1889年に仲間らとともに登頂に成功した。
噴火の記録はないが、噴出物の調査及び文献から、約8000年前に山体崩壊を起こして尾瀬沼ができ、1544年頃に溶岩ドームが出現した際に水蒸気爆発が起きて白い粘土が噴出した(直後の同年7月28日に「白ヒケ水」と呼ばれる洪水が起きた)ことが分かっている。
 ― Wikipediaから ―

深田久弥は、「燧岳」と呼んでいる。
<燧という名前は、そのマナイタグラ東北面に鍛治鋏の形をした雪形が現れるからだという。 鍛治すなわち火打である。 それは檜枝岐の方から来て七入橋を渡ると見えてくる。> (深田久弥 『日本百名山』)

8806oze2この雪形は、いわゆる裏燧(燧岳の北側)にあるため、ぼくは見た記憶がない。
いつも、尾瀬沼や尾瀬ヶ原から南面の姿を眺めていたから。
南側から見ると、どっしりと立派な山容である。


1988年6月の下旬、一週間かけて尾瀬を歩き、燧岳至仏山に登った。
当時の山日記を見ると、出発時のザックの重さは28~29キロとある。
テント山行だったので、食料をどっさり持っていたとみえる(帰宅後22キロだった)。
いまなら、こんな重いザックを背負えるかどうか。

6/19(日) 22:45 新宿発夜行バスに乗る。
6/20(月) 早朝4時、大清水に到着。雨だった。
三平峠には9:30頃到着。雨があがり、この峠から北に燧岳の全貌を見ている。
11時過ぎに長蔵小屋に着き、ここでキャンプ場利用の申し込みをした。
この日は、キャンプ場(尾瀬沼キャンプ場)でのんびりすごした。

翌朝(6/21)、テントの中の温度は13℃と、山日記には書いてある。
標高が高いので(尾瀬沼あたりで1700m近い)、この時期でも尾瀬は寒い。
キャンプ場を5:20に発ち、燧新道(長英新道)をたどって、ミノブチ岳に着いたのが7:40頃。
俎嵓、柴安嵓の両ピークを踏んで、往路を戻り、13時過ぎには登山口に戻っている。

燧岳の山頂からは、尾瀬沼尾瀬ヶ原、至仏山がよく見えた。
尾瀬沼のほとりには、長蔵小屋(左から3枚目の写真)、尾瀬沼ヒュッテ、ビジターセンター(右端の写真)がある。

8806hiuchi18806hiuchi28806hiuchi38806ozecenter

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2006年3月22日 (水)

【山】尾瀬「長蔵小屋」

尾瀬沼のほとりに、「長蔵小屋」という古い山小屋がある。

900601oze平野長蔵という人が、いまから百年も前に作った、とても雰囲気のいい小屋だ。
ぼくも、1991年の6月に泊めてもらったことがある。
→ 【山】はるかな尾瀬 (3月18日の投稿)
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_4e5d.html


oze_sandaiki平野長蔵、長英、長靖の山小屋三代については、岩波新書『尾瀬―山小屋三代の記』(後藤允)が詳しい。
すこし長くなるが、wikipediaの「尾瀬沼」の項から引用し、その歴史を紹介したい。

1889年に木暮理太郎が尾瀬を通過。
同年、平野長蔵らが当時処女峰の燧ケ岳の登頂に成功したというのが、比較的古い記録である。
渡邉千吉郎が1894年に残した記録によれば、尾瀬の南にある戸倉村(現在の片品村戸倉)と、北にある檜枝岐村は、江戸時代から尾瀬沼の東岸で交易を行っていた。
小さな小屋を立て、そこに村の特産物を置き、かわりに向かいの村の産物をもって帰ったという。
1890年、平野が尾瀬沼西端の沼尻(ぬじり)に小屋を建てる。
1903年、水力発電所建設計画が明らかになると、平野は沼尻の小屋に定住を始める。
1908年(1910年説あり)には平野が尾瀬沼西端の沼尻(ぬじり)に尾瀬で最初の山小屋、長蔵小屋を建設。その後平野は尾瀬沼の漁業権を取得し、ヒメマスなどの養殖を試みるが失敗した。なお、長蔵小屋は1915年に尾瀬沼東岸に移動した。
1922年に関東水電(現在の東京電力)が水利権を取得。水力発電所建設が計画される。
1934年、日光とともに日光国立公園に指定。1938年、国立公園特別地域に指定。
1944年、取水工事開始。1949年、竣工。尾瀬沼から片品側の三平峠に向けて、水力発電用の水を通すトンネルが完成する。
1949年、NHKが、江間章子作詞・中田喜直作曲の尾瀬を扱った曲『夏の思い出』を放送。この曲により尾瀬は一躍有名になり、多くの観光客が訪れるようになる。
1952年、福島県側で木道の整備が始まる。
1953年、国立公園特別保護地区に指定。
1956年、天然記念物に指定。
1967年、尾瀬沼でのボート、釣りが禁止される。
1970年、尾瀬沼東岸を通り、片品村から桧枝岐村を結ぶ道路(国道401号及び群馬県道・福島県道1号沼田桧枝岐線)の建設が開始されるが、自然保護運動により翌年、計画は中断される。
1971年、尾瀬周辺を通過する奥鬼怒スーパー林道が着工される。なおこの林道は、のちに尾瀬周辺を通らないよう設計変更されて竣工した。
1972年、ゴミ持ち帰り運動開始。翌年までに尾瀬のゴミ箱がすべて撤去される。撤去されたゴミ箱の数は、東京電力関連会社の尾瀬林業が管理していたものだけで1400個。
1989年、尾瀬西端の至仏山登山道のうちの1つが、自然保護を理由に閉鎖される。なおこの登山道は、1997年に供用が再開された。
1999年、福島県側の沼山峠側で乗り合い自動車以外の自動車の乗り入れが禁止され、翌年には群馬県側の鳩待峠でも規制が開始された。


尾瀬の自然保護に命をかけた三代目の長靖(ちょうせい)さんは、昭和46年(1971)12月1日、豪雪の三平峠で遭難死。36歳という若さだった。

これはぼくの意見だが、尾瀬が置かれている立場はアラスカに似ているとに思う。
日本の自然保護の考え方が問われている典型的な地域、という意味で。
この自然を後世に残せるかどうか、それがたいせつなことだ。

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2006年3月21日 (火)

【遊】今日の散歩(みぢかな春)

WBC決勝戦のあいまに、みぢかな春を写真に撮ってきた。

ユキヤナギが満開。
ボケも咲いている。
ヒュウガミズキがたくさん植わっている。
レンギョウの色あざやかなこと。
ジンチョウゲもまだ健在。
コブシ、シモクレン。
アジサイの若葉。
花ざかりの春。 うれしい春。

WBC決勝戦でも、苦労してキューバに勝って優勝。
これも、うれしいな。
ぼくはイチローという選手が好きだが、試合後の彼の笑顔がよかった。

060321yukiyanagi060321boke060321hyuugamizuki060321rengyou060321jintyouge060321kobushi060321shimokuren060321ajisai       

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【読】古本屋と図書館

今日は、BOOK OFFではなく、もうひとつの古本チェーン店 「ブックセンター いとう」 に行ってきた。
BOOK OFFとは、ひと味違う品揃えの店で、たまに掘り出し物があったりする。

ituski_youjyouyanagita_2yanagita_20yanagita_youkaidangi五木寛之『養生の実技』
(角川書店 2004年)
「強いカラダが折れるのだ」という言葉が、五木さんらしくて、いい。

『柳田國男全集』 (ちくま文庫)
新刊では手に入らなくなったものが多いので、うれしい。 第2巻は絶版、第20巻は新本でも入手可能。
『妖怪談義』 柳田国男 (講談社学術文庫)
どれも定価の半額ぐらいだ。

