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2009年3月の42件の記事

2009年3月31日 (火)

【読】読了 『アヘン王国潜入記』

用があって有給休暇をとったので、午後、ゆっくり本を読む時間があった。
高野秀行さんの本をいっきに読了。

いろいろな意味で、目から鱗の落ちる一冊だった。


Takano_ahen_oukoku高野秀行 『アヘン王国潜入記』
 2007/3/25発行 集英社文庫
 387ページ 667円(税別)
 親本 『ビルマ・アヘン王国潜入記』 草思社 1998年

ミャンマー(ビルマ)といえば、「ビルマの竪琴」、「援蒋ルート」、軍事政権、アウン・サン・スー・チー、といった単語しか頭にうかばないほど、断片的な知識(知識とも呼べないほどのこと)しか、私にはなかった。

この本は、そんなミャンマーの辺境、少数民族シャン人の住むシャン州、さらにその中の「ワ州」(ワ人の地域)に潜入、その地に7ヵ月滞在して村人と生活をともにし、播種から収穫までケシ栽培に従事するという、ちょっとやそっとではできない体験のルポルタージュだ。

「潜入」といっても、ワ州連合軍(ワ軍)のつてを頼って、中国側からの「不正」入国(パスポートなしの密入国)である。

ワ州について、プロローグでこう紹介している。

<ワ州、人口は不明。住民の九割以上はワという少数民族が占めている。面積はおよそ四千平方マイル(約一万二百平方キロ)で、岐阜県とほぼ同じくらいである。けっして大きくない。世界中で市販されているいかなる地図にもワという名前は記されていない。が、知名度の低さのわりに世界に対する影響力がこれほど大きいところは、ほかには存在しないだろう。>

<ゴールデン・トライアングル、もしくはその和訳「黄金の三角地帯」という名称は誰しも一度は耳にしたことがあると思う。インドシナのタイ、ラオス、ビルマの三国が境を接するあたりに広がる、いわゆる≪麻薬地帯≫である。麻薬といってもいろいろあるが、ここは麻薬の王たるアヘンもしくはアヘンを精製して商品化された非合法モルヒネやヘロインの世界最大の生産地である。世界のアヘン系麻薬の60~70パーセントはこの国境地帯から流出されているという……>


なにやら危険地帯に踏み込んでスリリングな体験をしたように思われがちだが、高野さんが滞在した山村では、ケシは農作物であり、生活のための手段なのである。
(もっとも、ワ軍による収奪があって、彼ら村民の現金収入は微々たるものだが)

著者の高野さんのすごいところは、村民といっしょに暮らしながら、ケシ栽培の一シーズンを体験するばかりか、アヘンの吸引まで現地で試し、ついには中毒になってしまう、その徹底ぶりである。

おかげで(?)、読者は、アヘンとはどういうものか、中毒症状はどうなのか、といったことが具体的にわかるのだ。


アヘンの歴史についても、この本の中で詳しく記述されていて、興味ぶかい。
巻末の「主要参考文献」に、ホメ―ロスの『イーリアス』『オデュッセイアー』があげられていて意外だったのだが、ホメ―ロスのギリシャ時代は言うに及ばず、紀元前1550年頃のエジプトのパピルスにも、すでにアヘンに関する記録が認められているという。
それほど人類とケシ、アヘンの関係には長い歴史があるらしい。

一口に「麻薬」というが、「麻薬」即「悪」とも言えないのである。
アヘンから作られるモルヒネは、今や末期癌の苦痛をやわらげるために不可欠であることからもわかるように、その昔、人類はアヘンを「薬」として利用しはじめたのだった。

しかし、困ったことに、「薬」は一歩まちがえると「毒」にもなる。


高野さんは、現地滞在中、「アヘン=モルヒネ化計画」を思いつき(つまり、ケシ栽培を合法的な行為に転化して、彼が寝食をともにした山村農民の細々とした生活をなんとかしようという発想から)、「建白書」を書く。

その要旨は、こうだ。

「ワ州でアヘンの生産を停止する、もしくは減らすのは非現実的である。今までどおり、せっせと作るのがよろしい。ただし、アヘンをヘロインに精製して密輸するのは好ましくない。代わりに、モルヒネに精製して医薬品として公的に輸出すべきである。ワ州は≪麻薬地帯≫の汚名を返上し、≪国家≫の収入も減らず、なによりも農民の生活が安定する」
(本書 第五章「アヘン=モルヒネ化計画建白書」)

残念ながら、この建白書は採用されなかったが。


最後に、高野さんのこんな言葉が印象に残った。

<今やすっかり身近になった東南アジアの一角に、こんな国があるという人は少ない。「ビルマ」といえば、アウン・サン・スー・チーくらいしか思いつかないのがふつうだろう。「ビルマ」に関心を持っていても、「民主化問題」で止(とど)まっている人が大半だと思う。そういう人を私は、「ラングーン中心主義者」と呼んでいる。
 民主化は、私の目からは問題解決のとば口にしか映らない。何度もいうが、軍事政権が居直っているのは、少数民族を抑えられるの軍事力しかないと確信しているからではないか。>


いわゆる「民主化」運動に欠けているのは、少数民族(ビルマ族を含む8部族、全体で135に及ぶ民族―Wikipedeiaによる)が孕む矛盾に対する展望であろう。
難しく言うと、そういうことだろう。


――などと、小難しいことをぐだぐだ書いてしまったが、じつにおもしろい読み物だった。
高野さんの文章が、とてもいい。
人がらが滲みでているというか。

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2009年3月30日 (月)

【歩】ゆっくり、春がくる

今朝も気持ちよく晴れたので、デジタル・カメラを持って家をでた。
駅のほうへ20分ほど歩く。

ヤマザクラ、警察学校前の桜のトンネル、ハナミズキの蕾。


2009/3/20 小平市

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2009年3月29日 (日)

【遊】花冷えでも満開

花冷えの毎日だけれど、早咲きの桜は満開なのだった。

午後、日ざしが暖かくなったので、自転車に乗って新小金井街道を南へ。
学芸大学あたりは、桜の樹が多い。
貫井南町(小金井市)あたりでは、みごとに開いていた。

品種がよくわからないけれど、ソメイヨシノではない、いろんな種類の桜が見られた。
いつもは車で通る場所だが、自転車で行くのもいいな、と思った。

すこし風があったけれど、気もちのいい二時間ほどのサイクリングだった。

130枚撮った写真から抜粋して掲載しよう。
桜の花には、やはり、青空がよくにあう。


2009/3/29 小金井市、小平市

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【遊】カリンの花

午後、自転車で桜の写真を撮りにいってきた。
その道すがら、可憐な花をつけた樹をみつけた。

はじめて見る花だった。
帰ってきて、植物図鑑で探してみた。
カリン(花梨)だった。

ひっそりと咲いていた。
秋になったら、実をつけたところを見にいこう。


― 『山渓カラー名鑑 日本の樹木』 山と渓谷社 より―
カリン Chaenomeles sonensis
<花梨・花櫚> バラ科ボケ属
中国原産。
甲信越、東北地方に多く植えられている。
高さ6~10メートルになる。
樹皮は鱗片状にはがれる。
葉は長さ4~8センチの倒卵形。
4~5月、短枝の先に直径約3センチの淡紅色の花が1個ずつ咲く。
花弁は5個。
果実は長さ10~15センチの楕円形で、10月に黄色に熟し、芳香がある。
かたくて酸味が強く、生食はできないが、砂糖漬けや果実酒、薬用にも使われる。


2009/3/29 小金井市

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【雑】そうだ、糧うどんにしよう

晴れたけれど風がつめたく、桜の開花はすすまない。
午前中は、いつもの日帰り温泉で湯につかる。
露天風呂から、こぶしの花が見えた。


家に帰ってきて、お昼は何にしようか考えた。
そうだ、いただいたうどん(乾麺)を茹でて、自家製糧(かて)うどんにしよう。

「糧うどん」 のことは、このブログに何度も書いたとおり、このあたり(武蔵野)の農家の日常食だったものだ。
米がとれない場所だったから、ハレの日のごちそうや、日常の主食として食べたものらしい。

季節の野菜をそえて、つけ汁で食べる。


いただいたうどんは、岐阜へライブ・ツアーに行っていた友人夫妻のおみやげ。
私たち夫婦が麺好きなのをよく知っていて、ライブ・ツアーのおみやげとして、よく、蕎麦やうどんを持ってきてくれるのだ。
ありがたいことである。

今回は、「白川古代米うどん」 という、はじめて見るものだった。
じつは、古代米も大好きで、古代米や種々の雑穀を、ごはんにまぜて炊いて食べたりしている。


090329udon1_2美濃 白川古代米うどん

製造 岐阜県賀茂郡白川町切井943
    自然食品の小西
  TEL/FAX 0574-73-1913

『白川古代米うどん』を御買い上げ頂き誠にありがとうございます。
このうどんは、白川町近在で収穫した小麦粉と古代米(黒米)を自家製粉したものだけを使用し、白川の清水で練り上げ自然乾燥した無添加うどんです。
国産小麦、黒米独特の風味を損なわないためにも早めにお召し上がり下さい。

地方色の濃い、素朴な説明書きである。

10分ほどゆでると、黒っぽく、見た目には蕎麦のようなゆであがりになった。
もちもちしていて、独特の風味がある。
これまで経験したことのない不思議なうどんだったが、おいしかった。

そういえば、美瑛の韃靼蕎麦を茹でて食べたときの印象に似ている。

糧うどんの具(糧:カテ)は、人参と春キャベツを湯がいて使ってみた。
(人参は、先に電子レンジを使うとよかったのに、と、後から家人に教わった。失敗)

白菜や茄子(季節はずれだが)、大根、長ネギなどを使ってもいいだろう。
またやってみよう。

今日は、めんつゆの量が多すぎて(これも家人から指摘された。失敗)、濃すぎるつけ汁になってしまったが、うどんを茹でた残り湯(蕎麦湯ならぬ、うどん湯)で、少量を薄めて飲んだ。
オツなものである、なんちゃって負け惜しみ。


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2009年3月28日 (土)

【楽】白崎映美さんのルーツ(ネット記事紹介)

上々颱風のメーリングリスト(ML)で、教えてもらったネット記事。

asai.com:庄内弁で歌うさげ「上々颱風」白崎さん―マイタウン山形
http://mytown.asahi.com/yamagata/news.php?k_id=06000000903280001

なかなかいい話だ。
白崎映美さんのルーツも、ふるさとのじいちゃん、ばあちゃんに育てられた幼少期にあったのだな、と納得。
山崎ハコさんがよく語る、ばあちゃんのおもいでと重なる。

Shangshang12上々颱風(しゃんしゃんたいふーん)
 official website
http://www.shangshang.jp/shang.html

12枚目のアルバムは、まだ聴いていない。
上々颱風12~土民の歌~
(MYCD-30498)定価¥3,000(税込)
発売:M&Iミュージック/販売:ポニーキャニオン

Amazon
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B001OGTWH6

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【楽】こんな風に過ぎて行くのなら

なにかの折りに、ふとその一節がうかんでくる歌、というものがある。

♪ こんな風に過ぎて行くのなら
   いつか 又 何処かで
   なにかに出逢うだろう
   子供たちが 駈けてく道を
   何気なく 振り返えれば
   長い長い わたしの影法師 …… ♪

 浅川マキ 作詞・作曲 「こんな風に過ぎて行くのなら」


2004年冬、五十代なかばでこの世を去った友人。
彼のことを思いだしながら、彼とも同期だった懐かしい人へ手紙を書いていたら、この歌の一節がうかんできた。

なぜだかわからない。
亡くなった友人が、浅川マキを好きだったからなのかもしれない。


人はなぜ、おもいでを引きずりながら生きるのか。
ひとつだけ言えるのは、おもいでというものが、ときに、生きる支えになることがある、ということだ。
私の場合、おもいだしたくないことは、忘れてしまう。
こんなふうに過ぎて行き、歳をとっていくのかな。


Darkness_2浅川マキ
 『DARKNESS 浅川マキ作品集』
 東芝EMI  1989年 CT25-5157・58

二枚組。
1960年代から1970年代、1980年代の二枚で構成されるベスト・アルバム。
「夜が明けたら」「ふしあわせという名の猫」「淋しさには名前がない」「かもめ」「赤い橋」などのヒット曲のほか、「セント・ジェームス病院」「こんな風に過ぎて行くのなら」「これはスポットライトではない」が収録されている一枚目が好きで、よく聴いている。


浅川マキ オフィシャル・サイト MAKI
http://www.emimusic.jp/asakawa/main.htm

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【歩】弥生三月、朝の散歩

北風がつめたかったな。
団地のまわりをぐるっと歩いてみた。

ユキヤナギとモクレンが盛り。
ヒュウガミズキもちいさな花をたくさんつけている。
レンギョウも花盛り。
ハナカイドウの蕾もふくらんだ。

春はいいな。

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【歩】あいにくの「さくらまつり」

警察学校前の通りで、毎年、今ごろの時期にひらかれているらしい。
「さくらまつり」

今年が10回目になるらしい。
これまで一度も見にいったことがなかった。
散歩がてら、見にいってみた。

まだ桜が二分咲きという感じで、今年は、すこし早すぎたようだ。
北風がつめたく、あいにくの曇り空。

来週末あたり、満開になるのかな。
この通りは、両側が桜並木で、満開になれば桜のトンネルのようになる場所なんだが。


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【歩】今日はひらくかな?

