カテゴリー「トムラウシ山遭難事故」の13件の記事

2013年6月 5日 (水)

【山】「トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか」を読む

つい先日、大雪山を舞台にした紀行番組の録画を見た。
その中で、トムラウシ山の周辺が紹介されていた。
すばらしい光景だった。

「天空の方舟」 2013年2月17日(日)午後3時30分~:HBC北海道放送制作-TBSテレビ系12局ネット
http://www.hbc.co.jp/tv/info/tenku/indexpc.html

私は、旭川の高校山岳部に所属していた頃、大雪山には登っていたが、トムラウシは奥深く、とうとう登らずじまいだった。
いまでも憧れの山のひとつだ。

このトムラウシ山(標高2141m)の山域で、4年前の2009年7月16日、18人のツアー登山者(ガイド3人を含む)のうち8人が死亡するという、痛ましい遭難事故が起きた。
当時のメディアの騒ぎはたいへんなもので、私も連日、新聞やテレビの報道に釘づけになっていた。
このブログにも、この遭難事故のことをたくさん書いた。

さて、メディアの騒ぎもおさまった2010.年8月に山と渓谷社から出版されたのが、この本だ。
単行本も持っていたが読んでおらず、文庫版が2012年8月に出版され、このたびようやく読むことができた。
私にしては珍しく、昨夜から今日にかけて一気に読んだ。

『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか―低体温症と事故の教訓』
 羽根田治・飯田肇・金田正樹・山本正嘉
 山と渓谷社(ヤマケイ文庫) 2012/8/5発行
 365ページ 950円(税別)

https://amzn.to/4dvnPZs

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<真夏でも発症する低体温症のメカニズムが明らかにされ、世間を騒然とさせたトムラウシ山遭難の真相に迫る。/2009年7月16日、北海道のトムラウシ山で15人のツアー登山パーティのうち8人が死亡するという夏山登山史上最悪の遭難事故が起きた。/2010年には事故調査委員会による最終報告書が出され、今回の事故がガイドによる判断ミスと低体温症によるものと結論づけられた。/1年の時を経て、同行ガイドの1人が初めて事故の概要を証言。/世間を騒然とさせたトムラウシ山事故の詳細に迫り、検証したノンフィクションである。/また「気象遭難」「低体温症」「運動生理学」は、それぞれの分野の専門家が執筆にあたり、多方面から事故を分析・検証している。/事故調査委員会の見解を入れ、巻末には解説も新たに挿入。> - Amazon ―

<2009年7月16日、大雪山系・トムラウシ山で18人のツアー登山者のうち8人が死亡するという夏山登山史上最悪の遭難事故が起きた。暴風雨に打たれ、力尽きて次々と倒れていく登山者、統制がとれず必死の下山を試みる登山者で、現場は修羅の様相を呈していた。1年の時を経て、同行ガイドの1人が初めて事故について証言。夏山でも発症する低体温症の恐怖が明らかにされ、世間を騒然とさせたトムラウシ山遭難の真相に迫る。
[目次]
第1章 大量遭難(十五人の参加者と三人のガイド;ツアー初日;差が出た濡れ対策;出発の判断;異変の徴候;足並みの乱れ;一気に進んだ低体温症;介抱か下山か;決死の下山;遅すぎた救助要請;喜びのない生還);第2章 証言(面識のなかった三人のガイド;なぜ出発を強行したのか;聞けなかった「引き返そう」のひとこと;支えてくれた人たちのありがたさ);第3章 気象遭難(遭難時の気象状況;トムラウシ山周辺の気象状況;遭難時の気象の特異性;気象から見たトムラウシ山遭難の問題点);第4章 低体温症(低体温症との接点;低体温症の基礎;トムラウシ山パーティの低体温症;他パーティの低体温症;低体温症の医学的考察;多様な病態を示す低体温症);第5章 運動生理学(気象的な問題;身体特性の問題;体力の問題;エネルギーの消費量と摂取量の問題;事故防止に向けた提言);第6章 ツアー登山(ツアー会社は山のリスクを認識していたか;安全配慮義務と旅程保証義務;ガイドの資格問題;商品に反映されるツアー客のレベル;それでもツアー登山に参加するワケ;ツアー登山は自己責任か)>
 ― e-hon ―

じっくり時間をかけて関係者を取材したもので、事故当時のメディア報道がずいぶん間違っていたことがわかった。
また、当時、私が疑問に思っていたいくつかの点について、合点がいった。

ひとつはウェアの問題。
この遭難事故で亡くなった8人の死因は、いずれも低体温症
雨と強風の中、無理な行動をとったために疲労も重なって、急激に体温を奪われ、意識を失って亡くなっている。
遭難当時の稜線は、気温10度ほど、最大風速20メートルという悪天で、雨が吹きつけていた。
まともに立って歩けないほどだった。
ゴアテックスなどの透湿防水雨具を着用してはいたが、薄着の人が多かったと、当時は報道されていた。

しかし、その後の聞き取りでは、それぞれフリースやダウンなどの防寒衣類は持っていたという。
ただ、雨具の下にそれを着た人と薄着のままの人がいて、そのあたりも生死を分けた一因だったようだ。
3人いたガイドからツアー客に対して、重ね着をするなど防寒についてのアドバイスはなかった。
その点、ガイドが責められてもしかたがないだろう。

もう一点は、なぜ、小屋に停滞するか途中で引き返す、最悪でもビバークする、という選択ができなかったのか。
私にはずっと疑問だった。

このパーティーは、初日、旭岳温泉を出発、ロープウェイを使って旭岳に登頂して白雲岳避難小屋に宿泊。
二日目はヒサゴ沼避難小屋まで16kmという長距離を歩いている。
小雨の中を9時間も歩き続け、おまけに登山道が川のようになっている個所もあり、かなりの悪路。
着衣や登山靴を濡らし、ヒサゴ沼避難小屋でそれを十分に乾かすことができていない。

