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2006年4月の30件の記事

2006年4月30日 (日)

【読】こころの新書 (7)

五木寛之 こころの新書
  『日本人のこころ 金沢・大和
   信仰の共和国・金沢 生と死の結界・大和』 (講談社)

Kokoro08第一部 信仰を絆にした民衆の共和国
 加賀百万石の城下町・金沢が成立する前には、百年近くつづいた「百姓の国」があった。
 この共和国の成立過程と、一向一揆の真実に迫る。
第二部 "風の王国"の世界
 生の世界と死の世界をわける結界・二上山をめぐる謎と、「漆黒の闇」「ぬばたまの闇」と形容される大和の限りなく深い闇を追及する。
 (この本の帯から引用)


明日から読み始めようと思い、パラパラめくっていたら、とてもいい話にぶつかった。
五木さんが、弟さんの邦之さんを亡くした後、斑鳩の法隆寺をみおろす丘の上の一角に、自然石の石碑を置いた話である。

戦後、朝鮮半島から引き揚げてきてから、五木さんと邦之さんは二人三脚のように一緒に生きてきたという。
その弟さんを、1981年に四十代の若さで亡くした五木さんは、それまで墓というものが好きではなかったが、なにかひとつ弟さんをしのぶよすがを形にして残しておこうと思ったそうだ。

墓というより「思い出の碑」という気持ちで、引き揚げのときに持ってきたお母さんの遺髪と、お父さんの遺骨もいっしょに埋めた。
その石に、五木さんが原稿用紙に書いた短い文章を、そのまま銅版におこしてはめこんだ。
いまでは錆びてしまって、ほとんど文字も判読できなくなったが・・・、とことわって、その文章を掲載している。

ここに引用させていただく。
とてもいい文章だ。


<松延邦之は私の七歳年下の弟である。 学校教師であった両親が朝鮮に在任中、京城の地において生まれた。 敗戦後、いくたの困難をへて、九州の郷里に引き揚げ、柳川の商業高校に学んだが、やがて私の後を追って上京、各種の職業を転々としながら、波瀾にとんだ青春時代を過ごした。 その後、作家として自立した私の仕事を手伝うこととなり、遂には私の片腕として昼夜の別なく労苦を共にするなくてはならぬ存在になった。 自らを殺して兄の陰に生きることを選んだ彼によって、私がどれほど支えられたかは言葉にはつくしがたいものがある。 一九八一年、病を得て早逝した彼の思い出のためにこの碑を建て、両親の遺骨とともにここに納めて偲ぶよすがとする。>

なぜ大和の地を選んだのか、その理由を、「あえていうならば、私の父がこの大和というものに対して、深い思慕の情を抱いていた節がある、ということだ」と書いている。

この文章が載っている節のタイトルは、「新しき渡来人としての私」。
かつて「デラシネ」ということばで、ご自分のアイデンティティ(よって来たるところ)を表現した五木さんらしいタイトルだと思う。

別の本で、五木さんは、サルトルよりもカミュに惹かれる、と書いていた。
カミュは、フランスの植民地だったアルジェから祖国フランスに戻ったとき、そこでも自分を<異邦人>と感じざるをえなかった。
五木さんも、生まれてすぐに渡った朝鮮半島を懐かしく思いながら、そこから追われた<植民者>としてのじぶんを常に意識している、という。


この本も、ずっしりと重いものがいっぱい詰まった一冊のようだ。
読む前からわくわくする。

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【遊】今日の散歩(身近な新緑)

散歩というほどのことでもないけど、住まいのまわりの新緑を撮ってみた。
日に日に色鮮やかになってきてうれしい。

0604300001ついこのあいだ、桜の頃は、若葉が出はじめたばかりだったケヤキも、あっというまに青々と茂った。
写真の木、すぐ近くの公園(団地内)にある。
枝ぶりが自然で、こういう形のケヤキも今では珍しい。
街道沿いのケヤキは、伸びた枝が道路のじゃまになるらしく、無残に枝を切られているものが多いのだ。

0604300006トウカエデ(唐楓)。
この街のあちこちに見られる街路樹。
秋は紅葉がきれいだった。
その後、葉がすっかり散ってしまったと思ったら、今はこんなに青々としている。
もう初夏という感じだ。
明日から5月という今日は、さわやかないい天気だった。

0604300005トチノキ(栃、橡)。
なぜかこの団地のあちこちに植えられている。
なかなか立派である。
花をつけている木と、つけていない木がある。
この団地に越してきた去年の秋は、枯葉だった。
季節がめぐって、こんな新緑を見られるのがうれしい。

06043000070604300009   




060430001106043000020604300003気づかないうちに、フジが咲いていた。
これも、すぐ近くの団地内公園。
砂場の上によくある藤棚。
下の写真は、シャガハナニラ

06043000130604300012   

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2006年4月29日 (土)

【読】五木寛之 こころの新書 (6)

きりがないので、このあたりでやめにしたいが、『サンカの民と被差別の世界』 の第二部 「東都の闇に生きた被差別の民」 も、ぼくにとって興味深く、衝撃的な内容だった。

差別の歴史は古く、その根は深い。
「差別はいけないことだよ」 と教えられてきたが、いったいどれほど差別の実態や歴史について知っていたか。
この五木さんの著作から教えられたことは多い。

「私のこころに蠢く下降感覚」 という節で、五木さんはこう言っている。

<永井荷風や樋口一葉など、東京の下町一帯と深い縁のあった作家たちに対して、私はある種の親密感というものを抱いている。 それはなぜだろうか。
 明治、大正、昭和という時代と通じて、田舎から出てきた人間には、東京で一旗揚げて故郷に錦を飾りたいという思いがあった。 いわば上昇志向、上昇感覚といってもいいだろう。 それは個人だけではなく、国家もそうだった。

<それに対して私は、自分のこころのなかに下降志向というか下降感覚が蠢いているいるのを感じるのだ。>

この下降感覚というのが、どうやらぼくにもあるらしい。
漂泊民、被差別民、あるいは北海道のアイヌに強くひかれるのも、そのせいだと思う。

ことわっておきたいが、この「下降」ということばを、「底辺に向かって」、などと置き換えたくない。
「底辺」なんかじゃない。 なぜなら、この世はピラミッド形の単純な構造ではないから。
「底流」、「源流」ということばがふさわしいか。

なにか忘れ去られようとしている、たいせつなものがある。
それが、いまもゆっくりと流れている。 目には見えないけれど。

差別なんて今の時代にはないよ、と言う人がいるかもしれないが、じぶんの胸に手をあてて考えてみれば、差別感覚、差別意識というものが根強く残っていることに気づくのだ。 じぶんの体の中にも、ネ。

ぼくもまた、五木さんのように、とことんこだわって考え続けようと思う。
むやみに悲観的になることはないけれど、それでもやっぱりバラ色の明るい未来はなさそうだ。
薄闇のような時代を、かすかな灯りをたよりに歩き続けたい。

「歌いながら夜を往け」
五木さんのこのことばに励まされる。
ぼちぼち歩いていこうか。

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【読】五木寛之 こころの新書 (5)

五木さんの 『サンカの民と被差別の世界』 について、続けて書く。

まず、「サンカ」と呼ばれる人たち。
この呼称は、一般的にこう呼んでいるというだけで、地方によってさまざまな呼ばれ方をしているという。
関東ではミツクリ(箕作り)、ミナオシ(箕直し)、東海ではポン、オゲ、四国の一部ではサンガイ、九州ではミナオシカンジン(箕直し勧進)、等々。 (沖浦和光による)

「箕」というのは、竹でつくられた農具である。
【箕(み)】 穀物を中に入れ、上下に振り動かした勢いで、ちり、殻などを吹き飛ばすようにして取り除く農具。 (新明解国語辞典)

この呼称からわかるように、彼らは棕櫚箒(しゅろぼうき)づくりや竹細工をなりわいのひとつとしていたが、泥鰌、鰻、スッポンなどの川魚を捕って暮らしていた。 セブリと称する仮小屋や天幕によって川筋を移動していたのである。
柳田國男 『「イタカ」及び「サンカ」』 という論考でとりあげ、三角寛という人が「山窩」という蔑称(もとは警察用語)を広めてしまったのも、有名なはなしだ。

http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_fcef.html
(柳田国男を読んでみる 2006/3/3)


五木さんがサンカに惹かれていったのは、『風の王国』という小説の構想を練っていた時期。 それ以前も、『深夜美術館』『戒厳令の夜』で、<移動、漂泊、放浪の民の系譜>に強い関心を示していた。

