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2009年7月28日 (火)

【読】間宮林蔵

北海道に住む友人が、つい先日、サハリン(旧 樺太)を訪れたという。
友人のブログでサハリン探訪記が連載されており、毎日楽しみにしている。

 北海道通信
  http://northlancafe.kitaguni.tv/

ところで、樺太といえば間宮海峡(タタール海峡)。
この間宮海峡を「確認」し、海峡名に名を残したのが間宮林蔵だ。

― Wikipedia 間宮林蔵 より ―
<安永9年(1780年) - 天保15年(1844年)
文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索。間宮はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。文化6年(1809年)、樺太が島であることを確認した松田が帰ったあと、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、樺太人から聞いた、何らかの役所が存在するという町「デレン」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、樺太人らと共に海峡を渡って黒竜江下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。間宮は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マニワノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している。>
 
樺太(サハリン)とユーラシア大陸(現在はロシア、間宮林蔵の当時は東韃靼)とのあいだに海峡のあることは、ここを往来していた人たちには古くから知られていた。とうぜんのことだ。
アメリカ大陸をヨーロッパ人が「発見」したと称するのに似た、一方的な史観ではある。

― Wikipedia 間宮海峡 より ―
<樺太や対岸の沿海州には古来からアイヌ、ニヴフ、ウィルタ、女真(満洲民族)などの民族が居住・往来していた。このため、古くからここに居住していた人達にとって、樺太が島であることは、良く知られたことだった。1644年に作成された正保御国絵図においても、樺太は島として描かれている。>


今日から読みはじめた、この小説がおもしろい。
さすがに吉村昭だ。
うまい、と思う。

Yoshimura_mamiya『間宮林蔵』 吉村 昭
 講談社文庫 1987年刊  461ページ 695円(税別)
 親本 講談社刊 1982年

まだ70ページほどしか読んでいないが、冒頭、エトロフ島でのいわゆる「シャナ事件」(文化4年/1807年)の様子が描かれていて興味深い。
 ※シャナ(紗那)はエトロフ島北岸の地名
「クナシリ・メナシの叛乱」と呼ばれるアイヌ民族の蜂起(寛政元年/1789年)からそれほど年月を経ていない頃のことだ。

― Wikipedia 択捉島 より ―
<1807年4月、紗那と内保(留別村)の集落が、ロシア海軍大尉のフヴォストフ率いる武装集団らよって襲撃されるという「シャナ事件」が発生。/この時、日本側に動員されたアイヌもいる中で、日本側を攻撃してきたアイヌもいた(この時、間宮林蔵も同島にいて応戦行動に参加していた)。その後、南部藩など東北諸藩が警備にあたり、あるときはロシアと交戦し、あるときは友好的に交流した。>

ひさしぶりに、日本語で書かれた小説の醍醐味を感じながら読みすすめている。

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コメント

7月中旬、初めてサハリンを訪れ、今まで具体的なイメージを持てないでいた様々なことが、明確に迫ってきました。これを機会に、ロシア文学のこと、千島列島のこと、少数民族のことなどを勉強し直すつもりです。

今回は、サハリンの博物館で、ロシアが公式には認めていなかった間宮林蔵の先進的な探検をを大きく取り上げていること、日本が統治して時代に焦点を向けていること、少数民族への認識を明確にしている事が分かりました。

コルサコフ(旧-大泊)、ホルムスク(旧-真岡)、ユジノサハリンスク(旧-豊原)、トマリ(旧-泊居)のいずれの博物館、図書館でも我々を真摯な姿勢で迎えてくれました。

今回は、中心は詩人小熊秀雄の住んでいたトマリ(旧-泊居)の調査で訪れたのですが、彼の関係ではユジノサハリンスクでは、ロシア語版小熊秀雄詩集を朗読してくれるなど、驚くこともありました。

また、今回は同行者にロシア文学者の方がいましたので、ロシアの作家チェーホフの研究、調査も行いました。チェーホフは、1890年にサハリンを訪れ、「サハリン島」という作品を残したこともあり、サハリンでは英雄扱いで、何と現在は「チエーホフ像」が全島で6個ほど、彼を記念した文学館が2つもありました。

北緯50度を超えた地点にあり、チェーホフが2ヶ月間滞在したアレクサンドロフスクでは、冬には凍りついた海を犬橇で渡りシベリアへ買い物に行くという事実も知らされました。

距離は近くても心理的には遠いサハリン、日本人が強制連行した朝鮮系の人々がいまだに残ってますが、町並みも、一見すると住む人々もまさにヨーロッパという印象でした。まだまだ、今後の調査でいろいろな発見があると思います。

ロシア語という大きな壁はありましたが、朝鮮系3世、4世の方々と触れ合うことが出来たのも今回の旅の大きな成果でした。

今後も、やまおじさんの力を貸してください

投稿: 玄柊 | 2009年7月28日 (火) 23時34分

>玄柊さん
濃厚な旅をされましたね。
玄柊さんの小熊秀雄に向ける情熱には感嘆します。
その行動力にも。

私は、すっかり「書斎派」になりさがってしまって、悲しい限りですが、何かお役に立てることもあるかもしれませんね。
旅にでたいなあ、と心からおもいます。

投稿: やまおじさん | 2009年7月29日 (水) 21時21分

やまおじさん

すかさず、「間宮林蔵」をお読みになるあたり、さすがですね。
私も、玄柊さんのサハリンへの旅に刺激され、
若いころに読んだ、ドストエフスキーやトルストイ、
あまり読まなかったチエーホフにまで、手を伸ばしています。

本当に、旅に出たくなりますね。。

投稿: モネ | 2009年7月31日 (金) 20時04分

>モネさん
吉村昭の『間宮林蔵』は前から持っていて、いつか読もうと思っていました。
現在はロシア領ということになっていますが、間宮林蔵の時代にロシアの勢力は及んでいなくて、アイヌと和人が南側に、北にはギリヤーク、オロッコ、ケヤッカラ(朝鮮系種族)、キムンアイノといった少数種族が住んでいたそうです。
山丹(山靼)という大陸の種族が交易で訪れていました。
どこの国の領土でもなかった。
そんな200年も前の時代のことが、私には気になります。

クナシリ、エトロフもそうですが、樺太がロシアの固有の領土とは、私は思っていません。日本の領土だと主張する気もありませんが。

投稿: やまおじさん | 2009年7月31日 (金) 21時13分

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