【楽】国立「奏」ライブ
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友人が、こんなCDを貸してくれた。Bottesini: Musik fur kontrabass und strieichquintett
ジョヴァンニ・ボッテジーニ
(Giovanni Bottesini, 1821年12月22日 - 1889年7月7日)
イタリアのコントラバス奏者、作曲家、指揮者である。
その卓越した技巧から「コントラバスのパガニーニ」の異名をとった。
― Wikipedia ―
コントラバスと弦楽五重奏による演奏。
コントラバス奏者は、私と友人の高校時代の同期生。
文屋 充徳 (ぶんや・みちのり) という。
高校の時からコントラバスを演奏し、指揮もしていた。
卒業いらい、私は会っていないが、ドイツに移住して活躍しているという噂は聞いていた。
ボッテジーニという作曲家の音楽もはじめて聴いたが、コントラバスでこれほど細やかな表現ができるものなんだ、と感心した。
とてもいいアルバムだ。
Amazonで入手可能。
http://www.amazon.co.jp/Bottesini-Musik-fur-kontrabass-strieichquintett/dp/B00004Y6VD/ref=sr_1_12?ie=UTF8&s=music&qid=1222439374&sr=1-12
作曲: Giovanni Bottesini
CD (2000/9/26)
SPARSコード: DDD
ディスク枚数: 1
フォーマット: Import, from US
レーベル: Audite
収録時間: 63 分
ASIN: B00004Y6VD
また、ネット検索してみたところ、文屋氏に触れたこんなサイトもあった。
んもど-コントラバスのCDについて罵詈雑言-
http://nmodo.jugem.jp/?eid=6
どういう方は存じあげないが、このCDを絶賛してくださっている。
自分のことのように、なんとなく、うれしい。
同期のよしみ、というものである。
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ちょっと読み直してみようと軽い気持ちで開いているうちに、がぜん面白くなってきたので、通読してしまった。
二年前に手に入れて読んでいるが、今回、再読。
山田風太郎 『同日同刻』
― 太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日 ―
ちくま文庫 2006.8.10 840円(税抜)
(立風書房 1979年8月/文春文庫 1986年12月)
このブログのカテゴリにも、「山田風太郎」 を追加したので、ご興味のある方はカテゴリをクリックしてご覧いただきたい。
すでに、前回読んだときの付箋がいっぱい付いていたのだが、付箋のない箇所で今回気になったところを紹介しておこう。
「最後の一日 八月十五日」 の項から。
九日前の八月六日に原子爆弾を投下された広島での逸話。
昭和天皇の 「玉音放送」 を聞いた人たちのことだ。
出典は、峰谷道彦 『ヒロシマ日記』 (朝日新聞社)。
<広島の病院では、天皇の放送をきいて俄然静まりかえった。 寂(せき)として声なく、しばらく沈黙がつづいていたが、間もなくすすり泣きの声が聞え出した。
突然、誰か発狂したのではないかと思われるほど大声で、「このまま敗けられるものか」 と怒鳴った。
それにつづいて、矢つぎばやに、「今さら戦争をやめるとは卑怯だ」 「人をだますにもほどがある」 「敗けるより死んだ方がましだ」 「何のために今まで辛抱したのだ」 「これでは死んだ者が成仏出来るか」 いろんな表現で鬱憤が炸裂した。
病院は上も下も喧々囂々(けんけんごうごう)全く処置のない昂奮に陥った。 日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭き切っていた者も、すべて被爆のこの方俄然豹変して徹底的抗戦論者になっていた。
「東条大将の馬鹿野郎、腹を切って死ね」
と、怒鳴った者もあった。>
この本では、広島の被爆後の地獄絵図が、たくさんの書き物(日記、手記、文集)を引用して、微細にえがかれている。
それを読んだ後だったので、私には、広島の病院の被爆者たちの反応が意外に思えた。
人間とは、なんと不思議なものか。
もう一箇所、ちょっと、ひっかかった部分がある。
堀田善衛(当時十七歳)の文章。
出典は、勁草書房 堀田善衛 『上海にて』。
<上海にあった二十七歳の堀田善衛は、同様に戦争中日本に協力してくれた中国人の運命について、天皇が 「何をいうか、何と挨拶するか」 ひたすらにそればかりを注意して聞いていた。 そして天皇がそのことについて、ただ 「遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」 という曖昧な二重否定をしたきりで、ほかには触れなかったその薄情さ加減、エゴイズムが躯(からだ)に応えた。
「放送が終ると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ。 お前の言うことは、それっきりか、それで事がすむと思っているのか、という怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた」>
中国、朝鮮半島の人々にとって、この日(八月十五日)は、解放の日だったことを忘れてはいけないと思う。
ちょっと愉快だったのは、永井荷風の逸話だ。
この人だけは、飄々としていた。
出典は、『断腸亭日乗』 (荷風全集)。
<絶望し、悲嘆し、慷慨し、狼狽し、虚脱する者ばかりではなかった。 ひそかに、あるいは公然と喜悦する人もまたあった。
谷崎潤一郎に見送られたあと、永井荷風は記す。
「……出発の際谷崎夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及び牛肉を添えたり。 欣喜措く能わず。 (中略=山田風太郎) 午後二時過岡山の駅に安着す。 焼跡の町の水道にて顔を洗い汗を拭い、休み休み三門の寓舎にかえす。 S君夫婦、今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言う。 恰もよし日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る。 休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。」>
この本は、じつに面白い。
面白いと言うにはつらすぎる話が満載されているが、きわめて興味ぶかい本だ。
あらためて、推奨。
【参考】 ― Wikipedeiaより ―
堀田善衛(ほった よしえ、1918年7月7日 - 1998年9月5日)は、日本の小説家。
富山県高岡市出身。生家は伏木港の廻船問屋であり、当時の日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた。旧制金沢二中から慶應義塾大学に進学し、文学部仏文科卒業。大学時代は詩を書き、雑誌「批評」で活躍、その方面で知られるようになる。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで終戦を迎え、国民党に徴用される。引揚後、一時期新聞社に勤務したが、まもなく退社し、作家としての生活にはいる。
