カテゴリー「あの戦争」の82件の記事

2009年8月14日 (金)

【読】サハリン、アイヌ民族

この本がとてもよかった。

Tanaka_sakhalin『奇妙な時間(とき)が流れる島 サハリン』
 田中水絵 著  凱風社 1999/11/25発行
 262ページ  1800円(税別)

著者は「終戦のわずか三年後に生まれ」たというから、私よりも少し年上の「団塊の世代」のひとり。
一週間の予定でぶらっと訪れたサハリンに、その後六年にわたって何度も行っている。
現代のサハリンに住む人々との交流が、なんとも温かみがあって、いい。
コウイウヒトニワタシワナリタイ、と思うほどだ。

<ルーブル切り下げの一か月ほど前、私はユジノサハリンスク市のレーニン通りにある美術館、かつての「北海道拓殖銀行豊原支店」の石造りの建物の前に立っていた、かつて、樺太の経済を支えたこの銀行は、前年、つまり1977年11月、経営破綻から解体していた。日本中でバブルがはじけていた。/旧銀行の前で私は思った。この私もバブルだったと。私は終戦のわずか三年後に生まれ、日本の急速な経済的発展に乗っかり、共に年を重ねてきた。ぬくぬくと、ふわふわ生きてきた。戦争も、父が戦争に行ったことも、私には遠い遠い昔話だった。>

<サハリンに渡るたび、私は無意識に感じていた自分というバブルの空洞が少しずつ埋まっていくのを感じた。>

<サハリンから帰るたび、私は奇妙な時間(とき)が流れているのは、海峡のこちら側、日本の国だと感じる。この国に流れている時間は、決して消えない過去を忘れ、おかしな方向に流されているのではないか。>  (以上、あとがきより)

田中水絵さんには、興味ぶかい訳書がある。
読んでみたいが、値がはるので考え中。
この町の図書館にも置いていない。残念。

『沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史』
 アナトーリー・T・クージン (著)/ 岡 奈津子・ 田中 水絵 (訳)
 凱風社 1998/7月発行  317ページ 3500円(税別) 
Amazon
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/477362213X

出版社/著者からの内容紹介
ロシア極東の朝鮮人が、どのように中央アジアやカザフスタンへ強制移住させられたのか、日本によってサハリンに連れてこられた朝鮮人はなぜ、祖国に帰れなかったのか。サハリン在住の研究者がソ連時代の公文書をもとに著した過去の「真実」。 
I:ロシア極東の朝鮮人●1862~1937年(移住の始まり/法的問題/文化の発展 ほか)
II:サハリンの朝鮮人●1870~1992年(サハリン人として生きて/強制移住と弾圧 ほか)

e-honサイト
 http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000030426254&Action_id=121&Sza_id=E1

凱風社
 http://www.gaifu.co.jp/
 http://www.gaifu.co.jp/books/ISBN4-7736-2213-X.html


田中水絵さんの本に続いて、いま読んでいるのがこれ。

Chikappu_moritodaichi『森と大地の言い伝え』  チカップ美恵子 編著
 北海道新聞社 2005/3/3発行
 333ページ  1800円(税別)

チカップ美恵子さんは、アイヌ文様刺繍家。
山本多助さんの姪であり、母は伊賀ふでさん(山本多助さんの妹)。
この本は、「第一部 森に宿る言霊」 が山本多助さんの著作 『釧路アイヌの昔話と伝説』(第一巻、第二巻)から。
「第二部 故郷の記憶」 は伊賀ふでさんが晩年に執筆した子どもの頃の体験記をまとめたものだという。

ずいぶんまえに手に入れ、ずっと本棚でねむっていた本だが、山本多助さんが昭和11年に樺太を訪れたときのはなしが載っていたのこともあって、このところの私の中の 「樺太熱」 の延長で読みはじめた。
山本多助さんの文章がいい。
アイヌ民族の歴史がよくわかる好著。


このほか、最近になって古本屋でみつけた本がある。

Ooe_shokuminchi『日本植民地探訪』  大江志乃夫 著
 新潮選書  1998/7/30発行
 492ページ  1600円(税別)

サハリン、南洋諸島、関東州、台湾、韓国、北朝鮮と、かつて日本の植民地だった土地を探訪した記録である。
中身が濃くボリュームもあるため、読むのはたいへんそうだが、いつか読んでみよう。
大江志乃夫さんの本は、ずいぶん前に一冊だけ読んだことがある(日露戦争に出征した兵士たちの手紙のはなし)。
信頼できる人だと私は思う。

田中水絵さんの本に何度もでてきた逸話だが、この大江さんの本も、岡田嘉子と杉本良吉の北緯五十度線越境(ソ連への亡命)の話からはじまっているのが興味ぶかい。


Yamashita_ezo_daimyou『北海道の商人大名』  山下昌也 著
 グラフ社  2009/4/5発行
 278ページ  1400円(税別)

今日の昼休み、職場の近くにある BOOK OFF で目にとまった。
題名にひかれて手にとってみると、なかなかおもしろそうなのだ。
江戸時代の松前藩の話だ。
とうぜんのことだが、アイヌ民族との確執についても詳しく書かれている。

松前藩は、他の藩とちがって米を基盤にしない大名だった。
当時の蝦夷地は米がとれなかったため、「○○万石」という石高がなく、米の代わりに商売で得た利益で藩を経営していたのである。
グラフ社という出版社ははじめて目にしたが、なかなかしっかりした内容だと思う。

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2009年8月 7日 (金)

【読】樺太、敗戦直後

ちょうど去年の今頃、買ってあった本を、ようやく読みはじめた。

【読】さらに二冊  2008年8月21日 (木)
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_8880.html

Eiketsu_no_asa『永訣の朝 樺太に散った九人の逓信乙女』
 川嶋康男 著  河出文庫
 2008/8/10初版発行 244ページ 720円(税別)

親本
 『「九人の乙女」はなぜ死んだか』 (恒友出版、1998年)
 『九人の乙女一瞬の夏』 (響文社、2003年)

そういえば、昨年の今頃だったろうか、日本テレビでドラマ化、放映されたのだった。
私は見ていないけれど。

【参考サイト】 2009/8/9追記
 日本テレビ
  http://www.ntv.co.jp/
 霧の火~樺太・真岡郵便局に散った九人の乙女たち
  http://www.ntv.co.jp/kyu-otome/

<終戦まもない昭和20年8月20日の朝、南樺太・真岡郵便局に勤務する、九人の若い女性電話交換手が自決した。/ソ連軍の進駐がどんなものなのか予測不可能な状況下、通信業務の使命を全うする中で、何が彼女らを死に追いやったのか……。/関係者への徹底取材で、当時の乙女らの日常と、悲劇の真相を追跡するドキュメント。> (本書帯より)

徹底した取材で、美談仕立てではなく歴史の真実を追求している――こう言えばいいのか。
十代、二十代の若い電話交換手の写真が本文中の随所に掲載されている。
彼女たちの生きた姿が目にうかぶような、クールな筆致で書かれた好著である。

70ページほど読んだところ。


もう一冊、現代の樺太・サハリンが舞台の本を手に入れた。

Tanaka_sakhalin『奇妙な時間(とき)が流れる島 サハリン』
 田中水絵 著  凱風社
 1999/11/25初版発行 262ページ 1800円(税別)

上の本を読み終えたら、読んでみよう。
現在のサハリンの姿が見えてきそうな本だ。








Amazon
 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4773624027

<長い間のロシア暮らしの経験をきっかけに、著者は1992年から98年にかけて何度もサハリン(旧樺太)を訪問、その機会にサハリンに住む多くの人々(民族)と交流を重ねる。本書は、東アジアの近現代史を機軸にして、著者自身が歴史認識を深めていく過程を、悲喜こもごものエピソードをまじえて綴った紀行書。サハリンの過去と現在を知るには、好個のテキストでもある。>

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2009年3月16日 (月)

【読】『松本清張への召集令状』(続)

私にしてはめずらしく、二日目で全体の三分の二ほど、新書の220ページまで読んでしまった。
それほど、ぐいぐい読ませる内容なのだ。

Seichou_shoushuu『松本清張への召集令状』
 森 史朗 著  文春新書 624
 2008年3月20日発行  890円(税別) 317ページ

著者は、文藝春秋で松本清張の担当編集者だった人。
清張さんへの愛情が感じられる、なんとも心優しい文章だ。

<……この小文は松本清張論といった大上段に振りかぶったシロモノではない。ごく私的な、私が清張担当として浜田山に通った頃の私的メモといった小論にすぎないことを、あらかじめお断りしておきたい。/それゆえに、文中では筆者が気軽に「清張さん」と呼びかけることをお許しいただきたい。>

<これには、わけがある。/担当編集者のだれもが「清張さん」と呼び、「松本先生」という固苦しさでもなく、「松本さん」というよそよそしさでもない。ましてや、「松本清張先生」という格式ばった言いかたでもない。それは、一般読者にとっても同じことのようだ。>

引用が長くなったが、これは本書の「まえがき」に書かれている文章の一部で、続いてこんなエピソードが紹介されている。

筆者が浜田山の清張宅を訪ねた折のこと。
タクシーの運転手に行き先をつげると、「ああ、清張さんの家ですね」と気軽に案内してくれたという。

本書に掲載されている写真をみると、なかなかの豪邸なのだが、このエピソードだけで私は「清張さん」が好きになってしまった。


第一章 松本清張への召集令状
第二章 最初の軍隊生活
第三章 ある日の松本清張
第四章 孤高の作家
第五章 召集令状とは何だったか
第六章 松本衛生兵の真実


こういう構成。
第三章、四章は、松本清張の軍隊生活からいったん離れて、その人となりが描かれている。

ざっと、目次をあげておこう。
内容紹介は私の手に余るので。

第三章
 I 浜田山通いの日々
    清張古代史の挑戦/通説をくつがえす/「陸行水行」ブーム/
    「風雪断碑」のモデル/若き学者妻の死
 II 学会との対立
    モデルと実像/『二粒の籾』/学会へのいらだち/井上光貞教授との確執/
    清張史論について
第四章
 I  作家への道
    『文豪』三部作/清張さんとの取材行/小説の語り口/山田美紗の「愛欲日記]/
    「筆は一本、箸は二本」/『九州文学』を飛び出す
 II 痛烈な文壇批判
    文壇ぎらい/大佛次郎の激励/水上勉と松本清張/タイトルの秘密/
    井上ひさしへの手紙


今日はちょうど、この第四章まで読んだのだが、後輩作家の水上勉や井上ひさしに対する清張さんのあたたかさを示すエピソードがよかった。


その一例。
『手鎖心中』 で直木賞を受賞した井上ひさしへの、清張さんの手紙。
(清張さんは、このときの直木賞選考委員で、『手鎖心中』を強く推した。井上ひさしからの礼状への返事)

<これから忙しくなると思いますが、作品の質と健康のバランスに気をつけて下さい。>

<とにかく忙しさに挑戦していくような気魄は持つべきですが、なにぶんにもトンネルの暗黒に似ているので、ときには孤独感、絶望感にも捉われることがあるでしょうが、こういう自分との闘いも生じてきます。空洞内の雑音に迷わされることなく、自分の磁石を持っていて下さい。>

<自己の才能についてあらゆる可能性をさぐるのは、結局自分だけにしかできないことです。他の者(批評家を含めて)には判りません。前にかえりますが、ほかの人の言うことに謙虚に耳を傾ける態度はもとより必要ですが、納得のいかないものは無視して進んで下さい。当面の瑣末な「悪評」には全然気にしないことです。>


井上ひさしは、著者にこの手紙を見せたあと、こう言ったという。

<……井上さんは、「ちょっと、これを見て下さいよ」と手紙のあて先を指でしめした。流れるようないつもの文字で、堂々と宛名が書かれてあった。
 「井上ひろし様」――。>  (太字部分は、原文では傍点)

いい話である。
私は、こういう人が好きだ。

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2009年3月15日 (日)

【読】『松本清張への召集令状』

ずいぶん前のことだが、一度だけ、松本清張さんを見かけたことがある。
場所は、京王井の頭線の渋谷駅ホーム。

私たち夫婦は、何かの用で渋谷へ出るため、吉祥寺から井の頭線の電車に乗った。
終点の渋谷駅でホームに降りたところ、同じ電車から降りて憮然とした表情で改札口へ向かう清張さんを見たのだった。
まさか、と思ったが、大きな下唇が特徴のあの顔は、(失礼ながら)どう見ても清張さんそのものだった。

思ったよりも小柄な人だった。
井の頭線沿線(浜田山)にお住まいだったというから、きっと、渋谷に用があって電車ででかけたのかとも思う。

ただそれだけのことだが、私には松本清張という大作家が身近に感じられ、いつまでも記憶に残るできごとだった。


松本清張の作品を読んだことは、ほとんどない。
有名な 『点と線』 すら読んだかどうか記憶にない。

「あの戦争」 について書かれたたくさんの本を読んだり買ったりしているうちに、こんな本にであった。

Seichou_shoushuu『松本清張への召集令状』
 森 史朗 著  文春新書 624
 2008年3月20日発行  890円(税別)
 317ページ

<一家七人を支える中年版下職人に、意外な赤紙が届いた。その裏事情とは? 後の作品に託した叫びとは? 担当編集者時代の私的メモをまじえ、戦争が残した深い傷に迫る究極の作家論。>


松本清張が召集令状を受け取ったのは、昭和18年(1943年)10月、三十三歳のときだった。
昭和5年、二十歳で徴兵検査を受け、第二乙種補充兵だったから、すぐに召集されることはなかった。
それが、結婚して両親と妻、子供三人の職人暮らし(印刷職人)をしていた中年男に、教育召集がかかったのである。
期間は三ヵ月。
乙種補充兵を教育するための召集といっても、現役の兵役生活とさして変わらない。
初年兵がいじめられるのが、当時の日本陸軍だった。

その後、昭和19年6月に二度目の召集令状がくる。
本格的な 「赤紙」 である。
戦局が絶望的な状況になっていた時期だ。

―― とまあ、ここまでしか読んでいないが、ずいぶんと苦労をした人だったのだな、と知った。


もう一冊、同じ文春新書のこんな本も買ってみた。

Seichou_taidan_showashi『対談 昭和史発掘』
 松本清張  文春新書 677
 2009年1月20日発行  840円(税別)
 284ページ

1975年1月号の『文藝春秋』に掲載された、城山三郎、五味川純平、鶴見俊輔との対談(第一部)と、「昭和史発掘 番外編」(第二部)から構成される。
すこぶる興味ぶかい内容だ。

松本清張の 『昭和史発掘』 をいつか読んでみようと思う。



【参考】 Wikipedia 松本清張 より

苦渋の前半生
1924年、板櫃尋常高等小学校を卒業し、川北電気株式会社小倉出張所の給仕となり、文芸書を読むようになった。しばらくして家業が安定したため、祖母とともに間借住まいをする。このころから春陽堂文庫や新潮社の文芸書を読み、特に芥川龍之介を好んだ。だが1927年、出張所が閉鎖され失職。小倉市の高崎印刷所に石版印刷の見習いとして採用され、さらに別の印刷所に見習いとして入る。1929年、仲間がプロレタリア文芸雑誌を購読していたため、「アカの容疑」で小倉刑務所に留置され、父によって本を燃やされ読書を禁じられた。1931年に印刷所がつぶれ、高崎印刷所に戻ったが、嶋井オフセット印刷所で見習いとなり、その後みたび高崎印刷所に戻り、内田ナヲと結婚。だが、印刷所の主人が死去したために将来に不安を感じ、1937年から自営。朝日新聞西部支社(現・西部本社)の広告部意匠係臨時嘱託となる。

1943年に正式に社員となるが、教育召集のため久留米第56師団歩兵第148連隊に入る。翌年6月に転属となり、衛生兵として勤務。朝鮮に渡り竜山に駐屯、一等兵となった。1945年に転属、全羅北道井邑に移り、6月に衛生上等兵に進級。終戦は同所で迎えた。帰国後は朝日新聞社に復帰。図案家としても活躍し、観光ポスターコンクールに応募していた。

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2009年3月10日 (火)

【読】「生きてたら、…オモ…シロイ」

このタイトルは、赤塚不二夫の自叙伝に載っていたセリフである。


Akatsuka_koredeiinoda『これでいいのだ ―赤塚不二夫自叙伝―』
 赤塚不二夫  文春文庫 2008/10/10発行
 223ページ 571円(税別)

 親本
  1993年8月 日本放送出版協会刊
  2002年12月 日本図書刊行センター刊


きのうの昼休み、勤務先近くのBOOK OFFで入手。
ちょうど澤地久枝さんの本がおわるところだったので、帰りの電車・バスの中、そして今日の通勤途上で、この一冊を読みおえてしまった。

赤塚不二夫が好きだった。
惜しいことに、昨年亡くなってしまったけれど。
告別式で、タモリが感動的な弔辞をささげていた。
この本にも、タモリとの出会いが書かれていて、タモリ(森田一義)という才能を発掘したのが赤塚不二夫だったことを改めて思いだした。


赤塚不二夫は、旧満州国で昭和10年(1935年)に生まれている。

父親は、満州国で抗日ゲリラと対峙する「古北口国境警察隊」の特務警察官だったが、その前は、新潟県新発田の16連隊で憲兵をしていた。
満州に渡ってから、昭和8年、「上官の理不尽ないい分が我慢できず」憲兵隊をやめて特務警察官になった。
この父親の結婚までのいきさつなども描かれている。

この自叙伝によると、赤塚不二夫の父親は、「反満、反日の中国人ゲリラと、目に見えない最前線で命を張って渡り合う」職務をこなしながらも、理不尽なことはせず、中国人から慕われていたという。


こんなエピソードがある。

<ある朝、おやじは突然何かを思い出して部下に命じた。
「おう、忘れとったぞ、やつを出してやれ!」
3か月前、最後まで口を割らない一人のパールー(註 八路軍=中国共産党軍の兵士)を地下牢に放り込んだまま、おやじは仕事に追われ彼のことをすっかり忘れていたのだった。>

<連れてこられた中国人は、憔悴しきってはいたが眼光だけは鋭かった。彼は処刑かと思っただろう。だが、やがてそうではなさそうだということに気づく。>

<おやじは彼を家に招待し、「悪かったなお前を忘れていた」と詫びたうえ、あったかいご飯を食べさせた。食べ終わると新しい中国服を着せ、何十円かを持たせて町へ帰してやった。>

<「シェ、シェ(謝々)」 彼は何度も振り返っては頭を下げ、町のほうへ消えて行った。>

 ― 以上 「戦中編(満洲1) P.15 ―  (一部、原文の改行を変えて引用した)



また、こんなことも書かれている。

赤塚不二夫の父親は、家族に対して、「中国人から絶対ものをもらってはいけない!」と厳命していた。

<当時、日本人の大人も子供も中国人に対して多かれ少なかれ優越感を持ち、こちらが欲しいものは相手の気持と関係なくもらって当然、という風潮があった。>

<一方、おやじの部下である〝満系〟の人たちや利害関係を意識する中国人は、なにかといっては留守宅につけ届けをしようとした。生来、潔癖なおやじはこれを極端にきらったのである。>

<おやじの首には当時の金で2千円の賞金がかかっていた。当時としては途方もない大金である。べつに護衛に守られていたわけではないおやじが、裏切りや密告によってつかまる可能性はそれほど低くなかったはずだ。 (中略) だが村人は誰もおやじを敵に売り渡さなかった。こういうわけで、おやじだけでなく赤塚家も襲撃されることがなかった。>

 ― 以上 「戦中編(満洲1) P.16-18 ―


こういう父親だったから、赤塚不二夫一家(父は抑留され、母と不二夫と弟、妹二人の母子五人)は、敗戦後の引き揚げ時にも、ずいぶんと中国人からよくしてもらったという。

具体的なエピソードもたくさん書かれていて、とても興味ぶかかった。


ところで、今回の記事の題名だが――。

敗戦後、シベリアでの四年間の抑留生活を終えて、昭和24年に帰国した父親は、郷里で苦労し(生活のための借金苦)、結核で長い闘病生活をしていたが、奇跡的に治癒。
しかし、妻(赤塚不二夫の母)を事故で亡くす(昭和45年)。

昭和53年、その父親が癌で亡くなるときの話。

父親の首筋にできたリンパ腺ガンのはれものが日増しに大きくなり、手術もできない状態になって、あと数日しか生きられないと医者から言われた赤塚不二夫。

「おやじ、長生きしたいか?」
と彼が聞くと、病床の父親は、いよいよ息苦しくなってきた喉から、声をしぼり出すようにして答えた。
「ああ、したいなァ」

<その言葉に思いがけないほどの執着が感じられて、ぼくは思わず問い返した。
 「長生きして、どうするんだ?」
 「生きてたら、……オモ……シロイ」
 晩年になって、もう一度人生を取りもどしたおやじは、毎日、生きているために新しく味わえる人生の喜びを噛みしめていたのだ。そしてもっと生きたいと思い続けていたのだ。>

 ― 以上 「戦後編2 (東京) P.207 ―



母親が亡くなるときの場面も、胸にしみるものだった。

また、五人いた弟妹のうち、末の妹二人を幼いころに亡くし、弟の一人とは、やはり幼い頃に生き別れた(養子にいった)、そんな数々のエピソードからも、彼のあたたかい気持ちが感じられる。

満州での幼年時代。
中国からの引き揚げ。
わんぱくだった少年時代のおもいで。
(彼のギャグ漫画の主人公たちは、父親や、わんぱく仲間がモデルになっている)
帰国後の貧乏な生活。
父の帰国。
東京に出てからの売れない漫画家修行時代(トキワ荘時代)。
そして、突然のヒットで売れっ子漫画家に。
唐十郎、大島渚、佐藤慶、李麗仙(李礼仙)、山下洋輔、篠山紀信、野坂昭如らとの交流。
自身の結婚、離婚。
そして、父母や弟妹のこと。


<9年前、かあちゃんが臨終の時、ぼくの「かあちゃーん!」の一声でかちゃんを幽冥の世界から呼びもどした。今度は「もういいよな!」でおやじを冥土へ押しやったことになる。>

<ぼくは死に際に、誰かに呼びもどされるのかな、それとももういいだろうと念を押されていくのかな……。>

 ― P.209 ―


赤塚不二夫(本名 赤塚藤雄)。
平成20年(2008年)8月2日、肺炎により永眠。享年72歳。
その六年前、脳内出血で緊急手術。
一命を取り留めるも、以後、病院で眠り続け、意識の戻らないまま亡くなった。
眞知子夫人(二度目の妻)が平成18年7月12日に亡くなったことも、江守登茂子・前夫人が三日前に亡くなったことも知らずに、彼は逝った。
夫人と前夫人は、とても仲が良かったという。

 ― 巻末 「解説にかえて」 武居俊樹 より抜粋、加筆 ―


赤塚不二夫のマゴコロが伝わってくる、いい本だった。

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2009年3月 9日 (月)

【読】読了 『もうひとつの満州』(澤地久枝)

まれにみる良書だった。
私にしてはめずらしく、土曜の夜から日曜日をはさんで、今日、月曜日の通勤電車の中で早くも読了。
図書館に返さなくてはいけないと思うから、よけい集中して読んだということもあるが、それだけ魅力的な内容だったのだ。

「あの戦争」と「満州」を知ろうとする人には、ぜひお勧めしたい本だ。

迷った末、Amazonで中古を購入することにした。
本体95円、送料340円。
Amazonには、文庫版を含めてたくさん出ている。


Sawachi_manshuu澤地久枝 『もうひとつの満州』
 文藝春秋 1982/6/1 発行
 292ページ 1000円

楊靖宇という「反満抗日」の士(1940年没)を追って、旧満州(中国東北地方)を訪れた著者の、ノンフィクションである。

楊靖宇という人物の情報は少ない。
Wikipediaにもこの人の経歴は載っていなかった。
あるサイトによると、こうだ。


鉄の戦士―楊靖宇
http://japanese.cri.cn/81/2005/07/19/1@45230.htm
より転載(改行を加えた)

 楊靖宇は、東北抗日連合軍の創設者であり指導者であった。
 本名は馬尚徳、1905年、河南省確山県に生まれる。
 学生時代は、反帝国主義愛国運動に積極的に参加。
 1926年、中国共産主義青年団に入団。
 1927年4月、確山の農民暴動において指導者として参与。同6月、中国共産党に入党。
 1931年「9・18」事変ののち、中共ハルビン市道外区委書記、市委書記、満州省委軍委代理書記を兼任。1932年秋、南満州に派遣され、中国工農紅軍第32軍南満遊撃隊を編成。政治委員となり、盤石紅を遊撃根拠地の中心とした。1939年、東南満地区における秋冬期反「討伐」作戦では、部隊を率いて濛江一帯転戦。最後はただ一人、5昼夜にわたって敵と渡り合った。
 彼は想像を絶するほどの持久力で、弾が尽きるまで戦い続け、1940年2月23日、吉林濛江三道庶?子にて壮絶な最期を遂げた。残忍な日本軍によって頭をかち割られ、腹も切り裂かれていた。彼の胃には枯れ草や木の皮、綿の実が入っているばかりで、食糧を口にしていなかったことが分かった。
 彼を讃え、1946年、東北民主連合軍通化支隊は「楊靖宇支隊」と改名。濛江県も「靖宇県」となった。


(註)
 「頭をかち割られ」というのは、澤地さんのこの本から得られる情報とは違っている。
 楊靖宇の首は切られ、みせしめのために「さらしもの」にされたのは事実。
 また、「腹も切り裂かれていた」というのも事実だが、当時、日本軍は抗日戦士を捕えると、胃の中味を調べて彼らの食生活を知り、討伐のための情報源としたという。


澤地さんのこの本には、ここで紹介したい「いい話」がたくさんある。
その中から。

澤地さんのお父さんに触れた部分。
(「五 故山にして他山」 P.214)
少し長い引用になるが、澤地さんがお父さんによせるあたたかい気持ちが伝わってくる。

<父は新京郵便局の三年間に中国語を学び、設計の図面をひくカラス口の使い方も習熟して、満鉄の試験を受けた。昭和十二年四月に採用になっている。三十二歳になったばかりだった。
 この九月、満鉄は新京鉄路局を吉林に移転し、吉林鉄路局と改称している。そのために新規採用の枠がひろげられたということが、父にとってのチャンスであったのであろう。しかしけっこう二枚目で、貧乏はしても粋人であった父の努力は買ってやりたい。人生の階段を半段でものぼることがどんなに大変か、私はこの父から教えられたのだから。建国の理想などを私に説教もせず、わが家の必要が選ばせた渡満であることを心得ていた点でも、私はやはり父が好きである。>

「私ははやり父が好きである」 という言葉に、(中国人に対する)「加害者の一員」としての日本人移民ということを肝に銘じながら、「それでも……」という澤地さんの思いがよくあらわれている、と思う。



この本について書きたいことはたくさんあるが、私が書きはじめると、例によって引用だらけになりそうなので、つまり、私には上手に内容を紹介できるだけの技量がないので、これぐらいにしておく。

ご興味のある方は、ぜひ本書を手にとって読んでいただきたい。


楊靖宇について、ネット検索してみつけたサイトを紹介しておく。


【参考サイト】

通化・楊靖宇列士陵園
(吉林省・延辺朝鮮族自治州 フォトギャラリー)

http://yb.gnk.cc/yb2/2005huijia/yangjingyu/sub.htm

中国近現代史観光ガイド
http://www.chinatravel-modernhistory.com/index.html
 >地域別観光>東北 通化 靖宇陵園
 http://www.chinatravel-modernhistory.com/tiiki/tohokud.html

「中国近現代史観光ガイド」は、よくできたサイトで参考になる。

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2009年3月 7日 (土)

【読】内村剛介さんの死

もう、ひと月以上も前のことだが、新聞の死亡記事で知った。
記事を切り抜いたつもりだったが、みつからない。

おくやみ:内村剛介氏 | 訃報ドットコム
http://fu-hou.com/2360

内村剛介 | blog 死亡欄
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Uchimura_ikiisogu_3内村剛介 『生き急ぐ スターリン獄の日本人』
 三省堂新書 1967年9月20日発行