その後、民俗学者の沖浦和光(おきうら・かずてる)さんに出会い、『辺界の輝き』という対談形式の共著を出していることは、このブログでも紹介した。

http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_3dd7.html
(五木寛之と沖浦和光 2006/2/19)

http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_4bdb_1.html
(文庫本、要チェック 2006/3/2 沖浦さんの本の紹介)

また、五木さんがこの本で大きくとりあげている、沖浦さんの著作、『幻の漂泊民・サンカ』『竹の民俗誌』『瀬戸内の民俗誌』についても、上のブログ投稿でとりあげているので、ご参照いただきたい。


この本で、サンカに関するさまざまな著作のあることを知った。
椋鳩十(むく・はとじゅう)の『鷲の歌』(昭和8年)、福田蘭童『ダイナマイトを食う山窩』などだ。
この福田蘭童という人、ぼくは知らなかったが、洋画家の青木繁の息子であり、戦前から尺八の天才とうたわれていたが、結婚詐欺事件で逮捕された。 懲役刑に服した後、当時の人気女優だった川崎弘子と結婚。 彼の笛のメロディーをテーマ曲にしたのが、ラジオ番組「笛吹童子」。 彼の息子が石橋エータローだそうだ。 なんとなく魅力的な人物である。
ちなみに、『ダイナマイトを食う山窩』は、その内容が問題になり、三角寛との確執もあったようだ。

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【読】五木寛之 こころの新書 (4)

もう一冊の本。
五木寛之 こころの新書 6 『サンカの民と被差別の世界』 は、スリリングな内容の本だった。

Kokoro062おおきく二部にわかれている。
「第一部 海の漂泊民、山の漂泊民」
瀬戸内海の海上生活者、いわゆる「家船(えぶね)」と呼ばれた海の漂泊民と、「サンカ」と呼ばれた山の漂泊民をとりあげている。
沖浦和光さんに触発されて、五木さん自身の足で見聞きした「定住しない人々」のことが、熱く語られる。
「第二部 東都の闇に生きた被差別の民」
こちらは、ぼくもあまり知らなかった世界だが、東京の浅草あたりを中心にかつて居住していた被差別民、「エタ」「非人」と呼ばれた人々がとりあげられている。
さらに、フーテンの寅さんにまで話は及ぶ。
とても興味深く、まさに、わくわくしながら読みすすめた。

書きたいことが山ほどあるので、おいおい書いていくが、フーテンの寅さん(男はつらいよ)について触れた部分を紹介しておこう。

日本人なら誰でも知っている映画、「男はつらいよ」の寅さんの口上。

 私、生まれも育ちも葛飾柴又です。
 帝釈天で産湯をつかい、姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。

この中の、「車」「寅」「フーテン」という三つの言葉に、五木さんは惹かれるという。
日本人のこころの深い部分に隠れているものを、この三つのキーワードが表しているような気がする、というのだ。

「車」 ・・・かつて、江戸の非人頭の名前が「車善七」だった。
「非人」とは何か。 江戸時代、士農工商の身分制度の埒外に「エタ」「非人」と呼ばれる人たちがいた。
差別用語だが、歴史的事実だし、ほかに呼称がないので、五木さんもこのことばを使っている。
(「エタ」は「穢多」という漢字があてられることもあるが、五木さんはこの字はよくないという説である)
被差別民 → 香具師(やし、てきや) → 寅さん という流れ。
山田洋次が「車寅次郎」と命名したのは、香具師というものの歴史性を配慮したからにちがいない、という五木さんの指摘は鋭い。

この本で五木さんは、差別がなぜできたのか、今もって人々の心の中に差別感が残っているのはなぜか、しつこく考え続けている。 そのあたりは、また改めて書いてみよう。

「フーテン」 ・・・もともと瘋癲という漢字。 谷崎潤一郎の 『瘋癲老人日記』 あたりから使われるようになった言葉らしい。 その後、フーテンというカタカナがあてられるようになった。
ぼくにとっても懐かしいことばだ。 「フーテン族」 の時代。
五木さんによれば、「フーテンの寅さん」 に、<家も家族も持たず、定職にもつかない人生。 好きなときに好きな場所へいく人生>、つまり<自由人>のすがたを見る心情が、日本人にあるのだろうという。

息つくひまもなく読んだ、とても刺激的な本だった。

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【読】五木寛之 こころの新書 (3)

もうすこし書きたい。
『自力と他力』 のおしまいに書かれていたこと。

一時期、「どうして人を殺してはいけないのか」 という問いが問題になった。
今でも、若い人から出てきそうな問いだ。

五木さんも、いろいろ考えたという。
足を踏まれたら痛いのだから、相手の痛みを考えろ、とか、いろんな説があるが・・・と断わりながら、五木さんが書いているのは・・・

<だけど本来、人を殺すということに嫌悪感とか恐怖感がないといけないのではないでしょうか。 こうした感覚は、理屈ではありません。 殺すのがいやだ、という感覚がないことが大問題なのではなかろうか、と思うのです。 長いあいだ人の死を遠ざけてきたことは、他者の身体への想像力の欠如へとつながっているように思えてなりません。>


そうだなぁ、とぼくも思う。
十代の少年が、同世代の少女を簡単に殺してしまうという事件が、つい最近もあった。
いわゆるホームレスを、集団でいたぶって殺してしまった、という事件にも胸が痛んだ。
どうしてなんだろう? と、ぼくには理解できないことだった。
そんなに人の命が軽くなっているんだろうか。
たぶん、そうなんだろうな、と思う。
この子たちは、人の(現実の)死というものを身近に感じることなく育ったのではないだろうか。

「死を想え」 ・・・五木さんがこの本で言っていることは、この一言につきるのかもしれない。


「死は、前よりしも来らず」 と、古人は言いました。
足音を立てずに、静かに忍び寄ってきているのが「死」というものなのです。
しかし、他人の死を実感することも少なくなったうえに、自分の死を具体的にイメージすることはさらにむずかしいことです。 多くの人が、五年先、十年先、二十年先まで、自分はいまのまま生きているつもりで暮らしているのではないでしょうか。>

<仮に医者から「あと三ヶ月の余命です」と宣告されたなら、はたしてどのような受け取りかたができるだろう、と想像してみます。 頭のなかでは、たぶん自分はうろたえたりはしないだろうと思いますが、実際は、そのときになってみないとわからないことです。 (略)
 ただ、思うことは、日夜くり返しくり返し死を想像しつづけている人間と、自分が死ぬなどとは一度も考えたことがない人間とでは、いざというときの受けとめかたが違うはずだ、ということです。>
 ― 死をつよく意識し、生の実感をつかむ ―

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【読】五木寛之 こころの新書 (2)

五木さんの 『自力と他力』 について、もうすこし書きたいことがある。
「正直なところ、ちょっと飽きてしまうところもある本」 なんて書いたが、なかなか・・・じわじわと利いてくるボディーブローのような内容なのだ。

この本の初めのほうに、興味深いエピソードが紹介されている。
(五木さんが聞いた実話である)

キリスト教のカトリック教団で一途な信仰生活を送っていた日本人女性がいた。
その女性が属していたのは、カトリックの宗派のうちでも特に「祈り」を最重要視する教団だった。
修道女だった彼女は、若いころからカトリックの信仰一筋に、「祈り」に生活のすべてを捧げて生きてきた真摯な信仰者だったという。
その女性に不幸な事件がおこった。
なにかのはずみに、頭部をつよく打って、脳の一部に大きなダメージを受けてしまったのだ。
脳の内部の古皮質の場所、俗に海馬といわれるところに影響がおよんだ。
海馬は、記憶や行動などの情報の認知、統合活動に関係する器官らしい。

一応の体調が回復したあと、彼女はふたたび「祈り」の生活にもどろうとした。
ところが、意外なことが起こった。
祈りの言葉を口にしようとすると、思わず知らず「なむあみだぶつ」という念仏がこぼれ出してしまい、どうしてもそれを改めることができなかったというのだ。

一体、これはどういうことだろうか。
五十年間の祈り一筋の信仰生活に嘘はないはずだ。
しかし、思わず知らず念仏が出てしまうというエピソードに、五木さんは深い感慨をおぼえたという。
それは彼女の幼いころの記憶の断片がよみがえってきたのではないか。
彼女は、ひょっとしてキリスト教の家庭ではなく、仏教の家に育った人なのだろう、と書いている。

