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2019年8月23日 (金)

【読】朝鮮戦争・朝鮮分断の起源

8月12日から、途中、中断もあったが、読み続けている本。
たしか、地元の図書館にリクエストして入れてもらった、新刊。

西村秀樹 『朝鮮戦争に「参戦」した日本』 三一書房 (2019/6/25) 319ページ

 

朝鮮戦争当時、大阪で発生した「吹田枚方事件」を詳細に追跡した内容だが、朝鮮戦争、それ以前の(日本敗戦後の)朝鮮半島の南北分断に至った歴史経緯が、綿密に検証されている。
第二部 朝鮮戦争と日本 第五章 なぜ朝鮮は分断されたのか、なぜ日本は分断されなかったのか P.84~P.105

その内容を忘れないように、テキストファイルに文字入力してみた。
ほぼ原文の書き写し(できるだけ箇条書きになるよう心掛けたが)。

歴史認識が喧伝される昨今、いわゆる慰安婦問題、徴用工問題の遠因を考えるために、公正な歴史認識が必要だと思う。
私も知らなかったことが多く、自身の歴史認識の整理が、少しはできたかな、と思う。

以下、長文。

西村秀樹 『朝鮮戦争に「参戦」した日本』 三一書房 (2019/6/25) 319ページ 【東大和市立図書館】
2019/8/12~

第二部 朝鮮戦争と日本
第五章 なぜ朝鮮は分断されたのか、なぜ日本は分断されなかったのか P.84~105

■朝鮮戦争の二つの要素
・国際的要素・・・第二次世界大戦末期からの朝鮮半島をめぐる米ソの勢力抗争
・国内的要素・・・統一朝鮮国家の指導権をめぐる半島内部の対立
二つの要素が交錯、融合した典型的な「国際内戦」
戦後日本の針路に決定的な影響を与えた (神谷不二『朝鮮戦争』中公文庫・1990)

■ドイツの東西分割・・・戦前の領土の四分の一の面積がポーランドに編入
「ある日、私のクラスの学生が手を上げて、どうして挑戦は45年に分割されたのか、なぜ日本はドイツのように分割されなかったのか」
「そのときは言葉を失ってしまった。その方が『正当な』解決策であったのだ。日本人はこんなことを聞きたくないと思うが、朝鮮よりも日本を分割する方が正当な処置であったはずだ。
(ブルース・カイングス『朝鮮戦争の起源』シアレヒム社・1989-91)

■なぜ朝鮮が分断されたのか
アメリカ政府の軍部は、日本を四分割する計画をもっていた。 (五百旗頭真『米国の日本占領政策』中央公論新社・1985)
このプランにアメリカ国務省が反対、日本の領土は三分割された。
・連合国軍最高司令官兼アメリカ太平洋陸軍総司令官マッカーサー元帥による北海道、本州、四国、九州の占領
・アメリカ太平洋方面(海)軍総司令官ニミッツ提督による琉球列島、小笠原諸島の占領
・ソ連極東軍総司令官ワシレフスキー元帥による「北方領土」(樺太、千島)の占領
(竹前栄治『占領戦後史』岩波書店・1980/1992)

■米国は日本の朝鮮支配を承認していた
黒船来航(1853)~日米和親条約締結(1854)
明治維新(1868)
日清戦争(1894-95) 朝鮮半島の支配権をめぐる清との戦争
日露戦争(1904-05) 中国・遼東半島、満州鉄道の利権をめぐるロシアとの戦争
アメリカが帝国主義路線に踏み出した時期
・キューバに対する覇権争いと独立をめぐるスペインとの戦争(1898)に勝利
・同時期、国王フェリペ二世ゆかりの島国スペイン領フィリピンでの米比戦争を鎮圧
 フィリピンを植民地として支配、宗主国となる
桂=タフト協定(秘密協定・1905/7)
セオドア・ルーズヴェルトの特使・陸軍長官タフトがフィリピンに向かう途中、日本を訪れ、当時の総理大臣兼外務大臣・桂太郎と面談、秘密協定を結ぶ
(1)日本はアメリカのフィリピン当地に同意し、同地に何らの野心もない
(2)極東平和のため日英米三国の好意ある理解が必要
(3)アメリカは、韓国(大韓帝国)に対する日本の保護監督権を承認する
「この協定は、この直後締結された日英同盟改訂、日露講和条約とともに日本の韓国保護国化を列強が保証したものであった」
(『岩波日本史辞典』)

■乙巳(いっし)条約と韓国
乙巳条約(第二次日韓協約)・・・韓国の外交権を奪って保護国とし、総督府を置く(1905)
アメリカはソウルの公使館を閉鎖(1905/11)
以後、36年間、アメリカは日本の朝鮮支配を承認、朝鮮独立運動へのサポートを抑制
韓国併合、植民地化(1910)
※「併合」=二つ以上のものをあわせて一つにすること。(類語として)統合・合併・合一・合体・合する
(三省堂『現代新国語辞典』)
外務省の政務局長倉知鉄吉が「其語調の余り過激ならざる文字」を目的に新たに作った言葉。
「この新語はオーストリア・ハンガリー帝国のように対等の連邦国家のように誤解する人もいたが、韓国が全然廃滅に帰して(大日本)帝国の領土の一部となる意を明かす」ためだと覚書に記載。(倉知鉄吉は、当時の対韓政策の原案を作成)

■韓国併合条約
カタチの上では、韓国の皇帝が日本の天皇に併合を申し出て、日本の天皇がこれを受け入れた「任意」を装っているが、実態は、日本が軍隊・警察をつかって徹底的に弾圧した結果だ
ソウルの西大門(ソデムン)刑務所跡地にある「歴史館」には、かつての政治犯が受けた扱いが展示されている
西大門刑務所歴史館 | 観光-ソウルナビ https://www.seoulnavi.com/miru/24/

■朝鮮は日本の鏡
黒船来航(砲艦外交)~鎖国から開国へ~明治維新
日本は中国(清国)の冊封国朝鮮の支配を意図
征韓論(1873)・・・ベクトルが逆の砲艦外交で開国させる(江華島事件・1875)
日清戦争、日露戦争も原因は朝鮮、満州=中国東北部
日清戦争、三国干渉
遼東半島を清国に返還、ロシアが大連・旅順の租借権などを獲得、満州に軍隊駐留
日露戦争
日本海戦でからくもロシア艦隊を破る
日ロ双方の事情(日本:財政上の問題、ロシア:革命運動の激化)から、セオドア・ルーズヴェルトの斡旋を受け入れ、ポーツマス講和条約締結
結果、朝鮮の植民地化、遼東半島の租借権、満州の鉄道利権を手に入れる
明成(ミョンソン)皇后(=閔妃)暗殺事件(1895)

■「満州国」
韓国併合をアメリカは承認
満州事変(1931)
満州国樹立(1932)
リットン調査団報告
国際連盟脱退
日中戦争始まる(1937)
「大東亜戦争」(1941)

■ソヴィエト連邦の対日政策
社会主義国ソヴィエト連邦を仮想敵国とし、ソ連との距離感に悩む
ナチスドイツのポーランド侵攻(1939/9)、オランダ、フランスへの侵攻
ナチスドイツ、ソ連との相互不可侵条約締結(1939/8)、英仏との戦闘に専念
ナチスドイツ、ソ連に侵攻、条約破棄(1941/6)
ソ連、「満州国」に滞在する「関東軍」(万里の長城の東に位置する山海関から東エリアを「関東」という)の兵力を警戒、日本と日ソ中立条約締結(1941/4)、ナチスドイツとの戦争に専念
ソ連、英米に対して、早く西ヨーロッパに兵力を上陸させてナチスドイツを東西から挟み撃ちすることを望む
英米軍の上陸は遅れる
ソ連、英米がナチスとソ連という全体主義国家の共倒れを狙っているのではないかと疑う
英米を主力とする連合国のシチリア島上陸(1943/7)、イタリア本土上陸(1943/9)
フランスのノルマンディー上陸(1944/6)
ヨーロッパ第二戦線ができるまで、ソ連はナチスとの単独戦争を余儀なくされ、レニングラード攻防戦などで膨大な死傷者を出す