内村剛介さんの著書は、『生き急ぐ スターリン獄の日本人』 ぐらいしか読んでいないが、気になる人ではあった。
満州で敗戦をむかえ、ソ連で長い抑留生活を体験した人として、ずっと気にかかっている。
『生き急ぐ』 を読んだ当時(今から30年も前だろうか)、私は「あの戦争」に今ほど関心がなかったせいか、この人のことを深く知ろうと思わなかった。

内村さんの戦争体験を知りたくなった。
ネットで、こんな本をみつけて、入手したのはつい先日のこと。
ボリュームのある内容なので、いつ読めるかわからないが。

Uchimura_gousuke_interview『内村剛介 ロングインタビュー
  生き急ぎ、感じせく――私の二十世紀』

 陶山幾朗/編集・構成
 恵雅堂出版 http://www.keigado.co.jp/
 2008年5月25日発行
 407ページ 2800円(税別)

気合いをいれて本気で格闘しないと読めそうもないが、魅力的な本ではある。

それにしても、こういう先達が世を去っていく、そんな年齢にじぶんが達したということなんだろう。

内村剛介 本名 内藤操。
1920年(大正9年)栃木県生まれ。1945年から56年までソ連に抑留。
2009年1月30日死去。88歳。

私の父よりもすこしだけ上の世代。
私の父は、海軍の飛行練習生だったと聞いているが(詳しいことを聞かないうちに亡くなってしまった)、出陣前に国内で敗戦を迎えた世代だった。
こんど、母に詳しく聞いてみようと思う。

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【読】読了 『わたしが生きた「昭和」』

はなしは前後する。
澤地久枝さんの 『わたしが生きた「昭和」』(岩波現代文庫)に、印象に残るいいエピソードがいくつかあった。

Sawachi_shouwaそのうちのひとつ。
「7 文化の闇」 という章に書かれている、祖母のはなし。

澤地さんの母方のおばあちゃんは、文字の読み書きができなかった。
慶応2年生まれで、苦労しながら二人のこども(澤地さんの母と叔父)を育てた。

久枝さん一家といっしょに満州(新京)に渡った後、久枝さんの叔父にあたる長男夫婦といっしょに朝鮮半島で暮らし、そこで昭和20年1月に亡くなっている。

<さて、無筆ではあったが、無学や無知ではなかった未識字の人。わたしの祖母もそういう一人である。(中略)/慶応二年(1866)、幕末生れの祖母は、敗戦の昭和二十年(1945)一月五日、老衰で亡くなった。息子一家の自決は知らずに死んだが、祖母の遺骨は行方知れずである。五十年前の死、目に一丁字なしの、七十九年間の人生であった。>

こういう記述もある。
澤地さんの温かい人柄が感じられる、いい文章だ。

<若かった日、「きりょうが悪い」と言われたというが、愛すべき小柄な老人になり、身仕舞いのいい人であった。しかし炎天下も酷寒もいとわず、戸外で働きぬいたためか、なめしたような皮膚は色黒い。体を資本として生きた人間らしいしっかりした手でもあった。>

<かくしておきたい一家の過去が祖母の一身にかくしようもなくそなわってしまっている。(中略)/吉林駅前の公園に長く座って涙をこぼしながら話したあと、祖母はついと立ちあがり、腰をのばすとしっかりした声で言った。/「久枝ちゃん、着物買ってあげよう」>

澤地久枝さんにとって、いいおばあちゃんだった。



この章を通勤電車の中で読んでいるうちに、私は、ずっと同居していた父方の祖母のことをおもいだしていた。

私の祖母も文字の読み書きができなかったが、それこそ「体を資本として生きた」、生きることの知恵を身につけた、りっぱな人だった。
初孫の私は、この祖母にことのほか可愛がられた。

澤地さんのおばあちゃんよりもだいぶん歳下ではあるが、私にはじぶんの祖母のおもいでとかぶさって、不覚にも涙がこぼれた。
本を読みながら涙を流すなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。

乾いたこころに、ひととき、あたたかい潤いが満ちて、感動とはこういうものだったな、ということを思いだした。



もうひとつのエピソードは、澤地さんのおとうさんのはなしだ。
(「2 写真が語るもの」「10 日本人難民」)

東京で大工仕事をしていた澤地さんの父親は、昭和9年(1934)、単身で満州国へ渡った。
東京では仕事がうまくいかず、一家はずいぶん貧乏をしていたから、満州に行けばなんとかなる、という思いがあったのではないか。

<昭和九年(1934)、父は単身で満州国に渡る。前景には、日本での生活がまったくゆきづまったという事情がある。昭和五年(あるいはその前年)以来の不景気に、父親は生活を投げる様子を見せた。母の内職などではおぎないきれない。道をはずれはしまいかと思案した母は、満州での生活を考える。「匪賊、馬賊の満州」とおそれられた知らない土地に対して、母にはほとんど警戒心はなかったように思われる。>

翌、昭和10年、家族を呼び寄せ、一家は敗戦まで満州で暮らすことになる。

<昭和十年の初夏、わが家の女三人は、門司から大連へ渡り、新京の父もとへ行くことになる。祖母の都屋七十歳、父三十一歳、母二十九歳、わたしは六歳だった。/青山墓地に中村の形ばかりの墓はあっても、その他にはなにひとつのこらない旅立ちである。祖母はひとまず新京で暮し、叔父が所帯をもったら朝鮮へ移ることに話はまとまっていたのであろう。>

澤地さんの父は満鉄で職を得て、そこそこの暮らしができるようになった。


しかし、10年後、一家は満州から追われることになる。
日本の敗戦。

<敗戦、しかも支配者として位置した異国での逆転した事態に、日本人はまったく馴れていない。「策なし」だった。さらに今思うと、それまでの生活のレベルが、敗戦体験の内容を左右している。/噂が流れる。根拠のない噂を、裏切られながらも幾度も幾度も信じた大人たち。とくに父。それは、十月に引揚げがはじまるという噂。十月が過ぎれば、年内には確実に日本へ帰れるという噂。>

たくさんの人たちが体験した、悲惨な引き揚げ。

澤地さんの父親が「敗戦を知ってすぐに指示した具体的なことは、乾飯(ほしいい)を作ること。日本へ帰りつくまでの非常食」だった。
これは、結果的に、引揚げ船で飢えをしのぐのに役立ったのだが、「乾飯以外では、父は気の毒なほど無力だった」。

<戦争は終っている。当時、その惨状は伝わっていなかったが、空襲で焦土となった日本へ帰ってゆくのである。空襲を経験しない吉林生活で手許にのこされているもの、換金性の高い、できれば小さくて軽いものをと今の私なら考える。/金銀宝石のたぐいに縁のないわが家であっても、引揚げ後の生活を少しでも助ける品々はあった。父をそして母を哀れと思うのは、すぐにも日本へ帰ることができると考えて生活の方針を決めたこと。なにに価値があるのかを見きわめる豊かな暮しの実績が乏しかったこと。生活者としての貧しい過去は、判断を鈍らせたし、換金性が高く財産価値のあるものを持たなかったことと結びついてもいる。/それにしても、無残だった。父母はそれまでの生活で築いたすべてを失った。>

澤地さん一家は、着物や、置時計、靴、父親の「道楽だったカメラとその付属品の数々」といった財産を、中国人に十把ひとからげで売り払ったり、知り合いの中国人に気前よく贈ったりして、手許には何も残らなかった。

発疹チフスが流行し、澤地さんの父も感染して臥せってしまう。
そんなある日。

<病み上りの危うい足どりで、父はソ連領事館(当時の呼び方)へ大工仕事に通いはじめる。そこでは、日本人の所持品がかなりの金額で売られ、ソ連軍士官(女性もいた)が凱旋みやげに買いまくっているという話だった。/和服なら総絞りの振袖や丸帯、毛皮、装身具あるいはカーペットなどなど、よくこれほどと思う品々が並んでいたという。父の心に、「早まった」という後悔が走った可能性がある。>

なんとも、せつないはなしである。


この部分を読みながら、私は、私の父親のことを思いだしていた。

北海道の地方小学校の教員をしながら、けっして余裕のある生活ではなかったけれど、父はレコードを買ったり、バイオリンを買って練習したりしていた。
カメラもそうで、二眼レフを買い、じぶんで現像していた。
父のおかげで、私たちの幼い頃の写真がたくさん残されている。

母親(私の祖母)と親子二人きりで苦労して育ち、ようやく師範学校を卒業、教員になった父。
そんな父のささやかな道楽(趣味)だったのだと、今ならわかる。

私は、澤地さんの父親と、じぶんの父を、いつのまにか重ねあわせながら読んでいた。

いい本だった。

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【読】図書館はありがたいな

ひさしぶりに晴れた。
自宅のリビング(というほどのものでもないが)にPCを持ってきて、ラジオを聴きながら書いている。

南向きの窓から、日ざしはまだ入ってこないが、暖房がいらない程度にはあたたかい。

近くの図書館へ、二日前にネット予約してあった本二冊を、受けとりにいってきた。
団地の桜の樹も、つぼみがふくらんできた。
春なんだなあ、とおもいながら帰ってきた。


Sawachi_manshuu_2Itsuki_jigazou澤地久枝 『もうひとつの満州』
 文藝春秋 1982年

五木寛之 『深夜の自画像』
 創樹社 1974年

どちらも、古書でなければ手にはいらない本だ。
文庫版も絶版になっている。
Amazonという手もあるが、これ以上、本を買って増やすのはためらわれる。

『深夜の自画像』のほうは、文春文庫を持っていたはずだが、探してもみつからない。
手放してしまったらしい。

このあいだまで読んでいた、平岡正明 『石原莞爾試論』(白川書院)に、この本のことが書かれていたので、読み返してみたくなったのだ。

<横浜で一つ席が空いた。腰を下ろし、会場で買った『ダイナミック空手』と、車中で読もうと持ってきた五木寛之『深夜の自画像』をとりだして、どちらから読みはじめようかと頁をめくってみた。奇妙な予感がした。うまく人には伝えられないが、俺はいま何か発見するぞという信号のようなもので、電車がポイントを高速で通過する際のカカカカというリズムのなかにその予感が浮上してきたことをおぼえている。>
(平岡正明 『石原莞爾試論』 1977年)

五木さんのエッセイ集が発売された時代の空気がよみがえってくるような文章だ。
私が青年だった頃、1970年代の空気。

借りてきた、五木寛之 『深夜の自画像』の目次をみていたら、あった、あった。
なにやら不思議な符合のように。

― 名著発掘=平岡正明著『ジャズ宣言』 昭和44年9月 ―
<はじめ明烏敏全集のことを書こうと思ったのだが、昨夜たまたま読んだこの新しい本の印象が余りに強烈だったので、まだ評価のさだまらないこの異色の批評集について書くことにした。
 『ジャズ宣言』という本のタイトルから、野間宏の『暗い絵』が書店の美術専門書の棚に並べられたというエピソードと同じ目に会うのではないかと、ぼくはこの本のために気遣っているところだ。
 相倉久人がいみじくも書いているように、平岡正明のこのエッセイの数々は、「ここに六十年代をジャズとして生きているひとりの男」の、六十年代に対する独立宣言であり、……>
(五木寛之『深夜の自画像』 1974年)

Hiraoka_jazz_sengen平岡正明 『ジャズ宣言』
 現代企画室 1990年 (復刻版)
  第一版 1969年 イザラ書房刊
  第二版 1979年 アディン書房刊

―日本語第三版への序 より―
<イザラ書房刊の初版(1969)に第三版の序文でつけくわえることは、勝利したジャズは芸術を独裁するというその一点である、なあんて一度言ってみたかった。言ってみるとやはり気持いい。
 むこうは『共産党宣言』だ。こっちは『ジャズ宣言』だ。宣言にかわりはない。>


まさに、なんちゃって、である。
1970年代――おもしろい時代だったな、と懐かしんだりして。


澤地さんの本 『もうひとつの満州』 は、タイトルにひかれた。

目次をみると、

「わが心の満州」 1981年7月10日、北京発の汽車は、翌日未明山海関に着いた
 ここから東北。35年ぶりに訪れる故郷・満州への旅が始まる

――という章ではじまり

「消された村」「通化の陵園」「終焉の地」「故山にして他山」「ひとつの歌」「旅の終り」

と続く。

そうか。
澤地さんが育った「満州」の再訪記なんだな。

こんなにいい本が新本で手に入らないというのも、妙なはなし。
(文春文庫 1986年版も絶版)
安野光雅さんの装幀、挿絵(扉スケッチ)がしゃれている本だ。


本を所有することにこだわらなければ、読みたい本は図書館を利用するのがいいんだな、とあらためて思う。
なかなか「所有欲」から自由になれないのがつらいけど。


【追記】  2009/3/7 夜
澤地久枝 『もうひとつの満州』 (Amazonより)
出版社/著者からの内容紹介
<日本人とにって、中国人にとって満州とは何だったか? 反満抗日ゲリラの領袖・楊靖宇の事跡を追いながら、著者自らの郷愁の思いを問い返す哀切な<旅>のすべて>

図書館から借りてきたこの本を読みはじめている。
たくさんの人の手に触れ、読まれた形跡が感じられる本だ。
シミや折り目の跡がたくさんあり、背綴じは剥がれかかっていて、ていねいに扱わなければ今にもバラバラになりそうなほど傷んでいる。
この一冊の本を、どれだけ多くの人たちが読みふけったことだろう。
まさに「手垢」のつくほど読み継がれた、こういう本を手にするのもいいものだ、と思う。

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2009年3月 5日 (木)

【読】わたしが生きた「昭和」 (澤地久枝)

そういえば、この人の本を読むのは初めてかもしれない。
ずっと長いあいだ、気になっていた人ではある。

Sawachi_shouwa澤地久枝 『わたしが生きた「昭和」』
 岩波書店(岩波現代文庫)
 2000/1/14  241ページ  800円(税別)
 (親本) 1995年 岩波書店刊

<貧しさゆえに一家で、「満州」に渡り過ごした少女時代、敗戦後の難民生活と家族の運命……。つねに声なき民の側に立って歴史を見つめ続けてきたノンフィクション作家が、今初めて自身の今日までの人生と家族の歴史に焦点をあて、「昭和」という時代の検証に挑む。作家活動の原点を示す記念碑的作品。> (本書カバー)


澤地さんは、1930年(昭和5年) 東京生まれ。
四歳のとき両親とともに「満州」に渡り、敗戦で引き揚げてきた。
まだ90ページほどしか読んでいないが、軍人だった叔父(お母さんの弟)一家は、昭和20年8月19日に朝鮮半島で自決したという。

自身の幼い頃からの体験記と、作家の冷静な目からの戦争批判が、バランスよく書かれていて好感が持てる。


次の一節には、ちょっと感動した。
名文である。

<歴史とは、大気のようでもあり、海のようでもある。一つの時代に生きていて、自分がどこにいるのか見定めることのできる人は稀であろう。現に隣りで、目前で、進行していることの本質が見えない。> (「四 有事の作為」 P.81)


この人は立派だな、と思う。

というのは、戦争指導者を鋭く批判しながらも、当時の大衆の多くが戦争を支持する心情をもっていたことを、きちんと押さえていることだ。
もちろん、兵役を喜んだ人はいなかったにちがいないが、戦勝に沸いたり、中国や朝鮮の人びとを蔑視する気持ちを疑わなかった大衆が、あの戦争を支えていたことも事実だろう。


被害者であり、加害者でもあった日本の大衆。
明治維新、開国、朝鮮半島への進出(侵略)、日露戦争を経て中国大陸へ。
大きな歴史の流れは、まさに、「大気のようでもあり、海のようでもある」。
大衆(他に適当なことばがないので、やむをえず使うが)は、その中で、流されていくだけだったのか。

戦後に生まれた私が「あの戦争」にこだわるのは、この疑問に自分で答えをみつけたいから、かもしれない。

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2009年3月 4日 (水)

【読】「やった側」の記録

この記事のタイトルは、ちょっとどぎついとは思うが……。

Honda_chuugoku_tabi本多勝一 『中国の旅』 (朝日文庫、1993年 第19刷)を古書で手に入れた。
だが、ネットで調べているうちに、モンダイの多い著作だということがわかり、まだ読まずにいる。
いずれ、眉に唾をつけながら読んでみようとは思う。

モンダイというのは、掲載写真(日本軍残虐行為の「証拠」写真)に、捏造の疑いがあるということだ。
Amazonでの一般読者の評価はさんざんであり、著者の本多勝一もずいぶん攻撃されている。
本多勝一の取材方法、捏造指摘後の対応にも、問題が多かったようだ。
これについては、詳しく調べてみたい。

それはともかく。
もう一冊、おなじ朝日文庫だが、こんな本をみつけたので購入。
三日で読みおえた。

Kikigaki_kenpei『聞き書き ある憲兵の記録』
 朝日新聞山形支局 著 朝日文庫(あ 4-37)
 1991/2/20発行 262ページ 480円(税込)

土屋芳雄さんという人が語った、中国大陸での憲兵体験談で、執筆は朝日新聞山形支局の二人の記者である。
朝日新聞記者らしい、いやな感じも受けたが(うまく説明できないが、一言でいうと「正義漢ぶった」感じが鼻につく)、最後まで読んでみると、なかなか重い内容だった。

本書の文章から、土屋芳雄さんの略歴をひろってみる。
(まとまった略歴は載っていないので、私なりの要約)

■明治44年(1911年)、山形県の農村に生まれる。
父は鉄道の保線工夫、母が四反(約40アール)ほどの田の小作をしていた。
貧しい暮らしで、家は3.6×7.3メートルの一間だけ。床は土間、ワラをまき、ムシロを敷いただけの一間に、祖父母、父母、兄弟(土屋芳雄氏とその弟)の六人が暮らしていた。

■昭和6年(1931年)、徴兵検査で甲種合格。
召集される前に、みずから満州の独立守備隊を志願。

志願した理由は、召集されて地元「山形歩兵三十二連隊」へ入営した場合の、初年兵に対するリンチへの恐怖心からだった。
「(山形歩兵三十二連隊は)主に県内出身者といっても、知らない人が多い。どんないじめ方をされるか分からない。それに、村の青年訓練所の一年先輩が、満州の公主嶺独立守備隊に行っていた。どうせ兵隊にとられるなら、その先輩のいる独立守備隊に行きたい。古兵にリンチをくらいそうになっても、その先輩がかばってくれるのではないか、という気持ちだった」 (P.31)

■昭和6年(1931年)12月、二十歳で関東軍独立守備隊に入隊。
中国大陸へ渡る。
「満州事変」が、その年の9月18日に起きて、すでに「満州」は戦場と化していた。
これは、土屋氏の計算違いだったが、両親ほどには心配しなかった。

彼は、軍隊内でまじめに努力し、早く上等兵になろうとする。
初年兵は、いつまでたってもいじめの対象になるからだ。
「匪賊」討伐にも積極的に参加。
日本軍の残虐行為を目撃もし、みずからも手をそめる。
上官に命じられて中国農民の「刺突」も体験。
(縛りあげた中国人捕虜を銃剣で突き刺す、というアレだ。上官が日本刀で捕虜の首を切ることも、目の前でおこなわれた。)

■昭和8年(1933年)5月、憲兵を志願。
成績優秀だったにもかかわらず、上等兵になかなかなれなかったのが動機だった。
憲兵になって、えこひいきをする人事担当の特務曹長を、やっつけたいと思ったそうだ。
「憲兵といえば軍の警察、狙ってさえいれば、あの憎い特務曹長をやっつける機会に恵まれるかもしれない。」 (P.70)

■敗戦までの12年間、憲兵として「反満抗日分子」の虐待(凄惨な拷問、殺害)に手を染めていく。
敗戦後、ソ連での抑留、中国での戦犯取調を受け、そこで、憲兵時代にやったことを振り返り、「オレが殺したのは何人か」「拷問したのは何人か」と数えあげた数字がすさまじい。

<結果は想像を超えていた。 昭和六年、入営した時から数えて、土屋が直接間接に殺したのは三百二十八人。逮捕し拷問にかけ、獄につないだのは実に千九百十七人だった。> (P.252)

■昭和20年(1945年)8月15日、チチハル市で「玉音放送」を聞く。
8月18日、ソ連軍に投降。
10月、ソ連領内トーリンスカヤで、森林伐採の強制労働に従事。
抑留生活のはじまり。
その後、ハバロフスクへ移され、取り調べを受ける。

■昭和25年(1950年)7月、中国 撫順戦犯管理所へ移され、本格的な取り調べ開始。
中国での待遇はよかった。
なによりも、強制労働がなく、旧日本兵の罪状を念入りに調べ、「戦犯の一人ひとりについて、殺された被害者の遺族や拷問された当人から告訴状をとり、関東軍司令部や憲兵隊司令部から押収した書類で裏づけ」したうえで、「完璧な罪状を目の前に突きつけ」るというやり方だった。
「自白すれば軽く、拒めば重く」 ――それが中国による戦犯の扱いだった。
土屋氏は、ここで、じぶんの罪状をすべて認めて、謝罪する。

■彼の抑留生活は、昭和31年(1956年)まで続いた。
敗戦から、11年間である。
死刑を覚悟していたが、中国での判決は起訴猶予だった。

■昭和31年(1956年)8月、帰国。


最後まで読んで、私は驚いた。
昭和31年といえば、私が五歳の頃だ。
そんな時代(敗戦後十一年が経過)まで、大陸に抑留されていた元日本兵がたくさんいたことに。

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2009年3月 1日 (日)

【読】読了 『石原莞爾試論』 (平岡正明)

面白く、勉強になる本だった。
この一冊を論評する力量が私にはないが、怪著というかなんというか。

日に焼けたカバーをはぐと、こんな表紙だった。

Hiraoka_ishihara_kanji3平岡正明 『石原莞爾試論』
 白川書院 1977/5/15発行
 四六判 224ページ  1300円

雑誌 『第三文明』 に連載されたものらしい。
だからどうした、ということもないが、潮出版社、第三文明社と平岡正明の関係は深いようだ。
石原莞爾は「熱心な日蓮主義者」(Wikipedia)であったが、平岡氏のこの著作では、その点までは言及されていない。
(著者は、「本書が石原莞爾論として未完成のものだ」と、あとがきで断わっている。)

終章 「石原莞爾と若き大山倍達」 が、とても興味ぶかい内容。
大山倍達と石原莞爾のあいだにつながりがあったことは、意外だった。

平岡氏は、極真空手の猛者(有段者)でもある。
私は、空手や武術にはまったく詳しくないが、「空手バカ一代」 という劇画は一世を風靡したもので、懐かしく思いだす。


以下、この終章で平岡氏が描く大山倍達氏の若き日のエピソードの一部。
感動的な話だ。

<山梨少年航空学校を卒業した彼は航空機の整備兵にまわされる。 そして一度軍隊から脱走するのだ。 上官の兵いびりが原因だ。 夜、宿舎で、大山倍達が遠く妹さんからきた手紙と写真を眺めていると、上官がやってきて、写真をとりあげ、破りすてた。>

<怒った倍達の一撃、上官を半殺しの目にあわせた。 反抗罪で八か月の重営倉である。 夜毎、上官は仲間とやってきて、竹刀による私刑(リンチ)。 さしも頑健な倍達も、殺されると思い、自ら口唇をかみ切って大量に出血し、ために病院にかつぎこまれた。 そしてこの病院から彼は脱走した。 たった一枚の写真から――。 その写真には朝鮮の民族衣装を着た妹さんが写っていた。>

(本書 218-219ページ)

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2009年2月26日 (木)

【読】石原莞爾

平岡正明という評論家がいる。
1941年東京生まれ、1963年早稲田大学露文科中退。ジャズ評論等で活躍。
――著者略歴には、そのように書かれている。

60年代安保世代で、いろいろ活動してきたらしいが、私はよく知らない。
とくべつなファンというわけでもないが、何冊か読んできた。
この人の文章は面白くて、読ませる。

ただし、いいことを言っているかどうか、内容は保証しかねる。


Hiraoka_nihonjin_chugoku平岡正明 『日本人は中国で何をしたか』
 潮文庫 1985/7/30発行 (親本:1972年 潮出版社)
 350円 236ページ

単行本で読んだ記憶があるが、手元に残っておらず、ネット販売で中古の文庫版を入手。
二、三十年ぶりに読んでみたが、興味深い内容だった。
勉強にもなった。

先の戦争に関する書物はたくさんあるが、どちらかというと 「やられた」記録(いわゆる、わだつみ系の手記など)が圧倒的に多く、日本人がアジアで何を 「やった」 か、加害者の立場から書かれた記録は少ない。

ひどいことをした人たち(自ら進んでやった人ばかりではなく、「やらされた」人も多いだろうが)は、みんな口をつぐんでいるのだろう。


著者 平岡氏はこう書く。
(本書 106ページ、「3 三光における国家意思と兵の実情」)

<日本軍隊の教育は、まず具体的に人を殴ってみること、殺してみることである。
 皇道イデオロギーにもとづく日本軍隊の軍事教育および軍隊教育…(中略)…については、その奇形の精神病理学的分析にしても、集団心理学的分析にしても、あるいは軍隊内の階級対立にしても、戦中派イデオローグによる多くの内省があり、ここでくりかえすものではない。>

<興味ある読者は雑誌『新評』(1971年7月号)、安田武「日中・太平洋戦争を知るための150冊の本」リストを参照されたい。>


――として、この雑誌でとりあげられている 「わだつみ派文献」 を紹介している。

<戦没学生遺稿集、その他の遺稿集、戦争体験者の証言、女性の戦争体験、捕虜収容所・外地引き揚げ、沖縄、原爆、空襲、学童疎開、戦争文学主要作品の十項目について百五十冊の本がリストアップされている。>

<われわれは、これらの 「わだつみ派文献」 を読むべきであり、私自身もあんがい読んでいる。>


続けて、こう言う。

<しかし、安田武のこのリストアップのしかたはまちがっている。 このリストは、日中戦争および太平洋戦争で自分たちがどれだけやられたかという観点で網羅されている。 なにをやってきたかという観点が欠如しており、ことに三光関係の文献が一冊もなく、戦犯クラスの、つまり職業軍人の上層の手記も一冊しかない。 戦史、戦争論、軍事科学関係の本の匂いもない。 これでは日中戦争、太平洋戦争について半分しか知ることはできない。>


まったく、そのとおりだと、私も思う。


Hiraoka_ishihara_kanji平岡正明 『石原莞爾試論』
 白川書院 1977/5/15発行 1300円 224ページ

市の図書館には置いていないので、ネット販売で入手。
かなり変色している(ヤケがひどい)のに、いい値段がついていた(1830円)。
執筆当時(70年代後半、ある意味で騒然としていた時代だった)の「匂い」が濃厚な著作だが、面白い。

船戸与一の 『満州国演義』 にもひんぱんに顔を出す、この不気味な将軍 石原莞爾に関心があったので、読んでみようと思ったのだ。


まさに、「やった」側からの論考である。

<石原莞爾は日本近代史上稀な 「武装せる右翼革命家」 である。 たんに軍国主義者、武断派というだけではない。 職業軍人であり、陸大出の、ドイツ留学をしたエリート軍人である。 職業軍人とはなにか。 軍隊組織の内部にいなくてはアホみたいなものであり、軍隊(もっとも明確な階級制度と指揮命令の系統)がなければ無に等しいい。 これと異なって石原莞爾は、世界戦略をもった軍人であった。>
(本書 17ページ、「おりもおり、満州国建国問題を」)


読み始めたばかりなので、ためになる本なのかどうかは、まだわからない。

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2009年2月22日 (日)

【読】読了 『満州国演義 5 ―灰塵の暦―』

Funado_manshu5船戸与一 『満州国演義 5 ―灰塵の暦―』
 新潮社 2009/1/30発行 2000円(税別)
 469ページ

― 帯より ―
「兵士たちは復讐心に燃えてるんだ。強姦や理不尽な殺戮。人間の残虐性がかならず爆発する」
満州事変から六年。理想を捨てた太郎は満州国国務院で地位を固め、憲兵隊で活躍する三郎は待望の長男を得、記者となった四郎は初の戦場取材に臨む。そして、特務機関の下で働く次郎を悲劇が襲った――四兄弟が人生の岐路に立つとき、満州国の命運を大きく揺るがす事件が起こる。
読者を「南京大虐殺」へと誘う第五巻。



