【読】読了 『わたしが生きた「昭和」』
はなしは前後する。
澤地久枝さんの 『わたしが生きた「昭和」』(岩波現代文庫)に、印象に残るいいエピソードがいくつかあった。そのうちのひとつ。
「7 文化の闇」 という章に書かれている、祖母のはなし。
澤地さんの母方のおばあちゃんは、文字の読み書きができなかった。
慶応2年生まれで、苦労しながら二人のこども(澤地さんの母と叔父)を育てた。
久枝さん一家といっしょに満州(新京)に渡った後、久枝さんの叔父にあたる長男夫婦といっしょに朝鮮半島で暮らし、そこで昭和20年1月に亡くなっている。
<さて、無筆ではあったが、無学や無知ではなかった未識字の人。わたしの祖母もそういう一人である。(中略)/慶応二年(1866)、幕末生れの祖母は、敗戦の昭和二十年(1945)一月五日、老衰で亡くなった。息子一家の自決は知らずに死んだが、祖母の遺骨は行方知れずである。五十年前の死、目に一丁字なしの、七十九年間の人生であった。>
こういう記述もある。
澤地さんの温かい人柄が感じられる、いい文章だ。
<若かった日、「きりょうが悪い」と言われたというが、愛すべき小柄な老人になり、身仕舞いのいい人であった。しかし炎天下も酷寒もいとわず、戸外で働きぬいたためか、なめしたような皮膚は色黒い。体を資本として生きた人間らしいしっかりした手でもあった。>
<かくしておきたい一家の過去が祖母の一身にかくしようもなくそなわってしまっている。(中略)/吉林駅前の公園に長く座って涙をこぼしながら話したあと、祖母はついと立ちあがり、腰をのばすとしっかりした声で言った。/「久枝ちゃん、着物買ってあげよう」>
澤地久枝さんにとって、いいおばあちゃんだった。
この章を通勤電車の中で読んでいるうちに、私は、ずっと同居していた父方の祖母のことをおもいだしていた。
私の祖母も文字の読み書きができなかったが、それこそ「体を資本として生きた」、生きることの知恵を身につけた、りっぱな人だった。
初孫の私は、この祖母にことのほか可愛がられた。
澤地さんのおばあちゃんよりもだいぶん歳下ではあるが、私にはじぶんの祖母のおもいでとかぶさって、不覚にも涙がこぼれた。
本を読みながら涙を流すなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。
乾いたこころに、ひととき、あたたかい潤いが満ちて、感動とはこういうものだったな、ということを思いだした。
もうひとつのエピソードは、澤地さんのおとうさんのはなしだ。
(「2 写真が語るもの」「10 日本人難民」)
東京で大工仕事をしていた澤地さんの父親は、昭和9年(1934)、単身で満州国へ渡った。
東京では仕事がうまくいかず、一家はずいぶん貧乏をしていたから、満州に行けばなんとかなる、という思いがあったのではないか。
<昭和九年(1934)、父は単身で満州国に渡る。前景には、日本での生活がまったくゆきづまったという事情がある。昭和五年(あるいはその前年)以来の不景気に、父親は生活を投げる様子を見せた。母の内職などではおぎないきれない。道をはずれはしまいかと思案した母は、満州での生活を考える。「匪賊、馬賊の満州」とおそれられた知らない土地に対して、母にはほとんど警戒心はなかったように思われる。>
翌、昭和10年、家族を呼び寄せ、一家は敗戦まで満州で暮らすことになる。
<昭和十年の初夏、わが家の女三人は、門司から大連へ渡り、新京の父もとへ行くことになる。祖母の都屋七十歳、父三十一歳、母二十九歳、わたしは六歳だった。/青山墓地に中村の形ばかりの墓はあっても、その他にはなにひとつのこらない旅立ちである。祖母はひとまず新京で暮し、叔父が所帯をもったら朝鮮へ移ることに話はまとまっていたのであろう。>
澤地さんの父は満鉄で職を得て、そこそこの暮らしができるようになった。
しかし、10年後、一家は満州から追われることになる。
日本の敗戦。
<敗戦、しかも支配者として位置した異国での逆転した事態に、日本人はまったく馴れていない。「策なし」だった。さらに今思うと、それまでの生活のレベルが、敗戦体験の内容を左右している。/噂が流れる。根拠のない噂を、裏切られながらも幾度も幾度も信じた大人たち。とくに父。それは、十月に引揚げがはじまるという噂。十月が過ぎれば、年内には確実に日本へ帰れるという噂。>
たくさんの人たちが体験した、悲惨な引き揚げ。
澤地さんの父親が「敗戦を知ってすぐに指示した具体的なことは、乾飯(ほしいい)を作ること。日本へ帰りつくまでの非常食」だった。
これは、結果的に、引揚げ船で飢えをしのぐのに役立ったのだが、「乾飯以外では、父は気の毒なほど無力だった」。
<戦争は終っている。当時、その惨状は伝わっていなかったが、空襲で焦土となった日本へ帰ってゆくのである。空襲を経験しない吉林生活で手許にのこされているもの、換金性の高い、できれば小さくて軽いものをと今の私なら考える。/金銀宝石のたぐいに縁のないわが家であっても、引揚げ後の生活を少しでも助ける品々はあった。父をそして母を哀れと思うのは、すぐにも日本へ帰ることができると考えて生活の方針を決めたこと。なにに価値があるのかを見きわめる豊かな暮しの実績が乏しかったこと。生活者としての貧しい過去は、判断を鈍らせたし、換金性が高く財産価値のあるものを持たなかったことと結びついてもいる。/それにしても、無残だった。父母はそれまでの生活で築いたすべてを失った。>
澤地さん一家は、着物や、置時計、靴、父親の「道楽だったカメラとその付属品の数々」といった財産を、中国人に十把ひとからげで売り払ったり、知り合いの中国人に気前よく贈ったりして、手許には何も残らなかった。
発疹チフスが流行し、澤地さんの父も感染して臥せってしまう。
そんなある日。
<病み上りの危うい足どりで、父はソ連領事館(当時の呼び方)へ大工仕事に通いはじめる。そこでは、日本人の所持品がかなりの金額で売られ、ソ連軍士官(女性もいた)が凱旋みやげに買いまくっているという話だった。/和服なら総絞りの振袖や丸帯、毛皮、装身具あるいはカーペットなどなど、よくこれほどと思う品々が並んでいたという。父の心に、「早まった」という後悔が走った可能性がある。>
なんとも、せつないはなしである。
この部分を読みながら、私は、私の父親のことを思いだしていた。
北海道の地方小学校の教員をしながら、けっして余裕のある生活ではなかったけれど、父はレコードを買ったり、バイオリンを買って練習したりしていた。
カメラもそうで、二眼レフを買い、じぶんで現像していた。
父のおかげで、私たちの幼い頃の写真がたくさん残されている。
母親(私の祖母)と親子二人きりで苦労して育ち、ようやく師範学校を卒業、教員になった父。
そんな父のささやかな道楽(趣味)だったのだと、今ならわかる。
私は、澤地さんの父親と、じぶんの父を、いつのまにか重ねあわせながら読んでいた。
いい本だった。
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