カテゴリー「松浦武四郎」の16件の記事

2008年3月18日 (火)

【読】【楽】トンコリ

Shizukana_daichi_bunko_2まだ読んでいる。
花崎皋平 『静かな大地』 (岩波現代文庫)

トンコリがでてきた。
松浦武四郎 、四十一歳のとき、最後の蝦夷地の旅(安政五年)。
箱館から日本海まわりで銭函までの海岸を除き、蝦夷地の全海岸と、十勝、阿寒など道北、道東の内陸部を縦横に踏みわたり、さらに、日高沿岸の川筋をひとつひとつ遡行する、という徹底した探索行である。
1月2日(陽暦3月7日)から、8月21日(陽暦9月27日)まで、203日間の旅。

彼は、旧暦五月の中頃、トコロ(常呂)川上流のプトイチャンナイという土地で、宿泊先でトンコリの演奏を聴く。

Tonkori<その夜、老人は五弦琴(トンコリまたはトンクル)でチカフノホウエ(鳥の鳴声の曲)を弾いてくれる。 これは、春の日に沢山の鳥がさえずるさまをうつしたものでいかにもおもしろく、五弦でよくさまざまな鳥の鳴声を弾きわけられるものだとふしぎな気がした。>
 ― 『静かな大地』 第7章 シャリ・アバシリの惨状 ―

このエカシ(老爺)は、武四郎一行が帰路に立ち寄って、残った米やタバコを贈ると、そのお礼にトンコリをくれると言いだした。
武四郎は、一度は断ったものの、あまりに強く言われたため受け取っている。

この他、『近世蝦夷人物誌』(アイヌ人物誌)にも、樺太東海岸でトンコリを演奏する八十余歳の翁に出会ったことが書かれている。

江戸末期、松前と江戸幕府の支配下で、悪徳商人らの非道な扱いに苦しんでいたアイヌの人々は、トンコリのような伝統楽器を楽しむ余裕も奪われていたのだ。

滅びかけていたこの楽器を、OKI が現代に甦らせたことの意義は、とても大きい。

(トンコリの写真画像はWikipediaのサイトから拝借した)


【参考】 トンコリ奏者 OKI のサイト
CHIKAR STUDIO
http://www.tonkori.com/

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2008年3月17日 (月)

【読】北海道文献年表から(松浦武四郎)

Shomin_shiryou_shusei三一書房 『日本庶民生活史料集成 第四巻』 (探検・紀行・地誌 北辺編) の巻末にあった長大な年表を、EXCELの表にしてみた。
けっこう時間がかかった。

せっかくだから、その中から、松浦武四郎に関するものをピックアップしてみよう。

1845 弘化 2 松浦武四郎松前に来る(「蝦夷日誌」)
1846 弘化 3 松浦武四郎西蝦夷地樺太を旅行す(「再航蝦夷日誌」)
1849 嘉永 2 松浦武四郎千島に渡り「三航蝦夷日誌」を著す
1855 安政 2 松浦武四郎「於幾能以志」「後方羊蹄おろし」刊行
1856 安政 3 松浦武四郎「東西蝦夷場所境目取調書」
1856 安政 3 阿部喜任著・松浦武四郎校「蝦夷行程記」刊行
1856 安政 3 松浦武四郎「箱館往来」「蝦夷葉那誌」刊行
1857 安政 4 松浦武四郎「武四郎回浦日記」「丁巳東西蝦夷山川地理取調日記」
1857 安政 4 松浦武四郎「まわるべし」刊行
1858 安政 5 松浦武四郎「壺の石」
1859 安政 6 松浦武四郎「燼心余赤」「蝦夷訓蒙図会」「蝦夷名産図会」
1860 万延 1 松浦武四郎『近世蝦夷人物誌』
1860 万延 1 松浦武四郎「石狩日誌」「夕張日誌」「北蝦夷余志」刊行
1861 文久 1 松浦武四郎「十勝日誌」刊行
1862 文久 2 松浦武四郎「天塩日記」「夕張日誌」「納紗布日誌」「知床日誌」刊行
1864 元治 1 松浦武四郎「箱館往来」「蝦夷土産双六」「箱館道中双六」「西蝦夷日誌」刊行
1865 慶応 1 松浦武四郎「東蝦夷日記」刊行
1869 明治 2 新井白石著・松浦武四郎校「蝦夷志」刊行
1870 明治 3 松浦武四郎「蝦夷年代記」刊行

 三一書房 『日本庶民生活史料集成 第四巻』 (探検・紀行・地誌 北辺編)
   1973/4/1 第一版第四刷  巻末 「北海道文献年表」 (高倉新一郎) から抜粋

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【読】松浦武四郎をめぐって

ネット販売で、こんな本を手に入れた。
このブログにコメントを寄せてくださった、北海道の方に教わって知った本だ。

古本ではあるが、読まれた形跡がなく、新品同様だった。
おまけに、セロハン紙をかけてある。
セロハン紙をはずすのも手間なので、そのままスキャナーで読み取ったら、霞んだ画像になった。

Yokoyama_takeshiro_2横山孝雄 著
 『北の国の誇り高き人びと』
  ― 松浦武四郎とアイヌを読む ―
 かのう書房 1992.5.25
 (人の世界シリーズ 11)

