カテゴリー「あの戦争」の82件の記事

2009年8月14日 (金)

【読】サハリン、アイヌ民族

この本がとてもよかった。

Tanaka_sakhalin『奇妙な時間(とき)が流れる島 サハリン』
 田中水絵 著  凱風社 1999/11/25発行
 262ページ  1800円(税別)

著者は「終戦のわずか三年後に生まれ」たというから、私よりも少し年上の「団塊の世代」のひとり。
一週間の予定でぶらっと訪れたサハリンに、その後六年にわたって何度も行っている。
現代のサハリンに住む人々との交流が、なんとも温かみがあって、いい。
コウイウヒトニワタシワナリタイ、と思うほどだ。

<ルーブル切り下げの一か月ほど前、私はユジノサハリンスク市のレーニン通りにある美術館、かつての「北海道拓殖銀行豊原支店」の石造りの建物の前に立っていた、かつて、樺太の経済を支えたこの銀行は、前年、つまり1977年11月、経営破綻から解体していた。日本中でバブルがはじけていた。/旧銀行の前で私は思った。この私もバブルだったと。私は終戦のわずか三年後に生まれ、日本の急速な経済的発展に乗っかり、共に年を重ねてきた。ぬくぬくと、ふわふわ生きてきた。戦争も、父が戦争に行ったことも、私には遠い遠い昔話だった。>

<サハリンに渡るたび、私は無意識に感じていた自分というバブルの空洞が少しずつ埋まっていくのを感じた。>

<サハリンから帰るたび、私は奇妙な時間(とき)が流れているのは、海峡のこちら側、日本の国だと感じる。この国に流れている時間は、決して消えない過去を忘れ、おかしな方向に流されているのではないか。>  (以上、あとがきより)

田中水絵さんには、興味ぶかい訳書がある。
読んでみたいが、値がはるので考え中。
この町の図書館にも置いていない。残念。

『沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史』
 アナトーリー・T・クージン (著)/ 岡 奈津子・ 田中 水絵 (訳)
 凱風社 1998/7月発行  317ページ 3500円(税別) 
Amazon
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/477362213X

出版社/著者からの内容紹介
ロシア極東の朝鮮人が、どのように中央アジアやカザフスタンへ強制移住させられたのか、日本によってサハリンに連れてこられた朝鮮人はなぜ、祖国に帰れなかったのか。サハリン在住の研究者がソ連時代の公文書をもとに著した過去の「真実」。 
I:ロシア極東の朝鮮人●1862~1937年(移住の始まり/法的問題/文化の発展 ほか)
II:サハリンの朝鮮人●1870~1992年(サハリン人として生きて/強制移住と弾圧 ほか)

e-honサイト
 http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000030426254&Action_id=121&Sza_id=E1

凱風社
 http://www.gaifu.co.jp/
 http://www.gaifu.co.jp/books/ISBN4-7736-2213-X.html


田中水絵さんの本に続いて、いま読んでいるのがこれ。

Chikappu_moritodaichi『森と大地の言い伝え』  チカップ美恵子 編著
 北海道新聞社 2005/3/3発行
 333ページ  1800円(税別)

チカップ美恵子さんは、アイヌ文様刺繍家。
山本多助さんの姪であり、母は伊賀ふでさん(山本多助さんの妹)。
この本は、「第一部 森に宿る言霊」 が山本多助さんの著作 『釧路アイヌの昔話と伝説』(第一巻、第二巻)から。
「第二部 故郷の記憶」 は伊賀ふでさんが晩年に執筆した子どもの頃の体験記をまとめたものだという。

ずいぶんまえに手に入れ、ずっと本棚でねむっていた本だが、山本多助さんが昭和11年に樺太を訪れたときのはなしが載っていたのこともあって、このところの私の中の 「樺太熱」 の延長で読みはじめた。
山本多助さんの文章がいい。
アイヌ民族の歴史がよくわかる好著。


このほか、最近になって古本屋でみつけた本がある。

Ooe_shokuminchi『日本植民地探訪』  大江志乃夫 著
 新潮選書  1998/7/30発行
 492ページ  1600円(税別)

サハリン、南洋諸島、関東州、台湾、韓国、北朝鮮と、かつて日本の植民地だった土地を探訪した記録である。
中身が濃くボリュームもあるため、読むのはたいへんそうだが、いつか読んでみよう。
大江志乃夫さんの本は、ずいぶん前に一冊だけ読んだことがある(日露戦争に出征した兵士たちの手紙のはなし)。
信頼できる人だと私は思う。

田中水絵さんの本に何度もでてきた逸話だが、この大江さんの本も、岡田嘉子と杉本良吉の北緯五十度線越境(ソ連への亡命)の話からはじまっているのが興味ぶかい。


Yamashita_ezo_daimyou『北海道の商人大名』  山下昌也 著
 グラフ社  2009/4/5発行
 278ページ  1400円(税別)

今日の昼休み、職場の近くにある BOOK OFF で目にとまった。
題名にひかれて手にとってみると、なかなかおもしろそうなのだ。
江戸時代の松前藩の話だ。
とうぜんのことだが、アイヌ民族との確執についても詳しく書かれている。

松前藩は、他の藩とちがって米を基盤にしない大名だった。
当時の蝦夷地は米がとれなかったため、「○○万石」という石高がなく、米の代わりに商売で得た利益で藩を経営していたのである。
グラフ社という出版社ははじめて目にしたが、なかなかしっかりした内容だと思う。

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2009年8月 7日 (金)

【読】樺太、敗戦直後

ちょうど去年の今頃、買ってあった本を、ようやく読みはじめた。

【読】さらに二冊  2008年8月21日 (木)
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_8880.html