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まったく自信はないが、鳴いているのはスズムシだろうな。
東京でも、このあたりは草地が多いので、秋の虫の音はやかましいほど。
夜も涼しくなった。
窓を開け放していると、秋の風がはいってくる。
この夏は、とうとうエアコンのスイッチを入れなかった。
よくがんばったな。
スズムシのことをネットで調べていたら、こんなサイトを発見。
百科事典や雑誌といった紙媒体だったものも、ネットの時代になったということか。
ナショナルジオグラフィック 公式日本語サイト
http://www.nationalgeographic.co.jp/index.php
ところで、ハナシかわって、石黒ケイという歌い手がいた。
一時期、山崎ハコさんと同じ事務所に所属していて、ハコさんとのジョイント・コンサートに足をはこんだこともあった。
渋谷 「ジャンジャン」 で、彼女だけのライブを聴いたこともあった。
ベルベット・ヴォイスといえばいいのか、この人の甘い歌声は好きだった。
今はどうしているのだろう。石黒ケイ 「アドリブ」
このブログで、ずっと前に紹介したこともあるが、彼女のベスト・アルバムだと私は思っている。
プロデュースは五木寛之。
「サフランのように」 という、岡本おさみ作詞の歌が収録されている。
♪ 花の名前も 知らないままに
女ひとり 旅から旅へ
渡り歩いて 唄暮らし
きまぐれ雨が 追いかける
雨にぬれてる サフランのような
哀しい恋歌 いかがですか いちりん …… ♪
JASRACから指摘を受けそうだが、一番の歌詞をまるまる書き写してしまった。
花の名前、虫の名前、知らないことが多すぎる。
子どものころ、もっと自然に親しんでいればよかった、と思う今日この頃なのだ。
【アルバム情報】
石黒ケイ 「アドリブ」 ビクター・エンタテインメント 1980年
<収録曲>
暗闇のラブ・ソング (作詞・作曲:山崎ハコ、編曲:鈴木宏昌)
憎いあんちくしょうのブルース (作詞:ヨシモトレイ、作曲:石黒ケイ、編曲:渋谷毅)
サフランのように (作詞:岡本おさみ、作曲:石黒ケイ、編曲:前田憲男)
鍵 (作詞・作曲:山崎ハコ、編曲:北村英治)
本牧挽歌 (作詞・作曲:石黒ケイ、編曲:杉本喜代志)
今晩おひま (作詞・作曲:石黒ケイ、編曲:鈴木宏昌)
ひとり暮しのワルツ (作詞:五木寛之、イタリア民謡、編曲:前田憲男)
ひとりぼっちのララバイ (作詞:岡本おさみ、作曲:鈴木キサブロー、編曲:渋谷毅)
明日はクール (作詞・作曲:山崎ハコ、編曲:北村英治)
恋はもうたそがれ (作詞・作曲:石黒ケイ、編曲:前田憲男)
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今日、図書館でこんな本をみつけた。『太平洋戦争 銃後の絵日記』
青木正美 編
東京堂出版 1995.3 325ページ
編者略歴
青木正美(あおき・まさみ)
1933年、東京に生まれる。 50年、都立上の高校定時制中退。 53年、現住所に古本屋を開業。 営業のかたわら生涯の生業となった古書業界史に興味を抱く一方、近代作家の原稿・書簡、無名人の自筆日記などの蒐集に励む。 著書に 『昭和の子ども遊びと暮らし』 『古本屋四十年』 『古本屋控え帳』 『古本屋奇人伝』 『自筆本蒐集狂の回想』 『古本探偵追跡簿』 など。
この本は、編者が昔入手してあった二人の太平洋戦争の戦時下日記を編集したもの。
絵日記というところに魅かれて、借りてきた。
ユニークな本だ。
「はじめに」 のなかで、昭和20年度に克明な日記を残した文学者として、永井荷風、内田百閒、伊藤整、高見順、一色次郎、山田風太郎らの名前をあげている。
この本でとりあげている絵日記は、一般の無名人のものである。
一人目は、昭和17年から書き始めている絵日記作者、鈴木長三郎。
総武線幕張駅近くに住み、県立商業校の満四十歳の教員らしい。
用紙、筆記用具が極端に不足し、まして絵具などは一般には手に入りにくくなっていた時世に、みごとな絵日記を残している。
二人目は、都心の会社の労務課に勤める四十六歳の男性、松波盛太郎。
もともと文学青年くずれだったことが日記作者となったその背景としてあった、と編者はいう。
王子に世帯を持っていたが、弟が出征、昭和19年に戦死。
日暮里谷中の実家に年老いた父母と、母に先立たれた弟の娘がいる。
弟の戦死が伝わってからは、勤めの帰りには必ず実家に立ち寄って家をみるようになった。
<昭和二十年の年頭、彼はこの理不尽な弟の死を嘆き、この上は日々逼迫する戦争を、日本の運命を、とことん見てやろうと、まるではかない抵抗をこころみるように、一日々々を日記(こちらはとても絵日記とは言えないまでも、所々図解まで入れて)に刻みつけたのである。> (本書「はじめに」)
そういえば、ずいぶん前に、このブログでとりあげた山田風太郎の本があった。
なにやら付箋がたくさん付いている。
よほど夢中になって読んでいたらしいが、よく憶えていない。『同日同刻 太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』
山田風太郎 ちくま文庫 2006.8
発売当時、読んだときの感想を、このブログに書いていたっけ。
じぶんのブログ記事ながら、こういうときに役にたつもんだ、と感心した。
2006年9月7日
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/__4e45.html
2006年9月8日
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/_2_1e0a.html
2006年9月9日
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/_3_09f1.html
この本の内容は、もうほとんど忘れていたのだが、今日、二年ぶりに読み返してみると、とても面白いのだ。
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出先の売店で、東京新聞を買った。
一部100円。
早く朝日新聞を解約して東京新聞に替えたい。
10月いっぱい、契約してしまっているので、もう少しの辛抱。
(あの、新聞の契約というのも、よくわからん)
東京新聞:大雪山秋の色:社会(TOKYO Web)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2008092102000089.html
北海道 大雪山系では、紅葉が早くも見ごろを迎えているという記事が、一面に写真入りで載っていた。
行ってみたいなあ。
東京新聞と朝日新聞の読書欄に、たまたま同じ本が紹介されていた。
ちょっと興味がある。
金田一京助と日本語の近代
(平凡社新書 432)
安田敏朗=著
定価:924 円(本体:880 円) 新書判 288頁 2008.08
ISBN978-4-582-85432-9 C0281 NDC分類番号 810.25e-hon 本/金田一京助と日本語の近代/安田敏朗/著
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032115369&Action_id=121&Sza_id=B0