横山孝雄
1937年、中国北京で生まれる。 敗戦後帰国、福島県相馬高校卒。
赤塚不二夫のブレーンとして約25年行動を共にした後フリー。
著書に 『少数民族の旅へ』(新潮社) 『アイヌって知ってる』(汐文社) 『アイヌ語イラスト辞典』(蝸牛社) 『ボクは戦争をみた』(ポプラ社) 漫画「諸葛孔明グラフィティー」(新人物往来社) 『地球汚染・公害読本』 『怖い食品動物工場』(ナショナル出版) 『中国知識百科』(主婦と生活社・共著) 等がある。 ― 本書 著者略歴 ―

『少数民族の旅へ』 は、図書館から借りてきた。

Yokoyama_takao_shosuminzoku横山孝雄 著 『少数民族の旅へ』
 新潮社 1984.8.25

この本の49ページに 「アイヌ・コタン シャモといわれて赤塚不二夫は」 という一文があり、面白そうなエピソードと、若い頃の赤塚不二夫の写真が載っている。
まだ読んでいない。

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2008年3月12日 (水)

【読】読中感想 静かな大地

「読中」なんてことばはないのかな。

Shizukana_daichi_bunko『静かな大地』 花崎皋平 (岩波現代文庫)

この本は、とてもいい。
松浦武四郎という、江戸末期から明治にかけて生きた人物は、なんと魅力的な人だろう。
こいう行動的な人を 「探検家」 というのだろう、と思う。
彼は、樺太へ二度足を運んでいる。
宗谷(現在の稚内)までは、むろん徒歩だ。
(一部、川を舟で遡ったりもしているようだが)

樺太の、当時の地図が載っている。
地名は、どれもアイヌ語地名である。
樺太アイヌは、蝦夷地(北海道)に住んでいたアイヌの人たちとは、微妙に生活ぶりがちがっていたようだ。
オロッコや、タライカ(これは初めて聞いた)といった北方民族、山丹と呼ばれたニブヒ、オロチ族とも交易が盛んだった。
(このあたりの民族名称をよく理解していないので、違っているかもしれない)

とにかく、当時の樺太やエトロフ、クナシリといったあたり、国境なんてものはなく、自由に動きまわっていたのだ。

【参考】
市立函館博物館のサイト内
 トップ > 収蔵情報 > 民族の窓
山丹服
http://www.museum.hakodate.hokkaido.jp/collection/minzoku/14.html

そういえば、トンコリという伝統楽器も樺太アイヌの楽器だったはずだ。
樺太・・・いちど訪ねてみたい島だ。

TonkoriOKI 「TONKORI」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0009OAW2I/

アイヌ音楽とレゲエ~ダブ、エレクトロニカを融合させたミクスチャー・スタイルでおなじみのOKIが原点とも言えるトンコリ(カラフト・アイヌに伝わるアイヌ民族の弦楽器)のみで作ったアルバム。


【2008/3/13追記】
ちょっとした間違いに気づいたので、訂正しておきたい。
1. 宗谷と稚内は、厳密にいえばちがう場所だ。
 樺太に渡るには、当時は宗谷岬から舟を出した。
2. 松浦武四郎が樺太へ行ったときは、陸路を宗谷までたどったようだ。
 その後、別の機会に石狩川を舟で遡行する探索をしている。
 歩いていくにしろ、舟を使うにしろ、今とはちがってたいへんな探検だった。
 その陰には、いつもアイヌの人たちの援助があったのはいうまでもない。

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2008年3月11日 (火)

【読】日本の探検家たち

前に書いたかもしれないが、別冊太陽(平凡社)に面白いものがでている。

Taiyo_nihon_tamkenka別冊太陽 『日本の探検家たち』
  ― 未知を目指した人々の探検史 ―
 2003.10.19 2600円(税別)

カラー図版が豊富で、なかなかいい。

<とりあげられている人々>
間宮林蔵/松田伝十郎/近藤重蔵/松浦武四郎/最上徳内/高田屋嘉兵衛/郡司成忠/伊能忠敬/土方久功/早田文蔵/笹森儀助/鳥居龍蔵/大黒屋光太夫/福島安正/榎本武揚/河口慧海/能海寛/大谷探検隊/青木文敦/西川一三/木村肥佐生/日野強/今西錦司/槙有恒/今西寿雄/堀田弥一/梅沢忠夫/中尾佐助/川喜多二郎/白瀬矗/西堀栄三郎/植村直巳/ジョン万次郎/嶋谷市左衛門/岩本千綱/天野芳太郎

知らない名前も多いが、興味ぶかい顔ぶれだ。

もう一冊、これは以前このブログで紹介したことがある。
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/4_e7ba.html

Edo_no_tabinikki_2ヘルベルト・プルチョワ 『江戸の旅日記』
  ― 「徳川啓蒙期」の博物学者たち ―
 集英社新書 2005.8.22 700円(税別)

<とりあげられている人々>
貝原益軒/本居宣長/高山彦九郎/菅江真澄/古川古松軒/橘南谿/司馬江漢/松浦静山/富本繁太夫/渡辺崋山/松浦武四郎

今読んでいる、『静かな大地』 (花崎皋平) の中に、古川古松軒の名前がでてきた。
松浦武四郎が、この古松軒をそうとう手厳しく批判(非難といった方がいい)している、というくだりを読み、そんなにひどい人物だったのか、と、あらてめて引っぱりだしてみたのがこの本。

ヘルベルト・プルチョワ(スイス生まれ、この本は日本語で書かれている!)は、古松軒をあんがい高く評価している。
こういうところが面白い。
花崎さんは、松浦武四郎サイドに立って書いているので、古川古松軒という、江戸幕府が奥羽と蝦夷に派遣した「巡見使」(いってみれば、役人の視察団)に随行した人物を、評価していない。

