カテゴリー「澤地久枝」の5件の記事

2015年4月 7日 (火)

【読】ようやく三分の二まで読んだ、船戸与一「満州国演義」

小雨が降る肌寒い日。
灯油を補充しておいてよかった。

明日はもっと寒くなるらしい。
昼間の予想気温は4度に満たず、みぞれか雪が舞うかもしれないという。

20150407_weather_report


三月下旬から読み続けていた、船戸与一『満州国演義 6』を、今日ようやく読み終えた。
二週間以上かかった。
途中、チャリティ古本市やらで忙しく、まったく本を読む時間のない日が続いた。

全9巻の大河小説、その三分の二まで進んだわけだ。

船戸与一 『満州国演義 6 大地の牙』
新潮社 2011/4/30発行 425ページ 2,000円(税別)

<国難に直面したとき、人々が熱望するのはファシズム。昭和十三年、日中戦争が泥沼化する中、極東ソ連軍が南下。石原莞爾の夢が破れ、甘粕正彦が暗躍する満州に、大国の脅威が立ちはだかる―“大戦前夜”の満州を描く、入魂の書下ろし七五〇枚。> ―Amazon―

「ノモンハン事件」やら、汪兆銘政権の樹立、欧州での独ソ不可侵条約締結、ドイツ軍のポーランド侵攻、ソ連のフィンランド侵攻、といった第二次世界大戦前夜が描かれている。

あらためて興味深かったのは、東北抗日連軍の楊靖宇が、間接的に登場することだ。

この小説では、歴史上の実在人物が直接登場することはなく、登場人物(フィクション)たちの眼や口を通して描かれている。
船戸与一流の小説作法だ。

主人公のひとりである敷島三郎(関東軍憲兵大尉)が楊靖宇討伐に加わるのだが、二人が出会うことはないまま、楊靖宇は日本軍と満州国軍の討伐隊によって殺される。

楊靖宇の最期については、ずっと前に読んだ澤地久枝 『もうひとつの満洲』 にも描かれていた。(過去記事参照)
なかなか魅力的な人物だ。
船戸さんのこの小説でも、その最期の様子が(登場人物の眼を通して)細かく描かれている。

【過去記事】
2009年3月9日
【読】読了 『もうひとつの満州』(澤地久枝): やまおじさんの流されゆく日々
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2009/03/post-84a8.html

【参考サイト】

楊靖宇(ようせいう)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E6%A5%8A%E9%9D%96%E5%AE%87-404837

楊靖宇
http://china-redtour.com/hito/youseiu.html
 (中国近現代史の旅 日本人のための中国歴史観光ガイド
 http://china-redtour.com/index.html  より)

鉄の戦士―楊靖宇
http://japanese.cri.cn/81/2005/07/19/1@45230.htm
 (China Radio Internationalより)

 <楊靖宇は、東北抗日連合軍の創設者であり指導者であった。本名は馬尚徳、1905年、河南省確山県に生まれる。学生時代は、反帝国主義愛国運動に積極的に参加。1926年、中国共産主義青年団に入団。1927年4月、確山の農民暴動において指導者として参与。同6月、中国共産党に入党。1931年「9・18」事変ののち、中共ハルビン市道外区委書記、市委書記、満州省委軍委代理書記を兼任。1932年秋、南満州に派遣され、中国工農紅軍第32軍南満遊撃隊を編成。政治委員となり、盤石紅を遊撃根拠地の中心とした。1939年、東南満地区における秋冬期反「討伐」作戦では、部隊を率いて濛江一帯転戦。最後はただ一人、5昼夜にわたって敵と渡り合った。
 彼は想像を絶するほどの持久力で、弾が尽きるまで戦い続け、1940年2月23日、吉林濛江三道庶?子にて壮絶な最期を遂げた。残忍な日本軍によって頭をかち割られ、腹も切り裂かれていた。彼の胃には枯れ草や木の皮、綿の実が入っているばかりで、食糧を口にしていなかったことが分かった。彼を讃え、1946年、東北民主連合軍通化支隊は「楊靖宇支隊」と改名。濛江県も「靖宇県」となった。>

