8月12日から、途中、中断もあったが、読み続けている本。
たしか、地元の図書館にリクエストして入れてもらった、新刊。
西村秀樹 『朝鮮戦争に「参戦」した日本』 三一書房 (2019/6/25) 319ページ
朝鮮戦争当時、大阪で発生した「吹田枚方事件」を詳細に追跡した内容だが、朝鮮戦争、それ以前の(日本敗戦後の)朝鮮半島の南北分断に至った歴史経緯が、綿密に検証されている。
第二部 朝鮮戦争と日本 第五章 なぜ朝鮮は分断されたのか、なぜ日本は分断されなかったのか P.84~P.105
その内容を忘れないように、テキストファイルに文字入力してみた。
ほぼ原文の書き写し(できるだけ箇条書きになるよう心掛けたが)。
歴史認識が喧伝される昨今、いわゆる慰安婦問題、徴用工問題の遠因を考えるために、公正な歴史認識が必要だと思う。
私も知らなかったことが多く、自身の歴史認識の整理が、少しはできたかな、と思う。
以下、長文。
西村秀樹 『朝鮮戦争に「参戦」した日本』 三一書房 (2019/6/25) 319ページ 【東大和市立図書館】
2019/8/12~
第二部 朝鮮戦争と日本
第五章 なぜ朝鮮は分断されたのか、なぜ日本は分断されなかったのか P.84~105
■朝鮮戦争の二つの要素
・国際的要素・・・第二次世界大戦末期からの朝鮮半島をめぐる米ソの勢力抗争
・国内的要素・・・統一朝鮮国家の指導権をめぐる半島内部の対立
二つの要素が交錯、融合した典型的な「国際内戦」
戦後日本の針路に決定的な影響を与えた (神谷不二『朝鮮戦争』中公文庫・1990)
■ドイツの東西分割・・・戦前の領土の四分の一の面積がポーランドに編入
「ある日、私のクラスの学生が手を上げて、どうして挑戦は45年に分割されたのか、なぜ日本はドイツのように分割されなかったのか」
「そのときは言葉を失ってしまった。その方が『正当な』解決策であったのだ。日本人はこんなことを聞きたくないと思うが、朝鮮よりも日本を分割する方が正当な処置であったはずだ。
(ブルース・カイングス『朝鮮戦争の起源』シアレヒム社・1989-91)
■なぜ朝鮮が分断されたのか
アメリカ政府の軍部は、日本を四分割する計画をもっていた。 (五百旗頭真『米国の日本占領政策』中央公論新社・1985)
このプランにアメリカ国務省が反対、日本の領土は三分割された。
・連合国軍最高司令官兼アメリカ太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥による北海道、本州、四国、九州の占領
・アメリカ太平洋方面(海)軍総司令官ニミッツ提督による琉球列島、小笠原諸島の占領
・ソ連極東軍総司令官ワシレフスキー元帥による「北方領土」(樺太、千島)の占領
(竹前栄治『占領戦後史』岩波書店・1980/1992)
■米国は日本の朝鮮支配を承認していた
黒船来航(1853)~日米和親条約締結(1854)
明治維新(1868)
日清戦争(1894-95) 朝鮮半島の支配権をめぐる清との戦争
日露戦争(1904-05) 中国・遼東半島、満州鉄道の利権をめぐるロシアとの戦争
アメリカが帝国主義路線に踏み出した時期
・キューバに対する覇権争いと独立をめぐるスペインとの戦争(1898)に勝利
・同時期、国王フェリペ二世ゆかりの島国スペイン領フィリピンでの米比戦争を鎮圧
フィリピンを植民地として支配、宗主国となる
桂=タフト協定(秘密協定・1905/7)
セオドア・ルーズヴェルトの特使・陸軍長官タフトがフィリピンに向かう途中、日本を訪れ、当時の総理大臣兼外務大臣・桂太郎と面談、秘密協定を結ぶ
(1)日本はアメリカのフィリピン当地に同意し、同地に何らの野心もない
(2)極東平和のため日英米三国の好意ある理解が必要
(3)アメリカは、韓国(大韓帝国)に対する日本の保護監督権を承認する
「この協定は、この直後締結された日英同盟改訂、日露講和条約とともに日本の韓国保護国化を列強が保証したものであった」