「夢は夜ひらく」 という歌があったけど。
桜がひらくには、日ざしと気温が必要なんだろうな。

あいにくの曇り空。
気温もあまり上がりそうにない。

四階のベランダから見える、ソメイヨシノの古木。
花たちも、開こうかどうしようか迷っている様子。
足踏み状態か。


2009/3/28 朝6時半頃  東京都小平市

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2009年3月27日 (金)

【読】高野秀行さんに、はまる

図書館から借りてきた松本清張の本は、読まないまま返却しよう。
『昭和史発掘』は文庫版を四冊手に入れたことだし、『遠い接近』(カッパブックス)は活字が小さすぎて読むのがつらいので。

高野秀行さんの本がおもしろく、はまってしまいそうだ。

Takano_ahen_oukoku_2高野秀行 『アヘン王国潜入記』
 集英社文庫  2007/3/25発行
 387ページ  667円(税別)
 親本 『ビルマ・アヘン王国潜入記』 1998年10月 草思社

ミャンマー北部、反政府ゲリラの支配区・ワ州に、非合法で入国し(つまり密入国)、七か月にわたってケシ栽培を体験し、おまけにアヘン中毒まで体験するという、すごいものだ。


カバー写真がいい。
ケシ畑で、銃器をもった兵士たちが屈託なく笑っている。
撮影したのは、この本の著者 高野さん。
よほど気を許してくれなければ、こういう写真は撮れないものだ。

高野さんは、いささかの気負いもなく、辺境の民にとけこむことができる才能をもっているようだ。

ミャンマーには少数民族がたくさんいて、複雑な情勢を呈している。
巻頭に、「ミャンマー少数民族居住州」「シャン州の武装勢力支配区」の二枚の地図があり、「本書に登場する主な人物」一覧が掲載されている。
まるで、船戸与一の小説だ。

そうそう。
うれしいことに、巻末の解説が船戸与一。

<……ビルマの辺境は秘境中の秘境だと言っていいだろう。そこで何が起きているかを報告できるのは新聞記者やTVクルウではない。時間を気にする連中には向いていないのだ。それはフリーランスのみが可能であり、その証左が本書なのである。> (船戸与一による解説)


ちなみに、船戸与一はこの解説の冒頭で、ミャンマー(ビルマ)の国名についてこう書いている。
船戸さんらしく、爽快だ。

<海外のある民族や国家の呼称について喧(かまびす)しく論議されるようになってから二十数年が経つように思う。従来からの慣例に従えば差別主義者と誣(し)いられ、国際化しつつある用語を使えば軍事独裁の擁護者という烙印が待ち受けているのだ。>

<これらの議論はたいてい現地を知らない連中によって交わされる。それは単に政治的立場の表明であたり、ひとりよがりの倫理観の発露として行なわれているにすぎない。もううんざりだ。>

<タイ、ラオス、中国、インド、バングラディッシュの五ヶ国に囲まれた五千万の人口を持つ六十七万六千平方キロの地域の国名を何と呼ぶかはいまも日本では問題になっている。
わたしにはどっちでもいい。そういう議論に首を突っ込む気はさらさらない。
高野秀行はもっとないだろう。
彼はビルマと呼ぼうがミャンマーと謂おうが、そういう呼称とは無縁の山奥で暮して来たのだ。……>


今日は、高野さんの本を二冊仕入れてきた。

 『巨流アマゾンを遡れ』 (集英社文庫 2003年)
 『西南シルクロードは密林に消える』 (講談社 2003年)

前者は、勤務先近くのBOOK OFFで。
後者は、帰り道、新宿のジュンク堂に立ち寄って。
これは、ぜひ読みたかったのだ。

これでまた、本がふえてしまった。
今年は百冊以上読もうと、ひそかに目標をたてているのだが、どんどん読まない(読めない)ままの本が……。
だが、この二冊は、確実に読むことだろう。


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【歩】待ってたんだよ

ひさしぶりに晴れた朝。
冷えこんでいたけれど、いつもよりすこし早目に家をでて、桜の写真を撮った。
山桜がきれいだ。
ソメイヨシノもだいぶん開いた。

今年は遅くまで冷えこみが続いたためか、開きかけていた桜も、とまどっているようだ。

でもね、きみたちを待ってたんだよ、おじさんは。


明日の朝は、近くの桜を写真におさめよう。
そして、何十年ぶりかで消息がつかめた旧友に手紙を書こう。

今日は、家人が筍(たけのこ)を買ってきて、茹でている。
いよいよ春だ。


(写真) 上から三枚、四段目左
 東京都小平市喜平町  2009/3/27
 最上段は、団地の南側にある桜(オオシマザクラ系か)
 他は、警察学校前のソメイヨシノ(桜のトンネルになる場所)

(写真) 四段目右、いちばん下の二枚
 東京都墨田区(江東区との境、首都高下の公園で)
 2009/3/27
 ここは日当たりがよく、桜の開花がいつも早い


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2009年3月26日 (木)

【読】カハーニーシルベナーク

<……空路で二週間ぶりに首都ヤンゴンへ戻ってきた。
 川下りもインド国境も、ただの観光といった程度で私には印象が薄かったが、船戸与一は御機嫌だった。
 「小説の題名を思いついた」という。
 「どういうのですか?」
 「カハーニーシルベナークだ」 船戸さんは得意気に言ったが、私は眉をひそめた。
 『アンナ・カレーニナ』とか『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』みたいな東欧系のタイトルは船戸さんには珍しい。というか、ミャンマーに全然合っていない。
 そう言うと、「バカ!」と叱られた。「『河畔に標なく』だよ」>

船戸さんは、このタイトルが閃いたときに「もうこれで小説は書けたも同然だな」と言った。
「え、タイトルだけで万事オーケーなんですか?」と聞くと、「そうだよ。あとはこの題名に沿うように書きゃいいだけなんだから」と言った。

(高野秀行 『ミャンマーの柳生一族』 集英社文庫)


Funado_kahan_ni_shirubenaku『河畔に標なく』 船戸与一
 集英社  2006年
 493ページ 1900円(税別)

ついに、読了。
おもしろかったな。

ミャンマー(ビルマ)の中央部を北から南へ流れる川が、イラワジ川(エーヤワディー川)だ。
この物語は、そのイラワジ川に沿って展開する。
ミャンマー北部のカチン州。
ミャンマー国内では、民族対立が続いていて、とくにカチン州では独立をめざす勢力(カチン独立軍)がいまも活動している。
ミャンマー国軍、カチン新民主軍、ナガ民族社会主義評議会軍、といった勢力も、この地をめぐってしのぎを削っている。
軍事費を捻出するために、阿片をとる芥子が栽培されている。
かなり複雑な事情をかかえた国だということを知った。

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2009年3月25日 (水)

【雑】月の満ち欠け

昨年暮れ、帰省の用ができて旭川に寄ったとき、百円ショップで面白いカレンダーを手に入れた。
どこにでもありそうだが、前からほしかったので買ってみた。
百円だったし。


Yayoi月齢暦である。
朔(さく) → 上弦 → 望(もち) → 下弦 → 朔 という月の満ち欠けがわかる。
晴れた夜なら月が見えるが、雲にかくれて見えない日も多いし、こういうものでもないと月齢を意識することがなくなった。
そんな生活をおくっているわけだ。

今日は、月齢28.1、もうすぐ「朔」だ。
近ごろ思うのだが、どうやら私の体調、精神状態は月の満ち欠けに左右されているんじゃないかと。
満月(望)が近づくと調子がよくなり、気分も高揚してくるが、下弦から朔(新月)に近づく時期が、すべてにおいて不調である。
そんな気がするのだ。


ひと頃、バイオリズムというのが流行ったことがあるが、そんなものよりも、月の満ち欠けという自然現象に、私の身体の奥に眠っているものが呼応しているように思えてならない。
それほどおおげさに言うことはないのかもしれないが、この考え方はブンガク的で、魅惑的だ。
「太古の記憶」、「月に吠える」、なんちゃってね。

次の満月は、4月9日。
はやく暖かくなって、桜が開くといいな。



バイオリズム ―Wikipediaより―

バイオリズム(biorhythm)とは、「生命」を意味するbio-(バイオ)と「規則的な運動」を意味するrhythm(リズム)の合成語で、生命体の生理状態、感情、知性などは周期的パターンに沿って変化するという仮説、およびそれを図示したグラフである。
ドイツの外科医ウィルヘルム・フリースが1897年に「生物学から見た鼻と女性性器の関係」で提唱した概念。統計学的に有意なデータが見られず、疑似科学とみなされている。
人間の場合は、身体(Physical)、感情(EmotionalまたはSensitivity)、知性(Intellectual)の3種類の波を用いて説明されることが多く、頭文字P,S(E),Iと表記される。各リズムは誕生日を基準とする同じ振幅の正弦波として表され、身体リズムは23日、感情リズムは28日、知性リズムは33日の周期をもつ。
これらのリズムは、一定の周期でくり返されるため、未来の自分の身体や精神の状態を前もって知ることができるとされ、その時の波形の高低で高調期、低調期などと区別されるが、高調期と低調期の切り替り点は体調が変動しやすいとされ、注意が必要な日とされる。
なお、数学的には23と28と33の最小公倍数は21252であり、バイオリズムが完全に一巡するにはおよそ58.2年かかる計算になる。

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2009年3月23日 (月)

【読】快調、船戸与一

土曜日に、図書館から松本清張の本を三冊借りてきたが、日曜日に追加で借りた船戸与一を先に読んでいる。

書名 遠い接近(カッパ・ノベルス)
著者名 松本清張著
出版社 光文社
出版年月 1979

書名 昭和史発掘 1
著者名 松本清張著
出版社 文藝春秋
出版年月 1974

書名 昭和史発掘 2
著者名 松本清張著
出版社 文藝春秋
出版年月 1974

松本清張は、ちょっと辛気臭く、なかなか手をつけられない。


Funado_kahan_ni_shirubenaku書名 河畔に標なく
著者名 船戸与一著
出版社 東京 集英社
出版年月 2006.3
価格 1900円
ページ数 493p
大きさ 20cm
ISBN 4-08-774804-9
抄録 ミャンマー山岳地帯で200万ドルを載せたヘリが墜落。この金を巡って、後ろ暗い経歴をもった男たちが密林を彷徨う。裏切りの夜を生き抜き、この国を「永住の地」とし得るのは誰か? アジアの深き闇を描く、迫力の冒険巨編。
著者紹介 〈船戸与一〉1944年下関市生まれ。早稲田大学法学部卒。79年「非合法員」でデビュー。「伝説なき地」で日本推理作家協会賞、「砂のクロニクル」で山本周五郎賞、「虹の谷の五月」で直木賞を受賞。  (小平市立図書館のデータ)


船戸小説特有の、登場人物がたくさんでてきて、それぞれの視点から物語が展開するというストーリーに、読み始めはなかなかつらいのだが、やがて、読んでいるこちらに登場人物のイメージができてくると、慣れてくる。
そうなればしめたもの。

物語のうねりのようなものが感じられて、たまらないのだ。

船戸ファンならではの、読書の醍醐味である。
本日、快調に、三分の一まで読みすすむ。


これは私の持論であって、異論のある向きも多いと思うが、小説は面白くなくちゃいけない。
いわゆる「純文学」(いまどき流行らない言葉だが)が、私は苦手であり、なかなか読めない。


Takano_myanmaそういえば、先日読んだ高野秀行さんの本 『ミャンマーの柳生一族』 に、おもしろいことが書いてあった。

ミャンマーでは、貸本屋が大繁盛していて、読書大国だという。
識字率も83パーセントという(1995年の十五歳以上のミャンマーの識字率、高野さんの本より)。
高野さんが聞いたところでは、冒険もの、恋愛もの、幻想もの、といった大衆小説がよく読まれているらしい。

たとえば――
<二千六百年前から輪廻転生しながら生きつづける絶世の美女、彼女の切り取られた右手首、その右手首に刺青で刻まれた不思議な印、その印が引き起こす不可思議な悲劇、その悲劇に巻き込まれる男と女、彼らを救おうとする謎のインド人修行者や中国人僧侶……。>

これは、ミンテインカという現代ミャンマーの最高人気作家のベストレンタル小説 『マヌサーリー』 の内容として、高野さんが紹介しているもの。
この小説は、高橋ゆりさんの翻訳で、日本語訳が出版されているそうだ。