その足で、図書館からおもしろい本を借りてきた。
きのうの投稿で紹介した 『写真でみる日本生活図引』シリーズ(弘文堂)。
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_dac9.html

縮刷版だったので、通勤バス・電車の中でも読めそうだ。
昭和20年代から30年代の、貴重な生活写真(モノクロ)がぎっしり詰まった本だ。

seikatsu1seikatsu2seikatsu3seikatsu4seikatsu5

このシリーズの著者、須藤功さんには、アイヌの民家を建てたドキュメント 『チセ・ア・カラ』 という写真集がある。
試しにGoogleで 「須藤功 アイヌ チセ・ア・カラ」 とキーワードを入れて検索してみて驚いた。
Google http://www.google.co.jp/

ぼくのサイトの記事(下のURL)が検索にひっかかったのだ。
→ 晴れときどき曇りのち温泉 「資料蔵(アイヌ資料)」
http://yamaoji.hp.infoseek.co.jp/k_ainu.html
このページの「アイヌ資料 2」からリンクしているので、ご覧いただけるとうれしい。
   

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2006年3月20日 (月)

【読】ふるさとはふた昔

井上陽水の歌に 「夏まつり」 というのがあった。
♪ 十年はひと昔 暑い夏
  おまつりは ふた昔 セミの声 ・・・
   十年はひと昔 暑い夏
  ふるさとはふた昔 夏まつり ・・・ ♪


ところで、BOOK OFF という古本のチェーン店によく行くのだが、たまに掘り出し物を見つけることがある。

akinau『写真でみる 日本生活図引 3 あきなう』
 須藤功 編 弘文堂 1988.11.10

このシリーズは
 1 たがやす 2 とる・はこぶ 3 あきなう 4 すまう 5 つどう
の4冊。
そのうちの一冊が写真集のコーナーにあった。
定価4200円のものが1600円だったので、迷った末に買った。

昭和20~30年代の暮らしぶりを伝えるモノクローム写真、モノの名前の解説がある。

― この本の序文から ―

<私たちは毎日ほぼ同じような生活を繰返している。 たとえば朝は、起きると蒲団を畳んで押入れにしまい、チューブを絞って歯磨きを歯ブラシにつけ、水道の水を出して・・・、ということを繰返す。 ところでこれが昭和20年代だったらどうだろうか。 おそらく、蒲団を畳んで部屋の隅におき、瓶の蓋を取って歯刷子に歯磨粉を付け、井戸の水を汲んで・・・、となるだろう。 同じ繰返しの朝ではあるが、戦後の昭和20年代と現代とではあきらかに違っている。 ものが変わっている。 他の生活も同様で、こうした変化は昭和30年代の高度経済成長期を境にしている。
普段の生活、正しくはそのための生活用具と環境は、5年や10年では何も変わらない。 しかし100年たつと変わったところが目立つようになる。 それは中世の絵巻物が語ってくれる。 ところが高度経済成長期にはその100年を一気に縮め、激変といってよいほどに変えてしまった。 それは蒲団を畳んで部屋の隅におく、ということにも現れている。 現在の新しい住居では、押入れはかならずあるものと決まっているが、古い民家には押入れのないのが普通だった。 ・・・>

この「あきなう」に載せられた写真は、どれも、ぼくにとってはなつかしい。
ちいさな頃(昭和20年代後半から30年代)にかけて、ぼくが育った環境そのものである。

無断転載であることを承知のうえで、その一部を紹介しよう。

stove「ストーブ各種」 と題された写真。
昭和38年、北海道室蘭市での撮影とある。

ぼくがこどもの頃、こういうストーブを使っていた。
薪ストーブ・・・円筒形のものは知らないが、前方後円型のものを使っていた。
この上で魚を焼いたりもしたものだ。
北海道では、夏でも朝晩は使っていた。
石炭ストーブ・・・鋳物製、石炭をスコップで投げ入れるタイプが写っているが、筒状の石炭容器が付いていて、少しずつ石炭を落とすタイプのものを使っていた。
学校では、大きなだるまストーブを使っていた。
冬の寒い時期、だるまストーブの上に木枠の金網をつるして、弁当を暖めていたものだ。田舎の小学校だったが。

こういう道具(モノ)をなつかしいと感じるのはなぜだろう。
この本が出版されてから20年近くたち、生活はもっと大きく変化したけれど、大切なものを失い続けているような気がしてならない。

<・・・今は水道の蛇口を捻りさえすれば、苦もなく水は出る。 蓄える必要もない。 便利になっている。 だが、汲む、運ぶ、蓄えるということに伴った、数百年の生活の染み込んだものと、それを作る技術をなくした。・・・>

これでいいのかな?
そんな気分になったとき、冒頭の井上陽水の歌を思いだしたのである。

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2006年3月19日 (日)

【遊】春爛漫

爛漫(らんまん)
 (1) 花が美しくさきみだれること
 (2) 明るくかがやくようす
 ― 例解学習国語辞典 (小学館) ―

風が強かったり、にわか雨が降ったり、妙な天気の一日だったが、どこも花ざかりだった。

山茱萸、木蓮、連翹、沈丁花、辛夷、雪柳、猫柳、水仙・・・
(下の写真とは一致しないが)漢字で書くと風情がある。

桃の花が咲いている。
桜の蕾もふっくらしてきた。
春だなぁ。

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2006年3月18日 (土)

【遊】今日の散歩(青梅) 5

青梅の「昭和幻燈館」に多数展示されていた「ジオラマ」は、山本高樹さんという方が作ったらしい。

 山本高樹presents 「模型日和下駄」
 → http://www.hiyori-geta.com/index.html

この博物館で、おもしろいムックをみつけた。

kahuu_mook『荷風!』 日本文芸社 2006年3月

ムックの表紙写真が、この博物館に展示されていたジオラマ。
じつに精密に作られているのが、左の写真からもわかると思う。
めがねをかけた人物は、永井荷風である。

ぼくが買ったのは 『vol.7 特集 神田神保町、御茶ノ水の究極』 だが、他にも 『大人の新宿』 『下町 ―吉原、向島』 『レトロな浅草』 『銀座、有楽町』 『上野 アメ横』 などのバックナンバーがある。

日本文芸社
http://www.nihonbungeisha.co.jp/

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【遊】今日の散歩(青梅) 4

昭和幻燈館

ジオラマ(博物館や映画撮影用のスタジオで、遠近法を応用した実景の小型立体模型)が展示されている。
ひとつひとつが、じつに良くできている。

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【遊】今日の散歩(青梅) 3

青梅の街並みを飾る映画看板群。

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【遊】今日の散歩(青梅) 2

「赤塚不二夫会館」

P0603180018P0603180026ここも面白かった。
赤塚不二夫博物館という感じだが、なぜ青梅に?