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2009年3月 9日 (月)

【読】読了 『もうひとつの満州』(澤地久枝)

まれにみる良書だった。
私にしてはめずらしく、土曜の夜から日曜日をはさんで、今日、月曜日の通勤電車の中で早くも読了。
図書館に返さなくてはいけないと思うから、よけい集中して読んだということもあるが、それだけ魅力的な内容だったのだ。

「あの戦争」と「満州」を知ろうとする人には、ぜひお勧めしたい本だ。

迷った末、Amazonで中古を購入することにした。
本体95円、送料340円。
Amazonには、文庫版を含めてたくさん出ている。


Sawachi_manshuu澤地久枝 『もうひとつの満州』
 文藝春秋 1982/6/1 発行
 292ページ 1000円

楊靖宇という「反満抗日」の士(1940年没)を追って、旧満州(中国東北地方)を訪れた著者の、ノンフィクションである。

楊靖宇という人物の情報は少ない。
Wikipediaにもこの人の経歴は載っていなかった。
あるサイトによると、こうだ。


鉄の戦士―楊靖宇
http://japanese.cri.cn/81/2005/07/19/1@45230.htm
より転載(改行を加えた)

 楊靖宇は、東北抗日連合軍の創設者であり指導者であった。
 本名は馬尚徳、1905年、河南省確山県に生まれる。
 学生時代は、反帝国主義愛国運動に積極的に参加。
 1926年、中国共産主義青年団に入団。
 1927年4月、確山の農民暴動において指導者として参与。同6月、中国共産党に入党。
 1931年「9・18」事変ののち、中共ハルビン市道外区委書記、市委書記、満州省委軍委代理書記を兼任。1932年秋、南満州に派遣され、中国工農紅軍第32軍南満遊撃隊を編成。政治委員となり、盤石紅を遊撃根拠地の中心とした。1939年、東南満地区における秋冬期反「討伐」作戦では、部隊を率いて濛江一帯転戦。最後はただ一人、5昼夜にわたって敵と渡り合った。
 彼は想像を絶するほどの持久力で、弾が尽きるまで戦い続け、1940年2月23日、吉林濛江三道庶?子にて壮絶な最期を遂げた。残忍な日本軍によって頭をかち割られ、腹も切り裂かれていた。彼の胃には枯れ草や木の皮、綿の実が入っているばかりで、食糧を口にしていなかったことが分かった。
 彼を讃え、1946年、東北民主連合軍通化支隊は「楊靖宇支隊」と改名。濛江県も「靖宇県」となった。


(註)
 「頭をかち割られ」というのは、澤地さんのこの本から得られる情報とは違っている。
 楊靖宇の首は切られ、みせしめのために「さらしもの」にされたのは事実。
 また、「腹も切り裂かれていた」というのも事実だが、当時、日本軍は抗日戦士を捕えると、胃の中味を調べて彼らの食生活を知り、討伐のための情報源としたという。


澤地さんのこの本には、ここで紹介したい「いい話」がたくさんある。
その中から。

澤地さんのお父さんに触れた部分。
(「五 故山にして他山」 P.214)
少し長い引用になるが、澤地さんがお父さんによせるあたたかい気持ちが伝わってくる。

<父は新京郵便局の三年間に中国語を学び、設計の図面をひくカラス口の使い方も習熟して、満鉄の試験を受けた。昭和十二年四月に採用になっている。三十二歳になったばかりだった。
 この九月、満鉄は新京鉄路局を吉林に移転し、吉林鉄路局と改称している。そのために新規採用の枠がひろげられたということが、父にとってのチャンスであったのであろう。しかしけっこう二枚目で、貧乏はしても粋人であった父の努力は買ってやりたい。人生の階段を半段でものぼることがどんなに大変か、私はこの父から教えられたのだから。建国の理想などを私に説教もせず、わが家の必要が選ばせた渡満であることを心得ていた点でも、私はやはり父が好きである。>