(『岩波日本史辞典』)
■乙巳(いっし)条約と韓国
乙巳条約(第二次日韓協約)・・・韓国の外交権を奪って保護国とし、総督府を置く(1905)
アメリカはソウルの公使館を閉鎖(1905/11)
以後、36年間、アメリカは日本の朝鮮支配を承認、朝鮮独立運動へのサポートを抑制
韓国併合、植民地化(1910)
※「併合」=二つ以上のものをあわせて一つにすること。(類語として)統合・合併・合一・合体・合する
(三省堂『現代新国語辞典』)
外務省の政務局長倉知鉄吉が「其語調の余り過激ならざる文字」を目的に新たに作った言葉。
「この新語はオーストリア・ハンガリー帝国のように対等の連邦国家のように誤解する人もいたが、韓国が全然廃滅に帰して(大日本)帝国の領土の一部となる意を明かす」ためだと覚書に記載。(倉知鉄吉は、当時の対韓政策の原案を作成)
■韓国併合条約
カタチの上では、韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れた「任意」を装っているが、実態は、日本が軍隊・警察をつかって徹底的に弾圧した結果だ
ソウルの西大門(ソデムン)刑務所跡地にある「歴史館」には、かつての政治犯が受けた扱いが展示されている
西大門刑務所歴史館 | 観光-ソウルナビ https://www.seoulnavi.com/miru/24/
■朝鮮は日本の鏡
黒船来航(砲艦外交)~鎖国から開国へ~明治維新
日本は中国(清国)の冊封国朝鮮の支配を意図
征韓論(1873)・・・ベクトルが逆の砲艦外交で開国させる(江華島事件・1875)
日清戦争、日露戦争も原因は朝鮮、満州=中国東北部
日清戦争、三国干渉
遼東半島を清国に返還、ロシアが大連・旅順の租借権などを獲得、満州に軍隊駐留
日露戦争
日本海戦でからくもロシア艦隊を破る
日ロ双方の事情(日本:財政上の問題、ロシア:革命運動の激化)から、セオドア・ルーズヴェルトの斡旋を受け入れ、ポーツマス講和条約締結
結果、朝鮮の植民地化、遼東半島の租借権、満州の鉄道利権を手に入れる
明成(ミョンソン)皇后(=閔妃)暗殺事件(1895)
■「満州国」
韓国併合をアメリカは承認
満州事変(1931)
満州国樹立(1932)
リットン調査団報告
国際連盟脱退
日中戦争始まる(1937)
「大東亜戦争」(1941)
■ソヴィエト連邦の対日政策
社会主義国ソヴィエト連邦を仮想敵国とし、ソ連との距離感に悩む
ナチスドイツのポーランド侵攻(1939/9)、オランダ、フランスへの侵攻
ナチスドイツ、ソ連との相互不可侵条約締結(1939/8)、英仏との戦闘に専念
ナチスドイツ、ソ連に侵攻、条約破棄(1941/6)
ソ連、「満州国」に滞在する「関東軍」(万里の長城の東に位置する山海関から東エリアを「関東」という)の兵力を警戒、日本と日ソ中立条約締結(1941/4)、ナチスドイツとの戦争に専念
ソ連、英米に対して、早く西ヨーロッパに兵力を上陸させてナチスドイツを東西から挟み撃ちすることを望む
英米軍の上陸は遅れる
ソ連、英米がナチスとソ連という全体主義国家の共倒れを狙っているのではないかと疑う
英米を主力とする連合国のシチリア島上陸(1943/7)、イタリア本土上陸(1943/9)
フランスのノルマンディー上陸(1944/6)
ヨーロッパ第二戦線ができるまで、ソ連はナチスとの単独戦争を余儀なくされ、レニングラード攻防戦などで膨大な死傷者を出す
■カイロ会議
ミッドウェー海戦(1942/6)
ガダルカナル戦(1942/11)
英米首脳、中華民国総統・蒋介石をカイロに招き、対日政策を話し合う首脳会談=カイロ会議(1943/11)
チャーチルは蒋介石招聘に疑義を抱くも、フランクリン・ルーズヴェルトは中華民国が日本と抜け駆けで講和条約を結ぶことを警戒
英米首脳、カイロからテヘランを往復、テヘランでスターリンと会談、第二次大戦後のヨーロッパについて議論、カイロに戻る
