カテゴリー「【読】読書日誌」の387件の記事

2008年8月17日 (日)

【読】あの戦争を知るための二冊

ずいぶん前に持っていて読んだはずだが、内容はもう霧の彼方。
そんな本があるものだ。

ネット通販で、このたび入手。
手放さずに持っていればすぐに読み返せたのに、と思いながらネット検索してみたら、簡単に入手できることがわかった。
注文から数日後に到着。
便利といえば便利な世の中になったものだ。

Hiraoka_nihonjin_chugoku平岡正明 『日本人は中国で何をしたか』
  潮文庫 1985.7.30発行
 底本 1972年 潮出版社刊
 『日本人は中国で何をしたか―中国人大量虐殺の記録』

<本稿は、旧日本軍隊が北支で行なった壊滅作戦を、南支における対国民党正規軍戦との対比において論じ、南京大虐殺および日本列島における俘虜強制労働、虐待、虐殺、そして反乱劇としてあらわれた花岡事件を、三光との対応において論じるものとする。>
(本書 著者「あとがき」より)

<殺しつくし、焼きつくし、奪いつくすという、いわゆる “三光作戦” は開始された。 日本軍の恐るべき壊滅作戦を追う。>
(本書カバーより)

Hiraoka_chugokujin_nihon平岡正明 編著 『中国人は日本で何をされたか』
   ―中国人強制連行の記録―
  潮出版社 1973.2.5発行

<本書は 『日本人は中国で何をしたか』 の姉妹編として出版される。 編者の意図では明瞭にそうであり、三光作戦について調査・研究していたときから、中国人強制連行事件と、俘虜の反乱に多大の関心をもっていた。……>
(本書 「はじめに」 より)

この二冊は、平岡正明の労作だと思う。

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2008年8月11日 (月)

【読】この夏、あの戦争を考える (続々)

これもずいぶん前にきまぐれで買った本。
軍艦マーチが聞こえてきそうな冊子だ。

Daitoua_tizu『歴史の証人・地図』 ~ 大東亜戦争を語る ~
  発行人 菊地正浩  発行元 (有)ケイエスケイ
  平成15年6月発行

怪しげな本だが、資料として興味ぶかい。
歴史的な地図(アジア・太平洋戦争時の)が、多数収録されている。

著者は、本のタイトルや装幀から想像がつくが、先の 「大東亜戦争」 を肯定する立場。
やれ、自虐史観だの、日本人の精神文化だの、八百万神だの、愛国心だの、大和魂だの、……きりがないのでやめておくが、なかなかの御仁だ。

それでも、おもしろいのは、「南京大虐殺」 を、「全くなかったとは言えない」 と認めているところ。(「歴史教科書問題について」 P.67-)

近年、「南京大虐殺」 (1937年12月13日、日本軍の南京占領時の残虐行為) はウソだ、というとんでもないことを言う輩が出てきているが、「戦争だからそういうこともあるが、しょうがないのだ」 という人は、まだマシな方か。

それにしても――と、ここに収録されている70年ほど昔の世界地図を見て思う。

ちっぽけな島国の住人が、どこまで手を広げれば気がすんだのか。
石油資源の確保、というのっぴきならない事情があったにしろ、東南アジアから太平洋のどまんなかまで、軍艦をつらねてよくも出かけていったものだと思う。

朝鮮半島や中国大陸、さらにはもっと南まで、土足で他人様の家にあがりこむように、どんどん押し寄せていった日本人。
(軍人、兵隊だけではないのだ)

このあたりの事実を、しっかり押さえていこうと思う。
知ることは力(ちから)だと思う。



【追記】
あの時代に生まれていたら、じぶんはどうしただろうか。
――そういう自問を忘れずにいたいと思う。
今の時代の今の立場で、あの戦争の時代を生きた人たちを、どうのこうの言うことだけはしたくない。
(日曜日夜のBS2の番組、「大集合!青春のフォークソング」のビデオ録画で、加川良の軟弱な 「反戦歌」 を聴きながら)

【さらに追記】
この番組の山崎ハコは、さすが。
BOB DYLAN の Blowin' In The Wind を歌っていた。
ボブ・ディランのこのような反戦歌なら、許せる。
日本の 「フォーク」 は、ちっちゃい。
だんだん本題をはずれていきそうなので、ここまで。

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2008年8月10日 (日)

【読】この夏、あの戦争を考える (続)

興味ぶかい本が出ていたので、買ってみた。

『7 アジア解放の夢』 は、数ヶ月前に買っていた。
『8 果てしなき戦線』 を、昨日、追加で買ってみた。
先日読んだ 『あの戦争は何だったのか』 (保阪正康) に書かれていた時代と重なる、『8 果てしなき戦線』 (1937年~1945年) を少し読んでみている。

Nihon_no_hyakunen7_3Nihon_no_hyakunen8ちくま学芸文庫

『日本の百年7 アジアの解放』
  橋川文三 編著
  2008.4発行
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480090775/

『日本の百年8 果てしなき戦線』
  橋川文三、今井清一 編著
  2008.5発行
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480090782/


【参考サイト】
筑摩書房 ちくま学芸文庫 日本の100年
http://www.chikumashobo.co.jp/special/100year/ 

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2008年8月 7日 (木)

【読】この夏、あの戦争を考える

今日から、こんな本を読んでいる。

Hosaka_ano_sensou保阪正康 『あの戦争は何だったのか』
 ― 大人のための歴史教科書 ―
  新潮新書 125  2005.7.20 720円(税別)

あの戦争とは、もちろん先の戦争。
といっても、敗戦からすでに60年以上たっている。
生身で戦争を体験した人も、年々少なくなっていく。

私は、戦後生まれ。
いわゆる団塊の世代よりも、少し後に生まれてきた。

ところで、「戦争を知らない子供たち」 という歌がある。とつぜんだが。
<1970年に発表されたジローズ(第二次)のヒット曲。作詞は北山修、作曲は杉田二郎。>(Wikipedia)

私はこの歌に、ずっと違和感をおぼえてきた。
(今知ったのだが、作詞は北山修だった。北山修は嫌いではないが……)
はっきり言うと、こういう甘っちょろい歌は嫌いだ。

「戦争を知ろうとしない大人たち」 ――皮肉のひとつも言ってみたくなる。
いい大人になった杉田二郎がいまだにこの歌をテレビ番組で歌う、あの神経が理解できない。
……などと、過激な発言をしてしまったが、お許し願いたい。