『ミャンマーの柳生一族』 (集英社文庫)の第四章の扉(P.164)には、「巨大ウリの上で読書する少女」 のモノクロ写真が掲載されている。
この写真が、いい雰囲気である。
高野さんも、この少女に惚れてしまったようで、次のように書いている。

<茶を飲み終わって、またぷらぷらと大木並木を歩いて宿に戻った。/大木のたもとで物売りが品を広げている。彼らもまた本を読んでいる。
 (中略)
その中に、川を背にして、ツバの広い麦わら帽子をかぶった三つ編みの少女がいた。彼女は、売り物である巨大なウリがゴロゴロ転がっている上にすわって、私が見つめるのにも気づかず、一心不乱に本を読んでいる。/大木の木陰で人が本を読む姿は美しい。そして、やっぱり可憐な少女の読書姿のほうがコワモテの冒険作家よりもはるかに絵になるのだった。>


「コワモテの冒険作家」とは、言うまでもなく、船戸与一氏である。

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2009年3月22日 (日)

【雑】温泉と本の整理とジャズ

今日は、とりとめのない話です。

天気もいまひとつぱっとしないので、いつものように日帰り温泉に行き、帰りに近くの生協で買い物。
生協の前に最近開店したうどん屋に入った。

先週、昼の12時頃に行ったら行列ができていてあきらめたので、今日はどうかなとのぞいてみたら、すぐに座ることができた。
奇妙な店で、メニューは肉汁うどん(つけうどん)一種類だけ。
一種類だが、うどんの量が選べる。

400グラム、600、800、そしてなんと1キロまで!
肉汁も「肉増」が選べて、150円増し。
これらのメニューから、自動販売機で食券を買うシステム。

私たちは、400グラム(肉汁は普通) 650円を注文した。
400グラムといっても、そうとうな量である。
二人前はありそうなボリュームで、満腹してしまった。

さすがに1キログラムのうどんを注文する人はいなかったが、600とか800を食べている人がいて驚いた。

肉汁はやや濃いめ。
肉の量が多い。
他に「具」は長ネギだけのシンプルというか、なんというか。
どんぶりにはいった肉汁に、茹であげた麺をつけて食べる。

麺は、このあたり(小平周辺)でよくみかける黒っぽい武蔵野うどん。
固めにゆでてあるのが、いい。

店のおやじさんが、台秤できっちり麺の重さを計っていたのがおかしかった。
麺はゆであげたものが用意されていて、注文に応じて計って皿に盛るのがおやじさんの仕事。
肉汁製作と盛りつけの係が数人。
席に配るおにいさんが一人。

次から次へとお客が来て、じつに回転がいい。

おいしかったが、しばらくは行かないだろうな。

【参考サイト】
 小平うどんの肉汁うどん: YUU MEDIA TOWN@Blog
  http://www.yuumediatown.com/diary/mt001/archives/009738.html

3月12日に開店したばかりのようだ。


【武蔵野うどん】 ―Wikipedia―
武蔵野うどん(むさしのうどん)とは、埼玉県および東京都に伝わる独特の製法で作られたうどんのことである。機械を使わず手作業で打っていくことからこの地域では「手打ちうどん」と呼ばれる。
郷土料理であるため使用される小麦粉は、食される地域で生産されたものを使用するのが原則(地産地消)。打つ過程では製麺機などを一切使用せずに行われるため、かなり強いこし(固さ)があり讃岐うどんをはるかに凌駕する。食するときには麺は、ざるに盛って、「ざるうどん」もしくは「もりうどん」とするのが一般的(好みもあるが、寒い時期などは「かけうどん」でも食す)。汁はつけ麺であり、かつおだしを主とした汁に肉やシイタケ、ゴマなどを具として混ぜたものを、温かいまま茶碗ないしそれに近い大きさの器によそる。ねぎや油揚げなどの薬味を好みで混ぜ、汁をうどんにからませて食べる。麺を食べ終わった後は茹でた湯(ゆで湯)を汁に混ぜて飲む。かつての武蔵野や中山道沿線では小麦の生産が多かったため、良く食べられていた(米を食いつなぐため、夕飯はうどんなどの麦を食する習慣)。この地域の旧家では冠婚葬祭などの祝い事、親戚集まりには(細く長く良い事が続くように)うどんを出す事が多い。現在でもこの地域では伝統の製法が受け継がれていて、店を出すことこそしないが職人並みの腕を持っている人もいる。


【2009/4/26写真追加】

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帰宅後、チャリティー古本市に寄付する本を選んですごした。
本を減らさなくちゃと思っていたので、いい機会だ。
かなりの量のいらない(と思われる)本がでてきた。
どうしてこんなにため込んだのかと、我ながらあきれる。


その中の一冊。
サイボクの温泉(まきばの湯)の売店で、なにげなく買った本。
ちょっと怪しい本である。

Onsen_no_hanashi『温泉の話 ―温泉療養の手引き―』
 野口冬人 著  現代旅行研究所
 1995年発行  1200円(税込)
 121ページ

どうしてこんな高いばかりで内容の薄そうな本を買ってしまったのか、不思議。
と思いながら、中をみると、温泉の歴史のようなことも少し書いてあって、そうか、これが読みたかったんだなと思いだした。

この本は、古本市に出すのをやめて、とっておこう。


2009_huruhonichi_22009 第11回 チャリティー 古本市
 2009年4月11日(土) 午前10時~午後5時
  4月12日(日) 午前10時~午後3時

場所 : 小平市中央公民館ギャラリー
(西武多摩湖線 青梅街道駅 徒歩5分)

主催 : 小平図書館友の会
      http://www4.plala.or.jp/Nori/
後援 : 小平市教育委員会

去年までは、一購買者だったが、今年はお手伝いさせていただく予定。
ほとんど名前だけで催しに参加したことがないが、私も、この友の会の会員になっているので。


昨年のチャリティー古本市の様子 (2008/5/24-25)

2008_huruhonichi22008_huruhonichi_3








そんなこんなで、本と格闘しながら、今日はひさしぶりにジャズのCDを聴いていた。
てあたりしだいに、適当なCDを出して聴いていたのだが、この一枚がことのほかよかった。

Dark_beauty_2DARK BEAUTY
  Kenny Drew Trio
  Steeple Chase 1974年/1986年 (SCCD-31016)

ケニー・ドリューのピアノ、ベースがニールス・ペデルセン、ドラムスはアルバート・ヒースだ。
音質がとてもいいアルバム。
もちろん演奏もすごくいいのだ。
躍動感がある。
なによりもジャケットが好きだ。

私が上京した頃、ジャズ喫茶でこのアルバム(発売当初はLP)を聴いて、びっくりした憶えがある。
そんな懐かしいアルバムである。

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2009年3月21日 (土)

【読】船戸さんを読んでみようか

先日読んだ、高野秀行さんの本 『ミャンマーの柳生一族』(集英社文庫) の続きのような格好だが、船戸さんの小説を読んでみようと思う。

図書館にリクエストしておいたら、先ほど到着のメールが来たので、受けとってきた。

古本屋(といっても、郊外型大型古書店、つまり、BOOK OFFとブックセンターいとう)では見つけられなかったし、いまさらAmazonでというのも片腹痛いので。


Funado_kahan_ni_shirubenaku船戸与一 『河畔に標(しるべ)なく』
 集英社 2006/3/30  492ページ 1900円(税別)
 初出 「小説すばる」 204年10月号~2005年11月号

船戸さんらしい、ハードカバーの分厚い長編小説だ。
『ミャンマーの柳生一族』 に描かれていた、あの船戸さんの取材旅行の結果がどんな小説になったのか、興味津津である。


高野さんの上掲書 「あとがき」 にも、こう書かれている。

<もっとミャンマーのことを深く、そして楽しく知りたいと願う方は、拙著『ビルマ・アヘン王国潜入記』(草思社)と、『西南シルクロードは密林に消える』(講談社)をお読みいただきたい。/また、本書とほぼ同じ頃に出版されるはずである船戸与一の『河畔に標なく』(集英社)を合わせて読まれることをお勧めする。/「こんな旅からこんな小説が生まれるのか!」と驚かれるはずだ。>


取材先の宿のベランダで、「(宮部)みゆきの本」を、「よし、一度くらい読んでみるか」などと言いながら、籐椅子ににふんぞりかえる、ひげもじゃで「フセインのような面構え」の船戸さんを思い浮かべながら、この本を手にしている。

それにしても、分厚いなあ……。

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【遊】小金井公園・たてもの園 桜開花 (5)

江戸東京たてもの園を出て、小金井公園の広場を自転車でまわった。

サイクリングロードの入り口あたりに、大きなソメイヨシノがある。
ここでも、何輪か開きはじめていた。
明日あたりは、もっと開くことだろうが、あいにくの天気らしい。


公園西口を出てすぐのところ、小金井橋交差点に、オオシマザクラがある。
この樹が好きで、いつも見て通るのだが、花が開きかけていて驚いた。


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【遊】小金井公園・たてもの園 桜開花 (4)

江戸東京たてもの園の東ゾーン。

最近は、「高橋是清邸」の飲食店(是清邸の一階)を素通りして、「下町中通り」にある休憩所の二階、「蔵」という店でうどんを食べることが多い。
今日は暖かいので、冷たい武蔵野うどん(糧うどん)を食べた。

0903210084じつは、今日になってはじめて知ったことだが、ここのうどんには蕎麦粉が混ぜてあるという。
どうりで、うどんにしては黒っぽいと思った。
武蔵野では田んぼができないので(水まわりの関係)、昔の人はもっぱらうどんを食べていたということだ。
小平は、うどんがうまい。

ちょうど土曜日のお昼どきということもあって、混んでいた。
ストロボを使うのがためらわれたので、ブレた写真しか撮れなかったが、こういうシンプルなうどん。


「下町中通り」 には露店が出て、いつも賑わっている。
さまざまなイベントが、それぞれの建物の前や中で行なわれていた。

日傘・番傘が1000円ほどで売られていて、欲しくなったが、やめた。
毎年、この建物(「川野商店」 和傘問屋)の前でやっていて、毎年、欲しくなるが買ったことがない。
また、来年だな。

「万世橋交番」 の前に、巡査の扮装をした案内の人がいた。


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【遊】小金井公園・たてもの園 桜開花 (3)

江戸東京たてもの園をぶらっと歩いた。

西ゾーンをひと通りまわってから、東ゾーンのうどんを食べさせる店「蔵」へ向かう。
途中、ムラサキハナナの群落を見る。
毎年、この時期に目をたのしませてくれる。

ハナダイコン、オオアラセイトウ、シンキンソウなどの別名もある、スミレに似たアブラナ科の野草。
手元の図鑑では、ショカツサイ(諸葛菜)となっているが、私はムラサキハナナという呼び名が好きで、こう呼んでいる。


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【遊】小金井公園・たてもの園 桜開花 (2)

江戸東京たてもの園のエントランス(「旧光華殿」)の化粧直しが終わって、きれいになっていた。
今日と明日の二日間、イベントがひらかれている。

江戸東京たてもの園
http://www.tatemonoen.jp/index.html

春先 キモノ日和
 2009年3月21日(土)・22日(日)

キモノ姿がめだった。
西ゾーンにある 「三井八郎右衛門邸」 の庭園では、枝垂れ桜が華やかに咲いていた。


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【遊】小金井公園・たてもの園 桜開花 (1)

お昼前から、自転車に乗って小金井公園と江戸東京たてもの園へ行ってきた。
梅の時期に行ったきりだから、ひさしぶりだ。

晴れあがった休日、人出もそれなりにあった。
山桜が咲き、寒緋桜は満開。
ついに桜(ソメイヨシノ)も開いた。

待ちに待った桜の季節が到来したのだ。
うれしいな。


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上は山桜系統ではないかと思うが、品種はわからない。
開花がソメイヨシノよりも早いく、ずれているので、そう思っただけ。
公園西口を入ってすぐの、「桜の園」付近にある。


下は、寒緋桜。
SLが展示してある一画の横。
寒緋桜は花期が長い。
どぎつい紅色があまり好きになれないが、ここまで咲き誇るとみごとである。


そして、江戸東京たてもの園前の広場を囲むソメイヨシノ群で開花が見られた。


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【歩】モクレン、コブシ満開

朝から晴れて、きもちがいい。
早朝の斜光線のうちに写真を撮っておこうと思い、近隣をすこし歩いてきた。


近くに住む友人が散歩道でみかけたという、モクレン(紫木蓮)とハクモクレン(白木蓮)の交雑種も、写真に収めてきた。(いちばん下の写真)
図鑑によると、マグノリア・スーランジアナ M.X soulangiana という園芸品種。
日本でサラサモクレンニシキモクレンと呼ばれるものも、このグループに含まれる、とあった。
(山と渓谷社 「山渓ポケット図鑑 春の花」)

