カテゴリー「勢古浩爾」の22件の記事

2008年1月29日 (火)

【読】『日本人の遺書』 勢古浩爾

勢古浩爾さんの最新刊を読んだ。
やや分厚い新書。本文300ページほど。
ずっしりと重い内容だ。
古今の遺書、遺言、辞世を網羅した内容なので、「面白い」というと語弊があるかもしれないが……人間の生き方について考えさせられる、なかなかいい本だった。

Seko_isho勢古浩爾 『日本人の遺書』
 洋泉社 新書y 186 2008.1.23

人間とはなんと悲しいものか。
<ゆえに、その死だけが悲しいのではない。 かれらだけが悲しいのでもない。 なんというべきか言葉を失いながら、結局、こんな凡庸な言い方に行きつくしかない。 なんと人間が生きることは悲しいことか、と。 人間全体の哀れさも愚かさをも呑み込んだ悲しさだ。>
(『日本人の遺書』 まえがき)

全12章の目次は、このようなものだ。
たくさんの人名があげられているが、その一部を転記しておこう。
丸括弧内は、勢古さんの原文にあるとおり。
あまりにも膨大な数なので、人名の一部を省略した。

第1章 煩悶
 藤村操(高校生)/村山槐多(画家・詩人)/原口統三(大学生)/原民喜(作家)
第2章 青春
 岩倉靖子(岩倉具視の曾孫)/岸上大作(大学生・歌人)/奥浩平(大学生)/山田修治(大学生)/高野悦子(大学生)
第3章 辞世
 在原業平/西行/太田道灌/細川ガラシャ/浅野長矩/乞食/良寛/被差別部落民
第4章 戦争
 佐久間勉(潜水艇艇長)/宇佐美輝夫(特攻隊員)他/阿南惟幾(陸軍大臣)他/近衛文麿/東條英樹
第5章 敗北
 山下奉文(南方方面軍司令官)/栗林忠道(硫黄島守備隊総司令官)/太田實(沖縄根拠地隊司令官)他
第6章 反俗
 乃木希典/森鷗外/永井荷風/白洲次郎/天本英世(俳優)
第7章 思想
 吉田松陰/北一輝(思想家)/三島由紀夫/森恒夫(連合赤軍委員長)他
第8章 疲労
 正岡子規/金子みすヾ(童謡詩人)/芥川龍之介/関谷敏子(声楽家)/火野葦平/太宰治/円谷幸吉(自衛官・マラソン選手)/江藤淳
第9章 憤怒
 箕浦猪之吉(土佐藩士)/磯部浅一(元陸軍主計大尉。二・二六事件首謀者)/野中将玄(ブリヂストン社員)
第10章 絶望
 鹿川裕史(中学二年生)/大河内清輝(中学二年生)/伊藤大介(機関士)/秋元秀太(大学生)/松濤明(登山家)/沢田義一(大学生・登山家)
第11章 悔悟
 島秋人(死刑囚)/森山太助(死刑囚)/二宮邦彦(死刑囚)
第12章 愛情
 有島武郎/尾崎秀実(新聞記者・ゾルゲ事件)/新井将敬(政治家)/太田八重子(ヌード・モデル)/岡田有希子(歌手)/河口博次(御巣鷹山遭難者)/谷口正勝(御巣鷹山遭難者)/大橋恭彦(沢村貞子の夫)

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2007年11月30日 (金)

【読】雀を生きかえらせなさい

勢古浩爾さんの 『自分様と馬の骨』 からの孫引き。
勢古さんは、この言葉に感銘を受けたようだが、私も同様。

 子供の頃、初めて買った銃で雀を撃ち殺した。 その時、母に、
 「雀を生きかえらせなさい」
 と、叱られた。

  (『マイ・フィールド・オブ・ドリームズ』 井口優子訳・構成、講談社)

以下、勢古さんの 『自分様と馬の骨』 第4章 「終着駅は犯罪だった」 より。

<すごい言葉を読んだ。 近年これほどびっくりした言葉はない。 『シューレス・ジョー』 の著作 (映画 『フィールド・オブ・ドリームズ』 の原作) で知られる W・P・キンセラが書いている文章のひと言だ。>