ものの見方には、いろいろあるものだ。
(と、今は控えめに書いておこう)

ともあれ、『静かな大地』 は読み応えのある本だ。

Shizukana_daichi_bunko

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2008年3月 9日 (日)

【読】静かな大地(花崎皋平)

ようやく読みはじめることができる。

Shizukana_daichi_bunko_2『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』
 花崎皋平 岩波書店(岩波現代文庫 2008.2.15)

花崎皋平 (はなざき・こうへい)
1931年東京生まれ。 東京大学文学部哲学科卒業。
哲学者。
64-71年、北海道大学文学部助教授。
北海道で市民運動にとりくみ、アイヌの人々との接触をとおして先住少数民族問題への思索を深める。
著書 『<共生>への接触』 『ピープルの思想を紡ぐ』 『マルクスにおける科学と哲学』 『生きる場の哲学』 『地域をひらく』 『解放の哲学をめざして』 『アイデンティティと共生の哲学』

どういう人なのか、よく知らないが、名前だけは知っていた。
友人が、この 『静かな大地』 (単行本1988年、その後、岩波同時代ライブラリー1993年) を教えてくれたことがあった。。
また、その後、別の友人が 『晴読雨読日記』 (岸本完司) という本の折り込み冊子として書いた 「素描――思い出となってしまった岸本完司のこと」 という追悼文の中で、花崎皋平に触れている。

Seidoku_udoku_nikki『書評エッセイ集 晴読雨読日記』 岸本完司
 2006.8.6 発行人 岸本暾
 発行所 (株)北のまち新聞社 「あさひかわ新聞」

  1996.3.12~2004.11.30 「あさひかわ新聞」に連載された
  書評エッセイを集成したもの

あさひかわ新聞ONLINE
 http://www.asahikawa-np.com/

1968年か69年、私たちが高校2年生のとき、「北大でマルクス主義哲学を研究する花崎皋平の旭川での講演」 というのがあり、岸本らはこれに参加したという。
私は当時、高校の 「社研」 (社会科学研究会) にも参加していなかったし、このあたりの事情をまったく知らなかった。

それにしても、何か不思議な縁を感じる。
この、岸本完司の本については、ブログで何度もふれ、カテゴリー 「岸本完司」 としてまとめているので、興味をもたれた方はご覧いただけると、うれしい。


花崎皋平氏が松浦武四郎の名前を知ったのは、三一書房の 『日本庶民生活資料集成 第四巻』 だったという。
(『静かな大地』 序章 静かなくに)
以下、花崎氏の記述を引用する。

<(前略) 1969年に出た同書に、松浦武四郎の代表作 『近世蝦夷人物誌』 が収録されていて、内容の一部紹介があったのである。 いまでもはっきりおぼえているが、天塩川の上流に住むエカシテカニという老人と松浦武四郎との交流の話であった(本書169ページ以下)。 私は、なぜかその話につよくひきつけられた。>

<しかし、私が実際にその 『近世蝦夷人物誌』 を手にして読んだのは、1973年7月初めのことである。 そのあいだの三、四年というものは、私の生活に百八十度に近い転換が生じた時期であった。>

<1971年に、私は七年間つとめた北海道大学をやめた。 ちょうど四十歳だった。 やめるきっかけは、当時、全国各地で、学問と政治のあり方について大学側に問題を投げかけ、大学をバリケード封鎖して回答をせまった学生運動への共感から、封鎖解除に導入された機動隊に抵抗して逮捕・起訴された北大学生の裁判の特別弁護人をつとめたことだった。 (後略)>

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【読】日本庶民生活史料集成

図書館から、二冊借りてみた。
さすがに分厚い。
とても読めないが、興味のある内容なので、パラパラ見てみようと思う。

Shomin_shiryou_shusei三一書房
『日本庶民生活史料集成 第二巻』
 探検・紀行・地誌 西国編
 編集委員 宮本常一、原口虎雄、谷川健一
 序文 宮本常一
「日本九峰修行日記」 野田成亮/「江漢西遊日記」 司馬江漢/「西遊雜記」 古川古松軒/他

『日本庶民生活史料集成 第四巻』
 探検・紀行・地誌 北辺編
 編集・序文 高倉新一郎
「エトロフ島漂着記」/「蝦夷日記」 武藤勘蔵/「東韃地方紀行」 間宮林蔵/「蝦夷国風俗人情之沙汰」 最上徳内/「北海随筆」 坂倉源次郎/「寛政蝦夷乱取調日記」 新井田孫三郎/「近世蝦夷人物誌」 松浦武四郎/他


Funado_ezochi_bekken1_3Funado_ezochi_bekken2_2新井田孫三郎の取調日記は、いわゆる 「クナシリ・メナシの反乱」 を鎮圧した松前藩側の記録。
船戸与一 『蝦夷地別件』 に描かれた事件である。
ちなみに、船戸与一のこの小説の巻末にも、花崎皋平 『静かな大地』 が参考資料としてあげられている。


図書館の書棚にずらりと並んでいたこの史料集成 全20巻は圧巻だった。
私の関心分野のオリジナル・テキストがたくさん収録されている資料集だ。
こういう本を、時間を気にせずゆっくり読めるようになるといいな。


