【読】五木寛之 こころの新書 (3)
もうすこし書きたい。
『自力と他力』 のおしまいに書かれていたこと。
一時期、「どうして人を殺してはいけないのか」 という問いが問題になった。
今でも、若い人から出てきそうな問いだ。
五木さんも、いろいろ考えたという。
足を踏まれたら痛いのだから、相手の痛みを考えろ、とか、いろんな説があるが・・・と断わりながら、五木さんが書いているのは・・・
<だけど本来、人を殺すということに嫌悪感とか恐怖感がないといけないのではないでしょうか。 こうした感覚は、理屈ではありません。 殺すのがいやだ、という感覚がないことが大問題なのではなかろうか、と思うのです。 長いあいだ人の死を遠ざけてきたことは、他者の身体への想像力の欠如へとつながっているように思えてなりません。>
そうだなぁ、とぼくも思う。
十代の少年が、同世代の少女を簡単に殺してしまうという事件が、つい最近もあった。
いわゆるホームレスを、集団でいたぶって殺してしまった、という事件にも胸が痛んだ。
どうしてなんだろう? と、ぼくには理解できないことだった。
そんなに人の命が軽くなっているんだろうか。
たぶん、そうなんだろうな、と思う。
この子たちは、人の(現実の)死というものを身近に感じることなく育ったのではないだろうか。
「死を想え」 ・・・五木さんがこの本で言っていることは、この一言につきるのかもしれない。
<「死は、前よりしも来らず」 と、古人は言いました。
足音を立てずに、静かに忍び寄ってきているのが「死」というものなのです。
しかし、他人の死を実感することも少なくなったうえに、自分の死を具体的にイメージすることはさらにむずかしいことです。 多くの人が、五年先、十年先、二十年先まで、自分はいまのまま生きているつもりで暮らしているのではないでしょうか。>
<仮に医者から「あと三ヶ月の余命です」と宣告されたなら、はたしてどのような受け取りかたができるだろう、と想像してみます。 頭のなかでは、たぶん自分はうろたえたりはしないだろうと思いますが、実際は、そのときになってみないとわからないことです。 (略)
ただ、思うことは、日夜くり返しくり返し死を想像しつづけている人間と、自分が死ぬなどとは一度も考えたことがない人間とでは、いざというときの受けとめかたが違うはずだ、ということです。>
― 死をつよく意識し、生の実感をつかむ ―
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