カテゴリー「勢古浩爾」の24件の記事

2009年10月 3日 (土)

【読】ひさしぶりに勢古浩爾さんの一冊

『日本残酷物語 1』(平凡社ライブラリー)を読みつづけているが、そのあいまに、こんな本も。

Seko_iyana_yononaka勢古浩爾
  『いやな世の中 <自分様の時代>』
 ベスト新書 KKベストセラーズ
 2008/4/14 742円(税別)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4584121842

あいかわらずの勢古節が痛快だ。

<だいたい、だれもかれもが「様」になりたがりすぎである。というより、いつのころからか、客商売の人間たちから「様」扱いをされるようになって、そうか、おれは「様」なのかとわたしたちはのぼせあがったのである。そりゃそうだよな、お客様は「神様」だもんな(ほんとは「金様」ね)、と調子に乗ったのである。>

<近年における気の利いたふうな言葉の第一位は、なんといっても「自分らしさ」であろう。大ヒットである。二位が「楽しみたい」か。「地球(環境)にやさしい」「人にやさしい」の「やさしい」もあるな。そして三位は「がんばらない」と同率の「元気をもらった」「勇気をもらった」であろうか。>

<すこし前だったら「感動をありがとう」がヒット作であった(いまも生き延びている)。なにがありがたいんだか。いちいち「感動した」と口に出していうものではないと思うが、それもいうなら「感動した」だけで充分である。なんだ「ありがとう」って。もらってばかりじゃないか。>

次から次と、まことに気もちがいいが、勢古さんは根がまじめな人なので、ほんとうに言いたいことは次のようなセンテンスにこめられていると思う。
なにやら最近の五木寛之に似てきたような気もするが。

<努力しても報われない。人生は自分の思い通りにならない。裕福にはなれない。宝くじにはあたらない。健康は損なわれる。失恋する。傷つく。コケにされる。挫折する。なりたいものになれない。年老いて醜くなる。だれも認めてくれない。すべて、あたりまえのことである。
 それでも生きる。自棄になることは簡単だ。それでもまっすぐに生きる。生きられなければ、それでもいい。よくはないだろうが、是非もない。>

目次より
 第1章 蔓延する「自分病」
 第2章 空々しい言葉は聞き飽きた
  「美しい国」にげんなり/「セカンドライフ」が白々しい/いい気な「おひとりさまの老後」
  「夢を持て」という強迫/「元気をもらった」が暑苦しい 等々
 第3章 あえて時代に遅れる
 第4章 「低く暮らし高く思う」人生

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2009年7月 1日 (水)

【読】勢古さんの中島みゆき論

勢古浩爾さんの本はずいぶん読んだけれど、この本はなかなか手に入らず、ずっと気になっていた。
Amazonで入手。
楽しみな本が、また一冊増えた。

Seko_miyuki_2『中島みゆき・あらかじめ喪われた愛』
 勢古浩爾  宝島社 1994/2/15発行
 219ページ 1700円(税込) 絶版

― 帯より ―
<中島みゆきの「歌」の強さは、喪愛における哀しみが、あたかも暗闇のなかに閃光を放って世界を一瞬の白光のもとに照らしだすかのように、有頂天で無邪気な愛以上に「愛」の意味と強さを逆説的に明示していることにある。 そのとき同時に鮮やかな陰影のもとに浮き彫りにされるのは、その世界のなかに投企した「ひとりの女」の立ち姿である。>

うーん。
このような持って回った文章は好きではないが、それでも興味津津なのは、勢古さんが中島みゆきをどのように論じているかという一点。
上に引用した部分は勢古さんらしからぬ文章ではあるが、中島みゆきに対する思い入れの強さは伝わってくる。

いろんな人たちが、この偉大な歌い手を論じている。
たとえば、呉智英(くれ・ともふさ)さんは、『バカにつける薬』(双葉文庫)という強烈なタイトルの本のなかで、「中島みゆきは中山みきである」と言いきって、中島みゆきを熱く語っている。
呉さんもまた、中島みゆきの熱烈なファンのひとりである。
「中山みき」とは、あの天理教の教祖。

その冒頭部分。
<中島みゆきは中山みきである! これが私の中島みゆき論だ。 中島みゆきには、時代思潮の転換期にあって新興宗教天理教を成立させた中山みきを想起させる。 時代に屹立した精神がある。 しかし、一般には、中島みゆきという類いまれな才能は、完全な無理解や誤解の中にある。……>