【参考】
三一書房

http://www.san-ichi.co.jp/index.shtml


『アイヌ人物誌』 松浦武四郎 (更科源蔵・吉田豊 訳) 平凡社
『静かな大地』 花崎皋平 岩波書店
『菅江真澄遊覧記』 菅江真澄 (内田武志・宮本常一 編訳) 平凡社
『大江戸 泉光院旅日記』 石川英輔 講談社

Matsuura_aynuShizukana_daichi_bunkoSugae_masumi_yuuran1_2Ishikawa_senkouin_2











『日本庶民生活史料集成 第二巻』 の宮本常一の序文で、泉光院野田成亮の旅の記録 『日本九峰修行日記』 が、次のように紹介されている。
少し長いが、引用しておこう。

<(前略) この書によってわれわれは幕末期の修験道の実情を知ることができるばかりでなく、泉光院のあるいた道をたどって、ある異様の感にうたれる。 泉光院はほとんど街道筋をあるいていない。 いまは草に埋もれて失われてしまったようなところをさえあるいている。 街道筋以外の風物を数多く伝えようとしているものとして東北をあるいた菅江真澄に匹敵するものであろう。>

<中国筋では紀行文のあまりのこっていない山陰の村々をあるき、飛騨から信濃へは野麦峠をこえている。 この人には山野をあるくことは少しも苦ではなかったようであり、人煙まれな山野をあるいても道にまよったらしい記事すらほとんどないのはどうしたことであろうか。 細道ばかりをあるきつづけて簡潔な文章の中に地方風土のさまをよく伝えている。 その中で私をおどろかせたのは美作山中の百姓たちが、しきりに孝経・大学・孟子などの講釈をもとめていることである。 足を出したりタバコをすったり、浄瑠璃聞きの如くであったという。 そしてそれは前後もわかたぬ野人なのである。 この一事からも察せられるように問題意識をもって読めば実に興味ふかいものがあり、同一時代の僻地と都会地の生活文化対比すら可能になって来る。>

  ― 『日本庶民生活史料集成 第二巻』 序 (宮本常一) ―

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2008年3月 1日 (土)

【読】うれしい復刊 『静かな大地』

数日前、書店でこんな本をみつけた。
長いこと、文庫サイズでは入手がむずかしかった本の復刊である。

Shizukana_daichi_bunko_2花崎皋平 (はなざき・こうへい)
 『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』
 岩波現代文庫 (社会163) 2008/2/15
 1200円(税別)

岩波同時代ライブラリーという文庫サイズのシリーズで出ていたものだが、品切れとなっていて、私も図書館から借りて、すこしだけ読んだことがある。
その後、単行本で手に入れたものの、手許にあるといつでも読めると思ってしまい、そのままになっていた。

今回の文庫化で、池澤夏樹さんの解説がついた。
池澤夏樹さんの小説 『静かな大地』 の題名は、この花崎さんの本から借用したものである。
その事情も、池澤さんの解説に書いてある。

松浦武四郎には、ずっと関心があった。
北海道の中央山地、大雪山系に、松浦岳という山がある(緑岳の別名)。
松浦武四郎は、北海道が蝦夷地と呼ばれていた江戸時代に、蝦夷地をくまなく歩いた探険家で、アイヌ民族に深い理解を示した人物だ。

今読んでいる、泉光院(この人も江戸時代の修験道者だ)の日記を扱った本を読み終えたら、花崎さんのこの本を読んでみたいと思う。

(左) 花崎皋平 著 『静かな大地』 岩波書店 1988年
(右) 池澤夏樹 著 『静かな大地』 朝日文庫 2007年
  この小説は、とてもいい。 私は何度かくりかえし読んで、このブログにも書いた。

Shizukana_daichi_2Ikezawa_shizukana_daichi_bunko_2

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2007年8月25日 (土)

【読】笹森儀助と石光真清

Miyamoto_tsuneichi_henkyou宮本常一 『辺境を歩いた人々』 (河出書房新社) のおしまいのほうを読んでいたら、笹森儀助と石光真清が、満州で出会っていたことが書かれていた。
石光真清の手記 『曠野の花』 に、このときのことが書かれているという。
『曠野の花』 は、すこし前に読んでいた。
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_bd47.html
どうりで、笹森儀助という名前になんとなくおぼえがあるような気がして、ひっかかっていたのだ。 なるほど、合点。

『辺境を歩いた人々』 の目次には、四人の名前しか出ていない。
近藤富蔵、松浦武四郎、菅江真澄、笹森儀助。
しかし、宮本さんの文章には、その時代に彼らをとりまいていた魅力あふれる人々がたくさん紹介されている。
笹森儀助の章では、田代安定(あんてい)と伊能嘉矩(よしのり)の二人にかなりのページが割かれていて興味ぶかかった。
彼らは、明治18年頃(日清戦争の年)から、沖縄や台湾を歩いて調査した人たちだ。
笹森儀助にとって、沖縄探検の先輩にあたる。
笹森儀助の琉球列島探検は徹底していて、明治26年、沖縄本島の那覇に着いたあと、宮古、石垣、西表、鳩間、さらには与那国島まで足をのばし、沖縄本島に戻り、奄美大島をみて鹿児島に戻る、四か月以上の旅をしている。
現在のように、交通が発達していない時代のこと、船とじぶんの足だけが頼りの旅。
マラリアにも苦しめられ、野宿もいとわない旅だったらしい。
すごいな。

