カテゴリー「吉村昭」の11件の記事

2014年2月20日 (木)

【読】肌寒い一日だった

朝からどんより曇り空。
今日の最高気温は7度。
雪にならなくてよかった。

午前中、車で市街地の本屋に行ったきりで、あとは家の中で過ごす。

昨夜遅く、というか、今日の早朝、テレビでソチ・オリンピックの女子フィギュア(ショートプログラム)を見ていた。
おかげで寝不足。
日本の選手を応援していたけど、残念な結果だった。

結果は残念だったが、彼女たちの健闘をほめてあげたい。
あの大舞台での緊張感は、想像できる。
まわりの期待が大きすぎたのでは? と思う。

今夜のフリーは見ないで寝るつもり。

ところで、フィギュア? フィギア?
呉智英さんじゃないが、外来語の片仮名表記は、むずかしいな。

先日、図書館から借りて読みおえた本。
手もとに置いておきたくなったので、ネット注文で買ってしまった。
こうしてまた、本が増えていくのだな。

わかりやすく、読みやすくて、ためになる本だった。
吉本隆明という不思議な人の呪縛から解放された気がする。

『吉本隆明という「共同幻想」』 筑摩書房 呉智英

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もう一冊、こんな本も手元にあるが、まだ読んでいない。

『最後の吉本隆明』 筑摩選書 勢古 浩爾

https://amzn.to/4eAIooo

勢古浩爾さんは、私のなかでは呉さんと似た印象があるのだが、こちらは吉本隆明氏へのオマージュ(賛辞)一色のような本。

勢古さんも好きなので、そのうち読んでみようと思いながら、ずっと本棚に入れたままだ。

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2011年4月13日 (水)

【読】読了、吉村昭「三陸海岸大津波」

吉村昭さんの『三陸海岸大津波』を、今日、読み終えた。

今度の震災直後、一時、入手困難になっていたが、今は書店に平積みされている。
初版は1970年7月、中央公論社から出版された。
(原題 『海の壁――三陸沿岸大津波』)
その後、1984年8月に中公文庫。
2004年3月に文春文庫から。

私が手に入れたのは、文春文庫の第8刷で、2011年4月1日発行となっている。
3月11日の震災の後、急遽増刷されたのだろう。

明治29年の津波、昭和8年の津波、チリ地震津波(昭和35年)、の三章からなる。
三陸海岸を襲った、これら三回の大津波が、事実として淡々と語られている。
吉村さんならではの、緻密な調査に基づいた「記録文学」である。

「記録に徹した吉村氏の筆致の向こうから立ちのぼってくるのは、津波で死んだ人たちの声や、生き残ったとしてもなにも語らぬままこの世を去った人たちの声である」
(作家 高山文彦氏による巻末解説)


明治29年の津波
明治29年6月15日(陰暦5月5日、端午の節句)の大津波は、三陸海岸一帯に甚大な被害をもたらしている。

―Wikipediaより―
明治三陸地震(めいじさんりくじしん)は、1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒に発生した、岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200km(北緯39.5度、東経144度)を震源とする地震。M8.2~8.5という巨大地震であった。
地震後の津波が本州観測史上最高の遡上高である海抜38.2mを記録するなど津波被害が甚大だったこと、および、この津波を機に、明治初年にその名称が成立したあとも、行政地名として使われるのみで一般にはほとんど使われていなかった「三陸」という地名が知られるようになり、また「三陸海岸」という名称が生まれたことで知られる。
人的被害
死者:2万1915名(合計・2万1959名→北海道:6名、青森県:343名、岩手県:1万8158名、宮城県:3452名)
行方不明者:44名 負傷者:4398名
物的被害
家屋流失:9878戸
家屋全壊:1844戸
船舶流失:6930隻
その他:家畜、堤防、橋梁、山林、農作物、道路など流失、損壊

昭和8年の大津波
昭和8年3月3日(この日は奇しくも雛祭り)の大津波も、釜石の東方で起きたマグニチュード8.1の地震がもたらしたもの。
明治の大津波の経験から年月を経ていたこともあり、予想外の事態だった。