三日目。
天候の回復見込みのないまま、はっきりした方針もなく、行けるところまで行ってみて様子を見る、といった感じで小屋を出発している。
台風のような天候だったという。
なぜ、この小屋で停滞しなかったのだろうか。
あるいは、ヒサゴ沼から雪渓を抜けて稜線に出るまでの間で、すでにツアー客の一部に行動できそうもない人が出始めた時点で、小屋に引き返さなかったのか。
私には、ガイドたちの判断力のなさ(検討すらしなかった?)が不思議でならなかった。

この本を読んでわかったのは、ツアー登山のガイドの立場では、予定通りの日程で下山しなければ、というプレッシャーが強かったようなのだ。

予備日?
そんなものは、ツアー登山では最初から考慮されないらしい。

本文から引用する。
(第6章 「ツアー登山」 羽根田治 より)

<この事故のあと、計画に予備日を設定していなかったことがマスコミに叩かれていたが、それはお門違いだと思う。プライベートな山行であれば、万一のアクシデントに備えて予備日を設けることは珍しくないが、ツアー登山は「登山」であると同時に「ツアー」でもある。予備日を設けているツアー旅行なんて聞いたことがないように、一部の厳しいツアー登山を除いて、原則的に予備日を設けない。> (P.324)

また、こういう事情も。

<さて、ツアー登山はツアー会社とツアー参加者の間で結ばれた旅行契約に従って実施されるが、この契約には「安全配慮義務」と「旅程保証義務」が盛り込まれている。つまり、「参加者の安全に配慮しながら計画どおりの旅程でツアーを行ないなさい」というわけである。> (P.320 強調部分は引用者)

<もちろん、常識的に考えれば旅程保証義務よりも安全配慮義務を優先すべきであり、誰も「ツアー客の安全は二の次にしてもかまわないから、なにがなんでも計画どおり行動しろ」とは言ったりしないはずである。しかし、計画の変更に伴う割増金の発生やキャンセル料の支払いは、ツアー会社としてはできるだけ避けたいところで、なるべくだったら計画どおり登山を遂行したいと考えている。そうした指示が具体的になされているのか、あるいは暗黙の了解なのかはわからないが、最終的な判断を下すことになる現場のスタッフ(添乗員やガイド)にとって大きなプレッシャーになっていることは想像に難くない。> (P.321)

この時のツアーガイドは3名。
他に1名のポーターがヒサゴ沼避難小屋まで同行しているが、遭難当日は最初の雪渓登行をサポートした後、小屋に引き返し次のツアー客を待っており、同行していない。
なお、この本では、ガイド、ツアー客すべてが仮名になっているが、そのまま引用する。
(第1章 「大量遭難」 羽根田治 より)

<三人のガイドのうち、リーダー兼旅程管理者(いわゆる添乗員)だったのが西原ガイドで、瀬戸がメインガイド、山崎がサブガイドという役割だった。全国的なガイド組織である日本山岳ガイド協会の資格を持っているのは、西原ガイドだけだった。三人のガイド同士はまったく面識がなかったそうだ。> (P.21)

西原ガイドは広島空港から、山崎ガイドは中部空港から、それぞれツアー客を引率して千歳空港で集合。
唯一、いちばん若い瀬戸ガイド(32歳)だけが、地元札幌在住で、この山域を熟知していた。
西原、山崎の両ガイドは、この山域をほとんど知らなかった。

言ってみれば登山客の命を預かる立場のガイドがこういう人たちで、しかも、山行中の意思疎通ができていなかったことが、かろうじて生還した山崎ガイドの証言(第2章)から、はっきり窺える。


4年前の事故当時、私はこのブログに書いたのだが、こういうツアー登山は天候に恵まれた順調な山行ならば事故は起きないだろうが、きわめて危ういものだ。

ただ、それを利用したいというニーズが広くあるようで、そのあたりの登山者(ツアー登山客)の意識にも問題があると思う。

羽根田治氏は、ヨーロッパ諸国やカナダ、ニュージーランドなどのガイド登山と比較して、次のように書いている。
確かに、皆が皆ではないが、こういう登山者(登山客)は多いと感じる。

<一方、日本の場合、ツアー登山やガイド登山を利用しようとする人は、「連れていってもらう」という意識が非常に強い。ブームに乗っかって登山を始めた彼らは、技術や知識のバックボーンを持たないまま、日本百名山という目標に向かって突っ走りはじめる。それを手っ取り早く実現するために飛びついたのがツアー登山だった。彼らが目標達成のための手段としたツアー登山は、準備段階のスベテをツアー会社に丸投げでき、あとはガイドのうしろにくっついて歩いていくだけの、100パーセント依存型の登山形態である。彼ら自身が山のリスクマネジメントについて考える必要はまったくなく、現場では常にガイドの指示に従っていればいい。かくして“自立しない登山者”が急増することになっていく。> (P.334~335)

かなり手厳しいが、私も同感だ。
この遭難事故を教訓として、その後、「ツアー登山」 は改善されたのだろうか?