ところで、この本の巻末年表も興味ぶかい。
その一部を抜粋してみよう。

1754(宝暦四) 菅江真澄、三河国に生まれる
  最上徳内、羽前に生まれる
1771(明和八) 近藤重蔵、江戸に生まれる
1778(安永七) ロシア人、クナシリ島に来る
1780(安永七) 間宮林蔵、生まれる
1782(天明二) 伊勢国の光太夫ら、ロシアに漂着
1783(天明三) 東北地方大飢饉(翌天明四年まで、天明の大飢饉)
1784(天明四) 菅江真澄、信濃から越後、奥羽、津軽、南部への旅
1785(天明五) 徳内、幕府の調査隊に加わり、千島列島の旅へ
1788(天明八) 真澄、津軽から松前へ、寛政四年(1792)まで松前地方の旅
  古川古松軒、幕府の巡見使に加わり東北地方へ
1792(寛政四) ロシア使節ラクスマン、伊勢の光太夫らを送って松前に来る
1798(寛政十) 徳内、第六次蝦夷探検でエトロフへ
  重蔵も同行、モヨロ湾に「大日本恵土呂府」の標柱を立てる
1799(寛政十一) 重蔵、第二回の蝦夷地探検
  間宮林蔵と松田伝十郎、蝦夷地探検、冬をすごす
  東蝦夷地が幕府の直轄支配地になる
1800(寛政十二) 重蔵、高田屋嘉平とともにエトロフへ
  伊能忠敬、初めて北陸と蝦夷地の測量
1805(文化二) 近藤富蔵、生まれる
1807(文化四) 近藤重蔵、利尻島を探検
  西蝦夷地が幕府の直轄支配地となる
1808(文化五) 間宮林蔵、カラフトから黒竜江方面の探検
  間宮海峡を発見
1811(文化八) ロシア艦長ゴロウニン、捕われる
  外国船打ち払い令
1814(文化十一) 伊能忠敬、『沿海実測全図』完成、ロシアとの国境を決める
1818(文政元) 松浦武四郎、伊勢国に生まれる
1821(文政四) 幕府、蝦夷地を松前氏に返す
1823(文政六) シーボルト、長崎に来る
1826(文政九) 近藤富蔵、人を殺める(翌年、八丈島へ流刑)
1829(文政十二) 真澄、秋田の角舘で死去 重蔵、江州で死去
1836(天保七) 最上徳内、死去
1840(天保十一) 清国でアヘン戦争
1841(天保十二) 天保の改革始まる
1844(弘化元) 松浦武四郎、蝦夷、カラフトの探検を志して旅に出る
1845(弘化二) 武四郎、蝦夷地探検
  笹森儀助、陸奥国弘前に生まれる
1846(弘化三) 武四郎、第二回の蝦夷地探検
1847(弘化四) 近藤富蔵、流刑先の八丈島で『八丈実記』を書き始める
1849(嘉永二) 武四郎、第三回の蝦夷地探検(おもに千島列島)
  最初の北海道地図『蝦夷大概図』を描く
1851(嘉永四) 武四郎、『三航蝦夷日誌』35冊を書き上げる
1853(嘉永六) ペリーが浦賀に、ロシアのプチャーチンが長崎に来る
1856(安政三) 田代安定、鹿児島に生まれる
1860(万延元) 井伊大老、桜田門外で暗殺
1867(慶応三) 明治天皇、皇位につく
1868(明治元) 伊能嘉矩、岩手県遠野に生まれる
1869(明治二) 松浦武四郎、北海道の道名、国名、郡名を選定
1880(明治十三) 近藤富蔵、罪を許される
1887(明治二十) 富蔵、八丈島で死去
1888(明治二十一) 松浦武四郎、死去
1889(明治二十二) 帝国憲法発布
1890(明治二十三) 教育勅語発布、帝国議会召集
1893(明治二十六) 笹森儀助、南島探検をし、『南島探検』をあらわす
1894(明治二十七) 日清戦争勃発
1895(明治二十八) 日清戦争勝利、台湾を譲り受け、台湾征伐を行なう
1902(明治三十五) 笹森儀助、第二代青森市長に 日英同盟
1904(明治三十六) 日露戦争勃発
1905(明治三十七) 日露戦争勝利、カラフトの北緯50度より南側が日本領土に
1914(大正三) 第一次世界大戦に参戦
1915(大正四) 笹森儀助、死去
1925(大正十四) 伊能嘉矩、死去
1928(昭和三) 田代安定、死去

もう一冊、宮本常一さんの同じシリーズで、こんな本も出ていたので入手。
Miyamoto_tsuneichi_minaminoshima宮本常一 『南の島を開拓した人々』
  河出書房新社 2006.1.20発行
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309224458
この本の目次に登場するのは、次の七人。
中川虎之助を除いて、私の知らない人ばかりだが。
藤井富伝(諏訪之瀬島を開拓)
中川虎之助(石垣島・台湾で精糖事業を興した)
村岡伊平治(南洋で出稼ぎ女性に尽くした)
菅沼貞風(南方交易史を研究)
太田恭三郎(タバオで麻園を経営)
原耕・捨思 兄弟(南方漁場を開拓した兄弟)


