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2008年5月18日 (日)

【遊】小平ふるさと村 (2)

小平の地は、江戸時代初期の玉川上水の開通にともなって開発が行われた新田村です。 かつては青梅街道をはじめ、東西に走る各街道沿いに屋敷森に囲まれた農家が並び、街道をはさんで農家の南北には短冊型の畑が続いていました。…… (「小平ふるさと村」 パンフレットより)

きょうは、「小平ふるさと村」 の移築復元家屋を、すこし時間をかけて見てみた。
ここは管理がしっかりしていて、メンテナンスが行き届いており、好ましい施設だ。
公開時間は、午前10時から午後4時までだが、入園無料というのもうれしい。


小平ふるさと村/東京都小平市
http://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/001/001345.html

(サイト記事転載)
小平の歴史を伝える茅葺屋根の農家や水車小屋などの建物7棟を移築または復元し、保存・公開している古民家園です。
小平の地は、江戸時代初期の玉川上水の開通にともなって開発された新田村落です。水の乏しい荒野を切り開いて、ようやく人が住めるようにした先人達の労苦をしのび、誰もが持つふるさとへの郷愁にひたることができます。年中行事の再現なども行っています。


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旧小川郵便局舎
 市指定有形文化財第1号 昭和58年3月31日指定

明治41年(1908)竣工、小川町1丁目1075番地にあった。
大正2年(1913)、青梅街道を140m東へ曳屋し、小川町1丁目2095番地に移転。
実際に、昭和58年(1983)まで現役で使われていたというから、驚く。

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旧神山家住宅主屋
 市指定有形文化財第8号 平成4年3月27日指定

茅葺のりっぱな農家。
江戸後期(19世紀初め)の建物と推定されている。
神山家のある回田町(めぐりたちょう)は、江戸時代、廻り田新田と呼ばれ、小平で最もちさな新田村だった。
享保11年(1726年)の廻り田村(現東村山市)を親村として、野中新田の一部を買い取って発足。
当初は、屋敷をつくり定住する者もいなかったが、元文年間(1736から1740)頃からは次第に新田内に屋敷を構え定住する農民も現われ、明和8年(1771年(の検地時には15軒の農家が定住していた。
(案内パンフレットより抜粋)

入口(大戸)を入ったところが広い土間。
左側に座敷と勝手(台所)、左奥に二間ある。
土間のへっついが懐かしい。

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旧鈴木家住宅穀櫃(こくびつ)
 市指定有形文化財第9号 平成4年3月27日指定

これも江戸末期(19世紀中頃)の建造物。
穀櫃は「ヘーグラ」とも呼ばれ、江戸後期、天災や飢饉のため幕府の備荒貯蓄策によって各村に備えられた稗倉のこと。
穀(石)櫃、穀箱ともいわれ、多くは村の役宅に置いて管理されていた。
中には稗やアワなどの穀類が備えられ、災害や飢饉の際に村人に供給された。
桁行三間、梁間一・五間、床から天井までの高さ六尺、百五十石入り。
(案内パンフレットより抜粋)

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開発当初の復元住居

江戸初期(17世紀中頃)にあった民家を、古文書(小川家所蔵)を頼りに復元したもの。
丸太の柱を掘立てにし、藁または茅麦藁などで屋根を葺き、細竹を編んだ床、あるいは籾殻、藁屑などを敷き、その上に筵を敷く……という、現代の木造建築の常識からはかなり遠いもの。
江戸初期の農家としては、普通の造りかたであったと思われる……と、パンフレットに書いてある。
内部は、けっこう広いが、とうぜん薄暗い。

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旧小川家住宅玄関棟
 市指定有形文化財第10号 平成5年3月1日指定

旧小川村及び小川新田村の開発事業の中心的役割をはたしてきた名主の小川家(現在の小平市小川町1丁目2370番地)に代々継承されてきたもの。
文化2年(1805)竣工。
主屋(母屋)とは別棟として建てられ、主屋と廊下で接続している。
一般の名主宅で見られる六ツ間取り、式台、玄関座敷の形式とは異なるという。
間取り図を見ると、式台、玄関の間、その左に控えの間、奥に納戸がある。
(案内パンフレットより抜粋)

これが玄関だというから、あまりの立派さに驚いてしまった。

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水車

明暦2年(1656)、小川村が開かれると間もなく、玉川上水から樋口一尺四方の分水を受けた。
分水は村の入口で青梅街道の南と北の水路に分かれ、村の飲料水として利用されていたが、享保年間以降に小川新田・大沼新田が開かれると、その末流がそれらの村々の飲料水となった。
この分水には水車が盛んに仕掛けられるようになったが、そのほとんどは自家用ではなく商売用として脱穀・製粉するためのものだった。
『上水記』によれば、天明8年(1788)調べで、玉川上水の分水にかかる水車は33カ所にのぼった。
(案内パンフレットより抜粋)

江戸時代の自然エネルギー利用の知恵である。
水車は、戦後しばらくまで、あちこちで使われていたという。
この水車は、復元されたものだが、まわっていた。

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コメント

神山家は当時まだ家族が住んでいたのを、市長が突然来て家を文化財として差し出してくれとねだったそうです。途方もない話ですが気前よく無償で家を差し出したのだ、と話すのは御年85歳の御当主で、この人の貴重な昔話を定期的に近所の氷川神社境内で聞く事が出来ます。神山家は農暇期は炭焼きを生業としていたそうで、屋号は「炭屋」
「だから俺は炭屋の金ちゃんって呼ばれてたんだよ、今はもう誰もよばないけどね」と笑って話しておられました。
神山氏の話は一から十まで「つまらない」というものがない。もしお時間があれば是非一度伺ってみて下さい。
長文失礼しました。

投稿: よざえもん | 2012年7月10日 (火) 00時03分

>よざえもん さん
コメント、ありがとうございます。
お書きいただいたエピソード、興味ぶかいものですね。
小平を離れてしまいましたが、隣りの市に住んでいますので、また自転車で行ってみようと思います。

投稿: やまおじさん | 2012年7月10日 (火) 06時38分

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