<完全に虚をつかれてしまった。 このような叱り方がアメリカにはあったのか。 「雀を生きかえらせなさい」だと。 ショックである。 アメリカ人がすごいのか、それともこの母上がすごいのか。 アメリカ人全部がすごいわけではまったくないが、アメリカ人ということはたしかに一要因ではあろう。 (後略)>

勢古さんは、承認論の文脈のなかで、近年日本の凶悪犯罪について書いている。
2001年6月、大阪府池田市の大阪教育大付属池田小学校に乱入、児童8人を刺殺した宅間守。
1999年9月、池袋で2人を刺殺し7人に負傷を負わせた通り魔事件の、造田博。
彼らがどのように生き、どのようにして凶悪な犯罪を犯すに到ったのか。

気の滅入るような犯罪の話のあとで、上の言葉が紹介されている。
「雀を生きかえらせなさい」 ―― この、短い言葉は私にとっても衝撃だった。
人間は、このようにも生きられる。
こういう人もいるのだ、と思えることが救いだ。


勢古さんが何を言いたいのか理解できたつもりだが、私の力ではとても要約できないので、以下、再び引用。

<日本人ならどういうか。 母親なら、せいぜい 「だめでしょ、スズメさんが可哀相でしょ」 くらいのところか。 (中略) 水俣事件のとき、補償なんかいらないから、会社の社長以下幹部たちに水銀を飲んでもらって水俣病と同じ症状になってもらう、それでいい、と被害者の代表が叫んだ(ことを、私は正確ではないかもしれないが記憶している)。 だからこのような言い方が日本にもないわけではない。
 だが、右のような場合と、キンセラの母の言ったことは似て非なることである。 被害者と加害者の対立という憎悪の場面ではなく、親と子の間のことだ。 子どもを承認することと、事の善悪のちがいのことである。 世の中には取り返しのつかないことがある。 どのようにしても、絶対に責任のとりようのないことがある。 死んでお詫びしても、お詫びしきれないことがある。 それを取り返してみよ、責任をとってみよ、とキンセラの母は言ったのである。 しかも自分の子どもに、である。 これほど根源的な言葉はない。>

<キンセラの母の言葉はいったいどこから出てくるのか。 子どもからの承認を一切必要としない場所から出てきていると思われる。 すなわち、「自分」よりも「自己」を上におくことの正しさの場所から来ていると思われる。>  (太字は原文のまま)

引用が長くなったが(いつものことだが)、感銘を受けたので紹介した。

Seko_jibunsama_2勢古浩爾さんが言う 「自分」 と 「自己」 ――
 『自分様と馬の骨』 第3章 「自分様と馬の骨」 より要約 (私の理解)

私たち一人ひとりの人間は、この世界のなかでどのように存在しているのか。
ひとつは 「自己」 という言葉で表わせる存在のしかた。
世界の65億人の中の一つとしての 「塵のような存在」。
その特徴は、無名性(匿名性)と等価性である。
「馬の骨」 というあけすけな言葉に抵抗を感じる人がいるかもしれないが(私もそうだ)、つきつめて考えれば、見ず知らずの他人(世界中の)は、この自分にとってどこかの 「馬の骨」 である。

もうひとつの存在のしかたが 「自分」
世界でひとりしか存在しない、何の何某という名前をもった 「自分」。
その特徴は、唯一性と優越性である。
(「俺が、俺が」、「自分様」、「俺様」 に行きつく)

ひとりの人間は、この無名性と唯一性、等価性と優越性、つまり 「自己」 と 「自分」 の二重性 (単純に社会性と個人性といってもいい) として存在している。 しかも、その矛盾体として、である。 ―― というのが、勢古さんの持論である。

「自分らしく生きたい」 だの、「自分さがし」 だのといった今の流行り言葉を、勢古さんは厳しく批判する。
私も同意。


【参考】
W・P・キンセラ 著 / 井口優子 訳
 『マイ・フィールド・オブ・ドリームス―イチローとアメリカの物語』
 Amazon http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062111500
W・P・キンセラ 著 / 永井淳 訳
 『シューレス・ジョー』  (文春文庫)
 Amazon http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167218038

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2007年11月29日 (木)