― 赤塚不二夫会館のパンフレットから ―
<アッ!この映画看板、懐かしい!新潟の看板屋にいた時に描いていた看板だ。 行ってみたいネ!!> テレビを観ていた赤塚が目を輝かせて声を上げました。 画面には、赤塚不二夫の青春時代そのものといった「哀愁」「第三の男」「駅馬車」等の映画看板が並んだ住吉町の街並みが大きく映っていました。
赤塚不二夫と青梅市住吉町との出会いの瞬間でした。
この度、昭和をテーマに街中に映画看板を掲げて街興しに取り組む住吉町のある青梅市に"昭和の元気の象徴"として『青梅赤塚不二夫会館』がオープンする事になりました。・・・

この映画看板群は、青梅の名物である。
次の投稿で紹介しよう。

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【遊】今日の散歩(青梅) 1

青梅の街は、奥多摩へ行くときによく車で通過するが、歩いてみたことは少なかった。
古い街道の雰囲気がのこる、おもしろい街並みである。
きょうは、駐車場に車をとめて歩いてみた。

以前から気になっている建物があったので、ゆっくり見てみようと思ったのだ。

oume_ticketoume_ticket2「昭和レトロ商品博物館」
「赤塚不二夫会館」
「昭和幻燈館」
この三つを見られる共通入場券。

「昭和レトロ商品博物館」には、なつかしい商品パッケージなどのコレクションが陳列されている。
前に一度はいったことがあった。
そのとなりが「赤塚不二夫会館」で、ここは初めて入った。
通りをはさんだ斜め向かいが「昭和幻燈館」。
ここも、ずっと気になっていたが、入ったのははじめて。

「昭和レトロ商品博物館」

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【山】はるかな尾瀬

尾瀬には4回行った。
1988年から91年にかけて、いずれも6月、水芭蕉の時期。
ニッコウキスゲや草紅葉の尾瀬もよさそうだが、残念なことに、その後訪れていない。
「はるかな尾瀬」 になってしまった。

oze1oze2ze3― 深田久弥 『日本百名山』 から ―
尾瀬という名の由来については、小暮理太郎氏の委しい考証がある。 寛文六年(1666年)に編纂された『会津風土記』に小瀬沼とあるのが文献の最初だそうである。 それより約二十年前の正保図には「さかひ沼」と記されていたという。
尾瀬沼は会津と上州の国境線が湖上を通過しているので、、「さかひ沼」の称があったのであろう。

高層湿原である尾瀬には、東側の尾瀬沼と西側の尾瀬ヶ原の二つのエリアがあり、尾瀬沼の北に燧岳(燧ヶ岳)、尾瀬ヶ原の南西に至仏山がある。
またいつか訪れてみたいと思う、いいところだ。

尾瀬への入口(入山口)は、
・片品村(群馬県)の奥の「鳩待峠」
・片品村(群馬県)の奥の「大清水」
・檜枝岐村(福島県)の奥の「沼山峠」
の三ヶ所がよく利用されている。

ぼくの尾瀬探訪歴。

・1988.6.19(夜行バス)~6.24
 大清水~尾瀬沼(テント泊)~燧岳(往復)~尾瀬ヶ原(テント泊)~至仏山(往復)~鳩待峠
・1989.6.3(夜行バス)~6.4
 鳩待峠から尾瀬ヶ原散策(当時の会社の人たちと)
・1990.5.31(夜行バス)~6.3
 沼山峠~尾瀬沼(テント泊)~尾瀬沼一周~沼山峠(妻と二人で)
・1991.6.1~6.3
 鳩待峠~尾瀬ヶ原(竜宮小屋泊)~尾瀬沼(長蔵小屋泊)~沼山峠(妻と二人で)

深田百名山の燧岳と至仏山には、一回目の探訪のときに登っている。
山登りに燃えていた時期だったので、ずいぶんパワフルなテント山行をしていたものだ。
この頃、夜行日帰りで北アルプスに通い始めたり、いちばんたくさん山に行っている。

燧岳と至仏山については、あらためて書きたい。

そういえば、これより何年か後だったと思うが、車で檜枝岐から沼山峠まで行ってみたことがある。
檜枝岐には「会津駒ヶ岳」という、深田百名山にも選ばれているいい山があるが、その登山口まで車で登ってみた。何度か計画しながらこの山に登れなかったのは、今もって残念である。

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2006年3月17日 (金)

【遊】ドームシティの温泉

自分からはまず行かないだろう、というところへ行ってきた。

東京ドームシティ
http://www.tokyo-dome.co.jp/

いちおうサラリーマンなので、会社の福利厚生の一環として年に一度の職場レクリエーションというやつがあるのだ。
これまで、ボーリング大会、大江戸温泉、ディズニーシー、サーカスの観覧、なんてのがあった。
今夜は、仕事の後、水道橋にある「東京ドームシティ」というところへ、みんなで出かけた。

後楽園球場が東京ドームになってから、ぼくはほとんど足をはこんだことがなかったエリアだ。
すっかりさま変わりしていて、驚いてしまった。

どうも、こういうにぎやかなところは苦手なので、「東京ドーム天然温泉(Spa La Qua)」という温泉に入り、食事をしただけで引き揚げてきた。

La Qua (ラクーア)
http://www.laqua.jp/spa/

domecityspalaquaこの温泉、なかなかおもしろかった。
じつは、入るまではここが「天然温泉」と知らず、ほとんど期待していなかったのだが、入ってみるとお湯はたしかに「黒湯」だった。
なめてみると、そうとうしょっぱかった。
ビルの中の温泉施設だから、風情はないが、お湯はよかったなぁ。
料金が2,565円と、べらぼうに高いので(こういう場所のこういう施設なら仕方ないのかも)、自腹ではまず行かないだろうが・・・。
営業時間は、午前11時から翌朝9:00までだそうだ。
 ※深夜割増料金(24:00~翌6:00に在館) \1,890
終電に乗り遅れたら、こういうところで一晩すごすのもいいかもしれない。

今夜は、隣の東京ドームで若者向けのコンサートがあったらしく、帰り(午後9時過ぎ)の、水道橋駅周辺はたいへんな混雑だった。
「KAT-TUN SPECIAL 東京ドーム CONCERT」・・・これだ。
よく知らないけど、とにかく若者がわんさといたなぁ。

それはそれとして、今朝、JRの駅できれいなパンフレットをみつけた。
明日は、青梅に行ってみようかと思っている。

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2006年3月15日 (水)

【山】那須岳

那須岳(なすだけ)
日光国立公園内、栃木県那須町にある複数の火山の総称。
現在も蒸気と火山ガスを盛んに噴出しているハゲ山の茶臼岳(1897m、山自体の最高地点は1915m)、切り立った岩壁上の朝日岳(1896m)、緑に包まれた三本槍岳(1917m)等がある。
茶臼岳以外の山はすでに噴火活動を終えている。
火山特有の広い裾野を持っており、この広い那須野を超えると東北(みちのく)である。

茶臼岳には頂上のすぐ下までロープウェイが設置され、訪れる観光客も多い。
サンダル履きの人や日傘を差して山頂を歩いている女性を見かけるが、これは危険である。
この山はごろごろした火山礫でできており歩きづらい上、風が強く天候の急変によるロープウェイの運休も多い。
運が悪いと下りは歩いて帰らなくてはならないことさえあるので、ロープウェイを使う時でもそれなりの装備であがったほうが無難。
 ― Wikipediaから ―

那須岳(茶臼岳)に登ったのは確かだが、正確な日時をおぼえていない。
登った、というよりも、観光客として足をはこんだ、と言う方がよさそうだ。

20年も前のことだ。
仕事仲間と、那須の保養所へ行ったことがある。
ワゴン車を借りて、6人ほどで一泊か二泊の小旅行だったが、その帰途に立ち寄ったのだ。

ロープウェイで、かなり上まで登ることができ、そこから歩いてもさほど時間はかからない。
たくさんの観光客にまじって、ぞろぞろ歩いていった。
火山だから歩きやすくはないが、普通のかっこうで頂上まで行ける。
下りはロープウェイを使わずに歩いて下りた。
登頂の感激はなかった。

深田久弥の 『日本百名山』 でも、那須の歴史や那須岳の地誌を書いているだけで、深田久弥自身の登山記は、珍しく何もない。

kuusatsu_hyakumeizan『空撮 日本百名山』 (山と渓谷社) という、いいガイドブックがある。
この本で、那須岳の航空写真を見た。
茶臼岳、三本槍岳、朝日岳と、なかなか堂々とした山容なのだ。

