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2016年3月28日 (月)

【読】読書再開

先週水曜日から五日間続いた古本市が終わり、ようやく本を読む時間ができた。

図書館から借りている古山高麗雄の『龍陵会戦』(1985年・文藝春秋)の続きを読む。

 

単行本も文庫版も、すでに絶版。
図書館にあったのは、多くの人に読まれた痕跡のある単行本。
シミや書き込みもあるが、貴重な本だ。

この小説の戦闘描写は、やたらと現地の地名・陣地名、それに人名(ほとんどが無名戦士)が出てきて、読むのに苦労している。
が、ところどころ、作者の戦争観が述べられているのが興味ぶかい。
この作家の作風なのだろう。

例によって、覚え書きとして転載しておきたい箇所がある。

<日本男子の面目、だの、大和魂、だの。人は振り返って、その言葉の使われ方を批判するが、その思い自体は、今もなお、多くの日本人に好かれているし、往時が語られる場合、とかくその思いに包装されて紋切型になりがちである。紋切型の美化は、紋切型の反戦と同じように、欺瞞ではなく、好悪であろう。そして、紋切型の美化を欺瞞と感じ憎むのも、やはりその人の好悪であろう。>

<美化だの欺瞞だのということいついて考え始めると、私は、底なし沼にはまり込んだような気持になる。結局、わからなくなってしまうのである。日本男子の面目や大和魂を大事にしている人がいた。今もいる。そういう人たちの美化や欺瞞とはどういうことなのか。日本人のそのころの傾向や趨勢を語ることも無意味ではないだろうが、それはそれだけのことである。>

<戦争指導者と呼ばれる人々、トップを目ざしていたエリート軍人たちに限らず、多くの人々が、考えとしては、大君のへにこそ死なめ、と思っていたのではないか。国民がそのように導かれたことは確かだろう。しかし、鰯の頭を信心する者には、鰯の頭は尊い。美化でも欺瞞でもない。信心していない者には、信心を強制されるのはたまったものではないが、彼我の是非などを論じる気持は、私にはない。>

(以上、P.235-236)

この後、著者が“敬愛して付き合っていた”吉田満の書いたものに触れているが、省略。

古山高麗雄が、その著作群のなかで、繰り返し語っている戦争感に、私は同意できるようになった。

<紋切型の美化は、紋切型の反戦と同じように、欺瞞ではなく、好悪であろう。そして、紋切型の美化を欺瞞と感じ憎むのも、やはりその人の好悪であろう。>

古山高麗雄は、この「紋切型」とは対極の考え方をする人だった。
一等兵として戦地を経験した彼は、いつも醒めた目で戦争を見ていたが、戦地で命を落とした人たちへの思いを引きずり、奇跡的に復員した、かつての戦友たちとの交流を死ぬまで続けた。

信頼できる人だと思う。

まだ、100ページ以上残っているが、頑張って読み通したい。

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