「この地震による被害は、死者1522名、行方不明者1542名、負傷者1万2053名、家屋全壊7009戸、流出4885戸、浸水4147戸、焼失294戸に及んだ」 (Wikipediaによる)

チリ地震津波
昭和35年5月24日未明。
この時は、気象庁が、前日に発生した南米チリの大地震を観測し、それによって起きた津波が太平洋上にひろがってハワイにまで達したことを知っていた。
にもかかわらず、日本の太平洋沿岸に来襲することまでは予知できなかった。
三陸沿岸の人たちにとって、突然の大津波の来襲だった。

日本近海の地震が起こした津波とはちがい、それは、ゆっくり大きなうねりでやってきた。
体験者のことばによれば、「のっこのっこ」とやってきた。
まさに、寝耳に水の状態だった。

「この津波は、三陸海岸全域を襲った。各市町村では、……地震をともなわない奇妙な津波に驚かされた。津波に対する防潮堤等の施設のために人命の損失は、明治二十九年、昭和八年の大津波を下廻ったが、それでも大きな被害を各地にあたえた。岩手県下だけでも死者61名、……」
(本書 P.159-160)

平成23年3月11日
過去何度も大津波に襲われた経験から、大きな防潮堤をつくるなど対策をうっていたにもかかわらず……。
今回の大津波の猛威は、これまで誰も想像できなかった規模だろう。
著者の吉村さんでさえ、ここまでの事態は考えていなかったのではないだろうか。

福島の原発事故もそうだが、これまで、ほとんどの人が考えてもみなかった事態が、今起きている。
もっともっと「最悪の事態」を想定しておくこともたいせつだと感じた。
それほど自然の猛威は人知を超えるものだと。

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2011年3月31日 (木)

【読】読了、吉村昭 「関東大震災」

計画停電も実施されない日が続く。
気持ちもようやく落ちついてきたので、すこしは本が読めるようになった。

吉村昭さんの『関東大震災』を読みおえた。
これまで私がなんとなく想像していたよりも、ずっとすごい事態だったと知った。

本所被服廠跡では避難してきた群衆を猛火が襲い、三万数千人が焼死した。
Wikipediaには、焼死体が累々と積み重なっている写真が掲載されているが、とても正視できない悲惨なものだ。

「朝鮮人が来襲する」というデマも、最初は風説だったものがまたたく間に拡がり、ついには警察当局や新聞社までが事実であるかのように発表、報道した。
当局はそのような事実がないことを確認し、あわてて否定したのだが、いったん広まった噂はとどまることはなく、人々は自警団を結成して、いわゆる「朝鮮人狩り」が続発した。
震災下で、みんな頭に血がのぼっていたのだが、その陰には朝鮮人に対する根強い差別意識があった。

そんな中での、憲兵隊大尉 甘粕正彦とその部下による、大杉栄、伊藤野枝、甥 橘宗一の三名の殺害事件についても、詳しく描かれている。

とにかく、今では信じられないことが次々と起きていた。
すべて史実である。


関東大震災から72年後の1995年に阪神淡路大震災を、そして、その後20年もたたないうちに、また大きな震災を経験した私たち。
この時期に、こういう書物を読んでみるのもいいと思う。

この先、そう遠くない時期に、また大きな地震がくると思う。
考えたくはないが、この地震国では、そうなっても不思議ではない。

目先の繁栄に目がくらんでいた私たちは、ここらで、じっくり地に足をつけた生き方を考え直したいと思うのだ。

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2011年3月25日 (金)

【読】吉村昭の「関東大震災」

吉村昭の 『三陸海岸大津波』 という小説を知ったのは、ラジオ番組に出演した、スポーツジャーナリスト 生島淳さんの話からだった。
お兄さんの生島ヒロシさんとともに、気仙沼市の出身。
淳さんのお姉さん(ヒロシさんの妹さん)は、いまだに行方不明ということだ。
生島淳さんは、今度の震災後にこの小説を読んだと話していた。