こんなことを書いたのも、この本の冒頭に私をうなずかせることが書かれていて、思わず膝を打ったからだ。

<「太平洋戦争とはいったい何だったのか」、戦後六十年の月日が流れたわけだが、未だに我々日本人はこの問いにきちんとした答えを出していないように思える。
 例えば、いくつかの象徴的なことを提示してみよう。>


続けて、著者は、こんな例をあげている。

<ひとつは夏の甲子園での八月十五日のセレモニー。 正午のサイレンに合わせて高校球児たちが一斉に黙祷を捧げる。 それは当たり前のように繰り返される「美しい光景」と評されている。 しかし、私にはどうにも違和感を覚えてならないのだ。 平成に入って生まれた彼らが、本当にその意味を理解しているとは思えない。 もう六十年前の戦争にどうして頭を下げなければならないのか。 真剣に黙祷する彼らに同情してしまう。 無意味な儀式以外の何物でもないように思うのだ。>

そこまで言わなくても、と思われるかもしれないが、私も同じことを感じ続けてきた。
高校野球そのもの、夏の甲子園大会じたいが、かなりインチキくさい。
(高校生の野球を見ることは嫌いではないが)

あのセレモニーも大人の押しつけだと思うし、黙祷することよりも、もっと戦争のことを知らしめるべきだと思う。
(もちろん、高校球児たちが自発的に黙祷したいというのなら、おおいにけっこうだ)
今、高校で、どこまで先の戦争(第二次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争)のことを教えているのだろうか。


著者があげる、別の例。

<またこんなことも、私には奇妙に感じられてしまう。 広島市の広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に記されている 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」 という碑文である。 何を訴えたいのか、よくわからない。 不思議なことに、この文に主語はない。 原爆を落としたのはアメリカであるはずなのに、まるで自分たちが過ちを犯したかのようである。 どうして誰も変に思わないのだろうか……。>

私も、まったく同じことを感じ続けてきた。
「原爆許すまじ」 というのも、おかしな物言いだ。
まるで、「原爆」 という物体だけが悪いような、これも主体(主語)をぼかした言い方である。 何度でも言うが、あの原爆を投下したのは、アメリカ合衆国の軍隊であり、投下命令をくだしたのは当時の大統領である。 その理由のいかんにかかわらず、私は許せない。


日本人の戦争感は、あんがいこういうところにあらわれているのかもしれない。
つまり、責任の所在をあいまいにしたままの厭戦気分、あるいは、戦争はいけないことだ(これは当たり前)、の一点張り。

いや、べつに反戦運動にけちをつけているわけではない。
私だって、戦争はいやだし、反対である。

ただ、そこで思考停止してしまってはいけない、という思いが強い。


<ロンドンには「戦争博物館」というものがある。 ここには第一次世界大戦以降の戦争の歴史が淡々と展示されている。 ナチスドイツの制服や武器といったものまでもドキュメントとしてある。 しかし、決して非難めいて陳列されているわけではない。 また館の入口には館長の言葉として、こう書かれている。 「展示をしっかりとご覧下さい。 全て現実にあった出来事です。 そして後は自分で考えることです」 と。>  (本書「まえがき」より)


この本は、好著である。
この季節、こういう本を読んでみるのもいいと思う。
明後日は、ナガサキに原爆が投下された日。
ヒロシマ、ナガサキ、敗戦の日、と続く。



※2008.8.10追記
「戦争が終った日」は、8月15日ではない、ということをこの本であらためて認識した。
昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上のミズーリ号で降伏文書に調印した日が、日本の 「正式な」 敗戦の日である。
(世界の教科書でも、皆、第二次世界大戦が終了したのは9月2日と書かれているという)
8月15日を「終戦記念日」などと言っているのは、日本だけだという。
(8月15日は、日本が降伏を表明した日、著者に言わせると 「単に日本が 『まーけたー』 と言っただけにすぎない日」 ということになる。

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2008年7月30日 (水)

【読】昭和16年夏の敗戦(続)

こんなに面白い本だったのかと、あらためて感心しながら読み続けている。
はじめて読んだのは、今から10年以上前かもしれないが、面白かったという印象しか残っていない。
われながら、情けない記憶力だ。

Inose_shouwa16nen猪瀬直樹
『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』
小学館 「日本の近代 猪瀬直樹著作集 8」

第二章 「イカロスたちの夏」 にさしかかって、がぜん面白みがましてきた。
ところで、イカロスって何だっけ?
ああ、そうだった。
ギリシャ神話にでてくる、翼をもった人物。
「父ダイダロスの作った翼をつけて、いましめを忘れて高く飛びすぎ翼を固めていた臘が太陽の熱で溶けて海に墜死」(三省堂「新明解百科語辞典」)

知っていたつもりで、じつはよく知らないことの、なんと多いことよ。
中学、高校のときに、もっとベンキョーしておけばよかったと、今さらながら思う。

「統帥権」 についても、この猪瀬さんの本で、あらためてホントーのところがわかった。

<当時のわが国の国家意思は「統帥(大本営)」と、「国務(政府)」の双方の会議により発動された。 (中略) 旧憲法では統帥権は、"神聖にして犯すべからず"で政府は関与できない。 統帥部(大本営)は政府と別個に作戦を発動できたのである。 軍部独走の素地はここにあるのだが、旧憲法の制度上の欠陥を補うために、統帥部と政府の双方の会議は、「政府、大本営連絡会議」でなされた。 その形式的承認儀式が、天皇臨席の「御前会議」である。> (P.110)

天皇に対する事前の「根回し(奏上)」があって、御前会議はその形式的な追認だったということも、私は認識していなかった。
御前会議では、天皇は原則として意見を述べることをしなかったという。

(昭和)天皇の戦争責任、ということも考えてみる。
猪瀬直樹はこう書いている。
昭和16年12月1日、日米開戦を決める御前会議のくだり。

<セレモニーは数時間後に控えている。 天皇は日米開戦を避けたがっていた。 皇太子時代の英国留学で「初めて自由を知った」天皇が以来すっかり欧米贔屓になっていたことはよく知られている。/だからといって天皇が平和主義者だったということにはならない。 中国侵略については比較的寛容だったし、日米開戦についても、終戦の「御聖断」を下すことができたくらいなら、もう少し積極的な役割を果たしえたのではないか、後日、議論が分かれたところである。> (P.94)

いまやすっかり悪者扱いされている、東條英機についても、冷静な記述がされている。
(猪瀬直樹は「東條」と表記していて、この字が正しい。「東条」は新字体)
綿密な調査・取材のたまものだと思う。