たしかに、中島みゆきは熱烈なファンにとって教祖的な存在と言えるし、実際に「教祖」と(なかば冗談で)呼ぶファンもいるらしい。

私もまた、中島みゆきを敬愛し、同時代の歌い手として注目を続けてきた。
私にとっての中島みゆきの魅力をひとことで言うと、「強さ」だ。

音楽は論じるものではない、という意見もあるだろうが、私はそうは思わない。
どんな事象でも、論理的にとらえることは大切だと思うのだ。
ただし、すぐれた音楽は、ちゃちな音楽論をはるかに超えた次元にあることもたしかだ。

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2008年1月29日 (火)

【読】『日本人の遺書』 勢古浩爾

勢古浩爾さんの最新刊を読んだ。
やや分厚い新書。本文300ページほど。
ずっしりと重い内容だ。
古今の遺書、遺言、辞世を網羅した内容なので、「面白い」というと語弊があるかもしれないが……人間の生き方について考えさせられる、なかなかいい本だった。

Seko_isho勢古浩爾 『日本人の遺書』
 洋泉社 新書y 186 2008.1.23

人間とはなんと悲しいものか。
<ゆえに、その死だけが悲しいのではない。 かれらだけが悲しいのでもない。 なんというべきか言葉を失いながら、結局、こんな凡庸な言い方に行きつくしかない。 なんと人間が生きることは悲しいことか、と。 人間全体の哀れさも愚かさをも呑み込んだ悲しさだ。>
(『日本人の遺書』 まえがき)

全12章の目次は、このようなものだ。
たくさんの人名があげられているが、その一部を転記しておこう。
丸括弧内は、勢古さんの原文にあるとおり。
あまりにも膨大な数なので、人名の一部を省略した。

第1章 煩悶
 藤村操(高校生)/村山槐多(画家・詩人)/原口統三(大学生)/原民喜(作家)
第2章 青春
 岩倉靖子(岩倉具視の曾孫)/岸上大作(大学生・歌人)/奥浩平(大学生)/山田修治(大学生)/高野悦子(大学生)
第3章 辞世
 在原業平/西行/太田道灌/細川ガラシャ/浅野長矩/乞食/良寛/被差別部落民
第4章 戦争
 佐久間勉(潜水艇艇長)/宇佐美輝夫(特攻隊員)他/阿南惟幾(陸軍大臣)他/近衛文麿/東條英樹
第5章 敗北
 山下奉文(南方方面軍司令官)/栗林忠道(硫黄島守備隊総司令官)/太田實(沖縄根拠地隊司令官)他
第6章 反俗
 乃木希典/森鷗外/永井荷風/白洲次郎/天本英世(俳優)
第7章 思想
 吉田松陰/北一輝(思想家)/三島由紀夫/森恒夫(連合赤軍委員長)他
第8章 疲労
 正岡子規/金子みすヾ(童謡詩人)/芥川龍之介/関谷敏子(声楽家)/火野葦平/太宰治/円谷幸吉(自衛官・マラソン選手)/江藤淳
第9章 憤怒
 箕浦猪之吉(土佐藩士)/磯部浅一(元陸軍主計大尉。二・二六事件首謀者)/野中将玄(ブリヂストン社員)
第10章 絶望
 鹿川裕史(中学二年生)/大河内清輝(中学二年生)/伊藤大介(機関士)/秋元秀太(大学生)/松濤明(登山家)/沢田義一(大学生・登山家)
第11章 悔悟
 島秋人(死刑囚)/森山太助(死刑囚)/二宮邦彦(死刑囚)
第12章 愛情
 有島武郎/尾崎秀実(新聞記者・ゾルゲ事件)/新井将敬(政治家)/太田八重子(ヌード・モデル)/岡田有希子(歌手)/河口博次(御巣鷹山遭難者)/谷口正勝(御巣鷹山遭難者)/大橋恭彦(沢村貞子の夫)

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2007年11月30日 (金)

【読】雀を生きかえらせなさい

勢古浩爾さんの 『自分様と馬の骨』 からの孫引き。
勢古さんは、この言葉に感銘を受けたようだが、私も同様。

 子供の頃、初めて買った銃で雀を撃ち殺した。 その時、母に、
 「雀を生きかえらせなさい」
 と、叱られた。

  (『マイ・フィールド・オブ・ドリームズ』 井口優子訳・構成、講談社)