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2013年3月28日 (木)

【山】トムラウシ山遭難事故から4年近くたった

4年前の7月(2009年7月)、北海道のトムラウシ山で痛ましい遭難事故があった。
いまだに、その頃の私のブログ記事が読まれているようなので、山と渓谷社から出版された本を紹介しておきたい。
ただし、私は購入したものの、まだ読んでいない。

私が購入したのは単行本(山と渓谷社、2010年8月発行)。
おなじ出版社からヤマケイ文庫で出ていて入手可能。

『トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか―低体温症と事故の教訓」』
 
 羽根田治・飯田肇・金田正樹・山本正嘉
 ヤマケイ文庫(山と渓谷社) 2012年7月発行
 998円(税込)

https://amzn.to/4gMmQH1

― Amazonより ―
真夏でも発症する低体温症のメカニズムが明らかにされ、世間を騒然とさせたトムラウシ山遭難の真相に迫る。/2009年7月16日、北海道のトムラウシ山で15人のツアー登山パーティのうち8人が死亡するという夏山登山史上最悪の遭難事故が起きた。/2010年には事故調査委員会による最終報告書が出され、今回の事故がガイドによる判断ミスと低体温症によるものと結論づけられた。/1年の時を経て、同行ガイドの1人が初めて事故の概要を証言。/世間を騒然とさせたトムラウシ山事故の詳細に迫り、検証したノンフィクションである。/また「気象遭難」「低体温症」「運動生理学」は、それぞれの分野の専門家が執筆にあたり、多方面から事故を分析・検証している。/事故調査委員会の見解を入れ、巻末には解説も新たに挿入。

すこし前(2012年11月)、中国(万里の長城)でも、トムラウシ山のときと同じツアー会社(アミューズトラブル)が主催したツアーで事故が起きたことは、記憶にあたらしい。
私としては、「あの会社がまだ営業していたのか」という感があった。

― Wikipedia アミューズトラベル ―
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%99%E3%83%AB

トムラウシ山遭難事故の当時、私は、連日の新聞・テレビ報道を追いかけて、その後、事故報告書を読んだり、山岳雑誌の特集を読んだりもした。

当時の私のブログ記事(一部)は、こちら。

■ 2009年7月18日 (土) 【山】危険なツアー登山
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-cc06.html

■ 2009年7月20日 (月) 【山】トムラウシ山遭難 当時の状況がわかってきた
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-a5d0.html

■ 2009年9月15日 (火) 【山】山渓、岳人10月号 (トムラウシ遭難検証記事)
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/10-8fd1.html

■ 2009年9月16日 (水) 【山】岳人10月号 (トムラウシ遭難検証記事) を読んで
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/10-a10a.html

■ 2010年3月20日 (土) 【山】トムラウシ山遭難事故調査報告書
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-fe2b.html

その他の関連記事は、カテゴリ「【山】山日誌」を選び、バックナンバーでお読みいただきたい。

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2010年3月20日 (土)

【山】トムラウシ山遭難事故調査報告書

昨年7月16日、北海道大雪山系トムラウシ山で起きた遭難事故の調査報告書が公開されている。

社団法人日本山岳ガイド協会のサイト
http://www.jfmga.com/

 トムラウシ山遭難事故調査報告書 (PDF)
 http://www.jfmga.com/pdf/tomuraushiyamareport.pdf

 平成22年3月1日発行
 発行者 トムラウシ山遭難事故調査特別委員会

私も当時、事故発生後の報道、山岳雑誌の記事、インターネットのサイト記事などを、強い関心をもって追いかけていた。

事故現場の大雪山系は、私が高校山岳部にいた頃のホームグラウンドだったこと、また、トムラウシ山が私のあこがれの山だったこともある。
(私は、まだトムラウシ山に登っていない)

このブログでも、何度かこの遭難事故にふれたことがある。

 カテゴリー「【山】山日誌」
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/cat5433181/index.html

91ページもの長大な報告書だが、目を通してみようと思う。

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2009年9月16日 (水)

【山】岳人10月号 (トムラウシ遭難検証記事) を読んで

Gakujin_200910『岳人』 2009年10月号 通巻748号
 2009年9月15日発売

「詳報 トムラウシ山遭難
  いま登山者にもとめられること」 P.146-161


記事全文を読んだ。
これまで私が知らなかったこと、疑問に思っていたことのいくつかがわかった。

遭難当日の共同装備
このツアー登山は、当初から避難小屋泊まり(白雲岳避難小屋、ヒサゴ沼避難小屋、各一泊)で設定されていたが、ツアー案内に記載があるように、共同装備(ガイドが背負う)としてテント(大きさは不明)があった。

「②③泊目は寝袋と食料が必要になります。準備及び運搬は各自にてお願い致します。お湯は弊社スタッフがご用意致します。なお、各無人小屋の混雑状況によってはテント泊になる場合もございます。テントは弊社にて準備致しますが、一部運搬のご協力をお願いする場合もございます。あらかじめご了承下さい。」
(東京新聞 2009/7/18朝刊記事に写真が掲載されている、アミューズトラベル社 「大雪山 旭岳からトムラウシ山縦走」 パンフレットより)

遭難直後の報道で何度も映されていた大型テントは、しかし、このテントではなかった。
報道では、そこのところがはっきりしなかったため、なんとなくガイドが持っていたテントだと、私は思い続けていた。
私と同じ誤解をしていた人は多いと思う。

『岳人』の記事で、事実が明確になった。

昨日、私がこのブログで紹介したように、登山口から背負ってきたテントは、次のツアー登山の一行(別ルートからヒサゴ沼避難小屋に来る予定)に引き渡すため、避難小屋に置いてきたのだった。

テントだけではない。
ビバークを想定すれば必須装備としてあげられる、コンロ、ガスカートリッジ、鍋(コッヘル類)も、小屋に置いていった。
わざわざ、見張り番(ネパール人補助ガイド)まで残して。
いざとなれば、ビバーク用として使えただろう重要な装備を、である。


<ヘリから映された救助時の報道映像にはテントが映っていたが、これはツアー一行のものではない。南沼キャンプ場付近にデポされていた登山道整備業者の非常時用テントを、Mガイドが偶然に見つけたものだ。このテントのほか、暖を取り温かいものを口にすることができるコンロが一緒にデポされていた。> (P.153-154)

さらに、ガイドの一人は別にテント(四人用)を、遭難時にザックにいれていたという。
これにも驚いた。

<実は、歩ける客10名(1時間以上の待機中に低体温症にならなければ歩けるはずだった10名)をつれて下山にかかったサブガイドの荷物には、4人用テントが入っていたという。しかし、そのテントを役立てることはないまま終わった。> (P.154)