1937年(昭和12年)12月13日、日本軍の南京入城前後の場面でこの巻はおわる。

「南京大虐殺」はなかった、などというとんでもないことを言う輩が後を絶たない。
近頃なぜか書店にはそのての本が並んでいて、私は苦々しく思う。

「それほどの数ではなかった」だとか、「あの状況ではしかたがなかった」、などという輩もいるらしい。
「大虐殺」か「虐殺」か、といった規模の問題ではない。

船戸与一の、資料に裏づけられた記述をみよ。
私は、小説の形で語られたこの歴史的事実を疑わない。

(参考文献一覧はまだ掲載されていない。最終巻に掲載されるという。楽しみだ。)



南京大虐殺 関連リンク集 (Wikipedeiaより)
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/Link.htm



― 『満州国演義 5』 P.448- ―

<敷島三郎は寝床台で半身を起こした。眠れそうにない。南京の城内にはいったのは三日まえだ。あまりにも多くの死体を見過ぎた。それが澱となって脳裏のどこかに溜まっている。>

<南京攻略が下命されてから中支那方面軍のうちの上海派遣軍に帯同して来たが、憲兵としての責務を果たせたとはとても思えない。派遣軍の動きは怒涛のようだった。糧秣の現地徴発。それが派遣軍参謀の通達だったのだ。兵士たちが巣を離れた蜂の群れのように農家に押し入っていく。そこでは輪姦や強姦殺人がつき纏ったが、補助憲兵たちはそれを止めようともしなかった。 (中略) 通州で支那の保安隊が日本人に行なった蛮行の仕返しのつもりだったのだろう。>


― 『満州国演義 5』 P.459- ―

<便衣の支那人たちが連行された先は城壁のそばだった。 (中略) そこにはすでに百名近い支那人が集められていた。だれもが麻縄で縛られている。連行されて来た支那人たちも城壁のそばに押しやられた。
 それを監視する中支那方面軍の兵士たちは三百名近くいた。二個中隊以上がそこに集まっているのだ。だれもが着剣した三八式歩兵銃を手にしている。軽機関銃も二十機ばかり大地に据えつけられていた。>

<将校服を着たひとりが低い声を発した。
 「処理に取り掛かる。手順どおりに進める」
 三人の兵士が進み出た。城壁のそばに踞っている縛られた三人の支那人を引きずりだし、城壁から四米ばかり離れたところに跪かせた。三人のその眼を黒い布で蔽って、そのそばを離れた。
新たな三名が兵士たちのあいだから抜けだして来た。三八式歩兵銃は持っていなかった。その替わりに下士官用軍刀を手にしている。>

<軍刀の刃がゆっくりと引き抜かれた。それが雲間から差し込む陽光に輝いた。軍刀が振り上げられた。何が行なわれようとしているのかはもちろんわかっている。しかし、四郎は動けなかった。竦みきっているのだ。カメラを持ちあげる気力もなかった。濁った気合いとともに三降の軍刀が同時に振り下ろされた。>

<軽機関銃の掃射音がその直後に響いた。
 城壁のそばの百名近い便衣がぎこちなく動いた。麻縄に縛られて踞ったままなのだ、大地に腰を落としたままその体が左右に揺れた。掃射音がつづいている、硝煙の臭いが鼻腔を濡らす。城壁のそばの便衣がすべて崩れ落ちた。掃射音が熄んだ。>

<「残り四十名弱は刺突処理」将校の低い声が響いた。「刺突担当は初年兵」 (中略)
 四十名ほどの兵士たちが進み出ていた。着剣した三八式歩兵銃をかまえている。白兵戦のための刺突訓練は初年兵がかならず受けるものと聞いていた。どれも若い。十八か十九だろう。初年兵なのだ、銃剣をかまえたその姿勢はいかにも腰の座りが悪かった。>

<「刺突開始!」
 だが、兵士たちはすぐには動こうとはしなかった。上海戦から南京攻略へと転戦して来てはいても、この連中は銃弾以外で国民革命軍を殺したことはないのだろう。表情はどれも怯えきっていた。
 「刺突開始!」
 二度目の命令にようやく右足を踏みだした。しかし、城壁に向かって突っ込みはしなかった。ひとりがその場にしゃがみ込んだ。首を左右に振りながら泣きじゃくりはじめた。>

<「刺突開始!」
 怒気を含んだ三度目の命令に銃剣を手にした兵士たちがわあっという声をあげながら城壁に向かって突進した。そこに踞っている麻縄に繋がれた便衣に銃剣を突き刺した。叫びと呻き。それは便衣と兵士の両方から発せられた。兵士たちは便衣の胸を突き刺しては引き抜き、また突いた。そのたびに血液が飛び散った。>



ものごとは単純化して、原則で考えることもたいせつだと思う。
ひとさまの国に、だんびらぶらさげて土足であがりこみ、やりたい放題をやった。
―― 日中戦争を、ひとことで言えばこうなる。

長い小説だったな。
あと三巻、続きが出版される予定のようだが、とりあえず読了。

あの時代が生き生きと描かれている、ありがたい小説だった。
歴史教科書や評論、研究書のたぐいとちがって、あの時代に生きたふつうの人々の表情が見える。


引き続き、この本を読みなおしてみようかな。

Hiraoka_nihonjin_chugoku平岡正明 『日本人は中国で何をしたか』
 潮文庫 1985/7/30発行 (親本:1972年 潮出版社)

― 本書 「序 テーマの提出」より ―
殺しつくし、焼きつくし、奪いつくすことを三光という。殺光、焼光、略光、中国語である。日本軍では燼滅作戦といった。本稿は、旧日本軍が北支で行なった燼滅作戦を、南支における対国民党正規軍戦との対比において論じ、南京大虐殺および日本列島における俘虜強制労働、虐待、虐殺、そして反乱劇としてあらわれた花岡事件を、三光との対応において論じるものとする。



【追記】
船戸与一 『満州国演義 5』 には、あの七三一部隊(石井四郎軍医中佐率いる「関東軍防疫給水部」、主人公の一人である敷島三郎が視察に訪れる)や、満蒙開拓青少年義勇軍が誕生したいきさつについても、きっちり描かれている。

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2009年2月20日 (金)

【読】もうすぐ読了(船戸与一『満州国演義5』)

今日は、おかしな天気だったな。
冷たい雨、のち晴れ、のち曇り。
そして、今週はきびしかった、仕事がね。


なかなか読みおえることができないが、もうすぐ読了の見込み。

Funado_manshu5_2船戸与一 『満州国演義 5 ―灰塵の暦―』
 新潮社 2009/1/30発行 2000円(税別)
 469ページ

今のところ、この五巻目までしか刊行されていないが、著者の構想では全八巻になるという。
おおざっぱな言い方だが、長大な物語の起承転結の「転」にあたる部分にさしかかったように思える。
これまで読んだ巻のなかで、いちばん面白い。
この先が楽しみだ。
今年の冬、六巻目が出ると、帯に書いてある。


二・二六事件が起き、いよいよ戦時色が濃くなっていく時代。
いわゆる「盧溝橋事件」が勃発、日中全面戦争がはじまる。
さらに、第二次上海事変、そして、南京攻略という局面で、この巻は終わるらしいが、まだ100ページほど残っている。

興味ぶかかったのは、小沢開作という実在の人物が、間接的にだが登場することだ。
小沢征爾の父親で、この時期 「満州国」で重要な役割を演じた。
三男の名前「征爾」は、板垣征四郎と石原莞爾という二人の軍人から一字ずつとってつけられた、と、この小説にも書かれている。

小沢開作だけでなく、男装の麗人と呼ばれた川島芳子、石原莞爾といった著名な実在人物はいずれも直接登場することがない。
物語の主役はほとんど皆、実在しない人物であるところがこの小説の特徴。
あえてそういう方法を選んだと、著者も言っている。 (註)

それだから、どうしても登場人物の口を借りた史実の説明的な記述が多くなる。

やむを得ないのかもしれないが、ときに煩わしく感じられて小説としての面白さはいまひとつともいえる。
しかし、この時代を描くには、こういうフィクションの構成が有効なのかもしれない。
骨太で斬新な「歴史小説」といえる。


いろいろ感じるところの多い小説だが、気のきいた感想を書く筆力が私にないのが悔しい。
いまはただひとこと。
さすが、船戸与一。



(註)
船戸与一『風の払暁―満州国演義1―』『事変の夜―満州国演義2―』
 波 2007年5月号より
 [船戸与一『満州国演義』刊行記念] だれも書いたことのない満州を

http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/462302.html より

――船戸さんは、常に世の中を変えるようなメッセージを小説を介して読者に送り続けていらっしゃいますね。教科書では到底知り得ないようなことを。日本人はこんな状況ではこう行動するものだとか、歴史がこう動けば得てして結果はこうだとか。そのひとつひとつが意外でもあり納得もできる。船戸作品の醍醐味はそこにあります。

船戸 逆に言うと、小説でしかその部分は表現できないと思うよ。ノンフィクションは細部の細部まで事実を積み上げないといけないけれど、小説は仮説が可能だからね。資料を読めば読むほど、満州に関わった人物たちは多彩極まりない。魅力的な人間が多いね。でも、そういった実際に活躍した人物の視点で小説を書くことはやめた。実在の人物を自由に動かしたほうが書き手としてはラクかもしれない。でも、自分はその人物を知っているわけでも、その現場を見たわけでもないからね。例えれば、右手を縛って、左フックだけを頼りにリングに上るようなものだとは思う。でも、それで勝負できなければ、ただノック・アウトされるだけだろう? そうはならない自信がある(笑)。

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2009年2月11日 (水)

【読】満蒙開拓青少年義勇軍

読んでみたいと思っていた本が、すぐ近くの図書館にあったので借りてきた。

船戸与一の長編小説 『満州国演義』 の四巻目まで読みおえたところ。
ちょうど同じ時代、同じ土地にまつわるこの本を思いだしたのだ。

Amazonで見ると、いい値がついていたし状態も良くないようなのだ。
こういう本は図書館を利用するにかぎる。


Manmou_kaitaku_giyuugun『満蒙開拓青少年義勇軍』
 上 笙一郎 (かみ・しょういちろう) 著
 中公新書 315  1973/2/25発行

この本を知ったのは、だいぶん前に読んだ渡辺一技さんの『桜を恋う人』(集英社文庫)のあとがきで紹介されていたからだ。









「満蒙開拓少年義勇軍」 とはなにか。
渡辺一技 『桜を恋う人』 「まえがきにかえて」 より。

<1931年(昭和6年)、満州事変(柳条湖事件)勃発。 1932年、傀儡国家「満州国」成立(ただし中国人民は「偽満州国」と呼び、昔も今も「満州国」の存在を認めてはいない)。 1934年、執政溥儀を満州国皇帝に就任させ帝政を開始し、1936年、国策としての満州移民「二十ヶ年百万戸送出計画」が成立。>

<1937年7月7日、盧溝橋の日中両軍の衝突を契機に、日中戦争が始まり、日本の大陸侵攻は拡大の一途をたどっていった。>

<そして、国策によって大陸へ送り込まれて行った少年たちがいた。>


Watanae_ichie_sakura『桜を恋う人 二つの祖国に生きて』
 渡辺一技 (わたなべ・いちえ) 著
 1990/10 情報センター出版局
 1995/9/25 集英社文庫

去年の春、読んだ。
2008/4/12の記事 【読】桜を恋う人
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_9e74.html

この本に描かれているのは、岩間典夫さんという人の激動と波乱の半生。
1943年(昭和18年)に14歳で満蒙開拓少年義勇軍の一員として中国に渡り、終戦間際に召集されて二等兵となり、敗戦後はソ連の捕虜としてシベリアに送られ、後に国共内戦中の中国で中国人民解放軍の兵士となり、交易馬車の護送中にオロチョン族に襲撃されて捕らわれ、やがてオロチョン族の指導者としてオロチョン族の村の建設に力を費やし、現在(この本の執筆当時)は中ソ国境の遜克県で政治協商会議委員会の副主席を務める、中国国籍となった日本人である。
(本書 「まえがきにかえて」 より)


こういう人がたくさんいたのだと思う。
じぶんがあの時代に生まれていたら、どうしていただろう、と思うことがよくある。

「満蒙開拓少年義勇軍」、その存在すらすでに忘れら去られようとしているが、今からわずか70年前にあったことだ。
満州へ新天地を求めて移っていった人々のなかに、私の血につながる人がいたかもしれない。
私の友人のなかにも、血のつながる先祖が彼の地で生涯を終えたという人もいる。

人ごとではなく、じぶんのこととして読んでみようと思う。

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2009年2月10日 (火)

【読】もうすぐ読了(船戸与一『満州国演義4』)

Funado_manshu4船戸与一 『満州国演義 4 ―炎の回廊―』
 新潮社 2008/6/20発行 2000円(税別)

残すところあと40ページほど。
昭和11年(1936)2月26日、東京に三十年ぶりの大雪が降った日。
いわゆる二・二六事件の様子がくわしく描かれている。
この事件を扱った書物は数多いが、さすがに船戸与一の筆致はするどい。

秩父宮雍仁親王(大正天皇の第二皇子、つまり昭和天皇の弟)の動きが興味ぶかい。
戦前、天皇の弟宮たちは軍人になる決まりだった。
当時、秩父宮が弘前の第三十一連隊を率いて決起部隊に合流するという風説が流れたが、帝都には戒厳令がしかれ、叛乱部隊は天皇の命によって原隊復帰を命じられた。
石原莞爾大佐は反乱軍に自決を勧めた。……等々、私の知らなかったことがたくさん書かれている。


二・二六事件といえば、面白い小説があった。
いま手もとにないが、もう一度読みなおしてみたい長編小説だ。

Niyabe_gamoutei_2宮部みゆき 『蒲生邸事件』 (がもうていじけん)
 文春文庫 2000年10月
 940円(税込) 686ページ

Amazon
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167549034

e-hon
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000030736090&Action_id=121&Sza_id=B0

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2009年2月 8日 (日)

【読】写真で読む 「大日本帝国」

古本屋でこんな本をみつけた。
いい内容だと思う。

Nishimuta_shashin_teikoku『写真で読む 僕の見た「大日本帝国」』
 西牟田 靖
 情報センター出版局 2006/2/26発行
 1600円(税別)
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031670971&Action_id=121&Sza_id=C0

<こんなニッポンがあったことを、あなたは信じられますか?
明治の半ばから昭和20年の終戦前後までの時代、「大日本帝国」と称していた日本の統治下に置かれていたという共通項を持つ、サハリン(樺太)の南半分、台湾、韓国、北朝鮮、ミクロネシア(旧南洋群島)、中国東北部(旧満洲)。
戦後半世紀以上たった今日でも、古くからかつて日本の領土だったそれらの国・地域には、日本語、日本建築、鳥居、神社、日本精神、残された日本人……と、さまざまな形で日本統治時代の痕跡=「日本の足あと」が残っている。
彼の地に残る「日本の足あと」は、僕らに何を訴えるのか?
四年におよぶ旅の中で、僕が出会った「大日本帝国」のすべて――。>
(本書カバー裏 より)

同じ著者の
『僕の見た「大日本帝国」 教わらなかった歴史と出会う旅』
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000031497454&Action_id=121&Sza_id=GG
という本の続編(写真編)らしい。


■著者紹介 (e-honのサイトより転載)
西牟田 靖 (ニシムタ ヤスシ)
1970年大阪生まれ。神戸学院大学卒業。8カ月間の会社勤めの後、地球の丸さを感じるための地球一周の船旅へ。以降、ライターとして活動を始める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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2009年2月 5日 (木)

【読】再読 『満州国演義 3 ―群狼の舞―』

三巻目も読みおえた。
一年前の今ごろ、いちど読んでいるので、わりと内容をおぼえていた。

Funado_manshu3船戸与一
 『満州国演義 3 ―群狼の舞―』
 新潮社 2007/12/20発行 1900円(税別)
 417ページ

実在の有名な将校のなまえがたくさんでてくる。
そのなかでも、石原莞爾と甘粕正彦の影が不気味だ。

1932年(昭和7年)、「東京音頭」(西条八十作詞、中山晋平作曲)が、国内だけでなく中国大陸にいる日本人のあいだでも大流行する。
「満州国」には、ついに武装移民団が入植をはじめる。

といったところで、この第三巻はおわっている。


敷島家の長男 太郎は、外務官僚として奉天の領事館に勤務しているが、しだいしだいに、「国家を創りあげるのは男の最高の浪漫だ」という思いにとらわれていく。
そこが面白い。

敷島次郎は、じぶんが率いていた馬賊集団(緑林の徒)「青龍同盟」が壊滅し、ただ一人、満州をさまよい続ける。
三郎は、憲兵隊の将校として、謀略にもかかわっていく。
末弟の四郎は、武装開拓団の通訳となって、ややこしい立場に追いこまれていく。

間垣徳蔵という、これまた不気味な特務将校が、敷島家の四兄弟にまとわりつく。
この裏には、まだ明かされていない謎が隠されているような気がする。
一巻目のプロローグに、慶応四年八月、会津若松城下で繰りひろげられた凄惨な事件が描かれていて、どうやらそれが布石らしい。
が、その謎があかされるのは、まだまだ先のようだ。

いよいよ第四巻にとりかかる。
ここから先は、はじめて読むので、たのしみだ。


Funado_manshu1Funado_manshu2Funado_manshu4Funado_manshu5

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2009年1月31日 (土)

【読】再読 『満州国演義 2 ―事変の夜―』

ようやく二冊目を読みおえた。

Funado_manshu2船戸与一
 『満州国演義 2 ―事変の夜―』
 新潮社 2007/4/20発行 1800円(税別)

1930年(昭和5年)、「満州事変」(1931.9.18)の前年から、1932年1月の「上海事変」まで。
敷島四兄弟は、それぞれの立場から、この二つの「事変」に深くかかわっていく。
主人公たちはもちろん架空の人物だが、史実が小説のベースになっている。
その史実の説明が、ときに鬱陶しく感じられたりもするが、とにかく面白い。

ここまでの二巻は、週刊新潮に連載されていた基本稿に五百枚程度の加筆修正を施して上梓されたものだという。
二冊、同時発売である。


この二巻目の巻末に、著者による 「後記」 が掲載されていて、参考文献もあげられている。
じつに興味ぶかい。

以下、「あとがき」 から。

<筆者は昭和十九年の生まれで飢餓体験はあても戦争の記憶はもちろん中国で九・一八(チュウ・イーパー)と呼ばれる満州事変前後の事情となるともはや遥かなる記憶でしかない。 したがって執筆にあたってはすべて資料に頼った。>

<小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない。 これが本稿執筆の筆者の基本姿勢であり、小説のダイナミズムを求めるために歴史的事実を無視したり歪めたりしたことは避けて来たつもりである。>


参考文献としてあげられている書籍の中で私の興味をひいたのは、上坂冬子 『男装の麗人川島芳子伝』(文藝春秋)、角田房子 『甘粕大尉』(中央公論社)、平岡正明 『石原莞爾試論』 (白川書院) の三冊。

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2009年1月29日 (木)

【読】ついに出た 『満州国演義5』

発売日は明日になっていたが、今日、本屋に寄ったら出ていた。

Funado_manshu5船戸与一
 『満州国演義5 ―灰塵の暦―
 2009/1/30 新潮社 2000円(税別)
 469ページ

だんだん厚みをましてくる。
電車の中で、片手に持って読むにはちと重い。

南京事件かぁ……いよいよ面白くなりそうだ。

<「兵士たちは復讐心に燃えてるんだ。 強姦や理不尽な殺戮。 人間の残虐性がかならず爆発する」
 満州事変から六年。 理想を捨てた太郎は満州国国務院で地位を固め、憲兵隊で活躍する三郎は待望の長男を得、記者となった四郎は初の戦場取材に臨む。 そして、特務機関の下で働く次郎を悲劇が襲った――四兄弟が人生の岐路に立つとき、満州国の命運を大きく揺るがす事件が起こる。
 読者を「南京事件」へと誘う第五巻。>  (本書帯より)

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2009年1月25日 (日)

【読】再読 『満州国演義 1 ―風の払暁―』

船戸与一が今も執筆中の長編、『満州国演義』 (新潮社刊)。

今のところ第4卷まで出版されているが、3巻までしか読んでいなかった。
間もなく5巻目がでるということを知り、ここらで、はじめから通読してみようと思いたった。

第1卷を、四日かけて読み終えた。
四六判変形380ページという、厚手のハードカバーである。
鞄に入れて持ち歩くと、けっこう嵩張る。


Funado_manshu1_2船戸与一
 『満州国演義 1 ―風の払暁―』
 新潮社 2007/4/20発行 1800円(税別)

昭和3年6月4日 張作霖爆殺を中心に、混乱する中国大陸東北部(旧満州)を舞台にしたスケールの大きな歴史小説の開幕。
麻布の名家 敷島家の四兄弟、太郎、次郎、三郎、四郎が、それぞれの立場で、この混乱期に生きていく。

太郎は奉天日本領事館の参事官。
次郎は日本を捨て、満蒙の地で緑林の徒(いわゆる馬賊)の長となっている。
三郎は奉天独立守備隊の少尉。
四郎だけが日本にいて、早稲田大学に在学しながら無政府主義に傾倒、左翼的な劇団とかかわりを持っている。


激動の時代、大きな波にさらわれる小舟のように四兄弟が翻弄されていくさまが、じつに興味ぶかく、小説の醍醐味に満ちている。
第1卷に描かれたわずか二年ばかりの間で、四人の境遇も大きく変化する。

この先どうなるのだろう、という興味が尽きず、ぐいぐい引きこまれていく。
著者によると、全部で8卷になる構想なのだそうだ。
(下のブックレットの講演で、船戸自身が語っている)


ネット検索で、面白いブックレットをみつけて手に入れた。
船戸与一の小説は、どれも、たいへん綿密な調査の裏付けに支えられている。
『満州国演義』 も例外ではなく、よく研究しているなと感心する。


Funado_manshuu_booklet『満州国演義』に見る中国大陸
 船戸与一
 愛知大学東亜同文書院ブックレット5
 発行:株式会社 あるむ
 2008年3月31日 発行
 700円(税別) 43ページ

愛知大学東亜同文書院大学記念センター講演会での、船戸与一の講演録である。

愛知大学:東亜同文書院大学記念センター
http://www.aichi-u.ac.jp/institution/05.html

 【講演会】船戸与一氏(作家)「小説『満州国演義』にみる中国大陸」
  (2007年10月27日開催於東京)
 http://www.aichi-u.ac.jp/orc/Back09.html


―以下、Wikipediaより ―

「東亜同文書院」
1901年(明治34年)に東亜同文会(近衛篤麿会長)により中国に設立された日本人のための高等教育機関。日本人が海外に設立した学校の中でも古いもののひとつ。
1901年(明治34年)5月26日、上海に設立される。当初は政治科と商務科がおかれ、一時は農工科、中国人対象の中華学生部も設置されていた。1921年(大正10年)には専門学校令による外務省の指定学校となり、1939年(昭和14年)12月には大学令によって東亜同文書院大学に昇格し、予科、続いて学部が設置された。1943年(昭和18年)には専門部が付設された。
1945年(昭和20年)8月、日本の敗戦に伴い、閉学となった。
愛知大学との関係
東亜同文書院(大学)は、その閉鎖後に設立された愛知大学とは形式上は別の法人であるが、実際には愛知大の「生みの親」「前身校」としての性格が強調されている。
敗戦にともない東亜同文書院大学は廃校になり、経営母体の東亜同文会も解散を余儀なくされた。その後、残務整理を経て上海から引き揚げてきた本間喜一学長などの関係者は、1946年5月、旧学生・教職員を収容する新大学を国内に設立することを決定した。
しかし設立にあたって、GHQが東亜同文書院大学そのままの大学では認可できないと条件をつけたため、旧書院側は「新大学は東亜同文書院とは無関係」との声明をよぎなくされた。そして京城帝国大学・台北帝国大学を含め「外地の学校から引き揚げた学生・教職員を収容する大学」との位置づけで46年11月に愛知大学(この時点では旧制大学)が設立された。(この際に東亜同文会旧蔵の霞山文庫の受け入れがなされている)
設立時の学生・教職員の大半は東亜同文書院関係者で占められ、初代学長には東亜同文会理事の林毅陸(前慶應義塾大学塾長)が、ついで第2~4代学長にはかつての東亜同文書院大学教授が就任した。すなわち本間喜一(第2・4代)および小岩井浄(第3代)である。東亜同文書院時代に着手された『中日大辞典』編纂事業も愛知大に引き継がれた。さらに東亜同文会を継承する霞山会と愛知大は理事の相互就任など密接な関係を有している。
1991年独立大学院「中国研究科」新設、1993年には学内に「東亜同文書院大学記念センター」を設立して東亜同文書院関係資料の受け入れを進めている。

― 以上、Wikipediaから引用 2009/1/25 ―


この、東亜同文書院(上海)は、『満州国演義』 で、敷島家四男の四郎と深い関わりをもっていく。
四兄弟それぞれ魅力的に描かれているが、私は、次郎と四郎になぜか親しみを感じる。

歴史背景の記述が煩わしく感じられることもあるが、複雑怪奇なあの時代の中国大陸(支那)の輪郭が、読むほどにくっきりしてくるような気がする。

船戸与一は、もちろん歴史学者ではないから、作家の目であの時代の謎を解こうとしている。
そこが面白い。

しばらくのあいだ、この小説にかかりっきりになりそうだ。

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2009年1月20日 (火)

【読】船戸与一『満州国演義』の近刊

船戸与一 『満州国演義』 の第5巻が出るらしい。

Funado_manshu5_small新潮社
船戸与一『灰塵の暦―満州国演義5―』
http://www.shinchosha.co.jp/book/462306/

2007年4月に第1巻と、2巻、その後、2007年12月に第3巻、2008年6月に第4巻が発売されている。
私は3巻まで読み、4巻目はまだ読んでいない。





Funado_manshu1_2Funado_manshu2Funado_manshu3Funado_manshu4











小説の舞台が広く、登場人物も多彩なため、いっきに読まないとわからなくなってしまう。
こんどの5巻目が出ても、まだ連載(週刊新潮)は続いていくのだろうか。

 週刊新潮 (新潮社)
 http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/


ちょうど、水木しげるの 『コミック 昭和史』 第1卷(講談社文庫)を読み、関東大震災から満州事変までの歴史をおさらいしたところだ。

そうだ、この機会に、満州国演義の既刊4巻を読みとおしてみようという、大それたことを思いついた。
今月末に出るらしい5巻目につながるし、なんちゃって。


Mizuki_showa_shi_1水木しげる 『コミック 昭和史 第1卷』
  関東大震災~満州事変
 講談社文庫 1994年 533円(税別)
 259ページ 解説:尾崎秀樹

おもしろかったな。

<(前略)水木しげるの軌跡はそのまま昭和史に重なっている。(中略)/コミック『昭和史』は、その自分史を裏にこめた作品である。昭和の前史にあたる関東大震災から筆をおこし、戦争の足音をたどりながら、十五年戦争の経過を内外の視野におさめ戦後の復興から高度成長までを叙しているが、随所に挿入される水木しげるの自分史が、一つの生活史ともなっていて興味ぶかい。>  (尾崎秀樹による本書解説より)

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2009年1月17日 (土)

【読】水木しげる「ラバウル戦記」(続々)

今日は一日、どこにも出かけず、本を読んだり音楽を聴いたり本棚を片づけたりして過ごしていた。
もう少し書きたいことがあるので、書いておこう。

Mizuki_rabaul_3『水木しげるのラバウル戦記』 水木しげる
 ちくま文庫 1997年

1943(昭和18)年10月、水木しげるは、ニューブリテン島ラバウルへ、岐阜連隊・歩兵第229連隊の補充要員として出征する。21歳だった。

現地では、ほとんど戦闘を経験することもなく陣地作りばかりしていたが、マラリアにかかり、その療養中に敵機の爆撃を受けて左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔なしで左腕切断手術を受ける。 (Wikipediaによる)