以下、勢古さんの 『自分様と馬の骨』 第4章 「終着駅は犯罪だった」 より。

<すごい言葉を読んだ。 近年これほどびっくりした言葉はない。 『シューレス・ジョー』 の著作 (映画 『フィールド・オブ・ドリームズ』 の原作) で知られる W・P・キンセラが書いている文章のひと言だ。>

<完全に虚をつかれてしまった。 このような叱り方がアメリカにはあったのか。 「雀を生きかえらせなさい」だと。 ショックである。 アメリカ人がすごいのか、それともこの母上がすごいのか。 アメリカ人全部がすごいわけではまったくないが、アメリカ人ということはたしかに一要因ではあろう。 (後略)>

勢古さんは、承認論の文脈のなかで、近年日本の凶悪犯罪について書いている。
2001年6月、大阪府池田市の大阪教育大付属池田小学校に乱入、児童8人を刺殺した宅間守。
1999年9月、池袋で2人を刺殺し7人に負傷を負わせた通り魔事件の、造田博。
彼らがどのように生き、どのようにして凶悪な犯罪を犯すに到ったのか。

気の滅入るような犯罪の話のあとで、上の言葉が紹介されている。
「雀を生きかえらせなさい」 ―― この、短い言葉は私にとっても衝撃だった。
人間は、このようにも生きられる。
こういう人もいるのだ、と思えることが救いだ。


勢古さんが何を言いたいのか理解できたつもりだが、私の力ではとても要約できないので、以下、再び引用。

<日本人ならどういうか。 母親なら、せいぜい 「だめでしょ、スズメさんが可哀相でしょ」 くらいのところか。 (中略) 水俣事件のとき、補償なんかいらないから、会社の社長以下幹部たちに水銀を飲んでもらって水俣病と同じ症状になってもらう、それでいい、と被害者の代表が叫んだ(ことを、私は正確ではないかもしれないが記憶している)。 だからこのような言い方が日本にもないわけではない。
 だが、右のような場合と、キンセラの母の言ったことは似て非なることである。 被害者と加害者の対立という憎悪の場面ではなく、親と子の間のことだ。 子どもを承認することと、事の善悪のちがいのことである。 世の中には取り返しのつかないことがある。 どのようにしても、絶対に責任のとりようのないことがある。 死んでお詫びしても、お詫びしきれないことがある。 それを取り返してみよ、責任をとってみよ、とキンセラの母は言ったのである。 しかも自分の子どもに、である。 これほど根源的な言葉はない。>

<キンセラの母の言葉はいったいどこから出てくるのか。 子どもからの承認を一切必要としない場所から出てきていると思われる。 すなわち、「自分」よりも「自己」を上におくことの正しさの場所から来ていると思われる。>  (太字は原文のまま)

引用が長くなったが(いつものことだが)、感銘を受けたので紹介した。

Seko_jibunsama_2勢古浩爾さんが言う 「自分」 と 「自己」 ――
 『自分様と馬の骨』 第3章 「自分様と馬の骨」 より要約 (私の理解)

私たち一人ひとりの人間は、この世界のなかでどのように存在しているのか。
ひとつは 「自己」 という言葉で表わせる存在のしかた。
世界の65億人の中の一つとしての 「塵のような存在」。
その特徴は、無名性(匿名性)と等価性である。
「馬の骨」 というあけすけな言葉に抵抗を感じる人がいるかもしれないが(私もそうだ)、つきつめて考えれば、見ず知らずの他人(世界中の)は、この自分にとってどこかの 「馬の骨」 である。

もうひとつの存在のしかたが 「自分」
世界でひとりしか存在しない、何の何某という名前をもった 「自分」。
その特徴は、唯一性と優越性である。
(「俺が、俺が」、「自分様」、「俺様」 に行きつく)

ひとりの人間は、この無名性と唯一性、等価性と優越性、つまり 「自己」 と 「自分」 の二重性 (単純に社会性と個人性といってもいい) として存在している。 しかも、その矛盾体として、である。 ―― というのが、勢古さんの持論である。