モクレン、ハクモクレンの大きさをコーヒーカップとすれば、この珍しい品種は、マグカップほどの大ぶりの花だった。
日陰だったので、さえない写真だが、花色はかなり濃い品種だ。
ちょっと淋しげな花。


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2009年3月20日 (金)

【読】1970年代の五木寛之

明日が図書館の返却期限なので、がんばって読みおえてしまった。
他の本を読むあいまに、少しずつ読んでいた、五木寛之さんの若い頃のエッセイ集だ。

Itsuki_jigazou_2五木寛之 『深夜の自画像』
 1974/4/10発行  創樹社
 291ページ  価格不明

文春文庫で出ていたのだが、すでに絶版。
古本屋で探してみたが見つからなかった。
ずっと昔に文庫版で読んだはずだが、なぜか手許にない。
どうして手放してしまったんだろう。

ひさしぶりに読み返してみると、五木さんの作家としての出発点での意気込みが感じられて、新鮮だった。

「旅」「時代」「人間」「書物」「自己」「小説」とジャンル分けされ、 さまざまな文章が収められている。

「旅」の冒頭に、学研の「現代日本の文学31(太宰治)」に収録されている、「根の国紀行=太宰の津軽と私の津軽」(1969年)という、じつに興味深いエッセイがある。

<津軽を訪れるのは何年振りだろう。……私にとって、津軽という土地はなぜか自分の内部に或る重みをもって存在し続けている土地だった。>

という内容ではじまるこの津軽紀行を読むと、私もまた、津軽を訪れてみたい気持ちになる。

幼、少年期を過ごした朝鮮半島のことに触れた文章もある。
(「長い旅の始まり=外地引揚者の発想」 毎日新聞 1969年)
引き揚げ体験をあまり語らない人だと思っていたが、かなり具体的に書かれている。

おもしろかったのは、唐十郎や、緑魔子、太地喜和子といった演劇人へのオマージュともいえる文章だ。
(「同時代との出会い=唐十郎」 1973年、「魔女伝説=緑魔子」 1971年、「魔女伝説=太地喜和子」 1971年)

そうだ、あの頃は演劇界に異様な熱気があったな。
私はほとんど観ていないが、一度、友人に誘われて黒テントを観にいったことがあったっけ。


そんなこんなで、私自身の二十代と重なる1970年代の時代の空気を思いださせる本だった。

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2009年3月19日 (木)

【楽】なつかしいアルバム 「風の色」(山崎ハコ)

明日から三連休なので、夜更かししてもかまわないだろう。
もうひとつ、書いておこう。

昨日、Amazonから大きな箱が届いた。
中身はCDが四枚。
Amazonの梱包はおおげさすぎる。

待望の、山崎ハコさんの再発売CDだ。
そのうちの一枚を、昨日、聴いてみた。

Hako_hqcd_kazenoiro山崎ハコ 『風の色』
 2009/3/18発売  PONY CANYON
 PCCA-50075  2500円
 (1983/2 LPで発売されたもののCD化)

アナログ・レコードで何度も聴いたアルバムだ。
CDの音は、粒がたっているというのか、クリアーで新鮮だったが、アナログ盤のあの音の厚みといったものには欠ける気がする。
(今回のCD化は、高品質HQCDという謳い文句だ)


しかし、どうです?
このジャケット写真。

「山崎ハコは暗い」 なーんて言う人に見せてやりたいね。
(たしかに、明るい雰囲気ではなく、なにやら淋しげな写真だが、かわいいじゃないか)


収録曲が、いずれ劣らぬ名曲ぞろい。

 ヨコハマ・アンバランス
 雨に唄えない
 港OUT
 男のウヰスキー
 旅人形――りりあ
 二人の風
 ララバイ横須賀
 旅の人
 結局忠告
 オーディション


このなかで、今でもライブでよく歌っているのは、「ララバイ横須賀」。
それと 「オーディション」 「旅の人」 もたまに歌っているようだ。

私が愛着をもっている歌は、「男のウヰスキー」 と 「旅の人」だ。
「男のウヰスキー」 は、たしか、サントリーのCMソングとしてテレビで流れていた。

 ♪ 泣きたいだけ 泣けよ  俺は何も言わん
   勝手に一人飲むから  しゃくなどいらん ♪

 ♪ そうじゃないの そばにいるだけでいいけど
   私よりも あなたに しみついた匂い
   男のウヰスキーに 女はジェラシー ♪

(歌詞カードでは、「臭い」となっているが、それはあんまりだ)


こんな都会的な歌だ。
前にも書いたことだが、私はこの歌を聴くと、新宿西口高層ビル街の舗道の光景が思い浮かぶ。

 ♪ ネオン街 過ぎたら 高いビルが見える
   広い道路に 黒い影 二つ …… ♪

たまらなく洒落た歌詞であり、曲調もいい。


「旅の人」 は、ハコさんの故郷のイメージ。
おかあさんにまつわるエピソードもある。

地方の居酒屋。
それも、おかみさんが一人でやっているような(板前さんが一人いてもいいが)、ちいさな店。
「私の自慢」 という 「厚いカウンター」 (一枚板)の店。
そんな情景が目に浮かぶ。

「旅の人」 とは、そんな店にふらりとはいってきて、去っていく旅人であろう。
まるで高倉健さんのようだな。

 ♪ めずらしさでもいい また来てください
   あなたは都会の匂いがする …… ♪


なにはともあれ、このCDの復刻はうれしい。

そういえば、ハコさんが執筆した 『風の色』 という本があった。
私も持っていたのだが、ずいぶん前に、欲しがっていた人に気前よくあげてしまった。
いま思うと、惜しいことをしてしまったものだ。
(わらながらケチくさい根性だとは思うが……)

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4789700763/sr=1-2/qid=1237474816/ref=olp_product_details?ie=UTF8&me=&qid=1237474816&sr=1-2&seller=
風の色
山崎 ハコ (著)
出版社: CBS・ソニー出版 (1983/01)
ISBN-10: 4789700763
ISBN-13: 978-4789700764
発売日: 1983/01



今回、同時発売された他のCDはこちら。
『風の色』 CDのブックレットより。

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【読】船戸さんの素顔

このブログにときどきコメントを寄せてくれる知人(こまっちゃん)が教えてくれた本。
メチャメチャおもしろかったな。


Takano_myanma『ミャンマーの柳生一族』  高野秀行
 集英社文庫  2006/3/25発行
 238ページ  429円(税別)

謎のタイトルだが、種明かしは控えておく。
カバーに印刷されている簡単な紹介文を転載する。

<探検部の先輩・船戸与一と取材旅行に出かけたミャンマーは武家社会だった! 二人の南蛮人に疑いを抱いたミャンマー幕府は監視役にあの柳生一族を送り込んだ。 しかし意外にも彼らは人懐こくて、へなちょこ。 作家二人と怪しの一族が繰り広げる過激で牧歌的な戦いはどこへ…。 手に汗握り、笑い炸裂。 椎名誠氏が「快怪作」(解説)と唸り仰天した、辺境面白珍道中記。>


この通りの内容である。
まさに、「快怪作」。

本屋に行くと、高野さんの文庫本がたくさんでていた。
なかなか面白そうな著作ばかり。
顔写真は、ちょっと中田英寿に似ている。
中田よりも男前か。


本書の解説は、あの椎名誠さんだが、別の本 『幻獣ムベンベを追え』 は宮部みゆきさん、『アヘン王国潜入記』 は船戸与一さんが、それぞれ解説をよせている。
(いずれも集英社文庫。私のてもとにある。)

私にとっては、関心のふかい人たちばかりだ。


この本では、船戸さんとの珍道中が笑える。
取材旅行のはずだが、船戸さんはメモをとったり写真を撮ることは、いっさいしない。
ただあちこちを動きまわって、観察するだけ。
不思議な作家である。

船戸さんにまつわるエピソードが、なんといってもおかしい。
腹をかかえて笑ってしまう。


【エピソード その一】

船戸さんがひとりで、暇つぶしにミャンマーの首都ヤンゴンの街をぶらつこうとタクシーを拾った。

<で、「ミャンマーではみだりに政治の話をしてはいけません」 というガイドブックの教えなどまったく無視して、いきなり運転手に 「あんた、アウン・サン・スー・チーをどう思うか?」 と訊いた> のだそうだ。

ところが意外なことに、運転手の返事は 「あー、好きだよ」 だった。
さらに、「1988年の民主化動乱のとき、政府は死者千人などと言ってるけど、ほんとうは一万人くらい殺されたんだ」 とか、「ここは市民や学生の遺体が軍のトラックで運ばれて、捨てられてたんだ」 などと、気さくに案内してくれたという。

船戸さんのスケールの大きなところは、タクシーの運転手にとどまらず、この取材旅行に同行したお目付け役のミャンマー軍情報部(著者はこれを「柳生一族」と呼ぶ)と思われるアブナイ相手にまで、このテの質問を平気で発することだ。

<……この男が柳生の手の者という可能性だってある。 私は 「下手に話を政治問題へもっていくまい」 と思った。>

そんな著者(高野さん)の心配をよそに――

<しかし、ヤンゴン市内を抜けて、草葺きの家と田んぼに景色が変わったころ、船戸さんはまた唐突に訊いた。
「あんた、アウン・サン・スー・チーは好きか?」
すると、助手席の男は、さきほどの世間話の続きみたいな調子で、「もちろん」 と答えた。 そして、政府の批判をとうとうと述べ始めた。 私は拍子抜けしてしまった。>


【エピソード その二】

「柳生一族」 は、船戸・高野コンビの取材旅行にずっとくっついてくる。
そもそも、この旅行は、ミャンマーの軍情報部が経営する旅行社 「ナーガ・トラベル」 のお膳立てによるものだった。
というか、ミャンマーの辺境を旅することは、そう簡単にはできないのだ。
いわば、監視付きである。

そんな 「柳生一族」 と夕食をともにした時のはなし。
気をつかいつつも、いっしょに酒を飲んでいるうちに、いつしか酔いがまわり――

<一時間くらいたったころだろうか。 船戸さんが突然改まったような調子で言い出した。
「ところで、あんたたちに一つ、訊きたいことがある。」>

<私はギクッとした。 また、唐突に政治問題に触れそうな気配がしたからである。 柳生たちも顔をあげた。
船戸さんが凄みのきいた低い声で問う。
「いったいどっちがミャンマーの国民に人気があるんだ?……」>

<来た! 幕府とスー・チーをこの場でいきなり天秤にかけるというのか。 船戸さん、ちょっと早すぎる!>

ここでちょっと注釈を加えると、「幕府」 とはミャンマーの軍政部。
著者は、現代のミャンマーの政治状況を、日本の江戸時代になぞらえて書きすすめているのだ。

それまで談笑していた座の雰囲気は、にわかに緊張する。
「柳生」 たちの持つグラスもピタッと止まった。
そのとき、船戸さんはこう言った――

 「どっちが人気があるんだ……ミャンマービールとマンダレービール?」

このひとことで一座の緊張はいっきに解けたが――

<船戸さんはわざと柳生たちをからかっているのかと思えばそんなこともない。 「どっちのビールのほうが人気があるんだ?」 としつこく訊いている。 もしかしたらこれも取材の一環なのかもしれない。 いや、ただ酔っ払っているだけかもしれない。>


その後、船戸さんは突然話題を変え、アメリカを罵りだす。

<「勝手にイラクに戦争をしかけて、後始末を日本の軍隊に手伝わせようとしている」 とか 「いつも自分たちが正しいと思っているバカ野郎だ」 と言ったあと、バーン!とテーブルを叩いて怒鳴った。
「アメリカ、マザーファッカー!」>

<柳生たちはみんな親指を立てて、「そうだ、そうだ!」 と大喜びである。 なにしろ、ミャンマー幕府にいちばん圧力をかけているのはアメリカである。 幕府はアメリカを忌み嫌っており、柳生一族も例外ではない。>


な、なんなんだ。
いったいこの人は。
船戸与一、おそるべし。


【エピソード その三】

ミャンマーの北西部、ホマリンという田舎町の宿でのこと。
古い木造二階建ての宿のベランダに、籐の椅子を持ちだしてくつろいでいた船戸さん。

いっぽう、高野さんは木陰の特等席を船戸さんにとられたため、部屋で本を読んでいた。
宮部みゆきさんの 『堪忍箱』 という文庫本だった。

<旅先で読むには文庫本の短編集がいい。 江戸時代にタイムスリップしたようなミャンマーで時代ものを読むのも粋というもんだ。>

<ところがである。
「高野!」 と、ドスのきいた声が聞こえた。 「何か、本、持ってないか? ヒマでしょうがねえ」>

<しょうがない。 私はため息をつき、開きかけた文庫本をそのまま、船戸さんのところに持っていった。 「これ、どうです?」>

船戸さんの反応が、また、笑える。

<「ん? おー、みゆきの本じゃねえか」 (略)
船戸与一は宮部みゆきのことを 「みゆき」 と呼ぶ。
前に初めて船戸さんが 「みゆきは売れっ子だからよお……」 とか言ったときには、私は馴染みの芸妓の話でも始めたのかと思ったものだ。>