東條英機は、じつに実直な軍人で、第三次近衛内閣の総辞職後、陸相をやめて用賀にあった自宅にひきこもるつもりで、荷物を運びはじめていたという。
天皇による組閣の大命は、東條じしんも、周囲の誰も予想していなかったことだった。

首相(陸相、内相を兼任)になった後、日米開戦決定までの四十五日間、なんとか開戦を引き伸ばそうと、主戦論者(統帥部)と、開戦に消極的な天皇及び閣僚との板挟みで腐心していた、というのが猪瀬直樹の記述だ。

その東條も、日米開戦決定後、急激に「挙国一致」で戦争遂行に邁進していく……。

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2008年7月28日 (月)

【読】昭和16年夏の敗戦(猪瀬直樹)

猪瀬直樹が書いた本を続けて読んでいる。
去年の5月に、ちょっとだけ紹介した本。

 2007年5月30日 【読】日本の軍隊(続)
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_5fd2.html

Inose_shouwa16nen_2猪瀬直樹
 『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』
  日本の近代 猪瀬直樹著作集 8
  小学館  2002.8発行  269ページ 1200円(税別)

昭和16年夏、日米開戦(真珠湾奇襲)の四ヵ月前の8月16日、平均年齢33歳の「内閣総力戦研究所」 研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていた――。

信じがたいことだが、日米開戦前に、総力戦のシミュレーションをしていたのである。
これはフィクションではない。

ずっと前に一度、文庫本で読んでいたのだが、なぜか手放してしまった。
あらためて著作集の一冊で読みはじめている。

猪瀬直樹は、近ごろいろんなことを始めたので嫌われているようだが、私は嫌いではない。
明快な文章を書く人で、綿密な取材・調査をベースに書かれたこの人のノンフィクションは、面白いと思う。

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2008年7月25日 (金)

【読】この本もおもしろい

こんなタイトルばかりだが、本のことしか書くことがないので。
それにしても、暑い。
夜、家のなかにいても汗だくだ。

すこし前に、このブログでちょっとだけ紹介した本。

 2008年5月18日 (日) 【読】「作家の誕生」(猪瀬直樹 著)
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_be86.html


今日から読みはじめたこの本は、予想にたがわず面白い。
猪瀬直樹の書いたものも、昔から好きなのだ。

Inose_sakka_tanjou猪瀬直樹 『作家の誕生』
 朝日新書 048  2007.6発行
 244ページ  720円(税別)

古今東西、作家と呼ばれる人たちは、変わり者が多いと思う。
近所に住んでいたら、おつきあいするのがためらわれる、そんな人ばかりだ。
私には、作家をあがめたてまつる趣味はない。
人間くさいエピソードが好きである。
だから、この本が面白い。




<川端康成は五年生の秋、手帖にこう書き込んだ。
「内藤千代子のホネームーンやエンゲージで読んだような男学生と女学生との交際が懐かしいものとして現れる。 自分もあんなに交わってみたいと思う。 草平氏と明子(はるこ)さんの煤煙がまだ読まないながら浮ぶ。 自分もあんな恋をしてみたいような気がする」
 夏目漱石の弟子のひとり、森田草平の『煤煙』は、ある事件の一部始終をありのままに書いた小説だった。 (以下略)>  ― 第2章 スキャンダルとメディア より ―

明子(はるこ)とは誰か。
当時は権威があった会計検査院の課長の娘。
日本でひとつしかない女子大、日本女子大に進んだ
「ギリシャの情熱的な叙情詩人」 サッフォーに似た
「二重瞼の西洋人的な面立ちと地黒の肌」 を持った二十二歳の女性。

次のページの写真を見て驚いた。
「明子(平塚らいてう) (1886~1971)」 のキャプションがある。
たしかに、西洋的な容貌の別嬪である。

そういえば聞いたことのある二人の心中未遂事件。
その顛末をありのままに書いたのが、森田草平の 『煤煙』 という小説だったらしい。
森田草平は、才女といっていい平塚らいてうに、体よく翻弄されたのである。

「故郷に妻子を置いて上京し、別な女をつくったりして、そこそこに蕩児」 であり、「女のあしらい方を心得て」 いたはずの森田草平だったが、明子に 「自分はダブルキャラクターよ」 などと言われ、どういう意味だね、と訊ね、逆に 「なんだと思います?」 と突っ込まれて、狼狽するのである。

ただの情けない、すけべおやじである。

ちなみに、夏目漱石は、心中に失敗して世間の強い風当たりを受けた弟子の草平を、自宅に置いてかばったという。
また、『三四郎』 のヒロイン、美禰子のモデルがこの明子だったという。
有名な話かもしれないが、私は知らなかった。
恥ずかしながら、『三四郎』 もまともに読んでいないし。

ただ、こういう、きわめて人間くさいエピソードが私は好きだ。

それにしても、作家と呼ばれる有名人よりも、市井の無名の人々のほうが、人間としてまっとうな生き方をしているんじゃないか、と私には思えてならない。

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2008年7月24日 (木)

【読】この本がおもしろい

きのうの続きである。
私にしてはめずらしく、一日で読みおえてしまいそうな勢い。
まだ50ページほど残ってはいるが。

Masataka_tensai正高信男 『天才はなぜ生まれるか』
 ちくま新書 466  2004.4発行
 203ページ  680円(税別)

「障害(障碍)」ということを、考えさせられる。
この本にとりあげられている六人の 「天才」 は、いずれも、何かしらの障害をもっていた。
(広義の意味での「学習障害」)
障害をもっていたからこそ、偉業をなしとげることができた、と著者はいう。

そして、これまで流布されてきた 「偉大な天才」 の神話をくずして、彼らを等身大の人間としてとらえる。

トマス・エジソン (注意欠陥障害)
アルバート・アインシュタイン (読み書きと計算の学習が困難であるという意味での狭義の学習障害)
レオナルド・ダ・ヴィンチ (アインシュタインと同様の障害)
クリスチャン・アンデルセン (文法障害)
グラハム・ベル (他人の気持がわからない障害=アスペルガー症候群)
ウォルト・ディズニー (多動症、多動障害、多動症候群)



