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2011年6月24日 (金)

【遊】両国界隈散歩(2)

都立横網町公園は、旧日本陸軍の被服廠があった場所。
当時の東京市が買収し、公園として整備中に関東大震災がおきた。

―Wikipedkia 「横網町公園」 より―

<横網町公園(よこあみちょうこうえん)は、東京都墨田区横網にある東京都立の公園である。東京都慰霊堂や復興記念館があるところとして知られている。
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものである。工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきた。>

<直後、周辺の下町一体から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まったが、午後4時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲った。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいった。結果、横網町公園に避難した人だけで3万8千人が犠牲になったという。>

<震災後、その3万8千人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容された。やがて東京の復興が進む中、建築家・伊東忠太の設計の元、当公園に関東大震災による遭難死者約58000人の遺骨を納める納骨堂(三重塔)や慰霊堂が建てられ、1930年に完成。数十個の大瓶に移された遺骨は堂内に安置された。また横網町公園自体も1930年の9月1日に開園した。>

<翌1931年には当公園内に関東大震災の惨劇とそこからの復興を後世に伝えるため、復興記念館が完成した。しかし、1945年東京は第二次世界大戦により再び焦土と化し、多くの犠牲者が出た。特に1945年3月10日の東京大空襲では多くの犠牲者が出た。当横網町公園をはじめ、多くの公園に犠牲者が仮埋葬されていた。>

<その後、第二次世界大戦における1944年・1945年(昭和19年・20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡した。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称した。>

横網町公園|公園へ行こう!
 http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index087.html

公園の中や周辺には、当時をしのばせる建造物がたくさんあった。

震災記念 慈光院 (公園外南側)
 築地本願寺別院
 関東大震災で犠牲になった人たちを追悼するために建立された

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震災遭難児弔魂像 (公園内)

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三重塔 (慰霊堂裏)

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関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊碑

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東京空襲犠牲者追悼碑

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復興記念館 (内部公開)
 墨田区横網2-3-25 東京都横網町公園内
 起工 昭和5年9月26日
 竣工 昭和6年4月17日

内部の展示物は、あまり整理されていない印象を受けた。
震災を描いた絵画が、あんがい多い。
1階 震災被害資料
2階 絵画室(中央)、被害地域等の復興大模型、東京大空襲戦災資料、など

開園時間 公園は常時開園。復興記念館は月曜と年末年始が休みで、9時から16時30分まで。慰霊堂は早朝・夜間は閉鎖されている。

201106230017Hukkou_kinenkan_pamph1
Hukkou_kinenkan_pamph2 

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