この戦記を読むと、水木二等兵は現地の「土人」とすぐに親しくなるような兵隊だった。
「土人」という言葉を彼は一貫して使っているが、そのわけをこう書いている。

<〝土人〟という言葉は侮蔑的な意味で使われることが多いということだが、ぼくは、彼らを、文字通り、土とともに生きている素晴らしい〝土の人〟という尊敬の意味で〝土人〟と呼んでいる> (本書 P.34)


ポツダム宣言受諾の天皇の詔勅を伝えられた後、捕虜としてトーマという土地へ移動させられるのだが、そこでも、現地人(水木しげるの言う「土人」)と仲よくなって、食べ物をもらったり、彼らの姿をスケッチしたりして過ごしている。

そのスケッチに添えられた文章のひとつに、こう書いている。

<彼らは、文明人と違って時間をたくさん持っている。時間を持っているというのは、その頃の彼らの生活は、二、三時間畑にゆくだけで、そのほかはいつも話をしたり踊りをしていたからだ。>

<まァ優雅な生活というやつだろうか、自然のままの生活というのだろうか。ぼくはそういう土人の生活が人間本来の生活だといつも思っている。>  (本書 P.196 「トーマの日々」)


こういう柔軟な考え方のできる兵隊は、当時、きっと少なかったと思う。
ますます、水木しげるという人が好きになる、そんな話である。


水木さんは、後ろ髪をひかれる思いで、この地を去る。
仲よくなった現地の人々から、この地に残れと言ってもらい、現地除隊してここで暮らそうとまで思う。

<「十年したら来る」「オー!それではみんな死んでしまう。三年だ!」というようなやりとりのうちに、七年後に必ず来るということで決着した。>

<トラックは土ぼこりをたてて出発した。白いほこりの向こうに、手を振るトペトロやエプペが見えた。みんな泣いているようだった。>


水木さんがこの地を再訪できたのは、それから二十三年後だった。

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【読】水木しげる「ラバウル戦記」(続)

水木しげるの 『ラバウル戦記』 (ちくま文庫)の続き。

Mizuki_rabaulこんないい話も書いてある。
敵の目を盗んで、ネープル河を、夜、小舟で渡ったときの感慨。

<月夜の乗船は不気味だったが、とてもきれいだった。ほとんどの兵隊は、生きて再びこの川を渡ることはなかった。それだけに、この渡河はバカに印象的だった。(なぜかよく覚えている。)>

<人の生き死にほど不平等なものはない。特に、戦死したものとそうでもないものの差、これほど大きいものはない。もっとも、生きることを無上の価値としてみたときの話だが。人間は本来〝平等〟が好きで、運のある人が不運になったりすると、みな安心したりする。要するに、〝幸福の一人じめ〟みたいなことをきらうわけだ。>

<平等は、決して悪いことではないし、いいことだが、どうも自然とか運命というやつは平等でないようだ。若くして、食うものも食わずに死ぬのは気の毒なことだ。どうしてそんなバカなことがあるのだろうと、五十年間考えてきたが、頭が悪いせいか、いまだに結論が出ない。>


年末だったか年始だったか、水木しげるさん夫妻が出演する番組を見た。
(ビートたけしが司会する番組 『誰でもピカソ』 だったように思う)

 たけしの誰でもピカソ:テレビ東京
 http://www.tv-tokyo.co.jp/pikaso/


86歳の水木さんは、話しぶりもしっかりしていたが、やはりとぼけた印象の人だった。
こういう人、好きだな。

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【読】水木しげる「ラバウル戦記」がおもしろい

読み始めると異常におもしろので、夢中になって読んでいる。

Mizuki_rabaul水木しげる 『水木しげるのラバウル戦記』
 ちくま文庫 1997年 950円(税別) 235ページ
 親本 筑摩書房刊 1994年

まえがき(はじめに)によると、この戦記は三つの部分から構成されている。
1.昭和24年から26年頃に、発表するあてもなく描いた『ラバウル戦記』
2.昭和60年に出した『娘に語るお父さんの戦記・絵本版』(河出書房新社)のために書いた絵
3.終戦と同時に移動させられたトーマという所で描いたスケッチ
 (わら半紙に、鉛筆と慰問袋の中にあったクレヨンを使って描いた)

トーマの場所は、地図で探してみたがわからなかった。
ラバウルのあるニューブリテン島のどこかだろうか。

 ※2009/1/17追記
  トーマ(Toma)は、ラバウル(Rabaul)のすぐ南にあった。
  Wikipedeiaで「ラバウル」の項を見ると、英語版の地図が掲載されていた。
  さらに、こんなサイトもあった。
   PIC 国際機関太平洋諸島センター>
   パプア・ニューギニア―ニューブリテン島とニューアイルランド島
   http://www.pic.or.jp/tourism/png/4.htm


この本には地図が載っていないので、地理的な位置関係がよくわからない。
水木さんの関心は、もっぱら軍隊での日常生活にあったようだ。


昭和18年11月頃というから、今から思えば戦争の末期、日本の敗戦色が濃くなっていた時期。

<鳴らないラッパを毎日ふかされるのに困った水木二等兵は、人事係の曹長に「やめさせてくれ」と直訴。/「南方がいいか北方がいいか」といわれて「南方です」といって、南方行きと相成った……>  (本書P.8 「内地よりラバウルへ出発」)

彼は、初年兵だったので(当時二十歳ぐらい)、古兵から毎日いじめにあう。
「いじめ」とはちがうのかもしれないが、旧日本軍、とくに陸軍で日常的にやられていた、ビンタ攻撃である。

Mizuki_rabaul_2_3<毎日、山に登っては、穴を掘るのだ。しかもなまけられない。ぼくは要注意人物だったらしく、ちょっと腰かけただけで古兵たちにののしられるのだ。/それをよいことに、日頃からなぐりたがっている上等兵が、「メガネをはずせ」とくる。そして、なにも悪いことしたおぼえがないのに、ビンダ十発!>

<まあ、ぼくに忍耐ということを教えてくれたものがあるとすれば、この古兵たちだろう。どんな理不尽なことをされても、だまっていなければいけないのだ。>

<それが毎日なのだからたいてい敵よりもこの古兵にやられてしまう。むしろ敵の方がアッサリしていていい感じだと、初年兵同士で話し合ったものだ。初年兵はすべて〝ノイローゼ〟気味だった。>  (本書P.80 「ラバウル戦記 その二」)


水木二等兵は、ビンタをいちばんたくさんもらったにもかかわらず、もって生まれた楽天性からなのか、あっけらかんとしている。

自分でも胃が丈夫だったと書いているように、ノイローゼになったり、体をこわしたりすることもなく、南方の風景に感動したりする精神的な余裕をもっていたようだ。

<とにかく、ラバウルにはぼくらのあと誰も日本内地から上陸してこないから、〝永遠の初年兵〟になるわけだ。即ち、何年たっても階級が一番下だから常に初年兵なのだ。>

<軍隊というところは、どうしたわけか、めしだけは平等だったから、胃が人よりもいいぼくは満足だった。>

<平地と違って山は景色もよく、鳥なんかもいた(いずれも日本にいない鳥ばかり)。>  (本書P.80 「ラバウル戦記 その二」)


この戦記は、ちっとも暗い感じがしない。
いい本に出会ったと思う。

 

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2009年1月14日 (水)

【読】水木しげるの 「あの戦争」

連想ゲームのように、また、こんな本を買ってしまった。

水木しげるの戦記と、コミック。

Mizuki_rabaul『水木しげるのラバウル戦記』 水木しげる
 ちくま文庫 1997年 950円(税別) 235ページ

コミックではなく、画文集。
<太平洋戦争の激戦地ラバウル。水木二等兵は、この戦闘に一兵卒として送り込まれた。彼は上官に殴られ続ける日々を、それでも楽天的な気持ちで過ごしていた。ある日、部隊は敵の奇襲にあい全滅する。彼は、九死に一生をえるが、片腕を失ってしまう。この強烈な体験が鮮明な時期に描いた絵に、後に文章を添えて完成したのが、この戦記である。……>





Mizuki_showa_shi_1『コミック 昭和史 第1卷 関東大震災~満州事変』
 水木しげる  講談社文庫 1994年 533円(税別) 259ページ

友人宅の、なぜかトイレに置いてあったのを見て知った。
全8卷。
一冊ずつ読みながら買い揃えていこうと思う。

<昭和とはどのような時代だったのか。戦後五十年を機に、いまあらためてその時代精神が問われている。それも権力者の視点ではなく、庶民の眼で捉えたらどうなるのか。太平洋戦争下、ラバウルでの空襲により片腕を失った筆者が、万感の想いで描ききる。戦争を知らない世代に贈るコミック昭和史・全8卷。>


もう一冊。
これは少し前に、古本屋でみつけて買っておいた。

Mizuki_senki『ああ玉砕 水木しげる戦記選集』 水木しげる
 宙(おおぞら)出版 2007年 1300円(税別) 407ページ

セントジョージ岬―総員玉砕せよ―/硫黄島の白い旗/地獄と天国/駆逐艦鬼/海の男/戦争と日本/水木しげるロングインタビュー 亡き戦友が描かせた戦争まんが

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2008年12月 8日 (月)

【読】今年読んだ本 (あの戦争)

今年は、先の世界大戦、なかでも日本が泥沼的に敗戦への道をたどった太平洋戦争にまつわる本を、集中して読んだ。

その動機は、じぶんでもわからない。
凝り性という性格的なものもあるかもしれないし、この年齢になって戦争というものがじぶんの問題として考えられるようになったせいかもしれない。

この一年に読んだ太平洋戦争(日中戦争)関連の本を内容で分類してみると、大きく三種類にわけられる。

【戦記もの、戦争体験記、それに類するもの】
【太平洋戦争を論じたもの、戦争論】
【太平洋戦争を題材にした小説】


【戦記もの、戦争体験記、それに類するもの】
奥村和一・酒井誠/私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵―/岩波ジュニア新書
橋川文三・今井清一/日本の百年8 果てしなき戦線/ちくま学芸文庫
飯田進/地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相/新潮新書
蔭山次郎/ガダルカナル・ラバウル慰霊行/東洋出版
石川欣一/比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦/中公文庫
青木正美/太平洋戦争 銃後の絵日記/東京堂出版
週刊朝日編/父の戦記/朝日文庫
小松真一/虜人日記/ちくま学芸文庫

【太平洋戦争を論じたもの、戦争論、軍隊論】
猪瀬直樹/日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦/小学館
保阪正康/あの戦争は何だったのか/新潮新書
鍛治俊樹/戦争の常識/文春文庫
阿川弘之・猪瀬直樹・中西輝政・秦郁彦・福田和也/二十世紀日本の戦争/文春新書

【太平洋戦争を題材にした小説、ノンフィクション】
船戸与一/満州国演義3 群狼の舞/新潮社
渡辺一枝/桜を恋う人/集英社文庫
五味川純平/ガダルカナル/文芸春秋
山田風太郎/同日同刻/ちくま文庫 (再読)
吉村昭/戦艦武蔵/新潮文庫
吉村昭/零式戦闘機/新潮文庫


もっとたくさん読んだ気がしていたのだが、これだけだった。
やはり、というべきか、戦争体験記がいちばん印象に残っている。
なかでも、下にあげる二冊から、強烈な印象受けた。

Arino_heitai_2Komatsu_ryojin_nikki_2『私は 「蟻の兵隊」 だった』
 ―中国に残された日本兵―
    奥村和一・酒井誠
  岩波ジュニア新書

『虜人日記』
  小松真一
  ちくま学芸文庫





もう一冊、いい本に出会った。
女性らしい細やかな筆致ながら、強い意志を感じさせた本。

Watanae_ichie_sakura『桜を恋う人』
 ― 二つの祖国に生きて ―
  渡辺一枝  集英社文庫

渡辺一枝さんは椎名誠氏の奥様として知られているが、ご自身、ハルビンに生まれて父上を彼の地で亡くしている。
和服を着こなす上品なエッセイストというイメージをもっていたが、芯の強さはこの引き揚げ体験からきているのかもしれない。
そんな一枝さんが、数奇な運命をたどった一人の日本人男性にひかれてその体験を追ったものがこのノンフィクションである。


私がずっと抱いている疑問、それは、「人はなぜ戦争をするのだろう」 ということだ。

戦争は少数の指導者だけでできるものではない。
悪い(あるいは無能な)指導者にだまされて、いやいや引きずり込まれた、という単純な図式では語りきれないと思うのだ。
私たちのなかに、なにか戦争にのめりこむ魔物がひそんでいるように思えてならない。
答えは簡単にでそうもないから、私の一生の宿題である。

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2008年12月 5日 (金)

【読】読書日誌 2008総集編

今年はじめて試みたことだが、読んだ本のタイトルと読書期間を手帳に記録していった。

あんがい読めないものだと思った。
こうしてリストにしてみると、つまらない内容だったなと後悔するようなものもあるが、どんな本でも何かしら得るものがあるのだと思いたい。

今年は小説を読むことが少なくて、戦争ものにのめりこんだ感がある。
宮部みゆき、石川英輔、星野道夫の本を集中して読んだ時期もあるが、根が飽きっぽい性格なので長続きしていない。

自慢にもならないし、自慢するつもりもさらさらないが、リストをあげておこう。
印象に残った本が何冊かあるので、それについては、またあらためて書いてみたい。


読了月別 (月をまたがって読んだものは、読了日の月)
著者/書名/出版社 の順
(中断)……辛抱が足りずに途中で読むのをやめたもの
(再読)……以前読んだことのある本
12月は、この後、数冊増えるはず

(1月)
宮部みゆき/かまいたち/新潮文庫 (再読)
宮部みゆき/本所深川ふしぎ草子/新潮文庫 (再読)
宮部みゆき/震える岩/講談社文庫 (再読)
宮部みゆき/幻色江戸ごよみ/新潮文庫 (再読)
宮部みゆき/初ものがたり/新潮文庫 (再読)
船戸与一/満州国演義3 群狼の舞/新潮社
勢古浩爾/日本人の遺書/洋泉社y新書
奥村和一・酒井誠/私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵―/岩波ジュニア新書
(2月)
五木寛之/人間の関係/ポプラ社
池澤夏樹/虹の彼方に/講談社
吉本隆明/吉本隆明のメディアを疑え/青春出版社
正高信男/ケータイを持ったサル/中公新書
石川英輔・田中優子/大江戸ボランティア事情/講談社文庫
井上勝生/シリーズ日本近現代史①幕末・維新/岩波新書 (中断)
石川英輔/大江戸えねるぎー事情/講談社文庫
(3月)
石川英輔/大江戸泉光院旅日記/講談社文庫
花崎皋平/静かな大地/岩波現代文庫
横山孝雄/少数民族への旅/新潮社
(4月)
佐藤俊樹/桜が創った「日本」/岩波新書
渡辺一枝/桜を恋う人/集英社文庫
大友幸男/日本のアイヌ語地名/三一新書
大友幸男/海の和人伝―海路史で解く邪馬台国―/三一書房 (中断)
石川英輔/大江戸テクノロジー事情/講談社文庫
(5月)
石川英輔/大江戸リサイクル事情/講談社文庫
八太昭道/ごみから地球を考える/岩波ジュニア文庫
ソニア・シャー/石油の呪縛/集英社新書 (中断)
瀬川拓郎/アイヌの歴史 海と宝のノマド/講談社選書メチエ
萱野茂/アイヌ歳時記/平凡社新書 (再読)
(6月)
北道邦彦/アイヌ語地名で旅する北海道/朝日新書
砂沢クラ/ク スクップ オルシペ/福武文庫
姉崎等・片山龍峯/クマにあったらどうするか―アイヌ民族最後の狩人 姉崎等―/木楽舎
星野道夫・湯川豊/終わりのない旅 星野道夫インタヴュー/スイッチパブリッシング
星野道夫/魔法のことば 星野道夫講演集/スイッチパブリッシング
小坂洋右・大山卓悠/星野道夫 永遠のまなざし/山と渓谷社
星野直子/星野道夫と見た風景/新潮社
(7月)
宮本常一/忘れられた日本人/岩波文庫 (中断)
小坂洋右/流亡 日露に追われた北千島アイヌ/道新選書
岡田晴恵/感染症は世界史を動かす/ちくま新書
正高信男/天才はなぜ生まれるか/ちくま新書
猪瀬直樹/作家の誕生/朝日新書
(8月)
猪瀬直樹/日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦/小学館
保阪正康/あの戦争は何だったのか/新潮新書
橋川文三・今井清一/日本の百年8 果てしなき戦線/ちくま学芸文庫
草森紳一/不許可写真/文春新書
飯田進/地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相/新潮新書
(9月)
五味川純平/ガダルカナル/文芸春秋
蔭山次郎/ガダルカナル・ラバウル慰霊行/東洋出版
石川欣一/比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦/中公文庫
山田風太郎/同日同刻/ちくま文庫 (再読)
(10月)
青木正美/太平洋戦争 銃後の絵日記/東京堂出版
鍛治俊樹/戦争の常識/文春文庫
吉村昭/戦艦武蔵/新潮文庫
吉村昭/零式戦闘機/新潮文庫
阿川弘之・猪瀬直樹・中西輝政・秦郁彦・福田和也/二十世紀日本の戦争/文春新書
(11月)
週刊朝日編/父の戦記/朝日文庫
小松真一/虜人日記/ちくま学芸文庫
五木寛之/人間の覚悟/新潮新書
山田真哉/さおだけ屋はなぜ潰れないのか?―身近な疑問からはじめる会計学―/光文社新書
桂雀々/必死のパッチ/幻冬舎
(12月)
橋本治/上司は思いつきでものを言う/集英社新書
桂文我/落語「通」入門/集英社新書


Watanae_ichie_sakura_2Futaro_doujitsuYoshimura_zerosenSunazawa_kuraKitamichi_ainugo_chimei_2Hoshino_eien_no_manazashiShizukana_daichi_bunkoArino_heitaiSegawa_ainu_rekishi_2Funado_manshu3_4      













   

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2008年11月21日 (金)

【読】読了 「虜人日記」

これも十日ほどかけて、ようやく読み終えた。

Komatsu_ryojin_nikki小松真一 『虜人日記』
 ちくま学芸文庫 2004年

(カバーから)
太平洋戦争で、日本はなぜ敗れたのか。 本書で説く 「克己心の欠如、反省力なき事、一人よがりで同情心がない事、思想的に徹底したものがなかった事」 など 「敗因21カ条」 は、今もなお、われわれの内部と社会に巣くう。 そして、同じ過ちをくりかえしている。 これらを克服しないかぎり、日本はまた必ず敗れる。 フィリピンのジャングルでの逃亡生活と抑留体験を、常に一貫した視線で、その時、その場所で、見たままのことを記し、戦友の骨壷に隠して持ち帰った一科学者の比類のない貴重な記録。……


先に読んだ、『父の戦記』 (朝日文庫)は、生々しかったけれど、どこか違和感を感じるものがあったというのが、正直なところだ。
その理由が、この 『虜人日記』 文庫版巻末の山本七平の解説を読んで、わかった気がする。

それは、「記憶の風化」 ということだ。

<……太平洋戦争については、すでに多くが語られた。 しかし、体験者の真正の記憶ですらすでに風化し、時には不知不識のうちにであろうが、時代の要請に基づく歪曲すら見られ、その人の"立場""立場"によって、一つのステレオタイプにはめこまれている。……> (本書解説 山本七平)

山本七平も、小松氏と同じように、フィリピンで捕虜体験をしている。

― Wikipedia 山本七平 より ―
1944年5月、第103師団砲兵隊本部付陸軍砲兵見習士官(のち少尉)として門司を出航、ルソン島における戦闘に参加。1945年8月15日、ルソン島北端のアパリで終戦を迎える。同年9月16日、マニラの捕虜収容所に移送される。 1947年、帰国。


<小松真一氏が本書を書かれたのは、オードネール収容所に移された、昭和二十一年の四月ごろかららしい。 従って、その時点以後の記録は、まさに 「その時」「その場」での記録である。 (中略) 雨と汗がにじみ、ぼろぼろになったその軍隊手帳を見ると、その短い記述はまさに、「その時」「その場」である。>  (本書解説 山本七平)


そういった意味で、この本は貴重な戦争体験記。
ひさびさに出あった良書である。


Komatsu_nikki01Komatsu_nikki02

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2008年11月17日 (月)

【読】小松真一 「虜人日記」

ようやく半分ほど読んだところ。

Komatsu_ryojin_nikki_6小松真一 『虜人日記』
 ちくま学芸文庫 2004/11/10
 (親本 筑摩書房 1975年)
 392ページ 1300円(税別)

小松 真一 (こまつ・しんいち)
1911年東京日本橋に生まれる。
1932年東京農業大学農芸化学科卒。
科学者として大蔵省醸造試験場、農林省米穀利用研究所を経て、台湾でブタノール工場を創設。 1944年比島に軍属としてブタノール生産のために派遣される。 敗戦と共に1946年まで捕虜生活。 復員後、食品加工の企業設立。 醸造技術を生かし、飲料アルコール原料の協同組合の設立。 1973年脳溢血のため逝去。 1974年私家版 『虜人日記』 出版。 1975年筑摩書房より 『虜人日記』 出版。 これにより同年の毎日出版文化賞受賞。
(文庫の著者略歴より)

捕虜生活の中で書き綴ったもので、本人は出版の意図がなかったらしい。
死後、家族によって発見され、出版のはこびとなった。

巻末に、単行本出版時の夫人の文章と、ご子息による文庫版あとがきがあり、出版までのいきさつと、著者の人となりが描かれている。

元の手記(自作の小さなノート)の写真が、口絵で紹介されている。
また、著者自身による絵(表紙の絵も著者が描いたもの)が、本文中に多数掲載されている。
達者な絵である。

科学者らしい冷静な観察力、歯に衣着せぬ軍への批判が興味ぶかい。


Ryojin_nikki_01_2第一部 『漂浪する椰子の実』

88ページにわたる。
昭和19年(1944)2月12日、東京を出発してから、比島(フィリピン)に到着し、昭和20年3月の米軍上陸にともなって、山中に逃げこむところまで。
ブタノールというのがどんなものか知らなかったが、燃料として開発していたらしい。

「ブタノール類はいずれも可燃性であり、特に1-ブタノールは溶媒や燃料としてよく用いられ……」(Wikipedia)


Ryojin_nikki_02第二部 『密林の彷徨』

78ページにわたる。
「昭和20年3月 平地を捨て山の生活に入り、9月1日サンカルロスに投降するまでの記録」
食べられるものなら何でも食べた逃亡生活。
飢えと病気で、たくさんの兵士が死亡している。
文字どおり骨と皮だけになった兵士の死骸から、友軍兵士によって靴や衣服がはぎとられる。
悲惨このうえない光景だが、筆者の冷徹な筆致によって、かえってリアリティーを増している。
人肉まで食べた者もいたという話は、ほんとうらしい。

ずいぶん前に大岡昇平の『俘虜記』で人肉食の話を読んだときはショッキングだったが(『野火』は読んでいないと思う)、この本の著者・小松氏は、他の部隊の伝聞として書いている。


Ryojin_nikki_03第三部 『虜人日記』

本書の半分の分量がさかれている。
「昭和20年9月1日 PW(Prisoner of War=捕虜)になってから、昭和21年12月11日帰国するまでの雑感」

ここから先は、これから読むところだ。

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2008年11月11日 (火)

【読】読了 「父の戦記」

読み終えるまで、ずいぶん日にちがかかってしまった。
かれこれ二週間、少しずつ読みついできた。

Chichi_no_senki_2『父の戦記』 週刊朝日 編
 朝日文庫 (朝日新聞出版)
 2008/8/30 380ページ 700円(税別)

印象に強く残る話はたくさんある。
目次だけでも紹介しようと思ったが、50話もあってたいへんなのでやめた。

まだ出たばかりの本だから、興味を持たれた方は書店でご覧いただきたいと思う。

朝日新聞出版局
 http://publications.asahi.com/index.shtml
この本の紹介
 朝日新聞出版 最新刊行物:文庫:父の戦記
  http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=9629

e-hon のサイト
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032098452&Action_id=121&Sza_id=B0

初版は1965(昭和45)年というから、戦後20年の年。
私は当時14歳で、戦後20年ということでずいぶん騒がれていたことを憶えている。
こういう本が出ていたことは、まったく知らなかったし、私の関心外だった。

出版から43年たっているが、いま読んでも、少しも古さを感じさせない。
それどころか、戦記に描かれたことがらが、つい昨日のことのように思える。

良書だと思う。


さて、次に何を読もうか迷っていたのだが、これまた先日書店でみつけたこんな本を読んでみようかと思う。
まだ懲りずに戦記ものである。

Komatsu_ryojin_nikki『虜人日記(りょじんにっき)』
 小松真一  ちくま学芸文庫
 2004/11/10 392ページ 1300円(税別)

これも、読むのに時間がかかりそうだ。

筑摩書房 虜人日記 / 小松 真一 著
   http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480088833/

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2008年11月 5日 (水)

【読】食い物のせつない話 ―「父の戦記」より―

まだ、ちびちびと読み続けている。

Chichi_no_senki_2『父の戦記』 週刊朝日 編
 朝日文庫 2008.8.30 380ページ
 700円(税別)

帰宅する電車の中、ちょうど腹もすいてきた時分に、戦争中の食い物の話はこたえた。
食い物に不自由しないどころか、平気で捨てたりする現代からは考えられないほど、せつない話ばかりだ。


■ シベリア 「私が失った右眼の話」 (前田大平次 氏) より

シベリアの俘虜収容所での話。

<食事は燕麦の籾がらを大量に混ぜた黒パン一片とやはり燕麦の粥といっても薄い汁ばかりを飯盒に六分目ぐらい。>

<近くの炊事場らしい部屋からジャガイモのスープの匂いが、ひもじくて敏感になっている嗅覚を強く刺激する。 次の仕事は他の九人は炊事場でカルトウチカ(ジャガイモ)の皮むき、私だけはペチカにたくマキ割りの仕事である。 私は九人がうらやましかった。 ソ連兵の目をぬすんで生ジャガイモを口に放り込むことができるからである。>

筆者は、そのマキ割りの最中、「凍って針のように細くとがった木の破片」 がささって右眼を失明した。


■ ボルネオ 「一切れのハムの後味」 (高荒敏一 氏) より

やはり、ボルネオで豪州軍の捕虜になり、収容所で労働に従事した人の、ひときわ切ない話。

<クチン市のはずれにあるこの教会には、年老いた一人のドイツ人牧師がいた。 (中略) 日本兵の捕虜が教会に作業に行くと、牧師が食糧を恵むというウワサがあった。 確実だと保証するものもいて、われわれの期待を一層大きくしたのである。>

<「ヘーイ、カマアン」
 われわれは、かん高い豪州兵の声を聞いた。 教会の非常階段の上に、背丈の図抜けて高い豪州兵が自動小銃を構えているそばに、あのいかつい顔の背の低い牧師が立っていた。 その牧師の手に何か持たれていることを認めた時、われわれは噂がたしかなものであり、それが、われわれに与えられる食い物であることを信じてしまったのである。>

<牧師と二言、三言話した兵長は、両手に盆のようなものをかかえ、注意深く階段を下りてきた。
 「おい、みんなくえ、牧師がくれたぞ」>

<階段の上で豪州兵が続けてどなる声を聞いた。
 「お前たちがぐずぐずしているから豪州がおこるんだぞ、早くくえ」
 兵長は豪州兵の声をそう解釈した。>

<四角い盆の中の皿に、大きなハムが不規則に盛り上げられ、その赤いハムの上に半熟の卵が三つ、雪のように輝いていた。 それに白い陶器の紅茶茶碗が三個にポットが添えてあった。 全く目もくらむような驚きであった。>

筆者たちの手は、兵長の声を合図のように、いっせいに動き始めて、半熟の卵をわしづかみにし、ハムを口にほうり込んだ。
紅茶茶碗がガチガチ音をたて、紅茶が乾いた土にこぼれた。

