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2013年11月11日 (月)

【読】世界教養全集

市役所の近くに用があってでかけたので、中央図書館に寄ってみた。
館内の検索端末で、著者名「モース」をキーワードに検索。
こんな本があったので借りてきた。

エドワード・シルヴェスタ・モースの『日本その日その日』を読んでみたかったのだ。
「世界教養全集」、懐かしい。
「日本教養全集」というのもあった。
古書店でもあまり見かけなくなったが、さすがに図書館、全巻揃っていた。
もっとも、開架に置ききれず、閉架書庫にはいっていたが。

平凡社 『世界教養全集 7』 1961年(昭和36)11月発行
 「秋の日本」 P.ロディ/村上菊一郎・吉氷清 訳
 「東の国から」 L.ハーン/上田保 訳
 「日本その日その日」 E.S.モース/石川欣一 訳
 「ニッポン」 B.タウト/篠田英雄 訳
 「菊と刀」 R.ベンネディクト/長谷川松治 訳

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522ページのコンパクトな本一冊に、これだけ詰まっているのだから、すごい。
もっとも活字はちいさいが。

ところで、「教養」といわれると、なにやら身構えてしまうのだが、阿部謹也さんによれば、ほんらい人間にとってもっと基本的な「知」を指すらしい。
私には「知恵」という言葉のほうが、しっくりくる。
明治期、外国の概念を無理やり漢語に翻訳した日本の知識人の感心できない遺産なのかも。

<教養という言葉はある種の威圧的な響きをもっている。「あの人は教養がある人だ」というような言葉を聞くと、そばにいる人は自分には教養がないことがあげつらわれているように思ってしまう。しかしそれでは教養を身につけるにはどうしたらよいのかと考えるとそれは実に曖昧なのである。……>

<たとえば農業に従事している人を考えてみよう。彼らは自分たちの仕事が人々の生活を支えていることを知っていたであろう。自分たちの仕事が社会の中でどのような位置を占めているかについては自ら考えをめぐらすことはなくても、知っていたであろう。ただし彼らがそのことを言葉に出して語るためにはもう一つの「教養」つまり文字が必要であったから、それが言葉になるためには長い年月が必要であった。しかし彼らはこうしたことを身体で知っていたから、「いかに生きるか」という問いを立てる必要もなかったのである。こうした人々の人生に向かう姿勢をあえて教養というとすれば、それは集団の教養というべきものであろう。>

(阿部謹也 『「教養」とは何か』 講談社現代新書 1997年)

阿部謹也さんの著作を読んだとき、まさに目から鱗が落ちる思いを何度も経験したものだが、いかんせん、もう忘れてしまっているんだなあ。

 

講談社現代新書は、カバーが新装になって味気なくなった。
あの、黄色い杉浦康平デザインがよかったな。
私が持っているのは、下のカバーの古い版。

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