平凡社 平凡社新書
http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=series.sinsho/
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どうということのない小さな店なのに、妙にひっかかったので写真に撮った。
国分寺駅南、裏通りの一角ににあった。
「まごころこめて準備中」 (正確なところは憶えていないが) というような札がかかっていた。
サッポロビールのポスター、ホッピーの提灯と幟、味がある。
午後一時頃の撮影。
国分寺界隈は、路地が入り組んでいて、おもしろい店が多いなあ。ぐるなび - 酒道 ハナクラ しぞーかおでん 国分寺店
http://r.gnavi.co.jp/p817101/
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いい本だな、と思った。一昨日、このブログで紹介したばかりだが。
『比島投降記 ― ある新聞記者の見た敗戦 ―』
石川欣一 中公文庫
こんな一節があって、ハッとした。
1945年12月、ルソン島から日本へ引き揚げる船の中でのエピソードだ。
少し長くなるが、その部分をそっくり転載しておこう。
いい文章だと思うから。
― 「英霊何個」 (P.135~) より ―
<いよいよ明日は目的地に着くという晩、僕等のいた第三船艙に臨時に設備した木の階段を、中頃まで下りて来て、大声で注意を与えた男がある。 色々なことをいったあげく、「この中に英霊を持っている人があったら、何個あるか、その数を届けて下さい」 といって立去った。 僕は身体中が震えた。 英霊は荷物か。 僕は立上って、この船艙の小隊長をしている人の所へ行った。 「あの男は何ですか」 「輸送隊長です」。 この若い、恐らく少尉か何かをしていたらしい人物は、僕の権幕にあっけに取られたように答えた。 「名前を知っていますか」 「A大尉といいます」 「あなたはA大尉が、たった今、英霊何個といったのを聞きましたか」 「ああ、そういえば、そんなことをいっていましたね」 ……。>
<僕は甲板に出た。 目の前に、水をへだてて浦賀の火が見える。 眼鏡がこわれてしまったので、灯火はうるんで瞬いていた。 「英霊何個! 英霊何個!」 僕は涙が出て、その涙がいつまでもとまらないので困った。 冬の風は、夏服しか着ていない僕につめたかった。 しかし 「王さん待ってて頂戴な」 という、ダミ声の合唱が聞えて来る船艙に、下りて行く気はしなかった。 いかに不注意とはいえ、英霊を何個と呼ぶ大尉、それを変だとも無礼だとも思わぬ人達。 昭和二十年十二月二十一日、浦賀港の入口で、五十一歳のぼくはさめざめと泣いた。>
この文庫の巻末に、著者のご子息(石川周三氏)が書いた 「著者について」 という小文が載っている。
興味ぶかいことがわかった。
著者、石川欣一は、明治28年東京生まれ。
その父、石川千代松は旗本の家に生まれたが、徳川幕府が崩壊。
明治8年開成学校に進み、同15年東京大学理学部を卒業後、ドイツのフライブルグ大学に学び、帰朝後母校の教授となった。
開成学校時代の恩師 E・S・モース(大森貝塚の発見者)が書いた 『日本その日その日』 のことが、 『比島投降記』 の中で触れられているが、これは、モースと千代松との関係で、石川欣一が翻訳したものだという。
【参考】
日本その日その日 1
(東洋文庫 171)
エドワード・シルベスター・モース=著
石川欣一=訳
定価:2415 円(本体:2300 円) 全書判 1970.09
ISBN978-4-582-80171-2 C0139 NDC分類番号 291
日本その日その日 2
(東洋文庫 172)
エドワード・シルベスター・モース=著
石川欣一=訳
定価:2415 円(本体:2300 円) 全書判 1970.10
ISBN978-4-582-80172-9 C0139 NDC分類番号 291
日本その日その日 3
(東洋文庫 179)
エドワード・シルベスター・モース=著
石川欣一=訳
定価:2310 円(本体:2200 円) 全書判 1971.01
ISBN978-4-582-80179-8 C0139 NDC分類番号 291
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颱風13号は、寝ているあいだに千葉の方へ行ってしまった。
今朝は、どんよりと曇っていたものの、雨があがってすがすがしい空気だった。
もう、秋だ。
団地のイチョウに銀杏がなっていた。
街路樹のハナミズキも、紅い実をつけ、そろそろ紅葉してきた。
上段右、ハナミズキの写真は、バスの窓ガラス越しに撮った。
下段右は、アオギリの袋果。
ブログにはできるだけプライベートなことを書かない主義だが、ちょっとだけ書いておこう。
今朝、妻に携帯メールで、ハナミズキの紅葉のことを知らせたら、こんな返事がきて、ちょっとしんみりした。
「秋になると心ぼそくなるし暗くなってくるから嫌だ」
私は春がいちばん好きだ。
秋は、やはりさびしいもの。
人それぞれ、感じ方はちがうけれど、季節はゆっくりと巡るのだ。
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われながら、凝り性というか、なんというか。
こんな本を、職場近くの BOOK OFF でみつけて、昨日から読んでいる。『比島投降記』
― ある新聞記者の見た敗戦 ―
石川欣一 著 中公文庫
1995.2発行 本文189ページ 485円(税別)
― 本書著者紹介より 転載 ―
石川欣一
明治28年(1895)、東京に生まれる。
東京大学から米国プリンストン大学に転じ、同校卒業とともに毎日新聞社に入社。 同社ロンドン支局長、サン写真新聞社長などを歴任。 日本ライオンズ・クラブ初代ガバナーなどを勤め、昭和34年(1959)死去。
(以下、略)
こういう、ヒューマンで、リベラルな人も、当時いたんだな、と、感心しながら読んでいる。
一話が三、四ページの短い話を集めているので、読みやすい。
活字も大きく、行間もゆったりしていて、文庫としては目にやさしい。
「投降記」 とあるが、敗戦後、米軍と連絡をとりながら計画的におこなわれたものなので、悲愴感がない。
<いわばこれは筋書を立て、スケジュールによる投降だったのである。向こうから雨霰と大砲や小銃を撃って来る中を、白旗を振り廻して降参したというような、劇的な場面とは違って、至極事務的に、スムーズに行われたのである。> (P.13)
捕虜にはなったが、著者は英語力を見込まれ、収容所で米軍の通訳として働いた。
米軍人と旧日本軍人の冷静な対比、米軍から給与される食事の豪華さなど、なかなかに興味ぶかいエピソードが満載。
― 本書 カバーより ―
昭和二十年九月六日、新聞報道関係者の一人であった著者はフィリピンのルソン島にて投降した。 本書は国際経験豊かなジャーナリストの収容所における米軍将校との温かい交流の記録であり、公正な眼がとらえた敗戦時における卓抜な日米文化比較論である。
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会社の健康診断だった。
今年から、胃のレントゲン撮影は35歳以上に限ることになった。
もちろん、私は該当者。
さらに、これも今年から、腹囲=腹まわりのサイズも測るようになったのは、メタボ対策か?