 生島 淳さんのブログ 眼鏡堂通信
 http://blog.livedoor.jp/j_ikushima/

 生島ヒロシオフィシャルブログ「生島ヒロシのJeanとくる話」by Ameba
 http://ameblo.jp/ikushima-hiroshi/


『三陸海岸大津波』 は持っていないが、おなじ著者の 『関東大震災』 が手元にあった。
今日から読みはじめている。
吉村昭さんらしく、綿密な調査にもとづいた緻密な描写が続く。

関東大震災 (Wikipediaより)
大正12年(1923年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害。……
190万人が被災、14万人余が死亡あるいは行方不明になったとされる……。

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2009年9月24日 (木)

【読】ようやく読了 「赤い人」(吉村昭)

本がなかなか読めない生活が続いている。

この本も、読みはじめてから十日もかかっただろうか。
最後は北海道にまで持っていって、飛行機の中で読んだりしていた。

今日、ようやく読了。
じつに面白い小説だった。

Yoshimura_akaihito_2『赤い人』 吉村昭
 講談社文庫 1984/3/15
 265ページ 495円(税別)
 親本 1977年11月 筑摩書房刊

「赤い人」とは、朱色の囚人服を着た明治の囚人をさす。
北海道にあった「樺戸(かばと)集治監」が舞台だ。
道路もできていない明治初期、ここに収容された囚人たちの犠牲によって、北海道の道路は開拓された。
吉村昭の筆運びは淡々としていて、私は好きだ。

<樺戸監獄の関係書類は旭川監獄に映されたが、それらの書類に記録されている共同墓地に埋葬された囚人の遺体は千四十六体で、そのうち遺族に引き取られたのは二十四体に過ぎない。死因は、心臓麻痺が八十三パーセント強にあたる八百六十九体、逃走にともなう銃・斬殺、溺死、餓死及び事故死、自殺が百十三体、その他四十体と記されている。> (『赤い人』 講談社文庫 P.245) 

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2009年9月 8日 (火)

【読】本が読めない日々

このところ、途中で投げ出す本が多い。
活字の世界に入り込めない生活も、つらいものだ。

萱野茂 『炎の馬』 (すずさわ書店)
『江戸時代にみる 日本型環境保全の源流』 (農文協)

この二冊がどうにも続かなくて、それならいっそ読みやすい小説でも、と思って今日から読みはじめたのが、下に掲げた文庫本。
さすがに、吉村昭さんの小説は面白い。
面白いが、集中できない。

無理して本など読まなくてもいいと思うのだが、そこは活字中毒者の悲しさ。
乗り物のなかで、ぼーっとしていられないのだ。

とつぜんだが、楽になりたいな、と思う。
「こんな渡世から出ていくんだ」 ――これは、たしか高倉健の 「昭和残侠伝」 かなにかの映画のセリフだ。
今の私の心境も、そんなものだ。
「こんな渡世から出ていくんだ」 と、健さんみたいに見得をきってみたいものだが、なかなかそうもいかないのだ。
あ、これはひとりごとです。


Yoshimura_hoshienotabi_2『星への旅』 吉村昭
 新潮文庫 1974/2/22初版発行
 326ページ 514円(税別)

短編集。
「鉄橋」「少女架刑」「透明標本」「石の微笑」「星への旅」「白い道」 の六作収録。
一日かけて、やっと最初の 「鉄橋」 を読む。
昭和33年(1958年)の作品だというから、私がまだこどもの頃だ。
蒸気機関車がでてくる、なにやら懐かしい時代のはなし。
サスペンスというか、ミステリーというか、謎解きの面白さと、吉村氏らしい人間洞察がある。



この本とはまったく関係ないが、池澤夏樹さんの連載小説(東京新聞連載の『氷山の南』)も、おもしろい。
毎朝たのしみにしている。
池澤さんのストーリーテリングの技も、すごいものだと感心している。
小説は、こうでなくちゃ。


『氷山の南』 池澤夏樹 (東京新聞連載) 第6回 2009/9/6(日)
 影山 徹画伯の挿絵もいい。

Ikezawa_rensai_006

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2009年7月31日 (金)