「私ははやり父が好きである」 という言葉に、(中国人に対する)「加害者の一員」としての日本人移民ということを肝に銘じながら、「それでも……」という澤地さんの思いがよくあらわれている、と思う。



この本について書きたいことはたくさんあるが、私が書きはじめると、例によって引用だらけになりそうなので、つまり、私には上手に内容を紹介できるだけの技量がないので、これぐらいにしておく。

ご興味のある方は、ぜひ本書を手にとって読んでいただきたい。


楊靖宇について、ネット検索してみつけたサイトを紹介しておく。


【参考サイト】

通化・楊靖宇列士陵園
(吉林省・延辺朝鮮族自治州 フォトギャラリー)

http://yb.gnk.cc/yb2/2005huijia/yangjingyu/sub.htm

中国近現代史観光ガイド
http://www.chinatravel-modernhistory.com/index.html
 >地域別観光>東北 通化 靖宇陵園
 http://www.chinatravel-modernhistory.com/tiiki/tohokud.html

「中国近現代史観光ガイド」は、よくできたサイトで参考になる。

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2009年3月 7日 (土)

【読】読了 『わたしが生きた「昭和」』

はなしは前後する。
澤地久枝さんの 『わたしが生きた「昭和」』(岩波現代文庫)に、印象に残るいいエピソードがいくつかあった。

Sawachi_shouwaそのうちのひとつ。
「7 文化の闇」 という章に書かれている、祖母のはなし。

澤地さんの母方のおばあちゃんは、文字の読み書きができなかった。
慶応2年生まれで、苦労しながら二人のこども(澤地さんの母と叔父)を育てた。

久枝さん一家といっしょに満州(新京)に渡った後、久枝さんの叔父にあたる長男夫婦といっしょに朝鮮半島で暮らし、そこで昭和20年1月に亡くなっている。

<さて、無筆ではあったが、無学や無知ではなかった未識字の人。わたしの祖母もそういう一人である。(中略)/慶応二年(1866)、幕末生れの祖母は、敗戦の昭和二十年(1945)一月五日、老衰で亡くなった。息子一家の自決は知らずに死んだが、祖母の遺骨は行方知れずである。五十年前の死、目に一丁字なしの、七十九年間の人生であった。>

こういう記述もある。
澤地さんの温かい人柄が感じられる、いい文章だ。

<若かった日、「きりょうが悪い」と言われたというが、愛すべき小柄な老人になり、身仕舞いのいい人であった。しかし炎天下も酷寒もいとわず、戸外で働きぬいたためか、なめしたような皮膚は色黒い。体を資本として生きた人間らしいしっかりした手でもあった。>

<かくしておきたい一家の過去が祖母の一身にかくしようもなくそなわってしまっている。(中略)/吉林駅前の公園に長く座って涙をこぼしながら話したあと、祖母はついと立ちあがり、腰をのばすとしっかりした声で言った。/「久枝ちゃん、着物買ってあげよう」>

澤地久枝さんにとって、いいおばあちゃんだった。



この章を通勤電車の中で読んでいるうちに、私は、ずっと同居していた父方の祖母のことをおもいだしていた。

私の祖母も文字の読み書きができなかったが、それこそ「体を資本として生きた」、生きることの知恵を身につけた、りっぱな人だった。
初孫の私は、この祖母にことのほか可愛がられた。

澤地さんのおばあちゃんよりもだいぶん歳下ではあるが、私にはじぶんの祖母のおもいでとかぶさって、不覚にも涙がこぼれた。
本を読みながら涙を流すなんて、ずいぶん久しぶりのことだった。

乾いたこころに、ひととき、あたたかい潤いが満ちて、感動とはこういうものだったな、ということを思いだした。



もうひとつのエピソードは、澤地さんのおとうさんのはなしだ。
(「2 写真が語るもの」「10 日本人難民」)