「自分らしく生きたい」 だの、「自分さがし」 だのといった今の流行り言葉を、勢古さんは厳しく批判する。
私も同意。


【参考】
W・P・キンセラ 著 / 井口優子 訳
 『マイ・フィールド・オブ・ドリームス―イチローとアメリカの物語』
 Amazon http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062111500
W・P・キンセラ 著 / 永井淳 訳
 『シューレス・ジョー』  (文春文庫)
 Amazon http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167218038

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2007年11月29日 (木)

【読】ネットの世界

じぶんも片足をつっこんでいるから、批判がましいことは言えないけれど・・・。
今読んでいる(結局、読みはじめてしまった)、勢古浩爾さんの本に面白いことが書いてあった。
全面的に同意できないけれど、三分の二ぐらいは同意できるな。

Seko_jibunsama勢古浩爾 『自分様と馬の骨』 三五館

<インターネットの普及により、ネット掲示板(2チャンネルなど、ピンからキリまで)で、自分の言葉を公的世界に流すことが可能となった。 ネット掲示板あるいは「チャット」(なにが「チャット」だ。 どうしてこの手の用語は気に食わないものばかりか) では、「ハンドルネーム」という匿名の自分の名前が使われるのだが、そこは、ああでもないこうでもないだの、ああでもあるこうでもあるだの、(笑)だの(爆)だの(泣)だのといった自己満足的記号が延々とつづく電脳井戸端会議である。 ひそかな自己証明と自己承認が果たされているのか。>

きついけれど、的を射ているかもしれない。

<これはどういう意味をもったコミュニケーションか。 ①匿名性(安全性)と、➁参加意識・意見表明と、③無責任と、④虚構であることで、➄自己満足が満たされている、ということか。>

そういうことだ。
インターネット、これは良いのか、悪いのか。
悪くはないし、さまざまな可能性を秘めてはいるけれど、気をつけなくちゃ・・・と自戒。

ネットの世界は、まさに玉石混交だなぁ。


― 『自分様と馬の骨』 カバー裏の紹介文 ―
同業他社との成績の比較。 友人間であっても年収の比較
学歴の比較。 性経験の数の比較。 身体容貌の比較
まさに比較のタネは尽きない。
「私」という自分様がとるに足りない、つまらないやつ(=馬の骨)だと思うことに耐えられない!
本書は、ビジネス書や自己啓発書や人生啓蒙書のもっと底にある問題を論じる!

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2007年11月27日 (火)

【読】懲りずに・・・

また、こんな本を買ってしまった。

Seko_jibunsama勢古浩爾 『自分様と馬の骨』
 三五館  2002.11.1 初版

『わたしを認めよ!』 (洋泉社新書y 2000年) の続編。
新刊書店で見あたらなかったので、ネット注文。
届くまで、しばらくかかった。
初版から増刷された様子がない。
あまり売れていないのだろうか。


Seko_mitomeyo





 



『自分様と馬の骨』 の冒頭を、すこしだけ読んでみた。
夏目漱石のロンドン留学当時の話がおもしろい。
「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」 (漱石 『文学論』)。
ほぼ同じ時期に、南方熊楠もロンドンにいたはず。
熊楠が自由奔放に(金はなかったものの)ロンドンで学問にはげんでいたことと比べて、興味ぶかい。

勢古さんのこの本は、お得意の 「承認論」。
前著 『わたしを認めよ!』 と比べてどうなんだろう。
ご本人は、 「(前著の続編だが)単独だけでも十分読める叙述と構成になっている」 と言っている(まえがき)。
気が向いたら読んでみよう。

読みたい本がたくさんあるわりには、読書にさける時間がすくなくて、つらい。
すこし前に、こんな本も買ったのだが。

Sase_minoru佐瀬 稔 『狼は帰らず アルピニスト・森田勝の生と死』
 中公文庫  1998.11.18 初版 / 2004.6.30 2刷

私の愛読書、夢枕獏さんの 『神々の雪嶺』 の主人公、羽生丈二(架空の人物)の実在モデルがこの森田勝というクライマーだという――獏さんが文庫のあとがきで書いていた。

ご興味のある方は、私の別サイトをごらんいただきたい。
夢枕獏 神々の雪嶺 (晴れときどき曇りのち温泉・この一冊)
http://yamaoji.hp.infoseek.co.jp/b_baku_kamigami.html