■カイロ会議
ミッドウェー海戦(1942/6)
ガダルカナル戦(1942/11)
英米首脳、中華民国総統・蒋介石をカイロに招き、対日政策を話し合う首脳会談=カイロ会議(1943/11)
チャーチルは蒋介石招聘に疑義を抱くも、フランクリン・ルーズヴェルトは中華民国が日本と抜け駆けで講和条約を結ぶことを警戒
英米首脳、カイロからテヘランを往復、テヘランでスターリンと会談、第二次大戦後のヨーロッパについて議論、カイロに戻る
英米中三首脳のカイロ宣言(1943/12/1)
この中で朝鮮について言及「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、朝鮮をやがて自由かつ独立のものとする」
「やがて」という制約条件の背景・・・英米が挑戦を信託統治にする考え(独立はその後)
イギリスは植民地インドの問題を抱え、独立に反対した

■ヤルタ会談
クリミア半島(ロシア・ロマノフ王朝のリゾート地、黒海北部)の保養地ヤルタに、ルーズヴェルト、チャーチル、スターリンが集まる(1945/2)
主たる議題:ヨーロッパの重要問題、とりわけポーランド問題
対日参戦については米ソだけで話し合う(チャーチルは外される)
「ナチスドイツ降伏後、ソ連は二、三か月のうちに対日戦争に参戦」が同意される
スターリンは、日露戦争で失った樺太南半分、満州での既得権益にとどまらす、外モンゴル(当時のモンゴル人民共和国)の現状維持、千島列島の獲得までルーズヴェルトに要求
ヤルタ会談の後、ルーズヴェルトが病死(1945/4/12)
副大統領のトルーマンが第33代大統領に就任(選挙を経ていない大統領という後ろめたさを本人は抱えていた)

■日本はソ連へ和平工作を依頼 (なんという間抜けさかげん)
日本の敗色濃厚
ソ連外相モロトフ、モスクワの中ソ日本大使・佐藤尚武を呼び出し、日ソ中立条約を延長しない旨通告(1945/4/4)
期限切れまでは現状維持と伝える
東京では総理大臣が変わり、鈴木貫太郎に(昭和天皇の信任が厚く、海軍大将、枢密院議長)(1945/4/5)
アメリカの知日派、鈴木内閣誕生を、日本が「無条件降伏」まではいかないまでも、戦争終結の準備を始めたと受け止める
(武田清子『天皇観の相克』岩波現代文庫)
ソ連、ヤルタ会談での米国の同意に基づき、対日参戦の準備に入る
「シベリアでソ連赤軍が軍備力を増強」との情報は、日本のスパイ網にかかり、東京に報告が上がっていた
(にもかかわらず、日本は間抜けなことに、当時の陸軍は連合国との和平仲介をソ連に求める)
ナチスドイツ降伏(1945/5/7)
ソ連、対日参戦準備を本格的に始める
昭和天皇、ソ連への特使派遣を決定(1945/7/9)―元総理大臣・近衛文麿
中ソ日本大使・佐藤尚武、外相モロトフに会えずじまい
(日本の外交ベタ、ソ連の外交巧者ぶりが際立つ)
ソ連、「日本が戦争を終結したがっている」という重大かつ貴重な情報を日本そのものから入手、英米に伝えた

■ポツダム宣言
ソ連、日本からの和平交渉依頼に対し邪険にふるまう中、スターリンとモロトフがモスクワ出発(1945/7/14)
目的地はドイツのベルリン郊外、ポツダム、連合国首脳会議に出席するため
ルーズヴェルト病死を受けて急遽大統領に就任したトルーマン、弁護士出身で外交に疎かった
就任間もない時期(1945/4/25)、原子爆弾開発の秘話を聞き、驚く
「一発で一つの都市全体を破壊できる爆弾」と、陸軍長官から聞かされ
原爆実験がネバダ砂漠で成功したとの報告をトルーマンが受け取る(ポツダム会談開始の前日、1945/7/16)
第二次世界大戦の終結は秒読み段階
問題は、日本をいかに降伏させるか
アメリカ軍の沖縄上陸作戦
次なる本土決戦は南九州から上陸する作戦(1945/11目標)の準備にとりかかる
トルーマンの手元には「原爆カード」、ソ連の対日参戦カード
あとは「天皇」をどうするか

■トルーマンの代理署名
ポツダム宣言に署名したのはトルーマンだけ
イギリス、中華民国の代表はトルーマンが代理署名した
(スターリンは宣言に当初参加せず、署名もしていない)
(小此木征夫『朝鮮分断の起源』慶應義塾大学法学研究会)
チャーチル、ドイツ降伏後二か月経って行われたイギリス総選挙で保守党敗北、首相に資格を実質的に失う
労働党党首アトリーが次席代表として参加
中華民国の蒋介石は、ポツダムにも招かれず、トルーマンは中国と無線で了解を求め、同意を得た
トルーマンが蒋介石の代わりに署名
しかも、中華民国の正式名称を使わず、単にチャイナと表記

■天皇、原爆、朝鮮分断
米英中三か国、日本に「無条件降伏」を要求(1945/7/26)
ポツダム宣言にスターリンが署名していない理由:この日の段階でソ連はまだ対日戦争に公式に参加していないからとの公式声明
トルーマンは、スターリンに弦悪の存在を耳打ち
スターリンは、すでにアメリカ国内のソ連の協力者の情報から原爆開発の経過を知っていたという
ポツダムでのトルーマンとの会談後、スターリンは軍部に対し対日参戦をそれまでの8月下旬から早め、すぐに攻撃開始できるよう繰り上げを命令

■日本降伏「秒読み」
通例、外交文書は大使館を通して直接通告するもの
第二次大戦中といえども、日本はヨーロッパに永世中立国スイスとスウェーデン日本大使館を設置したままだから、通告すればよさそうなものだが
連合国はポツダム宣言を日本に直接通告しなかった
サンフランシスコからのラジオ短波で放送、日本が傍受
日本が軍事的に連合国に圧倒的に負けている段階で、いかに天皇制を守るか日本の指導者層は苦闘

■米国内部の相克
アメリカは、1940年代初頭から日本研究
日米戦争後の日本の政治体制をめぐって、アメリカ政府内部で「知日派」と「知中国派」との意見対立が続く
蒋介石、中国を侵略する大日本帝国の軍国主義と天皇制がわかちがたく軍国日本の両輪を形作っている、戦後の日本は天皇制をなくすべきだと強く主張
アメリカ国務省内部の「知中国派」は、天皇制廃止を望む
「知日派」の代表ジョセフ・グルーは天皇制存続を主張(「天皇利用」説)
天皇の威光を利用した方が、日本軍の武装解除、戦後の統治がしやすいと考えた
トルーマンに対し、天皇制存続をほのめかせば日本の降伏は早まると説得
(グルーは、日米開戦時の駐日アメリカ大使、武田清子と逆の日米捕虜交換船でアメリカに帰国、国務省次官として活躍)
(武田清子:日本の思想史家、戦前からアメリカに留学、日米開戦に伴い日米捕虜交換船で帰国、『天皇観の相剋』という研究所あり)
相剋:対立するものが互いに相手に勝とうと争うこと

■日本政府の逡巡
日本国内の論点:連合国側が「国体護持」=天皇制を残すのか、共和制移行を要求するのか、その見極めだった
ポツダム宣言には天皇制存続を保全する文言なし
日本の降伏、原爆、ソ連の参戦、天皇制存続が互いに絡み合う
1945/7/26、ポツダム宣言を日本の外務省、陸軍、海軍が別々に短波傍受、翻訳
同盟通信(のちの共同通信)が「リスボン発同盟通信電報」を配信、新聞にはベタ記事掲載
日本政府内部では、ポツダム宣言に天皇制存続保全の文言がないことから、政府内部で厳しい論議
結局「コメントしない」と「黙殺」することを決めた
その「黙殺」を新聞社、通信社は「拒絶」と報道、連合国は日本がポツダム宣言を「拒否」したと判断
日本政府指導部の逡巡が大きな悲劇と朝鮮半島分断をもたらした