【読】間宮林蔵(続)

吉村昭 『間宮林蔵』 という小説を、夢中になって読んでいる。

Yoshimura_mamiya『間宮林蔵』  吉村 昭
 講談社文庫 1987年  461ページ 695円(税別)

吉村昭の小説を読むのは、『戦艦武蔵』『零式戦闘機』に続いて三冊目だが、淡々とした物語の運びが好ましい。

それにしても、間宮林蔵という人、これほど魅力的な人物だったとは思わなかった。
長大な小説の半分ほど、ちょうど、樺太探検を終えて伊能忠敬に出会うあたりまで読みすすんだ。
現在のサハリンはロシアの領土で、すっかりロシア風になっているらしいが、今から200年ほど前は住む人のほとんどない土地だった。
間宮林蔵、よくもまあ、ちいさな船と徒歩だけで樺太の西岸から海を渡り、清国が支配していた大陸(黒竜江=アムール河沿岸)までたどりついたものだ。
アイヌやギリヤーク(ニブヒ)の人々との交流も、なにやら胸あたたまるものがある。


Taiyo_nihon_tamkenka別冊太陽 「日本の探検家たち」
 平凡社 2003年  2600円(税別)

間宮林蔵、松田伝十郎、近藤重蔵、最上徳内、伊能忠敬など、18世紀末から19世紀初頭にかけて同じように苦労しながら探検した人たちが紹介されている。

― 間宮林蔵の項 より ―
筑波の農民の子に生まれる。後に江戸幕府に奉職し、1808年、松田伝十郎の従者として樺太を探検。翌年、一人で再び樺太へ渡り、松田が到達したラッカ岬からさらに北上、北端の未踏査海峡水域を突破。大陸に渡って黒竜江を遡った。南極、北極とならんで当時、世界地図の空白部だった樺太北部に踏み入った間宮が著した『北蝦夷図説』を見たロシアの探検家クルーゼンシュテルン提督は、「われ日本人に破れたり」と叫んだという。


【参考サイト】

間宮林蔵の世界へようこそ
 http://www.asahi-net.or.jp/~xc8m-mmy/index.htm
  林蔵の末裔である間宮正孝さんの、樺太紀行が掲載されている。
  写真満載の興味深い記事。

間宮林蔵記念館
 http://cobalt.nakasha.co.jp/hakubutu/mamiya/mamiya.html
(ナカシャクリエイテブ株式会社 http://www.nakasha.co.jp/

[記念館] 間宮林蔵記念館 - 茨城 - goo 地域
 http://local.goo.ne.jp/leisure/spotID_TO-8000292/

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2009年7月28日 (火)

【読】間宮林蔵

北海道に住む友人が、つい先日、サハリン(旧 樺太)を訪れたという。
友人のブログでサハリン探訪記が連載されており、毎日楽しみにしている。

 北海道通信
  http://northlancafe.kitaguni.tv/

ところで、樺太といえば間宮海峡(タタール海峡)。
この間宮海峡を「確認」し、海峡名に名を残したのが間宮林蔵だ。

― Wikipedia 間宮林蔵 より ―
<安永9年(1780年) - 天保15年(1844年)
文化5年(1808年)、幕府の命により松田伝十郎に従って樺太を探索。間宮はアイヌ語もかなり解したが、樺太北部にはアイヌ語が通じないオロッコと呼ばれる民族がいることを発見、その生活の様子を記録に残した。文化6年(1809年)、樺太が島であることを確認した松田が帰ったあと、鎖国を破ることは死罪に相当することを知りながらも、樺太人から聞いた、何らかの役所が存在するという町「デレン」の存在、およびロシア帝国の動向を確認すべく、樺太人らと共に海峡を渡って黒竜江下流を調査した。その記録は『東韃地方紀行』として残されており、ロシア帝国が極東地域を必ずしも十分に支配しておらず、清国人が多くいる状況が報告されている。間宮は樺太が島であることを確認した人物として認められ、シーボルトは後に作成した日本地図で樺太・大陸間の海峡最狭部を「マニワノセト」と命名した。海峡自体は「タタール海峡」と記載している。>
 