【読】ネットの世界

じぶんも片足をつっこんでいるから、批判がましいことは言えないけれど・・・。
今読んでいる(結局、読みはじめてしまった)、勢古浩爾さんの本に面白いことが書いてあった。
全面的に同意できないけれど、三分の二ぐらいは同意できるな。

Seko_jibunsama勢古浩爾 『自分様と馬の骨』 三五館

<インターネットの普及により、ネット掲示板(2チャンネルなど、ピンからキリまで)で、自分の言葉を公的世界に流すことが可能となった。 ネット掲示板あるいは「チャット」(なにが「チャット」だ。 どうしてこの手の用語は気に食わないものばかりか) では、「ハンドルネーム」という匿名の自分の名前が使われるのだが、そこは、ああでもないこうでもないだの、ああでもあるこうでもあるだの、(笑)だの(爆)だの(泣)だのといった自己満足的記号が延々とつづく電脳井戸端会議である。 ひそかな自己証明と自己承認が果たされているのか。>

きついけれど、的を得ているかもしれない。

<これはどういう意味をもったコミュニケーションか。 ①匿名性(安全性)と、➁参加意識・意見表明と、③無責任と、④虚構であることで、➄自己満足が満たされている、ということか。>

そういうことだ。
インターネット、これは良いのか、悪いのか。
悪くはないし、さまざまな可能性を秘めてはいるけれど、気をつけなくちゃ・・・と自戒。

ネットの世界は、まさに玉石混交だなぁ。


― 『自分様と馬の骨』 カバー裏の紹介文 ―
同業他社との成績の比較。 友人間であっても年収の比較
学歴の比較。 性経験の数の比較。 身体容貌の比較
まさに比較のタネは尽きない。
「私」という自分様がとるに足りない、つまらないやつ(=馬の骨)だと思うことに耐えられない!
本書は、ビジネス書や自己啓発書や人生啓蒙書のもっと底にある問題を論じる!

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2007年11月27日 (火)

【読】懲りずに・・・

また、こんな本を買ってしまった。

Seko_jibunsama勢古浩爾 『自分様と馬の骨』
 三五館  2002.11.1 初版

『わたしを認めよ!』 (洋泉社新書y 2000年) の続編。
新刊書店で見あたらなかったので、ネット注文。
届くまで、しばらくかかった。
初版から増刷された様子がない。
あまり売れていないのだろうか。


Seko_mitomeyo





 



『自分様と馬の骨』 の冒頭を、すこしだけ読んでみた。
夏目漱石のロンドン留学当時の話がおもしろい。
「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」 (漱石 『文学論』)。
ほぼ同じ時期に、南方熊楠もロンドンにいたはず。
熊楠が自由奔放に(金はなかったものの)ロンドンで学問にはげんでいたことと比べて、興味ぶかい。

勢古さんのこの本は、お得意の 「承認論」。
前著 『わたしを認めよ!』 と比べてどうなんだろう。
ご本人は、 「(前著の続編だが)単独だけでも十分読める叙述と構成になっている」 と言っている(まえがき)。
気が向いたら読んでみよう。

読みたい本がたくさんあるわりには、読書にさける時間がすくなくて、つらい。
すこし前に、こんな本も買ったのだが。

Sase_minoru佐瀬 稔 『狼は帰らず アルピニスト・森田勝の生と死』
 中公文庫  1998.11.18 初版 / 2004.6.30 2刷

私の愛読書、夢枕獏さんの 『神々の雪嶺』 の主人公、羽生丈二(架空の人物)の実在モデルがこの森田勝というクライマーだという――獏さんが文庫のあとがきで書いていた。

ご興味のある方は、私の別サイトをごらんいただきたい。
夢枕獏 神々の雪嶺 (晴れときどき曇りのち温泉・この一冊)
http://yamaoji.hp.infoseek.co.jp/b_baku_kamigami.html

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2007年11月20日 (火)

【読】勢古さんの近刊(続)

読みやすい新書なので、読みおえてしまった。

Seko_musukoe勢古浩爾 『会社員の父から息子へ』  ちくま新書

著者が他の本でさんざん言っている持論を、スタイルを変えて書いているだけともいえるが、それなりに納得できて、後味のいい本だった。
終章で、勢古さんのご両親のことがしんみりと語られていて、ちょっと感動した。
とくに、お母さんの思いでは私にとっても身に沁みた。
私の母は、さいわいなことに(病気がちではあるが)健在なのだが。