Eiketsu_no_asa『永訣の朝 樺太に散った九人の逓信乙女』
 川嶋康男 著  河出文庫
 2008/8/10初版発行 244ページ 720円(税別)

親本
 『「九人の乙女」はなぜ死んだか』 (恒友出版、1998年)
 『九人の乙女一瞬の夏』 (響文社、2003年)

そういえば、昨年の今頃だったろうか、日本テレビでドラマ化、放映されたのだった。
私は見ていないけれど。

【参考サイト】 2009/8/9追記
 日本テレビ
  http://www.ntv.co.jp/
 霧の火~樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち
  http://www.ntv.co.jp/kyu-otome/

<終戦まもない昭和20年8月20日の朝、南樺太・真岡郵便局に勤務する、九人の若い女性電話交換手が自決した。/ソ連軍の進駐がどんなものなのか予測不可能な状況下、通信業務の使命を全うする中で、何が彼女らを死に追いやったのか……。/関係者への徹底取材で、当時の乙女らの日常と、悲劇の真相を追跡するドキュメント。> (本書帯より)

徹底した取材で、美談仕立てではなく歴史の真実を追求している――こう言えばいいのか。
十代、二十代の若い電話交換手の写真が本文中の随所に掲載されている。
彼女たちの生きた姿が目にうかぶような、クールな筆致で書かれた好著である。

70ページほど読んだところ。


もう一冊、現代の樺太・サハリンが舞台の本を手に入れた。

Tanaka_sakhalin『奇妙な時間(とき)が流れる島 サハリン』
 田中水絵 著  凱風社
 1999/11/25初版発行 262ページ 1800円(税別)

上の本を読み終えたら、読んでみよう。
現在のサハリンの姿が見えてきそうな本だ。








Amazon
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4773624027

<長い間のロシア暮らしの経験をきっかけに、著者は1992年から98年にかけて何度もサハリン(旧樺太)を訪問、その機会にサハリンに住む多くの人々(民族)と交流を重ねる。本書は、東アジアの近現代史を機軸にして、著者自身が歴史認識を深めていく過程を、悲喜こもごものエピソードをまじえて綴った紀行書。サハリンの過去と現在を知るには、好個のテキストでもある。>

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2009年3月16日 (月)

【読】『松本清張への召集令状』(続)

私にしてはめずらしく、二日目で全体の三分の二ほど、新書の220ページまで読んでしまった。
それほど、ぐいぐい読ませる内容なのだ。

Seichou_shoushuu『松本清張への召集令状』
 森 史朗 著  文春新書 624
 2008年3月20日発行  890円(税別) 317ページ

著者は、文藝春秋で松本清張の担当編集者だった人。
清張さんへの愛情が感じられる、なんとも心優しい文章だ。

<……この小文は松本清張論といった大上段に振りかぶったシロモノではない。ごく私的な、私が清張担当として浜田山に通った頃の私的メモといった小論にすぎないことを、あらかじめお断りしておきたい。/それゆえに、文中では筆者が気軽に「清張さん」と呼びかけることをお許しいただきたい。>

<これには、わけがある。/担当編集者のだれもが「清張さん」と呼び、「松本先生」という固苦しさでもなく、「松本さん」というよそよそしさでもない。ましてや、「松本清張先生」という格式ばった言いかたでもない。それは、一般読者にとっても同じことのようだ。>

引用が長くなったが、これは本書の「まえがき」に書かれている文章の一部で、続いてこんなエピソードが紹介されている。

筆者が浜田山の清張宅を訪ねた折のこと。
タクシーの運転手に行き先をつげると、「ああ、清張さんの家ですね」と気軽に案内してくれたという。

本書に掲載されている写真をみると、なかなかの豪邸なのだが、このエピソードだけで私は「清張さん」が好きになってしまった。


第一章 松本清張への召集令状
第二章 最初の軍隊生活
第三章 ある日の松本清張
第四章 孤高の作家
第五章 召集令状とは何だったか
第六章 松本衛生兵の真実


こういう構成。
第三章、四章は、松本清張の軍隊生活からいったん離れて、その人となりが描かれている。

ざっと、目次をあげておこう。
内容紹介は私の手に余るので。

第三章
 I 浜田山通いの日々
    清張古代史の挑戦/通説をくつがえす/「陸行水行」ブーム/
    「風雪断碑」のモデル/若き学者妻の死
 II 学会との対立
    モデルと実像/『二粒の籾』/学会へのいらだち/井上光貞教授との確執/
    清張史論について
第四章
 I  作家への道
    『文豪』三部作/清張さんとの取材行/小説の語り口/山田美紗の「愛欲日記]/
    「筆は一本、箸は二本」/『九州文学』を飛び出す
 II 痛烈な文壇批判
    文壇ぎらい/大佛次郎の激励/水上勉と松本清張/タイトルの秘密/
    井上ひさしへの手紙


今日はちょうど、この第四章まで読んだのだが、後輩作家の水上勉や井上ひさしに対する清張さんのあたたかさを示すエピソードがよかった。


その一例。
『手鎖心中』 で直木賞を受賞した井上ひさしへの、清張さんの手紙。
(清張さんは、このときの直木賞選考委員で、『手鎖心中』を強く推した。井上ひさしからの礼状への返事)

<これから忙しくなると思いますが、作品の質と健康のバランスに気をつけて下さい。>

<とにかく忙しさに挑戦していくような気魄は持つべきですが、なにぶんにもトンネルの暗黒に似ているので、ときには孤独感、絶望感にも捉われることがあるでしょうが、こういう自分との闘いも生じてきます。空洞内の雑音に迷わされることなく、自分の磁石を持っていて下さい。>