― 本書まえがき より ―

 <(前略) 私はこの本で、障害にもかかわらず、それを克服して偉大な足跡を残した人の伝記を単純にまとめようとしているわけでは、決してない。 たとえば今あげたアインシュタインをとってみても、彼が障害者であったことを記すに際し、従来どう書かれていたかというと、判で押したように 「彼は障害があったにもかかわらず、やがて物理学者として……」 という風な表現をとっているのに気づくだろう。 つまり、障害を克服してがんばったのだと伝えようとする。
 しかしながら、この発想は全く誤っている、というのが本書のメッセージの核心にほかならない。 「障害があったにもかかわらず」 ではなくて、「障害があったからこそ」、彼は後世に名を残す発見ができたのであると、私は考えている。 それは、他の五人についても全く変わらない。
 障害を持つことは、必ずしも当人にとってハンディキャップとして作用するとは限らない。 それどころか、正反対に、強みとして働くことも珍しくないのだ。 それを、すぐに弱点ととらえてしまうのは、健常者の思いあがりというものである。
 障害があるから能力の面で不足していると考えるのは、決してまっとうな発想ではない。 (後略)>

 <健常者の生というのは、思いのほか画一的である。 今日の日本の教育は、子どもに 「がんばれば何でも望みはかなうんだよ」 と、万能感を植えつけることに躍起となっているものの、育つ人材はどんぐりの背くらべである。 (中略)
 障害というのは、個々人を比べてみて、その質と量において、誰ひとりとして他の人と同じということがない。 (中略)
 その力は、健常者の思い及びもしないことをしでかすことがある。 すると障害者の方が、人間生来の力を出していることになる。 そのことを私は、この本で書いたつもりだ。 (後略)>



まさしく目からウロコの落ちる本であり、きわめてまっとうな内容の本だ。

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2008年7月23日 (水)

【読】この本がおもしろそう

暑い。
なかなか本が読めない。
通勤電車の中は涼しい、というか寒いぐらいに冷房がきいているのだが、座ると眠くなってしまう。
暑くて、毎日ぼーっとしている。

読みかけで投げ出したままの本がたくさんあるけれど、無理してコムズカシイ本を読むこともないし。
そんなわけで、この本を読んでみようかと思う。
おもしろそうなのだ。

だいぶん前に、大型古書店(ブックセンターいとう)でみつけたもの。
正高信男さんの本は、これまでに何冊か読んでいて、好きなのだ。

Masataka_tensai正高信男 『天才はなぜ生まれるか』
 ちくま新書 466  2004.4発行

こんな内容の本だ。(カバーそで より)

<日本人にとって「個性的な=独創性を備えた人間」を育てるという目標は、半ばトラウマのようについてまわる事柄である。 では、その個性を彩っている独創性は、どのように形作られるのだろうか。 ここで厄介なのは、それが、ある能力の欠如による結果として生み出される場合が多いということである。 歴史に大きな足跡を残した六人の個性的な生涯をたどりながら、様々な障害が逆に独創性を形成していく意外なプロセスを解き明かす。>

とりあげられている六人。
カッコ内はこの本の章題。

トーマス・エジソン 1847-1931 (うわの空のエジソン)
アルベルト・アインシュタイン 1879-1955 (癇癪持ちのアインシュタイン)
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519 (外国語のできないレオナルド)
ハンス・クリスティアン・アンデルセン 1805-1875 (古典嫌いのアンデルセン)
アレクサンダー・グラハム・ベル 1847-1922 (付き合いべたなベル)
ウォルト・ディズニー 1901-1966 (落ち着きのないディズニー)

私はひねくれものなので、こういうタイトルを見ただけで嬉しくなる。



正高信男 (まさたか・のぶお)

1954年生まれ。 1983年、大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。
学術博士。 専攻は認知神経科学。
アメリカ国立衛生研究所、マックスプランク精神医学研究所、東京大学理学部助手などを経て、現在は京都大学霊長類研究所教授。
主な著書に 『ニホンザルの心を探る』(朝日選書)、『いじめを許す心理』(岩波書店)、『赤ちゃん誕生の科学』(PHP新書)、『子どもはことばをからだで覚える』『0歳児がことばを獲得するとき』『ケータイを持ったサル』『父親力』(いずれも中公新書)、『ヒトはなぜ子育てに悩むのか』(講談社現代新書)などがある。
― 本書著者紹介 ―

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2008年7月22日 (火)

【読】ほんとうは怖い感染症

感染症一般というよりも、新型インフルエンザが怖い。
この本を読んで、だいじょうぶだろうかという気になった。

Okada_harue_kansenshou_2岡田晴恵  『感染症は世界史を動かす』
 ちくま新書 580  2006年2月発行 286ページ

1918年 スペインかぜ
1947年 イタリアかぜ
1957年 アジアかぜ
1968年 香港かぜ
1977年 ソ連かぜ

これらは、皆、新型インフルエンザ、つまりインフルエンザウィルスの 「大変異」 (フルモデルチェンジ) が引き起こした、世界的規模の大流行の記録である。
人類は、この新型ウィルスに対して、今のところ無力である。
あらかじめワクチンの用意ができないからだ。
(新型ウィルスに対するワクチンが準備できるまで、半年かかるという)

ちなみに、風邪とインフルエンザは全く違うが、普通のインフルエンザなら予測によって予防ワクチンの準備が可能。
毎年おこなわれる、インフルエンザ予防接種がこれだ。
毎年流行するインフルエンザは、ウィルスの 「小変異」 (マイナーチェンジ) なので、ある程度予防策がとれる。


高病原性H5N1型鳥インフルエンザは、これまで人類が経験してきた過去の新型インフルエンザとは、大きくちがうという。

今のところ、トリからしか感染しないが、人間のあいだで感染がひろがるように変異するのも、どうやら時間の問題らしい。
それほど、ウィルスってやつは、ヒトの手に負えないものらしい。


忘れずに、心の準備をしておこうと思う。
それにしても、日本の行政がこういうことに鈍感である、ということもこの本でよくわかった。

あと30ページほどで、ようやく読み終える。



― 以下、Wikipediaより ―

H5N1の特性
伝染力
H5N1は野鳥に感染することによって世界中に広がる可能性がある。H5N1は突然変異と遺伝子の再集合を起こすことにより、今まで感染しなかったヒトなどの動物に感染するようになることも考えられる。

高い変異率
インフルエンザウイルスはRNAウイルスであるため、突然変異率が高い。また、新たな変種が生まれる原因には、同じ宿主に2種類のインフルエンザ・ウイルスが感染した場合、ウイルス・ゲノムが分割されることによって遺伝子の再集合が起こり、遺伝子組み換えが起こることがある。これにより、病原性のなかった株がヒトに対して病原性を持つようになる可能性がある。

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2008年7月17日 (木)