<その時、突然、足元に叩きつけるような自動小銃の銃声を聞いた。
 われわれが、いっせいに見上げる非常階段の上に、小さな牧師が、豪州兵の銃口を下に向けてしっかりにぎり、これを振り放そうとする豪州兵と争っている姿が見えた。>

彼らは驚いて、その場から逃げた。

<冷水をかぶったような恐怖感が去ると、はじめて思考の歯車がかみあった。
 道路をはさんだ向いのタピオカの畑にいる三人の豪州兵、三つの卵、三つの紅茶茶碗、そして豪州兵の発砲と、一連の出来ごとをつなぎ合わせて、自分の口に入れたものが何であるかを知った。>


■ ミンダナオ島 「ジャングルの中の死」 (小沢宣弘 氏) より

この話は、凄惨である。
昭和二十年四月、ミンダナオ島での日本軍最後の抵抗。

<私の斬込隊への参加は、前後合わせて七回で終った。 われわれの部隊は、この斬込みを最後にジャングルの逃避行に入った。>

そこで敵と遭遇し、傷ついた戦友を介抱する。

<「おい山田、お前、班長の巻脚絆をとれ」 私は叫びながら北原兵長の負傷した下腹に手をつっこんで、グニャリとした手応えを感じた。 腸だ、小腸がでている。 手榴弾の破片で腹皮がそぎとられ、その穴から小腸がドッとはみでている。 私は、丹念に注意深く、それを腹腔におしこんだが、その度に彼は驚くほどすさまじいうなり声をあげた。>

時間がたち、敵の攻撃もゆるんできた頃。

<空には星があった。 私たちは、方向を確認するため、山の端に南十字星の姿をさがした。 そこには、まったくうそのような平和な星空があった。 私は突然、無性に煮込みうどんを食べたい衝動にかられた。 あの葉ねぎや冬菜を存分にもぎりこんで食ったなら、どんなにうまいだろう。 そう思うと、茶碗の触れ合う音が闇の中から響き、そのにおいまでが感じられる。
 戦場でまひした人間の脳髄は時々おかしい事を考えるものだ。>



―― 今の私たちは、なんと贅沢な 「食」 の環境に身を置いていることか。

時間をかけながら、一篇一篇、味わうようにして読み続けている。
どの戦記も、苦い味がする。

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2008年10月31日 (金)

【読】無名の人々の戦争体験

きちんと読みもしないうちから、あれこれとあげつらうのはいけないな、と反省。

Chichi_no_senki『父の戦記』 週刊朝日 編
 朝日文庫 2008.8 700円(税別)

ひとつひとつの手記が、ずっしりと重い。
50編のうち、はじめの11編まで読んだところで、無名の戦士たちの体験の重さに感じるところが多い。

まなじり決して 「戦争の悪」 を非難するよりも、淡々と語られる体験談はこたえる。



■北支(中国北部)、炊事人夫として雇っていた中国人と、捕虜になった日本兵の逸話。
「生きて虜囚の辱めを受けず」 の戦陣訓の教えにしたがって、救出後に手榴弾で自殺した日本兵。
部隊長の 「よく死んでくれた」 という非情なことばに憤慨して、「東洋鬼(トンヤンキー)」 と叫んで出て行った中国人。  ― 戦陣訓は許すことなし (平野正巳 氏) ―

■内モンゴル、共産軍少年兵捕虜の命をなんとか救おうとしながら、反対に、上官命令によって刺殺する役を負わされた陸軍二等兵。  ― 閉ざされた少年の眸 (大越千速 氏) ―

■南支(中国南部)、コレラが大流行した部隊の軍医の体験談。  ― コレラ地帯行軍記 (杉本雄三 氏) ―

■中支(中国中部)、これも中国人俘虜斬殺を命じられて、なんとかその命を救おうとしたが、俘虜は殺されることを察して脱走、その責任を問われた情報将校の話。  ― 暗夜に消えた工作員 (小坂寿亀 氏) ―

■北満(中国東北部)、「挺身奇襲隊」 と呼ばれた特殊部隊(機動三連隊)に所属し、人間気球爆弾の実験に従事、という稀有な体験記。  ― 挺身奇襲隊の風船旅行 (山田敏文 氏) ―

■北支、馬が苦手なのに、輜重兵として馬の世話を命じられ、手のつけられなかった荒馬と、やがて気持ちが通じるようになった二等兵。  ― 「礼栓」とともに (松村楊七郎 氏) ―  ※「礼栓」は馬の名

■東シナ海、輸送船に乗せられ、潜水艦の襲撃を受けて一命をとりとめた体験記。  ― 火柱は海を染めた (下平真市 氏) ―

■南支、中国人老婆一家の家に世話になり、親しくなったものの、最後にそこを去るとき、老婆が大切にしていた牛を殺して略奪する現場にいあわせた兵士。  ― 没法子(メイファーズ)な牛のはなし (田村昌夫 氏) ―
※没法子(メイファーズ)……中国語で表面上は「仕方がない」の意だが、牛を殺された老婆が「メイファーズ」と泣き叫びながら、いつまでも地べたに頭をこすりつけていた。

■満州、兵士ではなかったがソ連兵に捕らわれ、シベリアへ護送される列車から、命からがら脱出した体験記。  ― 護送列車から暁の脱出 (関正信 氏) ―

■北支、吹雪の中を行軍中、中国人の花嫁行列に遭遇した話。  ― 吹雪の中の花嫁行列 (中山正男 氏) ―

■蒙疆(中国北部)、高粱畑で敵部隊に遭遇、タコツボに落ちて一命をとりとめたものの、同じ穴に中国兵も落ちてきて睨みあい、相手が怪我をしていることに気づいて三角巾を渡し、自分は穴から脱出して九死に一生をえたが、後にその中国兵の死体を見た(三角巾をしっかり巻きつけていた)という話。  ―高粱畑で遭った敵 (竹中顕 氏) ―


これまでに読んだ、11の戦記の内容を簡単に書いてみた。

戦場での体験は、当然のことながら、日常生活とはまったく次元のことなる日々の連続である。
ふつうの神経では、たちまち発狂してしまいそうな(現に発狂した兵士もいたという)、過酷な日々のなかでも、人間らしい気持ちを失わなかった兵士もいたのだ。

そのことがわかって、少しだけ救われた気がする。

それにしても、中国大陸での日本軍(旧陸軍)の残虐ぶりには、あらためて驚く。
捕虜を、いとも簡単に殺してしまう。
ひどい戦争犯罪だが、兵士たちは、すすんで残虐行為に加わったわけではなく、上官の命令に従わなければ自らの命が危なかったのだ(軍法会議にかけられて殺されてしまう)。

そんなことも、よくわかる体験記なのだった。



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2008年10月29日 (水)

【読】大東亜共栄圏の図版

われながらタイトルがいまいちだが、あいかわらずこんな本を読んでいる。
(まだ、あとがきと解説を読んだだけだが)

Chichi_no_senki『父の戦記』
 週刊朝日 編  朝日文庫 (し3-13)
 2008.8.30 380ページ 700円(税別)

新聞の書評欄でみつけたのだったか、よく憶えていないが、すこし前に手に入れた。
今日、出かけるときに電車の中で、カバーの図版をつくづく眺めていた。
じつに興味ぶかい。

カバー装幀=長井究衡
カバー図版=中野正治 画
「米英の日本反撃態勢地図」
『少國民新聞』 昭和17年10月25日付 日曜カラー版

当時の少年たちは、こういう図版をみて夢をひろげていたのだろう。
私がその当時少年だったら、きっと同じように大東亜共栄圏の夢に、胸をふくらませていたことだろう。
まちがいなく。

この絵地図は、よくできていると思う。


内容は、週刊朝日が終戦二十年記念として公募した、一般人50人の戦争体験手記をあつめたもの。
(1965年12月に単行本として、1982年8月に朝日選書として、朝日新聞社から刊行されたものの文庫化)

あとがきを読んで、ちょっと首をかしげるところもあって、内容にはあまり期待していないが、読んでみようと思う。
なぜ、首をかしげたか。
ここに書くのは難しいけれど、朝日新聞、週刊朝日の、ちょっと鼻につく 「正義感」 が感じられる。
朝日を目の敵にしているわけではないけれど。

1,716編の応募があったという。
週刊朝日 8月13日増大号(1965年)で、入選作が掲載された。

98編が予選で選ばれ、これを、審査員の臼井吉美、阿川弘之、伊藤桂一の各氏と、当時の足田編集長の間で回読、さらに会合して討議の結果、入選5編、佳作20編が選ばれたという。

この文庫版では、さらに25編が追加されて、合計50編。

中国(北部、南部、東北部)、内モンゴル、東シナ海、朝鮮半島、千島列島、シベリア、ボルネオ、ミンダナオ島、ニューギニア、スマトラ島、セブ島、ニューブリテン島、南太平洋、ルソン島、サイゴン、硫黄島、マレー半島、サイパン島、トラック島、ビルマ、ガダルカナル島、真珠湾、内地、沖縄……。

目次に記載されている、それぞれの手記の舞台となった地名を、ざっとひろいあげてみたのが、これだ。
これだけの広範囲にわたって、日本の陸海軍の将兵が戦うためにでかけていったのだ。
そして、ほとんどが、ひどい体験をして帰ってきたのである。
(1965年に手記を書いた人たちは、なんとか帰国できたのだから)

一枚の絵地図が、いろいろな想像をかきたてる。

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2008年10月28日 (火)

【読】読了 「二十世紀 日本の戦争」

なかなか、ためになる本だった。

Nihon_no_sensou『二十世紀 日本の戦争』
 阿川弘之・猪瀬直樹・中西輝政・秦郁彦・福田和也
 文春新書 112 平成12(2000)/7/20
 205ページ 660円(税別)

読みながら、気になるページに付箋をはっていった。
読み終えてから、なぜ付箋をはったのかわからない個所もあるが。

そんな、気になる部分を、書いておこう。
もとより、読書感想文にもなっていない、私的な読書メモであるが、この記事を読んだ方が、面白そうだな、読んでみようかなと、参考にしていただけるなら、なおうれしい。


満州は「無主の地」だったのか
 (第三章 満州事変 P.73-)

私には、まだ「満州」のイメージがはっきりしない。
なぜ、よその国にあそこまで日本人(陸軍、民間人)がはいっていったのか。
満蒙開拓移民、満鉄、関東軍、軍閥、馬賊、……興味はつきないが、混沌としている。
もっといろんな本を読んでみたいと思う。
船戸与一 『満州国演義』 の続き(第四巻)も、はやく読まなくちゃ。

(猪瀬) 「ネガティブに捉えると軍部の独断専行によってできた満州国ですが、日本人が新たに国を作るという未曾有の体験でもあったわけですね。そこには軍事的ヴィジョンと経済的ヴィジョン、あるいは革新官僚による新しい国家組織のヴィジョンが含まれていたと思うんです。……」


目標なき百年戦争 (第三章 満州事変 P.102-)

かねがね不思議に思っていたことがある。
日米開戦の日(真珠湾攻撃の日)、当時多くの文学者たちが、あれほど高揚したのはなぜなんだろう。

(福田) 「……文学者の日記なんか見ると、真珠湾攻撃の日にみんな気持ちがさっぱりする。アジアの仲間のはずの中国とどうして戦争をしているのかという罪悪感が強かったから、英米との戦いが始まると、これはほんとうの敵だということで一気に解放感を持つことができた。」


「爽快感」の構造 (第四章 太平洋戦争 P.163-)

(猪瀬) 「開戦の日はどこで迎えたんですか。」
(阿川) 「東京の荻窪に下宿していたんですが、朝、まだ寝ていたら、かすかに『軍艦マーチ』が聞える。……ハワイ大空襲、それ聞いた途端に涙がぼろぼろ出てきた。いままでの鬱陶しい感じがすうっと晴れたような感じでした。これで自分も死ぬことになるかもしらんけど、仕方がないと思いましたね。……」

(猪瀬) 「これが不思議です。みんなそうなんですね。何かすっきりした、と。高村高太郎の詩が有名ですが。」
(阿川) 「志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、斎藤茂吉、みんなそうですよ。」
(福田) 「伊藤整とか、高見順とか、ああいう人たちでさえ日記はもう『万々歳』。やはりペリー以来の近代日本の歴史の中で、やっと米国に一太刀浴びせたという思いがあったのでしょうか。」

(猪瀬) 「……開戦時、国民が感じた爽快感というのはやはりシナ事変の陰々滅々というのが背景にあってのことではないでしょうか。」
(阿川) 「僕の場合、アメリカに対する憎悪とか反感とか、そういうものは全然なかった。むしろチャップリンの映画や西部劇など、米国産の大衆文化に親しみを感じていたくらいです。どちらかというと、ただただ泥沼が続いている中国大陸の戦線へ出されて、死んでしまうのはいやだなあという気持ちの方が強かった。それが急にすっきりした、それは確かにありました。」


原爆のお蔭で終戦にできた? (第四章 太平洋戦争 P.179-)

これも、かねがね引っかかっていることだ。
広島・長崎への原爆投下、無差別殺戮は、アメリカが犯した大きな戦争犯罪ではないか、という気持ちをずっと持っている。
なぜ、原爆を投下した国や指導者を憎まずに、原爆そのものを憎むのだろう。
「原爆許すまじ」という言葉にひっかかる。
原爆を投下したのは、人間である。
原爆そのものが悪だ、という言い方はどこかおかしい。
原爆を考え出して製造し、それを使った人間が悪いのだ。

(猪瀬) 「……広島、長崎に原爆が落とされ、ソ連が参戦してきて、やっと戦争が終わった。……エドウィン・ライシャワー元駐日大使などの知日派アメリカ人も、原爆投下は正しかったと言いますね。国民感情としては、そんなことを言われては困るんだけど、そう言わせてしまう状況が客観的にあったのではないか。」

(福田) 「しかし、言ってもしょうがないことですけど、原爆は富士山に落としても良かったんです。威力がわかればいいのだったら。都市に落として、何もあんなに一般人を殺す必要はない。実際アメリカ国内では、事前にそういう議論がされていたわけですね。日本の島でも山でも無人の場所に落とすべきだ、という。ところが、……ポツダム会議にトルーマン大統領が行って、ある種、スターリンに威圧されて帰ってきてから流れが変わる。目にものみせてやるという、ソ連への牽制の発想で、ああいう非人道的なことをしてしまう。……」


これぐらいでやめておこうかな。
阿川弘之が、軍隊体験者としての実感を淡々と述べていて、好感がもてた。

次のエピソードが、なかなかよかったな。

(阿川) 「僕の仲間で、『一億玉砕と言われますが、一億のなかには天皇陛下は入られるのでありますか、入られないのでありますか』って聞いて、上官に叱られたのがいますよ。聞かれた方も返事に困ったんでしょうね(笑)。」

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2008年10月26日 (日)

【読】歴史ってなんだろうね (続)

前回、本の紹介だけで終わってしまったので、その続きをすこし。

『二十世紀 日本の戦争』 (文春新書) という五人による討論の本を読んでいる。
明治以後、なぜあれほど戦争をしたのか私などには理解できないことだが、確実に戦争に巻き込まれていった、あるいは、戦争を引き起こしていった、歴史の流れはよくわかる。

どうしようもなかった、と言えば、言える。
後世の人間が思うほど、大きな歴史の流れを止めたり、変えたり、できるものではないのだ。

政治や経済やの動きのほかに、国民大衆の大部分が戦争を望んでいた(支持していた)ようにも思える。
戦況が不利になり、手痛い目にあったのは、ずっと後のことである。
戦争があんな結末になることを予想していた人は、ほとんどいなかったのではないか。

「軍部や指導者の独走に国民がだまされた」 という図式は、あまりにも安直すぎるだろう。
歴史の流れは、それほど単純なものではないのである。


では、二十世紀という戦争の世紀に生きた、ごくふつうの人たちは、どのように暮らしていたのだろうか。

だいぶん前に手に入れ、ずっと本棚にいれっぱなしだったため、すっかり背が日焼けてしまった分厚い本をおもいだした。

とてもユニークな本である。
これだけのデータを集めた労苦に脱帽。


Kateishi_nenpyou_2『昭和・平成 家庭史年表 1926~2000 増補』
 河出書房新社 1997.12発行/2001.4増補改訂発行
 705ページ 4900円(税別)
 下川耿史 家庭総合研究会 編

― まえがき より ―

<昭和の64年間は時間的な長さもさることながら、時代内容が波瀾に富んでいた点でまことにユニークであった。 ごく単純に俯瞰してみても、長い戦争の時代と完膚なきまでの敗戦、そのダメージから立ち直って、経済的に世界一といわれるような社会が一つの時代において実現したのだから、まさに激動といえる。 (中略)
これら昭和という時代の特徴については、すでに多くの人びとが論及しており、年表という形式で発表されたものも少なくない。 しかし、それらはおしなべて政治や経済の動きを中心にしたマクロな社会史であり、家庭生活を中心とした昭和史といえるものではなかった。>

<しかし歴史は日常の蓄積であり、その日常は家庭を基準にして回転している。 とすれば、家庭という視点を抜きにしては生きた歴史は語れないのではないか。>


どのような年表なのか、昭和6年(1931)の項から、ランダムにごく一部を抜粋してみる。
満州事変勃発の年である。

昭和6年(1931) 不況脱出の願いから財テク書が大モテ

衣・食・住

1月 秋田県の調べでは、県下の小学児童17万4,000人中、弁当を持ってこられる者11万7,500人、正午に自宅へ帰って食べられる者や正午までで帰る者2万6,000人。 残る2万8,790人が欠食児童。
2月 東京で建築費、下落。 木造は坪90円から45円に、コンクリート建築は300~400円から120~130円と3分の1以下。 地価が2年前から2割ダウンしたほか諸材料費が大幅ダウンしたため。
この年 報知新聞社が開襟シャツのデザインを懸賞募集。開襟シャツの流行が始まる。/パーマ普及。洋髪(電髪)と呼ばれる。/旭化成が「ベンベルグ」の生産を開始。/はるさめ、日本で製造開始。/納豆ブーム。……

家計・健康・教育
1.4 東京市、極貧者9,000世帯の救済に妊娠調節の実施を計画。
1.16 文部省、全国の学校へ新しい御真影の下賜を始める。
5.10 民間による母の日(第2日曜日)の催し第1号として「母をたたえましょう」街頭行進が東京で行われ、全国に広まる。現在の母の日は昭和23年から。
9.26 愛国婦人会による満州派遣軍への慰問運動盛況、全国から寄せられた慰問袋は120万個。軍人遺族の援助、傷病兵慰問なども行う。
この年 東北・北海道の冷害で農村の不況が深刻化、栄養不良児童続出。山形県のある村では娘457人中、50人が身売り。/学生・生徒(中等学校以上)の左傾思想事件、頂点に(395件、学校処分991人)。/紡績業界での賃金切下げが顕著。……

文化・レジャー
1.10 師範学校・中等学校で、剣術・柔道が必修科目となる。
1月 田河水泡「のらくろ二等兵」が『少年倶楽部』で連載開始。
4.22 東京・上野動物園にシマウマ1頭、初来園。8月にはハナグマ1頭、9月にはマントヒヒ1頭も初来園。
4月 野村胡堂「銭形平次」が『オール読物』で連載開始。
7月 拳闘ファン激増。スター選手の月収は1,000円以上で、帝国・大日本・日本・東洋など拳闘クラブ(ボクシングジム)も10以上、税務署が財源として目をつける。
9月 満州事変が勃発。おもちゃの鉄カブト(アルミニウム製・へら絞り)や発火装置付きの戦争玩具が爆発的に売れる。
9月 『酒は涙か溜息か』(唄・藤山一郎、作詞・高橋掬太郎)が大ヒット。感傷的流行歌の先駆け。
この年 失業楽士のクラリネットを加えた和洋合奏の〝チンドン屋〝が登場。/北陸線の客車に、畳敷きで天井や窓に提灯を飾り、蓄音機や碁・将棋などを備えた「お座敷列車」登場。お座敷列車のはしり。

社会・交通・一般
2月
 デパートから万引きしては東京・浅草の「泥棒市」で売っていた大万引き団が、警視庁に逮捕される。
3.10 戦時色が強まり、静岡市で全国初の防空演習。
5.1 国鉄、小口貨物の運送にコンテナの使用を開始。
8.25 東京・羽田空港が完成。午前7時20分、1番機が大阪へ向けて離陸。
8.30 高島屋、10銭均一ストアを57ヵ所に開設。チェーンストアの始まり。
9.19 満州事変の第一報が臨時ニュースとして放送される。臨時ニュースの第1号。
10月 石川島自動車・東京瓦斯電気・ダット社の3社で国産バスの試作が始まる。/東洋工業(現・マツダ)、初のオート三輪「マツダ号」を発売。482cc、770円。
この年 『週刊朝日』がミスニッポンを募集、山口県徳山市の俵恒子(22歳)が選ばれる。身長159cm、バスト80cm、体重52.5kg。/交通事故で最も多いのは自動車事故1万7,124件、死者147人・負傷者8,890人。第2位は自転車6,205件、死者15人・負傷者4,504人。人力車は34件、負傷者18人。


こんなディテールの総体が、歴史というものなのかもしれない。
読んでいると、時間がたつのを忘れるほどおもしろい。

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【読】歴史ってなんだろうね

「歴史ってなんだろう」 というほど、たいそうな話でもないのだが、ちょっと思ったことを書いておこう。

「あの戦争」 をめぐって、いろんな本を読んでいる。
いま読んでいるこの本も、興味ぶかい内容だ。

Nihon_no_sensou『二十世紀 日本の戦争』
 阿川弘之 猪瀬直樹 中西輝政
 秦郁彦 福田和也
文春新書 112 2000.7.20 660円(税別)

猪瀬直樹が進行役の形の討論である。

二十世紀、日本がかかわった日露戦争、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変に端を発する日中戦争、太平洋戦争、その後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争まで、ちいさな書物ではあるが、よく語られていて勉強になる。

― 猪瀬直樹 あとがき より ―
<愉しい討論だった。 知的に愉しいという意味である。/しかし、テーマは限りなく切ない。黒船の来航とともに日本は弱肉強食の世界に放り出された。 戦争は仕掛けなければ、仕掛けられるのだ。 そういう強迫観念をふりほどこうと苦闘した先輩たちの成功と失敗について論じるのだから。 夥しい数の死者たちの屍の上に築かれた歴史について語るのだから。/後世のぼくたちは、あたかも神の視座にいるごとく世紀という時間と空間を縦横無尽に勝手気儘に歩いた。 日本人が命を賭して二十世紀をどう生きたのか、真摯に問い直そうとする試みならばお許し願えるだろうか。>

阿川弘之、猪瀬直樹をのぞく三人について、私はよく知らないが、カバー裏の紹介文から略歴を転載しておく。

阿川弘之 (あがわ ひろゆき)
 作家。 1920(大正9)年生まれ。
 東京大学文学部卒業後、海軍予備学生。 元海軍大尉。
 著書に『雲の墓標』『暗い波濤』『山本五十六』『井上成美』など。

猪瀬直樹 (いのせ なおき)
 作家。 1946(昭和21)年生まれ。
 著書に『ミカドの肖像』(大宅壮一賞、ジャポニズム研究学会特別賞)『日本国の研究』(文藝春秋読者賞)『黒船の世紀』『ペルソナ 三島由紀夫伝』など。

中西輝政 (なかにし てるまさ)
 京都大学教授。 1947(昭和22)年生まれ。 京都大学法学部卒業。
 ケンブリッジ大学歴史学部大学院卒業。
 著書に『大英帝国衰亡史』『優雅なる推定の世紀』(共著)など。

秦郁彦 (はた いくひこ)
 日本大学教授。 1932(昭和7)年生まれ。 東京大学法学部卒業。
 著書に『軍ファシズム運動史』『昭和史の謎を追う』『現代史の争点』『慰安婦と戦場の性』など。

福田和也 (ふくだ かずや)
 慶應義塾大学助教授。 文芸評論家。 1960(昭和35)年生まれ。
 慶應義塾大学文学部卒業。
 著書に『日本の家郷』『近代の拘束 日本の宿命』『魂の昭和史』など。


(続く)

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2008年10月23日 (木)

【読】読了 「零式戦闘機」

ようやく読みおえた。
それほど長い小説ではないのだけれど(文庫で300ページほど)、少しずつしか読めなかったので、一週間ほどつきあってしまった。

Yoshimura_zerosen吉村昭 『零式戦闘機』
 新潮文庫 476円(税別)

『戦艦武蔵』 もおもしろかったが、それに輪をかけた小説の醍醐味を感じた。

書き出しがうまい。
昭和14年3月、名古屋市の海岸埋立地にある三菱重工名古屋航空機製作所の門から、シートにおおわれた大きな荷を積んだ二台の牛車が出てくるところから、この物語は始まる。

『戦艦武蔵』 では、昭和12年、九州一円で海苔の養殖に使う棕櫚(しゅろ)の繊維が買い占められる謎から始まった。

どちらも読む者の意表をつく書き出しである。
うまいなあ、と思う。

棕櫚の繊維は、巨大な戦艦の建造現場を隠すための棕櫚縄に使われ、牛車は、できあがった戦闘機を名古屋から岐阜県各務原の飛行場まで運ぶためのものだった。
この牛車は、のちに馬車に替わったのだが、敗戦の年まで、戦闘機の主要な輸送手段として使われたというから、驚く。

小説 『零式戦闘機』 は、昭和12年に設計がはじまった零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦の誕生(昭和14年)から、その後の改造、実戦での活躍、そして敗戦までの8年間の物語だ。

いろいろ噂は聞いていたが、これほど高性能な戦闘機とは知らなかった。
欧米の戦闘機をよせつけない、無敵の強さをもっていた。
それゆえ、敗戦のその時まで作り続けられていたのだった。


<八月十五日――
空は、うつろに晴れていた。 その下で鈴鹿工場の工員、徴用工、学徒、女子挺身隊員たちは、整列したまま粛然と顔を伏せて、雑音のまじったラジオから流れ出る天皇の声を聞いていた。
(中略)
かれらは、自分たちの作業の結果が全く無に帰したことを知った。 それは想像もしていなかったことだが、ただ一つの慰めは、体力のかぎりをつくして働いたのだという感慨だけであった。>


終戦日までの8月中に三菱で生産された零式戦闘機の機数は6機だったという。
作者は 「わずか六機」 と書いているが、私には、物資がほとんど底をついていたこの時期に、まだこれだけの戦闘機を作っていたことが驚きだ。


昭和20年6月、B29による激しい無差別爆撃を受けていた頃、「日本の国力は、ほとんど無に近いもの」 だった作者は言い、具体的な数字をあげている。

「軍部の施策によって日本の国力はすべてが軍需工業に協力に集中されていた」 にもかかわらず、戦時中の最高生産期と比べた数字は、信じられないほど小さい。

鉄鋼 35パーセント
非鉄金属 35パーセント
液体燃料 24パーセント
造船 27パーセント

生活必需品(昭和12年の生産量との比較)
綿織物 2パーセント
毛織物 1パーセント
石鹸 4パーセント
革靴 0パーセント
食油、砂糖は皆無

「物のない時代」 だったと頭では理解していたつもりだが、こういう数字を見せられると、当時の様子が目にうかんでくる。

「いささかの感傷も論評性もさしはさまない」 (解説 鶴岡冬一) 吉村昭の作風がよくでていると思うし、この小説の魅力かなとも思う。


昭和19年のラバウル陥落から、昭和20年の壮烈な沖縄戦まで、詳しく描かれていて私にはとても勉強になったし、最後まで小説の醍醐味を感じさせてくれる一冊だった。



さて、次は何を読もうか ―― 考えているときがいちばん楽しい。

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2008年10月15日 (水)

【演】【読】なぜか葛根湯

カテゴリーがむちゃくちゃだけれど、メインは演芸日誌ということにしておこう。

ここ二週間ほど、いや、もっと長くなるか。
ずっと風邪気味。
なんとなく、風邪をひきそうな、でも風邪ともいえないような状態が続いている。
勤め先でも、周囲は風邪ひきさんばかりだから、無理もない。