<自己の才能についてあらゆる可能性をさぐるのは、結局自分だけにしかできないことです。他の者(批評家を含めて)には判りません。前にかえりますが、ほかの人の言うことに謙虚に耳を傾ける態度はもとより必要ですが、納得のいかないものは無視して進んで下さい。当面の瑣末な「悪評」には全然気にしないことです。>


井上ひさしは、著者にこの手紙を見せたあと、こう言ったという。

<……井上さんは、「ちょっと、これを見て下さいよ」と手紙のあて先を指でしめした。流れるようないつもの文字で、堂々と宛名が書かれてあった。
 「井上ひろし様」――。>  (太字部分は、原文では傍点)

いい話である。
私は、こういう人が好きだ。

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2009年3月15日 (日)

【読】『松本清張への召集令状』

ずいぶん前のことだが、一度だけ、松本清張さんを見かけたことがある。
場所は、京王井の頭線の渋谷駅ホーム。

私たち夫婦は、何かの用で渋谷へ出るため、吉祥寺から井の頭線の電車に乗った。
終点の渋谷駅でホームに降りたところ、同じ電車から降りて憮然とした表情で改札口へ向かう清張さんを見たのだった。
まさか、と思ったが、大きな下唇が特徴のあの顔は、(失礼ながら)どう見ても清張さんそのものだった。

思ったよりも小柄な人だった。
井の頭線沿線(浜田山)にお住まいだったというから、きっと、渋谷に用があって電車ででかけたのかとも思う。

ただそれだけのことだが、私には松本清張という大作家が身近に感じられ、いつまでも記憶に残るできごとだった。


松本清張の作品を読んだことは、ほとんどない。
有名な 『点と線』 すら読んだかどうか記憶にない。

「あの戦争」 について書かれたたくさんの本を読んだり買ったりしているうちに、こんな本にであった。

Seichou_shoushuu『松本清張への召集令状』
 森 史朗 著  文春新書 624
 2008年3月20日発行  890円(税別)
 317ページ

<一家七人を支える中年版下職人に、意外な赤紙が届いた。その裏事情とは? 後の作品に託した叫びとは? 担当編集者時代の私的メモをまじえ、戦争が残した深い傷に迫る究極の作家論。>


松本清張が召集令状を受け取ったのは、昭和18年(1943年)10月、三十三歳のときだった。
昭和5年、二十歳で徴兵検査を受け、第二乙種補充兵だったから、すぐに召集されることはなかった。
それが、結婚して両親と妻、子供三人の職人暮らし(印刷職人)をしていた中年男に、教育召集がかかったのである。
期間は三ヵ月。
乙種補充兵を教育するための召集といっても、現役の兵役生活とさして変わらない。
初年兵がいじめられるのが、当時の日本陸軍だった。

その後、昭和19年6月に二度目の召集令状がくる。
本格的な 「赤紙」 である。
戦局が絶望的な状況になっていた時期だ。

―― とまあ、ここまでしか読んでいないが、ずいぶんと苦労をした人だったのだな、と知った。


もう一冊、同じ文春新書のこんな本も買ってみた。

Seichou_taidan_showashi『対談 昭和史発掘』
 松本清張  文春新書 677
 2009年1月20日発行  840円(税別)
 284ページ

1975年1月号の『文藝春秋』に掲載された、城山三郎、五味川純平、鶴見俊輔との対談(第一部)と、「昭和史発掘 番外編」(第二部)から構成される。
すこぶる興味ぶかい内容だ。

松本清張の 『昭和史発掘』 をいつか読んでみようと思う。



【参考】 Wikipedia 松本清張 より

苦渋の前半生
1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業し、川北電気株式会社小倉出張所の給仕となり、文芸書を読むようになった。しばらくして家業が安定したため、祖母とともに間借住まいをする。このころから春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、特に芥川龍之介を好んだ。だが1927年、出張所が閉鎖され失職。小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習いとして採用され、さらに別の印刷所に見習いとして入る。1929年、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に留置され、父によって本を燃やされ読書を禁じられた。1931年に印刷所がつぶれ、高崎印刷所に戻ったが、嶋井オフセット印刷所で見習いとなり、その後みたび高崎印刷所に戻り、内田ナヲと結婚。だが、印刷所の主人が死去したために将来に不安を感じ、1937年から自営。朝日新聞西部支社(現・西部本社)の広告部意匠係臨時嘱託となる。

1943年に正式に社員となるが、教育召集のため久留米第56師団歩兵第148連隊に入る。翌年6月に転属となり、衛生兵として勤務。朝鮮に渡り竜山に駐屯、一等兵となった。1945年に転属、全羅北道井邑に移り、6月に衛生上等兵に進級。終戦は同所で迎えた。帰国後は朝日新聞社に復帰。図案家としても活躍し、観光ポスターコンクールに応募していた。

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2009年3月10日 (火)

【読】「生きてたら、…オモ…シロイ」

このタイトルは、赤塚不二夫の自叙伝に載っていたセリフである。


Akatsuka_koredeiinoda『これでいいのだ ―赤塚不二夫自叙伝―』
 赤塚不二夫  文春文庫 2008/10/10発行
 223ページ 571円(税別)

 親本
  1993年8月 日本放送出版協会刊
  2002年12月 日本図書刊行センター刊


きのうの昼休み、勤務先近くのBOOK OFFで入手。
ちょうど澤地久枝さんの本がおわるところだったので、帰りの電車・バスの中、そして今日の通勤途上で、この一冊を読みおえてしまった。