■原爆投下
1945/8/6、マリアナ諸島テニアン島にある米軍の空軍基地から、新型爆弾を載せた爆撃機B29が飛び立ち、午前8時15分、広島の中心部上空で爆弾が炸裂
当時の広島の人口約35万人、うち14万人が一発の新型爆弾で死亡
犠牲者の中には在日朝鮮人やアメリカ軍捕虜数十人も含まれている
陸軍は調査団を派遣、広島赤十字病院のレントゲン写真がすべて感光していたことから、新型爆弾が原子爆弾だと判断
同じ日、スターリンは、赤軍に対し三日後(8/9)、対日戦の参戦を命令
ポツダム宣言の「黙殺」あるいは「拒否」がアメリカに原子爆弾投下、ソ連の対日参戦の大義名分を与えた

■分断は30分で決定
日本政府が天皇保障を連合国側から取り付けようと逡巡しているこの数日のタイブラグで、ソ連赤軍は怒涛の進軍
8/9午前零時(ロシア東部時間)、満州侵攻作戦を開始
満蒙国境の越境、朝鮮には日本海側の豆満江の渡河作戦と、日本海側の港・清津などへの上陸作戦(8/13)、南樺太への侵攻を実施、わずか数日のうちに赤軍は朝鮮半島を南下
はじめの作戦では京城(ソウル)をめざす予定だったが、原爆を二度までも落としたアメリカ軍の実力と真意を測りかね、京城へは先遣隊派遣にとどめた

■アメリカの戸惑い
ソ連軍の満州国と朝鮮への進軍開始(8/9)を受け、8/10深夜から翌日未明にかけ、アメリカ政府の国務・陸軍・海軍三省調整委員会は、二人の若い陸軍大佐に対し、朝鮮分割案を作るように指示
二人は、北緯38度線による分割プランを提出
理由は「アメリカ側に首都(ソウル)を含めるため」
作業時間はわずか30分だった
(ブルース・カミングス『現代朝鮮の歴史』明石書店)
「二人は朝鮮半島の中央部のくびれ付近を横切る線に目を止めた。北緯38度線だ。こうして地図にダーツを投げつけるより少々複雑といった程度の手順を経て、二人は分割案を持参した」
(デイビッド・ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』新潮社)
立案者二人のうちの一人は、ケネディ政権で国務長官を務めたディーン・ラスク(当時、大佐)
ラスクは「地図は朝鮮の地形が明確に見て取れるナショナル・ジオグラフィック誌のものだった」と証言した
(饗庭孝典『朝鮮戦争』日本放送出版協会)
ハルバースタム:「アメリカには正しい判断のできる朝鮮半島の専門家がいなかった」(前掲書)
朝鮮民族の分断は、アメリカとソ連に大きな責任があり、日本がポツダム宣言受諾のタイミングを間違えたという意味で、日本の責任も小さくない
日本は受益者となり、朝鮮は新たな苦難を強いられた
ソ連は、この朝鮮分割案をすんなりと受け入れたが、立案者のラスクは「ちょっと驚いた」と証言した

■朝鮮分断は38度線か39度線か
境界線以北の日本軍はソ連に、南側は米軍に降伏し、武装解除することに
日本軍のうち対ソ戦を受け持つ関東軍と、朝鮮半島を受け持つ朝鮮軍の境界が北緯38度線だったという説があったが、そうではなかった
敗戦間際、日本軍はエリア再編を実施、関東軍と朝鮮軍の境界は北緯39度線だった
(宮田節子『朝鮮軍概略史』不二出版)

■国連信託統治案
アメリカは、フィリピンがそうであるように、ウィルソンの民族自決主義をそのまま適用するのではなく、国連の信託統治方式を採用する方針だった
その期間は40年~50年
その背景には、イギリスが植民地インドをかかえ独立に反対していたから
朝鮮半島でソ連赤軍が南下を開始した8/9の段階で、アメリカ軍は沖縄に軍隊を進めたばかり、南朝鮮は空白だった

■第一回目の御前会議
1945/8/8、モスクワでは外相モロトフが駐ソ日本大使館の大使佐藤尚武を呼び出し、宣戦布告、日ソ断絶
だが、日本大使館から東京の外務省への連絡は、ソ連当局の妨害でつながらなかった
東京での第一回御前会議(8/9)
三日前には広島原爆投下、8/9当日未明にはソ連の対日参戦、御前会議の最中、午前11時過ぎ、長崎に二つ目の新型爆弾(原子爆弾)投下
午前会議:昭和天皇、首相・鈴木貫太郎、外務大臣・東郷茂徳、陸軍大臣・阿南惟幾、海軍大臣・米内光政ら
8/10未明、ポツダム宣言を受諾することには全員同意したものの、受諾条件でもめる
・外務大臣の一条件案(天皇の地位存続のみを条件)
・陸軍大臣の四条件案(天皇の地位存続保障のほか、戦争責任者日本側処断など)
昭和天皇の聖断がないと結論を国民を含め軍部が受け入れないだろう―内大臣・木戸幸一らが事前に準備
キーパーソンは木戸、総理の鈴木貫太郎は「聖断」方式を採用
昭和天皇の「聖断」によって外務大臣案が採用された
この回答は、スウェーデンとスイスの日本大使館を経由して連合国に通知
連合国側は外務大臣案が求める天皇の地位保障に対して、「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」(米国務長官バーンズ)と返答

■終戦の詔勅
二度目の御前会議(8/14、皇居御文庫)
その日の夜遅く「敗戦の詔書」を決定
「米英支蘇の共同宣言を受諾」(ソ連はポツダム宣言後に対日参戦したので、8/14の段階では日本と戦っている連合国の主要メンバーは四か国)
昭和天皇が直接日本国民、とりわけ日本軍兵士に降伏した事実を告げないと武装解除がスムーズに進まないとの理由で、昭和天皇が直接ラジオを通して呼びかけることが決まる
この日深夜遅く、NHK職員が皇居に出向き、昭和天皇が決まったばかりの「終戦の詔書」を朗読、その声をレコード盤に録音
(このレコード盤をめぐって近衛部隊が蜂起した「宮城事件」が発生)
日本政府は、14日夜、国民に対し「翌日正午に重大放送を放送すること」を臨時放送、新聞各社に対して翌日の朝刊を正午以降に配布することを命じた
(参謀本部や陸軍省の記者クラブを通して、全国新聞社はポツダム宣言受諾を一日早く知ったことになる)
当時、東京朝日新聞の記者だった武野武治(むの・たけじ)は、この夜を最後に出社しなくなった
(戦争責任をとった、ただ一人のジャーナリストと言われた)

■光復節
日本が負けた日はいつか?
・8/14説 昭和天皇が「終戦の詔書」に署名した日付、皇居で御前会議が開かれ「終戦の詔書」がまとまった日
・8/15説 玉音放送の日(ソウルとピョンヤンで日本が負け民族復権したことを祝う=光復節)
・9/2節 ミズーリ号上で連合国に対し降伏文書に署名調印した日

■玉音放送
8/15正午、玉音放送がはじまる
「忍び難きを忍ぶ」という文言は、明治天皇が日露戦争の後の三国干渉を受諾した際からの引用

■直接統治か間接統治か
日本の降伏にともない、連合国最高司令官一般命令第一号によって、朝鮮は北緯38度線以北ではソ連軍が、以南ではアメリカ軍が、それぞれ日本軍の武装解除にあたることに
アメリカ軍にとって、朝鮮人は「敵国人」なのか「解放された人民なのか、微妙な問題
アメリカ政府内部で議論していたものの、結論が出る前に日本が降伏
アメリカの朝鮮半島政策は後手後手にまわった
日本の植民地支配を36年間もの長きにわたって受け、朝鮮総督府や日本軍で朝鮮半島出身者が日本のお先棒として実直に働いている実情を見て、アメリカは判断に迷い、結論を出しかねた
(韓国国内でのちに「親日派」の扱いが問題になる根拠もこうした実情に起因)
フィリピンにいたアメリカ軍最高司令官マッカーサーが神奈川県厚木飛行場に到着(8/30)
マッカーサー日本来訪の数日前、日本を統治する方式が、アメリカ軍による直接統治から、従来の日本政府を仲介しての関節統治方式に変更
沖縄にいたアメリカ軍中将ホッジ率いる第24軍は、ソ連軍に遅れること一か月後の9/8、仁川に上陸
ホッジは、日本本土でマッカーサーがとった統治方式そのままに、従来の日本人の朝鮮総督府を利用しての間接統治を目指した
ホッジの記者会見には、朝鮮総督府の総督・阿部信行が同席、日本人官吏をそのまま留用すると言明したとたん、朝鮮人から猛反発を受け、三日後、しぶしぶ阿部を解任
アメリカは南朝鮮の民衆の心をつかむことに、スタート直後に失敗した