山は、やはり静かに歩きたいものだ。
ロープウェイもありがたいが、誰でも登れるようになってしまった山は、つまらない。
ロープウェイで中腹まで行くことができても、そこから先は山歩きの世界、というのがいい。
那須岳(茶臼岳)は、そういう意味で残念ながら失格である。

大雪山の旭岳、黒岳もロープウェイを使って気軽に登れるが(天候さえよければ)、あそこの山の上は別世界なので、まだいいと思う。
ぼくなりの基準として、普通の革靴で頂上まで行ける山は、観光地のようでよろしくない。 登山靴とまでは言わないが、せめてスニーカーか長靴じゃないと頂上まで行けないような山が望ましい。

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2006年3月14日 (火)

【歩】沈丁花、望月

職場のある錦糸町の駅から南へ歩いていく途中に、沈丁花が咲いている。
首都高の下の、無粋なフェンスに囲まれた空き地。
誰が植えたのか、沈丁花の株がたくさんある。
写真を撮りたいのだが、通勤路で人目もあるし、職場の同僚に見られるのもいやなので、撮れずにいる。

jintyougeその代わり、というわけでもないが、一年前(2005.4.9)に撮った写真。
前に住んでいた団地の、わが家の目の前に咲いていたもの。
沈丁花や金木犀の花の香りは強いのであまり好きではないが、通勤路に咲いている沈丁花の香りは、春の近づいていることを感じさせてくれて、好もしい。



ジンチョウゲ 【沈丁花】
 常緑低木 雌雄異株
樹高 1-1.5m 花期 3-4月 特徴 日当たりを好み乾燥と過湿を嫌う 原産地 ヒマラヤ
和名のジンチョウゲは、花の香りを沈香(じんこう)と丁字(ちょうじ)の香りになぞらえたことに由来する。
室町時代中期に雄株のみが渡来し広く植えられてきたが、近年、雌株が導入されて赤い実をつけている。
(小学館 『ポケットガイド4 庭木・街の木』 より)

ところで、今夜は月齢15.1、つまり満月だが、ぼくは「もちづき(望月)」ということばの響きが好きだ。
(文字としては、満月の「満」の字の方が好きだが。)
『理科年表』 にも、朔、上弦、望、下弦、ということばが出ている。
「朔(さく)」も、いい感じのことばだ。

きのうも今日も、朝晩はよく冷えて、星空である。
近視なのでよく見えないが、東京でも星はたくさん見えるのだ。

そういえば、今朝の通勤電車の車窓から、南西の方角に丹沢の山なみと富士山がくっきりと見えた。
どちらも雪をかぶっていた。

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2006年3月12日 (日)

【遊】今日の散歩(小金井公園) 5

小金井公園の梅林も、なかなかみごとだった。
公園の東側一角が、ちょっとした梅林で、これまで気づかなかった。

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【遊】今日の散歩(小金井公園) 4

小金井公園の江戸東京たてもの園。
入口のビジターセンターのロビーでは、「小金井桜今昔写真展」という催しが開かれていて、これもおもしろかった。 こちらは無料。3月19日(日)まで開催。

sakura_pamphlet0603120063今から約350年前(江戸時代前期)、江戸市中への給水路として掘られた玉川上水。 そのほぼ中ほど小金井橋を基点に、上下6キロの両岸にヤマザクラが植えられてからはや270年。 歌川広重や葛飾北斎が描き、国木田独歩や田山花袋が綴った名勝小金井桜。・・・
(『名勝小金井桜の今昔』紹介文から)

この写真展には、今のサクラの写真がたくさんあった他、昔の絵葉書(モノクロ写真にカラー彩色したもの)の複製も展示されていた。
往時の写真を見ると、このあたりが桜の名所だったことがよくわかり、花見の賑わいはそうとうなものだった。
ヤマザクラは今も健在で、4月になればみごとな桜街道になる。

小金井公園の園内には、ソメイヨシノの古木が数多く植えられていて、こちらもみごとなものだ。
満開のサクラの写真を紹介できる日も、もう間近である。 

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【遊】今日の散歩(小金井公園) 3

小金井公園の続き。
江戸東京たてもの園の展示室では、おもしろい催しものをやっていた。

kurashi_pamphlet「できゆくタワーの足もとで 昭和30年代のくらし」
特別展 (平成17年11月23日~平成18年3月26日)

昭和30年代という時代は、新しい時代の訪れを予感させる建物や道具が次々に登場した夢と活気にあふれる時代でした。 そして、できゆく東京タワーの足もとには、「人のぬくもり」や「物のぬくもり」に支えられた「町」の原風景が息づいていたのです。・・・
(パンフレットから)

生活用具やおもちゃなどが展示されていて、楽しかった。
昭和20年代後半うまれのぼくとしては、懐かしいものばかりだった。


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【遊】今日の散歩(小金井公園) 2

小金井公園への散歩の続き。

06031200200603120022公園にはいると、ヒガンザクラ(別名:カンヒザクラ=寒緋桜)がほころびかけていた。
うれしい。
サクラの花が好きだから、こういう色を見るとわくわくする。

06031200310603120036入園料400円を払って、江戸東京たてもの園にはいった。
ウメの季節だ。
梅林よりも、こんなふうに建物のまわりに植えられたウメの方がいい。
写真左は、建築家前川國男邸の裏。
右は、旧自証院霊屋(おたまや)という立派な廟の横に咲いていた。


060312004306031200410603120042きょうのお昼は、園内の休憩処二階のうどん屋さんで。
武蔵野うどん、おいしかったなぁ。





0603120054高橋是清邸の裏庭に咲いていたアセビ。
この裏庭は、ミニチュア版の復元ながら、いい雰囲気だ。
高橋是清邸は、内部一階のお座敷でそば・うどんなどの軽食を食べさせる店が入っているが、きょうは、休憩処のうどんにした。       

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【遊】今日の散歩(小金井公園) 1

いい陽気だったので、南風がすこしあったけど、小金井公園まで歩いて往復してきた。
片道2キロほどあるので、いい運動になった。
昼前に自宅を出て、4時間ほどの散歩。
写真をたくさん撮ったので、分けて掲載したい。

0603120006060312001406031200150603120016







小金井公園までは、玉川上水沿いの五日市街道を歩く。
車の往来は多いが、遊歩道が広いので気持ちのいい散歩道だ(写真左)。
あたらしい発見があった。
五日市街道沿いにあった古いお寺(写真左から2枚目)。
小さな社もあった(3枚目)。
小金井公園西の交差点にあった古そうなお屋敷(4枚目)。
江戸東京たてもの園に置いてもいいような、由緒ありそうな建物だった。

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【山】北海道の山

guidebookkuusatsu_hokkaidou北海道には20歳ぐらいまで住んでいた。
山登りをしていたのは、その間のわずか2年間ほどだった。

表大雪、十勝連峰、芦別岳、暑寒別岳・・・登ったのはこれだけだ。
登りたかった山はたくさんある。
トムラウシ山、東大雪(石狩岳、ニペソツ)、利尻岳、斜里岳、知床の山々、日高山脈などは、いまでも登ってみたいと思っている。

写真左
『北海道 山のガイド』 (昭和44年・北海道撮影社)
高校生の時に買ったガイドブックをまだ持っている。
表紙の写真は利尻岳(利尻山)だが、写っている人物のザックが時代を感じさせる。

写真右
『空撮登山ガイド8 北海道の山編 利尻・知床・大雪』 (山と渓谷社)
これは、新版が出ているはず。

北海道の山は、本州でいえば南アルプスや、東北の山々(登ったことはないが)のような、ゆったりとした大きさを感じさせる。
トシをとって、もしも北海道に住まいを移すことがあったなら、ゆっくりとまわってみたい。
そんな日がいつかくることを願いがら、遠い北海道を思い、くらしている。