赤塚不二夫が好きだった。
惜しいことに、昨年亡くなってしまったけれど。
告別式で、タモリが感動的な弔辞をささげていた。
この本にも、タモリとの出会いが書かれていて、タモリ(森田一義)という才能を発掘したのが赤塚不二夫だったことを改めて思いだした。


赤塚不二夫は、旧満州国で昭和10年(1935年)に生まれている。

父親は、満州国で抗日ゲリラと対峙する「古北口国境警察隊」の特務警察官だったが、その前は、新潟県新発田の16連隊で憲兵をしていた。
満州に渡ってから、昭和8年、「上官の理不尽ないい分が我慢できず」憲兵隊をやめて特務警察官になった。
この父親の結婚までのいきさつなども描かれている。

この自叙伝によると、赤塚不二夫の父親は、「反満、反日の中国人ゲリラと、目に見えない最前線で命を張って渡り合う」職務をこなしながらも、理不尽なことはせず、中国人から慕われていたという。


こんなエピソードがある。

<ある朝、おやじは突然何かを思い出して部下に命じた。
「おう、忘れとったぞ、やつを出してやれ!」
3か月前、最後まで口を割らない一人のパールー(註 八路軍=中国共産党軍の兵士)を地下牢に放り込んだまま、おやじは仕事に追われ彼のことをすっかり忘れていたのだった。>

<連れてこられた中国人は、憔悴しきってはいたが眼光だけは鋭かった。彼は処刑かと思っただろう。だが、やがてそうではなさそうだということに気づく。>

<おやじは彼を家に招待し、「悪かったなお前を忘れていた」と詫びたうえ、あったかいご飯を食べさせた。食べ終わると新しい中国服を着せ、何十円かを持たせて町へ帰してやった。>

<「シェ、シェ(謝々)」 彼は何度も振り返っては頭を下げ、町のほうへ消えて行った。>

 ― 以上 「戦中編(満洲1) P.15 ―  (一部、原文の改行を変えて引用した)



また、こんなことも書かれている。

赤塚不二夫の父親は、家族に対して、「中国人から絶対ものをもらってはいけない!」と厳命していた。

<当時、日本人の大人も子供も中国人に対して多かれ少なかれ優越感を持ち、こちらが欲しいものは相手の気持と関係なくもらって当然、という風潮があった。>

<一方、おやじの部下である〝満系〟の人たちや利害関係を意識する中国人は、なにかといっては留守宅につけ届けをしようとした。生来、潔癖なおやじはこれを極端にきらったのである。>

<おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。べつに護衛に守られていたわけではないおやじが、裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くなかったはずだ。 (中略) だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけでなく赤塚家も襲撃されることがなかった。>

 ― 以上 「戦中編(満洲1) P.16-18 ―


こういう父親だったから、赤塚不二夫一家(父は抑留され、母と不二夫と弟、妹二人の母子五人)は、敗戦後の引き揚げ時にも、ずいぶんと中国人からよくしてもらったという。

具体的なエピソードもたくさん書かれていて、とても興味ぶかかった。


ところで、今回の記事の題名だが――。

敗戦後、シベリアでの四年間の抑留生活を終えて、昭和24年に帰国した父親は、郷里で苦労し(生活のための借金苦)、結核で長い闘病生活をしていたが、奇跡的に治癒。
しかし、妻(赤塚不二夫の母)を事故で亡くす(昭和45年)。

昭和53年、その父親が癌で亡くなるときの話。

父親の首筋にできたリンパ腺ガンのはれものが日増しに大きくなり、手術もできない状態になって、あと数日しか生きられないと医者から言われた赤塚不二夫。

「おやじ、長生きしたいか?」
と彼が聞くと、病床の父親は、いよいよ息苦しくなってきた喉から、声をしぼり出すようにして答えた。
「ああ、したいなァ」

<その言葉に思いがけないほどの執着が感じられて、ぼくは思わず問い返した。
 「長生きして、どうするんだ?」
 「生きてたら、……オモ……シロイ」
 晩年になって、もう一度人生を取りもどしたおやじは、毎日、生きているために新しく味わえる人生の喜びを噛みしめていたのだ。そしてもっと生きたいと思い続けていたのだ。>

 ― 以上 「戦後編2 (東京) P.207 ―



母親が亡くなるときの場面も、胸にしみるものだった。

また、五人いた弟妹のうち、末の妹二人を幼いころに亡くし、弟の一人とは、やはり幼い頃に生き別れた(養子にいった)、そんな数々のエピソードからも、彼のあたたかい気持ちが感じられる。

満州での幼年時代。
中国からの引き揚げ。
わんぱくだった少年時代のおもいで。
(彼のギャグ漫画の主人公たちは、父親や、わんぱく仲間がモデルになっている)
帰国後の貧乏な生活。
父の帰国。
東京に出てからの売れない漫画家修行時代(トキワ荘時代)。
そして、突然のヒットで売れっ子漫画家に。
唐十郎、大島渚、佐藤慶、李麗仙(李礼仙)、山下洋輔、篠山紀信、野坂昭如らとの交流。
自身の結婚、離婚。
そして、父母や弟妹のこと。


<9年前、かあちゃんが臨終の時、ぼくの「かあちゃーん!」の一声でかちゃんを幽冥の世界から呼びもどした。今度は「もういいよな!」でおやじを冥土へ押しやったことになる。>