石光真清 『曠野の花』 中央公論社(中公文庫)
Ishimitsu2― 「異郷の同胞たち」 (P.57) より ―
三等客車の中には露支韓人の下層階級のものばかりがそれぞれ自国語で語り合っていたが、私はただ一人窓際に坐って前途をぼんやり考えていた。 そのうちにうとうと眠ってしまった。 汽車が停ってふと眼を覚すと、六十歳を少し越えたと思われる日本人が乗込んで来た。 私はその風体を見て思わず微笑した。 ところどころ破れて色のさめたフロックコートに、凸凹の崩れかかった山高帽をかぶり、腰にはズダ袋をぶらさげ、今一つ大きな袋を肩から斜めに下げていた。 しかも縞のズボンにはカーキ色のゲートルを巻き、袋の重みを杖にささえて入って来たのである。 (略) 「わしは青森の者でナ、笹森儀助と申しますじゃ。 老人の冷水と笑われながら、笑う奴等には笑わせておいてナ、飛び出して来ましたじゃ。 これもお国へのご奉公ですよ」 (後略)

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2007年8月21日 (火)

【読】この本がおもしろい

きのうから読み始めたこの本がおもしろい。
Miyamoto_tsuneichi_henkyou『辺境を歩いた人々』 宮本常一
 河出書房新社 2005.12.20
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309224458

読み始めてわかったのだが、この本は少年少女向けに書かれている。
(さ・え・ら伝記ライブラリー14 『辺境を歩いた人々』 1966年を底本としている)
かつて日本の辺境を歩いた四人が、伝記ふうに紹介されている。
近藤富蔵・・・近藤重蔵の息子。人を殺めて八丈島に流され、『八丈実記』を遺した人。
松浦武四郎・・・「北海道」の名付け親。蝦夷地の奥地をくまなく歩いた人。
菅江真澄・・・故郷を離れて、みちのく(東北地方)を歩きまわった人。
笹森儀助・・・千島列島、沖縄、奄美大島、台湾、朝鮮と、一生旅をした人。

いずれも、江戸時代末期から明治にかけて生きた魅力的な人物である。

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2007年7月24日 (火)

【読】【雑】梅雨も明けたでしょう

気象庁の発表に関係なく、梅雨は明けたと思う。
なぜなら、日曜日あたりから、急に蝉が鳴き始めたから。
梅雨入り、梅雨明けを「今日から」なんて「宣言」する根性がみみっちいな。
昔の人は、もっとアバウトに(時にはもっとデリケートに)、季節を感じていたはず。
肌で季節を感じたいものだ。

それはともかく、近くの図書館でまた面白い本をみつけた。
「宮本常一」 で検索したら、こんなシリーズが。
児童向けの図書コーナーに並んでいた。

Nihon_ni_ikiru18Nihon_ni_ikiru19『日本に生きる』 全20巻
 宮本常一 監修 国土社 昭和50年~
国土社 http://www.kokudosha.co.jp/
「18 東北編 Ⅱ(山形・秋田・青森西部)」
菅江真澄が紹介されている(須藤功)。
「19 北海道編」
松浦武四郎が紹介されている(姫田忠義)。

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2007年6月 9日 (土)

【読】地図、今昔(続)

Chizu_imamukashi_1今尾恵介 『地図で今昔』 (けやき出版 1999年)から、もうすこし紹介。
地名のいわれは、漢字の字面だけでは判断できないものだ。
その例は、さきごろ読んだ今尾さんの 『日本の地名遺産「難読・おもしろ・謎解き」探訪記51』 にたくさんあげられていた。

今読んでいる 『地図で今昔』 にも面白い話が載っている。
「帝国陸海軍」のその後
   陸軍成増飛行場→グラントハイツ→光が丘 ――東京都練馬区 (P.95-99)
Narimasu_map1942年(昭和17年)に東京が空襲を受けて、それに慌てた陸軍が急遽、板橋区(現練馬区)高松町内に急造したのが、陸軍の成増飛行場。
敗戦後、米軍に接収され、グラントハイツと名前を変えた。
「グラン」(グランと濁らない)は、米国の第18代グラント大統領の名を冠したもので、米軍士官とその家族用の住宅地だった。 敷地内には、郵便局から劇場、プールやゴルフ練習場まで何でも揃っていたという。
このグラントハイツを建設する際、近くを通る東武東上線の上板橋駅から引込線が建設された。 池袋・グラントハイツ間をノンストップの進駐軍専用列車を走らせるための専用線だった。
その専用線の名前が 「啓志線」(けいしせん)。 「啓志」とは耳慣れない言葉だが、これがなんと、グラントハイツ建設の総責任者だったケーシー中尉の名を冠したものだというのだ。
今尾さんは次のように書いている。
<グラントハイツがカタカナなのにケーシー線が「啓志」となったいきさつは調べていないが、東武か政府かどこかの日本人担当者が 「中尉殿、啓志という文字を当ててみましたが、いかがでしょう。この漢字がどういう意味かといえば……」 などとスマイルを浮かべつつ若い中尉ドノに接していたのだったりして。 あくまでも想像だが。>

もうひとつ、この本から新旧地図を転載したい。
変貌する街・むら
 湿原と原始河川は碁盤目の水田へ ――北海道雨竜郡 (P.140-145)
Uryuu_map北海道生まれのわたしには馴染みのふかい、北海道の雨竜川流域の地図だ。
見開き右側ページが、昭和7年(1932)の「妹背牛」5万分の1図。
左側、平成2年(1990)の同じ範囲の地図。
「妹背牛」は「もせうし」と読む。 アイヌ語起源の地名だ。
昭和初期の段階で、碁盤目状の道路が整然とつくられていたことに驚く。
屯田兵が湿原・原野を切り開いてここまでにしたことを思うと、ため息がでる。
雨竜川が蛇行しているのが目につくが、左側の地図では、その蛇行がなくなっている。 次々と人間の手がはいっているのだ。
このあたり、開拓される前はどんな姿だったのだろうと、静かな大地だった頃の北海道に思いを馳せてみる。