ビルの横に駐めたレントゲン車の中で、思わず笑ってしまうことがあった。
検査技師(助手だろうか)の女性が、「バリウム、いただきますか?」と言うのだ。
どうやら、35歳以上でも、胃のレントゲン撮影を断ることもできるらしい。
「いただきますか?」 とむこうから訊くのもおかしいが、わざとなのか、それとも日本語が得意じゃないのか、わからない。
大柄で、色が浅黒く、目鼻立ちのくっきりした女性だったが(明るくて、とても感じがよかった)、東南アジア系の人かもしれない。
それでも、このセリフは、バリウムを飲むことに抵抗のある人には、優しい心づかいと感心した。
私は、バリウムなど屁でもないので、「いただきます」 と答えた。
そうすると、「はい、ごちそう」 と、紙コップを手渡してくれた。
バリウムの液体(正確には硫酸バリウム BaSO4 という化合物らしい)は、昔にくらべると、ずいぶん飲みやすくなったし、量も少なくなった。
Lサイズだったのが、Sサイズのマックシェイク風になって、味もいい。
ところで、会社の検診にはそれほど期待していない。
持病がわかっていて、三ヶ月に一度は病院で血液検査を受けているから、私はあらためて血液検査などしなくてもいいぐらいだ。
ただ、視力や心電図、それに胃の検査は、ふだんやっていないので、ありがたいと言える。
視力は、だいぶん落ちている。
次の運転免許の更新では、今のメガネではダメかもしれない。
もう一つ、便の潜血反応検査というのもある。
あれも、一本では、なかなかわからないんじゃないか、と疑っている。
というのも、一度、病院で便の検査をして、その時は二本提出(採取時期は別)。
うち一本に潜血反応があったので、詳しく調べてみると大腸にポリープができていることがわかったのだ。
その時受けた、大腸のバリウム検査というのも、すごかった。
胃腸の中をからっぽにして、下からバリウムを注入するのだ。
それも、そうとうな量。
ちょっと、いやな感じだった。
私は、その検査で大腸に突起物のあることがわかった。
その後、大腸のカメラ(ファイバー)で、大腸内部を念入りに見てもらい、ポリープをその場で切除してもらった。
ファイバーの先から、ちいさなワッカが出て、それでポリープをしばり、電気を通して切り取ってしまうのだ。
高等技術である。
(この、ポリープ切除は二度やったが、その後、どうなのかはわからない)
大腸のカメラも、まったく辛くなかった。
(胃カメラよりも、私は楽だと思う)
ただし、胃腸の内部をからっぽにするために、生臭い液体(下剤である)を2リットルほど飲まされるのには閉口した。
あれさえなければ、大腸のカメラは何度でやってもいい、と、胸をはって言える。
仰向けの姿勢で、やはり下からファイバーを入れるのだが、痛くもなんともない(多少、圧迫感はあったが)。
モニターに、じぶんの腸の中が映しだされるのを、お医者さんといっしょに見ていた。
腸の中は、ピンク色で、きれいなものだと思った。
なかなかできない経験である。
長々と書いてしまった。
このての話が苦手な方には、申しわけなかった。
それはともかく、検診の結果、何も異常がなければいいのだが。
そろそろ大きな病気がみつかってもおかしくない年齢だ。
(すでに二つ持っているが、これは一生のつき合いと諦めている)
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もう、季節は初秋といっていいのかもしれない。
朝夕、涼しくてすごしやすくなった。
今朝は、早めに家を出て、花の写真を撮りながら歩いてみた。
駅へ行く途中に、植樹した畑地があるのだ。
そこまで歩いて、写真を撮ろうと思った。
結局、国分寺駅北口まで歩き通してしまった。
約2キロの距離だから、それほど遠くはないが、駅まで歩いたのはこれが初めてだった。
写真を撮りながら歩いたせいか、30分ほどかかった。
うっすらと汗をかいて、気持ちがよかった。
いつも電車に乗る時刻までに、駅に到着。
しかしながら、今朝は中央線が信号機故障のために遅れていて、勤め先までずいぶんと時間がかかってしまった。
こういうことも、たまにはある。
サルスベリの写真を、今年はまだ撮っていなかった。
花の時期が長い樹だが、もうそろそろおしまいだ。
ムクゲがまだ咲いている。
花の種類が、驚くほどが多い。
住まいの前のフヨウは、まだ開いていなかった。
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たぶん明日には、アクセス・カウンターの数字が60000を超えそうだ。
このブログではアクセス・ログが見られるので、どういう方々がアクセスしてくださっているか、だいたいわかる。
ほとんどが、検索サイトからである。
一度書いただけの、「とちの実」のことや、「八ヶ岳チーズケーキ工房」のことが、いまだに検索されているのも面白い。
もちろん、よく見てくださっている方も、数人いらっしゃる。
ありがたいことだ。
検索サイトというのも不思議なもので、ある時期から、急に載るようになった。
とくにこちらから何か働きかけたということもない。
必ずしも、検索の意図にあう内容とは限らず、そういう方には申しわけなく思うが、たくさんの方に見ていただけることは、励みにもなり、まことにありがたいことである。
この場から、お礼申しあげます。
三年前のちょうど今頃の季節(2005年9月19日)から、なんとなく始めたこのブログ。
この団地に引っ越してくる直前だった。
そういう意味では、私の生活記録(の一部)でもあり、愛着が深い。
前にも書いたことだが、「一番の読者」は自分自身だと思っている。
アクセス・カウンターには現われない読者である(自分のアクセスはカウントされないように設定している)。
自分が読んで面白いな、というものを、これからも書き綴っていきたいと思う。
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古本屋の戦記コーナーでみつけた本。
私の最近のアンテナは、こういう本をキャッチするらしい。
今日、半分ほど読んだ。『ガダルカナル・ラバウル慰霊行』
蔭山次郎 東洋出版 1998.4.10 175ページ
著者 蔭山次郎という人は、「在香港企業社長にして文筆家」 と、著者略歴にある。
43歳の1993年1月15日にガダルカナル島へ行った、とあるので、1949年か50年生まれだろう。
そうすると、私とほぼ同年代である。
親しい友人二人とともに、ガダルカナル島、ニューギニア本島、ラバウルを訪れた記録。
著者が中学生のとき、同級生が図書館で見せてくれた太平洋戦争の写真集に衝撃を受けたことが、この「慰霊行」を思いたった下地になっていたらしい。
五味川純平の長大な戦記 『ガダルカナル』 ではよくわからなかった現地の様子を、たくさんの写真から現実のイメージとしてうかがい知ることができる。
太平洋戦争の写真集によく出てくる、一木支隊の将兵の死体が折り重なっている写真の戦場も、わかった。
この 「一木支隊」 は、旭川の第七師団歩兵第二八連隊を基幹に編成された部隊。
中国戦線から、ミッドウェー攻略の上陸部隊として呼び戻され、ミッドウェー海戦で敗退したために、急遽、ガダルカナルに派遣された。
二千余名、小火器しか持たないこの小部隊は、飛行場奪還の先遣隊として上陸したが、米軍の圧倒的な砲撃の前になすすべもなく全滅。