以下、五木さんの文章を引用する。

<人間の記憶とは不思議なものです。 その個人の一生の記憶だけではなく、ひょっとするとひとりの人間の記憶のなかには、その親、その祖父、そして百年、二百年、いや一千年以上も昔の記憶が混じりあって残っていないとも限らない。 個体のなかには、記憶にとどまらずその生物の進化や連続の遺産がふくまれている、と私は考えています。>
 ― 人は歴史を身体に刻みこんで生きる ―


五木さんは、よく知られているように、敗戦後の朝鮮半島の混乱のなかで、母親を亡くしている。
九州に親子四人(お父さん、五木さん、弟さん、妹さん)で引き揚げてきた後、五木さんが東京の大学に来ていた時期に、父親を亡くした。
さらに、その後、売れっ子作家となってから(はっきり憶えていないが、五十代の頃か)、弟さんを癌で亡くしている。
この弟さんの死が、五木さんにはおおきな転機だったらしく、休筆して京都の龍谷大学の聴講生となって仏教の世界に深く入っていったようだ。
その仏教への傾倒には、五木さんの両親が
 「必ずしも熱心な門徒ではありませんでしたが、浄土真宗の家の出でした」
という事情があったのだと思う。

幼い頃、ときたま仏壇の前で「正信偈」を声を出して唱えている両親を見て、いたずらのつもりで父親の口真似をしているうちに、いつのまにか「正信偈」の一部を暗記してしまった、ということも語られている。


ぼくにも似たような経験がある。
ぼくが生まれた時からずっと同居していた父方の祖母は、初孫のぼくを可愛がってくれたものだが、その祖母がたいせつにしていた小さな仏壇が家にあった。
仏壇には、女手ひとつ、苦労してひとり息子(ぼくの父)を育てあげた祖母が、ずっと守っていた位牌が入っていた。 祖母の両親のものだったらしい。
その祖母が亡くなった後、ぼくの父は、毎日その仏壇の前で「正信偈」を唱えていたらしい。 帰省したときに、そんな父の姿を見たことを、いま思い出している。

それまで、父はそういうことをしなかった人だった。
母親の死が父にもたらした深い悲しみが、いまは理解できるような気がする。
その父もまた、祖母の後を追うように数年後に他界した。


プライベートなことをこのブログには書かないようにしてきたが、五木さんの本を読んでいろんなことを考えた。

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【読】五木寛之 こころの新書 (1)

4/17に紹介した、五木さんの本。
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_dcc3.html

「五木寛之 こころの新書」 シリーズ (講談社) を二冊読んだ。

『自力と他力』
五木さんがずっと言い続けている 「他力」 という考え方を、掘り下げている。
「他力本願」 というように、あまりいい意味で使われないことばだが、本来は

 (仏教語) 阿弥陀仏がいっさいの人々を救おうとして立てた本願。
 また、自己修行の功徳によらず、
 阿弥陀仏の本願力にたよって成仏するのを願うこと

・・・ だと紹介しながらも、こういう仏教語(五木さんは「業界用語」と呼んでいる)ではなく、五木さんらしい喩えを書いている。

<私はかつて他力のはたらきを、風にたとえたことがありました。
 エンジンのついていないヨットは、風が吹かなければ動きません。 逆風であれ、順風であれ、まったくの無風状態では帆走することは不可能です。
 他力という風が吹いてこない限り、ヨットは自力で走ることはできないのです。 しかし、ただひたすら風だけを当てにして、ぼんやりしているだけでも駄目でしょう。 (中略)
 やはりそれなりの自力の努力は必要なのです。 とはいえ、走らせようと気持ちだけあせって、手で水をかき回しても、ヨットは前へは進まないでしょう。>
 ― 他力の風が吹かなければ、ヨットは動かない ―

お坊さんのことばやお説教よりも、よほど説得力がある。
五木さんが、70年の生涯をかけてつかみとった思想だから、とても重みがある。

とりあえず、一冊目の感想はこんなところだ。
五木さんの「他力」思想のエッセンスともいえるが、正直なところ、ちょっと飽きてしまう(と言っては申しわけないが)ところもある。 あくまでも、ぼくの感じ方なので、この本の価値をおとしめるものではない。

次の箇所など、思わず目から鱗がおちる思いをした。

<そもそも宗教というものは、根源のところで現実の法と相反する思想だという部分がある。 仏教では<王法(おうぼう)>と<仏法>という言い方をします。 王法は世間の常識、いわゆる法律であり、仏法はこころの掟です。 蓮如が言う「額に王法、こころに仏法」という考え方が必要なのです。>
 ― 善と悪は表裏一体である ―

また、火葬場に子どもを連れていかなくなったことに触れ、死の現場に子どもを立ち合わせるのはよくない、という感覚がいまの大人にはあるのではないか、と言う。
そういえばその通りだな、と思う。

ぼくはこれまでに、父方の祖母、父、母方の祖母、妻の母の死にそれぞれ立ち会った。
火葬場で骨も拾ったし、父方の祖母と父の場合は、自宅で、身内の者の手で納棺もした。
妻の母は病院で息を引きとった。
駆けつけたときは、白い布がかけられていた。
そばで看取った肉親も、一時、病室から出されて、病院の人が亡骸の身支度をしたという(納棺は、自宅で身内の者がおこなったし、ぼくも立ち会ったが)。

だんだんと、死というものが、日常生活から遠ざけられている(見えないところに隠されている)ような気がする。
死者を遠ざける傾向があると思う。
「人は死んだら "モノ" になるという認識が、いまは一般的になっています」 と、五木さんは言う。
そして、そういう感じ方、認識は、人体や遺体をまるでモノのように扱う凶悪犯罪を生むのではないのか、と指摘している。

味わい深い一冊である。

Kokoro12

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2006年4月25日 (火)

【楽】石黒ケイ

これまで、ほとんど書いたことがなかったけれど、石黒ケイという歌手が好きだった。
一時期、山崎ハコと同じ音楽事務所に所属し、レコードを何枚も出している。
彼女のライブにも、二度行ったことがある。
一回は、渋谷の<ジャンジャン>という教会の地下の小さなホール(渋谷)。
もう一回は、山崎ハコや長谷川きよし、野本直美らといっしょにやった、チャリティー・ライブ(渋谷)。

ところで、この石黒ケイのアルバムを五木寛之がプロデュースしている。
『アドリブ』 というタイトルで、1980年にビクター音楽産業からリリースされた。
その後、CDでも再発売されている。

Adlib1Adlib2アドリブ  石黒ケイ
=収録曲=
暗闇のラブ・ソング (山崎ハコ 作詞作曲)
憎いあんちくしょうのブルース
(ヨシモトレイ 作詞/石黒ケイ 作曲)
サフランのように (岡本おさみ 作詞/石黒ケイ 作曲)
(山崎ハコ 作詞・作曲)
本牧挽歌 (ヨシモトレイ 作詞/石黒ケイ 作曲)
今晩おひま (石黒ケイ 作詞/鈴木宏昌 作曲)
ひとり暮しのワルツ五木寛之 作詞/イタリア民謡)
ひとりぼっちのララバイ (岡本おさみ 作詞/鈴木キサブロー 作曲)
明日はクール (山崎ハコ 作詞/北村英治 作曲)
恋はもうたそがれ (石黒ケイ 作詞・作曲)

共演者がすごい。
アート・ペッパー(アルト・サックス)、鈴木宏昌(ピアノ)、村上秀一(ドラムス)、渋谷毅(キーボード)、前田憲男(ピアノ)、北村英治(クラリネット)、トゥーツ・シールマンズ(ハーモニカ)、他。
そうそうたるジャズ・ミュージシャンたちである。

編曲陣も、鈴木宏昌、渋谷毅、前田憲男、北村英治、杉本喜代志と、日本のジャズ界を代表する人たちだから、ジャジーな味わいの名曲ぞろい。
山崎ハコが提供している歌も、いい。

五木寛之は、Promotion Adviser という立場で参加しているが、実質的なプロデューサーと考えていいだろう。
五木さんの音楽センスがよく出ている、すばらしいアルバムである。

どうです?
聴いてみたくなるでしょ? 