■軍政下
なぜトルーマンは、グルーの助言を受けて、天皇制存続をポツダム宣言に入れなかったのか
もしそうしていたら、日本政府はただちに宣言を受け入れ、原爆やソ連の対日参戦もなかったのでは?
トルーマンが天皇保障の文言を入れなかった理由は、トルーマンが見据えていたのはすでに確定的な対日勝利よりも、さらなる将来のソ連との対立(のちに「冷戦」と名付けられる)を重視し、有利に展開するため、原爆の威力をソ連に見せつけるためだったなど、いろいろな解釈を研究者はする
朝鮮分断とは「帝国主義」と「冷戦」が生み出した鬼っ子なのだ
本当の悲劇は5年後に訪れる―朝鮮戦争勃発

(了)

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2019年8月18日 (日)

【読】ノーマ・フィールド

3月の終わりに投稿してから、5か月近く、このブログから離れてしまっていた。
毎日、日記ブログは書いてきたのだけれど。

ノーマ・フィールド(Norma M. Field)という人を、最近知った。

― Wikipedia より ―
<ノーマ・フィールド(Norma M. Field, 1947年 - )は、アメリカ合衆国の日本研究者、シカゴ大学名誉教授。
第二次世界大戦後の東京で、アメリカ人の父と日本人の母の子として生まれる。1974年、インディアナ大学で東アジア言語文学の修士号を取得。1980年に来日し研究。1983年、プリンストン大学で同博士号取得。シカゴ大学に奉職し、東アジア学科教授をへて名誉教授。
夏目漱石の『それから』の英訳(And Then)に続き、『源氏物語』論である『憧憬の輝き』(Splendour of Longing)で注目された。
1988年の再来日の折に昭和天皇の死去に至る日々を体験。ルポルタージュ『天皇の逝く国で』を著し、この著書の日本語訳によって日本でも一般に知られるようになった。>

私は、ある新書で、この人の『天皇の逝く国で』という本を知り、図書館から借りて読んだのがきっかけ。

中川成美 『戦争をよむ―70冊の小説案内』 岩波新書 (2017/7/20)

<克明な心理描写をまじえて戦争と人間の真実に分け入る小説作品は、戦争のリアルを伝える大切な語り部だ。物語のなかに封じ込められた、戦時下を生きる人びとの細やかな感覚と日々の葛藤と苦しみ、そして悲しみ。記憶の風化とともに失われていく、かつての時代の手がかりを求めて、戦争の文学を再読する。>

 

ノーマ・フィールド/大島かおり訳 『天皇の逝く国で [増補版]』 みすず書房 (2011/10/28)

<「自粛」「常識」という社会の抑圧に、抵抗できるか。
登場人物は体制順応という常識に抗った三人の日本人。
沖縄国体で日の丸を焼いた知花昌一、殉職自衛官の夫の靖国神社合祀に反対した中谷康子、天皇の戦争責任を明言して狙撃された長崎市長の本島等。
あれから20年余、増補版のために書かれた新たなあとがきを付す。
ノーマ・フィールドは、アメリカ人を父に、日本人を母に、アメリカ軍占領下の東京に生まれた。
高校を出てアメリカヘ渡り、現在はシカゴ大学で日本文学・日本近代文 化を講じる気鋭の学者である。
彼女は、昭和天皇の病いと死という歴史的な瞬間に東京にいた。そして天皇の病状が刻々報道され、自粛騒ぎが起こるなかで、日本人の行動様式と心性、そしてそこにさ まざまな形で顕在化したあまたの問題に想いを巡らせた。
登場人物は、〈体制順応という常識〉に逆らったために、ある日突然〈ふつうの人〉でなくなってしまった三人――沖縄国体で「日の丸」を焼いた知花昌一、殉職自衛隊員の夫の護国神杜合祀に抗した中谷康子、天皇の戦争責任発言で狙撃された本島長崎市長――と、もう一組、著者自身とその家族である。
かれらの市民生活の日常にそって、問題は具体的に考えられる。
基地内のアメリカン・スクールに通い、大方の日本人の知らない〈戦後〉を生き、いまも〈太平洋の上空に宙づりの状態〉にある著者が、みずからの個人史に重ねて描いた現代日本の物語。
[初版1994年2月/増補版(始まりの本)2011年11月発行] >

 

この本に打ちのめされ、図書館にあった他の本、ブックレットも読んでみた。

ノーマ・フィールド/岩崎稔/成田龍一 『ノーマ・フィールドは語る 戦後・文学・希望』
 岩波ブックレット781 (2010/4/7)
ノーマ・フィールド 『いま、<平和>を本気で語るとは 命・自由・歴史』
 岩波ブックレット990 (2018/12/5)
ノーマ・フィールド/大島かおり訳 『祖母のくに』
 みすず書房 (2000/5/12) 204ページ
ノーマ・フィールド/大島かおり訳 『へんな子じゃないもん』
 みすず書房 (2006/3/10) 253ページ

なかでも、次の2冊は、彼女の思想がぎゅっと濃縮されている良書だったので、図書館の本を読んだ後で、『天皇の逝く国で』とあわせて3冊、Amazonで中古本(古本)を購入してしまった。

  

ノーマ・フィールド:みすず書房
https://www.msz.co.jp/book/author/13912.html

ノーマ・フィールドは、1947年、米軍の軍属だったアメリカ人の父と、日本人の母とのあいだに生まれた。
進駐軍が日本を占領していた時期。
祖母の家に、両親、叔母たちといっしょに暮らし、米軍基地内の学校までスクールバスで通学。のちにアメリカンスクールに進学。
父親は、妻(ノーマの母)と娘を置いて、アメリカに帰国してしまう(両親は離婚)。

国籍はアメリカ、住まいの周囲は日本人ばかり。
学校ではアメリカの子どもたちと過ごしながら、アメリカ人と見られない。
そんな環境で育ったために、日本人でもアメリカ人でもない(あるいは両方)という意識が身についてしまう。

若くからアメリカに移住し、アメリカ人と結婚。
アメリカと日本のあいだを往復する。

上にあげた3冊の単行本には、幼い頃、彼女と暮らした祖母、母、叔母たちの回想と、日本という祖国へ向ける厳しく、あたたかいまなざしが詰まっている。
なかでも、『祖母のくに』『へんな子じゃないもん』には、脳溢血で倒れた後の祖母を見舞う毎日が、あたたかい筆致で綴られていて、感動的。

こういう著者との出会いは、得難いものだ。

【追記】
彼女の最近の写真を貼り付けようと思ったが、著作権に触れそうなので、下記リンク先の記事を参照願いたい。

「国家主義は史実を曲げる」 日本研究者187人声明:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASH574JV5H57UHBI017.html

有料会員限定記事 ※
ニューヨーク=中井大助、真鍋弘樹 2015年5月8日08時41分

※途中まで読めるし、ノーマ・フィールドの写真も見られる。
 魅力的な女性だ。

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2018年12月27日 (木)

【読】ぼちぼちいこうか総集編(2018年・読書編)

今年、2018年一年間に読んだ本のうち、強く印象に残ったものを書きだしてみる。

読んだ本の記録をPCに残しているが、今年は60冊ちょっとしか読めなかった。
夢中になって次々と読んでいた時期と、本から離れていた時期、といった具合で、まちまちだ。