なぜ、適切なビバークができなかったのかという疑問が、これで説明できるように思う。
ガイドたちは、ビバークを想定していなかったのだ。
あるいは、想定しても、ビバークに必要十分な装備がなく、強引に下山することしか頭になかったのではないか。
また、四人用テントを持っていたサブガイドも、そのテントを使うことまで頭がまわらない状態だったのでは。

生死をわけたツアー客の個人判断
今回の遭難にあったツアー客の装備(おもに衣類)が問題になった。
当初、私も衣類に問題があったのではないかと思っていたが、そうではなかったようだ。
全員の個人装備がわかったわけではないが、何人かの生還した人たちの証言によると、じゅうぶんなものだったと思える。

ただ、残念なことに、この一行は、ヒサゴ沼避難小屋に着くまでの行程で、衣類や寝袋をびしょ濡れにした人が大半だった。
ヒサゴ沼避難小屋が混雑していたため、濡れたものをじゅうぶんに乾かすこともできず、最終下山日(遭難当日)をむかえてしまった。
「着干し」と称して、濡れた衣類のまま就寝した人も多かったようだ。
女性の場合、着替えのしにくい小屋の状況もあった。

生還者のうち三名ほど実名で証言が載っているが、この人たちはそれぞれ機転をきかせている。

戸田さん(男性)は、半分ほど濡れていた寝袋の中にシュラフカバーを入れて寝たため、安眠できたという。
真鍋さん(女性)は、ヒサゴ沼避難小屋で濡れた衣類をすべて着替え、靴には新聞紙を入れて一度取り替えたら、朝は少し湿っている程度まで回復した。
前田さん(女性)は、寝袋が濡れていなかったのと、全身用エアマットを使って、快適にぐっすり眠れたという。
ちなみに、避難小屋では二階に先客があったため、この一行は一階で寝た。
ガイドたちと前田さんは二階で寝ることができて、一階よりも暖かかったという。

また、7/16遭難当日の行動中、風雨のなかで、戸田さんは思いきって雨具をいちど脱いでフリースを足した。
真鍋さんも、同じように風雨のなかでフリースを1枚着た。
雨具(ゴアテックスだっただろう)の下に着ていたものが濡れていたなら、急激に体温が奪われる。

風雨の中で雨具をいったん脱ぐことには誰しも抵抗があるが、この人たちは思いきって実行し、これがさいわいした。
インナーとして乾いたフリースを1枚着ることだけでも、低体温症をまぬがれることができたのだと思われる。

ほんらい、このようなことはガイドが状況に応じて適切にアドバイスすべきものだと、私などは思うのだが、ガイドはただ、次々と体調が悪くなった登山客をなんとかしようと、おろおろするばかりだったように見える。
ガイドどうしの連絡も悪く、リーダーシップを誰がとったのかも明確でない。

『岳人』の記事は、なかなか細かい情報が盛りこまれていて、この遭難事故の顛末がかなり明らかになった。
ただし、ガイドたちが何を考えていたのか、どのような判断をしていったのか(彼らも低体温症になって、まともな判断ができなくなっていたようだが)、そのあたりの究明が必要と思う。

いまのところ、ガイドたち(一名は死亡、二名が生還)の証言はどこにも発表されていない。
このまま裁判になだれ込むことなく、事実関係を明確にし、しっかり検証して、今後のために役立ててほしいと願う。

<道警は7月18日、業務上過失致死容疑でアミューズトラベルの東京本社など2カ所を家宅捜査、関係書類を押収した。また業務上過失致死での立件を視野に、生存しているガイド2人と松下政市社長から事情を聞き、惨事が起きた原因を調べている。8月26日にはヒサゴ沼避難小屋に付近と北沼付近の実況見分を行ったが、生存しているガイド2人は体調不良などの理由で立ち合わなかった。道警は、9月には2人のガイドを伴い、一行がたどった経路や救出された地点などをあらためて確認、ガイドの判断が適切だったのかどうか調べる方針だ。> (『岳人』 P.155)

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2009年9月15日 (火)

【山】山渓、岳人10月号 (トムラウシ遭難検証記事)

待望の山岳雑誌が今日発売された。
昼休み、さっそく錦糸町駅ビルの本屋で購入。

『山渓』の記事はひと通り読んでみたが、『岳人』の方は、まだ拾い読みした程度。

Yamakei_200910『山と渓谷 10月号』
 山と渓谷社 2009 №894 880円(税込)
 2009/10/1発行 (9/15より店頭販売)

特集 トムラウシ大量遭難
巻頭14ページ カラー・グラビア記事
気合いがはいっている。


Part1 遭難までの経過と問題点
 戸田伸介さん証言より
  ※記事では伸介となっているが新介が正しいと思われる
Part2 検証1 気象
 風の恐怖 台風の暴風域レベルの強風が彼らを襲った
検証2 ガイド
 悪天のなかを強行 低体温症の兆候を見抜けなかったのか?
検証3 登山客
 生死を分けたもの まず基礎体力。あきらめない意思を強くもつ
Part3 特別インタビュー
 「『ツアー=寄せ集めの集団』というわけではない。
  みんな助け合って下山しようとしていた」
Part4 対談
 越谷英雄×黒川 惠 ツアー登山の功罪と未来を考える

Gakujin_200910『岳人 10月号』
 東京新聞 発行 通巻748号 800円(税込)
 2009/10/1発行 (9/15より店頭販売)

詳報 トムラウシ山遭難
 いま登山者にもとめられること


こちらは、カラー1ページ、白黒記事15ページで、派手さこそないが『山と渓谷』とはちがった切り口で、興味ぶかい。

「事故までの行動概要」という、詳細な行程表とツアー参加者への質問・回答が4ページにわたって掲載されている。

また、このツアー登山の内容についてこれまであまり報道されなてこなかった(少なくとも私は詳しく知らなかった)驚くべき事実が明かされている。
それは、ヒサゴ沼避難小屋に「ガイド補助」(ネパール人)が一人だけ残った理由(ツアー会社の事情)だ。

