« 【読】世間 | トップページ | 【読】世間 (3) »

2006年9月21日 (木)

【読】世間 (2)

阿部謹也さんの「世間」論の続き。
Abe_kinya_seken_2『「世間」とは何か』 (講談社現代新書)は、日本に住むわれわれが「世間という枠組みの中で生きている」という主題のもと、日本の文学者たちが描こうとした「世間」の本質を解き明かそうとする労作である。
ざっと目次を紹介しよう。
序章 「世間」とは何か
第一章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
  歌に詠まれた「世間」  仏教は「世間」をどう捉えたか
第二章 隠者兼好の「世間」
第三章 真宗教団における「世間」 ――親鸞とその弟子たち
第四章 「色」と「金」の世の中 ――西鶴への視座
第五章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか ――明治以降の「世間」と「個人」
第六章 荷風と光晴のヨーロッパ

この本の要約がぼくにはまだできないので、「おわりに」(あとがき)から引用してみたい。
<私たちはしばしば「世の中はままならないものだ」という。 古人もしばしば「思い通りにならないもの」として世の中を歌っている。 無常観の底にはそのような想いも込められている。 しかし世の中が私達一人一人の思い通りにならないことは当たり前のことである。
日本人は何故このような嘆きを千数百年にわたって繰り返してきたのだろうか。 ここにも世間のあり方があると私は思う。 日本人はごく例外的な人を除いて個人であったことはほとんどなかった。 皆何らかの世間を構成し、その中で生きてきたのである。・・・>
<世間の問題は、私達自身を分析する試みである。 だから一部の人にとっては見たくないものを見せられるものとなるだろうし、心弾むものではないかもしれない。・・・>

阿部謹也さんが言うように、これまで誰も、この「世間」というものをまともに考えようとした人がいなかったのである。 とくに、日本の学者は、西洋流の「社会」という物差しでしか日本「社会」(じつは「世間」という古臭い実体)を分析しようとはしなかった。

<わが国の社会科学者は、学問の叙述に当たっては西欧的な形式を用いながら、日常生活の次元では古来の世間の意識で暮らしてきた。 したがって叙述の中に自己を示すことができなかったのである。 わが国の学問にはこのような問題があると私は考えている。・・・> (「はじめに」)

|

« 【読】世間 | トップページ | 【読】世間 (3) »

【読】読書日誌」カテゴリの記事

阿部謹也」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 【読】世間 | トップページ | 【読】世間 (3) »