■文庫10冊シリーズ 読破

池内紀・川本三郎・松田哲夫編 『日本文学100年の名作』 1~10
 新潮文庫 2014年9月~2015年5月発売

発売当時、毎月一冊ずつ購入して全巻揃っていたが、読まないまま本棚で眠っていた。
一念発起、2月から9月まで半年かけて読み継いだ。

『日本文学100年の名作 第1巻 1914-1923 夢見る部屋』
 新潮文庫 (2014/9/1) 490ページ
『日本文学100年の名作 第2巻 1924-1933 幸福の持参者』
 新潮文庫 (2014/10/1) 500ページ
『日本文学100年の名作 第3巻 1934-1943 三月の第四日曜日』
 新潮文庫 (2014/11/1) 514ページ
『日本文学100年の名作 第4巻 1944-1953 木の都』
 新潮文庫 (2014/12/1) 502ページ
『日本文学100年の名作 第5巻 1954-1963 百万円煎餅』
 新潮文庫 (2015/1/1) 555ページ
『日本文学100年の名作 第6巻 1964-1973 ベトナム姐ちゃん』
 新潮文庫 (2015/2/1) 543ページ
『日本文学100年の名作 第7巻 1974-1983 公然の秘密』
 新潮文庫 (2015/3/1) 555ページ
『日本文学100年の名作 第8巻 1984-1993 公然の秘密』
 新潮文庫 (2015/4/1) 503ページ
『日本文学100年の名作 第9巻 1994-2003 アイロンのある風景』
 新潮文庫 (2015/5/1) 510ページ
『日本文学100年の名作 第10巻 2004-2013 バタフライ和文タイプ事務所』
 新潮文庫 (2015/5/1) 639ページ

馴染みの作家、名前だけ知っていて読んだことがなかった作家、まったく知らなかった作家など、幅広い作品が収録されていて、面白かった。

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これまで読んだことのなかった作家の他の作品も、図書館で借りて読んでみた。

道尾秀介 『光媒の花』 集英社 (2010/3/30) 258ページ
木内昇 『茗荷谷の猫』 平凡社 (2008/9/25) 238ページ

 

現代作家にも、すばらしい書き手がいることを知ったのも、収穫だった。

■沖縄への関心

今年もまた、沖縄に関する本を読んだ。
どれも、図書館で借りてきた本。

沖縄タイムス社編集局 編著 『これってホント!? 誤解だらけの沖縄基地』
 高文研 (2017/3/25) 236ページ
行田稔彦(こうだ・としひこ) 『いまこそ、沖縄 ~沖縄に親しむ50問50答』
 新日本出版社 (2014/2/25) 173ページ
嬉田京子 『戦場が見える島・沖縄―50年間の取材から』
 新日本出版社 (2015/9/20) 158ページ
藤原書店編集部編 『「沖縄問題」とは何か――「琉球処分」から基地問題まで』
 藤原書店 (2011/2/28) 273ページ
アレン・ネルソン/國弘正雄 『沖縄に基地はいらない――元海兵隊員が本当の戦争を語る』
 岩波ブックレット444 (1997/12/19) 55ページ
金城実・松島泰勝 『琉球独立は可能か』 解放出版社 (2018/2/11) 310ページ
馳星周 『弥勒世(みるくゆー) 上』 小学館 (2008/2/25) 611ページ
馳星周 『弥勒世(みるくゆー) 下』 小学館 (2008/2/25) 589ページ
松島泰勝 『琉球 奪われた骨』 岩波書店 (2018/10/10) 264ページ
川満彰 『陸軍中野学校と沖縄戦』 吉川弘文館 (2018/5/1) 229ページ

   

フィクションだが、馳星周『弥勒世(みるくゆー) 上・下』が強烈だった。
また、松島泰勝『琉球 奪われた骨』は、琉球だけでなく北海道でもアイヌの遺骨が学者によって盗掘されたことを知っていたので、強く揺さぶられる内容だった。

金城実・松島泰勝 『琉球独立は可能か』は、ふたりの考え方の微妙な違いはあるものの、熱い思いが伝わってきた。
空想的かもしれないが、琉球も北海道も、独立を考えていいと思う。
元々、ヤマトとの支配の届かない、別の土地だったのだから……。

■イザベラ・バード 『日本奥地紀行』

金坂清則(訳注)で読む。
ただし、全4巻中、3巻目まで。
「完訳」とうたっているだけあって、翻訳にあたっての考証が半端ではない。

『イトウの恋』は、イザベラ・バードの従者だった”イトウ”をモデルにした小説。
以前から気になっていた小説だが、読んでみると面白かった。

イザベラ・バード/金坂清則(訳注) 『完訳 日本奥地紀行1 横浜―日光―会津―越後』
 平凡社東洋文庫819 (2012/3/21) 391ページ
イザベラ・バード/金坂清則(訳注) 『完訳 日本奥地紀行2 新潟―山形―秋田―青森』
 平凡社東洋文庫823 (2012/7/10) 439ページ
イザベラ・バード/金坂清則(訳注) 『完訳 日本奥地紀行3 北海道・アイヌの世界』
 平凡社東洋文庫823 (2012/11/16) 415ページ

中島京子 『イトウの恋』 講談社 (2005/3/5) 276ページ

   

■あの戦争

先の大戦(アジア・太平洋戦争)への関心は、ずっと続いている。
このところ目に余るほど顕在化してきた、戦争美化、戦争責任の忌避、といった風潮に抵抗するために、もっともっと「あの戦争」の実相を知りたい。

全部で20巻(他に別巻)もある膨大なシリーズ、『コレクション 戦争と文学』を買い揃えたのは、今から5年前だったか。
ようやく、そのうちの一巻を読破した。
全巻読破まで、まだまだ先は長い……。

鈴木明 『「南京大虐殺」のまぼろし』 文藝春秋 (1973/3/10) 274ページ
北村稔 『「南京事件」の探求』 文春新書207 (2001/11/20) 197ページ
笠原十九司 『「百人斬り競争」と南京事件』 大月書店 (2008/6/20) 282ページ
石川達三 『生きている兵隊 【伏字復刻版】』 中公文庫 (1999/7/18) 214ページ
吉田裕 『日本軍兵士――アジア・太平洋戦争の現実』
 中公新書2465 (2017/12/25) 228ページ

『コレクション 戦争と文学 7 日中戦争』 集英社 (2011/12/10) 743ページ

 

■印象に残った本

興味のおもむくまま読んだ雑多な本の中から、印象に残った本。
小説あり、エッセイあり、ノンフィクションあり。

木村友祐 『幸福な水夫』 未來社 (2017/12/15) 189ページ
池澤夏樹 『知の仕事術』 インターナショナル新書 001(集英社) (2017/1/17) 221ページ
河治和香 『がいなもん 松浦武四郎一代』 小学館 (2018/6/13) 317ページ
五木寛之 『七十歳年下の君たちへ こころが挫けそうになった日に』
 新潮社 (2018/7/30) 190ページ
篠原勝之 『戯れの魔王』 文藝春秋 (2018/11/20) 189ページ
植田絋栄志(うえだ・ひさし) 『冒険起業家 ゾウのウンチが世界を変える。』
 ミチコーポレーション (2018/10/23) 396ページ
斎藤美奈子 『日本の同時代小説』 岩波新書1746 (2018/11/20) 269ページ

      

(2018/12/27記)

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2016年4月 4日 (月)

【読】雨の日、桜満開、通院、読書

朝から小雨。
昼間、いっとき晴れ間がでたものの、肌寒い一日だった。

午前中、立川の病院へ。
24週間飲み続けた薬の効果を聞く。
なぜか、血液検査の数値が高くなっているため、三週間後に再検査となる。
おかしいなぁ。
医師も首を傾げていた。

病院の駐車場は、ソメイヨシノの古木が囲んでいて、満開だった。

撮影 2016/4/4(月) 東京都立川市

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病院で、採血後、診察までの待ち時間に本を読む。
病院の待合室は、読書がはかどる。