樺太(サハリン)とユーラシア大陸(現在はロシア、間宮林蔵の当時は東韃靼)とのあいだに海峡のあることは、ここを往来していた人たちには古くから知られていた。とうぜんのことだ。
アメリカ大陸をヨーロッパ人が「発見」したと称するのに似た、一方的な史観ではある。

― Wikipedia 間宮海峡 より ―
<樺太や対岸の沿海州には古来からアイヌ、ニヴフ、ウィルタ、女真(満洲民族)などの民族が居住・往来していた。このため、古くからここに居住していた人達にとって、樺太が島であることは、良く知られたことだった。1644年に作成された正保御国絵図においても、樺太は島として描かれている。>


今日から読みはじめた、この小説がおもしろい。
さすがに吉村昭だ。
うまい、と思う。

Yoshimura_mamiya『間宮林蔵』 吉村 昭
 講談社文庫 1987年刊  461ページ 695円(税別)
 親本 講談社刊 1982年

まだ70ページほどしか読んでいないが、冒頭、エトロフ島でのいわゆる「シャナ事件」(文化4年/1807年)の様子が描かれていて興味深い。
 ※シャナ(紗那)はエトロフ島北岸の地名
「クナシリ・メナシの叛乱」と呼ばれるアイヌ民族の蜂起(寛政元年/1789年)からそれほど年月を経ていない頃のことだ。

― Wikipedia 択捉島 より ―
<1807年4月、紗那と内保(留別村)の集落が、ロシア海軍大尉のフヴォストフ率いる武装集団らよって襲撃されるという「シャナ事件」が発生。/この時、日本側に動員されたアイヌもいる中で、日本側を攻撃してきたアイヌもいた(この時、間宮林蔵も同島にいて応戦行動に参加していた)。その後、南部藩など東北諸藩が警備にあたり、あるときはロシアと交戦し、あるときは友好的に交流した。>

ひさしぶりに、日本語で書かれた小説の醍醐味を感じながら読みすすめている。

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2008年10月23日 (木)

【読】読了 「零式戦闘機」

ようやく読みおえた。
それほど長い小説ではないのだけれど(文庫で300ページほど)、少しずつしか読めなかったので、一週間ほどつきあってしまった。

Yoshimura_zerosen吉村昭 『零式戦闘機』
 新潮文庫 476円(税別)

『戦艦武蔵』 もおもしろかったが、それに輪をかけた小説の醍醐味を感じた。

書き出しがうまい。
昭和14年3月、名古屋市の海岸埋立地にある三菱重工名古屋航空機製作所の門から、シートにおおわれた大きな荷を積んだ二台の牛車が出てくるところから、この物語は始まる。

『戦艦武蔵』 では、昭和12年、九州一円で海苔の養殖に使う棕櫚(しゅろ)の繊維が買い占められる謎から始まった。

どちらも読む者の意表をつく書き出しである。
うまいなあ、と思う。

棕櫚の繊維は、巨大な戦艦の建造現場を隠すための棕櫚縄に使われ、牛車は、できあがった戦闘機を名古屋から岐阜県各務原の飛行場まで運ぶためのものだった。
この牛車は、のちに馬車に替わったのだが、敗戦の年まで、戦闘機の主要な輸送手段として使われたというから、驚く。

小説 『零式戦闘機』 は、昭和12年に設計がはじまった零式艦上戦闘機、いわゆるゼロ戦の誕生(昭和14年)から、その後の改造、実戦での活躍、そして敗戦までの8年間の物語だ。

いろいろ噂は聞いていたが、これほど高性能な戦闘機とは知らなかった。
欧米の戦闘機をよせつけない、無敵の強さをもっていた。
それゆえ、敗戦のその時まで作り続けられていたのだった。