支隊長の一木清直大佐は自決した。
北海道の第七師団には、私に縁のある人も、もしかしたらいたかもしれない。
― 以下、Wikipediaより ―
鎮台を母体に編成された内地の常設師団とは異なり、第7師団は1885年(明治18年)に北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された屯田兵を母体とし1896年(明治29年)5月12日に編成された。補充担任は旭川師管区で、北海道内を旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区と4つに分けて徴募に当たり、北海道の兵士で構成される建前であるが、北海道は人口が希薄であった為1万の兵力は捻出できず、実際には東北地方出身の兵も加えられた。
なお、1940年(昭和15年)に編制が改正され、歩兵第25連隊を樺太混成旅団に転出して3単位師団となった。
1904年(明治37年)日露戦争に出征し、旅順攻略戦・奉天会戦に参加する。1917年(大正6年)から2年間満州に駐屯し、シベリア出兵に参加。1934年(昭和9年)と1936年(昭和11年)にも満州に派遣された。
その後も1938年(昭和13年)2月に関東軍の指揮下に入り満州に派遣、7月に張鼓峰事件が起きて出動、これは師団の交戦前に終結され、1939年(昭和14年)にはノモンハン事件でソ連軍と交戦する。しかし、第7師団は北辺の守りを担う重要師団であり、1942年(昭和17年)に一木支隊を編成しガダルカナル島に派遣したものの、師団本体は1941年(昭和16年)12月に北部軍隷下に置かれ、以後北海道に在り続け第二次世界大戦の終戦を迎えた。
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ひさしぶりに、近くの杏仁豆腐専門店 「杏's cafe」 へ。
今日は、ここでお昼を食べ、杏仁豆腐を買ってきた。
杏仁豆腐専門店
杏’s cafe (アンズカフェ)
小平市花小金井南町2-17-5
(花小金井駅南口せいぶ通り)
http://www.ans-cafe.com/
ランチは数種類あり、550円という信じられないほどのお手頃価格。
中国料理店のシェフをされていたという若い店主の作る料理は、とてもおいしい。
いつか、このお店の二階で、ゆったりと過ごしたいと思う。
(ランチは一階のカウンターでいただいた)
帰宅後、杏仁豆腐を食す。
おいしい。
10月には、立川の高島屋と伊勢丹で開かれる物産展で、即売するという。
行ってみようと思う。
詳しくは、杏's cafe のブログで。
http://www.ans-cafe.com/contents/index.php
【参考】
立川タカシマヤ (高島屋立川店)
http://www.takashimaya.co.jp/tachikawa/
伊勢丹店舗情報 (立川店)
http://www.isetan.co.jp/icm2/jsp/store/tachikawa/
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どうしても読みおえてしまわなければ、気になってしかたがない本だった。
今夜、最期の数十ページをいっきに読んだ。五味川純平 『ガダルカナル』
文藝春秋 1980年11月1日発行
(初出 「文藝春秋」 昭和54年8月号~55年8月号)
ガダルカナルの戦いと同じ頃、ニューギニア戦線にいた飯田進という人が、その著書 『地獄の日本兵 ―ニューギニア戦線の真相―』 (新潮選書)で、こう書いていた。
<何度パソコンのキーボードを打つ手を置いて、嘔吐(へど)の出そうな思いを抑えたことでしょう。>
私も、この 『ガダルカナル』 のおしまいの方で、(言葉は悪いが)「反吐の出そうな思い」 を味わった。
「戦争のはらわた」 と言うが、まさに、醜いはらわたを見た思いだ。
感じたこと、想ったことは、たくさんあるが、今は、この島で起きた事実に圧倒されて何も言えない。
ガダルカナルについて書かれた書物や、ネット記事で、よく紹介されていることがある。
この本でも、引用されているので(P.283)転載しておく。
<歩一二四連隊旗手小尾少尉の日記によると、このころアウステン山を死守していた日本兵の間では不思議な生命判断が流行したという。
立つことの出来る人間は 寿命三十日間
身体を起して坐れる人間は 三週間
寝たきり起きられない人間は 一週間
寝たまま小便をするものは 三日間
もの言わなくなったものは 二日間
またたきしなくなったものは 明日
(小尾靖夫 『人間の限界』 十二月二十七日の項)>
著者 五味川純平は、この長大な戦記を次のように結んでいる。
<死地にあった身を生きながらえた者が語りつがねば、米も食わずに戦ってぼろぼろになって死んだ男たちの死は、その理不尽とむごたらしさを、みずから語ることはない。 (中略)
ガダルカナルに限らない、どれだけ夥しい青春がむざむざ使い捨てにされたか。 けれども、時が経ち、人は遂に知る必要を覚えないかのようである。
過去のことは過去の人間がしたことでしかない。 所詮は見知らぬ他人事なのである。 昔、青春がいくら使い捨てにされようが、いまの自分には関係はない。 そう思っているかのようである。
過去が現在に関係がなければ、歴史も戦史も、その醜いはらわたを暴く必要はないのである。>
本書の記述によれば(第十七軍参謀長の昭和18年2月22日発電)、三次にわたって決行された、ガダルカナル島撤収人員は次の通り。
第一次 4935 (含海軍 441)
第二次 3921 (含海軍 332)
第三次 1796 (含海軍 75)
計 1万652 (含海軍 848)
いっぽう、昭和17年8月以降、第十七軍のガ島上陸総人員は、3万1404名。
交戦中に後送した患者は740名。
ガ島における損耗は2万800名(上陸人員の66%)。
(ただし、海軍や設営隊や船員を含まない、不完全な数字)
戦死は、5000ないし6000と推定され、内輪にみても1万5000前後が戦病で斃れたと思われる。
死因は、栄養失調、マラリア、下痢、脚気等によるが、そのほとんどは補給の甚だしい不足に責を帰すべきである。
(以上、本書 P.304)
昭和18年(1943)2月、日本軍は、ほとんど奇跡的と言ってもいい、ガ島からの撤退を「完了」させたたが、その陰には、残置され、自決を強要された傷病兵も、また、数えきれないほどいたことを忘れてはいけないだろう。
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勝沼のぶどう園 「大雅園」 へ行ってきた話の続き。
今年もまた、10月はじめに 「かつぬま ぶどうまつり」 が開かれるそうだ。
第55回 甲州市 かつぬま ぶどうまつり
2008.10.4 (土)
会場 勝沼中央公園広場
去年、大雅園の方に教わって、私たちも行ってみた。
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_0067.html
広い場所に、屋台がたくさん出て、ワインの試飲(グラスを買えば飲み放題!)もあり、楽しいイベントだ。
会場は、大雅園からも近い。
私たちは、大雅園に車をおかせていただいて、会場まで歩いて行ってみた。
今年も行けるかな?