<ガイド補助が避難小屋に残ったのは、自社のツアーのための場所とりと引き渡す装備の管理があったからだが、ここに今回の遭難におけるひつつの要因がある。/小屋に置いていった装備は、10人用のテント、シート、コンロ、ガスカートリッジ、鍋など山行に必要なものばかり。実は、この日の午後には次のツアーが別ルートからヒサゴ沼避難小屋に到着し、この装備を使用することになっていた。> (『岳人 10月号』 P.151 記・岩城史枝 より)

補助ガイドが避難小屋に残ったことは報道されてきた。
次のツアー客のため、という報道もあったが、詳しいことがわからなかった。
「場所とり」「装備の使いまわし」……なんともはや、恐ろしいツアー会社だと思う。

この『岳人』の記事によると、一回のツアー登山(定員15人)で200万円以上の売り上げになるという。
(事故のあったツアーは1人15万2千円×限定15人=228万円)

<調べてみると7月下旬には、ヒサゴ沼避難小屋に、26、27、28、29日と入れ替わり立ち替わりアミューズトラベル社の4つのツアーが連日泊まる設定になっていた。前記と同じくひとつのツアーで200万円以上が動くと考えると……。北海道のツアー登山が「ドル箱」といわれるゆえんだ。事故時と同じように、装備の受け渡しを山中で行う予定があったかはわからないが、同一会社のツアーが、連日にわたり避難小屋を宿泊施設のように利用するという現実に愕然とする。> (同記事 P.151))

これでは、まるで「トコロテン式」の観光ツアーと同じではないか。
ガイドたちの頭に、予定厳守の意識が強かったのでは、という疑いもわいてくる。
つまり、次のツアーが同じ避難小屋を使うのだから、小屋に戻って停滞すると考えることに抵抗もあったのではないだろうか。

また、最初から予備日を設定していなかったのも、このようなツアー会社のやり方からすれば当然のことかもしれない。

私は、今回の遭難について、ツアー会社(アミューズトラベル社)の責任を徹底的に追及すべきだと思う。
この遭難事故で亡くなった方々のためにも。

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2009年8月15日 (土)

【山】山渓、岳人 9月号

山岳雑誌を買うのは何年ぶりだろう。
トムラウシ遭難の記事を見たくて、買ってみた。
どちらも8月12日発売。
7/16の事故発生から取材・編集日数が割けなかったため、さすがに特集記事は間に合わなかったとみえる。

0908150026『岳人』 747号 (2009年9月号) 東京新聞
 GAKUJIN NEWS (P.102) に白黒記事(半ページほど)

『山と渓谷』 893号 (2009年9月号) 山と渓谷社
 YK Flash (P.16-17) に見開きカラー記事


こちらは少し詳しく掲載されている。
遭難事故のあった7/16に旭岳温泉から入山し、旭岳、白雲岳避難小屋を経て忠別岳避難小屋まで縦走した旭川市の方の談話と写真がある。
『山渓』では、「次号ではより詳細に事故を検証する予定だ」と書かれている。

『岳人』 の表紙がカラフルな写真になっていたのに、ちょっとびっくり。
昔の表紙は絵が多かったように思う。
サイズもすこし横幅が広がっていた。

ひさしぶりにカラフルな紙面をながめていると、山へ行きたくなってくる。
『山渓』の特集記事、「シーズン企画 そろそろ「クマ」について、きちんと知っておこう。」が興味ぶかい。

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2009年8月 1日 (土)

【山】生還者の証言

トムラウシ山遭難事故について、継続して情報を収集、整理し、真摯に考察を続けていらっしゃるサイトがある。
このブログでもリンク先を紹介したことがあるが、あらためて記載しておきたい。

Sub Eight
 http://subeight.wordpress.com/

 北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。
 今回の事故について戸田新介様のご意見 と 幾つかのご回答
  http://subeight.wordpress.com/2009/07/31/mr-toda-text/

18人の下山パーティーのうち、8人が亡くなり、10人の方が救助あるいは自力で下山されたこの遭難事故。
上に紹介したサイトでは、自力下山されたおひとりと直接コンタクトをとる機会にめぐまれた。

生還された方の証言が、7/31から(質問に対する回答という形で)掲載されはじめた。
これまで推測、憶測で語られてきたさまざまな謎が、当事者によって明らかにされている。
命からがら下山された方の、貴重な証言である。

この遭難について真剣に考えていらっしゃる方に、ぜひ読んでいただきたいと思い、紹介した。

たんなる野次馬的な興味から騒ぎになるのは困るが、新聞や週刊誌の断片的な情報に左右されず、正確な情報を得たいと考えていらっしゃる方も多いと思うので。

なお、貴重な一次情報(当事者の証言)であるから、上のサイト記事内容については、部分的・恣意的な引用、扱いは避けていただきたいと、私は思う。

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2009年7月26日 (日)

【山】トムラウシ山周辺

1960年代末、高校2年から3年にかけて、北海道旭川の某高校山岳部にいた。
私が山岳部にはいったきっかけは、1年生のときの集団登山(大雪山系)で山の魅力にとりつかれたからだった。
2年生で新入部員となり、初めての本格的な登山は、春(5月連休だったか)の十勝岳連峰(北部)残雪期登山だった。

白金温泉(望岳台)から美瑛岳のふもとをまわって、美瑛富士避難小屋に泊まり、翌日、美瑛富士、オプタテシケに登って白金温泉に下山する、というものだったと記憶している。
部の共同装備だった大きなピッケルを持ち(持たされ)、足元はキャラバンシューズだった。
行程のほとんどが残雪の上を歩くものだったから、キャラバンシューズではきつかったが、その当時は革靴など買えなかったのだ。