<ぼくは死に際に、誰かに呼びもどされるのかな、それとももういいだろうと念を押されていくのかな……。>

 ― P.209 ―


赤塚不二夫(本名 赤塚藤雄)。
平成20年(2008年)8月2日、肺炎により永眠。享年72歳。
その六年前、脳内出血で緊急手術。
一命を取り留めるも、以後、病院で眠り続け、意識の戻らないまま亡くなった。
眞知子夫人(二度目の妻)が平成18年7月12日に亡くなったことも、江守登茂子・前夫人が三日前に亡くなったことも知らずに、彼は逝った。
夫人と前夫人は、とても仲が良かったという。

 ― 巻末 「解説にかえて」 武居俊樹 より抜粋、加筆 ―


赤塚不二夫のマゴコロが伝わってくる、いい本だった。

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2009年3月 9日 (月)

【読】読了 『もうひとつの満州』(澤地久枝)

まれにみる良書だった。
私にしてはめずらしく、土曜の夜から日曜日をはさんで、今日、月曜日の通勤電車の中で早くも読了。
図書館に返さなくてはいけないと思うから、よけい集中して読んだということもあるが、それだけ魅力的な内容だったのだ。

「あの戦争」と「満州」を知ろうとする人には、ぜひお勧めしたい本だ。

迷った末、Amazonで中古を購入することにした。
本体95円、送料340円。
Amazonには、文庫版を含めてたくさん出ている。


Sawachi_manshuu澤地久枝 『もうひとつの満州』
 文藝春秋 1982/6/1 発行
 292ページ 1000円

楊靖宇という「反満抗日」の士(1940年没)を追って、旧満州(中国東北地方)を訪れた著者の、ノンフィクションである。

楊靖宇という人物の情報は少ない。
Wikipediaにもこの人の経歴は載っていなかった。
あるサイトによると、こうだ。


鉄の戦士―楊靖宇
http://japanese.cri.cn/81/2005/07/19/1@45230.htm
より転載(改行を加えた)

 楊靖宇は、東北抗日連合軍の創設者であり指導者であった。
 本名は馬尚徳、1905年、河南省確山県に生まれる。
 学生時代は、反帝国主義愛国運動に積極的に参加。
 1926年、中国共産主義青年団に入団。
 1927年4月、確山の農民暴動において指導者として参与。同6月、中国共産党に入党。
 1931年「9・18」事変ののち、中共ハルビン市道外区委書記、市委書記、満州省委軍委代理書記を兼任。1932年秋、南満州に派遣され、中国工農紅軍第32軍南満遊撃隊を編成。政治委員となり、盤石紅を遊撃根拠地の中心とした。1939年、東南満地区における秋冬期反「討伐」作戦では、部隊を率いて濛江一帯転戦。最後はただ一人、5昼夜にわたって敵と渡り合った。
 彼は想像を絶するほどの持久力で、弾が尽きるまで戦い続け、1940年2月23日、吉林濛江三道庶?子にて壮絶な最期を遂げた。残忍な日本軍によって頭をかち割られ、腹も切り裂かれていた。彼の胃には枯れ草や木の皮、綿の実が入っているばかりで、食糧を口にしていなかったことが分かった。
 彼を讃え、1946年、東北民主連合軍通化支隊は「楊靖宇支隊」と改名。濛江県も「靖宇県」となった。


(註)
 「頭をかち割られ」というのは、澤地さんのこの本から得られる情報とは違っている。
 楊靖宇の首は切られ、みせしめのために「さらしもの」にされたのは事実。
 また、「腹も切り裂かれていた」というのも事実だが、当時、日本軍は抗日戦士を捕えると、胃の中味を調べて彼らの食生活を知り、討伐のための情報源としたという。


澤地さんのこの本には、ここで紹介したい「いい話」がたくさんある。
その中から。

澤地さんのお父さんに触れた部分。
(「五 故山にして他山」 P.214)
少し長い引用になるが、澤地さんがお父さんによせるあたたかい気持ちが伝わってくる。

<父は新京郵便局の三年間に中国語を学び、設計の図面をひくカラス口の使い方も習熟して、満鉄の試験を受けた。昭和十二年四月に採用になっている。三十二歳になったばかりだった。
 この九月、満鉄は新京鉄路局を吉林に移転し、吉林鉄路局と改称している。そのために新規採用の枠がひろげられたということが、父にとってのチャンスであったのであろう。しかしけっこう二枚目で、貧乏はしても粋人であった父の努力は買ってやりたい。人生の階段を半段でものぼることがどんなに大変か、私はこの父から教えられたのだから。建国の理想などを私に説教もせず、わが家の必要が選ばせた渡満であることを心得ていた点でも、私はやはり父が好きである。>

「私ははやり父が好きである」 という言葉に、(中国人に対する)「加害者の一員」としての日本人移民ということを肝に銘じながら、「それでも……」という澤地さんの思いがよくあらわれている、と思う。



この本について書きたいことはたくさんあるが、私が書きはじめると、例によって引用だらけになりそうなので、つまり、私には上手に内容を紹介できるだけの技量がないので、これぐらいにしておく。

ご興味のある方は、ぜひ本書を手にとって読んでいただきたい。


楊靖宇について、ネット検索してみつけたサイトを紹介しておく。


【参考サイト】

通化・楊靖宇列士陵園
(吉林省・延辺朝鮮族自治州 フォトギャラリー)

http://yb.gnk.cc/yb2/2005huijia/yangjingyu/sub.htm

中国近現代史観光ガイド
http://www.chinatravel-modernhistory.com/index.html
 >地域別観光>東北 通化 靖宇陵園
 http://www.chinatravel-modernhistory.com/tiiki/tohokud.html