【読】感染症は世界史を動かす

タイトルは、本の題名。
すこし前に古本屋でみつけて、面白そうなので買ってあったもの。
今日から読んでいるが、すこぶる興味ぶかい内容だ。

Okada_harue_kansenshou_2『感染症は世界史を動かす』
 岡田晴恵  ちくま新書 580 2006.2

― 著者略歴より ―
岡田晴恵(おかだ・はるえ)
1963年生まれ。 共立薬科大学薬学部大学院修士課程卒業。
順天堂大学医学部大学院博士課程中退。 医学博士。
専門は感染免疫学、ワクチン学。
現在は国立感染症研究所ウィルス第三部研究員。
その間、マールブルク大学ウィルス学研究所に留学する。
(以下略)

― カバーより ―
歴史からなにがしかを学びとり、自衛、防衛するための手がかりを見出せないだろうか。 それが本書を書く、私の強い動機となった。 さらに、ふり返るだけでなく、前を向きたい。 それは、私の職務上の意思であったかもしれない。 このことから、最後の章では新型インフルエンザの危機管理にも言及した。

この本の冒頭、ドイツの古い大学街マールブルクをはじめて訪れたときのエピソードがいい。
聖エリーザベト教会を訪れ、13世紀、ハンセン病に尽くしたエリーザベトという女性に思いをはせるところは、感動的だ。

― あとがきより ―
 私が世界やその歴史とのつながりをもって感染症を捉えなおすきっかけとなったのは、ドイツ留学であった。 地続きのヨーロッパにおいては、戦乱に明け暮れるのと同じくらいのさまざまな感染症に脅かされながら、歴史を刻んで来ている。 ドイツの古い街には、そこかしこに感染症の惨禍をしのばせる跡が残っていた。
 私の住んだマールブルクもまた、ハンセン病に尽くしたエリーザベトの眠る街であった。 私の下宿の窓を開けると、山上に方伯城が見え、目の前にはエリーザベト教会が壮麗な姿で立っていたのだった。 (後略)

このように、しっかりとした動機で書かれた本なので、読み応えがある。

― 目次より ―
第一章 聖書に描かれた感染症
 中世のハンセン病、イエスの治療と教会のハンセン病対策、他
第二章 「黒死病」はくり返す?
 ハーメルンの笛吹き男、フィレンツェを襲ったペスト、他
第三章 ルネッサンスが梅毒を生んだ
 シューベルト、モーパッサンとハイネ、ニーチェ、他
第四章 公衆衛生の誕生
第五章 産業革命と結核
 結核のロマン化、劇作家チェーホフの結核、
 樋口一葉、正岡子規、エンゲルスの見たロンドン、他
第六章 新型インフルエンザの脅威
第七章 二一世紀の疾病

残念なことに、エイズ(HIV)とC型肝炎(HCV)という、現代の大きな二つの感染症については触れていないようだ。
詳しく書かないが、C型肝炎に無縁ではない私にとって、ちょっと残念。

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2008年7月 6日 (日)

【読】【楽】添田唖蝉坊

こんな本を、少しまえに近くの本屋で見つけた。

Azenbou_hayariuta_2『流行り唄後十年 唖蝉坊は歌う』
 添田知道(そえだ・ともみち)
 小沢昭一 解説・唄
 朝日選書 105  2008.4.30

添田知道は、添田唖蝉坊の長男。
1902年、添田唖蝉坊の長男として東京に生まれる。
1919年頃より父の演歌制作に加わり、芸名・添田さつきとして共に街角で歌う。
昭和になってからは小説・随筆を書き、『教育者』で新潮賞、『演歌の明治大正史』で毎日出版文化賞受賞。 1980年3月18日、77歳で死去。
― 本書 著者紹介より ―

この新書には、小沢昭一の歌うミニCDが付いている。

Ozawa_azenbou唖蝉坊のつくった歌は、高田渡やソウル・フラワー・モノノケ・サミットなどによって歌われている。

高田渡
 「ごあいさつ」 ―しらみの旅―
 「Best Live」 ―イキテル・ソング―

ソウル・フラワー・モノノケ・サミット
 「レヴェラーズ・チンドン」 ―むらさき節―
 「アジール・チンドン」 ―ラッパ節―

また、添田知道(芸名:添田さつき)の歌が、おなじくソウル・フラワー・モノノケ・サミットによって歌われている。

ソウル・フラワー・モノノケ・サミット
 「アジール・チンドン」 ―復興節、東京節―

Takada_wataru_goaisatsuTakada_wataru_best_live_4Soul_flower_levelers_chingdong_5Soul_flower_asyl_chingdong








久しぶりに、高田渡さんの 「Best Live」(二枚組)を聴きなおして、あらためて気づいたのだが、青柳利博さん(ギター)と久美子さん(アコーディオン)が渡さんのバックプレイヤーとして聴ける。
(1997年5月5日、吉祥寺ハバナ・ムーンでのライブ録音、8曲)


「イキテルソング」 ――大正7年、米騒動の頃につくられた歌。
 ♪ 生きたガイコツが踊るよ踊る
   ガイコツどんなこというて踊る、よ
   やせたやせた外米食うて痩せた
   日本米恋しいというておどる …… ♪


―以下、Wikipediaより転載―
http://ja.wikipedia.org/wiki/

添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)
1872年12月25日(明治5年11月25日) - 1944年(昭和19年)2月8日)
昭和の演歌師の草分けである。
号は、自らを「歌を歌う唖しの蝉」と称したところから由来。

神奈川県の大磯の農家の出で、四男一女の三番目の子として生まれる。

叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、1890年(明治23年)、壮士節と出会う。当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のものである。

唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、1892年(明治25年)の作である。これ以降、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。

1901年(明治34年)に結婚し、本所番場町に居を構えた。翌年長男の添田知道(添田さつき)が生まれる。この頃、友人と始めた「二六新報」がうまくいかず、茅ヶ崎に引っ込むが、「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった「ラッパ節」が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行する。これがきっかけで、堺利彦に依頼されて、この改作である社会党喇叭節を作詞。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になるなどし、その演歌は、社会主義伝道のための手段になる。

1910年(明治43年)、妻タケが27歳で死去。唖蝉坊は悲嘆して、知道の妹は他家に養子にやられる。やがて唖蝉坊は、当時の有名な貧民窟であった下谷山伏町に居を定めた。なおここは、一軒が四畳半一間、それが十二軒ずつ四棟、計四十八軒ならんでいたので、「いろは長屋」と呼ばれていた。

