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2008年4月23日 (水)

【山】こんな山小屋があったな

『大江戸テクノロジー事情』(石川英輔、講談社文庫)というを読んでいて、しみじみと思いだした「場所」がある。

Me2プロフィールの画像として使っている、この写真の後ろに見える山小屋のことだ。
これまで、あまり書かなかったのには、ちょっとしたわけがある。
ひと頃、縁あってずいぶん通ったところだが、その後、これまたわけあって、まったく行かなくなってしまった。

冬期は営業していない(左の写真は、冬期閉鎖中の小屋の前)。
だいたい4月から10月の間、約半年の営業。

山小屋にもいろいろあって、北アルプスの大きな山小屋のように、ちょっとした旅館、ホテル並の設備・サービスのところもある。
だが、だいたいどこも、事情は同じだ。

高山の上まで電線など通じていないから、電気は自家発電。
電話線も通じていない。
(無線電話や、最近では携帯電話を使っているようだ。山の上ではけっこう携帯電話が通じる)
暖房や炊事は、プロパンガスか石油。
もちろん水道が引かれているはずもないので、天水(雨水)か流水、湧き水を利用する。
トイレも溜め込み式(水を流しているところもあるが、汚水処理が問題)。


私が何年かお世話になっていた山小屋も、そんな環境だった。

電気は、必要最小限の自家発電。
その燃料は、春先の小屋開けのときにヘリでまとめて揚げる。
プロパンのボンベも、春先にヘリでまとめて荷揚げする。

電気を使うのは、主に、夜間の照明用。
それと、冷凍冷蔵庫用。
(登山客に出す食事に気を使う小屋だったので、冷凍食材の保存が必要だったためだ)
夜が更ければ、発電機は止めてしまう。
灯油ランプもたくさん置いていて、よく使っていた。

暖房は、基本的に薪ストーブ。
標高2400メートルほどの場所にあったので、真夏でも朝夕は燃やすことが多かった。
薪ストーブは、お湯を沸かす目的にも使われる。
貴重な熱源だ。
薪は、小屋の周囲の林から営林署が許可した範囲で伐採し、乾燥させ、小さく切ったり割ったりして保存していた。
そういえば、秋に「薪出し」といって、木を伐採し、背負子で小屋まで運んで薪切り、薪割りを手伝ったこともあった。

石油ストーブなどは、もったいないのでほとんど使わなかった。
薪ストーブで豆炭をおこして、アンカに入れ、炬燵に使っていた。
お客さんが多いときは、薪ストーブを赤々と燃やして、これがなかなかよかったのだ。
この小屋へ向かって山道を登っていくと、薪ストーブの煙の匂いがして、ああ、もうすぐだなと思ったものだ。

そして飲料水だが、これは天水利用が中心。
屋根から雨樋で水をあつめ、おおきなタンクにためて使っていた。
近くに湧き水(うまい清水)があったので、そこから運んで、やはりタンクにためていた。
近くといっても、歩いて数分のところなので、18リッターのポリタンクにつめ、背負子でかついで運んでいた。
これは重労働である。
だから、汲んできた清水は大切に使った。

日照りが続くと、天水が得られなくなり、いつも心配の種だった。
あれほど、水を貴重に感じたことはなかったな、と懐かしく思いだす。



話はそれるが、この山小屋で何年か働いていた友人と、いまでも親しくしている。
友人といっても、私よりずいぶん年少の女性である。

その人と、つい先日も話したことだが、あの山小屋での生活(彼女は、年の半分はその小屋に住み込んで働いていたから)を思えば、下界(平地)の暮らしは天国だよね、と。
なんたって、水道の蛇口をひねれば、水が使い放題というのだから・・・。
電気、ガスも同様だ。

ちょっとの間でも使えなくなったら、もうお手あげ、という生活に慣れきってしまったけれど、あの山の上の生活を思いおこせば、たいていのことは我慢できそうな気がする。


私は、その山小屋で生活していたわけではないが、毎週のように通っていた時期があった。
お客でもなく、従業員でもない、「お手伝い」のような立場だった。
「居候」という、これまた懐かしい呼ばれ方をしていた人たちが、その小屋にはたくさんいて、私もその一人だった。
ボランティアというのともちょっと違う、好きで通っている人たち。
小屋主さんとの相性もあって、誰でも希望すればなれるというものではなかった。
客として通っているうちに、いつしかなんとなく、居候にしてもらった、という感じか。