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2006年4月24日 (月)

【歩】ムラサキハナナ

どうも、ぼくは思いこみが強いようだ。
植物の名前にしても、まちがって覚えているものが多い。

0604230011_1ムラサキハナナ (紫花菜)
 別名 ハナダイコン、ショカツサイなど
 アブラナ科オオアラセイトウ属
ぼくは、これをスミレの仲間だと、ずっと思っていた。
オオタチツボスミレとかなんとか、いいかげんなことを、このブログにも書いたことがある。
線路ぎわや土手などに、群落を作っている、背丈の高い草である。
この花の名前を、今日、図鑑で知った。
たしかに、スミレとちがって花弁が4枚だし(スミレの仲間は5弁)、葉の形もスミレらしくない。 なによりも、背丈が異常に高いのだ。
なんだかスミレとはちがうなぁ・・・と思いながら、今日まで確かめることもなかった。

0604220010ハナニラ (花韮)
 別名 セイヨウアマナ
 ユリ科(ヒガンバナ科)ハナニラ属
これは、きのうのブログに「アマナ」と書いてしまったもの。
大きくはずれてはいないが、アマナはもっと花弁が細い。
近所の方に「ハナニラ」と教わったのに、聞いたことのない名前だったので、以前から知っていたアマナにしてしまっていた。
このハナニラは、花弁がだんだん紫色に変わるらしい。
あちこちで見かける、可憐な花である。

06042200120604220005トチノキ (栃木、橡木)
これも、近所の方に教わった。
この団地に越してきたころは枯葉だったので、その葉の形からホオノキ(朴の木)ではないかと、やはりブログにも書いたことがある。
ここまで葉の形がわかってくると、やはりトチノキだとわかった。
いやはや、植物をしっかり観察するのも難しい。

ここまでが、ぼくの誤解。
下の写真は、名前を知っていたものと、最近知ったもの。

0604230002_10604220006_1シャガ (射干)
 アヤメ科アヤメ属
ハナズオウ (花蘇芳、花蘇方、蘇方花)
この木は、ずっと気になっていたのだが、花がたくさん付きだして、ようやく図鑑で名前を知ることができた。   

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2006年4月23日 (日)

【遊】今日の散歩(玉川上水) 3

今日の散歩の終点は、鷹の台にある「小平中央公園」
総合体育館とグラウンドがある広い公園だ。

ハナミズキが、いたるところで見られる。
サクラがおわった頃に咲き始める可憐な花で、ぼくは大好きだ。

060423005906042300580604230057060423005006042300510604230052060423005506042300530604230054ハナミズキ
(花水木、亜米利加山法師)
原産地 北アメリカ南東部、メキシコ北部
明治中期に渡来、東京からワシントンに贈ったサクラの返礼の木としても知られる

帰りは、西武線の鷹の台駅から電車に乗って国分寺駅に出て、そこからバスに乗った。
ひさしぶりに歩いたので、ちょっとくたびれたが、いい散歩だった。         

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【遊】今日の散歩(玉川上水) 2

0604230039玉川上水(たまがわ じょうすい)
多摩川を水源とし東京都羽村市から新宿区四谷までを流れる用水路(上水)である。
江戸時代に、玉川兄弟(玉川庄右衛門・清右衛門)が江戸の水源を確保するために私財を投じて工事を行い、1653年(承応2年)4月4日開削工事開始、同年11月15日開削工事完了。翌年(1654年(承応3年)より江戸市中への通水が開始された。

多摩川水系は現在でも東京の水源の1/3ほどを占めている。
かつては多くが新宿区の淀橋浄水場まで送られ取水されていたが、淀橋浄水場が廃止されてからは大半が羽村第3堰で取水し鉄管で東村山浄水場に送られている。

それでも玉川上水も現役であり西武拝島線と多摩都市モノレールの玉川上水駅前(南口)に架かる清願院橋の300mほど下流にある小平監視所で東村山浄水場と野火止用水にパイプで通水しており、これより下流は公園や暗渠化されて遊歩道として整備されている。
  ― Wikipedia から ―

0604230025060423002806042300320604230042060423003406042300240604230048アマナ (甘菜)
ユリ科 アマナ属
多年草 花期3~4月
可憐なこの花があちこちに咲いている。
球根(鱗茎)を煮て食べると甘みがあるとか。
野山の草のうち、おいしく食べられるものには"菜"がつく。
それで甘菜という・・・植物図鑑に書いてあった。      

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【遊】今日の散歩(玉川上水) 1

今日は、玉川上水沿いの遊歩道を、西へ3キロほど歩いてみた。
新緑と草木の花々がうれしかった。

06042300060604230007出発点
警察学校近くの八重桜。
ソメイヨシノ、ヤマザクラ、サトザクラなどの花期がおわり、今はこのヤエザクラが満開だ。
午前10時、出発。
どんよりした曇り空だったが、風がなく暖かかった。

060423002306042300400604230038玉川上水
その昔、太宰治という人が飛び込んだのは、ここから何キロも下流の三鷹の方だ。 いまは水量もすくなくて、飛び込んでも溺れることはない。のどかな遊歩道が続く。


0604230005_10604230010_106042300110604230013



春はいいなぁ。
草木の花々が目をたのしませてくれる。
身近にこんな自然のあるのがうれしい。   

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2006年4月22日 (土)

【楽】【読】三つの「鳥の歌」

カテゴリ分けに迷ったけれど、とりあえず「読書日記」ということで。

「鳥の歌」といえば、ぼくには、たいせつにしているものが三つある。

「鳥の歌」 (上々颱風)
Tamegamath上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)の西川郷子さんの歌。
「ためごま」 というアルバムに入っているが、発売終了のため入手困難。
録音されたものよりも、ライブで聴くほうがずっとよい。
サトちゃんの歌声が絶品。

ぼくの本編サイト「晴れときどき曇りのち温泉」でとりあげているので、ご覧いただきたい。
http://yamaoji.hp.infoseek.co.jp/m_torinouta.html

「鳥の歌」 (カタロニア民謡/カザルス編/パブロ・カザルス演奏)
Csals『鳥の歌 ― カザルス・ホワイトハウス・コンサート』 収録
CBSソニー SOCO69 (CDでも出ているはず)
1961年11月13日、ワシントンのホワイトハウスでのコンサート録音

<鳥の囀りのように響く調べは、カタロニヤの民謡である。 私はバッハやベートーヴェンといえども、この調べを耳にしたならば、彼らもその美、その形式を観賞しただろうと思うのだ。 私は亡命する時に、再び演奏するときには、必ずこの曲を私の演奏プログラムの一番終りに演奏する、カタロニアはつねに私とともにある、と言った。 そして、その後今日まで、何百回もこの曲を演奏したが、その度毎に、私の心は祖国が経験した悲劇の数々を思って痛むのだ。>
(カザルスの言葉 ― レコードジャケットから)

『鳥の歌』 (五木寛之)
Torinouta1_1この小説を再読していたが、ようやく読み終えた。
ちょっと物足りない感じもしたが、面白かったし、感銘もうけた。
この小説のなかで、五木さんは、カザルスの「鳥の歌」にもふれている。
「鳥の歌」は、自由を求める人間の夢を象徴することばである。
この小説の重要な登場人物である<サク>は、そういう人びとのことを次のように語る。

<土地に定着して住んでいる人びとがいる。 骨や、肉のようなものです。 集まって町に住んでいる人びとは、頭や、関節だ。 そして、そんな肉体の各部を心臓から送り出される血液のように常に音もなく流れているものがある。 それをぼくらは動民と呼んでいるんです。 住民と動民は、それぞれにちがった役割を持っていると考えていい。 昔からいろんな人びとが諸国を流れ歩き、渡り歩いて社会がいきいきと新鮮な活力を保つような働きをしてきました。 ・・・>

<鳥だって、実際には自由でもないし、いろんな苦しい闘いもある。 だが、人間たちは空をとぶ鳥に自由の象徴を見たんだ。 <鳥のように―>生きたいと、どれだけ沢山の人が思ったことだろう。 そして、それはこれからは、ほとんど不可能に近い生き方だ。 この国をふくめて、すべての国々が鳥のように生きることを制限し、家畜のような生き方を人間たちに強いているように思われる。 ・・・>


1970年代のおわりに、五木さんがこの小説で予言したことが、現実になっているのかどうか。
人によって感じ方はちがうかもしれないが、ぼくには、きゅうくつな世の中になっているように感じられる。

「鳥の歌」 ということばを聞くだけで、せつないような気持ちになる。
鳥のように自由に空をはばたきたい。 そう思うことが誰にもあると思うのだ。
放浪、とか、流浪の民にぼくがひかれるのも、そんな心情からだと思う。

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【読】ペーパーバックライター(続)

五木寛之さんの 『日記』 (岩波新書・1995年)の、三十七歳の日記(1970年)の中に、次のような一節がある。
ビートルズの<ペイパーバック・ライター>という歌に触れた雑感である。