玉居古靖宏さんの 『戦争小説家 古山高麗雄伝』 (平凡社)を、帰宅後に読了。

― Amazonより ―
<一兵士としての戦場体験を基に「戦争小説」を繰り返し書いた古山。「人生しょせん運不運」と嘯いた特異な人生観はいかに生まれたか。
安岡章太郎ら「悪い仲間」との出会い、戦う気もない兵隊として過ごした戦争、鬱屈した編集者時代、そして旧友との別れ―「人生、しょせん運不運」と嘯いた作家の生涯。>

たいへん読みやすい平易な文章で、古山高麗雄の生涯を追った好著。
このところ、古山高麗雄の著作を読み続け、この評伝を読んだが、しばらくのあいだは古山高麗雄から離れようと思う。
何冊か、まだ読みたい本が手元にあるが。

玉居子靖宏さんのブログ
南方通信
http://nanpou.exblog.jp/

ところで、この本で知ったのだが、宮城県刈田群七ケ宿町にある 「水と歴史の館」 には、古山高麗雄の遺品が展示されているという。

ここは、古山高麗雄の父親の故郷。
いちど訪ねてみたい場所だ。

観る - 観光ガイド | 宮城県七ケ宿町
http://www.town.shichikashuku.miyagi.jp/sightseeing/view/mizu-to-rekishi.html
 宮城県七ヶ宿町ホームページ
 http://www.town.shichikashuku.miyagi.jp/ 内


小平図書館友の会の、次回の読書会(五月)の課題本が、村上春樹をテーマにしたもの。

加藤典洋 『村上春樹は、むずかしい』
 岩波新書 1575 2015/12/18発行 259ページ 800円(税別)

― Amazonより ―
<はたして村上文学は、大衆的な人気に支えらえられる文学にとどまるものなのか。文学的達成があるとすれば、その真価とはなにか――。「わかりにくい」村上春樹、「むずかしい」村上春樹、誰にも理解されていない村上春樹の文学像について、全作品を詳細に読み解いてきた著者ならではの視座から、その核心を提示する。>

村上春樹の著作は、エッセイや短編小説をいくつか読んだものの、中・長編小説は 『羊をめぐる冒険』 ぐらいしか読んだことがない。

下準備として、初期の小説から順に読んでみようと思い、図書館から作品集を二冊借りてきた。
はたして、読めるかどうか。

それほど好きな作家じゃないからな。

 

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2016年3月28日 (月)

【読】読書再開

先週水曜日から五日間続いた古本市が終わり、ようやく本を読む時間ができた。

図書館から借りている古山高麗雄の『龍陵会戦』(1985年・文藝春秋)の続きを読む。

 

単行本も文庫版も、すでに絶版。
図書館にあったのは、多くの人に読まれた痕跡のある単行本。
シミや書き込みもあるが、貴重な本だ。

この小説の戦闘描写は、やたらと現地の地名・陣地名、それに人名(ほとんどが無名戦士)が出てきて、読むのに苦労している。
が、ところどころ、作者の戦争観が述べられているのが興味ぶかい。
この作家の作風なのだろう。

例によって、覚え書きとして転載しておきたい箇所がある。

<日本男子の面目、だの、大和魂、だの。人は振り返って、その言葉の使われ方を批判するが、その思い自体は、今もなお、多くの日本人に好かれているし、往時が語られる場合、とかくその思いに包装されて紋切型になりがちである。紋切型の美化は、紋切型の反戦と同じように、欺瞞ではなく、好悪であろう。そして、紋切型の美化を欺瞞と感じ憎むのも、やはりその人の好悪であろう。>

<美化だの欺瞞だのということいついて考え始めると、私は、底なし沼にはまり込んだような気持になる。結局、わからなくなってしまうのである。日本男子の面目や大和魂を大事にしている人がいた。今もいる。そういう人たちの美化や欺瞞とはどういうことなのか。日本人のそのころの傾向や趨勢を語ることも無意味ではないだろうが、それはそれだけのことである。>

<戦争指導者と呼ばれる人々、トップを目ざしていたエリート軍人たちに限らず、多くの人々が、考えとしては、大君のへにこそ死なめ、と思っていたのではないか。国民がそのように導かれたことは確かだろう。しかし、鰯の頭を信心する者には、鰯の頭は尊い。美化でも欺瞞でもない。信心していない者には、信心を強制されるのはたまったものではないが、彼我の是非などを論じる気持は、私にはない。>

(以上、P.235-236)

この後、著者が“敬愛して付き合っていた”吉田満の書いたものに触れているが、省略。

古山高麗雄が、その著作群のなかで、繰り返し語っている戦争感に、私は同意できるようになった。

<紋切型の美化は、紋切型の反戦と同じように、欺瞞ではなく、好悪であろう。そして、紋切型の美化を欺瞞と感じ憎むのも、やはりその人の好悪であろう。>

古山高麗雄は、この「紋切型」とは対極の考え方をする人だった。
一等兵として戦地を経験した彼は、いつも醒めた目で戦争を見ていたが、戦地で命を落とした人たちへの思いを引きずり、奇跡的に復員した、かつての戦友たちとの交流を死ぬまで続けた。

信頼できる人だと思う。

まだ、100ページ以上残っているが、頑張って読み通したい。

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2016年3月15日 (火)

【読】「断作戦」覚え書き

古山高麗雄の『断作戦』(1982年/文藝春秋)を図書館から借りて読んでいる。

 

終盤にかかった。
単行本の残りは70ページほど。
ちょと気になった個所があったので、覚え書きとして残しておこうと思う。

先の戦争(大東亜戦争/アジア・太平洋戦争)の末期、昭和19年頃、ビルマ(現在のミャンマー)北部から中国の雲南地方に侵攻した旧日本陸軍。

騰越城でほぼ全滅した部隊の奇跡的な生き残りである二人の兵士の、戦後の回想の形をとった長篇小説だ。

主人公のひとり、落合一政の回想から(P.250-P.251)。

<咽喉もと過ぎれば熱さを忘れる、ということか。人はみんな、そうなのではないだろうか。戦争では、普通では考えられないような残虐が行なわれる。戦場でも殺し合いだけならまだしも、ナチスがユダヤ人にしたようなことを、あれほど大規模ではないが、日本もしたし、また、されもしたのである。

 帝国陸軍はシンガポールで、何千人もの市民を虐殺したし、帝国海軍はマニラで、やはり何千人もの市民を虐殺した。シンガポールでは、同市に在住する華僑の十八歳から五十歳までの男子を指定の場所に集めた。約二十万人を集めて、その中から、日本側の戦後の発表では六千人、華僑側の発表では四万人の処刑者を選んで、海岸に掘らせた穴に切ったり突いたりして殺した死体を蹴り込み、あるいはそれでは手間がかかるので、船に積んで沖に出て、数珠つなぎにしたまま海に突き落とした。抗日分子を粛清するという名目で、無愛想な者や姓名をアルファベットで書く者などを殺したのだそうである。日本軍はシンガポールでは、同市を占領した直後にそれをしたが、マニラでは玉砕寸前の守備隊が、女子供まで虐殺し、強姦もした。アメリカの発表では、殺された市民の数は八千人である。これには名目などない、狂乱の所行である。>

犠牲者の数は、南京虐殺でもそうだが、被害国側の発表数字が大きすぎる気もする。
だが、それが問題ではない。
中国大陸でも、フィリピンでも、ビルマでも、旧日本軍はそういうことをしたのである。
弁解の余地はないはずだ。

昭和20年、日本の敗戦が必至になった時期の、あの沖縄戦も、これに負けず劣らず悲惨だった。
あれは、日本軍が、味方であるはずの沖縄の人たちを見殺しにした戦闘と言えるだろう。


慰安婦についても、知るところがあった。
作者の古山高麗雄が見聞した事実であろう。

これも落合一政の回想(P.256-257)。

<あのころは、騰越城の大半が占領されて、いたるところで死闘が展開されていた。そんな城内から食料が届いた。握り飯一個とカンパン一袋とをもらった。握り飯は、慰安婦たちが弾雨の中で作ってくれたのだと聞かされて感激した。あのころはもう炊き出しなどのできる状態ではなかったのである。あれは、彼女たちが、身を死の危険にさらして握ってくれた握り飯だったのである。>