私は、めったに風邪薬を飲まないが、この葛根湯はよく飲む。
効き目のゆるい漢方薬だから、いくら飲んでも平気な気がして。

葛根湯といえば、もう何度も書いたことだが、私は桂枝雀の落語のくすぐりをおもいだす。
江戸時代の医者は、免許もいらないので、誰でも勝手に名乗ることができた。

こういう医者がたくさんいた。
やぶ医者、すずめ医者、たけのこ医者。
すずめ医者は、これからやぶへ飛んでいこうとしている医者。
たけのこ医者は、これからやぶ(竹やぶ)になろうとしている医者。

やぶ医者は、藪医者と書くが、語源は「野巫医者」だという説がある。
医師免許などない時代、呪術でもって病気を治す(という医術)があったのだ。

西洋医学の薬は、私にはどうも信用できない。
漢方がいいのだ。

Kakkontou今日の収穫。
(葛根湯は除く)

勤め先近くのBOOK OFFで、昼休みに購入。








『流れる星は生きている』

 藤原てい 中公文庫 定価648円(税別)
『日中戦争見聞記 1939年のアジア』
 コリン・ロス 金森誠也/安藤勉 訳
 講談社学術文庫 定価1050円(税別)

いずれも、読まれた形跡なし。
BOOK OFFでの中古価格は、定価の5~6割程度。
中公文庫や講談社学術文庫は、古本でもやや高め。

このところ、このての本が目についてしかたがない。
なかなか読めないことがわかっていながら、ついつい買ってしまうのだ。

(こんな “病気” に効く薬はないものか)

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【読】読了 「戦艦武蔵」

吉村昭 『戦艦武蔵』 をようやく読了。
この勢いで、『零式戦闘機』 を読んでみようと思う。

Yoshimura_musashiYoshimura_zerosen_2吉村 昭

『戦艦武蔵』 新潮文庫 438円(税別)
 単行本 新潮社 1967年

『零式戦闘機』 新潮文庫 476円(税別)
 単行本 新潮社 1968年





『戦艦武蔵』 (新潮文庫) の作者あとがきが、いい。
私も、あの戦争はこういうふうに捉えるべきだと思っている。

<私は、戦争を解明するのには、戦時中に人間たちが示したエネルギーを大胆に直視することからはじめるべきだという考えを抱いていた。 そして、それらのエネルギーが大量の人命と物を浪費したことに、戦争というもの本質があるように思っていた。 戦争は、一部のものがたしかに煽動してひき起したものかも知れないが、戦争を根強く持続させたのは、やはり無数の人間たちであったにちがいない。 あれほど厖大な人命と物を消費した巨大なエネルギーが、終戦後言われているような極く一部のものだけでは到底維持できるものではない。 (後略)>


戦艦大和と同型、同時期につくられたこの巨大な戦艦は、ほとんど戦闘に参加しないまま、1944年(昭和19)10月、フィリピン島沖(レイテ)海戦で撃沈された。

当時、世界最大級の戦艦として、四年以上の歳月をかけて建造された、艦底から艦橋頂上までの高さ50メートル(国会議事堂と同じ高さ)の巨大軍艦である。

この化け物のような軍艦にはある種の魅力があるが、それを造りあげた厖大なエネルギーと、戦闘のためだけに造られたということに思い至ると、いっそ不気味である。



文庫の巻末解説に、磯田光一氏のこんな記述があって、うなずかせる。

吉村昭の、太宰治賞を受賞した出世作 『星への旅』 が、少年たちの集団自殺を描いたものであることに触れたあと――
<『戦艦武蔵』 は、極端ないい方をすれば、一つの巨大な軍艦をめぐる日本人の “集団自殺” の物語である。>  

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2008年10月11日 (土)

【読】吉村昭 「戦艦武蔵」

ひさしぶにに、本のことを書く。
三日ほど前から読み始めたこの本がおもしろい。


Yoshimura_musashi吉村昭 『戦艦武蔵』
 新潮社文庫 438円(税別)

この本は、猪瀬直樹 『作家の誕生』(朝日新書/2007年6月)の中で紹介されていたのを読んで、気になっていたもの。

昭和13年(1938年)から三年近くかけて、戦艦大和と同時に建造された巨大な戦艦の、誕生から沈没までの物語だ。

吉村昭の書いたものを読むのは、これがはじめてだが、徹底した調査・取材に裏づけられた物語は、読み応えじゅうぶん。

いくつか文庫本で、この作家の書いたものを手に入れた。
全部読めるかどうか、わからないけれど……。


Yoshimura_shijitsu吉村昭 『史実を歩く』
 文春新書 003 1998/10 680円(税別)

<「戦艦武蔵」「深海の使者」などの戦史小説、「長英逃亡」「桜田門外ノ変」「天狗争乱」「生麦事件」など幕末に材をとった歴史小説を精力的に発表してきた著者は、その綿密な取材と細部へのこだわりでも知られる。 作家はどのようにして素材と出会うのか、執筆にあたってはどのように調査を進め、いかにして歴史の〝真実〟に肉薄するのか――作家の史実への姿勢を、失敗も含めて率直につづった、とっておきの「取材ノート」。>
(本書カバーより)


とりあえず、『零式戦闘機』 『破獄』 『羆嵐(くまあらし)』 『間宮林蔵』 『赤い人』 『星への旅』 など、読んでみたいと思い、文庫で手に入れた。

いつものように、大型古書店で買い集めた。
このようにして、本がたまっていく……。



猪瀬直樹 『作家の誕生』 については、7月25日に紹介した記事がある。

【読】この本もおもしろい
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_8a85.html

Inose_sakka_tanjou_2吉村昭 『戦艦武蔵』 については、第9章のコラムで5ページにわたって紹介されている(P.227-232)。
この章(「自己演出の極限を目指す」)は、三島由紀夫を論じたものだが、三島由紀夫とはまったくちがうタイプの吉村昭のような作家の方が、私は好きだ。

<産業社会が高度化した結果、国家とか巨大なシステムなど、身体的な実感ではとらえられにくいブラックボックスが生活空間を支配しはじめる。>

<吉村昭は三島由紀夫より二歳下、1927年(昭和2年)の下町生まれ、繊維関係の工場を営む商家であり官僚エリートでもなければ教育や文学とも無縁の家系であった。 地味な短編作家としてスタートした吉村昭は、三島由紀夫が自衛隊へ体験入隊しようと考えはじめるころ、過去の戦争の姿を社会の一面として描くことに成功した。 1966年に新潮社より刊行さらた 『戦艦武蔵』 である。>

<『戦艦武蔵』『零式戦闘機』など戦史シリーズは、巧みな短編小説の書き手であった吉村昭の仕事を新しい方向へと大きく旋回させた。 七十年代から始まるノンフィクションの時代の幕開けを決定づけた。>

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2008年9月25日 (木)

【読】再読 『同日同刻』 (山田風太郎)

ちょっと読み直してみようと軽い気持ちで開いているうちに、がぜん面白くなってきたので、通読してしまった。
二年前に手に入れて読んでいるが、今回、再読。

Doujitsu_doukoku山田風太郎 『同日同刻』
 ― 太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日 ―

ちくま文庫 2006.8.10  840円(税抜)
(立風書房 1979年8月/文春文庫 1986年12月)

このブログのカテゴリにも、「山田風太郎」 を追加したので、ご興味のある方はカテゴリをクリックしてご覧いただきたい。

すでに、前回読んだときの付箋がいっぱい付いていたのだが、付箋のない箇所で今回気になったところを紹介しておこう。


「最後の一日 八月十五日」 の項から。

九日前の八月六日に原子爆弾を投下された広島での逸話。
昭和天皇の 「玉音放送」 を聞いた人たちのことだ。
出典は、峰谷道彦 『ヒロシマ日記』 (朝日新聞社)。

<広島の病院では、天皇の放送をきいて俄然静まりかえった。 寂(せき)として声なく、しばらく沈黙がつづいていたが、間もなくすすり泣きの声が聞え出した。
 突然、誰か発狂したのではないかと思われるほど大声で、「このまま敗けられるものか」 と怒鳴った。
 それにつづいて、矢つぎばやに、「今さら戦争をやめるとは卑怯だ」 「人をだますにもほどがある」 「敗けるより死んだ方がましだ」 「何のために今まで辛抱したのだ」 「これでは死んだ者が成仏出来るか」 いろんな表現で鬱憤が炸裂した。
 病院は上も下も喧々囂々(けんけんごうごう)全く処置のない昂奮に陥った。 日ごろ平和論者であった者も、戦争に厭き切っていた者も、すべて被爆のこの方俄然豹変して徹底的抗戦論者になっていた。
 「東条大将の馬鹿野郎、腹を切って死ね」
 と、怒鳴った者もあった。>

この本では、広島の被爆後の地獄絵図が、たくさんの書き物(日記、手記、文集)を引用して、微細にえがかれている。
それを読んだ後だったので、私には、広島の病院の被爆者たちの反応が意外に思えた。

人間とは、なんと不思議なものか。


もう一箇所、ちょっと、ひっかかった部分がある。
堀田善衛(当時十七歳)の文章。
出典は、勁草書房 堀田善衛 『上海にて』。

<上海にあった二十七歳の堀田善衛は、同様に戦争中日本に協力してくれた中国人の運命について、天皇が 「何をいうか、何と挨拶するか」 ひたすらにそればかりを注意して聞いていた。 そして天皇がそのことについて、ただ 「遺憾ノ意ヲ表セザルヲ得ズ」 という曖昧な二重否定をしたきりで、ほかには触れなかったその薄情さ加減、エゴイズムが躯(からだ)に応えた。
 「放送が終ると、私はあらわに、何という奴だ、何という挨拶だ。 お前の言うことは、それっきりか、それで事がすむと思っているのか、という怒りとも悲しみともなんともつかぬものに身がふるえた」>

中国、朝鮮半島の人々にとって、この日(八月十五日)は、解放の日だったことを忘れてはいけないと思う。


ちょっと愉快だったのは、永井荷風の逸話だ。
この人だけは、飄々としていた。
出典は、『断腸亭日乗』 (荷風全集)。

<絶望し、悲嘆し、慷慨し、狼狽し、虚脱する者ばかりではなかった。 ひそかに、あるいは公然と喜悦する人もまたあった。
 谷崎潤一郎に見送られたあと、永井荷風は記す。
 「……出発の際谷崎夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及び牛肉を添えたり。 欣喜措く能わず。 (中略=山田風太郎) 午後二時過岡山の駅に安着す。 焼跡の町の水道にて顔を洗い汗を拭い、休み休み三門の寓舎にかえす。 S君夫婦、今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言う。 恰もよし日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る。 休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。」>


この本は、じつに面白い。
面白いと言うにはつらすぎる話が満載されているが、きわめて興味ぶかい本だ。
あらためて、推奨。



【参考】 ― Wikipedeiaより ―
堀田善衛(ほった よしえ、1918年7月7日 - 1998年9月5日)は、日本の小説家。
富山県高岡市出身。生家は伏木港の廻船問屋であり、当時の日本海航路の重要な地点であったため、国際的な感覚を幼少時から養うことができた。旧制金沢二中から慶應義塾大学に進学し、文学部仏文科卒業。大学時代は詩を書き、雑誌「批評」で活躍、その方面で知られるようになる。戦争末期に国際文化振興会の上海事務所に赴任し、そこで終戦を迎え、国民党に徴用される。引揚後、一時期新聞社に勤務したが、まもなく退社し、作家としての生活にはいる。

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2008年9月21日 (日)

【読】『銃後の絵日記』

今日、図書館でこんな本をみつけた。

Juugo_no_enikki『太平洋戦争 銃後の絵日記』
 青木正美 編
 東京堂出版 1995.3  325ページ

編者略歴
青木正美(あおき・まさみ)
1933年、東京に生まれる。 50年、都立上の高校定時制中退。 53年、現住所に古本屋を開業。 営業のかたわら生涯の生業となった古書業界史に興味を抱く一方、近代作家の原稿・書簡、無名人の自筆日記などの蒐集に励む。 著書に 『昭和の子ども遊びと暮らし』 『古本屋四十年』 『古本屋控え帳』 『古本屋奇人伝』 『自筆本蒐集狂の回想』 『古本探偵追跡簿』 など。

この本は、編者が昔入手してあった二人の太平洋戦争の戦時下日記を編集したもの。
絵日記というところに魅かれて、借りてきた。
ユニークな本だ。

「はじめに」 のなかで、昭和20年度に克明な日記を残した文学者として、永井荷風、内田百閒、伊藤整、高見順、一色次郎、山田風太郎らの名前をあげている。

この本でとりあげている絵日記は、一般の無名人のものである。

一人目は、昭和17年から書き始めている絵日記作者、鈴木長三郎。
総武線幕張駅近くに住み、県立商業校の満四十歳の教員らしい。
用紙、筆記用具が極端に不足し、まして絵具などは一般には手に入りにくくなっていた時世に、みごとな絵日記を残している。

二人目は、都心の会社の労務課に勤める四十六歳の男性、松波盛太郎。
もともと文学青年くずれだったことが日記作者となったその背景としてあった、と編者はいう。
王子に世帯を持っていたが、弟が出征、昭和19年に戦死。
日暮里谷中の実家に年老いた父母と、母に先立たれた弟の娘がいる。
弟の戦死が伝わってからは、勤めの帰りには必ず実家に立ち寄って家をみるようになった。

<昭和二十年の年頭、彼はこの理不尽な弟の死を嘆き、この上は日々逼迫する戦争を、日本の運命を、とことん見てやろうと、まるではかない抵抗をこころみるように、一日々々を日記(こちらはとても絵日記とは言えないまでも、所々図解まで入れて)に刻みつけたのである。> (本書「はじめに」)



そういえば、ずいぶん前に、このブログでとりあげた山田風太郎の本があった。
なにやら付箋がたくさん付いている。
よほど夢中になって読んでいたらしいが、よく憶えていない。

Futaro_doujitsu『同日同刻 太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』
 山田風太郎  ちくま文庫 2006.8

発売当時、読んだときの感想を、このブログに書いていたっけ。
じぶんのブログ記事ながら、こういうときに役にたつもんだ、と感心した。

2006年9月7日
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/__4e45.html

2006年9月8日
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/_2_1e0a.html

2006年9月9日
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2006/09/_3_09f1.html

この本の内容は、もうほとんど忘れていたのだが、今日、二年ぶりに読み返してみると、とても面白いのだ。

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2008年9月20日 (土)

【読】「英霊何個」

いい本だな、と思った。

Ishikawa_hitou_toukouki一昨日、このブログで紹介したばかりだが。

『比島投降記 ― ある新聞記者の見た敗戦 ―』
 石川欣一  中公文庫

こんな一節があって、ハッとした。
1945年12月、ルソン島から日本へ引き揚げる船の中でのエピソードだ。

少し長くなるが、その部分をそっくり転載しておこう。
いい文章だと思うから。

― 「英霊何個」 (P.135~) より ―

<いよいよ明日は目的地に着くという晩、僕等のいた第三船艙に臨時に設備した木の階段を、中頃まで下りて来て、大声で注意を与えた男がある。 色々なことをいったあげく、「この中に英霊を持っている人があったら、何個あるか、その数を届けて下さい」 といって立去った。 僕は身体中が震えた。 英霊は荷物か。 僕は立上って、この船艙の小隊長をしている人の所へ行った。 「あの男は何ですか」 「輸送隊長です」。 この若い、恐らく少尉か何かをしていたらしい人物は、僕の権幕にあっけに取られたように答えた。 「名前を知っていますか」 「A大尉といいます」 「あなたはA大尉が、たった今、英霊何個といったのを聞きましたか」 「ああ、そういえば、そんなことをいっていましたね」 ……。>

<僕は甲板に出た。 目の前に、水をへだてて浦賀の火が見える。 眼鏡がこわれてしまったので、灯火はうるんで瞬いていた。 「英霊何個! 英霊何個!」 僕は涙が出て、その涙がいつまでもとまらないので困った。 冬の風は、夏服しか着ていない僕につめたかった。 しかし 「王さん待ってて頂戴な」 という、ダミ声の合唱が聞えて来る船艙に、下りて行く気はしなかった。 いかに不注意とはいえ、英霊を何個と呼ぶ大尉、それを変だとも無礼だとも思わぬ人達。 昭和二十年十二月二十一日、浦賀港の入口で、五十一歳のぼくはさめざめと泣いた。>




この文庫の巻末に、著者のご子息(石川周三氏)が書いた 「著者について」 という小文が載っている。
興味ぶかいことがわかった。

著者、石川欣一は、明治28年東京生まれ。
その父、石川千代松は旗本の家に生まれたが、徳川幕府が崩壊。
明治8年開成学校に進み、同15年東京大学理学部を卒業後、ドイツのフライブルグ大学に学び、帰朝後母校の教授となった。
開成学校時代の恩師 E・S・モース(大森貝塚の発見者)が書いた 『日本その日その日』 のことが、 『比島投降記』 の中で触れられているが、これは、モースと千代松との関係で、石川欣一が翻訳したものだという。



【参考】

日本その日その日 1
(東洋文庫 171)
エドワード・シルベスター・モース=著
石川欣一=訳
定価:2415 円(本体:2300 円)  全書判  1970.09
ISBN978-4-582-80171-2 C0139 NDC分類番号 291

日本その日その日 2
(東洋文庫 172)
エドワード・シルベスター・モース=著
石川欣一=訳
定価:2415 円(本体:2300 円)  全書判  1970.10
ISBN978-4-582-80172-9 C0139 NDC分類番号 291

日本その日その日 3
(東洋文庫 179)
エドワード・シルベスター・モース=著
石川欣一=訳
定価:2310 円(本体:2200 円)  全書判  1971.01
ISBN978-4-582-80179-8 C0139 NDC分類番号 291

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2008年9月18日 (木)

【読】引き続き あの戦争に関する本を

われながら、凝り性というか、なんというか。
こんな本を、職場近くの BOOK OFF でみつけて、昨日から読んでいる。

Ishikawa_hitou_toukouki_2『比島投降記』
 ― ある新聞記者の見た敗戦 ―
 石川欣一 著  中公文庫
 1995.2発行  本文189ページ 485円(税別)

― 本書著者紹介より 転載 ―
石川欣一
明治28年(1895)、東京に生まれる。
東京大学から米国プリンストン大学に転じ、同校卒業とともに毎日新聞社に入社。 同社ロンドン支局長、サン写真新聞社長などを歴任。 日本ライオンズ・クラブ初代ガバナーなどを勤め、昭和34年(1959)死去。
(以下、略)

こういう、ヒューマンで、リベラルな人も、当時いたんだな、と、感心しながら読んでいる。
一話が三、四ページの短い話を集めているので、読みやすい。
活字も大きく、行間もゆったりしていて、文庫としては目にやさしい。

「投降記」 とあるが、敗戦後、米軍と連絡をとりながら計画的におこなわれたものなので、悲愴感がない。

<いわばこれは筋書を立て、スケジュールによる投降だったのである。向こうから雨霰と大砲や小銃を撃って来る中を、白旗を振り廻して降参したというような、劇的な場面とは違って、至極事務的に、スムーズに行われたのである。> (P.13)

捕虜にはなったが、著者は英語力を見込まれ、収容所で米軍の通訳として働いた。
米軍人と旧日本軍人の冷静な対比、米軍から給与される食事の豪華さなど、なかなかに興味ぶかいエピソードが満載。



― 本書 カバーより ―
昭和二十年九月六日、新聞報道関係者の一人であった著者はフィリピンのルソン島にて投降した。 本書は国際経験豊かなジャーナリストの収容所における米軍将校との温かい交流の記録であり、公正な眼がとらえた敗戦時における卓抜な日米文化比較論である。

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2008年9月16日 (火)

【読】『ガダルカナル・ラバウル慰霊行』

古本屋の戦記コーナーでみつけた本。
私の最近のアンテナは、こういう本をキャッチするらしい。
今日、半分ほど読んだ。

Guadalcanal_rabaul『ガダルカナル・ラバウル慰霊行』
 蔭山次郎  東洋出版 1998.4.10  175ページ

著者 蔭山次郎という人は、「在香港企業社長にして文筆家」 と、著者略歴にある。
43歳の1993年1月15日にガダルカナル島へ行った、とあるので、1949年か50年生まれだろう。
そうすると、私とほぼ同年代である。

親しい友人二人とともに、ガダルカナル島、ニューギニア本島、ラバウルを訪れた記録。
著者が中学生のとき、同級生が図書館で見せてくれた太平洋戦争の写真集に衝撃を受けたことが、この「慰霊行」を思いたった下地になっていたらしい。

五味川純平の長大な戦記 『ガダルカナル』 ではよくわからなかった現地の様子を、たくさんの写真から現実のイメージとしてうかがい知ることができる。


太平洋戦争の写真集によく出てくる、一木支隊の将兵の死体が折り重なっている写真の戦場も、わかった。
この 「一木支隊」 は、旭川の第七師団歩兵第二八連隊を基幹に編成された部隊。

中国戦線から、ミッドウェー攻略の上陸部隊として呼び戻され、ミッドウェー海戦で敗退したために、急遽、ガダルカナルに派遣された。
二千余名、小火器しか持たないこの小部隊は、飛行場奪還の先遣隊として上陸したが、米軍の圧倒的な砲撃の前になすすべもなく全滅。
支隊長の一木清直大佐は自決した。

北海道の第七師団には、私に縁のある人も、もしかしたらいたかもしれない。



― 以下、Wikipediaより ―

鎮台を母体に編成された内地の常設師団とは異なり、第7師団は1885年(明治18年)に北海道の開拓と防衛を兼ねて設置された屯田兵を母体とし1896年(明治29年)5月12日に編成された。補充担任は旭川師管区で、北海道内を旭川連隊区・札幌連隊区・函館連隊区・釧路連隊区と4つに分けて徴募に当たり、北海道の兵士で構成される建前であるが、北海道は人口が希薄であった為1万の兵力は捻出できず、実際には東北地方出身の兵も加えられた。
なお、1940年(昭和15年)に編制が改正され、歩兵第25連隊を樺太混成旅団に転出して3単位師団となった。

1904年(明治37年)日露戦争に出征し、旅順攻略戦・奉天会戦に参加する。1917年(大正6年)から2年間満州に駐屯し、シベリア出兵に参加。1934年(昭和9年)と1936年(昭和11年)にも満州に派遣された。
その後も1938年(昭和13年)2月に関東軍の指揮下に入り満州に派遣、7月に張鼓峰事件が起きて出動、これは師団の交戦前に終結され、1939年(昭和14年)にはノモンハン事件でソ連軍と交戦する。しかし、第7師団は北辺の守りを担う重要師団であり、1942年(昭和17年)に一木支隊を編成しガダルカナル島に派遣したものの、師団本体は1941年(昭和16年)12月に北部軍隷下に置かれ、以後北海道に在り続け第二次世界大戦の終戦を迎えた。

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2008年9月14日 (日)

【読】読了 『ガダルカナル』

どうしても読みおえてしまわなければ、気になってしかたがない本だった。
今夜、最期の数十ページをいっきに読んだ。

Gomikawa_guadalcanal五味川純平 『ガダルカナル』
 文藝春秋 1980年11月1日発行
(初出 「文藝春秋」 昭和54年8月号~55年8月号)

ガダルカナルの戦いと同じ頃、ニューギニア戦線にいた飯田進という人が、その著書 『地獄の日本兵 ―ニューギニア戦線の真相―』 (新潮選書)で、こう書いていた。

<何度パソコンのキーボードを打つ手を置いて、嘔吐(へど)の出そうな思いを抑えたことでしょう。>

私も、この 『ガダルカナル』 のおしまいの方で、(言葉は悪いが)「反吐の出そうな思い」 を味わった。
「戦争のはらわた」 と言うが、まさに、醜いはらわたを見た思いだ。

感じたこと、想ったことは、たくさんあるが、今は、この島で起きた事実に圧倒されて何も言えない。


ガダルカナルについて書かれた書物や、ネット記事で、よく紹介されていることがある。
この本でも、引用されているので(P.283)転載しておく。

<歩一二四連隊旗手小尾少尉の日記によると、このころアウステン山を死守していた日本兵の間では不思議な生命判断が流行したという。
 立つことの出来る人間は     寿命三十日間
 身体を起して坐れる人間は   三週間
 寝たきり起きられない人間は  一週間
 寝たまま小便をするものは   三日間
 もの言わなくなったものは    二日間
 またたきしなくなったものは   明日
(小尾靖夫 『人間の限界』 十二月二十七日の項)>



著者 五味川純平は、この長大な戦記を次のように結んでいる。

<死地にあった身を生きながらえた者が語りつがねば、米も食わずに戦ってぼろぼろになって死んだ男たちの死は、その理不尽とむごたらしさを、みずから語ることはない。 (中略)
 ガダルカナルに限らない、どれだけ夥しい青春がむざむざ使い捨てにされたか。 けれども、時が経ち、人は遂に知る必要を覚えないかのようである。
 過去のことは過去の人間がしたことでしかない。 所詮は見知らぬ他人事なのである。 昔、青春がいくら使い捨てにされようが、いまの自分には関係はない。 そう思っているかのようである。
 過去が現在に関係がなければ、歴史も戦史も、その醜いはらわたを暴く必要はないのである。>



本書の記述によれば(第十七軍参謀長の昭和18年2月22日発電)、三次にわたって決行された、ガダルカナル島撤収人員は次の通り。

第一次  4935 (含海軍 441)
第二次  3921 (含海軍 332)
第三次  1796 (含海軍 75)
計 1万652 (含海軍 848)

いっぽう、昭和17年8月以降、第十七軍のガ島上陸総人員は、3万1404名。
交戦中に後送した患者は740名。
ガ島における損耗は2万800名(上陸人員の66%)。
(ただし、海軍や設営隊や船員を含まない、不完全な数字)

戦死は、5000ないし6000と推定され、内輪にみても1万5000前後が戦病で斃れたと思われる。
死因は、栄養失調、マラリア、下痢、脚気等によるが、そのほとんどは補給の甚だしい不足に責を帰すべきである。
 (以上、本書 P.304)


昭和18年(1943)2月、日本軍は、ほとんど奇跡的と言ってもいい、ガ島からの撤退を「完了」させたたが、その陰には、残置され、自決を強要された傷病兵も、また、数えきれないほどいたことを忘れてはいけないだろう。

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2008年9月11日 (木)

【読】ガダルカナル (続)

われながら、よく頑張ったと思う。
誰もほめてくれないようなことだから、せめて、自分で自分をほめてあげたい、なんちゃって。

長大なガダルカナル戦記の、230ページまですすんだ。
残すところ、本文75ページ。

図書館の二週間の貸出期間に達したので、ネットで延長。
図書館も、ネット予約、ネット貸出延長ができるようになっているので、便利である。


Gomikawa_guadalcanal五味川純平 『ガダルカナル』
 文藝春秋 1980年

こうまで時間がかかるのは、毎日すこしずつしか読めない事情もあるが、内容が読みにくいためだ。
いたるところに、当時の戦闘記録や手記が引用されていて、それが読みにくい。
たとえば、こんな感じ。

<一 敵ハ我友軍機出動ノ間隙ヲ利用シ依然揚陸点 高射砲陣地 我第一線ヲ爆撃アルモ 我企図ヲ察知シアラサル如ク 我飛行場射撃ハ効力アルモ弾数僅少ノ為敵活動ヲ封殺シ得ス>

<二 軍攻撃準備ハ概ネ予定ノ如ク進捗シ 第二師団ハ地形ノ嶮難ヲ克服シ十八日夕迄ニ「ルンガ」上流河合ニ 師団ノ両歩兵団長(一ハ那須、一ハ川口少将)歩兵第二十九連帯ヲ集結セリ>

これは、軍司令所からの電報だそうだ。 (P.198)

こんなカナまじりの古い文章は、適当に読み飛ばせばいいのだろうが、私の性格からそれができない。
困ったものだ。

私を混乱させることが、他にもある。

旧日本軍の組織、編成がよくわからない。
連隊、大隊、中隊、小隊、さらには、大きな単位の師団ぐらいまでは、頭に入っているが、「十七軍」と「第二師団」の関係は?となると、もうわからない。