<本書を書いている最中、何度となく父と母のことを思い出した。 その最期から葬儀が終わるまで、いや終わってからも、一滴の涙さえ流すことができなかったくせに、生前の父母のさまざまな姿を思い出すと、不覚にも胸がつまるのであった。 人混みのなかにポツンと立つ小さな母、深夜ひとりでテレビを見ている老父。 わたしがこの世に生まれてきたことにはなんの意味もないが、あの父と母の子として生まれてきたことにはたしかに意味があったのだ、という気がする。>
 ― 第7章 いつから訣れる ―

勢古節(私の命名)は、あいかわらず健在。
ときどき、とてもいいことを言う人である。

<いま、生き方が必要もなくむつかしくなっているような気がする。 いたずらに、不安が煽られる。 自由に拘束されて 「自分探し」 に迷走する。 「夢」 に足を掬われる。 むやみやたらと長寿になって、老後の生活が成り立たない。 勝ち組にあらざれば人にあらず、という風潮がある。 「がんばれ」 というと、そんなこというな、という。 権利ばかりが主張される。 男とは、女とは、というと、そんなこというな、という。 そのくせ、いい男がいない、という。 まあ、たしかにいない。 しかしそんなことをいえば、いい女だっていない。
もっとシンプルでいいのだと思う。 いい働く場所(会社だけを意味しない)が見つかれば、そこで一生懸命、公明正大に働くこと。 この場所だけはなんとしてでも確保しなければならない。 だれに対しても誠実に接すること。 好きなひとができたなら、そのひとを大事にすること。 (中略) ようするに、ふつうに、まっとうに生きること。>
 ― 第5章 世の中を生きるということ ―

次のエピソードもよかった。
著者が偶然、テレビで見た印象的な場面(著者はテレビが好きだという)。
ハンガリーの小さな町で暮らす、「寡黙で物腰の柔らかい初老の靴職人」 が言う。
「わたしは幸福だ」 と。 「一生できる仕事があるから」 と。

<ああ、羨ましいな、と思った。 そして、そうなのだ、と一人ごちた。 これが 「幸せ」 であり、これも 「幸せ」 なのだ、と。 / かれの年恰好からいって、幼少期にには第二次大戦の戦火に遭遇したはずである。 戦後も国家は東西冷戦に翻弄され、国民は長期にわたるソ連の支配下にあって暮らし向きはけっして楽ではなかったはずである。 だが今、やっとここに安全で静謐な生活がある。 細々としてはいてもたしかな仕事もある。 それが 「幸福」 なのだ、と。 / とはいえ、わたしたちの目から見るなら、かれの生活はそれほど豊かでも便利でもなさそうに見える。 グルメがない。 食べ放題がない。 海外旅行も、42型の液晶テレビも、自家用車もなさそうだ。 (後略)>

<しかし、かれには 「幸福」 がある。 少なくとも 「幸福の原型」 がある。 こちら側にはなんでもあるが、その 「幸福」 だけがない。 あらゆる便利ならある。 あらゆる物ならある。 けれど 「幸福」 がないように見える。 (後略)>
 ― 第6章 男に「幸せ」などない ―


このハンガリーの靴職人にくらべたら、私たちには誇るべきものが何もないように思う。
もちろん、「こちら側」 にもこういう人はいるはずだが、すくなくとも私は、この話を読んで自分を恥じた。
「幸福の原型」、いい言葉だな。

いまとつぜん思いだしたのだが、こんなCMソングがあったっけ。
♪ しあわせって なんだっけ なんだっけ ・・・

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2007年11月19日 (月)

【読】勢古さんの近刊

賢治全集を読みかけのまま(電車の中ではあまり集中できないから)、こんな本を読みはじめた。

Seko_musukoe勢古浩爾 『会社員の父から息子へ』
 ちくま新書 686  2007.10.10

勢古さんの本は、どれもおもしろい。
嫌いな人は、どの本も同じようなことが書いてあると言うだろうが、私にはこの 「勢古節」 がいいのだ。
34年間勤めた洋書輸入会社を、定年を間近にして退職したらしい。