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2006年3月11日 (土)

【山】大雪山(続々)

1984年、大雪山を歩いたときの写真があった。
「お鉢平」と呼ばれる大きな噴火口を囲む、凌雲岳、北鎮岳、烏帽子岳、さらには、愛別岳、白雲岳などたくさんのピークの写真だ。
凌雲岳、烏帽子岳、愛別岳は、一般登山道からはずれているため、登る人は少ない。

8407daisetsu18407daisetsu28407daisetsu_aibetsu8407daisetsu_eboshi




写真は、上左から
1. 黒岳山頂から黒岳石室への道(右奥が石室)
2. 凌雲岳(桂月岳から)
3. 愛別岳(黒岳石室から)
4. 烏帽子岳(石室付近から)

下左から
5. 7/23の朝4:05日の出
6. 北鎮岳(石室付近から)
7. 比布岳(北鎮岳分岐から)
8. 白雲岳(石室付近から)

8407daisetsu38407daisetsu_hokuchin8407daisetsu_pippu8407daisetsu_hakuun
   

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【山】空から見た北海道の山

飛行機に乗るときは窓際の席にすわって下界を見るのが好きだ。
晴れていれば山が見えたりして、あれはどこの山かな、なんて思いながら眺めている。

040505_1040505_2










2年前の春の連休、旭川空港を飛びたった飛行機の窓から見えた山。
旭川空港は、東神楽町の高台にあって見晴らしがいい。
離着陸する飛行機は、空港の上空で大きく旋回するので、晴れていれば大雪、十勝連峰がよく見える。
ただし、旋回しているためにどんどん景色が変化するから、山座同定はむずかしい。
とにかく夢中でシャッターを切っていたので、できあがった写真から判断するしかない。

左の写真は、大雪連峰ではないかと思う。
右端が旭岳、左に続く稜線は、比布岳から永山岳、愛山渓温泉へと続く山々のように思うが、どうだろうか。
右の写真は、十勝連峰だろうか。
ほぼ中央に見える、いちばん高いピークが十勝岳だとすると、右端は富良野岳、前富良野岳あたりか。
十勝岳から左に、美瑛岳、美瑛富士と続き、写真の左端がオプタテシケ(写真では全容が見えないが)。
こんなふうに考えているが、どなたか詳しい方がいらしたら教えていただきたい。

飛行機の窓から見た山なみで、これまで最高だったのは、羽田から伊丹へ向かう早朝便から見えた南アルプス連峰だ。
冬か早春の、雲ひとつない快晴の日だった。
たまたま進行方向右側の窓際の席だったのがラッキーだった。
まるで模型を見るように、ひとつひとつの山がくっきりと見えた。
南アルプスの南部は詳しくないので自信がなかったが、塩見岳から北は土地勘があるので、山座同定しながら心ゆくまで眺望を楽しんでいた。
御岳、中央アルプス、八ヶ岳、北アルプスなども見えていたと思う。
出張で乗った飛行機だったし、まさかそんなことがあると思わないから、カメラを持っていなかった。
惜しいことをしたものである。

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2006年3月10日 (金)

【山】十勝岳(続)

じぶんでも「物持ち」がいいと思う。
高校生のときに使っていた、国土地理院の五万分の一図を、まだ持っている。

8国土地理院 五万分の一地形図
 旭川8号 十勝岳
 (昭和37年3月30日発行)
「許可なく複製を禁ずる」 とあるけれど、載せてしまおうかな。

この地図の右上にあるのが「オプタテシケ山」、オプタテシケと美瑛岳の暗部に手書きで小屋のマークのあるのが、美瑛富士避難小屋である。
この避難小屋が今どうなっているか知らないが、当時(山岳部の春登山で利用した昭和44年当時)はかなり老朽化していた。

ところで、深田久弥の 『日本百名山』 には
<主峰に十勝岳という名が固定したのは明治二十年代であろうと思われる。明治二十五年(1982年)の記事によると、それより数年前実際に頂上へ登った人の話としてこう書いてある。「オプタテシケと称するは唯に一峰を指せる語に非ずして、トカチ川水源なるトカチ岳より、・・・(中略)・・・これで見ると今の十勝連峰のことを昔はオプタテシケと呼んだと思われる。>
とある。

オプタテシケは、アイヌ語の「オ・タ・テケ(op-ta-teshke 槍が・そこで・はねかえった)」で、屈斜路湖の近くにも「オプタテシケヌプリ」という山がある (山田秀三 『北海道の地名』 草風館)。
山の神々の恋争いで、投げつけられた槍がそれてはねかえった、という言い伝えがあるそうだ。
とても興味深い話なので、アイヌ神謡などを少し調べてみたいと思っている。

また、『日本百名山』には、美瑛(びえい)の地名の語源として「ピイエ」というアイヌ語があげられている。
松浦武四郎が初めてこの地へ来て、十勝岳に源を発する今の美瑛川の水を飲もうとしたところ、アイヌが「ピイエ、ピイエ」と叫んで止めた。
それは、ピイエ(油ぎっている)、つまり、十勝岳に噴く硫黄が混じっているから飲めない、ということだった。
知里真志保 『地名アイヌ語小辞典』 にも、piye=油こい・油ぎった、とある。

講釈が長くなったが、次回は、空から見た北海道の山について書いてみたい。

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2006年3月 8日 (水)

【山】十勝岳

十勝岳(とかちだけ)は、北海道の石狩山地にある十勝連峰の主峰で、標高2077mの山。
活発な活動を続ける活火山で、昭和63年の大爆発により平成2年まで入山禁止となった。
周辺には、前富良野岳(1,624m)、上ホロカメツトク山(1,887m)、美瑛岳(2,052m)、美瑛富士(1,881m)、辺別岳(1,840m)、オプタテシケ山(1,858m)の火山が並んでおり、複雑な火山群を成している。
どちらかといえば安山岩質。
 ― Wikipediaから ―

十勝岳は、麓から眺めることが多かった。
というのも、母方の実家が美瑛という十勝連峰の麓の町にあったから。
ちいさい頃から、この山は何度も見ていたはずだが、登ってみたいと思ったことはなかった。

高校1年生の夏、学校の集団登山で大雪山に登り、山登りの魅力にとりつかれた。
高校2年になって、山岳部に入部した。
一年おくれの新入部員である。

山岳部にはいって、最初に登ったのは、神居古潭にある神威山という低山(799メートル)。
その次に連れていかれたのが、5月の連休だったと思うが、残雪期の十勝連峰。
いま思うと、新人をいきなり残雪期の高山に連れていくという、思いきったことをする高校山岳部だった。

美瑛からバスで望岳台に入り、そこから残雪の上を、美瑛岳と美瑛富士の鞍部に向かったと思う。
目指したのは、美瑛富士の麓にあった非難小屋。

装備は、部の備品のキスリング(ザック)、大きなピッケル(まるでツルハシのようなサイズで、ウッドシャフトだった)、足もとは、これだけは自前のキャラバンシューズ。
衣類も、学生ズボンを改造したニッカボッカー、ウールの靴下、たぶん木綿のシャツ、そしてチョッキ。
スパッツをつけていたかどうか。
つけていたとしても、ショートスパッツだっただろう。
足はびちょびちょである。

今からは信じられないような(5月の残雪期登山としては)、軽装備である。
ピッケルも、ただの杖でしかなかった。
なかば根性だけで、へとへとになって、非難小屋に飛び込んだおぼえがある。
日も暮れていて、非難小屋も満員。
寝袋に入り、その上にテントを広げて寝たように思う。