<同夜、一政たち飲馬水陣地の守兵は、城内からの脱出を援護した。十三日も雨であった。敵は照明弾を打ち上げ、東南角陣地から激しく脱出部隊に銃撃した。その弾雨を潜って、慰安婦たちも脱出した。その被害の程度はわからないが、脱出者たちは、破壊孔から躍り出ると一政たちが待機していた林の中に飛び込んで来た。慰安婦たちも軍服を着て鉄帽をかぶっていた。暗い林の中だから、人数はよくはわからなかったが、二十人か三十人ぐらいいたのではなかったか。>

こんな激しい戦闘が繰り広げられていた戦場にも従軍慰安婦がいたことに、私は衝撃を受けた。

この少し後の記述で、主人公たちが籠っていた騰越城にいた慰安婦たちがどこから来て、その後どうなったかも書かれている。

落合一政が、もうひとりの主人公である白石芳太郎と、戦場を回想する場面(P.260-261)。

<「白石さんは、騰越で慰安婦が作ってくれた握り飯のこつば、憶えとらるるかね」
 …(中略)…
 一政が、握り飯のことを言うと、芳太郎は、
 「憶えとるとも。一生、あの握り飯の味は忘れんたい」
 と言った。

 「あの慰安婦たちとは、キャンプで出会うたが、その後、どぎゃんなこつになったじゃろうかね」

 「キャンプで出会うたもんたちは、朝鮮に送り返されたわけじゃろうが、キャンプに収容される前に、雲南の山ん中で死んでしもうたもんもおろうし、戦後、病気で死んだもんもおるじゃろう。あのころ、二十ぐらいだったもんも、今はもう還暦に近い年配になっとるわけじゃ。 …(略)…」

 「慰安婦たちは、挺身隊じゃと言うて、強制連行されたというこつじゃが、ひどい目に遭うたな。今になってみれば、九月十三日の晩、城内から慰安婦たちが逃げ出して来て、一緒に連れて行ってくれち言うたが、そうしてやればよかったち思わるる。と言って、一等兵のわしにそんなこつはできまいし、あんときは捕虜になるとは考えておらんじゃったもんな……」>


古山高麗雄は、この戦闘には参加していないが、体験者への取材をたんねんに重ねて、この小説を書きあげたという。
上にあげた状況は、ほぼ事実だったと思う。

あの戦争では、いたるところで、これに似た戦闘が繰り広げられ、おびただしい数の敵味方の将兵が命を落としたのだ。
戦闘だけでなく、それ以上に、疾病や飢え、でも。

その事実から目をそらさないことだ。
そして、日本兵は勇敢だったとか、よく戦ったなどと、美化しないことだ。
(ネットを調べていると、体験者のそのような言説を目にすることがあるが……)

古山高麗雄は、軍の指導者や指揮官ばかりでなく、その頂点にいた昭和天皇にも怨嗟のまなざしを向けている。
一兵卒のまなざしである。

ほとんどの帰還兵が、戦後、沈黙を守ったのだろう。
戦場での体験を語りたくない、その気持ちもよくわかる。
だが、ほんとうのことを知りたい。

戦後生まれの私は、無数の無名兵士たちの声に耳をすますつもりで、あれこれ読んだり調べたりして、あの戦争の実態を知りたいと思い続けている。

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2016年3月14日 (月)

【読】古山高麗雄 『断作戦』

このところ、古山高麗雄という作家に、はまっている。

この作家に関するブログ記事も増えたので、カテゴリーに「古山高麗雄」を追加。

きのうから、『断作戦』 という長編小説を読んでいる。
(「文學界」198年4月号~1982年7月号連載/1982年11月、文藝春秋から刊行)

『龍陵会戦』 『フーコン戦記』 と並ぶ、彼の「戦争長篇小説三部作」の最初の作品だ。

「断作戦」 などという名前は、よほどの戦記マニアか、あの戦争でビルマ(現在のミャンマー)の戦闘にかかわった人しか知らないだろう。
もちろん、私もつい最近まで知らなかった。

― Wikipedia 「断作戦」 より ―
 断作戦とはイギリス軍と中国軍の攻勢によってビルマ北部を失った後も、中国国民党への物資援助ルート(ビルマ・ルート)を遮断し続けることを目的とした日本陸軍の作戦。
 作戦案は大本営の作戦班長や支那総軍の課長参謀を歴任した辻政信陸軍大佐(辻は1944年(昭和19年)7月3日に第33軍参謀に補職)。当初はミイトキーナ線を重要視していたが、辻の案で雲南周辺に戦力を集結することに決まったのである。
 具体的には第33軍がビルマと中国国境のバーモ及びナンカンを攻撃し、中国雲南省を目指す計画であった。だが、アメリカ、イギリスはすでに空路をつかって援助物資を国民党に送り込んでいた。地上における遮断作戦はあまり意味をなさなかったが、西から進撃し続けるイギリス・インド軍と、北で反撃に転じた雲南遠征軍両方から圧迫を受けていた。そのため、目的が変わり、攻勢からビルマ北部を持久戦によって戦線を支えた。

いわゆる「援蒋ルート」を遮断する目的から、「断作戦」と名づけられたのだろうが、日本軍はほぼ全滅という悲惨な戦闘だった。

ビルマの戦闘といえば、「インパール作戦」が有名だが、ビルマ北部から中国(雲南)にかけての戦闘も忘れてはいけないだろう。


古山高麗雄は、エッセイ集 『反時代的、反教養的、反叙情的』 (2001年/KKベストセラーズ刊 ベスト新書)で、この小説について次のように書いている。

<私は、中国雲南省で全滅した騰越(とうえつ)守備隊を扱ったものを「断作戦」と題して「第一部とし、同じ雲南省の龍陵(りゅうりょう)の攻防を書いた「龍陵会戦」を第二部としたが、「断作戦」と「龍陵会戦」とは、連載を始めてから完結するまで、合わせて四年半ぐらいしかかかっていない。ところが、第三部の「フーコン戦記」を書き終えるのに、それから十三年半かかった。/私は、雲南地区の戦いには参加しているので、二部までは書きやすかったのであろう……(後略)>

<ビルマの戦い、というと、インパールばかりが大きく報じられているが、昭和十九年、日本軍はそれだけの戦力もないのに、インパールの占領を夢想し、米英支連合軍は、インパールでは日本軍の自滅を予見し、援蒋ルート確保のために、雲南、フーコンをビルマ反攻の主戦場とした。日本軍には戦力もない上に、その連合軍の意図に対応する知恵もなかった。>

 ― 上掲書 P.198-199 より ―


ところで、図書館から借りている単行本の『断作戦』は、困ったことに、表紙見返しの地図がカバーのそでに隠れて見えないのだ。
この小説には、一般的な地図には載っていない当時の地名が頻出するため、地図の全体が見えないのはつらい。


この小説について書かれたブログを発見した。
上手にまとめられている。

『断作戦』古山高麗雄 - うちゅうてきなとりで
http://the-cosmological-fort.hatenablog.com/entry/2015/05/05/065527
 うちゅうてきなとりで
 http://the-cosmological-fort.hatenablog.com/ 内

この小説、323ページのうち、ようやく三分の一まで読んだが、地名の関係が複雑でなかなか頭にはいってこないのが、ちとつらい。

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2016年3月13日 (日)

【読】読書会、図書館、新刊書店

肌寒い曇り空の一日だった。

午後、小平図書館友の会の読書会に参加。
今日の参加者は8人。
主宰者のO(オー)さんの博識ぶりを傾聴。

課題本の『文系学部解体』(室井尚 著)について、談論する。
私の関心の薄い分野だったが、人それぞれ抱いた感想がちがい、それなりに勉強になったかな、と思う。

読書会の会場へ車で向かう途中、図書館に寄って読み終えた本を返却。
その前に、近くの新刊書店で、ネット注文してあった本を受け取る。
単行本、新書あわせて4冊購入。

図書館から借りていた玉居古精宏さんの『戦争小説家 古山高麗雄伝』(平凡社)が、とてもいい本で手元に置いておきたいと思い、購入した。

『戦争小説家 古山高麗雄伝』
 玉居子精宏 (たまいこ・あきひろ)
 平凡社 2015/8/5発行 279ページ 1,800円(税別)