美瑛富士避難小屋に到着したのは、日も暮れたあとで、満員の避難小屋の中でなんとか寝場所を確保、テントをかぶって寝たことを憶えている。
いま思いかえすとずいぶん危ないことをしていたものだが、山岳部の先輩を全面的に信頼していたから不安はなかった。
いざとなればビバークできるだけの装備(テント、火器、食料)も持っていた。

翌朝はよく晴れて、残雪の上を歩いて美瑛富士山頂へ、その後、オプタテシケのピークまで歩いた記憶は、いまもしっかり残っている。

ところで、今回の遭難現場、トムラウシ山へは、高校在学中もその後も、とうとう行くことができなかった。
奥深い山でアプローチが長いため、あきらめてしまった。
私にとっては、いまも憧憬の山である。
そういうこともあって、今回の遭難には尋常ではない関心をもっている。

■トムラウシ山周辺

Hokkaidou_natsuyama_guide2『北海道 夏山ガイド 2』 中央高地の山やま<上>
  (旭岳、黒岳、北鎮岳、白雲岳、トムラウシ山など)
 北海道新聞社 1990年刊

古いガイドブックなので、掲載情報はやや古いかもしれないが、トムラウシ周辺はそれほど変わっていないと思う。
ヒサゴ沼避難小屋の写真もある。
北海道の避難小屋に多い石室(いしむろ)だったが、1982年夏に新設されたもの。
その後27年経過し、ネット記事などでみると現在は老朽化がすすんでいるようだ。

「トムラウシ」は、もちろんアイヌ語だが、語源には定説がないようだ。
北道邦彦さんは、次のように解釈している。

<トムラウシ山 石狩山地にあるトムラウシ山は、十勝川の上流部にあるトムラウシ川に基づく山である。トムラウシという名称は難解地名とされ、いまだに定説がない。…(中略)…松浦武四郎その他の古い記録は 「トンラウシ」 と記しているが、明治中期以後 「トムラウシ」 と表記されるようになったようだ。 「トンラ」 はtonraであろうから、それから推すと 「トムラ」 はtomraが考えられる。(後略)>
<以上から、トムラウシは 「Tomra トムラ(緑色の藻類) usウシ(群生する) iイ(所) と解釈したい。>
 (北道邦彦 著 『アイヌ語地名で旅する北海道』 朝日選書)

■今回の遭難現場 (トムラウシ温泉への下山途中の死亡者を除く)

画像 『北海道 夏山ガイド 2』 北海道新聞社 (P.188-189, 194-195) より転載

Tomuraushi_map4人が亡くなり3人が救助された「北沼分岐」付近の場所が、イラストからよくわかる(イラスト上部、トムラウシ山頂の手前)。
ヒサゴ沼避難小屋から「北沼分岐」(トムラウシ山頂への道と巻き道の分岐)あたりまで、険しい岩稜帯が続くようだ。
吹きっさらしの岩場の連続で、ルートも不明瞭だ。
ガイドブックのイラストからも想像できる。
途中には 「ロックガーデン」という本格的な岩場もある。
天気がよければ、見晴らしのいいすばらしいコースだろうが、悪天時(とくに強風時)にはひどいことになりそうだ。

<ヒサゴのコルからヒサゴ沼は岩の多い沢地形越しによく見える。(中略)/ここで合流した道は、さっそくトムラウシ山名物の巨岩帯の歩行となる。ヒサゴのコルからの登りは短いが、この先は複雑な凹凸を繰り返す溶岩台地だ。時には美しいお花畑を展開し、天沼などの沼が出現し、岩だけのロックガーデンを展開するなど、美しい景観を見せてくれる。/しかし繰り返し現れる岩場では道の確認が難しく、視界が良くても間違いやすい。(中略)/日本庭園を過ぎると一段と高くなった2000メートル台地への登りがある。この登り斜面は岩石地帯でロックガーデンと呼ばれる。……>
 ― 『北海道 夏山ガイド 2』 北海道新聞社 P.190-195 「ヒサゴのコルからトムラウシ山へ」 より抜粋 ―


Tomuraushi_map2悪天候のなかを、ここ(北沼付近)からヒサゴ沼避難小屋まで引き返すのは、そうとう厳しく、決断に迷うところだろう。
(コースタイムでは避難小屋まで戻るのに2時間ほどだが、このパーティーはここに来るまで5~6時間もかかっている)

しかし、その先(トムラウシ温泉下山口まで)の困難、パーティーの体力、疲労度、当時の気象状況などを吟味すれば、動ける人だけでも避難小屋まで戻るという選択は有効だったように思える。
(避難小屋には、ガイド、あるいは添乗員の一人が次のツアー客を待つために残っていたから、若干の装備・食料はあったはずだし、なによりも風雨を避けられる安全な場所だ)

行動パーティーを分断することは、相互扶助(全員の衣類や食料の分配による助け合い)の可能性を低める。
このパーティはテントやツェルトといった、ビバークのための装備が十分だったとは思えないが、ストーブ類の火器は持っていたはずだから、設営したテント等で本格的なビバークを覚悟すべきではなかったか。

人数が多すぎるために、全員がビバークすることは不可能との判断だったのか。
それとも、「下山できる人だけでも下山して、救助要請する」という決断を、ガイドたちはくだしたのか。

いずれにしても、悪天をついて避難小屋を出発してしまったのだから、この時点(さらに言えば、これよりも前、最初の一人が歩けなくなった時点)が、大きな判断分岐点だったと思う。
結果論ではあるが、その後、無理をして行動を続けることにより、どんどん体力を消耗していき、死者を増やしてしまったように見える。
救助要請のための下山、あるいは携帯電話が通じる場所までの下降、ということであれば、ガイドのうちの一人だけがすみやかに行動すべきだったのではないのか。