「中国近現代史観光ガイド」は、よくできたサイトで参考になる。

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2009年3月 7日 (土)

【読】内村剛介さんの死

もう、ひと月以上も前のことだが、新聞の死亡記事で知った。
記事を切り抜いたつもりだったが、みつからない。

おくやみ:内村剛介氏 | 訃報ドットコム
http://fu-hou.com/2360

内村剛介 | blog 死亡欄
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Uchimura_ikiisogu_3内村剛介 『生き急ぐ スターリン獄の日本人』
 三省堂新書 1967年9月20日発行

内村剛介さんの著書は、『生き急ぐ スターリン獄の日本人』 ぐらいしか読んでいないが、気になる人ではあった。
満州で敗戦をむかえ、ソ連で長い抑留生活を体験した人として、ずっと気にかかっている。
『生き急ぐ』 を読んだ当時(今から30年も前だろうか)、私は「あの戦争」に今ほど関心がなかったせいか、この人のことを深く知ろうと思わなかった。

内村さんの戦争体験を知りたくなった。
ネットで、こんな本をみつけて、入手したのはつい先日のこと。
ボリュームのある内容なので、いつ読めるかわからないが。

Uchimura_gousuke_interview『内村剛介 ロングインタビュー
  生き急ぎ、感じせく――私の二十世紀』

 陶山幾朗/編集・構成
 恵雅堂出版 http://www.keigado.co.jp/
 2008年5月25日発行
 407ページ 2800円(税別)

気合いをいれて本気で格闘しないと読めそうもないが、魅力的な本ではある。

それにしても、こういう先達が世を去っていく、そんな年齢にじぶんが達したということなんだろう。

内村剛介 本名 内藤操。
1920年(大正9年)栃木県生まれ。1945年から56年までソ連に抑留。
2009年1月30日死去。88歳。

私の父よりもすこしだけ上の世代。
私の父は、海軍の飛行練習生だったと聞いているが(詳しいことを聞かないうちに亡くなってしまった)、出陣前に国内で敗戦を迎えた世代だった。
こんど、母に詳しく聞いてみようと思う。

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【読】読了 『わたしが生きた「昭和」』

はなしは前後する。
澤地久枝さんの 『わたしが生きた「昭和」』(岩波現代文庫)に、印象に残るいいエピソードがいくつかあった。

Sawachi_shouwaそのうちのひとつ。
「7 文化の闇」 という章に書かれている、祖母のはなし。

澤地さんの母方のおばあちゃんは、文字の読み書きができなかった。
慶応2年生まれで、苦労しながら二人のこども(澤地さんの母と叔父)を育てた。

久枝さん一家といっしょに満州(新京)に渡った後、久枝さんの叔父にあたる長男夫婦といっしょに朝鮮半島で暮らし、そこで昭和20年1月に亡くなっている。

<さて、無筆ではあったが、無学や無知ではなかった未識字の人。わたしの祖母もそういう一人である。(中略)/慶応二年(1866)、幕末生れの祖母は、敗戦の昭和二十年(1945)一月五日、老衰で亡くなった。息子一家の自決は知らずに死んだが、祖母の遺骨は行方知れずである。五十年前の死、目に一丁字なしの、七十九年間の人生であった。>

こういう記述もある。
澤地さんの温かい人柄が感じられる、いい文章だ。

<若かった日、「きりょうが悪い」と言われたというが、愛すべき小柄な老人になり、身仕舞いのいい人であった。しかし炎天下も酷寒もいとわず、戸外で働きぬいたためか、なめしたような皮膚は色黒い。体を資本として生きた人間らしいしっかりした手でもあった。>

<かくしておきたい一家の過去が祖母の一身にかくしようもなくそなわってしまっている。(中略)/吉林駅前の公園に長く座って涙をこぼしながら話したあと、祖母はついと立ちあがり、腰をのばすとしっかりした声で言った。/「久枝ちゃん、着物買ってあげよう」>

澤地久枝さんにとって、いいおばあちゃんだった。



この章を通勤電車の中で読んでいるうちに、私は、ずっと同居していた父方の祖母のことをおもいだしていた。

私の祖母も文字の読み書きができなかったが、それこそ「体を資本として生きた」、生きることの知恵を身につけた、りっぱな人だった。
初孫の私は、この祖母にことのほか可愛がられた。

澤地さんのおばあちゃんよりもだいぶん歳下ではあるが、私にはじぶんの祖母のおもいでとかぶさって、不覚にも涙がこぼれた。
本を読みながら涙を流すなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。

乾いたこころに、ひととき、あたたかい潤いが満ちて、感動とはこういうものだったな、ということを思いだした。



もうひとつのエピソードは、澤地さんのおとうさんのはなしだ。
(「2 写真が語るもの」「10 日本人難民」)

東京で大工仕事をしていた澤地さんの父親は、昭和9年(1934)、単身で満州国へ渡った。
東京では仕事がうまくいかず、一家はずいぶん貧乏をしていたから、満州に行けばなんとかなる、という思いがあったのではないか。

<昭和九年(1934)、父は単身で満州国に渡る。前景には、日本での生活がまったくゆきづまったという事情がある。昭和五年(あるいはその前年)以来の不景気に、父親は生活を投げる様子を見せた。母の内職などではおぎないきれない。道をはずれはしまいかと思案した母は、満州での生活を考える。「匪賊、馬賊の満州」とおそれられた知らない土地に対して、母にはほとんど警戒心はなかったように思われる。>