ところで、甲州といえば 「ほうとう」 だ。
今日、同行したかみさんが珍しく、ほうとうを食べてみようと言う。
しかし、あいにくお店はどこもいっぱい。
ちょうどお昼時で、しかも人出が多かったせいか、有名なお店は外まで行列ができていた。
よく行くお店(そば、うどん、ほうとう、何でもありの店)も、駐車場から車があふれるほど混んでいたので、知らない店に思いきって入ってみた。
ただし、うどん専門店。
これが、大正解。
店の構えは目立たず、店の前もひっそりとしていた(駐車場はほぼいっぱいだったが)。
とてもおいしい関西風の手打ちうどんだった。
店名は下の写真のとおり。
ご夫婦ふたりで、黙々とうどんを茹でていらした。
店先のガラス張りの小部屋でうどんを打っているらしく、時おり、ご主人が追加の緬をとりに入る。
次々とお客さんが途切れることなく、大忙しの様子。
ごまだれうどんのたれが美味しくて、二人で、一滴残さず飲み干してしまったほど。
カウンターと小上がりだけの狭い店。
クチコミで評判が広まるタイプの隠れた名店といった感じ。
私たちも、また訪れてみたいと思ったが、リピート客が多そうだ。
カウンターで隣りに座ったお客さんが、「このお店のうどんはおいしいから」 とつぶやいていた。
右上の写真は、うどん屋さんとは直接関係ない。
「くろがねや」 という、甲府近辺に多いホームセンター。
今回、屋外のトイレを拝借した。
だいぶん前のことだが、この店で、七輪を買ったことがある。
その七輪は、今でも、キャンプに行くと活躍している。
七輪に炭をおこして、網焼きをするのである。
勝沼、塩山は、歴史のある街道筋だから、古い街並みが残っている。
青梅街道の宿場町だった青梅に似ている。
今日も、写真に撮りたいような古い蔵や建物を、車の中からたくさんみかけたが、写真には撮れなかった。
こんど時間がとれたら、ゆっくり歩いてみたい。
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今年二度目の訪問。
勝沼のぶどう園 「大雅園」 に行ってきた。
家を朝8時に出て、大雅園に着いたのは11時頃。
中央道がとても混雑していた。
三連休の中日とあって、人出が多かったようだ。
おめあての「甲斐路」が食べごろ。
北海道の母から頼まれていた送り先へ配送をお願いする。
園に着くと、駐車場にたくさんの車がとまっていて、お客さんでにぎわっていた。
近隣のぶどう園も盛況。
ぶどうのハイ・シーズンといったところか。
園主(早川さん)のお嬢さんが、「○○さーん」(私の名前)、と声をかけてくださる。
前回うかがった時には、ちょうどすれちがいでお目にかかれなかったのだ。
うれしいことだ。
大雅園のサイトやブログを作っていらっしゃるのが、このお嬢さんだ。
10月になったら、またおじゃましたいと思う。
大雅園のサイト
http://www.eps4.comlink.ne.jp/~taiga/
ブログ
http://blog.goo.ne.jp/taiga-yamanashi
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花に詳しい人にとって、謎でもなんでもないのだろうが、私にはちょっとした謎だった。
住まいの前にある、芙蓉の花が、いつまでも白いのだ。
私の早合点だったのかもしれないが、朝は白くても夕方には紅色に変わる、と、図鑑には書いてあったように思いこんでいたのだ。
どうやら、それは 「スイフヨウ」(酔芙蓉) という八重咲きのものらしい。
芙蓉は、ほんらい、淡紅色の花、という先入観もあった。
手もとにある古い百科事典を、今日、あらためて紐解いてみた。
― 平凡社 国民百科事典 1962年初版 ―
ふよう [芙蓉]
九州、中国、台湾などに原産するアオイ科の落葉低木。 昔はその皮が和紙の補助原料とされていたが、花が美しいので各地の庭やいけがきに植えられている。 夏から秋にかけて毎日咲くが、一つの花は朝開き夕方にしぼむ。 葉は浅い掌状で細毛がある。 耐寒性は強いが寒地では地上部が冬に枯れる。 変種に白色花や八重咲きがあり、咲きはじめは白色でしだいに紅色に変わる八重咲種をスイ(酔)フヨウとよんでいる。 繁殖は実生、株分けによる。
紅色に染まるから、「酔」芙蓉とは、洒落ているではないか。
私は凝り性なので、今日の帰り道、こんな図鑑をみつけて買ってきた。
なかなかいい本だ。『葉で見わける樹木』 林 将之 著
小学館 FIELD GUIDE 22
フヨウとムクゲの、葉のちがいが一目瞭然。
この図鑑のすばらしいところは、葉の写真がカメラ撮影ではなく、スキャニング撮影によるもので、まことにリアルなこと。
小金井公園などへ行くときに、持ち歩きたいと思う。
本屋にいくと、いろんな植物図鑑があって、楽しいものだ。
もう一冊、これは以前から持っていたもの。『吟行版 季寄せ-草木花 秋(上)』
朝日新聞社 1981年 文庫版
芙蓉の項をみると、ここにも納得のいく解説があった。
[フヨウ] 日本の暖地や中国に野生があるが、ふつうは庭に栽培される親しみのあるアオイ科の落葉低木。 初秋に淡紅色の大きな五弁花を開き、一日でしぼんで落ちてしまう。 まれには白花を開き、シロフヨウ(白芙蓉)という。 咲きはじめは白いが、しだいに紅色に変わるものをスイフヨウ(酔芙蓉)といい、酔客の顔色の紅変することになぞらえたことはまことに酔狂といいたい。 八重咲きのものもある。 果実の中には毛の生えた小さい種子がたくさんでき、裂けて飛び出すころは葉も枯れておちる。 漢名は木芙蓉。
「季寄せ」 であるから、俳句がいくつかあげられている。
その一部。
枝ぶりの日ごとにかはる芙蓉かな 芭蕉
草とって芙蓉明らかになりにけり 河東碧梧桐
さはやかに芙蓉は花を了りけり 久保田万太郎
私の住まいの前にある芙蓉の木にも、実がなっている。
面白い実だ。
そろそろ秋、ということなのだろう。
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われながら、よく頑張ったと思う。
誰もほめてくれないようなことだから、せめて、自分で自分をほめてあげたい、なんちゃって。
長大なガダルカナル戦記の、230ページまですすんだ。
残すところ、本文75ページ。
図書館の二週間の貸出期間に達したので、ネットで延長。
図書館も、ネット予約、ネット貸出延長ができるようになっているので、便利である。五味川純平 『ガダルカナル』