意外なことに、船戸与一と宮部みゆきは、<どういうわけか、気が合うらしく、たまに一緒に酒を飲んだりするらしい。>

うーん、不思議な組み合わせだ。


<「オレよお、みゆきの本、一冊も読んだことねえんだよ。 たぶん、みゆきもオレの本、読んだことねえと思うけどな」 とのことだ。 さもありなん、という感じである。>

<「よし、一度くらい読んでみるか」
フセインのような面構えの男がえらそうにふんぞり返り、宮部みゆきの人情時代物を読む姿は不似合いに極まっていた。>


もともと私は船戸与一の大ファンで、しかも、宮部みゆきファンなのだ。
もう、このエピソードなんかは、うれしくてたまらない。

電車とバスの中だけで、二日間で読みおえたこの本。
ほんと、たまらなかったなあ。

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2009年3月17日 (火)

【歩】ハクモクレン

昼休み、ハクモクレンがみごとに花開いているのを目撃。
いい陽気だったな。


2009/3/17 江東区

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2009年3月16日 (月)

【読】『松本清張への召集令状』(続)

私にしてはめずらしく、二日目で全体の三分の二ほど、新書の220ページまで読んでしまった。
それほど、ぐいぐい読ませる内容なのだ。

Seichou_shoushuu『松本清張への召集令状』
 森 史朗 著  文春新書 624
 2008年3月20日発行  890円(税別) 317ページ

著者は、文藝春秋で松本清張の担当編集者だった人。
清張さんへの愛情が感じられる、なんとも心優しい文章だ。

<……この小文は松本清張論といった大上段に振りかぶったシロモノではない。ごく私的な、私が清張担当として浜田山に通った頃の私的メモといった小論にすぎないことを、あらかじめお断りしておきたい。/それゆえに、文中では筆者が気軽に「清張さん」と呼びかけることをお許しいただきたい。>

<これには、わけがある。/担当編集者のだれもが「清張さん」と呼び、「松本先生」という固苦しさでもなく、「松本さん」というよそよそしさでもない。ましてや、「松本清張先生」という格式ばった言いかたでもない。それは、一般読者にとっても同じことのようだ。>

引用が長くなったが、これは本書の「まえがき」に書かれている文章の一部で、続いてこんなエピソードが紹介されている。

筆者が浜田山の清張宅を訪ねた折のこと。
タクシーの運転手に行き先をつげると、「ああ、清張さんの家ですね」と気軽に案内してくれたという。

本書に掲載されている写真をみると、なかなかの豪邸なのだが、このエピソードだけで私は「清張さん」が好きになってしまった。


第一章 松本清張への召集令状
第二章 最初の軍隊生活
第三章 ある日の松本清張
第四章 孤高の作家
第五章 召集令状とは何だったか
第六章 松本衛生兵の真実


こういう構成。
第三章、四章は、松本清張の軍隊生活からいったん離れて、その人となりが描かれている。

ざっと、目次をあげておこう。
内容紹介は私の手に余るので。

第三章
 I 浜田山通いの日々
    清張古代史の挑戦/通説をくつがえす/「陸行水行」ブーム/
    「風雪断碑」のモデル/若き学者妻の死
 II 学会との対立
    モデルと実像/『二粒の籾』/学会へのいらだち/井上光貞教授との確執/
    清張史論について
第四章
 I  作家への道
    『文豪』三部作/清張さんとの取材行/小説の語り口/山田美紗の「愛欲日記]/
    「筆は一本、箸は二本」/『九州文学』を飛び出す
 II 痛烈な文壇批判
    文壇ぎらい/大佛次郎の激励/水上勉と松本清張/タイトルの秘密/
    井上ひさしへの手紙


今日はちょうど、この第四章まで読んだのだが、後輩作家の水上勉や井上ひさしに対する清張さんのあたたかさを示すエピソードがよかった。


その一例。
『手鎖心中』 で直木賞を受賞した井上ひさしへの、清張さんの手紙。
(清張さんは、このときの直木賞選考委員で、『手鎖心中』を強く推した。井上ひさしからの礼状への返事)

<これから忙しくなると思いますが、作品の質と健康のバランスに気をつけて下さい。>

<とにかく忙しさに挑戦していくような気魄は持つべきですが、なにぶんにもトンネルの暗黒に似ているので、ときには孤独感、絶望感にも捉われることがあるでしょうが、こういう自分との闘いも生じてきます。空洞内の雑音に迷わされることなく、自分の磁石を持っていて下さい。>

<自己の才能についてあらゆる可能性をさぐるのは、結局自分だけにしかできないことです。他の者(批評家を含めて)には判りません。前にかえりますが、ほかの人の言うことに謙虚に耳を傾ける態度はもとより必要ですが、納得のいかないものは無視して進んで下さい。当面の瑣末な「悪評」には全然気にしないことです。>


井上ひさしは、著者にこの手紙を見せたあと、こう言ったという。

<……井上さんは、「ちょっと、これを見て下さいよ」と手紙のあて先を指でしめした。流れるようないつもの文字で、堂々と宛名が書かれてあった。
 「井上ひろし様」――。>  (太字部分は、原文では傍点)

いい話である。
私は、こういう人が好きだ。

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2009年3月15日 (日)

【読】『松本清張への召集令状』

ずいぶん前のことだが、一度だけ、松本清張さんを見かけたことがある。
場所は、京王井の頭線の渋谷駅ホーム。

私たち夫婦は、何かの用で渋谷へ出るため、吉祥寺から井の頭線の電車に乗った。
終点の渋谷駅でホームに降りたところ、同じ電車から降りて憮然とした表情で改札口へ向かう清張さんを見たのだった。
まさか、と思ったが、大きな下唇が特徴のあの顔は、(失礼ながら)どう見ても清張さんそのものだった。

思ったよりも小柄な人だった。
井の頭線沿線(浜田山)にお住まいだったというから、きっと、渋谷に用があって電車ででかけたのかとも思う。

ただそれだけのことだが、私には松本清張という大作家が身近に感じられ、いつまでも記憶に残るできごとだった。


松本清張の作品を読んだことは、ほとんどない。
有名な 『点と線』 すら読んだかどうか記憶にない。

「あの戦争」 について書かれたたくさんの本を読んだり買ったりしているうちに、こんな本にであった。

Seichou_shoushuu『松本清張への召集令状』
 森 史朗 著  文春新書 624
 2008年3月20日発行  890円(税別)
 317ページ

<一家七人を支える中年版下職人に、意外な赤紙が届いた。その裏事情とは? 後の作品に託した叫びとは? 担当編集者時代の私的メモをまじえ、戦争が残した深い傷に迫る究極の作家論。>


松本清張が召集令状を受け取ったのは、昭和18年(1943年)10月、三十三歳のときだった。
昭和5年、二十歳で徴兵検査を受け、第二乙種補充兵だったから、すぐに召集されることはなかった。
それが、結婚して両親と妻、子供三人の職人暮らし(印刷職人)をしていた中年男に、教育召集がかかったのである。
期間は三ヵ月。
乙種補充兵を教育するための召集といっても、現役の兵役生活とさして変わらない。
初年兵がいじめられるのが、当時の日本陸軍だった。

その後、昭和19年6月に二度目の召集令状がくる。
本格的な 「赤紙」 である。
戦局が絶望的な状況になっていた時期だ。

―― とまあ、ここまでしか読んでいないが、ずいぶんと苦労をした人だったのだな、と知った。


もう一冊、同じ文春新書のこんな本も買ってみた。

Seichou_taidan_showashi『対談 昭和史発掘』
 松本清張  文春新書 677
 2009年1月20日発行  840円(税別)
 284ページ

1975年1月号の『文藝春秋』に掲載された、城山三郎、五味川純平、鶴見俊輔との対談(第一部)と、「昭和史発掘 番外編」(第二部)から構成される。
すこぶる興味ぶかい内容だ。

松本清張の 『昭和史発掘』 をいつか読んでみようと思う。



【参考】 Wikipedia 松本清張 より

苦渋の前半生
1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業し、川北電気株式会社小倉出張所の給仕となり、文芸書を読むようになった。しばらくして家業が安定したため、祖母とともに間借住まいをする。このころから春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、特に芥川龍之介を好んだ。だが1927年、出張所が閉鎖され失職。小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習いとして採用され、さらに別の印刷所に見習いとして入る。1929年、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に留置され、父によって本を燃やされ読書を禁じられた。1931年に印刷所がつぶれ、高崎印刷所に戻ったが、嶋井オフセット印刷所で見習いとなり、その後みたび高崎印刷所に戻り、内田ナヲと結婚。だが、印刷所の主人が死去したために将来に不安を感じ、1937年から自営。朝日新聞西部支社(現・西部本社)の広告部意匠係臨時嘱託となる。

1943年に正式に社員となるが、教育召集のため久留米第56師団歩兵第148連隊に入る。翌年6月に転属となり、衛生兵として勤務。朝鮮に渡り竜山に駐屯、一等兵となった。1945年に転属、全羅北道井邑に移り、6月に衛生上等兵に進級。終戦は同所で迎えた。帰国後は朝日新聞社に復帰。図案家としても活躍し、観光ポスターコンクールに応募していた。

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【歩】春なのだ

気づかないうちに、コブシが花開いていた。
ひさしぶりに晴れてきもちのいい休日なので、団地のなかを歩いてみたら、もう春なのだ。

ジンチョウゲは毎朝みていたのだけれど、ユキヤナギ、ボケ、そしてモクレン(シモクレン)も。
足元にはオオイヌノフグリのかわいらしい花。

彼岸桜のなかまだろうか、「あかしあ通り」沿いに一本だけある早咲きの桜がきれいだ。

写真は撮れなかったけれど、午前中、車で走っていてハクモクレンの花がみごとに開いた樹もみかけた。


2009/3/15 小平市

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2009年3月14日 (土)

【楽】上々颱風のニューアルバム

またまたAmazonから、誘惑のダイレクト・メールが届いた。

アルバムタイトルも、ジャケットも、かなりインパクトが強い。


Amazon
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B001OGTWH6/ref=pe_2132_11846422_snp_dp

Shangshang12_2(仮)上々颱風12~土民の歌~
上々颱風
価格:  ¥ 3,000
ポイント:  150pt (5%)
発売日: 2009年3月18日

(曲目)
1. 夜明け 
2. 土民の唄 Part 1 
3. 恋で地球は回ってる|原爆を許すまじ 
4. Jumpin’ Jack Flash 
5. 歌うは夢 
6. 酔いどれ天国 
7. ハレ・ハレルヤ 
8. パレオロガス・ルムバ 
9. 虹 
10. 今日はあんちゃのめでで日 
11. つちんちゅRock

先月、2月14日、高円寺の 「JIROKICHI」 ライブで何曲か聴いた。

【楽】ひさしぶり、上々颱風ライブ  2009年2月14日(土)
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-019e.html


たしか、「虹」 がサトちゃん(西川郷子さん)の歌だったと記憶する。
他には、「夜明け」(猪野陽子さんの作)、「土民の唄 Part 1」、「歌うは夢」、「ハレ・ハレルヤ」、このあたりを歌ってくれたのではなかったか。

「つちんちゅRock」 の 「つちんちゅ」は、漢字で書けば 「土人」。
「海人」= 「うみんちゅ」 にひっかけた洒落、言い替えであろう。

この「土人(どじん)」という言葉、なぜ 「差別語」 とされるのか、私には理解できない。
というか、「差別語」(表層)にこだわるより、「差別するココロ」(内面)にこだわるべきだと思う。

アルバムタイトルの 「土民」 も、物議をかもしそうな気がする。


それはさておき、いますぐ予約したいところだが、ここはぐっと我慢。
5月の世田谷パブリックシアターのライブ会場で買おうと思う。

まずライブで聴いてから、CDで聴くほうがいい。
(待ちきれず、その前に買ってしまいそうだが)

世田谷のライブ会場でサイン会があるかな?



Shanshang_setagaya200905上々颱風 シアターLIVE 2009
  ~土民の歌コンサート~

 200959日(土)開場18:30/開演19:00
 2009
510日(日)開場15:30/開演16:00
 会場:世田谷パブリックシアター 
http://setagaya-pt.jp/

上々颱風の原点ともいえる "土に生きる民の歌" が
大地へ、空へ、宇宙へと響きわたる!
約3年ぶり12枚目のオリジナル・アルバム 『上々颱風12 ~土民の歌~』 を引っさげて
恒例・世田谷パブリックシアター公演に登場!