ビートルズの歌の中に、<ペイパーバック・ライター>というのがあり、これがすっかり気に入ってしまって、このところひょんな時に<ペイパーバック・ライター>のリフレインが口をついて出てきて困ってしまう。 日本の流行歌の詞も、少しはましになってきたが、どう見渡してみても、ビートルズの足もとにもおよばない月並みなものばかりだ。 ユーモアといえば、<おなら>だの<チンポコ>だのと、そんな言葉を使ってユーモラスな歌が書けるわけがないではないか。
(五木寛之 『日記』 岩波新書 P.214)


五木さんといえば、日本の歌謡曲や演歌を悪く言う人たちに対して「そうじゃないよ」と主張し、「手垢のついた」「月並みな」表現を自分はあえて使うのだ、と宣言している人だ。
(手垢がつくほど人々に親しまれ、使われ続けてきたものが悪いハズがない、というのが五木さんの考え方である。)
その五木さんにして、この言葉・・・というのが興味深かった。

そこで、よく知っていると思っていたビートルズのこの歌の日本語訳詞を読んでみた。
出典は片岡義男訳 『ビートルズ詩集』 (角川文庫・1973年)だ。
この本も、ぼくの本棚で埃をかぶって眠りつづけていたもの。

JASRAC(社団法人 日本音楽著作権協会)のシールまで貼ってある本で、どこまで引用していいのか困るが、無難な範囲(?)で引き写してみようか。

Beatles1Beatles2ペイパーバック・ライター (片岡義男訳)

紳士あるいは淑女の皆様
私の本を読んでいただけますか
何年もかかって書いたのです
ちょっとごらんいただけませんか ・・・

私は仕事がほしいのです
私はペイパーバック・ライターに
なりたいのです
ペイパーバック・ライター

いやらしい男のいやらしい物語です
奥さんがまつわりつくのですが
ご主人を理解しているわけではないのです ・・・

だいたい千ページあります
数ページの増減はお気になさらず
一、二週間のうちにもっと書きます
気に入っていただけたなら
長くしてもいいですし
ちがうスタイルになおしもします ・・・

ほんとうにお好みに合いましたなら
出版著作権をおゆずりいたします
一夜にして百万というかせぎになりますよ ・・・


そうか。
こんな可笑しな内容の歌詞だったんだ。

ぼくは、英語が得意じゃないし、ビートルズの歌の詞を熱心に読んでいなかったから、この歌もなんとなく聴いていたのだが、歌詞の意味がわかると面白いなぁと思う。
五木さんが37歳の頃、この歌を気に入ったというワケが、なんとなくわかったような気がする。

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2006年4月17日 (月)

【読】ペーパーバックライター

五木寛之は<ペーパーバックライター>と呼ぶにふさわしい。
<paperback>とは、ハードカバーに対して紙表紙の本や文庫本、つまりソフトカバーの本をさす。
手軽に読める大衆的な本、という意味で、ぼくは、ほめことばとして使っているのである。

そんな五木さんの<ペーパーバックライター>としての本領を発揮した本を手に入れた。
このブログにコメントを寄せてくださった、野末雅寛さんのサイト
http://blog.livedoor.jp/itsuki_hiroyuki/
で知った本だ。

講談社 「五木寛之 こころの新書」 シリーズ

Kokoro01Kokoro02Kokoro05Kokoro06とりあえず、ぼくにとって興味のある4冊を買ってみた。 800円ほどの新書版だが、中味は濃い。

1 『仏教のこころ』
2 『情の力』
5 『隠れ念仏と隠し念仏』
6 『サンカの民と被差別の世界』

そのうち読んだ後で感想を書いてみたい。

今日から 『鳥の歌』 という、五木さんの古い小説を再読している。
1978年(昭和53年)に読売新聞に連載されたものだが、いま読んでも古さを感じさせない。

Torinouta1Torinouta2 

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2006年4月16日 (日)

【遊】今日の散歩(新緑)

サクラが、まだ目をたのしませてくれる。
新緑が目にやさしい。
ちいさな草花も咲き競っている。
日々いろいろあるけれど、季節の贈りものがうれしい。

今日は、カタクリの群落があるという武蔵村山市「都立野山北公園」に初めて行ってみたが、カタクリの花の盛りはとっくに過ぎていた。
そうかぁ。 平地のカタクリの時期はもっと早かったなぁ、と納得。
来年また、行ってみよう。
ここには、なぜかミズバショウがあったが、これも盛りを過ぎていた。

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2006年4月15日 (土)

【読】五木さんの日記(続)

Nikki_1五木寛之さんのこの日記は次のような構成。
十四歳の日記(1947年)
十五歳(1948)、十七歳(1950)、十九歳(1952)、二十歳(1953)、三十二歳(1965)、三十四歳(1967)、三十七歳(1970)、五十六歳(1989)、五十七歳(1990)、六十二歳(1995)。

この中で、とくに面白かったのは、19歳・20歳の大学時代の日記、34歳のときの直木賞受賞前後の日記、37歳のときのヘンリー・ミラーとの会話、56歳のときの昭和天皇崩御のときの五木さんの感慨。

通して読むと、少年・松延寛之の頃と変わっていない部分もあって、可笑しい。
三つ子の魂百まで、と五木さんなら言いそうだが・・・。

亡くなった弟さん(邦之さん)も、34歳の日記(金沢時代)に登場する。

<私の亡くなった弟と両親の骨は、法隆寺のすぐ裏手の小高い丘の上に飛鳥の天然石を置き、その下に埋めてある> (六十二歳の日記)

斎藤緑雨文学賞という、鈴鹿市が主催する「マイナーな文学賞」(評論が対象)の第一回受賞作のひとつが、平岡正明の『浪曲的』だったという話も、ぼくには興味深い。
五木さんは、この賞の選考委員のひとりだそうだ。

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2006年4月13日 (木)

【読】五木さんの日記

これも、古本屋でみつけて買った本。
10年ぐらい前に出た本だから、まだ新刊でも手に入るのだが・・・。

Nikki五木寛之 『日記 十代から六十代までのメモリー』
岩波新書 400 1995.7.20 \620

若い頃の日記というのは、あまり面白くないものだが、五木さんの十代の日記もはっきり言って退屈だ。
それでも、五木さん自身が書いているように、「行間を」注意ぶかく読むと面白みはある。
朝鮮半島から引き揚げて来た頃の日記で、なんとか優等生になろうとしながら、なれないところがおかしい。
高校受験前の日記などは、ぼく自身の中学生の頃を思い出して、なにやら可笑しくなる。
五木さんは、卓球ばかりやっていたようだ。
受験勉強をしなければいけない、と考える優等生的な部分と、卓球が面白くてしょうがないという本音の部分が混在している。
古典を読まなくては、と意気込んで本を買い込むあたり、ぼくにも憶えのあることだ。

ただ、五木さんがエライと思うのは、引揚者として周囲から冷たくされ、経済的には苦労しながらも、グレなかったところだ。
「雑民の魂」(駒尺喜美さんのことば)が、この頃から五木さんにはあったようだ。

 『雑民の魂 五木寛之をどう読むか』 駒尺喜美 著
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_64d7.html
 を参照。

今夜は時間もなく、あまりまとまりがつかないが・・・。
なんとか最後まで読んでみたい本である。

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2006年4月12日 (水)

【山】たくさん登った頃

山日記の手帳を見ると、1990年~92年の登山歴がすごい。
自分でもあきれるほどだ。
ことに、雲取山に年間5回(1990年)というのは、何故なんだろう?という疑問がわく。
たぶん「凝り性」の性格が出ているんだろうな。