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2007年11月20日 (火)

【読】勢古さんの近刊(続)

読みやすい新書なので、読みおえてしまった。

Seko_musukoe勢古浩爾 『会社員の父から息子へ』  ちくま新書

著者が他の本でさんざん言っている持論を、スタイルを変えて書いているだけともいえるが、それなりに納得できて、後味のいい本だった。
終章で、勢古さんのご両親のことがしんみりと語られていて、ちょっと感動した。
とくに、お母さんの思いでは私にとっても身に沁みた。
私の母は、さいわいなことに(病気がちではあるが)健在なのだが。

<本書を書いている最中、何度となく父と母のことを思い出した。 その最期から葬儀が終わるまで、いや終わってからも、一滴の涙さえ流すことができなかったくせに、生前の父母のさまざまな姿を思い出すと、不覚にも胸がつまるのであった。 人混みのなかにポツンと立つ小さな母、深夜ひとりでテレビを見ている老父。 わたしがこの世に生まれてきたことにはなんの意味もないが、あの父と母の子として生まれてきたことにはたしかに意味があったのだ、という気がする。>
 ― 第7章 いつから訣れる ―

勢古節(私の命名)は、あいかわらず健在。
ときどき、とてもいいことを言う人である。

<いま、生き方が必要もなくむつかしくなっているような気がする。 いたずらに、不安が煽られる。 自由に拘束されて 「自分探し」 に迷走する。 「夢」 に足を掬われる。 むやみやたらと長寿になって、老後の生活が成り立たない。 勝ち組にあらざれば人にあらず、という風潮がある。 「がんばれ」 というと、そんなこというな、という。 権利ばかりが主張される。 男とは、女とは、というと、そんなこというな、という。 そのくせ、いい男がいない、という。 まあ、たしかにいない。 しかしそんなことをいえば、いい女だっていない。
もっとシンプルでいいのだと思う。 いい働く場所(会社だけを意味しない)が見つかれば、そこで一生懸命、公明正大に働くこと。 この場所だけはなんとしてでも確保しなければならない。 だれに対しても誠実に接すること。 好きなひとができたなら、そのひとを大事にすること。 (中略) ようするに、ふつうに、まっとうに生きること。>
 ― 第5章 世の中を生きるということ ―

次のエピソードもよかった。
著者が偶然、テレビで見た印象的な場面(著者はテレビが好きだという)。
ハンガリーの小さな町で暮らす、「寡黙で物腰の柔らかい初老の靴職人」 が言う。
「わたしは幸福だ」 と。 「一生できる仕事があるから」 と。

<ああ、羨ましいな、と思った。 そして、そうなのだ、と一人ごちた。 これが 「幸せ」 であり、これも 「幸せ」 なのだ、と。 / かれの年恰好からいって、幼少期にには第二次大戦の戦火に遭遇したはずである。 戦後も国家は東西冷戦に翻弄され、国民は長期にわたるソ連の支配下にあって暮らし向きはけっして楽ではなかったはずである。 だが今、やっとここに安全で静謐な生活がある。 細々としてはいてもたしかな仕事もある。 それが 「幸福」 なのだ、と。 / とはいえ、わたしたちの目から見るなら、かれの生活はそれほど豊かでも便利でもなさそうに見える。 グルメがない。 食べ放題がない。 海外旅行も、42型の液晶テレビも、自家用車もなさそうだ。 (後略)>

<しかし、かれには 「幸福」 がある。 少なくとも 「幸福の原型」 がある。 こちら側にはなんでもあるが、その 「幸福」 だけがない。 あらゆる便利ならある。 あらゆる物ならある。 けれど 「幸福」 がないように見える。 (後略)>
 ― 第6章 男に「幸せ」などない ―


このハンガリーの靴職人にくらべたら、私たちには誇るべきものが何もないように思う。
もちろん、「こちら側」 にもこういう人はいるはずだが、すくなくとも私は、この話を読んで自分を恥じた。
「幸福の原型」、いい言葉だな。

いまとつぜん思いだしたのだが、こんなCMソングがあったっけ。
♪ しあわせって なんだっけ なんだっけ ・・・

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2007年11月19日 (月)