英米中三首脳のカイロ宣言(1943/12/1)
この中で朝鮮について言及「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、朝鮮をやがて自由かつ独立のものとする」
「やがて」という制約条件の背景・・・英米が挑戦を信託統治にする考え(独立はその後)
イギリスは植民地インドの問題を抱え、独立に反対した
■ヤルタ会談
クリミア半島(ロシア・ロマノフ王朝のリゾート地、黒海北部)の保養地ヤルタに、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集まる(1945/2)
主たる議題:ヨーロッパの重要問題、とりわけポーランド問題
対日参戦については米ソだけで話し合う(チャーチルは外される)
「ナチスドイツ降伏後、ソ連は二、三か月のうちに対日戦争に参戦」が同意される
スターリンは、日露戦争で失った樺太南半分、満州での既得権益にとどまらす、外モンゴル(当時のモンゴル人民共和国)の現状維持、千島列島の獲得までルーズヴェルトに要求
ヤルタ会談の後、ルーズヴェルトが病死(1945/4/12)
副大統領のトルーマンが第33代大統領に就任(選挙を経ていない大統領という後ろめたさを本人は抱えていた)
■日本はソ連へ和平工作を依頼 (なんという間抜けさかげん)
日本の敗色濃厚
ソ連外相モロトフ、モスクワの中ソ日本大使・佐藤尚武を呼び出し、日ソ中立条約を延長しない旨通告(1945/4/4)
期限切れまでは現状維持と伝える
東京では総理大臣が変わり、鈴木貫太郎に(昭和天皇の信任が厚く、海軍大将、枢密院議長)(1945/4/5)
アメリカの知日派、鈴木内閣誕生を、日本が「無条件降伏」まではいかないまでも、戦争終結の準備を始めたと受け止める
(武田清子『天皇観の相克』岩波現代文庫)
ソ連、ヤルタ会談での米国の同意に基づき、対日参戦の準備に入る
「シベリアでソ連赤軍が軍備力を増強」との情報は、日本のスパイ網にかかり、東京に報告が上がっていた
(にもかかわらず、日本は間抜けなことに、当時の陸軍は連合国との和平仲介をソ連に求める)
ナチスドイツ降伏(1945/5/7)
ソ連、対日参戦準備を本格的に始める
昭和天皇、ソ連への特使派遣を決定(1945/7/9)―元総理大臣・近衛文麿
中ソ日本大使・佐藤尚武、外相モロトフに会えずじまい
(日本の外交ベタ、ソ連の外交巧者ぶりが際立つ)
ソ連、「日本が戦争を終結したがっている」という重大かつ貴重な情報を日本そのものから入手、英米に伝えた
■ポツダム宣言
ソ連、日本からの和平交渉依頼に対し邪険にふるまう中、スターリンとモロトフがモスクワ出発(1945/7/14)
目的地はドイツのベルリン郊外、ポツダム、連合国首脳会議に出席するため
ルーズヴェルト病死を受けて急遽大統領に就任したトルーマン、弁護士出身で外交に疎かった
就任間もない時期(1945/4/25)、原子爆弾開発の秘話を聞き、驚く
「一発で一つの都市全体を破壊できる爆弾」と、陸軍長官から聞かされ
原爆実験がネバダ砂漠で成功したとの報告をトルーマンが受け取る(ポツダム会談開始の前日、1945/7/16)
第二次世界大戦の終結は秒読み段階
問題は、日本をいかに降伏させるか
アメリカ軍の沖縄上陸作戦
次なる本土決戦は南九州から上陸する作戦(1945/11目標)の準備にとりかかる
トルーマンの手元には「原爆カード」、ソ連の対日参戦カード
あとは「天皇」をどうするか
■トルーマンの代理署名
ポツダム宣言に署名したのはトルーマンだけ
イギリス、中華民国の代表はトルーマンが代理署名した
(スターリンは宣言に当初参加せず、署名もしていない)
(小此木征夫『朝鮮分断の起源』慶應義塾大学法学研究会)
チャーチル、ドイツ降伏後二か月経って行われたイギリス総選挙で保守党敗北、首相に資格を実質的に失う