翌朝、よく晴れて、美瑛富士までピストンし、その後、オプタテシケのピークまで行った。
この記憶は鮮烈である。
あの頃、山岳部の先輩(といっても、2年生だったぼくより1年上の3年生)が、とても頼もしく思えた。
けっして無謀な計画ではなかったと思う。
(小屋への到着時刻が予定よりも遅くなったのは、彼らの計算外だったかもしれないが)
ああいう山登りを教えてくれた先輩たちに、今では感謝している。

十勝岳のピークには、その翌年だったか、友人と二人で十勝岳温泉から縦走して登ったと思う。
天候も悪く、眺望がまるでなかったことと、十勝岳の山頂がとても狭かったことしか憶えていない。

しかし、十勝連峰は大きくて、いい山である。
主峰の十勝岳は活火山で瓦礫の山だが、美瑛岳や美瑛富士、富良野岳あたりは、緑も多くて好きだ。
オプタテシケもいい山だ。
いつかまた、歩いてみたい山である。

map

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2006年3月 7日 (火)

【山】大雪山(続)

大雪山系には何度も登っているはずだが、高校山岳部のときの山日記も残っておらず、当時の写真もどこかに行ってしまった。

ぼくの記録(山日記)にあるのは、高校卒業後15年ほどたって、東京から北海道に帰省したおりに登ったときのものだ。

940723いきなり若い頃の写真で恐縮だが、この年は記念すべき年だった。
黒岳の標高(1984メートル)と同じ数字の1984年。
その年は 「黒岳標高年」 と呼ばれていた。

― ぼくの山日記から ―
1984年7月22日~23日 大雪山(黒岳~旭岳温泉)
7月22日 晴れ
 美瑛 6:52 旭川 7:33/8:00 (道北バス)
 層雲峡 9:48/10:20 (ロープウェイ)
 5合目 10:27/11:00 (リフト)
 7合目 11:15/11:25 (入林届)
 黒岳頂上 12:43 (ガス)/13:10
 黒岳石室 13:40 (泊り 1,000円)

この日は、近くの桂月岳まで足を延ばしている。
黒岳石室は、素泊り小屋。

翌日も晴れた。
朝、黒岳山頂で撮ったのが上に掲載した写真。
北鎮岳の「千鳥」形の雪田(雪形)がみごとだった。
その北鎮岳の山頂にも登り、中岳温泉という天然の露天風呂(施設も何もなく、自分で掘る山中の温泉)にも寄り、旭岳山頂を迂回して姿見ノ池まで下ったようだ。
なぜ旭岳山頂を目指さなかったのか、謎であるが、ガスが出ていて眺望がなかったせいかもしれない。

940723
大雪山には、たくさんのおもいでがある。
桂月岳、愛別岳、北鎮岳など、あまり人が登らないピークにも登った。
黒岳石室、旭岳石室、白雲岳避難小屋、南の方の忠別岳避難小屋など、ひなびた山小屋もなつかしい。

高校山岳部(高校2年から3年にかけて在籍)の頃、部員なかまとテントを張って登ったこともあったし、春の残雪期に、黒岳の北斜面でツェルトを張って野営したこともある。

生きているうちに、また訪ねてみたいし、まだ行ったことのない東大雪やトムラウシにも行ってみたいものだ。

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2006年3月 6日 (月)

【山】大雪山

大雪山(だいせつざん、たいせつざん)
北海道中央部にそびえる火山群の名称。
全国的には「だいせつざん」と呼ばれることが多いが、北海道ではまず間違いなく「たいせつざん」と呼ばれる。先住民・アイヌは「ヌタップカウシュッペ」と呼び、信仰の対象としてきた。
一つの山ではないことを明確にするため、大雪山系という呼称もしばしば使われる。

狭義の大雪山は、以下の山などから成る石狩川と忠別川の上流部に挟まれた山塊をさす。
旭岳(2,290m) - 最高峰
北鎮岳(2,244m)
白雲岳(2,230m)
愛別岳(2,112m)
北海岳(2,149m)
黒岳(1,984m)
赤岳(2,078m)
緑岳(2,019m)-別名:松浦岳
 ― Wikipediaから ―

深田久弥が 『日本百名山』 に書いているのは、主峰旭岳から黒岳へのコースをたどった山旅である。
勇駒別(湧駒別)温泉から旭岳に登った後、裾合平、沼ノ平を経て、いったん愛山渓温泉まで下ったのかもしれない。
愛山渓温泉から、永山岳、比布岳、黒岳、烏帽子岳、赤岳を経て銀泉台へというコースだったようだ。

<私が旭岳の頂上に立った日は絶好の秋晴れで、大雪・十勝・石狩の連山はもちろん指呼のうちにあり、遠く、阿寒・知床や、天塩や、夕張や、増毛や、北海道の主な山をほとんど眺めることが出来た。>

<愛山渓もひなびた温泉である。そこから永山岳、比布岳を越えて、大雪の第二の高峰北鎮岳へ道が通じているが、その途中から見た愛別岳の荒々しい姿も印象的である。>

これほどの天候、眺望に恵まれるのはまれである。
大雪山は、高校山岳部当時のホームグラウンドだったから何度も登っているが、これほど眺望に恵まれた記憶はない。

map 深田久弥も書いているように、この山系の古い名前はアイヌ語である。

<大雪山という名はいつ頃からついたかはっきり知らないが、もとはヌタクカムウシュペと言った。(中略)
古い五万分の一の図幅にも、ヌタクカムウシュペを主にして、大雪山は括弧の中に入っていた。 (略) 青函連絡船に大雪丸があり、急行列車が大雪号と呼ばれ、大雪国立公園が広く宣伝されるようになっては、アイヌ名は次第に影をひそめて行くばかりだろう。北海道の山名にアイヌ語が存在することは、私たち古典主義者には大変なつかしいのだが、時世の勢いは如何ともしがたい。>

知里真志保の説によれば、「ヌタカウ」が正しいという。
山田秀三『北海道の地名』(草風館)に、次の記述がある。
<石狩川筋一帯の上手に聳える大雪山の名はヌタクカムシュッペのような形で呼ばれて来たが、知里博士はいつも「それは違う。自分がアイヌ古老から聞いた名はヌタカウペだ」といっておられた。>
nutap-ka-ush-pe(川の湾曲部内の地・の上に・いつもいる・もの)の義であるという。
アイヌ語地名というのは即物的であるが、地形の特徴を言いえて妙だ。

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2006年3月 5日 (日)

【山】深田百名山

たまには「山」の話でも書こう。
といっても、現役から遠ざかって久しいので、どうしても思い出を語ることになるが。

このブログでよく引用している「Wikipedia」という百科サイトがおもしろい。
きょうは、「日本百名山」を調べてみた。

『日本百名山』 (にほんひゃくめいざん)
登山家/文筆家深田久弥の著書名。1964年刊行。日本列島の山から百座選び、夫々の山を主題として百の随筆を記したものである。

hukada_hyakumeizan一部の人(山歩きが好きでかつ読書家)以外には、ほとんど知られることもなかったこの『百名山』が人口に膾炙するようになったのは、徳仁親王の愛読書であることが報道されたのがきっかけと言われる。皇太子は自身が日本山岳会会員でもあるほどの登山愛好家であり、『百名山』の各峰を登頂することを夢としていると伝えられた。

おりしも、1980年代頃から中高年の登山ブームが起こっていた。登山といってもロッククライミングを含むような本格的なものではなく、ハイキング・トレッキング的な山行だが山小屋や登山道の整備、登山用具の性能向上によって、以前は難路とされた山が登攀可能になっていた。このような状況下で、深田久弥の『百名山』が読まれるようになっていった。登る山を『百名山』から選ぶ人も増えてきた。 さらに徳仁親王に倣って『百名山』にとりあげられた山々を全山登頂する事を目的にする者も多く現れた。