1990年 (23回)
1/21(日) 大岳山 (御岳~大岳山~高岩山~御岳)
1/27(日) 鷹ノ巣山 (稲村岩尾根~六ツ石山~水根)
2/3(土)~4(日) 大菩薩峠 (裂石~ハンノ木坂~介山荘)
2/11(日)~12(月) 雲取山 (鴨沢から往復、奥多摩小屋泊)
2/25(日) 高川山 (禾生~松葉・田野倉)
3/4(日) 扇山 (鳥沢~犬目~四方津)
3/10(土)~11(日) 雲取山 (鴨沢から往復、奥多摩小屋キャンプ地テント泊)
3/17(土)~18(日) 雲取山 (鴨沢から往復、雲取避難小屋泊)
4/1(日) 滝子山 (笹子~寂惝尾根~初狩)
4/28(土) 生藤山 (石楯尾神社~三国峠~和田峠)
5/6(日) 川苔山 (川苔谷~川苔山~ウスバ乗越~鳩ノ巣)
5/12(土)~13(日) 雲取山 (鴨沢~雲取山荘~三條ノ湯)
5/20(日) 鷹ノ巣山(水根沢林道~榧ノ木尾根~熱海)
5/31(木)夜~6/3(日) 尾瀬 (沼山峠~尾瀬沼)
6/16(土)~17(日) 八ヶ岳 (赤岳鉱泉~硫黄岳~天狗岳~渋の湯)
6/22(金)夜~24(日) 白馬岳 (栂池~白馬大池~白馬岳~大雪渓)
7/6(金)夜~8(日) 唐松岳・五竜岳 (八方尾根~五竜山荘~遠見尾根)
7/20(金)夜~22(日) 鹿島槍ヶ岳・爺ヶ岳 (赤岩尾根~冷池~柏原新道)
8/3(金)夜~6(月) 表銀座(燕岳~槍ヶ岳) ツェルト幕営
8/16(木)夜~20(月) 雲ノ平、三俣蓮華岳、双六岳
9/22(土)~24(月) 八ヶ岳(赤岳~権現岳~編笠山)
11/24(土)~25(日) 大菩薩峠 (塩山~介山荘~唐松尾根~塩山)
12/23(日)~24(月) 雲取山 (鴨沢から往復、雲取山荘泊)

1991年 (21回)
1/3(木)~5(土) 雲取山 (三条ノ湯~雲取山荘~鴨沢)
1/20(日) 川苔山 (川苔谷~ウスバ尾根~大ダワ~鳩ノ巣)
1/27(日) 鷹ノ巣山 (稲村岩尾根から往復)
2/10(日)~11(月) 八ヶ岳 (硫黄岳)
3/21(木) 大岳山・御岳山 (御岳から往復)
4/14(日) 日の出山 (養沢~御岳山表参道)
4/21(日) 高尾山
4/28(日) 生藤山 (石楯尾神社~浅間峠~上川苔)
5/4(土)~6(月) 上高地・徳本峠
5/11(土)~12(日) 大菩薩峠・大菩薩嶺
6/1(土)~3(月) 尾瀬 (鳩待峠~尾瀬ヶ原~尾瀬沼~沼山)
6/15(土)~16(日) 八ヶ岳 (赤岳、行者小屋~真教寺尾根)
7/5(金)夜~7(日) 針ノ木岳、蓮華岳
7/19(金)夜~21(日) 白馬 (大雪渓~杓子・鑓~鑓温泉)
8/22(木)夜~27(火) 立山 (雷鳥沢キャンプ場、雄山往復)
9/14(土)夜~16(月) 立山・剣岳
9/20(金)夜~23(月) 穂高 (涸沢~北穂~奥穂~前穂~岳沢)
10/20(日) 大岳山
10/26(土)~27(日) 南八ヶ岳(編笠山、青年小屋泊)
11/9(土)~11(月) 雲取山 (三条の湯~雲取山荘~鴨沢)
12/22(日)~23(月) 天狗岳 (渋ノ湯から往復)

1992年 (20回)
1/3(金)~5(日) 甲斐駒ヶ岳
1/18(土)~19(日) 雲取山 (鴨沢から往復)
1/24(金)~26(日) 北八ヶ岳 (北横岳・縞枯山・茶臼山~丸山・高見石)
2/22(土)~23(日) 八ヶ岳 (赤岳)
3/20(金)~22(日) 北八ヶ岳 (XCスキー)
5/2(土)~6(水) 穂高 (涸沢~奥穂高岳往復)
5/30(土)~31(日) 南八ヶ岳 (編笠山、青年小屋)
6/13(土)~14(日) 岩菅山 (避難小屋泊)
6/19(金)夜~21(日) 北岳 (肩ノ小屋泊)
8/1(土)~2(日) 仙丈岳 (馬の背ヒュッテ泊)
8/11(火)夜~14(金) 三伏峠~塩見小屋 (塩見岳登頂断念)
8/15(土)~8/16(日) 南八ヶ岳 (編笠山、青年小屋)
9/4(金)夜~7(月) 白峰三山 (広河原~北岳・間ノ岳・農鳥岳~奈良田)
9/12(土)夜~14(月) 太郎兵衛平 (薬師岳登頂断念)
9/26(土)~28(月) 立山 (雄山)
10/10(土)~11(日) 南八ヶ岳 (青年小屋)
10/24(土)~25(日) 南八ヶ岳 (青年小屋)
10/31(土)~11/1(日) 南八ヶ岳 (青年小屋)
11/22(日)~23(月) 雲取山 (三峰~雲取山荘泊~鴨沢)
12/19(土)~20(日) 硫黄岳 (八ヶ岳)

1992年のふたつの「登頂断念」は、ともに悪天候のため。
塩見岳は、その後1998年の9月にピークを踏むことができた。
薬師岳(北アルプス)へは、とうとう登れなかった。
ぼくにとっては「幻のピーク」である。

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2006年4月11日 (火)

【読】養生

三週間ほど前に、このブログで紹介した本。
五木寛之 『養生の実技 ―つよいカラダでなく―』 がおもしろかった。
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/03/post_68ca.html

Ituski_youjyou『養生の実技 ―つよいカラダでなく―』
五木寛之著 角川書店(角川oneテーマ21)
2004.12.10 初版発行 \686(税別) 新書版 228ページ

帯にある 「つよいカラダが折れるのだ」 という言葉が、五木さんの思想をよく表わしている。
金沢の「雪吊り」が教えてくれたこととして、「よくしなう枝は折れない」、つまり「雪の重さにパキンと折れるのは、屈することのない、つよい丈夫な枝なのだ」 と言って、人間も同じように、いろんな重荷、重圧に屈しないことよりも、屈しやすい、しなやかな心を持っていることが大事だよ、というのだ。

<私たちはときおり、何ともいいようのない鬱な気分におちこむことがある。 昔の人は、そういう状態を、「こころ萎えたり」 と表現した。 萎えるというのは、野菜や、植物や、物がぐたっとなっている様子をいう。 古くは 「しなえる」 といったらしい。
 たぶんそれは、心が屈している状態、しなっているときのことだろう。 そして、よくしなうということは、簡単に折れないということだ。>

<現代人は絶えず体の不調を感じながら生きている。 私などしょっちゅう体調を崩しっぱなしだ。 (略) むかしはそれを治そうと考えた。 病的な状態を回復しようと、いろんな工夫をしたものである。
 だが、いまはそうは思わない。
 それらのできごとは、いま体が萎えているのだ、と考えるようになった。 体の不調は、体が屈しているのである。 曲がって、しなっているのではないか。>

五木さんは洗髪をほとんどしない、という。
医者にもできるだけかからないようにしている、という。
自分の血液型を知ったのも、レーシング・チームを作った時に必要にせまられて血液検査をしたからだ、という。

また、自身はタバコをやめたけれど、無理してやめることはないよ、という。
五木さんの奥さん(むかしは「配偶者」と書いていたが、この本では「つれあい」と書いている)は、お医者さんだったが、ヘビー・スモカーだそうだ。

<タバコも酒も、ときには緊張やストレスから人を解放する。 タールの害と、ストレスの害とをはかりにかけて、「自分はこちらを選んでよかった」と安心すればいい。
 ちなみに私はタバコを吸わないが、つれあいはヘビースモーカーである。 かつては医者だった人だけに、覚悟して楽しげに吸っている。 そんなスモーカーは、見ていても気持ちがいいものだ。>

不安と罪悪感をもってタバコを吸わず、気持ちよく一服しなさい。
タバコがやめられないのなら、無理してやめることはない。
やめられないのは、「やめる縁がない」と考えて、おいしく一服するほうがいい。
こういう言葉、ぼくにとっては、ほっとするというか、ありがたい。

五木さんの養生の実技100から。
思わずニヤリとしてしまうようなユーモラスな言葉もあるし、勇気をくれる言葉も多い。

<呼吸は、吐く息が重要だが、吸う息も粗末にしないこと。 吸う息は肺の下部左右を十分に拡げて吸う。 私は一般の腹式呼吸とは逆に、下腹部をへこませて吸う>

<一日に何回か大きなため息をつく。 深く、たっぷりと、「あーあ」と声をだしながら。 深いため息をつく回数が多いほどよい>

<人生五十年というのは正しい。 それ以後はオマケと考えて感謝の日々を送る>

<あまり清潔にこだわっていると、免疫力が落ちる>

<人間は地球という生命体の寄生虫。 その虫にまた沢山の寄生虫が共生している。 そのような寄生生物をすべて殺してしまえば、宿主も死ぬ>

<仏教では「われありて、かれあり」という。 笑うことは心身によいが、泣くことも同じ。 涙は魂を浄化する>

<不安と罪悪感をもってタバコをすわない。 喫煙はそれぞれの天運である。 やめる縁が生ずれば、やめるなと止められてもやめる。 気持ちよく一服することのプラス面を大事に考えよう>