東京で大工仕事をしていた澤地さんの父親は、昭和9年(1934)、単身で満州国へ渡った。
東京では仕事がうまくいかず、一家はずいぶん貧乏をしていたから、満州に行けばなんとかなる、という思いがあったのではないか。

<昭和九年(1934)、父は単身で満州国に渡る。前景には、日本での生活がまったくゆきづまったという事情がある。昭和五年(あるいはその前年)以来の不景気に、父親は生活を投げる様子を見せた。母の内職などではおぎないきれない。道をはずれはしまいかと思案した母は、満州での生活を考える。「匪賊、馬賊の満州」とおそれられた知らない土地に対して、母にはほとんど警戒心はなかったように思われる。>

翌、昭和10年、家族を呼び寄せ、一家は敗戦まで満州で暮らすことになる。

<昭和十年の初夏、わが家の女三人は、門司から大連へ渡り、新京の父もとへ行くことになる。祖母の都屋七十歳、父三十一歳、母二十九歳、わたしは六歳だった。/青山墓地に中村の形ばかりの墓はあっても、その他にはなにひとつのこらない旅立ちである。祖母はひとまず新京で暮し、叔父が所帯をもったら朝鮮へ移ることに話はまとまっていたのであろう。>

澤地さんの父は満鉄で職を得て、そこそこの暮らしができるようになった。


しかし、10年後、一家は満州から追われることになる。
日本の敗戦。

<敗戦、しかも支配者として位置した異国での逆転した事態に、日本人はまったく馴れていない。「策なし」だった。さらに今思うと、それまでの生活のレベルが、敗戦体験の内容を左右している。/噂が流れる。根拠のない噂を、裏切られながらも幾度も幾度も信じた大人たち。とくに父。それは、十月に引揚げがはじまるという噂。十月が過ぎれば、年内には確実に日本へ帰れるという噂。>

たくさんの人たちが体験した、悲惨な引き揚げ。

澤地さんの父親が「敗戦を知ってすぐに指示した具体的なことは、乾飯(ほしいい)を作ること。日本へ帰りつくまでの非常食」だった。
これは、結果的に、引揚げ船で飢えをしのぐのに役立ったのだが、「乾飯以外では、父は気の毒なほど無力だった」。

<戦争は終っている。当時、その惨状は伝わっていなかったが、空襲で焦土となった日本へ帰ってゆくのである。空襲を経験しない吉林生活で手許にのこされているもの、換金性の高い、できれば小さくて軽いものをと今の私なら考える。/金銀宝石のたぐいに縁のないわが家であっても、引揚げ後の生活を少しでも助ける品々はあった。父をそして母を哀れと思うのは、すぐにも日本へ帰ることができると考えて生活の方針を決めたこと。なにに価値があるのかを見きわめる豊かな暮しの実績が乏しかったこと。生活者としての貧しい過去は、判断を鈍らせたし、換金性が高く財産価値のあるものを持たなかったことと結びついてもいる。/それにしても、無残だった。父母はそれまでの生活で築いたすべてを失った。>

澤地さん一家は、着物や、置時計、靴、父親の「道楽だったカメラとその付属品の数々」といった財産を、中国人に十把ひとからげで売り払ったり、知り合いの中国人に気前よく贈ったりして、手許には何も残らなかった。

発疹チフスが流行し、澤地さんの父も感染して臥せってしまう。
そんなある日。

<病み上りの危うい足どりで、父はソ連領事館(当時の呼び方)へ大工仕事に通いはじめる。そこでは、日本人の所持品がかなりの金額で売られ、ソ連軍士官(女性もいた)が凱旋みやげに買いまくっているという話だった。/和服なら総絞りの振袖や丸帯、毛皮、装身具あるいはカーペットなどなど、よくこれほどと思う品々が並んでいたという。父の心に、「早まった」という後悔が走った可能性がある。>

なんとも、せつないはなしである。


この部分を読みながら、私は、私の父親のことを思いだしていた。

北海道の地方小学校の教員をしながら、けっして余裕のある生活ではなかったけれど、父はレコードを買ったり、バイオリンを買って練習したりしていた。
カメラもそうで、二眼レフを買い、じぶんで現像していた。
父のおかげで、私たちの幼い頃の写真がたくさん残されている。