その後、全国行脚をしながら、屑屋の二階に居候。そこで死去した。浅草、浅草寺の鐘楼下に添田唖蝉の碑が、添田知道筆塚と共にある。

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2008年7月 4日 (金)

【雑】【読】二十歳のころ

いろんなカテゴリーに突っ込んだけれど、思い出ばなしである。

今日は暑かった。
もう七月だから、こんな暑い日があっても不思議ではない。

今頃の暑い日には、二十歳の頃、はじめて上京した日を思い出す。
じりじりと暑い日だった。
私のおぼろげな記憶では、七月の初旬。
二十一歳の誕生日をむかえて、すぐの頃だった。
(記憶に自信はない)
頭陀袋ひとつ背負って、友人を頼っての上京だった。

あの頃、実際には何も希望がなかったけれど、捨て鉢な勇気のようなものは持っていたように思う。
金もなく、住まいもなく(居候生活と住み込み生活がしばらく続いた)、職のあてもなかったが、絶望はしていなかった。

若い頃はよかった、と思うわけではない。
あの頃に戻してやる、といわれても、お断わりである。

だが、なぜか懐かしい思いにかられる。
歳をとったのかな。

Tachibana_hatachinokoro_3『二十歳のころ』 I 1937-1958
 立花 隆 + 東京大学教養学部立花ゼミ
 新潮文庫  2002年1月
 (親本 新潮社 1998年12月)

萱野茂さんの項が読みたくて、ずいぶん前に買った本。
だから、他の人の項は読んでいない。

二十歳前後の大学生が、著名人にインタビューして、その人たちの二十歳の頃の話を聞き、文章にまとめるという、面白い試み。
今、あらためて見ると、興味深い人がたくさんとりあげられているのだった。
それぞれの「二十歳のころ」の時代背景もわかって、なかなかいい本なのだ。
(まともに読んではいないけれど、そう思う)

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2008年7月 3日 (木)

【読】星野道夫さんをめぐって(続々)

こんな本も手に入れた。

『ベア・アタックス クマはなぜ人を襲うか』 I・II
 S.ヘレロ 著
 嶋田みどり・大山卓悠 訳
 日本クマネットワーク 解説
 北海道大学図書刊行会  2000.9

この市の図書館に置いていないのでネット注文したのだが、届くまで時間がかかった。

『星野道夫 永遠のまなざし』 (小坂洋右・大山卓悠/山と渓谷社) の中で知った。
訳者の一人、大山卓悠さんが日本語訳を買ってでた経緯が、詳しく書かれていたのだ。

その前に読んでいた 『クマにあったらどうするか』 (姉崎等/木楽舎) の中でも紹介されていたので、どんな本なのか気になっていた。

英文の原著は星野さんも持っていたという。
だが、星野さんはこの本を読まずに亡くなってしまったらしい。
原著者は、星野さんとも交友があり(訳者もそうだが)、そんないきさつから、星野さんの死後、日本語版を出すにあたって、あらたな章が追加された(補章 星野道夫の死)。

というわけで、読むのはまだまだ先になりそうだが、ここに紹介しておきたい。

原著
BEAR ATTACKS
Their Causes and Avoidance
Stephen Herrero

スティーヴン・ヘレロ (Stephen Herrero)
1939年米国サンフランシスコ生まれ。 カリフォルニア大学バークレー校で動物行動学の博士号取得。 1968年よりカナダのカルガリー大学に勤務。 現在、環境計画学部教授。 主な研究分野は、野生動物生態学、保全生物学。 1999年来日し、北海道をはじめとするクマ生息地を訪ね、各地で講演や関係者との意見交換を行なった。
(本書著者紹介より)


― 本書巻頭 「日本語版によせて」 (スティーヴン・ヘレロ) より転載 ―

 1996年、極東ロシアのさらに遠隔の地カムチャッカ半島の南端で、私にとっては世界最高の写真家だった男、"星野道夫"がヒグマに殺された。 (中略) およそ二十年間にわたって、彼は毎年何ヵ月も自然のなかで暮らし、グリズリー(ヒグマ)やムース(ヘラジカ)のような危険を秘めた動物にそっと近づき、事故に遭うこともなく、優れた写真を撮りつづけた。 彼がこれらの動物たちをよく知り、理解していたからできたことだ。
 その彼が、なぜクマに殺されたのか? その答は、悲しいことに、星野氏を殺したクマは、彼が愛した、まだ人間によってそこなわれていない野生のままのクマではなかったということだ。 彼を殺したのは、野生のクマのカリカチュア――攻撃的に食物を得ようとする性格のクマが、何ヵ月にもわたって不適切に保管された人間の食物や生ゴミを食べ、その攻撃性がさらに助長されていたのだ。 (後略)
 

Bear_attacks_1Bear_attacks_2 

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2008年7月 2日 (水)

【読】星野道夫さんの本棚(続)

星野道夫さんの本棚にあった一冊。
愛読書だったようだ。

Hoshino_coyote_no2Coyote №2 (2004.10.8) スイッチ・パブリッシング
 特集 星野道夫の冒険  より引用

(P.52) 人はこうして生きてきた

『デルスウ・ウザーラ』 は星野道夫がこよなく愛した本の一つである。 書斎にはボロボロになった本を改めて装訂(装丁/装幀のまちがいか?)し直したものがある。
(中略)
著者のアルセーニエフが1906年の調査旅行途上で出会ったのが、ゴリド族の男デルスウ・ウザーラ。 (中略) 彼ら二人の短くも心深い交流を描いたのが、この 『デルスウ・ウザーラ』 である。 ……


ネット販売で注文してあった東洋文庫版が、きょう届いた。
Coyote にも、同じ本がイラストで紹介されており、上で引用した文章が書かれている。
星野さんの本棚には、別の訳者による同じ書もあったようだ。


Derusuu_uzara『デルスウ・ウザーラ 沿海州探検行』
 アルセーニエフ  長谷川四郎訳
 平凡社東洋文庫 55  1965年

訳者の長谷川四郎が好きなので、この本がほしくなったのだ。
こういう探検記、それほど読んでいないが、好きな分野だ。

(Wikipediaより)
長谷川 四郎(はせがわ しろう、1909年6月7日-1987年4月19日)は、北海道出身の作家。法政大学卒業後、南満州鉄道株式会社に入社。退社後招集。復員後、シベリア捕虜体験をもとに「近代文学」に作品を発表した。その後、新日本文学会で活躍し、1960年代の同会を花田清輝とともにささえた。1974年には、花田とともに戯曲『故事新編』(魯迅の同名の作品に基づいたもの)を共同制作もした。
牧逸馬・林不忘・谷譲次のペンネームを用いた小説家長谷川海太郎は実兄。