今尾さんの文章を引用する。
<ここに限らず、明治のはじめまでは石狩平野全域が広大な湿原・原野または平地林だったのである。 そこに最初は屯田兵が入り、その後は一般入植者が厳しい自然条件の中で耕地を拡大させてきたというのが北海道の近代史である。 もちろん、この進行に伴って先住民の住むところがどんどん狭められ、合わせて強引な日本人化が進められたのはいうまでもない。> (P.141)

『北海道の地名 アイヌ語地名の研究 別巻』 山田秀三 (草風館) から ―
妹背牛(もせうし) 当初は望畝有志の字を使っていたという。 モセ・ウ(mose-ush)には「いらくさ・群生する」という意と、、「草刈りを・いつもする」という意があり、伝承でもないとどっちだったのか分からない。
雨竜(うりゅう) 雨竜は元来雨竜川の名から出た名であるが、その川筋を中心とする広大な地域名としても使われて来た。雨竜川は石狩川第2の支流で、北海道の中心部を北から南に160キロの長さを流れている長流であるが、アイヌ時代はその中上流部は殆ど無人の境であったという。/この種の大地名は語義が忘れられているものが多い。松浦武四郎はその郡名建議書の中で「ウリウ。是は大古神が号け玉ひしと云伝へ、訳書相分り申さず候」と書いたのは恐らくアイヌ古老の言をそのまま記したものであろう。/永田地名解は「原名ウリロペッ(urir-o-pet)鵜の川。此川口鵜多きを以て名く」と書いた。(後略)

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2006年3月10日 (金)

【山】十勝岳(続)

じぶんでも「物持ち」がいいと思う。
高校生のときに使っていた、国土地理院の五万分の一図を、まだ持っている。

8国土地理院 五万分の一地形図
 旭川8号 十勝岳
 (昭和37年3月30日発行)
「許可なく複製を禁ずる」 とあるけれど、載せてしまおうかな。

この地図の右上にあるのが「オプタテシケ山」、オプタテシケと美瑛岳の暗部に手書きで小屋のマークのあるのが、美瑛富士避難小屋である。
この避難小屋が今どうなっているか知らないが、当時(山岳部の春登山で利用した昭和44年当時)はかなり老朽化していた。

ところで、深田久弥の 『日本百名山』 には
<主峰に十勝岳という名が固定したのは明治二十年代であろうと思われる。明治二十五年(1982年)の記事によると、それより数年前実際に頂上へ登った人の話としてこう書いてある。「オプタテシケと称するは唯に一峰を指せる語に非ずして、トカチ川水源なるトカチ岳より、・・・(中略)・・・これで見ると今の十勝連峰のことを昔はオプタテシケと呼んだと思われる。>
とある。

オプタテシケは、アイヌ語の「オ・タ・テケ(op-ta-teshke 槍が・そこで・はねかえった)」で、屈斜路湖の近くにも「オプタテシケヌプリ」という山がある (山田秀三 『北海道の地名』 草風館)。
山の神々の恋争いで、投げつけられた槍がそれてはねかえった、という言い伝えがあるそうだ。
とても興味深い話なので、アイヌ神謡などを少し調べてみたいと思っている。

また、『日本百名山』には、美瑛(びえい)の地名の語源として「ピイエ」というアイヌ語があげられている。
松浦武四郎が初めてこの地へ来て、十勝岳に源を発する今の美瑛川の水を飲もうとしたところ、アイヌが「ピイエ、ピイエ」と叫んで止めた。
それは、ピイエ(油ぎっている)、つまり、十勝岳に噴く硫黄が混じっているから飲めない、ということだった。
知里真志保 『地名アイヌ語小辞典』 にも、piye=油こい・油ぎった、とある。

講釈が長くなったが、次回は、空から見た北海道の山について書いてみたい。

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2006年1月17日 (火)

【読】もうひとつの「静かな大地」

せっかくコメントをいただいたので、花崎皐平(はなざき・こうへい)の書いた『静かな大地』を紹介しておこう。
ぼくが持っているのは、ネット販売で手に入れた、古本の岩波書店版ハードカバー(1988.9)。

はじめて読んだのは、図書館から借りた「岩波同時代ライブラリー」版だった。
もういちど、じっくり読んでみたい本だ。

sizukanadaichi花崎皐平 著
 『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』 岩波書店

幕末から明治にかけての探険家、松浦武四郎(1818~1888)の評伝。
松浦武四郎は、1833(天保4)年から日本国中を遊歴、1844(弘化1)年、単身、蝦夷地に渡った。
1854(安政2)年、江戸幕府が箱館奉行を置いて、翌年江戸地を再直轄(松前藩から取り戻した)すると、幕府御雇として蝦夷地御用掛に起用された。
その間、『初航蝦夷日誌』『武四郎廻浦日記』などを著したが、場所請負人たちのアイヌに対する過酷な扱いを記述した日誌は公にすることを許されなかった。
1859年、江戸に帰って御雇を辞し、市井にあって多くの著作を刊行した。
【松浦武四郎 『アイヌ人物誌』 更科源蔵・吉田豊訳 平凡社ライブラリー より】

