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2006年10月29日 (日)

【読】浅草弾左衛門 (4)

Kokoro06_5Kokoro6_2塩見鮮一郎 『浅草弾左衛門』(三部作)をめぐって。
五木寛之さんの「日本人のこころ」シリーズ、左の二冊を読み返してみた。

五木さんは、「浅草は懐かしい街だ」という。
昭和27(1952)年、19歳の春に五木青年は福岡から上京。
「泊まる当てさえないフーテン学生」として早稲田大学文学部地下のアルバイト斡旋窓口で、「どんな仕事でもいい、当分の宿さえあれば文句はない」という思いで、豊島区椎名町の新聞配達店に住み込んで、自転車で業界新聞の配達をすることになる。
そこでの最初の担当地区は中央区(佃島、月島)だったが、しだいにエリアが広がって足立区、荒川区、墨田区、台東区といった東京の下町をペダルをこいで走り回るようになった。 そんな若い頃の思いでを反芻しながら、町屋(荒川区)のあたりを再訪し、次のように書いている (『日本人のこころ 6』)。

<・・・筑豊のボタ山が姿を消しても、やはり筑豊の匂いは残っているように、東京の下半身ともいうべき地域の匂いは、確実に残っているのを感じた。>
「下半身」というのが、いかにも五木さんらしい表現だと思う。 続けて――
<誤解がないように付け加えておくが、私は人間の本質は、下半身にあると考えているのだ。 上半身はその上に乗っかっているにすぎない。 江戸の文化も、東京の繁栄も、中心部から周辺部へと押しやられてゆく地域に根ざしている。・・・>

以下、五木さんの著述を要約する形で、いくつか書いておく。

江戸は大都会だった。
大都会は大量の代謝物をともなう。
ゴミ、犬猫の死体、行き倒れ人、廃物・・・、これらの不浄物を放置しておけば都市は腐臭を発しはじめる。
火事や災害の後始末、江戸中に流れる川や堀の清掃、大量の囚人や病人の管理、犯罪者の追及と処刑の実務。
こういった人のいやがる、いわば汚れた仕事、不浄な仕事を誰がやるのか。
江戸幕府は士農工商以外の階級を制度化し、そこにすべてを押しつけたのである。
非人、エタという身分はそういうものだった。

「非人」とは、仏教で出家した者をさす言葉だった。
さらに古くは、人間にあらざる生類を称し、やがて時代とともに乞食や遊女など、賤視された人々もこう呼ばれるようになった。
それが江戸幕藩体制下で制度化され、「非人」という身分が「法的に」確定されたのだった。

いっぽう、「エタ」(穢多という字が使われていた)身分は武士と切っても切れない関係にあった。
武士は、鎧、馬の鞍、槍の穂先といった武具に大量の皮革を必要とした。
足袋も、もともとは皮革製だった。
(木綿の足袋ができたのは、鎖国によって皮革の輸入がなくなったためである。)
皮革は、牛馬の死骸から皮を剥がし、それをなめすことで生産される。
それが死のケガレ(触穢思想)と結びついて、皮革を生産する人々が賤視されるようになった。
屠畜や食肉業にかかわていた人々が「屠者」と呼ばれ、蔑視されたのと同じ理由。

・・・とまあ、こういったことが、五木さんによってひとつひとつ解きあかされていくのが、上にあげた二冊の本だ。
芸能の起源と差別の関係も興味ぶかい。
エタ頭の弾左衛門、非人頭の車善七らのリーダーは、幕藩体制にがっちりと組み込まれて被差別民支配のための役割を担っていたが、いっぽうでは、被差別民の権利を守るために粉骨砕身した人たちでもあった。

さいごに、五木さんと塩見さんの対談から (『日本人のこころ 6』 講談社)。

塩見 江戸というのは、差別を制度化した社会なのです。ちょっとの違いをきちっと決めて動かないようにして、それで三百年保ったんだと思うんです。だから、ずっと変わらないわけです、はじめに決められたことが。
五木 江戸時代というのは、ある意味では自由であり、ある意味では闊達な面があって素晴らしかったという意見も多いですね。けれども、そうやって細かく制度化されて、着るものから付き合う人まで、あるいは食べ物や住居まで制限されていたというのは、ずいぶん厄介な時代でもあったんですね。

五木 元の吉原遊郭も、いまはほとんどコンクリートのマンションが立ち並んで、掘割も埋められてしまって、どこにもそういう痕跡はなくなっています。しかし、そういう痕跡の上にアスファルトを敷いて覆い隠していくのが、戦後の日本の歴史だという気がしてしかたがないんですよ。それは必ずしも、差別を撤去して平等な社会を実現しようということではなくて、見たくないものには蓋をしてしまえという発想だと思うんです。どんなにそれが辛くても、見るべきものはきちんと見ることによって自分たちの過去をふりかえるということが、本当は大事なことだという気がしますね。
塩見 差別の問題でも、それを取り上げるとおどおどするというのは、ちゃんと見るべきものを見ていないからです。どこかでひるんでしまうんですね。

長々とこだわってきたが、塩見さんの 『浅草弾左衛門』 という、じつにおもしろい大長編小説を読みながら、思うことも多いのだ。

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