長谷川海太郎(谷譲次・牧逸馬・林不忘)も好きで、一時期、夢中になって読んだことがある。

「デルス・ウザーラ」 という映画がいっとき話題になったが(黒沢明監督、日ソ合作、1975年)、私は観ていない。

今日から、『流亡 日露に追われた北千島アイヌ』 を読んでいる。
宮本常一さんの本は、一時中断。
しばらくのあいだは、星野道夫さんの周辺をぐるぐるまわる読書が続くのか、自分にもわからない。
こういう本の読み方もいいじゃないか。

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【読】星野道夫さんの本棚

これも先日読んだ 『星野道夫 永遠のまなざし』 (小坂洋右・大山卓悠、山と渓谷社) に書かれていて、気になっていた本だ。
ネット販売で入手できた。

Kosaka_yousuke_toubou『流亡 日露に追われた北千島アイヌ』
 小坂洋右 北海道新聞社(道新選書) 1992.7

著者の小坂洋右(こさか・ようすけ)さんは、星野道夫さんと親しくしていた人。
『星野道夫 永遠のまなざし』 に書かれていたことだが、小坂さんはこの本を星野さんに渡していた。

「Coyote」 №2(2004年、スイッチ・パブリッシング) 「特集 星野道夫の冒険」 に、アラスカ フェアバンクスの星野さんのログ・ハウスに残された、彼の本棚が紹介されている。
その本棚のリストには、たしかにこの本もあった。

小坂さんは、星野さんがカムチャッカ半島で事故で亡くなった後、『逃亡 日露に追われた北千島アイヌ』 を星野さんに渡したことを、後悔したという。

カムチャッカ南部はこの本の舞台の一つになっていて、「本を読んだ星野道夫は、カムチャッカ南部がヒグマの一大生息地であると同時に、悲劇を生んだ人類史の一舞台であったことも知っていたはず」 だと思ったのだ。

アイヌ民族と星野道夫――このつながりは、それほど突拍子もないことではなさそうだ。
星野さんの著作に、クリンギットインディアンのエスター・ジェイという女性の言葉が記されている。

エスターは、星野道夫に一冊の本を示し、あるページの写真を見せて 「この人々は一体誰なのか」 と尋ねたという。

<それは日本のアイヌの人々の写真だった。 エスターは自分たちの祖先とその写真を結びつけていたわけではないだろう。 ハイイログマのクラン(家系)に属するエスターは、なぜ同じような信仰を持つ人々が遥かなアジアの世界に存在しているのかという不思議さを感じたのかもしれない。>
 ― 星野道夫 『森と氷河と鯨』 ―

すぐには読めないが、この小坂さんの本は、私にはとても興味ぶかい。


Hoshino_coyote_no2Hoshino_eien_no_manazashiHoshino_moritohyouga

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2008年7月 1日 (火)

【読】気になっていた本(宮本常一)

いちど読みはじめたことがあったが、すぐに挫折した本。
挫折の原因は活字の小ささ、といういささか情けない事情だが、いま再挑戦している。
これが、じつに面白い。

宮本常一さんの、いまや古典といってもよさそうな代表作。

Miyamoto_wasurerareta宮本常一 『忘れられた日本人』
 岩波文庫 青164-1
 1984.5.16 第1刷発行
 1995.7.5 第28刷発行

28刷とは、さすがによく読まれている本だ。
それにしても、活字がなぁ……。
そろそろ、大活字本じゃないといけないか。

少し前に読んだ 『クマにあったらどうするか』(姉崎等、木楽舎)のあとがきに、宮本常一さんのこの本の方法(聞き書き)を参考にしたと書かれていたので、読んでみようという気になったのだ。

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2008年6月30日 (月)

【読】星野道夫と見た風景 (星野直子)

こんな本もあった。
いつ手に入れたのかも覚えていないが、まだ読んでいなかったようだ。

Hoshino_naoko『星野道夫と見た風景』
 星野道夫 星野直子
 新潮社 とんぼの本 2005.1.25

1993年に星野道夫さんと結婚した直子さんが、星野さんのことをこう語る。

― 本書 P.120- ―
 01年の夏には、アラスカの海でクジラを追う道夫さんを長い間サポートしてくれた、リン・スクーラーの船に乗る機会がありました。 私と翔馬(注:星野夫妻の子息)、それに私の両親に、クジラを見せてくれるためです。
 船上でのある夜、リンにも協力してもらってできた 『森と氷河と鯨』 の本を渡したとき、彼がおもむろに、私に尋ねたんです。
「ナオコはクマを許すことができたのか?」
 私は、
「クマを許せないと思ったことはない」
 と答えました。 なぜなら、カムチャッカに迎えに行ったときの道夫さんの表情には、苦痛の影が少しもなかったから……とても静かな顔でまるで眠っているようだったから。
 もし、その表情に苦悶や痛みを見ていたら、クマに対する想いはちがったものになっていたかもしれません。

この本は、いい。
星野直子さんの文章も、好ましい。

フェアバンクス郊外の住宅地の森の一部を購入して、友人の大工に頼んで作った星野さんの家の写真がある。
落ちついた造りのログハウスのまわりに、花がたくさん咲いている。

「もともとは岩がごろごろしているような粘土質の斜面の土地で、どちらかいえばやせた土質」 だったところへ、「業者に頼んで肥えた土を運び込んでもらい、種をどっさり蒔いたのだ」 という。 (本書 P.12)

星野さんは、とてもいい場所で最後の数年を暮らしたのだった。 

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2008年6月29日 (日)

【雑】身近な自然と遠い自然

「……僕らの周りには二つの大切な自然があるような気がします。 一つは身近な自然です。 つまり生活の中で自分の家の近くの森や川や草花が毎日見ることができる、そういう身近な自然が大切なんですね。 もう一つは、遠い自然も大切だと思うんです。 つまりそこには行けないかも知れないけれど、そこにあるというだけでホッとできる。 ……」
(『魔法のことば』 星野道夫 ―1994年6月11日 東京都渋谷区松濤美術館での講演―)

ほんとうに身近なところで、ガクアジサイがきれいに色づいている。
雨に濡れて、とてもいい。
気持がなごむ。

08062900010806290002













星野道夫さんが言う 「遠い自然」 が、私のこころの中にもある。
それは、まだ行ったことのない地球のどこかの雄大な景色だったり、八ヶ岳の深い森だったり、南アルプスの稜線だったり、北海道の原野だったりする。

