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2008年7月 6日 (日)

【読】添田唖蝉坊

こんな本を、少しまえに近くの本屋で見つけた。

Azenbou_hayariuta_2『流行り唄後十年 唖蝉坊は歌う』
 添田知道(そえだ・ともみち)
 小沢昭一 解説・唄
 朝日選書 105  2008.4.30

添田知道は、添田唖蝉坊の長男。
1902年、添田唖蝉坊の長男として東京に生まれる。
1919年頃より父の演歌制作に加わり、芸名・添田さつきとして共に街角で歌う。
昭和になってからは小説・随筆を書き、『教育者』で新潮賞、『演歌の明治大正史』で毎日出版文化賞受賞。 1980年3月18日、77歳で死去。
― 本書 著者紹介より ―

この新書には、小沢昭一の歌うミニCDが付いている。

Ozawa_azenbou唖蝉坊のつくった歌は、高田渡やソウル・フラワー・モノノケ・サミットなどによって歌われている。

高田渡
 「ごあいさつ」 ―しらみの旅―
 「Best Live」 ―イキテル・ソング―

ソウル・フラワー・モノノケ・サミット
 「レヴェラーズ・チンドン」 ―むらさき節―
 「アジール・チンドン」 ―ラッパ節―

また、添田知道(芸名:添田さつき)の歌が、おなじくソウル・フラワー・モノノケ・サミットによって歌われている。

ソウル・フラワー・モノノケ・サミット
 「アジール・チンドン」 ―復興節、東京節―

Takada_wataru_goaisatsuTakada_wataru_best_live_4Soul_flower_levelers_chingdong_5Soul_flower_asyl_chingdong








久しぶりに、高田渡さんの 「Best Live」(二枚組)を聴きなおして、あらためて気づいたのだが、青柳利博さん(ギター)と久美子さん(アコーディオン)が渡さんのバックプレイヤーとして聴ける。
(1997年5月5日、吉祥寺ハバナ・ムーンでのライブ録音、8曲)


「イキテルソング」 ――大正7年、米騒動の頃につくられた歌。
 ♪ 生きたガイコツが踊るよ踊る
   ガイコツどんなこというて踊る、よ
   やせたやせた外米食うて痩せた
   日本米恋しいというておどる …… ♪


―以下、Wikipediaより転載―
http://ja.wikipedia.org/wiki/

添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)
1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1944年(昭和19年)2月8日)
昭和の演歌師の草分けである。
号は、自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来。

神奈川県の大磯の農家の出で、四男一女の三番目の子として生まれる。

叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、1890年(明治23年)、壮士節と出会う。当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のものである。

唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、1892年(明治25年)の作である。これ以降、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。

1901年(明治34年)に結婚し、本所番場町に居を構えた。翌年長男の添田知道(添田さつき)が生まれる。この頃、友人と始めた「二六新報」がうまくいかず、茅ヶ崎に引っ込むが、「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった「ラッパ節」が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行する。これがきっかけで、堺利彦に依頼されて、この改作である社会党喇叭節を作詞。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になるなどし、その演歌は、社会主義伝道のための手段になる。

1910年(明治43年)、妻タケが27歳で死去。唖蝉坊は悲嘆して、知道の妹は他家に養子にやられる。やがて唖蝉坊は、当時の有名な貧民窟であった下谷山伏町に居を定めた。なおここは、一軒が四畳半一間、それが十二軒ずつ四棟、計四十八軒ならんでいたので、「いろは長屋」と呼ばれていた。

その後、全国行脚をしながら、屑屋の二階に居候。そこで死去した。浅草、浅草寺の鐘楼下に添田唖蝉の碑が、添田知道筆塚と共にある。

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コメント

まったく、聞いたことのない人でした。この世には、いろいろな人生を送る人がいるものですね。
高田渡が歌っていたというのは、何となくうなずけるような気がします。

投稿: 玄柊 | 2008年7月 7日 (月) 21時07分

明治から大正、昭和(戦前)にかけて、このような面白い人物がいろいろいますね。
高田渡サンも変わった人で、初期アルバムの頃からこのような歌を歌っていました。
現代詩人の詩を使った歌も、デビュー当時から歌っていたことに、あらためて驚きました。

投稿: やまおじさん | 2008年7月 8日 (火) 21時26分

小沢さんのこの系統の本、非常に興味深いのですが、知らない曲が多すぎて理解しきれません。10年後、20年後くらいには理解できるかなあ?というつもりで本は買ってますけど。

添田さん関係のCDだと

大道楽レコードから発売されている「街角のうた~書生節の世界」が面白いです。モノノケのCDもこのCDを参考に選曲していますからね。

投稿: こまっちゃん | 2008年7月 8日 (火) 23時49分

>こまっちゃん
私も小沢昭一さんの書いたもの(例えば『日本の放浪芸』)は、よく読んでいません。
『日本の放浪芸』のレコード(5枚組だったかな)を持っていましたが手放してしまいました。CDで再発売されていますね。

この本、小沢さんが書いているのは巻頭の解説だけで、本文は添田知道さんの書いたものです。
(親本=昭和30年朝日新聞社刊の復刻)

教えてくださったCD(大道楽レコードというレーベルがこれまたいいですね)、探してみます。

投稿: やまおじさん | 2008年7月 9日 (水) 06時05分

ソウルフラワーモノノケサミットの動画、youtubeに載せてますのでご覧ください。

http://jp.youtube.com/watch?v=sppD3v0AIX8

セットリスト

 1.美しき天然
 2.カチューシャの唄
 3.聞け万国の労働者
 4.東京キッド
 5.アリラン~密陽アリラン
 6.お富さん
 7.島育ち~19の春
 8.満月の夕
 9.ひやみかち節
10.安里屋ゆんた
11.インターナショナル
12.復興節~東京節
En.さよなら港

全曲UP予定です。

投稿: こまっちゃん | 2008年7月13日 (日) 20時41分

>こまっちゃん
お知らせ、ありがとうございます。
ADSLだとちときついかなぁ。
そろそろ「光」かぁ…。
教えていただいたCDの方は現在入手困難なので、辛抱づよく探します。

投稿: やまおじさん | 2008年7月13日 (日) 20時58分

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