私が好きな 「勢古節」 とは、たとえばこういうところだ。

<世界史は殺戮と強奪、悲嘆と慟哭の歴史である。 同時に、人間精神の輝かしき発露と高揚の歴史でもある。 人類は偉大な業績を残してきた。 史跡があり、歴史的建造物がある。 世界史的な芸術作品がある。 哲学や思想がある。 (中略) 現在でも、自分の創造的な仕事に命をかける人々がいる。 人類史的な大きな仕事をする人もいる。
けれど、比べることもないのだが、それらすべてはたったひとつの愛情の前には色褪せる。 それらの世界遺産は人類や人間社会においては重要かもしれないが、この世を百年足らずでおさらばする、砂粒のような一個の人間にとっては、ほんとうには必要がない。 (後略)>
 ― 第3章 愛した人は愛した人 ―

もちろん、これは、著者じしんが 「わたしは愛情の大切さをいうために、極端なことをいっている」 と認めているように、極論である。
だが、至極 「まっとうな」 ことを言っていると思うのだ。

タイトルからわかるように、二人の息子さんに向けて語るスタイルで始まっている。
私なりに翻訳して言えば、「フツーに生きる人がいちばんエライのだ」 と言い続けているのが、この人だ (と、思う)。
この 「フツー」 には、いろいろな意味がこめられている。
それが何かということは、勢古さんの本を読んでもらうしかないのだが。

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2007年6月22日 (金)

【読】おやじ、かぁ・・・

勢古浩爾さんの本を、ひさびさに読んでいる。
Seko_oyajiron_1勢古浩爾 『おやじ論』
 PHP新書 242 2003.3.28発行
身につまされる。
たまたま今日は50台後半に突入した誕生日。
この歳になると、誕生日もくそもないが(じぶんで忘れていた年もあった)、年に一度の節目ではある。
<どこまで続くぬかるみぞ。 しかり。 ぬかるみ、である。 もう、子どものときからぬかるんでいたぞ。 このぬかるみのなかを五十数年間歩いてきた。 途中には、平坦で快適な道もなかったわけではない。 けれど歳をとるにつれて、やたらぬかるみ度が増してきたような気がする。 そこから、まだまだ一歩一歩足を抜いていかなければならないのである。 まさか、その中に立ち尽くしたままでいるわけにもいかないではないか。> (『おやじ論』 あとがき)

もう一冊、三分の二ほど読んで中断しているが、こちらも面白い。
Tsurumi_chikuma鶴見良行
 『大地と海と人間 東南アジアをつくった人びと』
 ちくま少年図書館 100 筑摩書房 1986.3.30発行
鶴見良行さんは、鶴見和子・俊輔姉妹のいとこだった、ということを知った。
1926年ロスアンジェルス生まれ、1994年没。
少年少女向けシリーズの一冊として書かれたものだが、学ぶことが多い本だ。
<植民地主義の時代が400年もつづき、その力が圧倒的になるので、アジア、アフリカ、南北アメリカの原住民は、ヨーロッパ勢にたちまち負けてしまったような印象を受けます。/しかしこうした世界史の書き方は、いかにもヨーロッパ中心です。 よく見ると、ヨーロッパはそれほど強力ではなかった。 植民地主義が東南アジアをいちおう傘下におさめたのは、ようやく19世紀なかばからです。 そんな時代になってからも、支配者の力は植民地のすみずみにまでは行きわたらず、住民が昔ながらの暮らしをつづけている土地が広くあったのです。> (『大地と海と人間』 P.54)

東南アジアの歴史上の人物、10人が紹介されている。
そのほとんどは、私には名前を聞いたこともない人たちではあるが。

ガジャ・マダ(インドネシアをはじめて統一したマジャパイト王国の宰相)
イマム・ボンジョール(19世紀、スマトラで起きたイスラムの反乱指導者)
スカルノ(この人物だけは、さすがに知っている)
ラッフルズ(オランダに対抗してシンガポール島を獲得したイギリス人)
ヤップ・アロイ(マレーシアのセランゴール戦争に勝利した華人のスズ鉱山開拓者)
マット・キラウ(イギリスに対する反植民地闘争の首謀者、マレーシアの英雄)
タダラート王(スペインに抵抗し、ミンダナオにイスラム国家を建てた王)
リサール、ボニフォシア(フィリピン独立革命運動の指導者)
レクト(フィリピンの政治家)