たくさんの「?(ハテナ)」を感じる、このパーティーの今回の行動。
私なりに、これからも詳しい情報を収集し、考えてみたい。

■参考サイト■

のんびり歩く大雪山
http://www.ne.jp/asahi/slowly-hike/daisetsuzan/index.html

 ※ このサイトは、2007/7/26を最終更新日として更新を停止しているようだ。
  掲載情報を参考にされる場合はご注意願いたい。
  内容がしっかりしていて信頼できる個人サイトだと思う。

  過去の完全版(ミラーサイト) の入口はこちら
   http://taisetsuzan.web.fc2.com/
    ※ 下記ページは、このサイト内

・美瑛富士避難小屋写真
http://taisetsuzan.web.fc2.com/02taisetudata/13camp/10bieifujikoya.html
 1969年、私たちが泊まったときの小屋(旧避難小屋)の様子がわかった。
 その後建て替えられたことも。

・ヒサゴ沼避難小屋キャンプ指定地
http://taisetsuzan.web.fc2.com/02taisetudata/13camp/06hisagokoya.html

・安全登山のために/遭難事故一覧
 大雪山登山データ
http://taisetsuzan.web.fc2.com/02taisetudata/frame.html
  → 安全登山のために 遭難事故一覧   http://taisetsuzan.web.fc2.com/02taisetudata/04sonanjiko/anzentozan.html

■追記■

(2009/7/26夜)
トムラウシ山南の「南沼」(巻き道とトムラウシ山からの登山道の合流点)から先、トムラウシ温泉までの下山路も簡単な道ではなかったようだ、ということがわかった。
今回のパーティのリーダーだったガイドたちが、どの程度、下山路の難しさを考慮していたのだろうか。
実際に、南沼から下の登山道で、このパーティーのうち、ガイド1人を含めた6人が動けなくなっており、4人が亡くなっている。

http://subeight.wordpress.com/ より
 → http://subeight.files.wordpress.com/2009/07/kikaku.gif

 南沼  登山客1名死亡 (他に、単独登山者1名死亡)
 前トム平  登山客3名死亡、1名救助
 コマドリ沢分岐  ガイド1名(松本仁さん)救助

前トム平の状況が、下山組のなかでも悲惨だ(4名中、1名だけがかろうじて救助された様子)。
命からがら、といった感じで自力下山に成功して一命をとりとめた方が、5人。

整理すると、山中死亡者8人(うちガイド1人)、救助されたのが5人(うちガイド2人)、自力下山に成功したのが5人。 計18人である。
このうち、北沼付近に残ったのが7人(うち4人死亡=ガイド1人と登山客3人)。

北沼から先は、ガイドによる統制は完全に破綻してしまい(下山できる人はそれぞれ自力で下山した)、ばらばらの行動になってしまっている。
はじめ、ガイドの一人(松本仁さん)が引率する形で下山を開始したものの、すぐに隊形はばらけてしまっている。
最終的に、ガイドの松本さん自身も動けなくなっている。
自力下山できた人たちも、途中でビバークしたりしている。
北沼から先の下山途中で亡くなった方が4人、ということの持つ意味は大きい。

結果論と言われるかもしれないが、私が、もっと早い時点でまとまった行動(ビバーク、あるいは避難小屋への退却)がとれなかったのかと残念に思うのは、この下山路の厳しさを知ったためである。
ガイドたちは、下山ルートについてどれほど事前調査をし、困難を予測していたのだろうか。
大きな疑問である。

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【山】トムラウシ山遭難 週刊誌記事

週刊文春、週刊新潮に、トムラウシ山遭難の記事が載ったということを知り気になっていた。
内容にはほとんど期待していなかったが、図書館とコンビニで斜め読みしてみた。

週刊文春の方は目新しいことが書いていなかったようなので、コンビニで週刊新潮を購入。

Weekly_shicho_20090730週刊新潮 2009/7/30号
 2009/7/20(木) 発行
 第54刊 第29号  320円(税込)

「大雪山」 死の行軍 「私はこうして死神から逃れた」
 P.135-137

わずか3ページの記事だが、私の知らなかったこともいくつ書かれていた。
(ツアー参加者の何人かの証言をベースに書かれている)
ただし、週刊誌の記事を私は100%鵜呑みにしないので、ここには詳しく書かない。
責任をもって転載できる内容だとも思わない。
図書館などでご覧いただきたい。

週刊新潮|新潮社 のサイト
 http://www.shinchosha.co.jp/shukanshincho/index.html

やはり今回のような事故は、当事者の証言を集め、整理してから分析できるまで、時間がかかると思う。
そういう意味では、山と渓谷、岳人などの山岳雑誌の特集記事を待つのがいいのだろう。

週刊誌は、速報性を重んじるから、事実誤認や誤報がまじる可能性が大きい。
週刊新潮の記事内容は、かなり信頼できそうだが、それでもそう思う。

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2009年7月25日 (土)

【山】トムラウシ山遭難 その後わかったこと

このたびのトムラウシ山での遭難(ツアー登山の一行、ガイド3人・登山客15人のうち8人が死亡)に強い関心をもち、ネット記事や新聞報道に注意をはらってきた。
 ※ガイド(あるいはツアー添乗員)は4人いたが、遭難当日の朝、ヒサゴ沼避難小屋を出発した時には3人が同行した。

事故から一週間がたち、当時の詳細かつ、より正確と思われる情報が、ようやく明るみに出はじめている。

■MSN産経ニュースのサイト記事 (7/23)

「悪天候の山中、極限状態で次々と… 大雪山遭難ドキュメント  (1/3ページ) - MSN産経ニュース」
(3ページのネット記事)
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090723/dst0907231350013-n1.htm