「少しだけ遠い自然」 と呼びたいような、日本の中のこれまでに訪れた場所のことを、ときどき思い出す。
思い出すことで、ちょっとだけ元気になれる。
いまこの時、あの風景、あの自然が確実にある、と考えることで元気がでる。
 
 

Hoshino_alaska_kaze『アラスカ 風のような物語』
 星野道夫 小学館文庫 1999年
 (1991年刊行本=下記を再構成した文庫版)

ひししぶりにこの本をとりだして、アラスカの遠い自然と、星野さんのことばを、味わっている。

― 巻末解説 より ―
彼の動物の写真を見ると、撮影者と被写体の動物との間に何か会話があるような気がしてならない。 言葉はなくても成り立つ会話がそこにある。 チーズといわせてポーズをとった写真でもなく、やみくもにシャッターを押し続けて偶然の僥倖をねらった写真でもない。 シャッターチャンスを計算したわけでもないのに、これ以外にないという瞬間の表情をフィルムに収めるのは、無言の会話を通じて被写体と一体になったカメラマンの業というしかない。  (大庭みな子)


Hoshino_alaska_kaze_large『Alaska 風のような物語』
 星野道夫 小学館 1991年7月 大型写真文集

― 『星野道夫 永遠のまなざし』 山と渓谷社 より ―
星野道夫には、その土地をより深く知ろうとする姿勢があった。 人が住んでいても住んでいなくても、好きになった場所が自分を受け入れてくれるかどうか、それが判るまでじっとそこに佇むのだそうだ。 そしてその場所と一体になれた時、星野道夫ははじめてカメラを取り出すのだという。 それだけでは終わらない。 今度はカメラで切り取った景色の中に生命を入れることを考えるという。 風景の中に生命があると、空気が引き締まるのだと言った。 (大山卓悠)

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2008年6月27日 (金)

【読】星野道夫さんをめぐって (続)

この本のつづき。

Hoshino_eien_no_manazashi『星野道夫 永遠のまなざし』
 小坂洋右、大山卓悠 著
 山と渓谷社 2006年

巻頭に星野さんの人なつっこい笑顔のカラー写真がある。
デナリ国立公園、1984年というキャプションがついている。
ほんとうに、少年のような屈託のない笑顔だ。

そのページに続いて、星野さんが最期をむかえたカムチャッカ半島南端のクリル湖周辺の写真と、星野さんを襲ったとみられるヒグマの写真が掲載されている。
北海道をおもわせる、美しい風景だ。
あの事故さえなければ、ここはここで、すばらしい場所だっただろう。

キャプション 「星野道夫が最後に見た風景」
―― 北緯51度、カムチャッカ半島南端部にあるクリル湖は、周囲45キロほどもある大きなカルデラ湖。 周囲には富士山にそっくりのイリインスカヤ山など、標高1500~2000メートル級の火山が点在している。 (中略) ベニザケを餌とするヒグマも多く棲息し、その密度は世界でも有数。 (後略) ――


ところで、この本の最終章だけは、星野さんと親交のあった 大山卓悠(おおやま・たかひろ)さんが執筆している。
星野さんの人がらが生き生きと描かれていて、好感がもてる文章だ。

その中に、ほほえましいエピソードが書かれてる。
星野さんが結婚する前の話だと思う。

大山さんは家族を連れて、フェアバンクスの星野さんの家に遊びにいった。
星野さんの家は、白樺とアスペンとトウヒの森の中にひっそりと建っていた。


―― 以下、原文から引用 ――

「じゃあ、今夜はぼくのいちばん得意なスパゲッティーを作りますから」
 星野道夫は得意顔で宣言した。 すると四歳になるぼくの長女がすかさず言った。
「パパもスパゲッティー得意だよね。 アルデンテだもんネ」
 子供は正直だというが、残酷でもある。 星野道夫はそのひと言にプレッシャーを感じてしまったのかすっかり緊張し、緬を茹でながらしょっちゅうスパゲッティーをすすっている。 緬の固さを確かめていたのだと思うが、それを見ながら長女が心配そうに言った。
 「星野さん、スパゲッティーをみんな食べちゃうんじゃないの」
(中略)
 結局、長女の予感は的中し、最初に茹でた分では皆の皿に行きわたらなかった。
「すみません。 ちょっと味見しすぎちゃったみたいで……」
 星野道夫は頭をかきながら、新たにスパゲッティーを茹で直した。

  ― 本書 第四章 「星野道夫が残してくれたもの」 より ――


この後、星野さんが大山さんのアンカレジの家を訪ねたときのエピソードが、とてもいい。
星野さんと大山さんのお嬢さんが、ムース(アラスカに住む大型のヘラジカ)の干からびた糞を投げっこして遊びだした。
その時、星野さんは容赦なく四歳の少女に糞をぶつけるのだった。


―― 以下、原文から ――

(前略) 長女も負けじと両手で糞をすくい取り、星野道夫にぶつけ返した。 さあそうなると二人とも、つかんでは投げつかんでは投げの激しい交戦になった。 星野道夫も娘も必死の形相で投げ合っている。 娘はまだ四歳の子供だ。 そんな年端も行かない女の子に、星野道夫は大人に対してするように真顔でぶつけている。 いずれ娘は泣き出すに違いないと、傍ではらはらしながら見ていたが、結局二人は飽きるまでぶつけ合って平気な顔をして息をついた。
「ああ、面白かった。 星野さんまたやろうね」
「ウン、ここはいいね。 フンがたくさんあるもんね」
 二人は息を切らしながら、目をきらきらさせてうれしそうに話している。 そんな二人を見ながら、ぼくは何か未知のものに触れたような気がした。 星野道夫も娘も、ぼくが生きる世界とは別の境界に住む人々のように見えたのだ。 あれほどひどくムースの糞をぶつけられて、なぜ長女は泣き出さなかったのだろう。 とても痛かったはずだ。 星野道夫も星野道夫で、いい大人がたった四歳の子供にああまですることはない。 まるで子供同士の喧嘩のようだった。 そう思った途端、ぼくは二人の関係がすっと理解できた。 そう、二人は子供同士で、それも仲のよい友だち同士なのだ。 (中略) 泣き出さなかったのは、星野道夫が大人でなかったからなんだ。
 星野道夫の人間性にそんな一面があることを心に留めながら、ぼくと彼の付き合いは続いていった。

  ― 同 P.221~ ―

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