労働党党首アトリーが次席代表として参加
中華民国の蒋介石は、ポツダムにも招かれず、トルーマンは中国と無線で了解を求め、同意を得た
トルーマンが蒋介石の代わりに署名
しかも、中華民国の正式名称を使わず、単にチャイナと表記
■天皇、原爆、朝鮮分断
米英中三か国、日本に「無条件降伏」を要求(1945/7/26)
ポツダム宣言にスターリンが署名していない理由:この日の段階でソ連はまだ対日戦争に公式に参加していないからとの公式声明
トルーマンは、スターリンに弦悪の存在を耳打ち
スターリンは、すでにアメリカ国内のソ連の協力者の情報から原爆開発の経過を知っていたという
ポツダムでのトルーマンとの会談後、スターリンは軍部に対し対日参戦をそれまでの8月下旬から早め、すぐに攻撃開始できるよう繰り上げを命令
■日本降伏「秒読み」
通例、外交文書は大使館を通して直接通告するもの
第二次大戦中といえども、日本はヨーロッパに永世中立国スイスとスウェーデン日本大使館を設置したままだから、通告すればよさそうなものだが
連合国はポツダム宣言を日本に直接通告しなかった
サンフランシスコからのラジオ短波で放送、日本が傍受
日本が軍事的に連合国に圧倒的に負けている段階で、いかに天皇制を守るか日本の指導者層は苦闘
■米国内部の相克
アメリカは、1940年代初頭から日本研究
日米戦争後の日本の政治体制をめぐって、アメリカ政府内部で「知日派」と「知中国派」との意見対立が続く
蒋介石、中国を侵略する大日本帝国の軍国主義と天皇制がわかちがたく軍国日本の両輪を形作っている、戦後の日本は天皇制をなくすべきだと強く主張
アメリカ国務省内部の「知中国派」は、天皇制廃止を望む
「知日派」の代表ジョセフ・グルーは天皇制存続を主張(「天皇利用」説)
天皇の威光を利用した方が、日本軍の武装解除、戦後の統治がしやすいと考えた
トルーマンに対し、天皇制存続をほのめかせば日本の降伏は早まると説得
(グルーは、日米開戦時の駐日アメリカ大使、武田清子と逆の日米捕虜交換船でアメリカに帰国、国務省次官として活躍)
(武田清子:日本の思想史家、戦前からアメリカに留学、日米開戦に伴い日米捕虜交換船で帰国、『天皇観の相剋』という研究所あり)
相剋:対立するものが互いに相手に勝とうと争うこと
■日本政府の逡巡
日本国内の論点:連合国側が「国体護持」=天皇制を残すのか、共和制移行を要求するのか、その見極めだった
ポツダム宣言には天皇制存続を保全する文言なし
日本の降伏、原爆、ソ連の参戦、天皇制存続が互いに絡み合う
1945/7/26、ポツダム宣言を日本の外務省、陸軍、海軍が別々に短波傍受、翻訳
同盟通信(のちの共同通信)が「リスボン発同盟通信電報」を配信、新聞にはベタ記事掲載
日本政府内部では、ポツダム宣言に天皇制存続保全の文言がないことから、政府内部で厳しい論議
結局「コメントしない」と「黙殺」することを決めた
その「黙殺」を新聞社、通信社は「拒絶」と報道、連合国は日本がポツダム宣言を「拒否」したと判断
日本政府指導部の逡巡が大きな悲劇と朝鮮半島分断をもたらした
■原爆投下
1945/8/6、マリアナ諸島テニアン島にある米軍の空軍基地から、新型爆弾を載せた爆撃機B29が飛び立ち、午前8時15分、広島の中心部上空で爆弾が炸裂
当時の広島の人口約35万人、うち14万人が一発の新型爆弾で死亡
犠牲者の中には在日朝鮮人やアメリカ軍捕虜数十人も含まれている
陸軍は調査団を派遣、広島赤十字病院のレントゲン写真がすべて感光していたことから、新型爆弾が原子爆弾だと判断
同じ日、スターリンは、赤軍に対し三日後(8/9)、対日戦の参戦を命令
ポツダム宣言の「黙殺」あるいは「拒否」がアメリカに原子爆弾投下、ソ連の対日参戦の大義名分を与えた
■分断は30分で決定
日本政府が天皇保障を連合国側から取り付けようと逡巡しているこの数日のタイブラグで、ソ連赤軍は怒涛の進軍