【読】勢古さんの近刊

賢治全集を読みかけのまま(電車の中ではあまり集中できないから)、こんな本を読みはじめた。

Seko_musukoe勢古浩爾 『会社員の父から息子へ』
 ちくま新書 686  2007.10.10

勢古さんの本は、どれもおもしろい。
嫌いな人は、どの本も同じようなことが書いてあると言うだろうが、私にはこの 「勢古節」 がいいのだ。
34年間勤めた洋書輸入会社を、定年を間近にして退職したらしい。

私が好きな 「勢古節」 とは、たとえばこういうところだ。

<世界史は殺戮と強奪、悲嘆と慟哭の歴史である。 同時に、人間精神の輝かしき発露と高揚の歴史でもある。 人類は偉大な業績を残してきた。 史跡があり、歴史的建造物がある。 世界史的な芸術作品がある。 哲学や思想がある。 (中略) 現在でも、自分の創造的な仕事に命をかける人々がいる。 人類史的な大きな仕事をする人もいる。
けれど、比べることもないのだが、それらすべてはたったひとつの愛情の前には色褪せる。 それらの世界遺産は人類や人間社会においては重要かもしれないが、この世を百年足らずでおさらばする、砂粒のような一個の人間にとっては、ほんとうには必要がない。 (後略)>
 ― 第3章 愛した人は愛した人 ―

もちろん、これは、著者じしんが 「わたしは愛情の大切さをいうために、極端なことをいっている」 と認めているように、極論である。
だが、至極 「まっとうな」 ことを言っていると思うのだ。

タイトルからわかるように、二人の息子さんに向けて語るスタイルで始まっている。
私なりに翻訳して言えば、「フツーに生きる人がいちばんエライのだ」 と言い続けているのが、この人だ (と、思う)。
この 「フツー」 には、いろいろな意味がこめられている。
それが何かということは、勢古さんの本を読んでもらうしかないのだが。

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2007年6月22日 (金)

【読】おやじ、かぁ・・・

勢古浩爾さんの本を、ひさびさに読んでいる。
Seko_oyajiron_1勢古浩爾 『おやじ論』
 PHP新書 242 2003.3.28発行
身につまされる。
たまたま今日は50台後半に突入した誕生日。
この歳になると、誕生日もくそもないが(じぶんで忘れていた年もあった)、年に一度の節目ではある。
<どこまで続くぬかるみぞ。 しかり。 ぬかるみ、である。 もう、子どものときからぬかるんでいたぞ。 このぬかるみのなかを五十数年間歩いてきた。 途中には、平坦で快適な道もなかったわけではない。 けれど歳をとるにつれて、やたらぬかるみ度が増してきたような気がする。 そこから、まだまだ一歩一歩足を抜いていかなければならないのである。 まさか、その中に立ち尽くしたままでいるわけにもいかないではないか。> (『おやじ論』 あとがき)

もう一冊、三分の二ほど読んで中断しているが、こちらも面白い。
Tsurumi_chikuma鶴見良行
 『大地と海と人間 東南アジアをつくった人びと』
 ちくま少年図書館 100 筑摩書房 1986.3.30発行
鶴見良行さんは、鶴見和子・俊輔姉妹のいとこだった、ということを知った。
1926年ロスアンジェルス生まれ、1994年没。
少年少女向けシリーズの一冊として書かれたものだが、学ぶことが多い本だ。
<植民地主義の時代が400年もつづき、その力が圧倒的になるので、アジア、アフリカ、南北アメリカの原住民は、ヨーロッパ勢にたちまち負けてしまったような印象を受けます。/しかしこうした世界史の書き方は、いかにもヨーロッパ中心です。 よく見ると、ヨーロッパはそれほど強力ではなかった。 植民地主義が東南アジアをいちおう傘下におさめたのは、ようやく19世紀なかばからです。 そんな時代になってからも、支配者の力は植民地のすみずみにまでは行きわたらず、住民が昔ながらの暮らしをつづけている土地が広くあったのです。> (『大地と海と人間』 P.54)