母親(私の祖母)と親子二人きりで苦労して育ち、ようやく師範学校を卒業、教員になった父。
そんな父のささやかな道楽(趣味)だったのだと、今ならわかる。

私は、澤地さんの父親と、じぶんの父を、いつのまにか重ねあわせながら読んでいた。

いい本だった。

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【読】図書館はありがたいな

ひさしぶりに晴れた。
自宅のリビング(というほどのものでもないが)にPCを持ってきて、ラジオを聴きながら書いている。

南向きの窓から、日ざしはまだ入ってこないが、暖房がいらない程度にはあたたかい。

近くの図書館へ、二日前にネット予約してあった本二冊を、受けとりにいってきた。
団地の桜の樹も、つぼみがふくらんできた。
春なんだなあ、とおもいながら帰ってきた。


Sawachi_manshuu_2Itsuki_jigazou澤地久枝 『もうひとつの満州』
 文藝春秋 1982年

五木寛之 『深夜の自画像』
 創樹社 1974年

どちらも、古書でなければ手にはいらない本だ。
文庫版も絶版になっている。
Amazonという手もあるが、これ以上、本を買って増やすのはためらわれる。

『深夜の自画像』のほうは、文春文庫を持っていたはずだが、探してもみつからない。
手放してしまったらしい。

このあいだまで読んでいた、平岡正明 『石原莞爾試論』(白川書院)に、この本のことが書かれていたので、読み返してみたくなったのだ。

<横浜で一つ席が空いた。腰を下ろし、会場で買った『ダイナミック空手』と、車中で読もうと持ってきた五木寛之『深夜の自画像』をとりだして、どちらから読みはじめようかと頁をめくってみた。奇妙な予感がした。うまく人には伝えられないが、俺はいま何か発見するぞという信号のようなもので、電車がポイントを高速で通過する際のカカカカというリズムのなかにその予感が浮上してきたことをおぼえている。>
(平岡正明 『石原莞爾試論』 1977年)

五木さんのエッセイ集が発売された時代の空気がよみがえってくるような文章だ。
私が青年だった頃、1970年代の空気。

借りてきた、五木寛之 『深夜の自画像』の目次をみていたら、あった、あった。
なにやら不思議な符合のように。

― 名著発掘=平岡正明著『ジャズ宣言』 昭和44年9月 ―
<はじめ明烏敏全集のことを書こうと思ったのだが、昨夜たまたま読んだこの新しい本の印象が余りに強烈だったので、まだ評価のさだまらないこの異色の批評集について書くことにした。
 『ジャズ宣言』という本のタイトルから、野間宏の『暗い絵』が書店の美術専門書の棚に並べられたというエピソードと同じ目に会うのではないかと、ぼくはこの本のために気遣っているところだ。
 相倉久人がいみじくも書いているように、平岡正明のこのエッセイの数々は、「ここに六十年代をジャズとして生きているひとりの男」の、六十年代に対する独立宣言であり、……>
(五木寛之『深夜の自画像』 1974年)

Hiraoka_jazz_sengen平岡正明 『ジャズ宣言』
 現代企画室 1990年 (復刻版)
  第一版 1969年 イザラ書房刊
  第二版 1979年 アディン書房刊

―日本語第三版への序 より―
<イザラ書房刊の初版(1969)に第三版の序文でつけくわえることは、勝利したジャズは芸術を独裁するというその一点である、なあんて一度言ってみたかった。言ってみるとやはり気持いい。
 むこうは『共産党宣言』だ。こっちは『ジャズ宣言』だ。宣言にかわりはない。>


