【読】なつやすみのにっき (2)
きょうも、あさからあつくてたまりません。
せんぷうきをまわして、なんとかがんばっています。
すぐちかくのとしょかんから、ほんをかりてきました。
すがえますみ、というえどじだいのひとがのこした「えにっき」のようなものです。
すがえますみは、みかわのくに(いまのあいちけん)にうまれ、さんじゅっさいのころから、こきょうをはなれて、とうほくちほう(みちのく、といいました)や、ほっかいどう(えぞち、といいました)をたびして、いっしょうをおえたひとです。
このひとがのこした「え」は、とてもじょうずです。
わかいころに、えのべんきょうもしたようです。
いまとなっては、とうじのひとびとのくらしぶりがよくわかる、きちょうなしりょうになっています。
どこかにいってしまって、なくなったものもおおいようです。
このほんは、さんさつで、さんまんきゅうせんえんもする、こうかなものです。
としょかんには、なぜだか、じょう、ちゅう、げ、のさんかんのうち、にさつしかありませんでした。
旅に生きる ――菅江真澄の記録―― (須藤 功)
『日本に生きる 17 東北編 I 』 国土社 P.92- から
いまからおよそ二百年ほど前、正確には天明四年(1784年)の九月、ひとりの旅人が越後国から出羽国にはいりました。 旅人は菅江真澄という人です。
菅江真澄は宝暦四年(1754年)に三河国(愛知県)に生まれたのはたしかですが、三河国のどこの村で大きく育ったのかははっきりしません。 また、どういう動機で旅にでるようになったのかもわかりません。 とにかく、天明四年に出羽国に足をふみいれたあとは、文政十二年(1829年)に七十六歳で世を去るまで旅の身空でした。 その間に故郷には一度も帰っていないようです。 菅江真澄は旅日記や地誌、また絵画など数多くの記録を残しているのですが、それらの中にも生まれたところや旅の動機についてはまったくといってよいほど、ふれられていないのです。 (略)
菅江真澄の数多くの記録は、福島県をのぞく東北五県と北海道南部を旅したときのものです。 そのころの旅ですから真澄のような者には足以外にのりものはなく、その記録も真澄自身が足で歩き、肌にふれるようにして見て聞いてしたためたものです。 道ぞいの風景、人びとの話しことば、家ごとに行われる行事・祭り、その土地に伝わるむかし話など、その内容はいずれも支配階級ではないごくふつうの人びとのくらしぶりが書かれています。 そこから江戸時代後半の東北や北海道南部の人びとの生活のようすを読みとることができます。
その中で、真澄の陸奥の旅は大きく二度にわけられます。 はじめは天明五年(1785年)から同八年(1788年)にかけて、真澄が三十二歳から三十五歳のときのものです。 そのときの記録にはつぎのようなものがあります。
『けふのせば布』、『かすむ駒形』、『はしわの若葉』、*『月の松島』、『雪の胆沢辺』、『凡国異器』、*『雪の松島』、『花の松島』、『岩手の山』、『外が浜づたい』
*印のものは書名はわかっていながらその記録がまだ見つかっていないものです。 しまいの『外が浜づたい』は北海道に渡るために津軽半島東岸を行ったときの旅で、天明八年(1788年)七月なかば、真澄はかねてからのぞんでいた北海道に渡ります。
二度目の陸奥の旅は、その北海道から帰ってきたときのものです。 寛政四年(1792年)十月、真澄は四年ほどいた北海道をあとにして、下北半島の奥戸(おこつぺ・青森県大間町)というところに帰りつきました。 そしてそれから三年ばかり、真澄は下北半島をあちこちと歩いています。 そのときの記録にはつぎのようなものがあります。
『牧の冬枯』、『奥の浦うら』、『牧の朝露』、『尾駁(おぶち)の牧』、『奥の手ぶり』、*『千引の石』、『牧の夏草』、『奥の冬ごもり』
しまいの『奥の冬ごもり』のあとは津軽へまわり、ついでに秋田にはいるのですが、それは第18巻・東北編 II にゆずります。 (以下、略)
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