東南アジアの歴史上の人物、10人が紹介されている。
そのほとんどは、私には名前を聞いたこともない人たちではあるが。

ガジャ・マダ(インドネシアをはじめて統一したマジャパイト王国の宰相)
イマム・ボンジョール(19世紀、スマトラで起きたイスラムの反乱指導者)
スカルノ(この人物だけは、さすがに知っている)
ラッフルズ(オランダに対抗してシンガポール島を獲得したイギリス人)
ヤップ・アロイ(マレーシアのセランゴール戦争に勝利した華人のスズ鉱山開拓者)
マット・キラウ(イギリスに対する反植民地闘争の首謀者、マレーシアの英雄)
タダラート王(スペインに抵抗し、ミンダナオにイスラム国家を建てた王)
リサール、ボニフォシア(フィリピン独立革命運動の指導者)
レクト(フィリピンの政治家)

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2007年5月11日 (金)

【読】元気のでる本

ひさしぶりに、勢古浩爾さんの新書を読んでいる。
PHP新書から出ている3冊をまだ読んでいなかったが、その中の一冊。
Seko_jibun_1勢古浩爾 『「自分の力」を信じる思想』
 PHP新書 2001.9.28発行
これまで読んだ何冊かの同系統の著作と、内容がかぶっているようにも思うが、説得力があるのだ。
カバー裏のキャッチコピーから転載。
<「勝ち組」に入ることだけを目指す生き方。競争ゲームから降りて、「自分らしい楽で自由な人生」を目指す生き方。いま私たちにこれ以外の「ふつう」の生き方は残っていないのか?
生きる上で最強かつ最後に必要なのは、知力・体力・経済力でもなく「自分の力」。・・・勝敗の思想を解体せよ。自分で「考え」「まじめ」に努力する者だけにその力は与えられ、人生をまっとうすることができるのだ。・・・>

200ページの新書を、今日、三分の二ほど読んだところ。
内容を紹介するだけの元気が今はないが、このところ疲れ気味、ちょっと自信をなくしたりしていたので、ひさびさに読んだ「勢古節」に勇気づけられたのだった。

ひとつだけ、とてもいいエピソードが書かれていたので、紹介したい。
1998年夏、和歌山市でおきた「毒入りカレー事件」。
当時、中学3年生(15歳)だった三好万季さんという女の子は、その事件の一報が「食中毒」とあったことに疑問を感じたという。彼女はもともと、テレビの救急医療番組に感動して医者を目指す少女だった。
新聞記事を何度も読んだ後、自分の感じた疑問を解くために、さまざまなネット記事、データベースを検索、さらに中毒に関する専門書を買って徹底的に調べ、新聞報道(事件当初)の内容を自力で検証した。
その結果、事件担当の医療関係者たちは、もっと早い段階で「砒素」中毒ということに気づくことができたはずだ、と結論づけたのだ――というエピソードだ。

<三好万季さんは最後にこのように書いている。 「私は、今回の毒入りカレー事件は、犯人の犯罪意図もさることながら、社会的医療体制の種々の不備や欠陥の中で、人の命にかかわる各分野の専門家たちの複合過失によって拡大された社会的医療事故、すなわち『業務上過失致死傷』ではないかとの疑問を呈せざるをえない」(以上、『四人はなぜ死んだのか』文春文庫版による)>
 (第4章 「二階」に上がることは必要か――「感応する力」)

勢古さんの持論―― 「一階」(普通の人たちの生活、ふだんの生活、世間)、「二階」(観念的な世界、ふだんの生活と離れたところの世界、例えば学者連中)という譬えを使い、「一階」でまじめに生活することが大事なんだ ―― という文脈の中で、このエピソードを紹介し、さらにこう続けている。

<こういう子がいるんだなあ、と驚いた。 調査の経過と結論もさることながら、その二階への上がり方の軽さと徹底ぶりが、である。 ひとつのニュースに感応して、それを「自分の力」にまで高めたことが、である。 (略) 本来の二階の特権的住人たちが、一階から上がってきた少女に、偉そうに二階に住んでいるがそこであなたたちはなにをしているのか、と言われたのである。 彼女は一階と二階の旧態依然としたありかたをあっさりと乗り越えたのだ。>

『四人はなぜ死んだのか』 三好万季 著
 文春文庫 2001.6.10発行
 三好 万季 (みよし・まき) 1983年生まれ。都立戸山高校1年在学中。中学3年だった98年夏、和歌山市園部で起きた「毒入りカレー事件」を夏休みの宿題に取り上げ、それまでの報道の盲点を突くレポートで反響を呼ぶ。

http://www.bunshun.co.jp/book_db/7/65/60/9784167656089.shtml
Miyoshi_maki

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