以前、このブログで10回にわたって、読書日誌をしつこく連載したことがある
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/1_10b4.html
池澤夏樹さんの小説 『静かな大地』は、池澤さんが花崎さんの許しをえて、花崎さんの本のタイトルを拝借したものだという。

「静かな大地」とは、アイヌ語の「アイヌ・モシリ」、つまり、明治政府によって「北海道」と名づけられた、アイヌの人たちが住んでいた大地のことである。
松浦武四郎は、あしかけ14年、6回にわたって、このアイヌ・モシリを歩いて、あるいはアイヌの漕ぐ小舟にのって、踏破した。 驚くべきことだ。
ヒューマニストと呼ぶべき優しいこころを持ち、アイヌの人たちに敬愛をもって接した、当時としては珍しくこころの広い人物だった。

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2006年1月16日 (月)

【読】市立図書館

この町に越してきて、はじめて市立中央図書館に足を運んだ。
きのう、天気もよかったので、自転車をこいで片道2キロほど。

大きくて、なかなか立派な図書館である。
http://library.kodaira.ed.jp/lue/kakukan/01.html

季節がら、受験生が多く、机にむかって受験勉強をしていた。
この図書館で、ひさしびさに民俗関係の書棚の前に立ち、アイヌ関係の本を借りてきた。

kotan-ni-ikiru『コタンに生きる』 岩波書店 同時代ライブラリー 166
 朝日新聞アイヌ民族取材班 1993.11 (残念ながら絶版のようだ)

ほんらいなら、本編の「晴れときどき曇りのち温泉」で紹介したいのだが、
時間がなくてサイトの更新がままならないのである。
300ページほどの文庫本で読みやすいから、電車の中で読むのにちょうどいい。
いい本である。
岩波書店の「同時代ライブラリー」には、好著が多いのだが、絶版になっているものも多い。
花崎皐平 『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』も、このシリーズで出ているが絶版。

アイヌ関係の本を読むのは、ひさしぶりだなぁ。

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2005年10月26日 (水)

【読】静かな大地(4)

この池澤夏樹の『静かな大地』を買って初めて読んだのがいつだったのか、過去のメールを探してようやくわかった。 去年の8月の終りだった。
同名の本(花崎皋平=はなざき・こうへい=著、『静かな大地 松浦武四郎とアイヌ民族』)とあわせて、北海道に住む親しい友人が教えてくれたのがきっかけだった。
あれから一年あまり、アイヌへの関心は高まり、あれこれ調べたり読んだりした後なので、今回の再読では初回に気づかなかったことがたくさん見えてきた。

池澤夏樹は北海道の帯広生まれ。 父親の福永武彦(作家)が戦争のために一家で疎開していた昭和20年にここで誕生した。 彼は著作のどこかで、この小説が自分の先祖をモデルにしたものだと書いていた。 三郎や志郎や由良が作者とどういう繋がりの人物をモデルにしているのか、興味深いことではあるが、わからない。

それはさておき、今日読んだ章「鹿の道 人の道」には、作者のアイヌに対する理解というか、共感というのか、考え方がはっきり出ている個所がある。
シトナという名の、オシアンクル(五郎)の叔父の仲間という設定の人物に、こう語らせている。 三郎が札幌から郷里に戻り、このシトナの協力で牧場を開くための広大な土地を見つけた時のこと。

<「本当によいところが見つかった。早速にも札幌に行って、開拓使本庁に払い下げの申請をしよう。・・・」
・・・「何を話している」とシトナさんがアイヌの言葉で三郎さんに問われました。
「この土地を私のものとするための算段です」と三郎さんは答えました。・・・
「なぜだ」と重ねてシトナさんは問いました。・・・>

三郎が、北海道の土地はすべて開拓使(という役所)が管轄しているから、そこに申請する必要があると説明する。

<「それを問うているのではない。なぜ、この土地の所属をシサムのヤクショが決めるか、それが知りたいのだ」
シサムという言葉を聞いて、三郎さんと志郎さんははっとしました。・・・
「それは、それは、アイヌモシリは今は北海道となって、日本のものとなったからですよ」・・・
「納得のいかないことだ」とシトナさんは言われました。・・・
「・・・わしらアイヌが祖父の祖父の祖父の頃から走り回っていた土地が、いつから、どういうからくりで、和人のものになったのだ」>

引用ばかりで気が引けるが、ここに示された考え方、北海道という土地がそもそも誰のものだったのか、いいや、誰のものでもなかったのだ、という認識は、とてもラジカル(根源的)なことである。
いや、それは昔のこと、やむを得なかったこと、などという言い訳は通らないと思うのだ。
これは、ぼくら〝和人の子孫〟の罪の意識などとは関係なく、人類の根源的な問題ではないのか。
アメリカ大陸やオーストラリア大陸の歴史を思い出せば、誰にでもわかることではないか。
それをごまかしたり、なかったことにしたり、そんなことはできない。

・・・とまあ、長々と理屈っぽく書いてしまったが、これはたぶんぼくの生涯かけてのテーマなのである。

そうそう、この章のはじめに、イザベラ・バードが登場する。
明治11年の夏、三郎が札幌から静内に帰る途中、平取に泊まっていたイザベラ・バード(『日本奥地紀行』を書いたイギリスの女性旅行家)に会った、という設定である。 この部分は事実にもとづいたエピソードかもしれないし、作者の想像から生まれたフィクションかもしれない。 イザベラ・バードの旅の足跡とは、もちろん一致しているが・・・。

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