※上々颱風=しゃんしゃんたいふーん と読みます。
いまさらですが。
オフィシャルサイトはこちら。
 http://www.shangshang.jp/
わが愛するサトちゃん(西川郷子さん)のブログ(ニシカワ通信)もあります。
 http://mandi.blog.ocn.ne.jp/satoko/

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2009年3月12日 (木)

【遊】東京湾クルージング

明日書こうと思ったが、今日のうちに書いておこう。

昨日のこと。
会社の行事で、夜、こんな体験をしてきた。
自腹なら、きっと行かないだろうな。


シンフォニー東京湾クルーズ 公式サイト|シーライン東京
http://www.symphony-cruise.co.jp/cgi-bin/top/top.cgi

長時間で、ちょっと退屈したけれど、夜景はさすがにきれいだった。
ケータイしか持っていかなかったので、写真はいまいち。

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【楽】ハコさんのあの名盤がCDに!

このブログや別サイトにさんざん書いていたことが、現実になった。
再発売を切に願っていただけに、うれしい。


今日、Amazonからダイレクト・メールが届いた。

山崎ハコの『幻想旅行 / HQCD 山崎ハコ』、Amazon.co.jpでお求めいただけます
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B001OGTWVW/ref=pe_2132_11829582_snp_dp


発売されるのは、四枚。
ファン待望のCD化だ。

私は、CD化されることはないと思っていただけに、うれしくなってすぐに予約注文した。
レコードを持っているにもかかわらず。


下のジャケット画像は、Amazonのサイトから拝借した。

「風の色」 だけは、一度CDで再発売されたことがある(私はレコードしか持っていないが)。
他は、レコードが廃盤になったあと、長いあいだ入手困難だったアルバム。


Hako_gensou_cd_2Hako_gensou2_cdHako_kazenoiro_cdHako_akane_cd    
(左上から)

幻想旅行 (1981/11)
幻想旅行 II (1982/4)
風の色 (1983/2)
茜 (1981/4)

2009/3/18発売予定
各 2500円 PONYCANYON INC.



よろしければ、山崎ハコさんのアルバムを紹介している私のサイトもご覧ください。

「晴れときどき曇りのち温泉」
 資料蔵(索引と資料)
  資料蔵(山崎ハコ・ディスコグラフィー)
http://yamaoji.hp.infoseek.co.jp/k_hako_disc.html

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2009年3月10日 (火)

【読】「生きてたら、…オモ…シロイ」

このタイトルは、赤塚不二夫の自叙伝に載っていたセリフである。


Akatsuka_koredeiinoda『これでいいのだ ―赤塚不二夫自叙伝―』
 赤塚不二夫  文春文庫 2008/10/10発行
 223ページ 571円(税別)

 親本
  1993年8月 日本放送出版協会刊
  2002年12月 日本図書刊行センター刊


きのうの昼休み、勤務先近くのBOOK OFFで入手。
ちょうど澤地久枝さんの本がおわるところだったので、帰りの電車・バスの中、そして今日の通勤途上で、この一冊を読みおえてしまった。

赤塚不二夫が好きだった。
惜しいことに、昨年亡くなってしまったけれど。
告別式で、タモリが感動的な弔辞をささげていた。
この本にも、タモリとの出会いが書かれていて、タモリ(森田一義)という才能を発掘したのが赤塚不二夫だったことを改めて思いだした。


赤塚不二夫は、旧満州国で昭和10年(1935年)に生まれている。

父親は、満州国で抗日ゲリラと対峙する「古北口国境警察隊」の特務警察官だったが、その前は、新潟県新発田の16連隊で憲兵をしていた。
満州に渡ってから、昭和8年、「上官の理不尽ないい分が我慢できず」憲兵隊をやめて特務警察官になった。
この父親の結婚までのいきさつなども描かれている。

この自叙伝によると、赤塚不二夫の父親は、「反満、反日の中国人ゲリラと、目に見えない最前線で命を張って渡り合う」職務をこなしながらも、理不尽なことはせず、中国人から慕われていたという。


こんなエピソードがある。

<ある朝、おやじは突然何かを思い出して部下に命じた。
「おう、忘れとったぞ、やつを出してやれ!」
3か月前、最後まで口を割らない一人のパールー(註 八路軍=中国共産党軍の兵士)を地下牢に放り込んだまま、おやじは仕事に追われ彼のことをすっかり忘れていたのだった。>

<連れてこられた中国人は、憔悴しきってはいたが眼光だけは鋭かった。彼は処刑かと思っただろう。だが、やがてそうではなさそうだということに気づく。>

<おやじは彼を家に招待し、「悪かったなお前を忘れていた」と詫びたうえ、あったかいご飯を食べさせた。食べ終わると新しい中国服を着せ、何十円かを持たせて町へ帰してやった。>

<「シェ、シェ(謝々)」 彼は何度も振り返っては頭を下げ、町のほうへ消えて行った。>

 ― 以上 「戦中編(満洲1) P.15 ―  (一部、原文の改行を変えて引用した)



また、こんなことも書かれている。

赤塚不二夫の父親は、家族に対して、「中国人から絶対ものをもらってはいけない!」と厳命していた。

<当時、日本人の大人も子供も中国人に対して多かれ少なかれ優越感を持ち、こちらが欲しいものは相手の気持と関係なくもらって当然、という風潮があった。>

<一方、おやじの部下である〝満系〟の人たちや利害関係を意識する中国人は、なにかといっては留守宅につけ届けをしようとした。生来、潔癖なおやじはこれを極端にきらったのである。>

<おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。べつに護衛に守られていたわけではないおやじが、裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くなかったはずだ。 (中略) だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけでなく赤塚家も襲撃されることがなかった。>

 ― 以上 「戦中編(満洲1) P.16-18 ―


こういう父親だったから、赤塚不二夫一家(父は抑留され、母と不二夫と弟、妹二人の母子五人)は、敗戦後の引き揚げ時にも、ずいぶんと中国人からよくしてもらったという。

具体的なエピソードもたくさん書かれていて、とても興味ぶかかった。


ところで、今回の記事の題名だが――。

敗戦後、シベリアでの四年間の抑留生活を終えて、昭和24年に帰国した父親は、郷里で苦労し(生活のための借金苦)、結核で長い闘病生活をしていたが、奇跡的に治癒。
しかし、妻(赤塚不二夫の母)を事故で亡くす(昭和45年)。

昭和53年、その父親が癌で亡くなるときの話。

父親の首筋にできたリンパ腺ガンのはれものが日増しに大きくなり、手術もできない状態になって、あと数日しか生きられないと医者から言われた赤塚不二夫。

「おやじ、長生きしたいか?」
と彼が聞くと、病床の父親は、いよいよ息苦しくなってきた喉から、声をしぼり出すようにして答えた。
「ああ、したいなァ」

<その言葉に思いがけないほどの執着が感じられて、ぼくは思わず問い返した。
 「長生きして、どうするんだ?」
 「生きてたら、……オモ……シロイ」
 晩年になって、もう一度人生を取りもどしたおやじは、毎日、生きているために新しく味わえる人生の喜びを噛みしめていたのだ。そしてもっと生きたいと思い続けていたのだ。>

 ― 以上 「戦後編2 (東京) P.207 ―



母親が亡くなるときの場面も、胸にしみるものだった。

また、五人いた弟妹のうち、末の妹二人を幼いころに亡くし、弟の一人とは、やはり幼い頃に生き別れた(養子にいった)、そんな数々のエピソードからも、彼のあたたかい気持ちが感じられる。

満州での幼年時代。
中国からの引き揚げ。
わんぱくだった少年時代のおもいで。
(彼のギャグ漫画の主人公たちは、父親や、わんぱく仲間がモデルになっている)
帰国後の貧乏な生活。
父の帰国。
東京に出てからの売れない漫画家修行時代(トキワ荘時代)。
そして、突然のヒットで売れっ子漫画家に。
唐十郎、大島渚、佐藤慶、李麗仙(李礼仙)、山下洋輔、篠山紀信、野坂昭如らとの交流。
自身の結婚、離婚。
そして、父母や弟妹のこと。


<9年前、かあちゃんが臨終の時、ぼくの「かあちゃーん!」の一声でかちゃんを幽冥の世界から呼びもどした。今度は「もういいよな!」でおやじを冥土へ押しやったことになる。>

<ぼくは死に際に、誰かに呼びもどされるのかな、それとももういいだろうと念を押されていくのかな……。>

 ― P.209 ―


赤塚不二夫(本名 赤塚藤雄)。
平成20年(2008年)8月2日、肺炎により永眠。享年72歳。
その六年前、脳内出血で緊急手術。
一命を取り留めるも、以後、病院で眠り続け、意識の戻らないまま亡くなった。
眞知子夫人(二度目の妻)が平成18年7月12日に亡くなったことも、江守登茂子・前夫人が三日前に亡くなったことも知らずに、彼は逝った。
夫人と前夫人は、とても仲が良かったという。

 ― 巻末 「解説にかえて」 武居俊樹 より抜粋、加筆 ―


赤塚不二夫のマゴコロが伝わってくる、いい本だった。

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2009年3月 9日 (月)

【読】読了 『もうひとつの満州』(澤地久枝)

まれにみる良書だった。
私にしてはめずらしく、土曜の夜から日曜日をはさんで、今日、月曜日の通勤電車の中で早くも読了。
図書館に返さなくてはいけないと思うから、よけい集中して読んだということもあるが、それだけ魅力的な内容だったのだ。

「あの戦争」と「満州」を知ろうとする人には、ぜひお勧めしたい本だ。

迷った末、Amazonで中古を購入することにした。
本体95円、送料340円。
Amazonには、文庫版を含めてたくさん出ている。


Sawachi_manshuu澤地久枝 『もうひとつの満州』
 文藝春秋 1982/6/1 発行
 292ページ 1000円

楊靖宇という「反満抗日」の士(1940年没)を追って、旧満州(中国東北地方)を訪れた著者の、ノンフィクションである。

楊靖宇という人物の情報は少ない。
Wikipediaにもこの人の経歴は載っていなかった。
あるサイトによると、こうだ。


鉄の戦士―楊靖宇
http://japanese.cri.cn/81/2005/07/19/1@45230.htm
より転載(改行を加えた)

 楊靖宇は、東北抗日連合軍の創設者であり指導者であった。
 本名は馬尚徳、1905年、河南省確山県に生まれる。
 学生時代は、反帝国主義愛国運動に積極的に参加。
 1926年、中国共産主義青年団に入団。
 1927年4月、確山の農民暴動において指導者として参与。同6月、中国共産党に入党。
 1931年「9・18」事変ののち、中共ハルビン市道外区委書記、市委書記、満州省委軍委代理書記を兼任。1932年秋、南満州に派遣され、中国工農紅軍第32軍南満遊撃隊を編成。政治委員となり、盤石紅を遊撃根拠地の中心とした。1939年、東南満地区における秋冬期反「討伐」作戦では、部隊を率いて濛江一帯転戦。最後はただ一人、5昼夜にわたって敵と渡り合った。
 彼は想像を絶するほどの持久力で、弾が尽きるまで戦い続け、1940年2月23日、吉林濛江三道庶?子にて壮絶な最期を遂げた。残忍な日本軍によって頭をかち割られ、腹も切り裂かれていた。彼の胃には枯れ草や木の皮、綿の実が入っているばかりで、食糧を口にしていなかったことが分かった。
 彼を讃え、1946年、東北民主連合軍通化支隊は「楊靖宇支隊」と改名。濛江県も「靖宇県」となった。


(註)
 「頭をかち割られ」というのは、澤地さんのこの本から得られる情報とは違っている。
 楊靖宇の首は切られ、みせしめのために「さらしもの」にされたのは事実。
 また、「腹も切り裂かれていた」というのも事実だが、当時、日本軍は抗日戦士を捕えると、胃の中味を調べて彼らの食生活を知り、討伐のための情報源としたという。


澤地さんのこの本には、ここで紹介したい「いい話」がたくさんある。
その中から。

澤地さんのお父さんに触れた部分。
(「五 故山にして他山」 P.214)
少し長い引用になるが、澤地さんがお父さんによせるあたたかい気持ちが伝わってくる。

<父は新京郵便局の三年間に中国語を学び、設計の図面をひくカラス口の使い方も習熟して、満鉄の試験を受けた。昭和十二年四月に採用になっている。三十二歳になったばかりだった。
 この九月、満鉄は新京鉄路局を吉林に移転し、吉林鉄路局と改称している。そのために新規採用の枠がひろげられたということが、父にとってのチャンスであったのであろう。しかしけっこう二枚目で、貧乏はしても粋人であった父の努力は買ってやりたい。人生の階段を半段でものぼることがどんなに大変か、私はこの父から教えられたのだから。建国の理想などを私に説教もせず、わが家の必要が選ばせた渡満であることを心得ていた点でも、私はやはり父が好きである。>