その後、『百名山』ブームにあやかってか、日本二百名山・日本三百名山、あるいは各地の百名山・花の百名山などさまざまな名山一覧が登場している。

― 以上、Wikipediaから ―

深田久弥の「百名山」は、山岳エッセイとして読まれるべきものだと思う。
深田が選んだ山名だけに着目し、それに登ることを目標にしている「百名山ブーム」は、おかしい。
亡き深田久弥も苦笑していることだろう。
ぼく自身、百名山登頂を目標にしようと思っていないし、まず無理だと思うが、日本中の山に登りたいという夢はあるから、ここに選ばれた山は、やはり気になる。

深田久弥の百名山
地域分類はWikipediaによる(ちょっとおかしいとは思うが)。
山名と数字は、深田久弥 『日本百名山』 による。

【北海道】
1.利尻岳 2.羅臼岳 3.斜里岳 4.阿寒岳 5.大雪山 6.トムラウシ山 7.十勝岳 8.幌尻岳 9.後方羊蹄山
【東北】
10.岩木山 11.八甲田山 12.八幡平 13.岩手山 14.早池峰 15.鳥海山 16.月山 17.朝日岳 18.蔵王山 19.飯豊山 20吾妻山 21.安達太良山 22.磐梯山 23会津駒ヶ岳 24.那須岳 25.魚沼駒ヶ岳 26.平ヶ岳 27.巻機山 28.燧岳
【関東】
29.至仏山 30.谷川岳 31.雨飾山 32.苗場山 33.妙高山 34.火打山 35.高妻山 36.男体山 37.奥白根山 38.皇海山 39.武尊山 40.赤城山 41.草津白根山 42.四阿山 43.浅間山 44.筑波山 71.丹沢山
【中部山岳】
45.白馬岳 46.五竜岳 47.鹿島槍岳 48.剣岳 49.立山 50.薬師岳 51.黒部五郎岳 52.黒岳 53.鷲羽岳 54.槍ヶ岳 55.穂高岳 56.常念岳 57.笠ヶ岳 58.焼岳 59.乗鞍岳 60.御嶽 61.美ヶ原 62.霧ヶ峰 63.蓼科山 64.八ヶ岳 65.両神山 66.雲取山 67.甲武信岳 68.金峰山 69.瑞牆山 70.大菩薩岳 72.富士山 73.天城山 74.木曽駒ヶ岳 75.空木岳 76.恵那山 77.甲斐駒ヶ岳 78.仙丈岳 79.鳳凰山 80.北岳 81.間ノ岳 82.塩見岳 83.悪沢岳 84.赤石岳 85.聖岳 86.光岳 87.白山
【西日本】
88.荒島岳 89.伊吹山 90.大台ヶ原山 91.大峰山 92.大山 93.剣山 94.石鎚山 95.九重山 96.祖母山 97.阿蘇山 98.霧島山 99.開聞岳 100.宮ノ浦岳

赤字が、ぼくが登ったことのある山。
数えてみると33座だから、三分の一か。
こうしてみると、あまり足を運んでいない山域が一目瞭然で、面白いものだ。

ひとつひとつの山に登ったときのことを書いていけば、ブログの格好のネタになりそうだ。
ぼちぼち書いてみようかな、と思っている。

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【読】岩波ジュニア新書

岩波ジュニア新書(岩波書店)には、いい本がある。
書店や図書館にいけば、たくさん並んでいるので、ときどき眺めてみる。

少年少女向けといっても内容がしっかりしていて、じゅうぶん読み応えのある本ばかりだ。
500冊以上ある中で、ぼくが手元に置いておきたいと思って入手した本の一部を紹介しよう。

出版界の常で、新本では入手不可能なものもあり、南方熊楠のものなどはネットの古本販売で手に入れた。
517は、最近、図書館で見つけて新本を買った。
どれも、ぼくには愛着の強い本だ。

岩波ジュニア新書
139 『図解 新東京探訪コース』 五百沢智也 著
 地図作りを学び、ヒマラヤを踏査した著者が、探検家の眼と技術で
 「東京」にアタックする。
268 『南方熊楠 森羅万象を見つめた少年』 飯倉照平 著
 東洋と西洋のあらゆる知を独学で総合しようとした型破りな明治の
 博物学者、南方熊楠。
429 『はじめての和楽器』 石川憲弘 著
 筝・尺八・三味線・打楽器の演奏家たちが、その魅力と奏法を
 わかりやすく解説。8cmCD付。
517 『近代社会と格闘した思想家たち』 鹿野政直 著
 生命の尊厳をかかげて闘った田中正造や柳田国男、与謝野晶子ら
 25人の思想家を描く。

junior139junior268junior429junior517   

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【楽】五周年

五周年、といっても、これは自分の中でのハナシ。
いまから五年前の、ちょうど今じぶん、上々颱風の音楽を聴き始めたのだった。

きっかけについては、「晴れときどき曇りのち温泉」のサイトに書いたことがある。
http://yamaoji.hp.infoseek.co.jp/books.html
(「この一冊」コーナー 森口秀志 著 『上々颱風主義』)

リーダーの紅龍さんのことを、別のカンケイで知っていたし、ご本人にも何度かお会いしていたのだが、バンドのことはよく知らなかった。
CDショップにいくと、当時はまだアルバムがすべて発売中だったので、何種類も並んでいた。
こちらは知識がまったくなかったので、ジャケットが面白そう、というだけの理由で選んだ最初の一枚が、これだ。

tamegoma『ためごま』  上々颱風 1996年発売
アルバム・タイトルもミョーだったのが、気になった。
買ったあとで、ブックレットを読んで知ったのだが、このアルバムのエンジニア(Recording & Mixing Engineer)だったケヴィン・モロニーが、レコーディング中にもらした言葉 「Ta me ga math(タメガァマッ)」(I'm very happyの意)からとったものらしい。
この人はケルト人、この言葉はゲイル語だという。

今おもうと、上々颱風の数あるアルバムのなかでも、そうとうユニークな作り方だと思う。
そんなアルバムを最初に聴いたのがよかったのかどうかわからないが、その後は次々と、既発売アルバム(当時、ライブ盤を含め9枚出ていた)を入手。

毎日が上々颱風の音楽づくめ、といってもいいような生活だった。
何人かの友人にも、テープにダビングして、強引にすすめたものだ。

なにやら懐かしい思い出である。
その年、2001年の夏(七夕の日)には、新宿花園神社で毎年行なわれている野外ライブに行って、決定的にノックアウトされたのだった。

あれからもう五年もたつのかぁ・・・。
ライブにもしばらく行っていないが、今年も5月の世田谷、7月の七夕ライブ(共に毎年恒例)には行こうと思う。

hanazono2001  

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2006年3月 3日 (金)

【読】名作写真館

きのうの昼休み、書店でおもしろい写真集(ムック)をみつけた。
ちかごろ、こういうムックスタイルの出版物が多いが、これも一冊500円。
35ページほど。

「小学館アーカイヴス ベストライブラリー 名作写真館シリーズ」
 「01 白川義員 (1) 世界百名山」
 「04 星野道夫 アラスカ」
の二冊を買った。

写真集として出版されているものからの抜粋なので、目新しさはないが、他では見たことのない写真(星野さんの若い頃の写真、奥さんといしょの写真)、また、「白川義員写真集ガイド」、「星野道夫写真集ガイド」 という、いい解説がついている。
大判(A4ワイド判)、印刷もきれいだ。

全部で30冊のシリーズのうち、4冊が出ている。

shirakawahoshino白川義員 (しらかわ・よしかず) 1935~
 ダイナミックで色鮮やかな山岳写真がいい。
 この人の空撮現場をTV番組で見たことがある。
 たいへんな撮影だと知った。
星野道夫 (ほしの・みちお) 1952~1996
 ぼくの大好きな写真家、文章家。
 この人の写真、文章、生き方そのものが好きだ。 