同じく、玉居古さんの新書も購入。

『大川周明 アジア独立の夢 ―志を継いだ青年たちの物語』
 玉居子精宏 (たまいこ・あきひろ)
 平凡社新書 651 2012/8/10発行 305ページ 880円(税別)

他に新書を二冊。
気になっていた本も購入。

 

そして、いよいよ古山高麗雄の戦争三部作の第一弾、『断作戦』を読みはじめた。
図書館から借りているこの本(1982年発行)は、多くの人に読まれた本らしく、かなり傷んでいる。
古山高麗雄の読者が多いのだろう。

読みたい本はたくさんある。
「いつも読みたい本ばかり」(渡辺一技)。

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2016年3月12日 (土)

【読】三月十日という日

3.11の前日(1945年3月10日)のことなので、東京大空襲のことは、忘れられがちだ。

もちろん、あの空襲を体験した人たち、その遺族、年配の戦争体験者には忘れられない日だ。
今年も、この日の新聞、テレビ、ラジオなどで特集があった。


先日、図書館の新着図書コーナーでみつけて借りてきた本を、読んでいる。

和賀正樹 『これが「帝国日本」の戦争だ』
 現代書館 2015/11/30発行 127ページ 1,200円(税別)

戦禍のショッキングな写真満載だが、いろいろ新しい発見があった。

東京大空襲のあとの、たくさんの黒焦げ焼死体の写真も、掲載されている。
撮影者は石川光陽とのキャプションがある。

当時、報道機関などによる写真撮影は禁じられていて、新聞にも正確な被災状況は発表されていない。
石川光陽は、撮影を許可(命令)された数少ない人だった。

石川光陽とは――
1904-1989 昭和時代の写真家。
明治37年7月5日生まれ。東京九段下の蜂谷写真館で修業。昭和2年警察官となり,6年から警視庁警務部企画課に勤務し,雑誌「自警」に管内のスナップ写真を連載。17年から空襲による被害を撮影しつづけ,「東京大空襲の全記録」をのこした。平成元年12月26日死去。85歳。福井県出身。本名は武雄。写真集に「痛恨の昭和」など。

 ― デジタル版 日本人名大辞典+Plusより ―

地元の図書館に、この人の著作があったので、そのうちの一冊を借りてみようと思う。

石川光陽 『グラフィック・レポート 痛恨の昭和』
 岩波書店 1988年発行

<カメラと日記で綴る歴史の証言。「皇軍の赴くところ敵なし、大日本帝国が大東亜に君臨する日も間近かである。警視庁のやっている防空演習は、失礼ながらまことに無駄なことと申し上げたい…」太平洋戦争に突入して戦局の良かったころ、陸軍報道部の将校が警視庁を訪れて講演をした。この速記録を警視庁のカメラマンだった石川光陽さんは、いまでも怒りを込めて保存している。> ― Amazon ―


今読んでいる 『これが「帝国日本」の戦争だ』 には、私が知らなかったり誤認していたことが、他にもあった。

東京大空襲の八日後(3月18日)に、天皇(当時の昭和天皇)が被災地を視察したという。

<中世から<聖なる天皇>は、死や地や産などの穢れからもっとも遠いところに存在してきた。/臨戦下とはいえ、腐乱死体、焼死体を「玉体」である陛下の視界に入れてよいものか。/視察の内定以来、夜を日に継ぎ、順路の死体の処理清掃を急いだ。(中略) 空き地、寺院、グラウンドに陸軍が大きな穴を堀り、身元不明の遺体を百単位で投げ込み、合葬していく。……> (本書 P.98 「ご巡幸」・・・天皇は焼死体を見たか)

天皇は、わずか一時間、車で「ご巡幸」しただけだったという。
とうぜん、焼死体など目にしなかったことだろう。

もうひとつ。
これは、敗戦直前の空襲、原爆投下にまつわる話。

京都が原爆投下の第一候補だったことを、迂闊にも私は知らなかった。
アメリカが、はじめから、文化遺産の多い京都の空襲を除外していた、という通説は間違っているようだ。
スチムソン陸軍長官が京都への投下に強く反対した結果、京都が除外されたということはあったようだが……このあたり、ネット情報はまちまちで、何を信用していいのか、まだわからない。

いずれにしても、少なくとも当初は、京都、広島、横浜、小倉などが原爆投下の候補地だったらしい。

「あの戦争」について、まだまだ勉強し、調べなければ、と思う。

それにしても――
あの戦争での米軍の冷酷さ(日本本土への無差別空爆、原爆投下、沖縄戦)は、なんとしたものか。
これに対して、日本人が戦後、米国を強く非難してこなかったのは、なぜだろう。

よくよく考えなければいけない。

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2016年3月10日 (木)

【読】古山高麗雄が、いい

作家との出会いというのも、おもしろいもので。

たまたま別の本を読んでいて知った、古山高麗雄という作家。
名前だけは知っていたが、読んだことがなかった。

古山は大正9年(1920年)生まれというから、私の父(すでに故人)よりも少しだけ年長。
父は、師範学校在学中に召集された。
繰上げ卒業だったらしい。
海軍少尉の階級で、飛行機に乗ることもなく敗戦を迎えた。

わずかな年齢の差が、古山高麗雄と私の父の運命を分けた。
そう思うと感慨ひとしおだ。

父から戦争の話を聞くこともなく、36年前に54歳で早逝してしまった。
そうか、生きていれば90歳になっていたのだ。
いま思えば、父からはもっといろいろ聞いてみたかった。


何冊か古山高麗雄の本を読んだあと、こんな評伝が出版されていることを知り、図書館から借りてきた。

『戦争小説家 古山高麗雄伝』
 玉居子精宏 (たまいこ・あきひろ)
 平凡社 2015/8/5発行 279ページ 1,800円(税別)

― e-honサイトより ―
[要旨]
安岡章太郎ら「悪い仲間」との出会い、戦う気もない兵隊として過ごした戦争、鬱屈した編集者時代、そして旧友との別れ―「人生、しょせん運不運」と嘯いた作家の生涯。
[目次]
第1章 「悪い仲間」たち
第2章 「兵隊蟻」の戦争
第3章 「万年一等兵」の下積み
第4章 「悪い仲間」との決別
第5章 「戦争三部作」への執念
第6章 文士の“戦死”
終章 落葉、風を恨まず

表紙は、兵隊時代の古山高麗雄だろう。

これから読みはじめるところだが、本文より先に「あとがき」をちらっと読んでみた。
古山高麗雄という作家の魅力が、うまくまとめられていて、「そうだ、そうだ」と膝を打った。

少し長いが、あとがきから引用してみる。

<開き直りと切実さを感じさせる言葉の連なり。古山高麗雄の作品を読むと、そんなことを感じる。例えばデビュー作「墓地で」の中で、上官に「役に立たない兵隊」と罵られる「私」がこう思う――。

彼らが、八紘だの玉砕だのと翼賛語を使ったら、私は嘲笑することにしていたのだった。なにがギョクだ。大君のへにこそ死なめ。なにが、へにこそ、だと思う。私には思う自由、というものがある。これだけは、誰も束縛することができない。

 「思う自由」あるいは「思うだけの自由」。それは圧倒的に自由に見える戦後を生きる私にとってたとえようもなく重いものに思える。
 私は古山の言葉に新鮮さを覚えながら、作品を読んできた。それまでに読んだ「戦争文学」に感じていた深刻さをあまり感じないのが不思議でもあった。
 古山が戦場で無数の死に接したことを思えば、開き直りと切実な思いを抱えて戦後を生き、書いたことは当然だろうと思う。(後略)>
  ― 本書 P.273 ―

著者は1976年生まれのノンフィクションライター。
若い!

楽しみな本である。

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