まさに、なんちゃって、である。
1970年代――おもしろい時代だったな、と懐かしんだりして。


澤地さんの本 『もうひとつの満州』 は、タイトルにひかれた。

目次をみると、

「わが心の満州」 1981年7月10日、北京発の汽車は、翌日未明山海関に着いた
 ここから東北。35年ぶりに訪れる故郷・満州への旅が始まる

――という章ではじまり

「消された村」「通化の陵園」「終焉の地」「故山にして他山」「ひとつの歌」「旅の終り」

と続く。

そうか。
澤地さんが育った「満州」の再訪記なんだな。

こんなにいい本が新本で手に入らないというのも、妙なはなし。
(文春文庫 1986年版も絶版)
安野光雅さんの装幀、挿絵(扉スケッチ)がしゃれている本だ。


本を所有することにこだわらなければ、読みたい本は図書館を利用するのがいいんだな、とあらためて思う。
なかなか「所有欲」から自由になれないのがつらいけど。


【追記】  2009/3/7 夜
澤地久枝 『もうひとつの満州』 (Amazonより)
出版社/著者からの内容紹介
<日本人とにって、中国人にとって満州とは何だったか? 反満抗日ゲリラの領袖・楊靖宇の事跡を追いながら、著者自らの郷愁の思いを問い返す哀切な<旅>のすべて>

図書館から借りてきたこの本を読みはじめている。
たくさんの人の手に触れ、読まれた形跡が感じられる本だ。
シミや折り目の跡がたくさんあり、背綴じは剥がれかかっていて、ていねいに扱わなければ今にもバラバラになりそうなほど傷んでいる。
この一冊の本を、どれだけ多くの人たちが読みふけったことだろう。
まさに「手垢」のつくほど読み継がれた、こういう本を手にするのもいいものだ、と思う。

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2009年3月 5日 (木)

【読】わたしが生きた「昭和」 (澤地久枝)

そういえば、この人の本を読むのは初めてかもしれない。
ずっと長いあいだ、気になっていた人ではある。

Sawachi_shouwa澤地久枝 『わたしが生きた「昭和」』
 岩波書店(岩波現代文庫)
 2000/1/14  241ページ  800円(税別)
 (親本) 1995年 岩波書店刊

<貧しさゆえに一家で、「満州」に渡り過ごした少女時代、敗戦後の難民生活と家族の運命……。つねに声なき民の側に立って歴史を見つめ続けてきたノンフィクション作家が、今初めて自身の今日までの人生と家族の歴史に焦点をあて、「昭和」という時代の検証に挑む。作家活動の原点を示す記念碑的作品。> (本書カバー)


澤地さんは、1930年(昭和5年) 東京生まれ。
四歳のとき両親とともに「満州」に渡り、敗戦で引き揚げてきた。
まだ90ページほどしか読んでいないが、軍人だった叔父(お母さんの弟)一家は、昭和20年8月19日に朝鮮半島で自決したという。

自身の幼い頃からの体験記と、作家の冷静な目からの戦争批判が、バランスよく書かれていて好感が持てる。


次の一節には、ちょっと感動した。
名文である。

<歴史とは、大気のようでもあり、海のようでもある。一つの時代に生きていて、自分がどこにいるのか見定めることのできる人は稀であろう。現に隣りで、目前で、進行していることの本質が見えない。> (「四 有事の作為」 P.81)


この人は立派だな、と思う。

というのは、戦争指導者を鋭く批判しながらも、当時の大衆の多くが戦争を支持する心情をもっていたことを、きちんと押さえていることだ。
もちろん、兵役を喜んだ人はいなかったにちがいないが、戦勝に沸いたり、中国や朝鮮の人びとを蔑視する気持ちを疑わなかった大衆が、あの戦争を支えていたことも事実だろう。


被害者であり、加害者でもあった日本の大衆。
明治維新、開国、朝鮮半島への進出(侵略)、日露戦争を経て中国大陸へ。
大きな歴史の流れは、まさに、「大気のようでもあり、海のようでもある」。
大衆(他に適当なことばがないので、やむをえず使うが)は、その中で、流されていくだけだったのか。

戦後に生まれた私が「あの戦争」にこだわるのは、この疑問に自分で答えをみつけたいから、かもしれない。

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