「私ははやり父が好きである」 という言葉に、(中国人に対する)「加害者の一員」としての日本人移民ということを肝に銘じながら、「それでも……」という澤地さんの思いがよくあらわれている、と思う。



この本について書きたいことはたくさんあるが、私が書きはじめると、例によって引用だらけになりそうなので、つまり、私には上手に内容を紹介できるだけの技量がないので、これぐらいにしておく。

ご興味のある方は、ぜひ本書を手にとって読んでいただきたい。


楊靖宇について、ネット検索してみつけたサイトを紹介しておく。


【参考サイト】

通化・楊靖宇列士陵園
(吉林省・延辺朝鮮族自治州 フォトギャラリー)

http://yb.gnk.cc/yb2/2005huijia/yangjingyu/sub.htm

中国近現代史観光ガイド
http://www.chinatravel-modernhistory.com/index.html
 >地域別観光>東北 通化 靖宇陵園
 http://www.chinatravel-modernhistory.com/tiiki/tohokud.html

「中国近現代史観光ガイド」は、よくできたサイトで参考になる。

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2009年3月 8日 (日)

【歩】早咲きの桜

早咲きの桜。
あいにくの曇り空で、ぱっとしないが、いよいよ桜の季節が近づいた。
うれしい。

寒緋桜(カンヒザクラ、緋寒桜ともいう)は、色が強く、私はあまり好きではない。
桜は、淡い花色がいい。


寒桜と寒緋桜
2009/3/8 小平市

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2009年3月 7日 (土)

【読】内村剛介さんの死

もう、ひと月以上も前のことだが、新聞の死亡記事で知った。
記事を切り抜いたつもりだったが、みつからない。

おくやみ:内村剛介氏 | 訃報ドットコム
http://fu-hou.com/2360

内村剛介 | blog 死亡欄
http://bohyo.blog84.fc2.com/blog-entry-1601.html


Uchimura_ikiisogu_3内村剛介 『生き急ぐ スターリン獄の日本人』
 三省堂新書 1967年9月20日発行

内村剛介さんの著書は、『生き急ぐ スターリン獄の日本人』 ぐらいしか読んでいないが、気になる人ではあった。
満州で敗戦をむかえ、ソ連で長い抑留生活を体験した人として、ずっと気にかかっている。
『生き急ぐ』 を読んだ当時(今から30年も前だろうか)、私は「あの戦争」に今ほど関心がなかったせいか、この人のことを深く知ろうと思わなかった。

内村さんの戦争体験を知りたくなった。
ネットで、こんな本をみつけて、入手したのはつい先日のこと。
ボリュームのある内容なので、いつ読めるかわからないが。

Uchimura_gousuke_interview『内村剛介 ロングインタビュー
  生き急ぎ、感じせく――私の二十世紀』

 陶山幾朗/編集・構成
 恵雅堂出版 http://www.keigado.co.jp/
 2008年5月25日発行
 407ページ 2800円(税別)

気合いをいれて本気で格闘しないと読めそうもないが、魅力的な本ではある。

それにしても、こういう先達が世を去っていく、そんな年齢にじぶんが達したということなんだろう。

内村剛介 本名 内藤操。
1920年(大正9年)栃木県生まれ。1945年から56年までソ連に抑留。
2009年1月30日死去。88歳。

私の父よりもすこしだけ上の世代。
私の父は、海軍の飛行練習生だったと聞いているが(詳しいことを聞かないうちに亡くなってしまった)、出陣前に国内で敗戦を迎えた世代だった。
こんど、母に詳しく聞いてみようと思う。

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【読】読了 『わたしが生きた「昭和」』

はなしは前後する。
澤地久枝さんの 『わたしが生きた「昭和」』(岩波現代文庫)に、印象に残るいいエピソードがいくつかあった。

Sawachi_shouwaそのうちのひとつ。
「7 文化の闇」 という章に書かれている、祖母のはなし。

澤地さんの母方のおばあちゃんは、文字の読み書きができなかった。
慶応2年生まれで、苦労しながら二人のこども(澤地さんの母と叔父)を育てた。

久枝さん一家といっしょに満州(新京)に渡った後、久枝さんの叔父にあたる長男夫婦といっしょに朝鮮半島で暮らし、そこで昭和20年1月に亡くなっている。

<さて、無筆ではあったが、無学や無知ではなかった未識字の人。わたしの祖母もそういう一人である。(中略)/慶応二年(1866)、幕末生れの祖母は、敗戦の昭和二十年(1945)一月五日、老衰で亡くなった。息子一家の自決は知らずに死んだが、祖母の遺骨は行方知れずである。五十年前の死、目に一丁字なしの、七十九年間の人生であった。>

こういう記述もある。
澤地さんの温かい人柄が感じられる、いい文章だ。

<若かった日、「きりょうが悪い」と言われたというが、愛すべき小柄な老人になり、身仕舞いのいい人であった。しかし炎天下も酷寒もいとわず、戸外で働きぬいたためか、なめしたような皮膚は色黒い。体を資本として生きた人間らしいしっかりした手でもあった。>

<かくしておきたい一家の過去が祖母の一身にかくしようもなくそなわってしまっている。(中略)/吉林駅前の公園に長く座って涙をこぼしながら話したあと、祖母はついと立ちあがり、腰をのばすとしっかりした声で言った。/「久枝ちゃん、着物買ってあげよう」>

澤地久枝さんにとって、いいおばあちゃんだった。



この章を通勤電車の中で読んでいるうちに、私は、ずっと同居していた父方の祖母のことをおもいだしていた。

私の祖母も文字の読み書きができなかったが、それこそ「体を資本として生きた」、生きることの知恵を身につけた、りっぱな人だった。
初孫の私は、この祖母にことのほか可愛がられた。

澤地さんのおばあちゃんよりもだいぶん歳下ではあるが、私にはじぶんの祖母のおもいでとかぶさって、不覚にも涙がこぼれた。
本を読みながら涙を流すなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。

乾いたこころに、ひととき、あたたかい潤いが満ちて、感動とはこういうものだったな、ということを思いだした。



もうひとつのエピソードは、澤地さんのおとうさんのはなしだ。
(「2 写真が語るもの」「10 日本人難民」)

東京で大工仕事をしていた澤地さんの父親は、昭和9年(1934)、単身で満州国へ渡った。
東京では仕事がうまくいかず、一家はずいぶん貧乏をしていたから、満州に行けばなんとかなる、という思いがあったのではないか。

<昭和九年(1934)、父は単身で満州国に渡る。前景には、日本での生活がまったくゆきづまったという事情がある。昭和五年(あるいはその前年)以来の不景気に、父親は生活を投げる様子を見せた。母の内職などではおぎないきれない。道をはずれはしまいかと思案した母は、満州での生活を考える。「匪賊、馬賊の満州」とおそれられた知らない土地に対して、母にはほとんど警戒心はなかったように思われる。>

翌、昭和10年、家族を呼び寄せ、一家は敗戦まで満州で暮らすことになる。

<昭和十年の初夏、わが家の女三人は、門司から大連へ渡り、新京の父もとへ行くことになる。祖母の都屋七十歳、父三十一歳、母二十九歳、わたしは六歳だった。/青山墓地に中村の形ばかりの墓はあっても、その他にはなにひとつのこらない旅立ちである。祖母はひとまず新京で暮し、叔父が所帯をもったら朝鮮へ移ることに話はまとまっていたのであろう。>

澤地さんの父は満鉄で職を得て、そこそこの暮らしができるようになった。


しかし、10年後、一家は満州から追われることになる。
日本の敗戦。

<敗戦、しかも支配者として位置した異国での逆転した事態に、日本人はまったく馴れていない。「策なし」だった。さらに今思うと、それまでの生活のレベルが、敗戦体験の内容を左右している。/噂が流れる。根拠のない噂を、裏切られながらも幾度も幾度も信じた大人たち。とくに父。それは、十月に引揚げがはじまるという噂。十月が過ぎれば、年内には確実に日本へ帰れるという噂。>

たくさんの人たちが体験した、悲惨な引き揚げ。

澤地さんの父親が「敗戦を知ってすぐに指示した具体的なことは、乾飯(ほしいい)を作ること。日本へ帰りつくまでの非常食」だった。
これは、結果的に、引揚げ船で飢えをしのぐのに役立ったのだが、「乾飯以外では、父は気の毒なほど無力だった」。

<戦争は終っている。当時、その惨状は伝わっていなかったが、空襲で焦土となった日本へ帰ってゆくのである。空襲を経験しない吉林生活で手許にのこされているもの、換金性の高い、できれば小さくて軽いものをと今の私なら考える。/金銀宝石のたぐいに縁のないわが家であっても、引揚げ後の生活を少しでも助ける品々はあった。父をそして母を哀れと思うのは、すぐにも日本へ帰ることができると考えて生活の方針を決めたこと。なにに価値があるのかを見きわめる豊かな暮しの実績が乏しかったこと。生活者としての貧しい過去は、判断を鈍らせたし、換金性が高く財産価値のあるものを持たなかったことと結びついてもいる。/それにしても、無残だった。父母はそれまでの生活で築いたすべてを失った。>

澤地さん一家は、着物や、置時計、靴、父親の「道楽だったカメラとその付属品の数々」といった財産を、中国人に十把ひとからげで売り払ったり、知り合いの中国人に気前よく贈ったりして、手許には何も残らなかった。

発疹チフスが流行し、澤地さんの父も感染して臥せってしまう。
そんなある日。

<病み上りの危うい足どりで、父はソ連領事館(当時の呼び方)へ大工仕事に通いはじめる。そこでは、日本人の所持品がかなりの金額で売られ、ソ連軍士官(女性もいた)が凱旋みやげに買いまくっているという話だった。/和服なら総絞りの振袖や丸帯、毛皮、装身具あるいはカーペットなどなど、よくこれほどと思う品々が並んでいたという。父の心に、「早まった」という後悔が走った可能性がある。>

なんとも、せつないはなしである。


この部分を読みながら、私は、私の父親のことを思いだしていた。

北海道の地方小学校の教員をしながら、けっして余裕のある生活ではなかったけれど、父はレコードを買ったり、バイオリンを買って練習したりしていた。
カメラもそうで、二眼レフを買い、じぶんで現像していた。
父のおかげで、私たちの幼い頃の写真がたくさん残されている。

母親(私の祖母)と親子二人きりで苦労して育ち、ようやく師範学校を卒業、教員になった父。
そんな父のささやかな道楽(趣味)だったのだと、今ならわかる。

私は、澤地さんの父親と、じぶんの父を、いつのまにか重ねあわせながら読んでいた。

いい本だった。

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【読】図書館はありがたいな

ひさしぶりに晴れた。
自宅のリビング(というほどのものでもないが)にPCを持ってきて、ラジオを聴きながら書いている。

南向きの窓から、日ざしはまだ入ってこないが、暖房がいらない程度にはあたたかい。

近くの図書館へ、二日前にネット予約してあった本二冊を、受けとりにいってきた。
団地の桜の樹も、つぼみがふくらんできた。
春なんだなあ、とおもいながら帰ってきた。


Sawachi_manshuu_2Itsuki_jigazou澤地久枝 『もうひとつの満州』
 文藝春秋 1982年

五木寛之 『深夜の自画像』
 創樹社 1974年

どちらも、古書でなければ手にはいらない本だ。
文庫版も絶版になっている。
Amazonという手もあるが、これ以上、本を買って増やすのはためらわれる。

『深夜の自画像』のほうは、文春文庫を持っていたはずだが、探してもみつからない。
手放してしまったらしい。

このあいだまで読んでいた、平岡正明 『石原莞爾試論』(白川書院)に、この本のことが書かれていたので、読み返してみたくなったのだ。

<横浜で一つ席が空いた。腰を下ろし、会場で買った『ダイナミック空手』と、車中で読もうと持ってきた五木寛之『深夜の自画像』をとりだして、どちらから読みはじめようかと頁をめくってみた。奇妙な予感がした。うまく人には伝えられないが、俺はいま何か発見するぞという信号のようなもので、電車がポイントを高速で通過する際のカカカカというリズムのなかにその予感が浮上してきたことをおぼえている。>
(平岡正明 『石原莞爾試論』 1977年)

五木さんのエッセイ集が発売された時代の空気がよみがえってくるような文章だ。
私が青年だった頃、1970年代の空気。

借りてきた、五木寛之 『深夜の自画像』の目次をみていたら、あった、あった。
なにやら不思議な符合のように。

― 名著発掘=平岡正明著『ジャズ宣言』 昭和44年9月 ―
<はじめ明烏敏全集のことを書こうと思ったのだが、昨夜たまたま読んだこの新しい本の印象が余りに強烈だったので、まだ評価のさだまらないこの異色の批評集について書くことにした。
 『ジャズ宣言』という本のタイトルから、野間宏の『暗い絵』が書店の美術専門書の棚に並べられたというエピソードと同じ目に会うのではないかと、ぼくはこの本のために気遣っているところだ。
 相倉久人がいみじくも書いているように、平岡正明のこのエッセイの数々は、「ここに六十年代をジャズとして生きているひとりの男」の、六十年代に対する独立宣言であり、……>
(五木寛之『深夜の自画像』 1974年)