<八月十五日――
空は、うつろに晴れていた。 その下で鈴鹿工場の工員、徴用工、学徒、女子挺身隊員たちは、整列したまま粛然と顔を伏せて、雑音のまじったラジオから流れ出る天皇の声を聞いていた。
(中略)
かれらは、自分たちの作業の結果が全く無に帰したことを知った。 それは想像もしていなかったことだが、ただ一つの慰めは、体力のかぎりをつくして働いたのだという感慨だけであった。>


終戦日までの8月中に三菱で生産された零式戦闘機の機数は6機だったという。
作者は 「わずか六機」 と書いているが、私には、物資がほとんど底をついていたこの時期に、まだこれだけの戦闘機を作っていたことが驚きだ。


昭和20年6月、B29による激しい無差別爆撃を受けていた頃、「日本の国力は、ほとんど無に近いもの」 だった作者は言い、具体的な数字をあげている。

「軍部の施策によって日本の国力はすべてが軍需工業に協力に集中されていた」 にもかかわらず、戦時中の最高生産期と比べた数字は、信じられないほど小さい。

鉄鋼 35パーセント
非鉄金属 35パーセント
液体燃料 24パーセント
造船 27パーセント

生活必需品(昭和12年の生産量との比較)
綿織物 2パーセント
毛織物 1パーセント
石鹸 4パーセント
革靴 0パーセント
食油、砂糖は皆無

「物のない時代」 だったと頭では理解していたつもりだが、こういう数字を見せられると、当時の様子が目にうかんでくる。

「いささかの感傷も論評性もさしはさまない」 (解説 鶴岡冬一) 吉村昭の作風がよくでていると思うし、この小説の魅力かなとも思う。


昭和19年のラバウル陥落から、昭和20年の壮烈な沖縄戦まで、詳しく描かれていて私にはとても勉強になったし、最後まで小説の醍醐味を感じさせてくれる一冊だった。



さて、次は何を読もうか ―― 考えているときがいちばん楽しい。

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2008年10月15日 (水)

【読】読了 「戦艦武蔵」

吉村昭 『戦艦武蔵』 をようやく読了。
この勢いで、『零式戦闘機』 を読んでみようと思う。

Yoshimura_musashiYoshimura_zerosen_2吉村 昭

『戦艦武蔵』 新潮文庫 438円(税別)
 単行本 新潮社 1967年

『零式戦闘機』 新潮文庫 476円(税別)
 単行本 新潮社 1968年





『戦艦武蔵』 (新潮文庫) の作者あとがきが、いい。
私も、あの戦争はこういうふうに捉えるべきだと思っている。

<私は、戦争を解明するのには、戦時中に人間たちが示したエネルギーを大胆に直視することからはじめるべきだという考えを抱いていた。 そして、それらのエネルギーが大量の人命と物を浪費したことに、戦争というもの本質があるように思っていた。 戦争は、一部のものがたしかに煽動してひき起したものかも知れないが、戦争を根強く持続させたのは、やはり無数の人間たちであったにちがいない。 あれほど厖大な人命と物を消費した巨大なエネルギーが、終戦後言われているような極く一部のものだけでは到底維持できるものではない。 (後略)>


戦艦大和と同型、同時期につくられたこの巨大な戦艦は、ほとんど戦闘に参加しないまま、1944年(昭和19)10月、フィリピン島沖(レイテ)海戦で撃沈された。

当時、世界最大級の戦艦として、四年以上の歳月をかけて建造された、艦底から艦橋頂上までの高さ50メートル(国会議事堂と同じ高さ)の巨大軍艦である。

この化け物のような軍艦にはある種の魅力があるが、それを造りあげた厖大なエネルギーと、戦闘のためだけに造られたということに思い至ると、いっそ不気味である。



文庫の巻末解説に、磯田光一氏のこんな記述があって、うなずかせる。

吉村昭の、太宰治賞を受賞した出世作 『星への旅』 が、少年たちの集団自殺を描いたものであることに触れたあと――
<『戦艦武蔵』 は、極端ないい方をすれば、一つの巨大な軍艦をめぐる日本人の “集団自殺” の物語である。>  

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