Wikipediaなどを見て、すこし調べてはみたが、規模のイメージがわかない。

さらには、海軍の組織というか編成が、これまた、わけがわからない。


それはさておき、五味川純平という人、よくぞここまで調べたものである。
執念といっていいかもしれない。

惜しむらくは、詳細な地図の掲載が少ないため(P.199にようやく一枚掲載されている)、登場する地名の位置関係がわかりにくいことだ。
本文では、ここまで詳細に記述しているのだから、地図や当時の軍編成図ぐらいは欲しいところ。

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2008年9月 4日 (木)

【読】ガダルカナル

Gomikawa_guadalcanal_3五味川純平 『ガダルカナル』
 文藝春秋 1980年

読み始めてから一週間、なかなかすすまないが、がんばって読み続けている。
313ページあるうちの三分の一まできた。

長大な戦記である。
1942(昭和17)年8月7日、当時、日本軍が飛行場を建設中だったガダルカナル島へ、米軍の上陸がはじまった。
100ページほど読みすすんだところで、まだ、日付は9月はじめまでしか進んでいない。
日本軍が、どうにかしてガダルカナル島を奪い返すため、大兵団を上陸させようと試みているのだが、ことごとく失敗。
たくさんの兵卒を無駄に死なせている。


とにかく、記述が細かく、活字も小さいので、集中して読まないとわからなくなってしまう。

はじめの数十ページで投げ出してしまおうかとも思ったが、それも悔しいので、ぐっとこらえて読んでいるうちに面白くなってきた。
悲惨な戦争のハナシだから、面白いと言ってしまうとイケナイのだが、やはり面白い。
日本軍の指導者のダメさかげんが、よくわかる。

始めから、やらなきゃよかった戦争だと思うのだが、それにしてもひどい戦争だった。
米軍を中止とする連合軍との国力、戦力、戦略、戦術の差が歴然としている。
日本は、とにかく精神力だけを頼みに戦ったのではないか、とまで思える。
もっと冷静、客観的に戦況を捉えられる人物はいなかったのか。
まこと、不思議な国であった。


<日本は、開戦時の計画では、経済的必要と戦略的必要から、攻略範囲を概ねビルマ、マレー、スマトラ、ジャワ、セレベス、ボルネオ、フィリピン、グァム、ウェーキ、香港等の諸地域とし、これらを内懐に抱くマーシャル群島以西の海域を確保することで長期持久を策するはずであった。 それが、緒戦の成功で調子づいて、マーシャル群島の線を遥かに超越した線へまで構想が放漫に冒頭したのである。
 別の表現を用いれば、一旦戦争に火をつければ、何処まで燃えひろがるか、何処を終末線として限定できるかについて、正確な計測が行なわれなかったといえる。>
(本書 P.11)



ところで、今年もはやいもので、9月になった。
ガダルカナルでの戦闘から、66年後の同じ季節。

どしゃぶりの雨の中を帰宅。
多摩地方には、大雨洪水警報がでている。

私は、ずぶ濡れになったズボンを干すぐらいのもので、家に帰ればシャワーも浴びられるし、腹いっぱいメシも食える。

あの時代、あの場所に自分がいたら(おそらく一兵卒として)、どのように戦い、生きようとしただろうか。
天皇陛下バンザイと叫んで、敵にむかって突撃して、あっけなく殺されていたかもしれない。
(そんなことはしない、とは言いきれない)

あるいは、ジャングルの中に逃げこんで、餓死していたかもしれない。

そんなことを、つらつら思う。
いま、外は、ふたたび激しい雨になっている。

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2008年8月29日 (金)

【読】興味ぶかい本

このところ、本のことばかり書いているが、次から次へと興味ぶかい本がみつかるものだ。

本ばかり読んでいると馬鹿になるぞ――いつも、そういう自戒を忘れないようにしているが、根が本好きなのだろう。
凝り性という性分もある。
ある分野に関心を持ちはじめると、しばらくのあいだ、いろんな本を探しまわる。
読むスピードが遅く、読書に割ける時間もさほどとれないので、読みたいのに読んでいない本がたまっていく。
まあ、いいだろう。

少し前に、朝日新聞の書評欄で見た記事。

Asahi_shohyou_20080817_2朝日新聞
2008年8月17日(日曜日)

「苦難の昭和が示す教訓」
半藤一利 (作家)

『畏るべき昭和天皇』
松本健一 著
毎日新聞社
2007.12.20
1680円

Matsumoto_shouwa_tennou1_2Matsumoto_shouwa_tennou2― 上の新聞書評(半藤一利)より ―

<昭和史の中心にあったのは、いうまでもなく昭和天皇である。
最近刊の松本健一 『畏るべき昭和天皇』 は過去の諸書なんかと違い、とにかく昭和史における昭和天皇の存在のいちばん核心のところを深く考察した野心的な論考である。
二・二六事件のさいの天皇の畏るべきところは、北一輝から軍隊を奪い返したところにある、といったそれこそ恐るべき記述にぶつかり、驚倒させられることしばしばであった。>

私にとっての昭和天皇といえば、高校生のとき、天皇が北海道の旭川市を訪問したことがあり、そのパレードを見たことがある。
その頃の私は、観念的にしか天皇をとらえていなかった。
(この世の中を観念的にしかとらえられない高校生だった)

いっしょにいた当時の友人(左翼的な活動をしていた)が、「トマトジュースを車にかけてやろうか」 と言っていたことを憶えている。
私は、おもしろがって聞いていた。
それだけのことだが、ミョーなことを憶えているものだ。

あれから40年が過ぎた。
昭和の天皇はとうに死去し、私の中では、あの天皇の謎が深まっている。
たしかに、まれに見る偉大な君主だったと思う。
カンケイナイとは言い切れないものが、私の中にもあるのが不思議だ。
体の奥深いところに、何かしみついているものがある。

「畏(おそ)るべき」 という形容がふさわしい。
興味は尽きないのである。   

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2008年8月28日 (木)

【読】こんな本を読んでいる (4)

ニューギニア島では、二十万人以上の兵士が上陸して三年間の戦闘が繰り広げられた。

戦闘、と呼ぶにはあまりにもお粗末、無謀な作戦の連続だった。
ポートモレスビー(ニューギニア東部、連合軍の最前線基地があった)を陸路から攻略しようとして失敗、連合軍の逆襲を受けて敗走を続けた、まさに地獄絵図のような敗戦までの数年間。

その前に、ガダルカナル島をめぐる攻防と、日本軍の敗退があった。

1942年5月 珊瑚海海戦
同年 6月 ミッドウェー海戦
同年 7月 日本軍、ガダルカナル島上陸、ポートモレスビー陸路攻略開始
同年 8月 米軍、ガダルカナル島上陸(反攻開始)
1943年2月 日本軍、ガダルカナル島から撤退

Gomikawa_guadalcanal五味川純平 『ガダルカナル』
 文藝春秋 1980.11.1

先に読んだ 『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』 に紹介されていた、五味川純平の戦記。
あまりに細かい戦記なので、最期まで読めるかどうかわからないが、今日から読み始めている。

以下、本書 「あとがき」 より。

<日本人は、よくよく、失敗の教訓を教訓としたがらないらしく見える。 軍人や政治家が特にそうである。 ノモンハンからガダルカナルまでちょうど三年、ノモンハンでしたたかな実物教育をくらいながら、ガダルカナルではより深刻な用兵の失敗を繰り返した。 四十年近く経って、まだその認識と反省がないのはどうしたことであろうか。 ガダルカナルやニューギニアで餓死した夥しい壮丁は、四十年後、祖国の進路の選択に関して、何も言うことは出来ない。 実際には、彼らを餓死せしめた罪の一端を背負うべき者が、現在の日本の進路の決定にあずかっていたにもかかわらず、死者は永遠の沈黙を強いられたままである。>

(四十年後、というのは、この本が上梓された1980年、防衛論議が盛んになっていた時期)



― 以下、Wikipediaより ―

ガダルカナル島の戦いは日本の継戦能力の限界を超えた状況となっており、11月24日にはある将校が「そこら中でからっぽの飯盒を手にしたまま兵隊が死んで腐って蛆がわいている」旨を大本営に報告したが、撤退は未だ決まらなかった。1ヵ月後の12月31日になって日本軍はようやく撤退に向けて動き始めたがこの間にも多くの将兵が餓死していった。(これはガダルカナル以降補給の途絶えた各戦場で見られた現象で、ある生存者はジャングルを「緑の砂漠」と表現した。)ほとんどの部隊では、ふらふらと何とか歩ける兵士はすべて食糧の搬送に当たり、陣地を「守る」のは、立つこともできなくなった傷病兵という状態に陥っていた。そういう中で、やっと手に入れた食糧を戦友のもとに届けようと最後の力を振り絞り、背中に米を担いだまま絶命する兵士も現れれば、食糧搬送の兵を襲って米を強奪する兵士も現れる状況になった。

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【読】こんな本を読んでいる (3)

Jigoku_no_nihonhei『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』
 飯田 進 著
 新潮新書 273  2008.7.20

ようやく読み終えたこの本の 「あとがき」 に、こんなことが書かれている。

<戦後、とりわけバブル景気華やかだったころ、数多くの戦友会によって頻繁に行われた慰霊祭の祭文に、不思議に共通していた言葉がありました。
「あなた方の尊い犠牲の上に、今日の経済的繁栄があります。 どうか安らかにお眠りください」
飢え死にした兵士たちのどこに、経済的繁栄を築く要因があったのでしょうか。 怒り狂った死者たちの叫び声が、聞こえて来るようです。 そんな理由付けは、生き残った者を慰める役割を果たしても、反省へはつながりません。 逆に正当化に資するだけです。 実際、そうなってしまいました。>

<なぜあれだけ夥しい兵士たちが、戦場に上陸するやいなや補給を断たれ、飢え死にしなければならなかったのか、その事実こそが検証されねばならなかったのです。 兵士たちはアメリカを始めとする連合軍に対してではなく、無謀で拙劣きわまりない戦略、戦術を強いた大本営参謀をこそ、恨みに怨んで死んでいったのです。>


その 「大本営の参謀たち」 の生き残りの一人、服部卓四郎という人物が、この後紹介されている。

服部卓四郎――太平洋戦争発起時の大本営参謀本部作戦課長。
サイパン島陥落を機に、中国奥地に連隊長として左遷されていたが、戦後間もなく、GHQのウィロビー少将によって、一人任地から連れ戻される。
太平洋戦争の戦史編集という名目だったが、実際には対ソ連戦に備えた軍事情報の提供と、再軍備の下工作に携わっていた。

<なぜ服部大佐だったのか。 その理由は簡単でした。 大本営に着任する前、彼は関東軍(満州[中国東北部]に駐屯していた日本陸軍部隊)の作戦主任でした。 関東軍の長年の仮想敵国はソ連でした。 もうお分かりになった筈です。 服部大佐は、日本を片づけたアメリカ軍にとって重要な人材と判断されたのです。>

旧軍の職業軍人を集めた 「服部機関」 なるものが、GHQからの給与を受けながら、再軍備の下工作に暗躍し、大佐自身は再軍備の総参謀長に擬せられていた。
彼が仕えた東条英機がA級戦犯として処刑される前後のことだ。


著者がスガモ・プリズンに送還されて間もないころ、朝鮮戦争が勃発(1950年6月25日)。
同年8月10日、警察予備隊が発足した。

服部大佐の幕僚長就任こそ、時の吉田茂首相によって忌避されたが、旧軍人に対する公職追放令は解除され、職業軍人だった者たちが、続々と警察予備隊に入隊した。
それが、今日の自衛隊の発端だ。

<その旧軍人たちを、ここで一概に非難するつもりはありません。 (中略) ですが、職業軍人とは、昔でいえば武士です。 武士道の最重要な規範に、恥を知ることがあります。 (中略)
彼らの大部分は、参謀の立案した作戦計画に従って戦場に投入され、命を落としました。運よく生き残って本国へ戻り、また懸章をぶら下げる軍人のどこに恥を知る心があったのでしょうか。>


もうひとつ、著者があげている例。

戦争末期の、日本の都市への絨毯爆撃、さらには、広島・長崎への事前警告なしの原爆投下。
この爆撃作戦を立案し、指揮したのが、アメリカ軍のカーチス・ルメイ空軍少将だった。
戦後、彼は空軍元帥にまでなった。

その彼に、日本政府は、昭和39年、勲一等旭日大綬章を授与した。
もちろん天皇の名によって。
授賞の理由は、日本の航空自衛隊の育成に協力したことだった。



― 以下、Wikipediaより ―

カーチス・エマーソン・ルメイ(Curtis Emerson LeMay, 1906年11月15日 - 1990年10月1日)は、第二次世界大戦期のアメリカ合衆国の軍人である。戦略爆撃の専門家、東京大空襲を初めとする日本の焦土化作戦を立案した。後に、空軍参謀総長になった。

1964年その功績により、日本政府より勲一等旭日大綬章を授与された。これは参議院議員で元航空幕僚長源田実と小泉純也防衛庁長官(小泉純一郎の父)からの強力な推薦によるものであった。なお勲章は本来、授与に当たって直接天皇から渡される(天皇親授)のが通例であるが、昭和天皇はルメイと面会することはなかった。

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2008年8月26日 (火)

【読】こんな本を読んでいる (2)

ニューギニア島は、日本から南に約5000キロ、オーストラリアのすぐ北にある。
東西2400キロ、面積は日本のおよそ二倍。
私が漠然と思っていたより大きな島である。

この島での、ほとんど戦闘とも呼べないような日本軍の敗走。
大多数の兵士は、飢えと疲労と病で死んでいる。

標高4000メートルの山脈を、貧弱な装備と食糧で、飢えと寒さにぼろぼろになりながら越える。
あるいは、密林の泥濘にまみれ、口にはいるものなら何でも――蛇、蛙、蜥蜴、バッタ、蛭、かたつむり、百足、毛虫、蝶々、蟻、蜘蛛、蚯蚓(みみず)まで――食べたという。
飢えきった兵士たちを、熱帯雨林のヒル、ブヨ、蚊が襲い、次々とマラリアに罹る。

この本から漂ってくるのは、おびただしい数の兵士たちの死臭だ。


著者は、昭和18年、19歳のときに志願して海軍の民政府調査局員に採用され、ニューギニアに上陸。
戦況が厳しくなってからは、陸軍作戦部隊に情報要員として配属され、戦闘にも参加した。
(民政府とは、日本軍が占領した地域を治める海軍の行政機構。陸軍では軍政部といった)

Jigoku_no_nihonhei『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』
 飯田進 著  新潮新書 273 2008.7.20

飯田 進 (いいだ すすむ)
1923(大正13)年 京都府生まれ。
昭和18年2月、海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸。
終戦後、BC級戦犯として重労働20年の刑を受ける。
昭和25年、スガモ・プリズンに送還。
現在、社会福祉法人 「新生会」 と同 「青い鳥」 に理事長。
著書に 『魂鎮(たましずめ)への道』 など。

<戦死した兵士の遺族たちは、最愛の肉親が野たれ死にしたとは思いたくない。 それは人間としての人情なのである。 誰も非難できない。 小泉元首相も素朴な情念のおもむくままに正しいと思って靖国参拝を行ってきたに違いない。 その心情は多くの国民、とりわけ遺族たちの心の琴線に触れるものがある。 だがそこからは、あれだけの兵士を無意味な死に追いやった戦争発起と戦争指導上の責任の所在は浮かび上がってこない。 「英霊」という語感の中に見事に雲散霧消してしまっている>
(「はじめに」より)


私は、あの 「英霊」 ということばに、ひっかかるものを感じつづけてきた。
戦争で亡くなった兵たちを、英霊などと呼びたくない。
ひとりひとりの顔が見えなくなるからだ。

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2008年8月25日 (月)

【読】こんな本を読んでいる

ちょっと興味ぶかい本を本屋でみつけ、週末、いっきに読んだ。


Hukyoka_shashin『不許可写真』 草森紳一 著
 文春新書 652  2008.8.20
 163ページ  900円(税別)

戦時中、検閲で 「不許可」 になった写真を集め、著者の御託(といっては悪いか)が並べられている。

<「不許可写真」 (当時の国民は見ていない) の大半は、今日の目から見れば、一コマもののマンガである。 滑稽である。 なぜこんなものが不許可なのか。 サッパリわからず、理由をきいて吹き出してしまう。 写真を笑うのではなく、不許可の 「理由」 に笑うのである。>
(帯より)

ショッキングな写真も多いが(その残虐性のために、当局が発表させなかった)、なぜこんな写真が……というものも多い。

例えば、「南方に踊る宮操子 昭南(現シンガポール)にて」 などは、太腿をあらわにして踊るダンサーの写真。
太腿が出ているだけでNGとなった。

日本の検閲は不徹底だった、という著者の意見がおもしろい。


<二十世紀は、映像(イメージ)の時代である。 (中略) 「大東亜戦争」時代、宣伝下手な日本は、情報に敏感だったという矛盾がある。 写真の情報性にも敏感だったが、その活用は幼稚であった。> (P.61)


あの時代の一面を知るために、興味ぶかい一冊。

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2008年8月21日 (木)

【読】さらに二冊

なかなか読むほうが追いつかないのだが、また、こんな本を手に入れた。

Eiketsu_no_asa『永訣の朝 樺太に散った九人の逓信乙女』
 川嶋康男 著  河出文庫 2008.8.10

北海道に帰省していたとき、道新(北海道新聞)で紹介されているのを読んで知った本。
著者は、1950年北海道生まれというから、私と同年代。

<終戦まもない昭和20年8月20日の朝、南樺太・真岡郵便局に勤務する、九人の若い女性交換手が自殺した。/ソ連軍の進駐がどんなものなのか予測不可能な状況下、通信業務の使命を全うする中で、何が彼女らを死に追いやったのか……。/関係者への徹底取材で、当時の乙女らの日常と、悲劇の真相を追跡するドキュメント。>
(本書の帯より)

Jigoku_no_nihonhei『地獄の日本兵 ニューギニア戦線の真相』
 飯田進 著  新潮社選書 273 2008.7.20

今日、新刊書店でみかけて購入した。

<二十万以上の兵士が上陸したあの島の三年間の戦火の流れと戦場の光景を、再現しようと試みたのが本書です。/何度パソコンのキーボードを打つ手を置いて、嘔吐(へど)の出そうな思いを抑えたことでしょう。 想像し得る限りの地獄絵図を、はるかに超える実態が明らかになって浮かび上がってきたのです。>
(本書の帯 「はじめに」 より)

著者は1923(大正12)年、京都府生まれ。
43年、海軍民政府・資源調査隊員としてニューギニアへ。
敗戦後、戦犯容疑者として勾引され刑を受けた。

このところ、戦争関係のドキュメントの出版がめだつような気がする。
いいことだと思う。
実際に戦争を体験した人たちが、後の世代に、あの戦争の実態をリアルに伝えていってほしい。



読みかけの本も、もうすぐ終わりそうだ。
文庫で520ページもあり、読みごたえがある。
事実の重さに圧倒される思いばかりが強く、じぶんの中でまだ整理がつかない。

Nihon_no_hyakunen8『日本の百年 8 果てしなき戦線』
 橋川文三・今井清一 編著  ちくま学芸文庫 2008.5.10

あの戦争を冷静に俯瞰し、かつ、庶民レベルの視点もまじえて、公正・トータルにとらえた、すぐれた著作だと思う。

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2008年8月17日 (日)

【読】あの戦争を知るための二冊

ずいぶん前に持っていて読んだはずだが、内容はもう霧の彼方。
そんな本があるものだ。

ネット通販で、このたび入手。
手放さずに持っていればすぐに読み返せたのに、と思いながらネット検索してみたら、簡単に入手できることがわかった。
注文から数日後に到着。
便利といえば便利な世の中になったものだ。

Hiraoka_nihonjin_chugoku平岡正明 『日本人は中国で何をしたか』
  潮文庫 1985.7.30発行
 底本 1972年 潮出版社刊
 『日本人は中国で何をしたか―中国人大量虐殺の記録』

<本稿は、旧日本軍隊が北支で行なった壊滅作戦を、南支における対国民党正規軍戦との対比において論じ、南京大虐殺および日本列島における俘虜強制労働、虐待、虐殺、そして反乱劇としてあらわれた花岡事件を、三光との対応において論じるものとする。>
(本書 著者「あとがき」より)

<殺しつくし、焼きつくし、奪いつくすという、いわゆる “三光作戦” は開始された。 日本軍の恐るべき壊滅作戦を追う。>
(本書カバーより)

Hiraoka_chugokujin_nihon平岡正明 編著 『中国人は日本で何をされたか』
   ―中国人強制連行の記録―
  潮出版社 1973.2.5発行

<本書は 『日本人は中国で何をしたか』 の姉妹編として出版される。 編者の意図では明瞭にそうであり、三光作戦について調査・研究していたときから、中国人強制連行事件と、俘虜の反乱に多大の関心をもっていた。……>
(本書 「はじめに」 より)

この二冊は、平岡正明の労作だと思う。

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2008年8月11日 (月)

【読】この夏、あの戦争を考える (続々)

これもずいぶん前にきまぐれで買った本。
軍艦マーチが聞こえてきそうな冊子だ。

Daitoua_tizu『歴史の証人・地図』 ~ 大東亜戦争を語る ~
  発行人 菊地正浩  発行元 (有)ケイエスケイ
  平成15年6月発行

怪しげな本だが、資料として興味ぶかい。
歴史的な地図(アジア・太平洋戦争時の)が、多数収録されている。

著者は、本のタイトルや装幀から想像がつくが、先の 「大東亜戦争」 を肯定する立場。
やれ、自虐史観だの、日本人の精神文化だの、八百万神だの、愛国心だの、大和魂だの、……きりがないのでやめておくが、なかなかの御仁だ。

それでも、おもしろいのは、「南京大虐殺」 を、「全くなかったとは言えない」 と認めているところ。(「歴史教科書問題について」 P.67-)

近年、「南京大虐殺」 (1937年12月13日、日本軍の南京占領時の残虐行為) はウソだ、というとんでもないことを言う輩が出てきているが、「戦争だからそういうこともあるが、しょうがないのだ」 という人は、まだマシな方か。

それにしても――と、ここに収録されている70年ほど昔の世界地図を見て思う。

ちっぽけな島国の住人が、どこまで手を広げれば気がすんだのか。
石油資源の確保、というのっぴきならない事情があったにしろ、東南アジアから太平洋のどまんなかまで、軍艦をつらねてよくも出かけていったものだと思う。

朝鮮半島や中国大陸、さらにはもっと南まで、土足で他人様の家にあがりこむように、どんどん押し寄せていった日本人。
(軍人、兵隊だけではないのだ)

このあたりの事実を、しっかり押さえていこうと思う。
知ることは力(ちから)だと思う。



【追記】
あの時代に生まれていたら、じぶんはどうしただろうか。
――そういう自問を忘れずにいたいと思う。
今の時代の今の立場で、あの戦争の時代を生きた人たちを、どうのこうの言うことだけはしたくない。
(日曜日夜のBS2の番組、「大集合!青春のフォークソング」のビデオ録画で、加川良の軟弱な 「反戦歌」 を聴きながら)

【さらに追記】
この番組の山崎ハコは、さすが。
BOB DYLAN の Blowin' In The Wind を歌っていた。
ボブ・ディランのこのような反戦歌なら、許せる。
日本の 「フォーク」 は、ちっちゃい。
だんだん本題をはずれていきそうなので、ここまで。

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2008年8月10日 (日)

【読】この夏、あの戦争を考える (続)

興味ぶかい本が出ていたので、買ってみた。

『7 アジア解放の夢』 は、数ヶ月前に買っていた。
『8 果てしなき戦線』 を、昨日、追加で買ってみた。
先日読んだ 『あの戦争は何だったのか』 (保阪正康) に書かれていた時代と重なる、『8 果てしなき戦線』 (1937年~1945年) を少し読んでみている。

Nihon_no_hyakunen7_3Nihon_no_hyakunen8ちくま学芸文庫

『日本の百年7 アジアの解放』
  橋川文三 編著
  2008.4発行
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480090775/

『日本の百年8 果てしなき戦線』
  橋川文三、今井清一 編著
  2008.5発行
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480090782/


【参考サイト】
筑摩書房 ちくま学芸文庫 日本の100年
http://www.chikumashobo.co.jp/special/100year/ 

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2008年8月 7日 (木)

【読】この夏、あの戦争を考える

今日から、こんな本を読んでいる。

Hosaka_ano_sensou保阪正康 『あの戦争は何だったのか』
 ― 大人のための歴史教科書 ―
  新潮新書 125  2005.7.20 720円(税別)

あの戦争とは、もちろん先の戦争。
といっても、敗戦からすでに60年以上たっている。
生身で戦争を体験した人も、年々少なくなっていく。

私は、戦後生まれ。
いわゆる団塊の世代よりも、少し後に生まれてきた。

ところで、「戦争を知らない子供たち」 という歌がある。とつぜんだが。
<1970年に発表されたジローズ(第二次)のヒット曲。作詞は北山修、作曲は杉田二郎。>(Wikipedia)

私はこの歌に、ずっと違和感をおぼえてきた。
(今知ったのだが、作詞は北山修だった。北山修は嫌いではないが……)
はっきり言うと、こういう甘っちょろい歌は嫌いだ。

「戦争を知ろうとしない大人たち」 ――皮肉のひとつも言ってみたくなる。
いい大人になった杉田二郎がいまだにこの歌をテレビ番組で歌う、あの神経が理解できない。
……などと、過激な発言をしてしまったが、お許し願いたい。


こんなことを書いたのも、この本の冒頭に私をうなずかせることが書かれていて、思わず膝を打ったからだ。

<「太平洋戦争とはいったい何だったのか」、戦後六十年の月日が流れたわけだが、未だに我々日本人はこの問いにきちんとした答えを出していないように思える。
 例えば、いくつかの象徴的なことを提示してみよう。>


続けて、著者は、こんな例をあげている。

<ひとつは夏の甲子園での八月十五日のセレモニー。 正午のサイレンに合わせて高校球児たちが一斉に黙祷を捧げる。 それは当たり前のように繰り返される「美しい光景」と評されている。 しかし、私にはどうにも違和感を覚えてならないのだ。 平成に入って生まれた彼らが、本当にその意味を理解しているとは思えない。 もう六十年前の戦争にどうして頭を下げなければならないのか。 真剣に黙祷する彼らに同情してしまう。 無意味な儀式以外の何物でもないように思うのだ。>

そこまで言わなくても、と思われるかもしれないが、私も同じことを感じ続けてきた。
高校野球そのもの、夏の甲子園大会じたいが、かなりインチキくさい。
(高校生の野球を見ることは嫌いではないが)

あのセレモニーも大人の押しつけだと思うし、黙祷することよりも、もっと戦争のことを知らしめるべきだと思う。
(もちろん、高校球児たちが自発的に黙祷したいというのなら、おおいにけっこうだ)
今、高校で、どこまで先の戦争(第二次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争)のことを教えているのだろうか。


著者があげる、別の例。

<またこんなことも、私には奇妙に感じられてしまう。 広島市の広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に記されている 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」 という碑文である。 何を訴えたいのか、よくわからない。 不思議なことに、この文に主語はない。 原爆を落としたのはアメリカであるはずなのに、まるで自分たちが過ちを犯したかのようである。 どうして誰も変に思わないのだろうか……。>

私も、まったく同じことを感じ続けてきた。
「原爆許すまじ」 というのも、おかしな物言いだ。
まるで、「原爆」 という物体だけが悪いような、これも主体(主語)をぼかした言い方である。 何度でも言うが、あの原爆を投下したのは、アメリカ合衆国の軍隊であり、投下命令をくだしたのは当時の大統領である。 その理由のいかんにかかわらず、私は許せない。


日本人の戦争感は、あんがいこういうところにあらわれているのかもしれない。
つまり、責任の所在をあいまいにしたままの厭戦気分、あるいは、戦争はいけないことだ(これは当たり前)、の一点張り。

