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2014年9月17日 (水)

【読】勢古浩爾 「大和よ武蔵よ」

終日、曇天。
午前中、仕事場で見学。
午後、家で本を読む。

図書館から借りて読んでいる本。
終章の十数ページを残して、もうすぐ読み終える。

勢古浩爾 『大和よ武蔵よ――吉田満と渡辺清』
 洋泉社 2009/7/17発行 283ページ 2,400円(税別)

残念なことに、現在入手不可能。
Amazonでも高値がついている。

勢古浩爾さんの書いたものが好きで、これまでたくさん読んできたのだが、この本だけはなぜか敬遠していた。
買っておけばよかったと、今、少し後悔している。

戦艦大和の学士士官だった吉田満と、戦艦武蔵の志願少年兵だった渡辺清。
ふたりとも、「あの戦争」の末期に撃沈された戦艦から、奇跡的な生還を遂げ、戦後を生きた。
「あの戦争」の意味を問い続けながら、吉田満は昭和54年(1979年)に、渡辺清は昭和56年(1981年)に亡くなっている。
奇しくも、共に享年五十六。

吉田満は『戦艦大和ノ最期』『』他を、渡辺清は『海の城』『戦艦武蔵の最期』『砕かれた神』といった著作を遺した。

勢古さんが、このふたりの戦中、戦後の生き方に真摯に向き合った力作。
胸に迫るものがある。

― まえがき より ―
 <本書は、戦艦大和の副電測士官だった吉田満と、戦艦武蔵の二等兵曹だった渡辺清の人物と生き方を描こうとするものである。したがって、いわゆる感動の、もしくは悲劇の戦記物ではない。その生涯を追いはするが、克明を極めようとする人物評伝でもない。いわば、魂の物語である。>

― 第十二章 背負いつづける者の魂 (P.235-236) より ―
 <戦死者の死は「無意味」であった。だが、人間はそういいながら、〝意味〟から逃れることができない。死にゆく者も、残された者も、それぞれに死の意味付けから逃れられない。あるものは犬死、無駄な死、無意味な死という。あるものは犠牲死、殉死、名誉の死という。あるものは憤死、難死という。古山高麗雄はこういっている。「大東亜戦争がどのようなものであれ、当時の国民は、国を護るべく命を捨てた。私は、それを犬死だなどとは思わない。それは、死である。それに、犬だの猫だのを付ける思考は私にはない」(「子守り」『日本好戦詩集』)>

― 第十二章 (P.238) より ―
 <吉田満は過去にこだわりながら前を向いた。渡辺清は後ろを向いたまま、前に進んだ。吉田満は戦中派であることに誇りを持とうとした。日本の進むべき道を心配した。渡辺清は戦中派であることを恥じた。天皇を恨み、死んだ一人ひとりの仲間の「無念」にこだわった。二人は最後まで対照的だった。にもかかわらず、二人とも〝自分のためではない人生〟を自分の人生とした。二人ともそれぞれの姿勢で〝意味〟を問いつづけた。

― 終章 だれのためでもない死 (P.254) より ―
 <過ぎ去ったことにいつまでも拘泥していてもなにも始まらない。たしかにそうである。ある場合には正しくもある。しかし、生きるということはそれだけのことだろうか。この自分はあの〝過去〟によってできているのではないか。いまだに取り残されているのは〝あの戦争〟の意味であり、死者たちの〝死〟の意味であり、そしてかれらの死を忘却したのちにできた戦後日本の〝意味〟である。しかもその戦友たちは、現在生きている人間たちとおなじように、いまだに「生き生き」としているのだ。かれらを忘れることは、死者をもう一度殺すことではないか。

古山高麗雄の書いたものを読んだことがないが、読んでみたい気がする。
吉田満の『戦艦大和ノ最期』も。

     

【参考サイト】
松岡正剛の千夜千冊
 961夜『戦艦大和ノ最期』吉田満|松岡正剛の千夜千冊
 http://1000ya.isis.ne.jp/0961.html

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