Hiraoka_jazz_sengen平岡正明 『ジャズ宣言』
 現代企画室 1990年 (復刻版)
  第一版 1969年 イザラ書房刊
  第二版 1979年 アディン書房刊

―日本語第三版への序 より―
<イザラ書房刊の初版(1969)に第三版の序文でつけくわえることは、勝利したジャズは芸術を独裁するというその一点である、なあんて一度言ってみたかった。言ってみるとやはり気持いい。
 むこうは『共産党宣言』だ。こっちは『ジャズ宣言』だ。宣言にかわりはない。>


まさに、なんちゃって、である。
1970年代――おもしろい時代だったな、と懐かしんだりして。


澤地さんの本 『もうひとつの満州』 は、タイトルにひかれた。

目次をみると、

「わが心の満州」 1981年7月10日、北京発の汽車は、翌日未明山海関に着いた
 ここから東北。35年ぶりに訪れる故郷・満州への旅が始まる

――という章ではじまり

「消された村」「通化の陵園」「終焉の地」「故山にして他山」「ひとつの歌」「旅の終り」

と続く。

そうか。
澤地さんが育った「満州」の再訪記なんだな。

こんなにいい本が新本で手に入らないというのも、妙なはなし。
(文春文庫 1986年版も絶版)
安野光雅さんの装幀、挿絵(扉スケッチ)がしゃれている本だ。


本を所有することにこだわらなければ、読みたい本は図書館を利用するのがいいんだな、とあらためて思う。
なかなか「所有欲」から自由になれないのがつらいけど。


【追記】  2009/3/7 夜
澤地久枝 『もうひとつの満州』 (Amazonより)
出版社/著者からの内容紹介
<日本人とにって、中国人にとって満州とは何だったか? 反満抗日ゲリラの領袖・楊靖宇の事跡を追いながら、著者自らの郷愁の思いを問い返す哀切な<旅>のすべて>

図書館から借りてきたこの本を読みはじめている。
たくさんの人の手に触れ、読まれた形跡が感じられる本だ。
シミや折り目の跡がたくさんあり、背綴じは剥がれかかっていて、ていねいに扱わなければ今にもバラバラになりそうなほど傷んでいる。
この一冊の本を、どれだけ多くの人たちが読みふけったことだろう。
まさに「手垢」のつくほど読み継がれた、こういう本を手にするのもいいものだ、と思う。

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2009年3月 5日 (木)

【読】わたしが生きた「昭和」 (澤地久枝)

そういえば、この人の本を読むのは初めてかもしれない。
ずっと長いあいだ、気になっていた人ではある。

Sawachi_shouwa澤地久枝 『わたしが生きた「昭和」』
 岩波書店(岩波現代文庫)
 2000/1/14  241ページ  800円(税別)
 (親本) 1995年 岩波書店刊

<貧しさゆえに一家で、「満州」に渡り過ごした少女時代、敗戦後の難民生活と家族の運命……。つねに声なき民の側に立って歴史を見つめ続けてきたノンフィクション作家が、今初めて自身の今日までの人生と家族の歴史に焦点をあて、「昭和」という時代の検証に挑む。作家活動の原点を示す記念碑的作品。> (本書カバー)


澤地さんは、1930年(昭和5年) 東京生まれ。
四歳のとき両親とともに「満州」に渡り、敗戦で引き揚げてきた。
まだ90ページほどしか読んでいないが、軍人だった叔父(お母さんの弟)一家は、昭和20年8月19日に朝鮮半島で自決したという。

自身の幼い頃からの体験記と、作家の冷静な目からの戦争批判が、バランスよく書かれていて好感が持てる。


次の一節には、ちょっと感動した。
名文である。

<歴史とは、大気のようでもあり、海のようでもある。一つの時代に生きていて、自分がどこにいるのか見定めることのできる人は稀であろう。現に隣りで、目前で、進行していることの本質が見えない。> (「四 有事の作為」 P.81)


この人は立派だな、と思う。

というのは、戦争指導者を鋭く批判しながらも、当時の大衆の多くが戦争を支持する心情をもっていたことを、きちんと押さえていることだ。
もちろん、兵役を喜んだ人はいなかったにちがいないが、戦勝に沸いたり、中国や朝鮮の人びとを蔑視する気持ちを疑わなかった大衆が、あの戦争を支えていたことも事実だろう。


被害者であり、加害者でもあった日本の大衆。
明治維新、開国、朝鮮半島への進出(侵略)、日露戦争を経て中国大陸へ。
大きな歴史の流れは、まさに、「大気のようでもあり、海のようでもある」。
大衆(他に適当なことばがないので、やむをえず使うが)は、その中で、流されていくだけだったのか。

戦後に生まれた私が「あの戦争」にこだわるのは、この疑問に自分で答えをみつけたいから、かもしれない。

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2009年3月 4日 (水)

【読】「やった側」の記録

この記事のタイトルは、ちょっとどぎついとは思うが……。

Honda_chuugoku_tabi本多勝一 『中国の旅』 (朝日文庫、1993年 第19刷)を古書で手に入れた。
だが、ネットで調べているうちに、モンダイの多い著作だということがわかり、まだ読まずにいる。
いずれ、眉に唾をつけながら読んでみようとは思う。

モンダイというのは、掲載写真(日本軍残虐行為の「証拠」写真)に、捏造の疑いがあるということだ。
Amazonでの一般読者の評価はさんざんであり、著者の本多勝一もずいぶん攻撃されている。
本多勝一の取材方法、捏造指摘後の対応にも、問題が多かったようだ。
これについては、詳しく調べてみたい。

それはともかく。
もう一冊、おなじ朝日文庫だが、こんな本をみつけたので購入。
三日で読みおえた。

Kikigaki_kenpei『聞き書き ある憲兵の記録』
 朝日新聞山形支局 著 朝日文庫(あ 4-37)
 1991/2/20発行 262ページ 480円(税込)

土屋芳雄さんという人が語った、中国大陸での憲兵体験談で、執筆は朝日新聞山形支局の二人の記者である。
朝日新聞記者らしい、いやな感じも受けたが(うまく説明できないが、一言でいうと「正義漢ぶった」感じが鼻につく)、最後まで読んでみると、なかなか重い内容だった。

本書の文章から、土屋芳雄さんの略歴をひろってみる。
(まとまった略歴は載っていないので、私なりの要約)

■明治44年(1911年)、山形県の農村に生まれる。
父は鉄道の保線工夫、母が四反(約40アール)ほどの田の小作をしていた。
貧しい暮らしで、家は3.6×7.3メートルの一間だけ。床は土間、ワラをまき、ムシロを敷いただけの一間に、祖父母、父母、兄弟(土屋芳雄氏とその弟)の六人が暮らしていた。

■昭和6年(1931年)、徴兵検査で甲種合格。
召集される前に、みずから満州の独立守備隊を志願。

志願した理由は、召集されて地元「山形歩兵三十二連隊」へ入営した場合の、初年兵に対するリンチへの恐怖心からだった。
「(山形歩兵三十二連隊は)主に県内出身者といっても、知らない人が多い。どんないじめ方をされるか分からない。それに、村の青年訓練所の一年先輩が、満州の公主嶺独立守備隊に行っていた。どうせ兵隊にとられるなら、その先輩のいる独立守備隊に行きたい。古兵にリンチをくらいそうになっても、その先輩がかばってくれるのではないか、という気持ちだった」 (P.31)

■昭和6年(1931年)12月、二十歳で関東軍独立守備隊に入隊。
中国大陸へ渡る。
「満州事変」が、その年の9月18日に起きて、すでに「満州」は戦場と化していた。
これは、土屋氏の計算違いだったが、両親ほどには心配しなかった。

彼は、軍隊内でまじめに努力し、早く上等兵になろうとする。
初年兵は、いつまでたってもいじめの対象になるからだ。
「匪賊」討伐にも積極的に参加。
日本軍の残虐行為を目撃もし、みずからも手をそめる。
上官に命じられて中国農民の「刺突」も体験。
(縛りあげた中国人捕虜を銃剣で突き刺す、というアレだ。上官が日本刀で捕虜の首を切ることも、目の前でおこなわれた。)

■昭和8年(1933年)5月、憲兵を志願。
成績優秀だったにもかかわらず、上等兵になかなかなれなかったのが動機だった。
憲兵になって、えこひいきをする人事担当の特務曹長を、やっつけたいと思ったそうだ。
「憲兵といえば軍の警察、狙ってさえいれば、あの憎い特務曹長をやっつける機会に恵まれるかもしれない。」 (P.70)

■敗戦までの12年間、憲兵として「反満抗日分子」の虐待(凄惨な拷問、殺害)に手を染めていく。
敗戦後、ソ連での抑留、中国での戦犯取調を受け、そこで、憲兵時代にやったことを振り返り、「オレが殺したのは何人か」「拷問したのは何人か」と数えあげた数字がすさまじい。

<結果は想像を超えていた。 昭和六年、入営した時から数えて、土屋が直接間接に殺したのは三百二十八人。逮捕し拷問にかけ、獄につないだのは実に千九百十七人だった。> (P.252)

■昭和20年(1945年)8月15日、チチハル市で「玉音放送」を聞く。
8月18日、ソ連軍に投降。
10月、ソ連領内トーリンスカヤで、森林伐採の強制労働に従事。
抑留生活のはじまり。
その後、ハバロフスクへ移され、取り調べを受ける。

■昭和25年(1950年)7月、中国 撫順戦犯管理所へ移され、本格的な取り調べ開始。
中国での待遇はよかった。
なによりも、強制労働がなく、旧日本兵の罪状を念入りに調べ、「戦犯の一人ひとりについて、殺された被害者の遺族や拷問された当人から告訴状をとり、関東軍司令部や憲兵隊司令部から押収した書類で裏づけ」したうえで、「完璧な罪状を目の前に突きつけ」るというやり方だった。
「自白すれば軽く、拒めば重く」 ――それが中国による戦犯の扱いだった。
土屋氏は、ここで、じぶんの罪状をすべて認めて、謝罪する。

■彼の抑留生活は、昭和31年(1956年)まで続いた。
敗戦から、11年間である。
死刑を覚悟していたが、中国での判決は起訴猶予だった。

■昭和31年(1956年)8月、帰国。


最後まで読んで、私は驚いた。
昭和31年といえば、私が五歳の頃だ。
そんな時代(敗戦後十一年が経過)まで、大陸に抑留されていた元日本兵がたくさんいたことに。

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2009年3月 1日 (日)

【読】読了 『石原莞爾試論』 (平岡正明)

面白く、勉強になる本だった。
この一冊を論評する力量が私にはないが、怪著というかなんというか。

日に焼けたカバーをはぐと、こんな表紙だった。

Hiraoka_ishihara_kanji3平岡正明 『石原莞爾試論』
 白川書院 1977/5/15発行
 四六判 224ページ  1300円

雑誌 『第三文明』 に連載されたものらしい。
だからどうした、ということもないが、潮出版社、第三文明社と平岡正明の関係は深いようだ。
石原莞爾は「熱心な日蓮主義者」(Wikipedia)であったが、平岡氏のこの著作では、その点までは言及されていない。
(著者は、「本書が石原莞爾論として未完成のものだ」と、あとがきで断わっている。)

終章 「石原莞爾と若き大山倍達」 が、とても興味ぶかい内容。
大山倍達と石原莞爾のあいだにつながりがあったことは、意外だった。

平岡氏は、極真空手の猛者(有段者)でもある。
私は、空手や武術にはまったく詳しくないが、「空手バカ一代」 という劇画は一世を風靡したもので、懐かしく思いだす。


以下、この終章で平岡氏が描く大山倍達氏の若き日のエピソードの一部。
感動的な話だ。

<山梨少年航空学校を卒業した彼は航空機の整備兵にまわされる。 そして一度軍隊から脱走するのだ。 上官の兵いびりが原因だ。 夜、宿舎で、大山倍達が遠く妹さんからきた手紙と写真を眺めていると、上官がやってきて、写真をとりあげ、破りすてた。>

<怒った倍達の一撃、上官を半殺しの目にあわせた。 反抗罪で八か月の重営倉である。 夜毎、上官は仲間とやってきて、竹刀による私刑(リンチ)。 さしも頑健な倍達も、殺されると思い、自ら口唇をかみ切って大量に出血し、ために病院にかつぎこまれた。 そしてこの病院から彼は脱走した。 たった一枚の写真から――。 その写真には朝鮮の民族衣装を着た妹さんが写っていた。>

(本書 218-219ページ)

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