<洗髪はほどほどに。 皮脂や歯垢にもそれなりの役目がある>

<病院は病気の巣である。 できるだけ近づかないほうがよい>

<医師は信頼せよ。 だが依存してはいけない。 医師は神さまではなく、人間である>

<ガン細胞ができたということは、自分の家族のなかにグレた子供がでてきたようなものだ。 憎み、敵視し、叩き、焼き、殺すしか道はないのか。・・・体じゅうを憎しみに満たして闘病することが、全体的な心身にプラスだとは思えない>

<手術によって切断されるのは、リンパ管や神経だけではない。 「気」の流れる「気道」もまた断たれる。・・・>

<転移とは新天地を求めて逃げだした者たちの逃げ場である。 アメリカ大陸へ転移してきたヨーロッパ人は、先住民たちにとってはガン細胞のように恐ろしく、強力な力だった>

<自分を叱咤激励して行なう養生は役に立たない。 気持ちがいいからやる。 これが基本だ>

<やったほうがよい、と思いつつどうしてもできないときは、いまは縁がないのだ、と考える。 そのときがくれば、やらずにいられなくなるのだから>

<人間はフィジカルな存在であると同時に、スピリチュアルな存在である>

<あす死ぬとわかっていてもするのが養生である>
 

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2006年4月 8日 (土)

【山】白馬岳(5)

1991/7/19(金)夜~7/21(日)の、白馬三山(白馬岳頂上には登らなかったが)の山旅。
写真がたくさん残っていて、なんとも懐かしい。

ぼくは、山小屋に置いてあるスタンプが好きで、よく山日記に押していたものだった。

Shirouma_note1991_1_1(左)猿倉荘のスタンプ
7/20(土)、JR大糸線白馬駅前から早朝7:15のバスに乗り、猿倉荘まで入る。
当日は雨。 小屋の中はたいへんな混雑だった。
ここで、持参のおにぎりとバナナの朝食をとった。
雨具上下、スパッツ、傘という完全武装で歩き、汗だくになった、とある。
(当時、まだゴアテックスの雨具をもっていなかったようだ)
この日は、雨の中、大雪渓を登り、村営の白馬岳頂上宿舎まで歩いた。

Shirouma_note1991_2_2(左)白馬岳頂上宿舎のスタンプ
この小屋には、お昼すぎに到着している。
大雪渓末端の「白馬尻荘」を発ったのが8:40だから、4時間弱の登りだった。
頂上宿舎で昼食(持参の蕎麦・・・インスタントか?)を食べ、夕食は小屋の食事をお願いした。 一泊夕食付で5800円。
ここで、姫路から来ていた男性とお話し、これが縁でその後も手紙や年賀状のやりとりが今もって続いている。 思えば、この方とも、長く淡いおつきあいだ。

Shirouma_note1991_3(左)白馬鑓温泉のスタンプ
白馬鑓ヶ岳の中腹、標高2100mのところにある温泉。
ちいさな小屋と露天風呂(混浴)の、なかなかワイルドな温泉である。
下山途中に寄ったが、男性に混じって堂々と(?)裸体をさらしていたご婦人には、驚いた。 この露天風呂は囲いもなく、まさしく衆人環視。
ぼくは勇気がなくて入れなかった。 今だったら、ためらいなく入るだろうが。

199107_17(左)白馬鑓温泉
温泉宿ではなく、山小屋である。季節営業。
「日本最高所の温泉」と言っていた時期もあったが、もっと標高の高いところもあったらしく、最近は言わなくなったようだ。

白馬鑓温泉からの下りも、花がたくさん咲いていた。
(写真下左から) ハクサンイチゲ キヌガサソウ エンレイソウ 他
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2006年4月 7日 (金)

【山】白馬岳(4)

いま思うと、白馬岳はいい山だった。
なによりも高山植物の宝庫というところがいい。
また、いつか行ってみたいものだ。

1991年の7月下旬、まさに高山植物の花ざかりの時期に、大雪渓を登り、村営頂上小屋に泊って、杓子岳から鑓ヶ岳(白馬鑓ヶ岳)を経て鑓温泉、猿倉へ下るコースを歩いた。
このときも、夜行一泊二日の強行軍だった。

199107_00_1199107_01199107_02(左)シナノキンバイの群落
(中)ハクサンイチゲ
(右)ウルップソウ
千島列島ウルップ島原産、白馬ではいたるところで見られる

199107_05199107_03イワオウギ(タテヤマオウギ)
えんどう豆のような果実をつける
北海道、本州北中部に分布
崩壊しやすい砂礫の斜面や岩隙に生える

199107_04199107_07199107_08(左)タカネヤハズハハコ
(タカネウスユキソウ) ウスユキソウの仲間
(中)ミヤマオダマキ
(右)ウルップソウ

199107_09199107_14_1199107_21(左)ヨツバシオガマ 
(中)(右)ハクサンコザクラ
実物は、もっとあざやかなピンク
フィルムをスキャナーで取り込んだ後、画像処理したが、自然な発色がむずかしかった

199107_18199107_19199107_23(左)アオノツガザクラ
(中)イワイチョウ
(右)キヌガサソウ
この花は形がきれいで名前もいい

まだ他にも写真があるが、続きは次回・・・。

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2006年4月 6日 (木)

【山】白馬岳(3)

あまりきれいな画像ではないが、白馬山荘前からのパノラマ写真。
山名がわかるので、あえて掲載した。
クリックして拡大画像をごらんいただきたい。

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2006年4月 5日 (水)

【山】白馬岳(2)

ぼくの山日記から。

90.6.22(金)夜~6.24(日)
白馬岳 (栂池~白馬大池~白馬岳~大雪渓)

6/22(金) 晴れ
立川発 22:05
新宿 22:50 新宿発 23:50(急行アルプス)
 7割程の乗車率 途中より座席4つ使ってぐっすり眠る
 松本でめざめる 快晴!

6/23(土) 快晴
 (ワッフル2ケ)
 後立山よく見える(爺、鹿島槍!)
白馬駅 5:33/6:00
 朝もやで山は見えず
 バスの中でおにぎり2ケ、ウーロン茶
 バスより白馬の山なみ見える
栂池自然園 6:55/7:25
199006_01_1好天!
いきなり急登 体調あまりよくなくて苦しい
イワカガミ、ミズバショウ、リュウキンカ
ショウジョウバカマ、エンレイソウ
休けい (雪渓 2085m) 8:15/:20
天狗原 8:40/9:05
 木道の途中の休けい所(ベンチ)
 (おにぎり2ケ)
 雪田の急登
 30分(120m)登った所でゴーロに出る
 ゴーロの上の雪田を誤って左方向へ
 (正しくは右へ大きくトラバースする)
 大阪学芸大慰霊碑の下に出る

199006_02_1三角点付近 10:00/10:25
 (ポカリスエット)
 はい松のゴーロ
 ミヤマキンポウゲの群落(風にゆれる)
 (写真はミヤマキンバイ

白馬大池 10:55/11:20
199006_03 (トマトジュース)
 雪田を登る(まぶしい、サングラスつける)
雪田上の小広い台地(2410m) 11:35/11:45
 小蓮華山雪倉岳が大きい!
 ミヤマキンバイ多い 風強い 20℃
船越の頭(2612m) 12:15/12:40
199006_04 日ざし強い 風強い チラッと杓子岳が立派
 (山頂、雲より顔出す)
 (ワッフル2ケ) フィルム2本使う
 長い登り

小蓮華山 13:20/13:30
199006_05 雷雲のきざしあり 先を急ぐ
 雪田あり
三国境の上 14:20
 ハクサンイチゲ、ウルップソウ(写真)
 風強くうまくとれない
199006_06199006_08199006_07(左)白馬岳山頂
(中)ハクサンイチゲ
(右)ツクモグサ


白馬岳山頂
 15:35/15:45
199006_09 風強く寒い
 杓子方向はガス
白馬山荘 15:55
 宿泊代 4300 コーヒー 200
 (熱いコーヒーで生き返る)
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 部屋は相部屋で3人
 自炊場、水が出ない
 食堂より分けてもらう
 (トイレ前は流水あり)
夕食 17:00~18:00頃
 (レトルトカレー、アルファ米、生たまご、ふりかけ、茶) 【注】自炊