文藝春秋 1980年
こうまで時間がかかるのは、毎日すこしずつしか読めない事情もあるが、内容が読みにくいためだ。
いたるところに、当時の戦闘記録や手記が引用されていて、それが読みにくい。
たとえば、こんな感じ。
<一 敵ハ我友軍機出動ノ間隙ヲ利用シ依然揚陸点 高射砲陣地 我第一線ヲ爆撃アルモ 我企図ヲ察知シアラサル如ク 我飛行場射撃ハ効力アルモ弾数僅少ノ為敵活動ヲ封殺シ得ス>
<二 軍攻撃準備ハ概ネ予定ノ如ク進捗シ 第二師団ハ地形ノ嶮難ヲ克服シ十八日夕迄ニ「ルンガ」上流河合ニ 師団ノ両歩兵団長(一ハ那須、一ハ川口少将)歩兵第二十九連帯ヲ集結セリ>
これは、軍司令所からの電報だそうだ。 (P.198)
こんなカナまじりの古い文章は、適当に読み飛ばせばいいのだろうが、私の性格からそれができない。
困ったものだ。
私を混乱させることが、他にもある。
旧日本軍の組織、編成がよくわからない。
連隊、大隊、中隊、小隊、さらには、大きな単位の師団ぐらいまでは、頭に入っているが、「十七軍」と「第二師団」の関係は?となると、もうわからない。
Wikipediaなどを見て、すこし調べてはみたが、規模のイメージがわかない。
さらには、海軍の組織というか編成が、これまた、わけがわからない。
それはさておき、五味川純平という人、よくぞここまで調べたものである。
執念といっていいかもしれない。
惜しむらくは、詳細な地図の掲載が少ないため(P.199にようやく一枚掲載されている)、登場する地名の位置関係がわかりにくいことだ。
本文では、ここまで詳細に記述しているのだから、地図や当時の軍編成図ぐらいは欲しいところ。
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いちど図書館から借りて読んだ本。
数日前に、このブログでもあらためて紹介したもの。
定価2800円と、やや高価な本だが、Amazonで驚くほど安く手に入れることができた。
ネット販売ではよくあることだが、送料の方が高い。
ほぼ新品(読まれた形跡がない)。
この本は、ぜひとも手もとに置いておきたかった。
うれしい。
『人生を三度生きた女』
― "魂のブルース″アルバータ・ハンターの生涯 ―フランク・C・テイラー 著
ヤンソン由実子 訳
筑摩書房
1993.9.25 日本語版発行
なんと素敵な笑顔のおばあちゃんだろう。
数年前に亡くなった、妻の母親がこんな感じの人だった。
おしゃれで、年齢を感じさせない。
私も妻も、大好きなおかあさんだった。
今日、届いた本の写真を見ていて、あらためて、そんな思いを強くした。
身近な人は年老いて、少しずつ去ってしまうけれど、いつまでも心の中に生き続ける人がいるんだな。
この、アルバータおばさんを、私はもちろん実際には知らないけれど、なんとなく生きる勇気を与えてくれる。
彼女の音源で、私が持っているのは2枚。右は、ごく若い頃の録音。
やはりネット販売で入手したが、アメリカから直接送られてきたのには驚いた。
左は、ずいぶん前から愛聴しているLPレコード。
CDでも出ているはず。
ブルーズが好きな方に、おすすめ。
(ピーター・バラカンさんにしたがって、私も、「ブルース」 ではなくて 「ブルーズ」 と呼ぶことにしたい)
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タイトルほど、たいそうな話でもないが。
夕方、車に乗って走っていたら、行先の空の雲行きがあやしくなってきた。
雷雨の襲来は一瞬である。
ポツポツと大粒の雨がフロンとグラスにあたってきたと思うと、ザーッと豪雨が襲ってきた。
ワイパーも効かないほどの激しい雨だ。
まさに、嵐。
買い物をして帰る予定だったので、スーパーマーケットの屋外駐車場に車をとめた。
雷が、ピカピカ、ゴロゴロ、ドンドン。
あっというまに、路面を水が流れる。
外に出ることもできず、しばらく車中でやりすごす。
いやはや、すごい雨だった。
ところで、天気が急変する前に、フヨウとムクゲの写真を撮った。
花はよく似ているが、どうやら、フヨウのほうは、葉がおおぶりのようだ。
どなたか、詳しい方は教えてください。
雨はあがったが、蒸し暑い。
外の草むらで、秋の虫がさかんに鳴いている。
そろそろ秋の気配。
― 山と渓谷社 「山渓カラー名鑑 日本の樹木」 より ―
フヨウ(芙蓉)
アオイ科フヨウ属
葉は互生し、直径10~20cmで掌状に浅く3~7裂する。
ムクゲ(木槿)
アオイ科フヨウ属
葉は互生し、長さ4~10cmの卵形で浅く3裂し、ふちにあらい鋸歯がある。
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この人のことも書いておかなくちゃ、片手落ちになるな。
暑い夏の昼、こんなCDも聴きかえしている。山崎ハコ 『歌いたいの』
2006年5月に発売された、ベスト・アルバムだが、新録音が8曲はいっている。
(過去のアルバムに未収録だった 「会えない時でも」 を含む)
ハコさんは、息のながい歌い手さんだ。
彼女の場合、デビュー当時、つまり十代後半につくった歌を、今でも歌い続けている。
(もちろん新曲も作り続けている)
「歌いたいの」「望郷」「白い花」「ヨコハマ」「気分を変えて」「サヨナラの鐘」「飛びます」 といった、ごく若い頃に作って、その後何十年も歌い続けてきた歌を、新録音で聴くと強く感じることがある。
ハコさんの場合、過去の代表作はまちがいなくこれらの歌だが(他にもたくさんあるが)、デビューから数十年たった「今」の歌声(新録音)も、やはり代表作なのだ。
だから、ほんとうは、いつもライブで 「現在のハコ」 を聴きつづけていきたい。
そんな、稀有な歌い手だ。
ハコさん、これから何十年かたって、おばあちゃんになっても歌い続けてください。
こんな、すてきなおばあちゃんもいた。AMTRAK BLUES / ALBERTA HUNTER
アルバータ・ハンター (1895-1984) が85歳のときのアルバム。
去年の今頃、このブログで紹介したことがあるが、素晴らしい歌声だ。
【楽】【読】アルバータおばさん (2007.9.21)
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_9a5b.html
【楽】【読】アルバータおばさん(続) (2007.9.23)
