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2007年1月19日 (金)

【読】性根

勢古浩爾さんという人が「根性」ということばを使っていたが、ぼくは「性根(しょうね)」ということばを使いたい。
「性根のすわった」人である。
なんのことか。


Akasaka_yanagita_yama_1『山の精神史』 (小学館ライブラリー) を書いた、赤坂憲雄さんという人のことだ。
これまで、このブログで何冊かとりあげたが、この学者さんは信頼できる。
― 『山の精神史』 1996年刊 著者紹介 ―
赤坂憲雄(あかさか のりお)
1953年東京生まれ。東京大学文学部卒業。現在、東北芸術工科大学・教授。日本思想史専攻。 ここ10年近くは、柳田国男が構想した日本の民俗学の固有の領土を検証する旅を続ける一方、最近は山形に拠点を求め、"東北学"をめざして、民俗の発見の野辺歩きを始めている。
主な著作に『異人論序説』(ちくま学芸文庫) 『境界の発生』(砂子屋書房) 『漂泊の精神史』(小学館) 『結社と王権』(作品社) 『遠野物語』(宝島社)など多数。

あと20ページほどで読了する。
ぼくの柳田国男への関心は、もとはといえば南方熊楠への関心からシフトしてきたもの。
柳田国男の著作(原テキスト)は、ほとんど読んでいないにひとしい。
それなのに、赤坂さんの柳田国男論がこれほどおもしろいのは、赤坂さんの「性根のすわった」取り組み方というか、執念といっていいほどのこだわり方、熱い思いが、ぼくに訴えてくるからだろう。

たとえば、今日読んだこんな部分だ。
<柳田国男の、ことに昭和にはいってからの思想の核に置かれたものが、常民をめぐる理念であったことについては、たぶん異論のさしはさまれる余地があるまい。 だからこそ、常民とは何かという問いは、柳田の思想を根柢から了解するためのキー・コンセプトとして、飽かずくりかえし問われてきたのだ。 さまざまな角度からの、さまざまな答えが提示された。 その多くは、柳田のテクストのそこかしこに散らばっている常民をめぐる記述の断片と、解釈者の側の過剰な/過小な思い入れや期待とがない交ぜにされたもので、柳田の思想を発生的に了解したいという、わたし自身の欲望を満足させてはくれない。>
(『山の精神史』 小学館ライブラリー 第七章/平地人と常民 P.325)

この引用だけだと、かた苦しい本と思われそうだが、そうではない。
写真、図版が豊富。 著者がじぶんの足でたどった柳田国男の足跡、赤坂さん自身の旅先でのエピソードなどは人間味あふれるものだ。

それにしても、と思う。
柳田国男という、とらえどころのない巨人。
書店にいけば、数十巻もある分厚い「柳田國男全集」(一冊6,000~8,000円もする!)がぼくを威圧する。
もちろん文庫も出ていて、読み物としておもしろいものもあるが、とにかくその全貌がとらえにくい。
また、柳田門下生や後続の学者連中が、妙にもちあげたり、けなしたりして、おかしな虚像ができあがっている。

赤坂さんが若い頃から続けている作業は、そういった虚像からできるだけ遠ざかった地点で、柳田国男の思想を原点から検証するもの、といったらいいのか。
ぼくは、学者でもなく学究の徒でもないから、いたって気軽なきもちで読んでいるが、おもしろい。 おもしろいとともに、得るところも多いのだ。

ところで、どうでもいいことだが、ぼくはやはり柳田国男よりも南方熊楠の人間味にひかれる。
うーん、今夜も理屈っぽくなってしまったな。 いやはや。

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