翌、昭和10年、家族を呼び寄せ、一家は敗戦まで満州で暮らすことになる。

<昭和十年の初夏、わが家の女三人は、門司から大連へ渡り、新京の父もとへ行くことになる。祖母の都屋七十歳、父三十一歳、母二十九歳、わたしは六歳だった。/青山墓地に中村の形ばかりの墓はあっても、その他にはなにひとつのこらない旅立ちである。祖母はひとまず新京で暮し、叔父が所帯をもったら朝鮮へ移ることに話はまとまっていたのであろう。>

澤地さんの父は満鉄で職を得て、そこそこの暮らしができるようになった。


しかし、10年後、一家は満州から追われることになる。
日本の敗戦。

<敗戦、しかも支配者として位置した異国での逆転した事態に、日本人はまったく馴れていない。「策なし」だった。さらに今思うと、それまでの生活のレベルが、敗戦体験の内容を左右している。/噂が流れる。根拠のない噂を、裏切られながらも幾度も幾度も信じた大人たち。とくに父。それは、十月に引揚げがはじまるという噂。十月が過ぎれば、年内には確実に日本へ帰れるという噂。>

たくさんの人たちが体験した、悲惨な引き揚げ。

澤地さんの父親が「敗戦を知ってすぐに指示した具体的なことは、乾飯(ほしいい)を作ること。日本へ帰りつくまでの非常食」だった。
これは、結果的に、引揚げ船で飢えをしのぐのに役立ったのだが、「乾飯以外では、父は気の毒なほど無力だった」。

<戦争は終っている。当時、その惨状は伝わっていなかったが、空襲で焦土となった日本へ帰ってゆくのである。空襲を経験しない吉林生活で手許にのこされているもの、換金性の高い、できれば小さくて軽いものをと今の私なら考える。/金銀宝石のたぐいに縁のないわが家であっても、引揚げ後の生活を少しでも助ける品々はあった。父をそして母を哀れと思うのは、すぐにも日本へ帰ることができると考えて生活の方針を決めたこと。なにに価値があるのかを見きわめる豊かな暮しの実績が乏しかったこと。生活者としての貧しい過去は、判断を鈍らせたし、換金性が高く財産価値のあるものを持たなかったことと結びついてもいる。/それにしても、無残だった。父母はそれまでの生活で築いたすべてを失った。>

澤地さん一家は、着物や、置時計、靴、父親の「道楽だったカメラとその付属品の数々」といった財産を、中国人に十把ひとからげで売り払ったり、知り合いの中国人に気前よく贈ったりして、手許には何も残らなかった。

発疹チフスが流行し、澤地さんの父も感染して臥せってしまう。
そんなある日。

<病み上りの危うい足どりで、父はソ連領事館(当時の呼び方)へ大工仕事に通いはじめる。そこでは、日本人の所持品がかなりの金額で売られ、ソ連軍士官(女性もいた)が凱旋みやげに買いまくっているという話だった。/和服なら総絞りの振袖や丸帯、毛皮、装身具あるいはカーペットなどなど、よくこれほどと思う品々が並んでいたという。父の心に、「早まった」という後悔が走った可能性がある。>

なんとも、せつないはなしである。


この部分を読みながら、私は、私の父親のことを思いだしていた。

北海道の地方小学校の教員をしながら、けっして余裕のある生活ではなかったけれど、父はレコードを買ったり、バイオリンを買って練習したりしていた。
カメラもそうで、二眼レフを買い、じぶんで現像していた。
父のおかげで、私たちの幼い頃の写真がたくさん残されている。

母親(私の祖母)と親子二人きりで苦労して育ち、ようやく師範学校を卒業、教員になった父。
そんな父のささやかな道楽(趣味)だったのだと、今ならわかる。

私は、澤地さんの父親と、じぶんの父を、いつのまにか重ねあわせながら読んでいた。

いい本だった。

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【読】図書館はありがたいな

ひさしぶりに晴れた。
自宅のリビング(というほどのものでもないが)にPCを持ってきて、ラジオを聴きながら書いている。

南向きの窓から、日ざしはまだ入ってこないが、暖房がいらない程度にはあたたかい。

近くの図書館へ、二日前にネット予約してあった本二冊を、受けとりにいってきた。
団地の桜の樹も、つぼみがふくらんできた。
春なんだなあ、とおもいながら帰ってきた。


Sawachi_manshuu_2Itsuki_jigazou澤地久枝 『もうひとつの満州』
 文藝春秋 1982年

五木寛之 『深夜の自画像』
 創樹社 1974年

どちらも、古書でなければ手にはいらない本だ。
文庫版も絶版になっている。
Amazonという手もあるが、これ以上、本を買って増やすのはためらわれる。

『深夜の自画像』のほうは、文春文庫を持っていたはずだが、探してもみつからない。
手放してしまったらしい。

このあいだまで読んでいた、平岡正明 『石原莞爾試論』(白川書院)に、この本のことが書かれていたので、読み返してみたくなったのだ。

<横浜で一つ席が空いた。腰を下ろし、会場で買った『ダイナミック空手』と、車中で読もうと持ってきた五木寛之『深夜の自画像』をとりだして、どちらから読みはじめようかと頁をめくってみた。奇妙な予感がした。うまく人には伝えられないが、俺はいま何か発見するぞという信号のようなもので、電車がポイントを高速で通過する際のカカカカというリズムのなかにその予感が浮上してきたことをおぼえている。>
(平岡正明 『石原莞爾試論』 1977年)