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_d873.html
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きのう、車の中でTBSラジオを聴いていた。
毎週土曜日、家にいるか車の中にいる時は、この番組を聴いている。
久米宏 ラジオなんですけど
http://www.tbs.co.jp/radio/kume954/time/index-j.html
「今週のスポットライト」 というコーナーが、ことにおもしろい。
毎回、各界からゲストを呼んで、久米宏とおしゃべりをする。
久米宏は、こういうインタビュー的なトークで話を引きだすのが、じつに上手い。
きのうのゲストは、女優の加賀まり子だった。
とりとめのないおしゃべりの中で、加賀まり子が洩らしたひとこと。
「代表作は次回作」
この言葉を最初に言ったのは誰かしらないが、いろんな人があちこちで使っているようだ。
ちょっとキザなセリフだけど、あらためて、いい言葉だと思う。
ブンガクにしろ、音楽にしろ、ものを作る人・表現する人の心意気は、こうでなくちゃ。
今日も朝から暑い。
家の中の雑事が一段落したので、CDで音楽を聴いている。ひさしぶりに聴いてみて、意外と新鮮に聴こえたことに驚いた。
意外、というのは、このアルバムは数えきれないほど繰りかえし聴いているから。
上々颱風
『Shang Shang Typhoon 11 あったりまえだ』
2006年6月発売だから、もう2年になる。
ライブの臨場感には勝てないけれど、かなり完成度の高いアルバムだと思う。
でもねぇ。
やっぱり 「次回作」 に期待してしまう。
「初期後期高齢者」 (これは、彼らがライブでよく言っている冗談) になっても歌い続けてくださいね。
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八ヶ岳 「青年小屋」 ライブ山行から無事(?)帰還した須藤もんさんと、対馬照さん。
※詳細は、対馬照さんのブログで
http://blogs.yahoo.co.jp/terutsushima
この週末、吉祥寺 「のろ」 でライブが予定されています。
共演は、鎌倉研さん。
お近くの方、ぜひお越しください。
須藤もん 公式サイト はこちら
http://homepage2.nifty.com/sudomon/
■9/7 (日)
吉祥寺 「のろ」
JR中央線 吉祥寺駅公園口
パークロード/井ノ頭通りを西へ約200M 公園通りとの交差点手前
(武蔵野市吉祥寺南町1-11-3 いづみビルB1F)
TEL 0422-49-4915
18:00 開場 18:30 開演
チャージ 予約 2,500円 (ドリンク付)/当日 2,500円 (ドリンク別)
出演 鎌倉研 須藤もん with 対馬照
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五味川純平 『ガダルカナル』
文藝春秋 1980年
読み始めてから一週間、なかなかすすまないが、がんばって読み続けている。
313ページあるうちの三分の一まできた。
長大な戦記である。
1942(昭和17)年8月7日、当時、日本軍が飛行場を建設中だったガダルカナル島へ、米軍の上陸がはじまった。
100ページほど読みすすんだところで、まだ、日付は9月はじめまでしか進んでいない。
日本軍が、どうにかしてガダルカナル島を奪い返すため、大兵団を上陸させようと試みているのだが、ことごとく失敗。
たくさんの兵卒を無駄に死なせている。
とにかく、記述が細かく、活字も小さいので、集中して読まないとわからなくなってしまう。
はじめの数十ページで投げ出してしまおうかとも思ったが、それも悔しいので、ぐっとこらえて読んでいるうちに面白くなってきた。
悲惨な戦争のハナシだから、面白いと言ってしまうとイケナイのだが、やはり面白い。
日本軍の指導者のダメさかげんが、よくわかる。
始めから、やらなきゃよかった戦争だと思うのだが、それにしてもひどい戦争だった。
米軍を中止とする連合軍との国力、戦力、戦略、戦術の差が歴然としている。
日本は、とにかく精神力だけを頼みに戦ったのではないか、とまで思える。
もっと冷静、客観的に戦況を捉えられる人物はいなかったのか。
まこと、不思議な国であった。
<日本は、開戦時の計画では、経済的必要と戦略的必要から、攻略範囲を概ねビルマ、マレー、スマトラ、ジャワ、セレベス、ボルネオ、フィリピン、グァム、ウェーキ、香港等の諸地域とし、これらを内懐に抱くマーシャル群島以西の海域を確保することで長期持久を策するはずであった。 それが、緒戦の成功で調子づいて、マーシャル群島の線を遥かに超越した線へまで構想が放漫に冒頭したのである。
別の表現を用いれば、一旦戦争に火をつければ、何処まで燃えひろがるか、何処を終末線として限定できるかについて、正確な計測が行なわれなかったといえる。>
(本書 P.11)
ところで、今年もはやいもので、9月になった。
ガダルカナルでの戦闘から、66年後の同じ季節。
どしゃぶりの雨の中を帰宅。
多摩地方には、大雨洪水警報がでている。
私は、ずぶ濡れになったズボンを干すぐらいのもので、家に帰ればシャワーも浴びられるし、腹いっぱいメシも食える。
あの時代、あの場所に自分がいたら(おそらく一兵卒として)、どのように戦い、生きようとしただろうか。
天皇陛下バンザイと叫んで、敵にむかって突撃して、あっけなく殺されていたかもしれない。
(そんなことはしない、とは言いきれない)
あるいは、ジャングルの中に逃げこんで、餓死していたかもしれない。
そんなことを、つらつら思う。
いま、外は、ふたたび激しい雨になっている。
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対馬照さんのブログに、編笠山(青年小屋)ライブの様子が連載されはじめた。
今のところ、登山道から青年小屋に到着後、夕食まで。
私も長いこと訪ねていないが、あの山小屋も、すっかりさまがわりしたようだ。
いいライブだったようで、よかった……。
豪雨の後は、残暑である。
九月って、こんなに暑かったんだ。
暑い夏が、まだまだ終わりそうもない。
どこか、涼しいところへ行きたいな。
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