8/9午前零時(ロシア東部時間)、満州侵攻作戦を開始
満蒙国境の越境、朝鮮には日本海側の豆満江の渡河作戦と、日本海側の港・清津などへの上陸作戦(8/13)、南樺太への侵攻を実施、わずか数日のうちに赤軍は朝鮮半島を南下
はじめの作戦では京城(ソウル)をめざす予定だったが、原爆を二度までも落としたアメリカ軍の実力と真意を測りかね、京城へは先遣隊派遣にとどめた
■アメリカの戸惑い
ソ連軍の満州国と朝鮮への進軍開始(8/9)を受け、8/10深夜から翌日未明にかけ、アメリカ政府の国務・陸軍・海軍三省調整委員会は、二人の若い陸軍大佐に対し、朝鮮分割案を作るように指示
二人は、北緯38度線による分割プランを提出
理由は「アメリカ側に首都(ソウル)を含めるため」
作業時間はわずか30分だった
(ブルース・カミングス『現代朝鮮の歴史』明石書店)
「二人は朝鮮半島の中央部のくびれ付近を横切る線に目を止めた。北緯38度線だ。こうして地図にダーツを投げつけるより少々複雑といった程度の手順を経て、二人は分割案を持参した」
(デイビッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』新潮社)
立案者二人のうちの一人は、ケネディ政権で国務長官を務めたディーン・ラスク(当時、大佐)
ラスクは「地図は朝鮮の地形が明確に見て取れるナショナル・ジオグラフィック誌のものだった」と証言した
(饗庭孝典『朝鮮戦争』日本放送出版協会)
ハルバースタム:「アメリカには正しい判断のできる朝鮮半島の専門家がいなかった」(前掲書)
朝鮮民族の分断は、アメリカとソ連に大きな責任があり、日本がポツダム宣言受諾のタイミングを間違えたという意味で、日本の責任も小さくない
日本は受益者となり、朝鮮は新たな苦難を強いられた
ソ連は、この朝鮮分割案をすんなりと受け入れたが、立案者のラスクは「ちょっと驚いた」と証言した
■朝鮮分断は38度線か39度線か
境界線以北の日本軍はソ連に、南側は米軍に降伏し、武装解除することに
日本軍のうち対ソ戦を受け持つ関東軍と、朝鮮半島を受け持つ朝鮮軍の境界が北緯38度線だったという説があったが、そうではなかった
敗戦間際、日本軍はエリア再編を実施、関東軍と朝鮮軍の境界は北緯39度線だった
(宮田節子『朝鮮軍概略史』不二出版)
■国連信託統治案
アメリカは、フィリピンがそうであるように、ウィルソンの民族自決主義をそのまま適用するのではなく、国連の信託統治方式を採用する方針だった
その期間は40年~50年
その背景には、イギリスが植民地インドをかかえ独立に反対していたから
朝鮮半島でソ連赤軍が南下を開始した8/9の段階で、アメリカ軍は沖縄に軍隊を進めたばかり、南朝鮮は空白だった
■第一回目の御前会議
1945/8/8、モスクワでは外相モロトフが駐ソ日本大使館の大使佐藤尚武を呼び出し、宣戦布告、日ソ断絶
だが、日本大使館から東京の外務省への連絡は、ソ連当局の妨害でつながらなかった
東京での第一回御前会議(8/9)
三日前には広島原爆投下、8/9当日未明にはソ連の対日参戦、御前会議の最中、午前11時過ぎ、長崎に二つ目の新型爆弾(原子爆弾)投下
午前会議:昭和天皇、首相・鈴木貫太郎、外務大臣・東郷茂徳、陸軍大臣・阿南惟幾、海軍大臣・米内光政ら
8/10未明、ポツダム宣言を受諾することには全員同意したものの、受諾条件でもめる
・外務大臣の一条件案(天皇の地位存続のみを条件)
・陸軍大臣の四条件案(天皇の地位存続保障のほか、戦争責任者日本側処断など)
昭和天皇の聖断がないと結論を国民を含め軍部が受け入れないだろう―内大臣・木戸幸一らが事前に準備
キーパーソンは木戸、総理の鈴木貫太郎は「聖断」方式を採用
昭和天皇の「聖断」によって外務大臣案が採用された
この回答は、スウェーデンとスイスの日本大使館を経由して連合国に通知