いや、べつに反戦運動にけちをつけているわけではない。
私だって、戦争はいやだし、反対である。

ただ、そこで思考停止してしまってはいけない、という思いが強い。


<ロンドンには「戦争博物館」というものがある。 ここには第一次世界大戦以降の戦争の歴史が淡々と展示されている。 ナチスドイツの制服や武器といったものまでもドキュメントとしてある。 しかし、決して非難めいて陳列されているわけではない。 また館の入口には館長の言葉として、こう書かれている。 「展示をしっかりとご覧下さい。 全て現実にあった出来事です。 そして後は自分で考えることです」 と。>  (本書「まえがき」より)


この本は、好著である。
この季節、こういう本を読んでみるのもいいと思う。
明後日は、ナガサキに原爆が投下された日。
ヒロシマ、ナガサキ、敗戦の日、と続く。



※2008.8.10追記
「戦争が終った日」は、8月15日ではない、ということをこの本であらためて認識した。
昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上のミズーリ号で降伏文書に調印した日が、日本の 「正式な」 敗戦の日である。
(世界の教科書でも、皆、第二次世界大戦が終了したのは9月2日と書かれているという)
8月15日を「終戦記念日」などと言っているのは、日本だけだという。
8月15日は、日本が降伏を表明した日、著者に言わせると 「単に日本が 『まーけたー』 と言っただけにすぎない日」 ということになる。

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2008年7月30日 (水)

【読】昭和16年夏の敗戦(続)

こんなに面白い本だったのかと、あらためて感心しながら読み続けている。
はじめて読んだのは、今から10年以上前かもしれないが、面白かったという印象しか残っていない。
われながら、情けない記憶力だ。

Inose_shouwa16nen猪瀬直樹
『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』
小学館 「日本の近代 猪瀬直樹著作集 8」

第二章 「イカロスたちの夏」 にさしかかって、がぜん面白みがましてきた。
ところで、イカロスって何だっけ?
ああ、そうだった。
ギリシャ神話にでてくる、翼をもった人物。
「父ダイダロスの作った翼をつけて、いましめを忘れて高く飛びすぎ翼を固めていた臘が太陽の熱で溶けて海に墜死」(三省堂「新明解百科語辞典」)

知っていたつもりで、じつはよく知らないことの、なんと多いことよ。
中学、高校のときに、もっとベンキョーしておけばよかったと、今さらながら思う。

「統帥権」 についても、この猪瀬さんの本で、あらためてホントーのところがわかった。

<当時のわが国の国家意思は「統帥(大本営)」と、「国務(政府)」の双方の会議により発動された。 (中略) 旧憲法では統帥権は、"神聖にして犯すべからず"で政府は関与できない。 統帥部(大本営)は政府と別個に作戦を発動できたのである。 軍部独走の素地はここにあるのだが、旧憲法の制度上の欠陥を補うために、統帥部と政府の双方の会議は、「政府、大本営連絡会議」でなされた。 その形式的承認儀式が、天皇臨席の「御前会議」である。> (P.110)

天皇に対する事前の「根回し(奏上)」があって、御前会議はその形式的な追認だったということも、私は認識していなかった。
御前会議では、天皇は原則として意見を述べることをしなかったという。

(昭和)天皇の戦争責任、ということも考えてみる。
猪瀬直樹はこう書いている。
昭和16年12月1日、日米開戦を決める御前会議のくだり。

<セレモニーは数時間後に控えている。 天皇は日米開戦を避けたがっていた。 皇太子時代の英国留学で「初めて自由を知った」天皇が以来すっかり欧米贔屓になっていたことはよく知られている。/だからといって天皇が平和主義者だったということにはならない。 中国侵略については比較的寛容だったし、日米開戦についても、終戦の「御聖断」を下すことができたくらいなら、もう少し積極的な役割を果たしえたのではないか、後日、議論が分かれたところである。> (P.94)

いまやすっかり悪者扱いされている、東條英機についても、冷静な記述がされている。
(猪瀬直樹は「東條」と表記していて、この字が正しい。「東条」は新字体)
綿密な調査・取材のたまものだと思う。

東條英機は、じつに実直な軍人で、第三次近衛内閣の総辞職後、陸相をやめて用賀にあった自宅にひきこもるつもりで、荷物を運びはじめていたという。
天皇による組閣の大命は、東條じしんも、周囲の誰も予想していなかったことだった。

首相(陸相、内相を兼任)になった後、日米開戦決定までの四十五日間、なんとか開戦を引き伸ばそうと、主戦論者(統帥部)と、開戦に消極的な天皇及び閣僚との板挟みで腐心していた、というのが猪瀬直樹の記述だ。

その東條も、日米開戦決定後、急激に「挙国一致」で戦争遂行に邁進していく……。

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2008年7月28日 (月)

【読】昭和16年夏の敗戦(猪瀬直樹)

猪瀬直樹が書いた本を続けて読んでいる。
去年の5月に、ちょっとだけ紹介した本。

 2007年5月30日 【読】日本の軍隊(続)
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_5fd2.html

Inose_shouwa16nen_2猪瀬直樹
 『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』
  日本の近代 猪瀬直樹著作集 8
  小学館  2002.8発行  269ページ 1200円(税別)

昭和16年夏、日米開戦(真珠湾奇襲)の四ヵ月前の8月16日、平均年齢33歳の「内閣総力戦研究所」 研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていた――。

信じがたいことだが、日米開戦前に、総力戦のシミュレーションをしていたのである。
これはフィクションではない。

ずっと前に一度、文庫本で読んでいたのだが、なぜか手放してしまった。
あらためて著作集の一冊で読みはじめている。

猪瀬直樹は、近ごろいろんなことを始めたので嫌われているようだが、私は嫌いではない。
明快な文章を書く人で、綿密な取材・調査をベースに書かれたこの人のノンフィクションは、面白いと思う。

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2008年6月19日 (木)

【読】待ちきれずに買った本

フトコロがいちばんさびしい時期なのに、給料日まで待ちきれずに買ってしまった。
船戸与一の待望の一冊と、思いがけない新訳本。

Funado_manshu4船戸与一 『満州国演義4 炎の回廊』
 新潮社 2008.6.20

週刊新潮連載の歴史長編、第四部。
これで終わりではなく、まだ続編があるようだ。

「刊行するたび中毒者続出! 未曾有のスケールで紡ぐ満州全史、怒濤の書き下ろし830枚」 と、帯にある。
敷島家四兄弟が主人公。
長男 太郎は外交官、次郎は馬賊、三郎は憲兵大尉、四郎は武装移民。
彼らは作者が創造した架空の人物だが、背景は実録である。

ずっと前に読んだ 『蝦夷地別件』 も、血沸き肉踊る力作だったが、この小説もすごい。


Isabella_bird_nihon1Isabella_bird_nihon2『イザベラ・バードの日本紀行』 上・下
  イザベラ・バード 時岡敬子 訳
 講談社学術文庫
 2008/4/10・2008/6/10

このての本は、油断していると書店から姿を消すので、いまのうちに手に入れた。
『日本奥地紀行』 (平凡社東洋文庫/平凡社ライブラリー) の原典の完全版。
これまで翻訳されていなかった関西旅行記も読める(下巻)。

― 本書の帯より ―
イザベラ・バードが日本について記したことのすべて
 原典初版本に基づく、新訳による完全版 挿画も全点収録 (上巻)
北海道内巡行から一転、バード、関西へ! (下巻)

イザベラ・バード (イザベラ・ビショップ) Isabella L. Bird (Isabella L. Bishop)
1831-1904 イギリスの女流旅行作家。 イギリス王立地理学会特別会員。 1881年、結婚によりビショップと改姓。 世界の広範な地域を旅行し、その旅行記はどれも高い評価を得ている。 『朝鮮紀行』 をはじめ著書多数。

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2008年6月 7日 (土)

【読】いよいよ第4巻発売

船戸与一 『満州国演義』 第4巻が、近日発売らしい。

新潮社のサイトより
炎の回廊―満州国演義4―
http://www.shinchosha.co.jp/book/462305/


Funado_manshu1Funado_manshu2Funado_manshu3











【以下、リンク先はいずれも新潮社のサイト】

風の払暁―満州国演義1―

 http://www.shinchosha.co.jp/book/462302/
事変の夜―満州国演義2―
 http://www.shinchosha.co.jp/book/462303/
群狼の舞―満州国演義3―
 http://www.shinchosha.co.jp/book/462304/


あるていど大きな図書館には置いていると思う。
私は、この著者の 『蝦夷地別件』 がいちばん好きだが、『満州国演義』 も、ちからの入った大作だ。


『蝦夷地別件』 (新潮文庫 3冊)
蝦夷地別件〔上〕
 http://www.shinchosha.co.jp/book/134313/
蝦夷地別件〔中〕
 http://www.shinchosha.co.jp/book/134314/
蝦夷地別件〔下〕
 http://www.shinchosha.co.jp/book/134315/

下の画像は、ハードカバー版
(1995年 新潮社 上下2巻)

Funado_ezochi_bekken1Funado_ezochi_bekken2

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2008年4月12日 (土)

【読】桜を恋う人

タイトルにもひかれて、読み始めている本。

Watanae_ichie_sakura渡辺一枝 『桜を恋う人 ―二つの祖国に生きて―』
 集英社文庫 1995.9.25 (単行本 1990.10)

よく知られていることだが、渡辺一枝さんは、椎名誠氏の夫人である。
椎名氏との出会いは、『新橋烏森口青春篇』(椎名誠著)に描かれていた。
この小説はNHKのテレビドラマにもなった。

心やさしく、芯の強い女性、という印象をずっと持っていた。

この 『桜を恋う人』 を読んで、いい文章を書く人だなと、あらためて感心した。
無駄のない、硬質な文章といえばいいのか。
湿っぽくなく、乾いているのだが、その乾きぐあいはまるで草原のようだ。
モンゴルには行ったこともないけれど、草原の風は、この人の文章のようにすがすがしいのだろう、などと考えた。

このノンフィクションの主人公である、岩間典夫さんは、じつに数奇な運命をたどった人。
1943年に14歳で満蒙開拓少年義勇軍に志願し、中国(旧満州)に渡り、終戦間際に召集され、敗戦後はソ連軍の捕虜としてシベリアに送られた。
だが、18歳未満だとわかって釈放され、その後、帰国しようとして果せず、中国人民解放軍の兵士に救われて、解放軍の兵士になる。
それもつかの間、交易馬車の護送中にオロチョン族に襲撃されて捕らわれる。

――私が読んでいるのはここまで。
まだ、100ページほどしか読んでいないが、巻末(文庫版あとがき)に、いいエピソードが書かれている。

著者の渡辺一枝さんは、ある年、中国黒龍江省に住む岩間さんを訪ねるのに、富士桜の若木を二本持って行ったという。
山梨県の石和町で生まれ育った岩間さんの、故郷に多いのが富士桜だ。
別名、マメザクラ。
関東周辺の亜寒帯から暖温帯に分布、富士山周辺でよく見られることから富士桜と呼ばれる。

<この本を書き上げてから後のある年、私は岩間さんを訪ねるのに、富士桜の若木を二本持って行った。 センチメンタルなことと笑われるかもしれないが、この桜にこと寄せて、岩間さんの夢が実って欲しいと、私も願ったからだ。>

<桜は、残念なことに二本とも枯れた。一本は持って行ったその年に、もう一本は二度目の冬を越したかに見えたのだったが、育たなかった。 だがその後、他の人が運んだ桜が、どうやら根づきそうだ。 それにしても極寒の地だ。 もしかするとその桜も、育つには難しいかもしれない。 けれども私は思うのだが、岩間さんの夢は、いつの日にか必ず叶う日がくるだろうと。 私は、岩間さんの願いを私の願いとして受け継ぎ、そしてまた次代に引き継ぎたい。>   (『桜を恋う人』 文庫版あとがき)

主人公 岩間さんの 「願い」 とは ―― 今、私が読んでいるこの先に書かれているのだろう。




オロチョン族 (出典:Wikipedia)

オロチョン族(Orochon,Oroqin、漢字表記・鄂倫春)は、アルタイ諸語系の言葉を話すツングース系の民族。主に北東アジアの興安嶺山脈周辺で中国領内の内モンゴル自治区、その近隣のロシア領内に居住する。人口は約7千人。もともとは狩猟をしながら移動していたが、現在は定住化が進んでいる。

この民族の代表的な生業は、肉・内臓・血の食用・飲用や皮革採取目的での獣の狩猟である。狩猟の対象の獣は、マールー(馬鹿(ばろく)、ワピチの亜種マンシュウアカシカ)、ノロ、ハンダハン(駝鹿(だろく)・ラクダジカ、ヘラジカの亜種マンシュウエルクジカ)などのシカ類やリス、テン、オオカミ、イノシシ、オオヤマネコ、クマなどが挙げられる。狩猟時の移動と荷物運搬の手段は、伝統的には主に馬である。
(中略)
射撃に優れることから、満州国軍の特殊部隊として組織された逸話がある。

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2008年2月13日 (水)

【読】岩波新書「シリーズ日本近現代史」

こんなシリーズが出ている。

岩波新書 「シリーズ日本近現代史」 全10巻 (新赤版 1042~1049)

岩波書店>岩波新書
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/
※ 興味をもたれた方は、このサイトで内容がよくわかるのでご覧いただきたい。

『⑤満州事変から日中戦争へ』 加藤陽子
『⑥アジア・太平洋戦争』 吉田 裕
この二冊が、私の関心対象と重なるので、すこし前に買っていたが(まだ読んでいない)、今日、もう一冊手に入れた。

Iwanami_kingendaishi_1Iwanami_kingendaishi_5_2Iwanami_kingendaishi_6『①幕末・維新』 井上勝生
まえがきとあとがきだけでも目を通しておこうかなと思い、 帰りの電車の中でパラパラ見ていたら、ついつい本文を20ページほど読んでしまった。

読みかけの本が二冊になることは、たまにあるが、さてどうしようかな。

この本は、幕末の 「黒船来航」 からはじまるが、これまで私の知らなかったことが書かれていて、じつに面白い。

<黒船来航から、明治維新へ――激しく揺れ動いた幕末・維新とはどういう時代だったのか。 東アジア世界に視点をすえ、開国から西南戦争までを最新の研究成果をとりいれて描く新しい通史。 従来から「屈服」したといわれてきた幕末の外交を再評価し、それが成熟した電灯社会に基づくものであることを明らかにする。 維新史を書き直す意欲作。> (本書 カバー)

たしかに、私などが学校で教わってきた幕末・維新のイメージとは、ずいぶんちがう。
著者によると、「1980年代頃から、日本でも江戸時代後期の見方が新しく変わってきた」という。
「かつて日本は、欧米の文明に対して、半未開と位置づけられ、日本の側でも維新政府以後は、そうした評価をすすんで受け容れてきたのであったが、それから、ようやく解き放たれたのである。」  (本書 「はじめに」)

また一枚、私の目からウロコが落ちそうだ。

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2008年1月30日 (水)

【読】蟻の兵隊

すこし前に、朝日新聞の特集記事で知った本。

asahi.com >歴史は生きている >7章:アジア・太平洋戦争と国共内戦 >記憶をつくるもの
http://www.asahi.com/international/history/chapter07/memory/index.html

Arino_heitai『私は「蟻の兵隊」だった』
  ― 中国に残された日本兵 ―
 奥村和一・酒井誠 著
 岩波ジュニア新書 537 2006.6.29

<軍の命令で敗戦(1945年)後も、中国で戦った人たちがいた。 共産党軍と国民党軍の内戦にまきこまれ、残留兵2600人のうち550人が戦死した。 戦闘で重傷を負った奥村は6年間、捕虜生活を送り帰国した。 その彼を待ち受けていたのは逃亡兵の扱いだった。 なぜ残留させれれたのか、老いてなお、戦争の真実を明らかにする元日本兵の執念。>

こういうことがあったとは、全く知らなかった。
奥村さんは1924年生まれ。 私の父親の世代だ。
1944年8月に徴兵され、中国山西省で敗戦を迎えたが、残留を命じられ(ポツダム宣言違反の軍命令)日本軍部隊の一員として戦闘を続行した。
その戦闘は、なんと、1949年4月まで続いたのだという。

中国大陸やソ連に抑留された人たちのことは知っていたが、敗戦後4年近くも、日本軍が生き続けていたとは、驚愕である。

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2008年1月23日 (水)

【読】船戸与一『満州国演義 3』

日曜日から読みはじめて、ハードカバー417ページの三分の二まですすんだ。

Funado_manshu3船戸与一 『満州国演義3 群狼の舞』
 新潮社 2007.12.20 発行

一巻目と二巻目を読んだのは、去年の5月だった。
半年以上待って、待望の三巻目が出版されたのだ。
「週刊新潮」誌上の連載はまだ続いているらしく、続編(第四巻)は今年の「初夏」に刊行予定だという。

前二巻の内容の記憶が薄れてしまっていたので、主人公たちのこれまでの行動を思い出すまでに時間がかかったが、ここまで来ると、もう船戸ワールドにどっぷりと浸かっている。
時は昭和7年(1932)、満州国「建国」の年。
敷島四兄弟(太郎、次郎、三郎、四郎)が満州に揃い、それぞれの立場で動乱に巻きこまれていく。
太郎は外交官、次郎は満州浪人、三郎は軍人、四郎は無政府主義者くずれ。
この設定が面白い。
人物造形は、さすが。
船戸与一ファンには、たまらない長編小説だ。

【新潮社のサイト(紹介ページ)】
http://www.shinchosha.co.jp/book/462304/

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2008年1月12日 (土)

【読】ついにでた 満州国演義3

船戸与一の 『満州国演義』 3冊目が出たようだ。
さっき、たまたまネット検索していて知った。
明日、買いに走ろう。

http://www.shinchosha.co.jp/book/462304/

群狼の舞―満州国演義3―

Hunado_manshu3船戸与一/著
発行形態  :  書籍
判型  :  四六判変型
頁数  :  420ページ
ISBN  :  978-4-10-462304-4
C-CODE  :  0093
発売日  :  2007/12/20

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2007年10月11日 (木)

【読】ノモンハンの話(続)

村上春樹 『辺境・近境』 (新潮社) の中の 「ノモンハンの鉄の墓場」 にふれて、もう少し。

Murakami_haruki2この旅行記では、ノモンハンでの戦い(1939年5月)について、多くの記述がさかれている。
日本では「ノモンハン事件」と呼ばれてきた。
正式な戦線布告のない戦いだったせいだが、村上春樹は「ノモンハン戦争」と言っている。
モンゴル側の呼び方は 「ハルハ河戦争」。

戦場の跡や日本の関東軍の要塞跡などを、人民解放軍やモンゴル軍の宿舎に泊めてもらいながら現地の軍人の案内でまわっているのだが、広大な草原をジープで延々と走る。
このクルマ(ロシア製の軍用ジープ)がおもしろい。

<しかし現地の人々は日常の足として日本製のスマートな四輪駆動車よりは、むしろこういう単純で無骨な車を好むようだ。 (中略) 自分では手の施しようのないブラックボックスみたいなものがまったくないし、すべては剥き出しだから、もしどこかが故障しても自分の手で簡単に直せるし、ガソリンやらオイルやらラジエーター液やらにあれこれ贅沢をいわない。 その辺にあるものを何でもいいから――小便でも焼酎でも――とりあえず入れておけば目的地までは走るというタイプの車である。>

そんな車に乗せられて、まるで 「全自動洗濯機に入れられたような」 気分で戦場の跡を見てまわる。
その途上、草原の真ん中に一匹の狼をみつける。

<モンゴル人は狼をみつけると、必ず殺す。 ほとんど条件反射的に殺す。 遊牧民である彼らにとって、狼というのは見かければその場で殺すしかない動物なのだ。>

同行した中尉は、座席の下から慣れた手つきでAK47自動小銃を取りだし、一つ目のマガジンを使いきってもなお車の中から狼を撃ち続け、ついに追い詰めてしまう。
最後に狼が殺されてしまうところの描写がとても印象的だ。

<チョグマントラは運転手にジープを停めさせ、ライフルの銃身をドアに固定し、照準を狼にあわせる。 彼は急がない。 狼がもうどこにも行かないことを彼は知っている。 そのあいだ狼は不思議なくらい澄んだ目で僕らを見ている。 狼は銃口を見つめ、僕らを見つめ、また銃口を見つめる。 いろんな強烈な感情がひとつに混じりあった目だ。 恐怖と、絶望と、混乱と、困惑と、あきらめと、……それから僕にはよくわからない何か。>

Murakami_henkyou_photo写真篇もあわせて読んでいる。
『辺境・近境 写真篇』 (松村映三 写真/村上春樹 文) 新潮文庫
このカメラマンが、なかなかおもしろい人物。
彼の撮った、殺された狼の写真は、もの悲しい。
一枚の写真のチカラを感じる。

二冊をあわせ読むと、ずっしりと響いてくるものがある。
ひさしぶりに読みごたえのある旅行記なのだ。 

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2007年10月10日 (水)

【読】ノモンハンの話

村上春樹 『辺境・近境』 (新潮社) の中の、「ノモンハンの鉄の墓場」 という、これまた少し長めの旅行記を読んだ。

Murakami_haruki2この本のカバーの写真(左)が、ノモンハンの戦場跡に残された旧ソ連軍の戦車(装甲車)の残骸である。
この旅行記の中にも、私を惹きつけた記述がある。

ハイラル郊外の山に関東軍が築いた 「ハイラル城」 と呼ばれる大掛かりな地下要塞を訪れたときの話。
関東軍は、ソビエトの強力な機械化部隊をくいとめ、長期戦を戦い抜くために、この要塞を突貫工事で築きあげた。 強制徴用した中国人労働者を使って。

<その工事の過程で、きわめて苛烈な労働条件のせいで多くの労働者が命を落とした。 そしてなんとか生き延びた人々も、要塞の完成時に機密を守るために(つまり口塞ぎに)集団で抹殺された。 その山の近くに死体をまとめて放り込んだ万人坑があり、そこにはまだ約一万人の中国人工人の骨が埋まっている――ハイラルで僕らを案内してくれたガイドはそう言った。>

<彼の言うことがどこまで正確な歴史的事実――本当に一万人も殺されたのかというようなこと――なのか、もちろん僕にはここできちんと証明する術もないのだけれど、少なくともハイラルに住む中国の人々はそれが歴史的真実だと今でもはっきり信じているようだし(だいたい同じ内容の話を現地で複数の人たちから聞いた)、結局のところそれがいちばん重要なことではないのだろうかと僕は思う。

私もまた、そう思う。

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2007年5月30日 (水)

【読】日本の軍隊(続)

Nihon_no_guntai_1『日本の軍隊』 (吉田裕/岩波新書) という本について、もう少し書きたい。
戦争は悪いこと、戦争はいやだ、という素朴な感情を持つ人は多いだろう。
私もそうだ。
だが、なぜ戦争はいけないのか、という問いに答えられるだろうか。
この本を読んで思ったのは、あれは無謀な戦争だったな、ということ。

こんなことが書いてあった。
戦時給養体制の限界(P.172) ―― 欧米諸国の場合、第一次世界大戦をきっかけにして、野戦炊さん車(当初は馬車、その後は自動車)の導入がすすんだ。 一人ひとりの兵士が飯盒などを携行して、各個に炊飯する方式から、前線に出動した炊さん車が温食を提供する方式に変わったのだ。 日本軍は、これを導入しなかった。
機械化の遅れた軍隊(P.199) ――  日中全面戦争が開始された頃、日本軍の招待で上海戦線を視察した、駐日大使館付の駐在武官の報告書。 日本軍の歩兵についてこう述べている。
<これらの歩兵隊の行軍軍紀の奇妙な特徴は、兵士の個人装備を運ぶための手助けとして、ほとんどあらゆる種類の運搬手段を使用していることである。 ・・・(中略)・・・乳母車から、人力車、・・・低い二つの取手の付いた貨車、・・・二輪車・・・。>
日本軍の兵士は、鉄帽、背嚢、雑嚢、小円匙(シャベル)、天幕、小銃、鉄剣、弾薬盒などの全ての装具、武器を身に付け、さらに、長期行軍のための予備弾薬や食糧など、全部で30キロもの重量を一人で背負っていた。
山登りの装備だって、30キロはきつい。 せいぜい20キロぐらいに抑えないと、長距離山行はできない。

ひどい戦いをしたものだ。
中国大陸では、40キロ、50キロにもなった個人装備を運ぶことができず、中国人を脅して拉致し、自分たちの荷物を運ばせたという事実。
さらに、飯盒炊さんのための燃料にも事欠き、戦地で民家を壊して木材を調達した。
「皇軍」ではなく、「蝗軍」と呼ばれたゆえんである。(蝗軍=イナゴのような軍隊=略奪の軍隊)

だいぶん前に、猪瀬直樹の 『昭和十六年夏の敗戦』 を読んだことがある。
 → http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solrenew_detail?isbn=4093942382
真珠湾奇襲の年の夏、日本の内閣で密かに対米戦のシミュレーションが行なわれていた。
(「内閣総力戦研究所」に軍部・官庁・民間から選りすぐった将来の指導者たちが集められた)
実に科学的、冷静な分析が行なわれ、その結果、日本はアメリカに勝てないという結論が出ていたというのだ。
すでに、戦う前から国力の差を認識していた人たちがいたのである。

関東軍による満州(中国東北部)占領のあたりから、どんどん泥沼に入っていった日本軍。
これが不思議でならないのだが、「皇軍」という言葉がのさばり、極端な精神主義、短期決戦主義に傾いていったあたりで、すでに日本の敗戦への転落がはじまっていたように思う。
軍部の独走という一面もあるが、それだけではないと思うのだ。

今でも、その頃と同じ精神風土が根強く残っているんじゃないのかな。
どうしようもない日本人・・・そんな気分になってしまう。
みせかけの平和に浮かれてる場合じゃないでしょうが。 ぶつぶつ・・・。

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2007年5月29日 (火)

【読】日本の軍隊

こんな本を読んでいる。
Nihon_no_guntai『日本の軍隊 ―兵士たちの近代史―』
 吉田 裕 著 岩波新書816 2002.12.20
<1873年の徴兵令制定以来、文明開花の推進力となり、全国に近代秩序を浸透させる役割を果たした日本の軍隊。 それが、十五年戦争期のような反近代的で精神主義的な軍隊になってしまったのは、なぜか。 日本の民衆にとって、軍隊経験とは、どんな意味があったのか。 豊富な資料をもとに「天皇の軍隊」の内実を解明する。>

岩波新書、著者は一橋大学大学院の教授、とくれば、学者っぽい堅苦しい内容かと思っていたが、これがなかなか面白い。
旧日本軍を構成していたのは、階級でいえば、将官(大将、中将、少将)、将校(佐官、尉官)、下士官(曹長、軍曹、伍長)、そして兵(兵長、上等兵、一等兵、二等兵)等であるが、戦場の最前線で実際に戦い、命を落としたのは圧倒的に兵卒(そして下士官)である。
その兵卒の視点から日本の軍隊の姿を考察しているところが、この本の特徴だろう。

旧日本軍といえば、負のイメージが強く、戦後に生まれ育った私には、過去の遺物という思い込みが強かった。 だが、この本を読むと、そんな画一的な見方では捉えきれない面もあったことがよくわかる。

例えば、序章の扉に引用されている加太こうじの次の文章など、はっとするものがあった。

<(前略)私たちの仲間が、ときとして、軍隊生活や戦争の時代をなつかしむのは、ひとつには若い頃の美化された思い出にひたるからだが、その根柢には、軍隊生活より、もっとひどい浮世の苦労や、人前に出られる服装すらない貧乏や、人間を地位や学歴で価値づけて実力では評価しない周囲があるからだと思う。 軍隊にもそれはあるが、生活上の苦労とは結びついていない。 私たちの仲間には、軍隊へいって、はじめて、三度の食事の心配と、寝るところの心配をしないですむようになった者がいるのだ。>
(加太こうじ 『軍歌と日本人』 徳間書店、1965年)

本筋からはずれるが、こんな興味ぶかい話もある。
日本各地から兵を集めた軍隊では、兵士たちに標準化された軍隊教育を受けさせるために、言葉の標準化が必要だった。