五木さんのエッセイ集が発売された時代の空気がよみがえってくるような文章だ。
私が青年だった頃、1970年代の空気。

借りてきた、五木寛之 『深夜の自画像』の目次をみていたら、あった、あった。
なにやら不思議な符合のように。

― 名著発掘=平岡正明著『ジャズ宣言』 昭和44年9月 ―
<はじめ明烏敏全集のことを書こうと思ったのだが、昨夜たまたま読んだこの新しい本の印象が余りに強烈だったので、まだ評価のさだまらないこの異色の批評集について書くことにした。
 『ジャズ宣言』という本のタイトルから、野間宏の『暗い絵』が書店の美術専門書の棚に並べられたというエピソードと同じ目に会うのではないかと、ぼくはこの本のために気遣っているところだ。
 相倉久人がいみじくも書いているように、平岡正明のこのエッセイの数々は、「ここに六十年代をジャズとして生きているひとりの男」の、六十年代に対する独立宣言であり、……>
(五木寛之『深夜の自画像』 1974年)

Hiraoka_jazz_sengen平岡正明 『ジャズ宣言』
 現代企画室 1990年 (復刻版)
  第一版 1969年 イザラ書房刊
  第二版 1979年 アディン書房刊

―日本語第三版への序 より―
<イザラ書房刊の初版(1969)に第三版の序文でつけくわえることは、勝利したジャズは芸術を独裁するというその一点である、なあんて一度言ってみたかった。言ってみるとやはり気持いい。
 むこうは『共産党宣言』だ。こっちは『ジャズ宣言』だ。宣言にかわりはない。>


まさに、なんちゃって、である。
1970年代――おもしろい時代だったな、と懐かしんだりして。


澤地さんの本 『もうひとつの満州』 は、タイトルにひかれた。

目次をみると、

「わが心の満州」 1981年7月10日、北京発の汽車は、翌日未明山海関に着いた
 ここから東北。35年ぶりに訪れる故郷・満州への旅が始まる

――という章ではじまり

「消された村」「通化の陵園」「終焉の地」「故山にして他山」「ひとつの歌」「旅の終り」

と続く。

そうか。
澤地さんが育った「満州」の再訪記なんだな。

こんなにいい本が新本で手に入らないというのも、妙なはなし。
(文春文庫 1986年版も絶版)
安野光雅さんの装幀、挿絵(扉スケッチ)がしゃれている本だ。


本を所有することにこだわらなければ、読みたい本は図書館を利用するのがいいんだな、とあらためて思う。
なかなか「所有欲」から自由になれないのがつらいけど。


【追記】  2009/3/7 夜
澤地久枝 『もうひとつの満州』 (Amazonより)
出版社/著者からの内容紹介
<日本人とにって、中国人にとって満州とは何だったか? 反満抗日ゲリラの領袖・楊靖宇の事跡を追いながら、著者自らの郷愁の思いを問い返す哀切な<旅>のすべて>

図書館から借りてきたこの本を読みはじめている。
たくさんの人の手に触れ、読まれた形跡が感じられる本だ。
シミや折り目の跡がたくさんあり、背綴じは剥がれかかっていて、ていねいに扱わなければ今にもバラバラになりそうなほど傷んでいる。
この一冊の本を、どれだけ多くの人たちが読みふけったことだろう。
まさに「手垢」のつくほど読み継がれた、こういう本を手にするのもいいものだ、と思う。

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2009年3月 5日 (木)

【読】わたしが生きた「昭和」 (澤地久枝)

そういえば、この人の本を読むのは初めてかもしれない。
ずっと長いあいだ、気になっていた人ではある。

Sawachi_shouwa澤地久枝 『わたしが生きた「昭和」』
 岩波書店(岩波現代文庫)
 2000/1/14  241ページ  800円(税別)
 (親本) 1995年 岩波書店刊

<貧しさゆえに一家で、「満州」に渡り過ごした少女時代、敗戦後の難民生活と家族の運命……。つねに声なき民の側に立って歴史を見つめ続けてきたノンフィクション作家が、今初めて自身の今日までの人生と家族の歴史に焦点をあて、「昭和」という時代の検証に挑む。作家活動の原点を示す記念碑的作品。> (本書カバー)


澤地さんは、1930年(昭和5年) 東京生まれ。
四歳のとき両親とともに「満州」に渡り、敗戦で引き揚げてきた。
まだ90ページほどしか読んでいないが、軍人だった叔父(お母さんの弟)一家は、昭和20年8月19日に朝鮮半島で自決したという。

自身の幼い頃からの体験記と、作家の冷静な目からの戦争批判が、バランスよく書かれていて好感が持てる。


次の一節には、ちょっと感動した。
名文である。

<歴史とは、大気のようでもあり、海のようでもある。一つの時代に生きていて、自分がどこにいるのか見定めることのできる人は稀であろう。現に隣りで、目前で、進行していることの本質が見えない。> (「四 有事の作為」 P.81)


この人は立派だな、と思う。

というのは、戦争指導者を鋭く批判しながらも、当時の大衆の多くが戦争を支持する心情をもっていたことを、きちんと押さえていることだ。
もちろん、兵役を喜んだ人はいなかったにちがいないが、戦勝に沸いたり、中国や朝鮮の人びとを蔑視する気持ちを疑わなかった大衆が、あの戦争を支えていたことも事実だろう。


被害者であり、加害者でもあった日本の大衆。
明治維新、開国、朝鮮半島への進出(侵略)、日露戦争を経て中国大陸へ。
大きな歴史の流れは、まさに、「大気のようでもあり、海のようでもある」。
大衆(他に適当なことばがないので、やむをえず使うが)は、その中で、流されていくだけだったのか。

戦後に生まれた私が「あの戦争」にこだわるのは、この疑問に自分で答えをみつけたいから、かもしれない。

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