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【読】柳田国男を読んでみる

前回につづき、カタイ話。

「柳田国男を読む」といえばカッコイイところだが、どうしても「読んでみる」となってしまう。
腰がひけてしまうのだ。
何度も書いているが、なかなか手ごわい。
https://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=9912003&blog_id=157056

これまで、ぼくの手元にあったのは二冊。
手にはいりやすい岩波文庫。

yanagita_iwanami1yanagita_iwanami2『遠野物語・山の人生』 岩波文庫
これは、まったく同じ本が二冊、手元にあった。
何度も読もうとして読めなかったらしい。
「遠野物語」は通読した記憶があり、それなりに印象がある。
「山の人生」も、一部を読んだ記憶がある。
『海上の道』 岩波文庫。
これは、数ページで投げた。

近くの図書館にちくま文庫版の全集が揃っていることは、前にも書いた。
貸し出されている形跡もある。
気になる存在だった。

赤坂憲雄の『柳田国男の読み方』(ちくま新書)に触発されて、柳田国男のオリジナル・テキスト(原文)を読んでみようという気になった(これも、前に書いた)。
まあ、チャレンジ、といったところだ。

さて、その柳田国男の文章については、いくつかおもしろい批評がある。
谷川雁 「柳田さんの本を読んでいますと、だんだんもうろうとしてきましてね」
赤坂憲雄 「蛇行と結ぼれにみちた記述
まれなる珍文」 (「新文芸読本 柳田國男」 巻末ブック・ガイド)
ぼくもこれらの意見に同意する。

「毛坊主考」という、大正3年から4年にかけて『郷土研究』に発表された論文を読み通していると、ぼくもまた「もうろう」としてきた。
博覧強記、というか、膨大な文献や言い伝え、柳田自身、あるいは協力者による調査事例が羅列されているのだ。
が、読みにくさをがまんして辛抱づよく読みすすめているうちに、柳田国男が言いたかったことがなんとかうっすらと見えてきた。
もちろん、赤坂さんのガイドのおかげで、こちらの頭の中が整理できていたからでもあるが。

柳田国男の初期論考である「巫女考」、「毛坊主考」などには、何かひかれるものがあるのは確かだ。

yanagita_zensyuu『柳田國男全集 11』 (妹の力、巫女考、毛坊主考 ほか)
 ちくま文庫 1990年3月 (新本は入手困難)

― 赤坂憲雄 『柳田国男の読み方』 (ちくま新書) から ―
・・・柳田のこうしたひと連なりの試みは(注:「『イタカ』及び『サンカ』」明治44~45、「所謂特殊部落ノ種類」大正2、「巫女考」大正2~3、「毛坊主考」大正3~4、などを指す)その半ばにして挫折し、漂泊する人々への関心そのものがいつしか、あいまいに表層から沈められていった。 天皇制と被差別部落にかかわる厳しいタブーが、陰に陽に影を落としていることは、たやすく想像されるところだ。 柳田の試行錯誤にみちた漂泊民論には、いくつもの誤謬や限界が含まれる。 時代的な制約もあった。 しかし、わたしはその試みの先駆性と、そこから拓かれてゆくかもしれぬ新しい差別論の地平にこそ、ある可能性を託したいと思う。
(第三章 漂泊から定住へ P.166~167)

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2006年3月 2日 (木)

【読】文庫本、要チェック

しばらく本屋の文庫本コーナーをチェックしていなかったが、入手困難だった本が文庫で出ていたりして、うれしくなった。

http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_3dd7.html
で紹介した、沖浦和光(おきうら・かずてる)さんの本。

okiura_mikuni『対談「芸能と差別」の深層』 三國連太郎・沖浦和光
  ちくま文庫 2005年5月
(1999年、解放出版社から刊行された上下二冊本の文庫化)
― カバーから ―
切っても切れない「芸能」と「差別」の関係とは? 芸歴50年をこえるベテラン役者三國連太郎と、アジア的スケールで民衆文化を研究する沖浦和光が徹底的に語り合う。
「竹取物語」「東海道四谷怪談」などの古典から、「フーテンの寅さん」「釣りバカ日誌」までを縦横に論じる。 さらに南西諸島、アジア諸国へと視点は広がる。 実体験に裏付けられた言葉の重みと、深い知性に満ちたスリリングな一冊。

okiura_minshubunka『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』
 沖浦和光 文春文庫 2006年2月
(1984年11月、解放出版社から刊行された単行本の文庫化)
― カバーから ―
日本文化の深層を探ると ―。 能・歌舞伎・人形浄瑠璃から各種の工芸にいたるまで賎視された人々が、その基底を支えてきた。
紀州湯浅の門付け芸・春駒。 巡業三百年、鳥取・円通寺のデコ舞わし。 日本有数の歴史を誇る三次の鵜飼。 民俗技芸の起源をたどり、苛烈な差別をはねのけ力強く生き抜く民の実像を伝える。

もう一冊、これは単行本で持っているのだが、文庫を買ってしまった。

okiura_sanka『幻の漂泊民・サンカ』 沖浦和光
 文春文庫 2004年11月
一所不住、一畝不耕。 山野河川で天幕暮し。
竹細工や川魚漁を生業とし、’60年代に列島から姿を消した自由の民・サンカ。
「定住・所有」の枠を軽々と超えた彼らは、原日本人の末裔なのか。
中世から続く漂泊民なのか。
従来の虚構を解体し、聖と賎、浄と穢から「日本文化」の基層を見据える沖浦民俗学の新たな成果。
 序章 サンカとは何者だったのか
 第1章 近世末・明治初期のサンカ資料を探る
 第2章 柳田国男のサンカ民俗誌
 第3章 サンカの起源論をめぐって
 第4章 サンカの原義は「山家」だった
 第5章 発生期は近世末の危機の時代か
 第6章 三角寛『サンカ社会の研究』を読み解く
 第7章 今日まで残ったサンカ民俗をたずねる

柳田国男「毛坊主考」(ちくま文庫『柳田國男全集11』)を、がんばって読みおえた。
(文庫でたかだか140ページの分量だったが、時間がかかった)

凝り性なので、いちど興味をもった分野にくらいついたら離れないのである。
われながら「しつこい性格だなぁ」と思うけれど、芸能と差別、という歴史的なテーマにひかれる。

まあ、書店の文庫コーナーでは、こんな本もみつけた。

okiura_hisabetsu『被差別部落一千年史』 高橋貞樹 著・沖浦和光 校注
 岩波文庫 1992年12月
日本民族の諸源流から説きおこし、古代天皇制国家の下での身分制度の創出を論じた第1章から、水平社創立と水平運動の興隆まで、身分制の底辺におこれて差別されてきた被差別民衆の歴史を述べた先駆的労作(1924)。
戦前の社会主義運動で活躍した高橋貞樹(1905-35)が弱冠19歳で書き上げた人間解放への情熱あふれる1冊。

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2006年3月 1日 (水)

【歩】開花予想

サクラの開花予想をテレビの天気予報でやっていた。
東京は3月25日だという。
平年よりやや早めだ。

3月1日の気象庁のサクラの開花予想
http://www.e087.com/sakura/skaika/kaika2.html

開花から一週間後が見ごろだというから、ちょうど4月の最初の週末あたりか。
一か月後。 楽しみだ。

サクラの花は、ソメイヨシノにしろ、ヤマザクラにしろ、好きなのだ。
ここに越してきてから最初の春なので、よけい楽しみ。
なにしろサクラの樹が周辺にたくさんある。

ひと雨ごとに、春が近づく気配がする。
こんな風景↓が待ち遠しい。

(2005.4.9 立川市)
sakura050409

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