繁忙期には、荷揚げ(ボッカ)を手伝ったり、炊事や洗い物、掃除、蒲団のあげおろし、など、もろもろの山小屋の仕事を、楽しみながら手伝っていた。
よく晴れた日には、蒲団干しもしたっけ。
宿泊者用の蒲団だから、半端な数ではなかった。
小屋のまわりは岩場だったので、岩の上や二階の窓から屋根に登って干した。

食事は、お客さんの食事が終わり、後片付けをしてから、小屋のひとたちといっしょにいただいていた。
もちろん、報酬などもらわないし、もらうつもりもなく、まさに「お手伝い」させていただく、という感じだった。
「特権」は、宿泊費がかからないこと。
山好きにはうれしいことだった。


なんとも不思議な場所だったと思う。
夜、お客さんをまじえて、酒を飲み、歌をうたい、ときには外に出て満天の星を見あげる。
翌日も、暗いうちからお客さんの朝食の用意のために早起きはするけれど、登山者が出発してしまえば、あとはのんびりと過すこともできた。
なかば、山小屋とその周辺で遊ばせてもらっていたような、そんな立場でもあった。

「私の大学」 という言葉がぴったりの空間だったなと、よく思う。
そこでは、学校で得られない、いろんなことを学んだ気がする。
めったにできない体験をさせてもらっていたのだ。

いま、懐かしく思いだしたので、書いてみた次第。

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コメント

「私の大学」・・まさにこの言葉がピッタリ来る状況ですね。私にとっての「大学」は一体何だったのだろうと考えさせられました。過去のすべて・・そんな気がしました。

投稿: 玄柊 | 2008年4月23日 (水) 23時42分

懐かしい写真ですね。
もしかして、隣に私のテントがあったりして...(笑)
私もここ数年はこの小屋はご無沙汰です。
一時期私も結構通ったんですけどね。
ここと北岳は思い出がいっぱいの山です。

投稿: 黒豹の保安官 | 2008年4月24日 (木) 15時35分

>玄柊さん
いい小屋でした。
私にとっては過去形でしか語れない場所ですが。

>黒豹の保安官さん
積雪期に二度ごいっしょしましたね。
私は、元小屋番さんと、もう一度行ったことがありました。
北岳もなつかしい山です。
南アルプスでは、甲斐駒、塩見。
仙丈へはごいっしょしませんでしたっけ?
雲取山もなつかしい。
数えてみると、ずいぶんたくさんごいっしょしましたね。
また、キャンプ場でお会いできることを願っています。

投稿: やまおじさん | 2008年4月24日 (木) 20時42分

>黒豹の保安官さん
思いだしました。
仙丈は、頂上下のカールでテントを張りましたね。
寝心地の悪いテント場でした。
うーん、思えばあの頃はまだ元気がありました・・・。

投稿: やまおじさん | 2008年4月24日 (木) 20時45分

仙丈、確かにご一緒しましたよ。
あのカールは今はテント禁止になっているはず。
斜面にテントを張るしかないので、寝にくかったです。
でも山に登るのに出発点から下るという工程に不思議な印象を持ちました。

北沢峠にテントを張って、甲斐駒にも登りましたね。
北岳にも二度ご一緒しています。

北岳から塩見への縦走は本当にすごく楽しかったです。

赤岳にも行者小屋にテントを張って登ったし、
冬の赤岳鉱泉にも泊まりましたね。

雲取の避難小屋、奥多摩小屋前のテント泊、冬の川苔山も印象的でした。
奥多摩は冬が多かったですね。

今は回りにたくさん山があるというロケーションに恵まれているのになかなか
登れません。

去年は御岳山と白馬大池までの日帰り登山のみでした。

投稿: 黒豹の保安官 | 2008年4月28日 (月) 14時01分

>黒豹の保安官
ずいぶんたくさんご一緒しましたね。
どれも懐かしい思い出です。
なかでも、北岳から塩見への縦走は忘れられません。

また、妙高のキャンプ場でご一緒したいものです。

投稿: やまおじさん | 2008年4月28日 (月) 21時02分

妙高の日程が決まったら連絡ください。

投稿: 黒豹の保安官 | 2008年4月29日 (火) 10時07分

>黒豹の保安官
家人の体調しだいですが・・・決まったら連絡します。

投稿: やまおじさん | 2008年4月29日 (火) 10時32分

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