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2009年3月 4日 (水)

【読】「やった側」の記録

この記事のタイトルは、ちょっとどぎついとは思うが……。

Honda_chuugoku_tabi本多勝一 『中国の旅』 (朝日文庫、1993年 第19刷)を古書で手に入れた。
だが、ネットで調べているうちに、モンダイの多い著作だということがわかり、まだ読まずにいる。
いずれ、眉に唾をつけながら読んでみようとは思う。

モンダイというのは、掲載写真(日本軍残虐行為の「証拠」写真)に、捏造の疑いがあるということだ。
Amazonでの一般読者の評価はさんざんであり、著者の本多勝一もずいぶん攻撃されている。
本多勝一の取材方法、捏造指摘後の対応にも、問題が多かったようだ。
これについては、詳しく調べてみたい。

それはともかく。
もう一冊、おなじ朝日文庫だが、こんな本をみつけたので購入。
三日で読みおえた。

Kikigaki_kenpei『聞き書き ある憲兵の記録』
 朝日新聞山形支局 著 朝日文庫(あ 4-37)
 1991/2/20発行 262ページ 480円(税込)

土屋芳雄さんという人が語った、中国大陸での憲兵体験談で、執筆は朝日新聞山形支局の二人の記者である。
朝日新聞記者らしい、いやな感じも受けたが(うまく説明できないが、一言でいうと「正義漢ぶった」感じが鼻につく)、最後まで読んでみると、なかなか重い内容だった。

本書の文章から、土屋芳雄さんの略歴をひろってみる。
(まとまった略歴は載っていないので、私なりの要約)

■明治44年(1911年)、山形県の農村に生まれる。
父は鉄道の保線工夫、母が四反(約40アール)ほどの田の小作をしていた。
貧しい暮らしで、家は3.6×7.3メートルの一間だけ。床は土間、ワラをまき、ムシロを敷いただけの一間に、祖父母、父母、兄弟(土屋芳雄氏とその弟)の六人が暮らしていた。

■昭和6年(1931年)、徴兵検査で甲種合格。
召集される前に、みずから満州の独立守備隊を志願。

志願した理由は、召集されて地元「山形歩兵三十二連隊」へ入営した場合の、初年兵に対するリンチへの恐怖心からだった。
「(山形歩兵三十二連隊は)主に県内出身者といっても、知らない人が多い。どんないじめ方をされるか分からない。それに、村の青年訓練所の一年先輩が、満州の公主嶺独立守備隊に行っていた。どうせ兵隊にとられるなら、その先輩のいる独立守備隊に行きたい。古兵にリンチをくらいそうになっても、その先輩がかばってくれるのではないか、という気持ちだった」 (P.31)

■昭和6年(1931年)12月、二十歳で関東軍独立守備隊に入隊。
中国大陸へ渡る。
「満州事変」が、その年の9月18日に起きて、すでに「満州」は戦場と化していた。
これは、土屋氏の計算違いだったが、両親ほどには心配しなかった。

彼は、軍隊内でまじめに努力し、早く上等兵になろうとする。
初年兵は、いつまでたってもいじめの対象になるからだ。
「匪賊」討伐にも積極的に参加。
日本軍の残虐行為を目撃もし、みずからも手をそめる。
上官に命じられて中国農民の「刺突」も体験。
(縛りあげた中国人捕虜を銃剣で突き刺す、というアレだ。上官が日本刀で捕虜の首を切ることも、目の前でおこなわれた。)

■昭和8年(1933年)5月、憲兵を志願。
成績優秀だったにもかかわらず、上等兵になかなかなれなかったのが動機だった。
憲兵になって、えこひいきをする人事担当の特務曹長を、やっつけたいと思ったそうだ。
「憲兵といえば軍の警察、狙ってさえいれば、あの憎い特務曹長をやっつける機会に恵まれるかもしれない。」 (P.70)

■敗戦までの12年間、憲兵として「反満抗日分子」の虐待(凄惨な拷問、殺害)に手を染めていく。
敗戦後、ソ連での抑留、中国での戦犯取調を受け、そこで、憲兵時代にやったことを振り返り、「オレが殺したのは何人か」「拷問したのは何人か」と数えあげた数字がすさまじい。

<結果は想像を超えていた。 昭和六年、入営した時から数えて、土屋が直接間接に殺したのは三百二十八人。逮捕し拷問にかけ、獄につないだのは実に千九百十七人だった。> (P.252)

■昭和20年(1945年)8月15日、チチハル市で「玉音放送」を聞く。
8月18日、ソ連軍に投降。
10月、ソ連領内トーリンスカヤで、森林伐採の強制労働に従事。
抑留生活のはじまり。
その後、ハバロフスクへ移され、取り調べを受ける。

■昭和25年(1950年)7月、中国 撫順戦犯管理所へ移され、本格的な取り調べ開始。
中国での待遇はよかった。
なによりも、強制労働がなく、旧日本兵の罪状を念入りに調べ、「戦犯の一人ひとりについて、殺された被害者の遺族や拷問された当人から告訴状をとり、関東軍司令部や憲兵隊司令部から押収した書類で裏づけ」したうえで、「完璧な罪状を目の前に突きつけ」るというやり方だった。
「自白すれば軽く、拒めば重く」 ――それが中国による戦犯の扱いだった。
土屋氏は、ここで、じぶんの罪状をすべて認めて、謝罪する。

■彼の抑留生活は、昭和31年(1956年)まで続いた。
敗戦から、11年間である。
死刑を覚悟していたが、中国での判決は起訴猶予だった。

■昭和31年(1956年)8月、帰国。


最後まで読んで、私は驚いた。
昭和31年といえば、私が五歳の頃だ。
そんな時代(敗戦後十一年が経過)まで、大陸に抑留されていた元日本兵がたくさんいたことに。

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