【読】差別するココロ (2)
塩見鮮一郎さんと五木寛之さんの対談が収録されている次の本も、興味ぶかい。塩見鮮一郎 『差別語とはなにか』
河出書房(河出文庫) 2009/10/20発行
228ページ 740円(税別)
<マスメディアが用語規制をするのは、組織の意思なのではない。無数の市民がそれを望むからである。それを社会の「規範」という。表現の自由と居直って、被差別者の願いを踏みにじってはならない。表現者はマスコミという制度の中に生きていることを忘れてはいけない。差別語から差別の構造に迫る。> (カバー)
塩見鮮一郎・五木寛之の対談は、初出が 『海燕』 1994.5/『筒井康隆 「断筆」 めぐる大論争』 (創出版、1995.3)。
今から十五年も前の対談だが、その内容は新鮮である。
●対談 五木寛之
差別、その「歴史的」構造をめぐって (P.182~225)
ふたりの対談は、妙に噛み合っていないところもあるが、それぞれの考え方がくっきりとでている。
とくに、五木さんの 「差別」 に対する考え方は、自らの体験に裏打ちされているぶん、説得力がある。
<この問題を論ずる前提として、一つだけはっきりさせておきたいと思うのですが、差別の問題というのは非常に重層的な構造をもっています。しかも複雑で多様性に富んでいるので、これを絵にかいたように綺麗に解決できるような理論は、むしろ間違いだと思うんですよ。> (P.183)
■五木さんは、まず冒頭でこう発言し、どちらかというと学問的に理屈で論じていこうとする塩見さんを牽制しているような印象を受けた。
ここでは、あえて塩見さんの発言を無視して、五木さんの発言だけをいくつか拾ってみる。
<なるほど。そういうスタンスで今日は話をすすめていくわけですね。一般にこういう話をするときに、最近のぼくの持論なのですが、史料とか記録というものだけをとり出して論じていくのでは、やはり一面的にならざるをえないのだろうと。非常に曖昧な記憶、あるいは口承、身ぶり、習慣、風俗、あるいはジョーク、そういう形の、学問的な史料とならないような類いのものへ目をやらないと、なかなか実態はうかびあがってこないんじゃないかなという…(後略)…> (P.185-)
<なるほど。しかし、部落差別の問題を遡っていきますと、やっぱりどうしても天皇制の問題と大和朝廷の問題が絡んでこざるをえないと思うんです。ぼくは、こういう言葉はないのかもしれないけれども、被授蔑者というか、そういう表現を実は考えたことがある。…(中略)…だから被授蔑者というのは税金を払ったりコメを納めたりする代わりに、精神的苦痛を納めさせられる存在であると。> (P.187)
■すごいなあ、と思ったのは、次のような個所だ。
へんな言い方かもしれないが、五木さんの 「本気」 が伝わってきて、胸をうたれた。
<こういう席に出てきて、いわゆる解放運動に対して心情的にしゃべっているのは一体なにに発するのかと言いますと、私の場合、基本的に言うと感情なんですよね。つまり理性ではなくて感情。あるいはエモーショナルな情念、もっと言えばセンチメンタルな気持ちからです。さらに言うならば、義理人情というものしか自分にないと思うから。その上で自分のやっていることを正当化するための理屈をいろいろ探しているだけかもしれない。…(後略)…> (P.208)
この後、朝鮮半島からの引き揚げ体験に触れて、「引揚者というのは一時的な差別ですけれども、本当になんとも言えない情けない立場でした」 という。
<かつて話題になった話、「一杯のかけそば」の話を頭から馬鹿にする人がいるけれども、私はやっぱりああいう話を馬鹿にはできない心情がある。「一杯のかけそば」を馬鹿にすることは簡単にできるんですよ、でも、あの底には、あれを商業化してメディアが流通させるということとは別に、何かがあるんですね。それはやっぱり、貧乏は苦しい、つらい、貧乏している人は可哀相だという、そういう根源的なものだと思うんです。…(後略)…> (P.209)
■続いて、引き揚げてきてから入った中学校での体験が語られる。
持っていった弁当に高菜の漬物しか入っていないのを同級生にみつけらて取りあげられ、ひどい仕打ちをうけた。
<やあい、やあい、見ろ見ろ、こいつの弁当、一年中高菜の漬物だぞとか言って教室中その弁当を持って走り回ったんですよ。私はそれを追っかけて組み打ちして――もう弁当が下に散乱してね(笑)。その時から私は弁当を持っていかなくなったのですが、そういう日々の中で、ある部落の人と出会ったんですね。> (P.209-)
■五木少年は、「それまで差別の問題をぜんぜん知らなかった」、「外地で育ってますから」。
<そうしたら、あんたは持丸先生の息子か、と道できく。持丸というのは母の旧姓ですけれども、若い頃、小学校の教師をしていました。そうだって言ったら、うちへ来なさいと言って部落へ連れていかれて、いろんなご馳走をしてくれた。それから時どき飯食わしてくれたりするので不思議に思って、なんでそんなことをするのだと言ったら>
<いや、自分は小学校のとき持丸先生から教わったと。そして弁当のときに箸を忘れて、箸がなくて困っていたら、持丸先生が自分の箸を使いなさいと貸してくれた。>
<自分の箸を使いなさいと貸してくれたので、自分はもうびっくりして、普通の人の箸を使っていいものだろうかと思ったと。茶碗でも箸でも区別するという、差別という世界が戦後民主主義の社会に歴然とあることを私ははじめてその時に知ったわけです。>
<これはやっぱり、この人たちとはちょっと敵にはなれないという気になった。引揚者のときに飯食わせてくれた義理があると。> (P.210)
この話を読んで私が思ったのは、差別はココロの問題なのだな、歴史的な背景やら、さまざまなものが複雑に絡んでいるとは思うが、つきつめて言えば、「差別するココロ」が差別を生むのだなと、いうことだった。
(続く)
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