以下、このサイト記事から。
7/14 旭岳から入山、白雲岳避難小屋に宿泊。
翌15日には約9時間・約18キロの縦走後、午後2時頃、ヒサゴ沼避難小屋に到着、とある。
別パーティーの登山者の証言によると、「そのときは特別に疲れた様子もなく、わいわいと楽しそうにしていた」という。

※ この時点では、一行はそれほど危険を感じていなかった様子だ。
ただ、気になるのは、「しかし小屋では干したレインウェアから滴が落ち、寝袋がぬれて、寝られない人もいた。疲れが取れる場所ではなかった」という記述。

翌朝、3時半に起床。
風雨が強く、出発予定が30分遅くなったが、ガイドの判断は「午後から晴れるから大丈夫」というもの。
午前5時半に小屋を出発。
稜線に出ると、吹きすさぶ風に体温を奪われ、遅れる人が出始めた……。

読んで感じるのは、ここがその後の苦難との分かれ目だったのではないか、ということだ。
「午後から晴れる」と判断した根拠は何だったのだろうか。
希望的観測でなく、気象通報から天気図を書いて予測するなどの具体的な行動をとったのかどうか、わからない。

ヒサゴ沼避難小屋を出発した後の状況は、上に紹介したサイトに詳しく書かれている。
この記事を読んだ限りでは、「ガイドはそれなりに一生懸命やった」 という印象も受けるが、やはり判断ミスは否めない。
残念なことである。

また、救助要請の第一報がガイドからではなく、登山客のひとりからだったということもわかった。
ガイドが携帯電話で救助要請した、というような初期報道は、そうとう混乱・錯綜していたようだ。
以下、引用する。

<午前10時半ごろ、約4キロ進んだ北沼分岐付近で歩けなくなる人が出た。座り込んだ人を囲んで風よけをつくった。ガイドは待機を指示したが、約1時間半後には「寒い、寒い」と奇声を発する人も。戸田新介さん(65)=愛知県清須市=は「これは遭難だ。救援を要請しろ」と怒鳴った。>

<ガイド3人が協議し、死亡した吉川寛さん(61)=広島県廿日市市=と多田学央さん(32)が、客5人とテントを張って残ることを決断。多田さんは松本仁さん(38)に「10人を下まで連れて行ってくれ」と頼んだ。>

<正午ごろ、松本さんは戸田さんら10人を連れて下山を開始。しかし「早く救助を呼ばないと」と急ぐ松本さんの足が速く、11人はすぐばらばらに。足がもつれ始めていた松本さんも、約5キロ先のコマドリ沢分岐付近で動けなくなった。前田和子さん(64)=広島市=が「起きて。子供もいるんでしょ」と声をかけたが、座り込んだまま。
その時、前田さんの携帯電話が鳴った。午後3時48分、心配した夫(67)からだった。電話が通じることが分かり前田さんらは午後3時54分、110番。遭難の第一報だった。>

 ― 以上、上記サイトより ―

ネットの世界では、無責任な野次馬的発言も多く目にし、私は苦々しい思いをしている。
これまで新聞社系のサイト記事しか紹介してこなかったのも、掲載されている情報の正確さに首をかしげるものが多いためだ。
事実誤認以前の勝手な思い込みから、ああだこうだと意見を述べるのは差し控えたいものだ。

しかし、その一方では、真面目に情報を収集して、客観的な分析を続けているサイトもある。
信頼できるサイトだと私は判断しているので、紹介しておきたい。

■Sub Eight
 http://subeight.wordpress.com/

 北海道大雪山系 トムラウシ山 大量遭難を考える。
   http://subeight.wordpress.com/2009/07/18/tomuraushi-2/

サイトを運営されているのがどんな方か存じあげないが、綿密・精細な情報収集と分析には頭がさがる。

遭難に遭われた方々、亡くなった方々のために、私たちができることは、正確な状況の把握と、再発させないための検証、分析だと思う。

■参考サイト■

(2009/7/25 追記)
東京新聞:7年前 トムラウシ山で遭難 母の死 なぜ学ばぬ:社会(TOKYO Web)

 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2009072302000256.html

<……今回もまた、強風と雨が命を奪った。「小屋を出なければ、何も起きなかった」。悪天候で抜けられるようなルートではないという七年前の教訓は、生かされなかった。……>

ヒサゴ沼避難小屋に停滞するという選択肢はなかったのか。
日程的に「今日中に下山しなければ」という思いがあったのではないのか。
余裕のない行程というツアー登山のあり方が、この遭難の最大の原因だったように思う。

(2009/7/26 追記)
2002年7月、同じ山域で起きていた遭難事故の情報。
上記の新聞記事でとりあげられている、愛知県の女性(当時59歳)が亡くなった事故だ。

トムラウシ遭難事故の背景にあるもの
 (大雪ジャーナル 2003年10月22日)
 http://homepage.mac.com/hirosis/watching/watch031022.html

<去年(2002年)7月にトムラウシで起きた遭難事故で、「登山ガイドとしての注意義務を怠ったため」ツアー参加者の女性を凍死させたとして、ツアーを主催した福岡市の元登山ガイドの男性が旭川東署に書類送検された。
 台風が接近しているのに登山を強行したのはガイドの判断ミスだと筆者は考えるが、『北海道新聞』によるとこのガイドは、「せっかく来たので山頂まで登らせてやりたかった」と語ったという。ほかにも今年の夏、日高のポロシリ岳で、台風による沢の増水で山小屋に閉じ込められ、自衛隊のヘリコプターに救助された登山ツアーもあった。>

この記事中のリンク先(個人サイト*)に当時の経緯が掲載されているが、今回の事故と同じ行程でよく似た状況だったことがわかる。

 * のんびり歩く大雪山
   http://www.ne.jp/asahi/slowly-hike/daisetsuzan/index.html
   → 大雪山データ(大雪山登山データ) → 2002年

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