連合国側は外務大臣案が求める天皇の地位保障に対して、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」(米国務長官バーンズ)と返答
■終戦の詔勅
二度目の御前会議(8/14、皇居御文庫)
その日の夜遅く「敗戦の詔書」を決定
「米英支蘇の共同宣言を受諾」(ソ連はポツダム宣言後に対日参戦したので、8/14の段階では日本と戦っている連合国の主要メンバーは四か国)
昭和天皇が直接日本国民、とりわけ日本軍兵士に降伏した事実を告げないと武装解除がスムーズに進まないとの理由で、昭和天皇が直接ラジオを通して呼びかけることが決まる
この日深夜遅く、NHK職員が皇居に出向き、昭和天皇が決まったばかりの「終戦の詔書」を朗読、その声をレコード盤に録音
(このレコード盤をめぐって近衛部隊が蜂起した「宮城事件」が発生)
日本政府は、14日夜、国民に対し「翌日正午に重大放送を放送すること」を臨時放送、新聞各社に対して翌日の朝刊を正午以降に配布することを命じた
(参謀本部や陸軍省の記者クラブを通して、全国新聞社はポツダム宣言受諾を一日早く知ったことになる)
当時、東京朝日新聞の記者だった武野武治(むの・たけじ)は、この夜を最後に出社しなくなった
(戦争責任をとった、ただ一人のジャーナリストと言われた)
■光復節
日本が負けた日はいつか?
・8/14説 昭和天皇が「終戦の詔書」に署名した日付、皇居で御前会議が開かれ「終戦の詔書」がまとまった日
・8/15説 玉音放送の日(ソウルとピョンヤンで日本が負け民族復権したことを祝う=光復節)
・9/2節 ミズーリ号上で連合国に対し降伏文書に署名調印した日
■玉音放送
8/15正午、玉音放送がはじまる
「忍び難きを忍ぶ」という文言は、明治天皇が日露戦争の後の三国干渉を受諾した際からの引用
■直接統治か間接統治か
日本の降伏にともない、連合国最高司令官一般命令第一号によって、朝鮮は北緯38度線以北ではソ連軍が、以南ではアメリカ軍が、それぞれ日本軍の武装解除にあたることに
アメリカ軍にとって、朝鮮人は「敵国人」なのか「解放された人民なのか、微妙な問題
アメリカ政府内部で議論していたものの、結論が出る前に日本が降伏
アメリカの朝鮮半島政策は後手後手にまわった
日本の植民地支配を36年間もの長きにわたって受け、朝鮮総督府や日本軍で朝鮮半島出身者が日本のお先棒として実直に働いている実情を見て、アメリカは判断に迷い、結論を出しかねた
(韓国国内でのちに「親日派」の扱いが問題になる根拠もこうした実情に起因)
フィリピンにいたアメリカ軍最高司令官マッカーサーが神奈川県厚木飛行場に到着(8/30)
マッカーサー日本来訪の数日前、日本を統治する方式が、アメリカ軍による直接統治から、従来の日本政府を仲介しての関節統治方式に変更
沖縄にいたアメリカ軍中将ホッジ率いる第24軍は、ソ連軍に遅れること一か月後の9/8、仁川に上陸
ホッジは、日本本土でマッカーサーがとった統治方式そのままに、従来の日本人の朝鮮総督府を利用しての間接統治を目指した
ホッジの記者会見には、朝鮮総督府の総督・阿部信行が同席、日本人官吏をそのまま留用すると言明したとたん、朝鮮人から猛反発を受け、三日後、しぶしぶ阿部を解任
アメリカは南朝鮮の民衆の心をつかむことに、スタート直後に失敗した
■軍政下
なぜトルーマンは、グルーの助言を受けて、天皇制存続をポツダム宣言に入れなかったのか
もしそうしていたら、日本政府はただちに宣言を受け入れ、原爆やソ連の対日参戦もなかったのでは?
トルーマンが天皇保障の文言を入れなかった理由は、トルーマンが見据えていたのはすでに確定的な対日勝利よりも、さらなる将来のソ連との対立(のちに「冷戦」と名付けられる)を重視し、有利に展開するため、原爆の威力をソ連に見せつけるためだったなど、いろいろな解釈を研究者はする
朝鮮分断とは「帝国主義」と「冷戦」が生み出した鬼っ子なのだ
本当の悲劇は5年後に訪れる―朝鮮戦争勃発
(了)
最近のコメント