外、ガスが晴れて雲海が見事
 (下の写真)剣岳
199006_11剣、立山~北ア南部(槍、穂高)
遠く白山 北側の山々も見える
日没を見に山頂へ
 山頂は風強く冷たいが、展望は最高
 フィルム使い切る(24枚×5本)
日没 19:20頃
199006_14199006_15夜、1階の談話室へ
(ストーブ、テレビ)
鑓温泉への道は危険とのこと
(アンザイレン必要)
就寝 21:00頃 ○○さんにはがき書く

・・・と、まあ、ここまでが前夜から初日までの記述。
われながらマメに書いていたものだ、とあきれる。
しかし、おかげで、この山行のフィルム(リバーサル)が途中までしか残っていなかった理由がわかった。

山日記の後日反省記として
 「好天に恵まれ、すばらしい山行となった」
 「1日目は予想以上の好展望と花を写真に撮りながらで、時間を食う」
 「フィルムは多めに持って行く事(36枚撮の方が良い)」
 「荷物の軽量化が課題」
と書いてあり、今読むとほほえましい。

ちなみに、出発時荷重 17kgは、さほど重くはないはずだが、夜行の疲れできつかったのかもしれない。
自炊道具、軽アイゼン、一眼レフカメラ、レンズ(35~70mm、135mm、90mmマクロ)、三脚、水筒(空)、他に食糧や雨具、防寒具などがその中身である。

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【山】白馬岳(1)

ハクバという呼び方を、ぼくはしない。
「しろうま」という伝統的で正しい呼称をつかいたい。

白馬岳(しろうまだけ) 2933m

 日本アルプスへの初見参が白馬(しろうま)岳であった人は少なくないだろう。 高峰へ始めての人を案内するのに、好適な山である。 大雪渓があり、豊富なお花畠があり、眺望がすこぶるよい。 私の知人で、この頂上から生まれて初めて日本海を見たという人もある。 (中略)
 この立派な山に、以前は信州側にはこれという名が無く、単に西山と呼ばれていた。 それがいつ頃からか代馬(しろうま)岳と名づけられ、それが現在の白馬岳と変わった。 代馬よりは白馬の方が字面がよいから、この変化は当然かもしれないが、それによってハクバという発音が生じ、今では大半の人がハクバ山と誤って呼ぶようになっている。 この誤称は防ぎ難い。 すでに膝元からして白馬(はくば)村と唱えるようになった。
 代馬岳という名の起こりは、山の一角に、残雪の消えた跡が馬の形になって現れるからであった。 田植にかかる前の苗代掻(なわしろかき)をする頃この馬の形が見え始めるので、苗代馬の意味で代馬と呼んだという。 (後略)
  ― 深田久弥 『日本百名山』 から ―

ぼくは、この山域へ三度行っている。

1990年6月下旬 (6/22夜~6/24)
 栂池~白馬大池~白馬岳(白馬山荘泊)~大雪渓
1991年7月下旬 (7/19夜~7/21)
 大雪渓~頂上宿舎(泊)~杓子岳・鑓ヶ岳~鑓温泉~猿倉
1996年6月下旬 (夜行一泊、大雪渓~頂上宿舎)
 このときの山行記録がないが、悪天で頂上は踏まなかった

いずれも、新宿発の急行アルプスという夜行列車を利用し、早朝に大糸線の駅に着くという、強行スケジュールだった。
最初の山行のとき、白馬山荘から鑓温泉に下る予定だったが、雪解けが遅く鑓温泉へのコースは危険(ザイルがないと危ないという小屋の人のはなし)と聞いて、大雪渓を下った。
この山行は、天候に恵まれ、すばらしい展望がえられた。

(写真は、白馬山荘前から南方向の展望) ※ 2006/4/6 山名を訂正
左から杓子岳、白馬鑓ヶ岳、手前に丸山、中央奥は立山連峰と剣岳)

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2006年4月 3日 (月)

【山】黄色いテント

田淵行男 さんという山岳写真家がいらした。
明治38年(1905)生れ、1989年に83歳で亡くなっている。
写真家でもあったが、ナチュラリストと呼びたい人だ。
この人の著作に 『黄色いテント』 という本がある。

Tabuchi_tent『黄色いテント』 田淵行男
(1985年 実業之日本社)

箱入りの立派な本だが、この箱の写真が好きだ。
田淵さんが愛用したテントの写真である。

― 『黄色いテント』 「自序にかえて」 より ―
 黄色というより橙色に近い色調で、蜜柑色と言ったほうが近い。 山好きな人には、さらにニッコウキスゲ色と言い直したほうが一段と通りがよいかも知れない。 私もそのテントに別の愛称をつけるとすれば、「キスゲ号」としたであろう。 (略)
  その頃、私の山行は、たいてい黄色いテントを担いでの一人旅であった。 山中三、四泊のことが多かったが、時に十日を越すこともあって、食糧だけでも相当の嵩と目方になった。 その上カメラが加わる。 (略)
 有難いことに、その頃の山はどこにテントを張ってもさしつかえなかったので、これはと思う所には体調次第、天候次第で、どこにでも自由にザックをおろすことが出来た。 (略)
 私の見つけるキャンプサイトは、ひそやかな谷間のこともあったし、ハイマツに囲まれた明るい砂礫の稜線のこともあった。 時に折り重なる巨岩の隙間を利用することもあった。 邪魔な石くれを取りのけるくらいでわけなくテントをひろげることが出来た。

Tabuchi_kinen安曇野に「田淵行男記念館」がある。
http://azumino-artline.net/museum/tabuchi/
もうずいぶん前に、いちどだけ訪ねたことがある。

ぼくもまた、黄色いテントをかついで、北アルプスの山々を歩いていた時期があった。
白馬(しろうま)、五龍、鹿島槍、劔、立山、槍、穂高・・・。
山小屋泊りも多かったが、テントやツェルトでの山行の記憶はことのほか強いのだ。

日本百名山にあげられている山々を歩いた思い出をこのブログに掲載しているが、いよいよ北アルプス山域にかかる。
1990年から92年頃にかけて、いちばん元気のあった頃の記録である。

9205_089205_07ぼくの愛用する 「黄色いテント」
ICI石井スポーツ製 ゴアテックス 2、3人用
写真は、1992年5月
(左)徳沢キャンプ場 (右)涸沢

― 田淵行男さんの本と、近藤信行さんによる雑誌連載記事 ―
田淵行男 『山の季節』 小学館文庫
近藤信行 「田淵行男 安曇野のナチュラリスト」 全20回連載
(「山と渓谷」’90年1月号~’91年8月号 山と渓谷社)

Tabuchi_bunko_1Tabuchi_yamakei_2    

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2006年4月 2日 (日)

【遊】今日の散歩(団地も花ざかり)

きょうは、曇り空。
風も出てきて、はやくもサクラのはなびらが散りはじめた。
はやいものだ。
ハナモモやシモクレンも満開。

♪ 散りゆく花に 涙して
 酒呑み族はたまらない 酒呑み族はたまらない
 と 言った具合で
 一年 365日 飲む  ― 高田渡 「酒心」 ―

4月16日は、高田渡さんの一周忌だ。

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2006年4月 1日 (土)

【遊】今日の散歩(小金井公園満開)

絶好のお花見日和。
午前中、車で都立小金井公園に行ってきた。

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いい写真がたくさん撮れた。

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【遊】満開

あたらしいデジカメで、初めて写真を撮ってみた。
なかなかいいカメラ。

きのう(3/31)の朝6時半頃、出勤前に撮ったもの。

P3310001_1P3310002_1P3310003_1団地の中、周辺も花ざかり。
ユキヤナギ、モモ(たぶん)、ソメイヨシノ。
ソメイヨシノの並木がサクラのトンネル状になっている。




P3310017P3310020最寄り駅のホームから見えたスミレ(オオタチツボスミレか?)。
御茶ノ水駅ホームから、聖橋の下に見えたサクラ。

下は、昼休みの食後、職場近くの公園(猿江恩賜公園)で。
広い公園はサクラの花ざかり。
金曜日の昼休みだというのに、花見の人だかり。
さすがに酒盛りしている人はいなかったけれど、お花見の集団がいくつもあった。

♪ 春のお酒はたまらない
 一分咲いたら 一寸一杯
 二分咲いたら 又 一杯
 三分咲いたら 本格的に呑む   ― 高田渡 「酒心」 ―

ぼくは、お酒を飲まないけれど、いい季節になったなぁ。

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