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2007年5月11日 (金)

【読】元気のでる本

ひさしぶりに、勢古浩爾さんの新書を読んでいる。
PHP新書から出ている3冊をまだ読んでいなかったが、その中の一冊。
Seko_jibun_1勢古浩爾 『「自分の力」を信じる思想』
 PHP新書 2001.9.28発行
これまで読んだ何冊かの同系統の著作と、内容がかぶっているようにも思うが、説得力があるのだ。
カバー裏のキャッチコピーから転載。
<「勝ち組」に入ることだけを目指す生き方。競争ゲームから降りて、「自分らしい楽で自由な人生」を目指す生き方。いま私たちにこれ以外の「ふつう」の生き方は残っていないのか?
生きる上で最強かつ最後に必要なのは、知力・体力・経済力でもなく「自分の力」。・・・勝敗の思想を解体せよ。自分で「考え」「まじめ」に努力する者だけにその力は与えられ、人生をまっとうすることができるのだ。・・・>

200ページの新書を、今日、三分の二ほど読んだところ。
内容を紹介するだけの元気が今はないが、このところ疲れ気味、ちょっと自信をなくしたりしていたので、ひさびさに読んだ「勢古節」に勇気づけられたのだった。

ひとつだけ、とてもいいエピソードが書かれていたので、紹介したい。
1998年夏、和歌山市でおきた「毒入りカレー事件」。
当時、中学3年生(15歳)だった三好万季さんという女の子は、その事件の一報が「食中毒」とあったことに疑問を感じたという。彼女はもともと、テレビの救急医療番組に感動して医者を目指す少女だった。
新聞記事を何度も読んだ後、自分の感じた疑問を解くために、さまざまなネット記事、データベースを検索、さらに中毒に関する専門書を買って徹底的に調べ、新聞報道(事件当初)の内容を自力で検証した。
その結果、事件担当の医療関係者たちは、もっと早い段階で「砒素」中毒ということに気づくことができたはずだ、と結論づけたのだ――というエピソードだ。

<三好万季さんは最後にこのように書いている。 「私は、今回の毒入りカレー事件は、犯人の犯罪意図もさることながら、社会的医療体制の種々の不備や欠陥の中で、人の命にかかわる各分野の専門家たちの複合過失によって拡大された社会的医療事故、すなわち『業務上過失致死傷』ではないかとの疑問を呈せざるをえない」(以上、『四人はなぜ死んだのか』文春文庫版による)>
 (第4章 「二階」に上がることは必要か――「感応する力」)

勢古さんの持論―― 「一階」(普通の人たちの生活、ふだんの生活、世間)、「二階」(観念的な世界、ふだんの生活と離れたところの世界、例えば学者連中)という譬えを使い、「一階」でまじめに生活することが大事なんだ ―― という文脈の中で、このエピソードを紹介し、さらにこう続けている。

<こういう子がいるんだなあ、と驚いた。 調査の経過と結論もさることながら、その二階への上がり方の軽さと徹底ぶりが、である。 ひとつのニュースに感応して、それを「自分の力」にまで高めたことが、である。 (略) 本来の二階の特権的住人たちが、一階から上がってきた少女に、偉そうに二階に住んでいるがそこであなたたちはなにをしているのか、と言われたのである。 彼女は一階と二階の旧態依然としたありかたをあっさりと乗り越えたのだ。>

『四人はなぜ死んだのか』 三好万季 著
 文春文庫 2001.6.10発行
 三好 万季 (みよし・まき) 1983年生まれ。都立戸山高校1年在学中。中学3年だった98年夏、和歌山市園部で起きた「毒入りカレー事件」を夏休みの宿題に取り上げ、それまでの報道の盲点を突くレポートで反響を呼ぶ。

http://www.bunshun.co.jp/book_db/7/65/60/9784167656089.shtml
Miyoshi_maki

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2007年3月17日 (土)

【読】石光真清の手記

石光真清(いしみつ・まきよ)という人がいた。
子息の石光真人(いしみつ・まひと)が次のように書いている。 こういう人だ。
<私の父は明治元年に熊本城下に生れ、稚児髷に朱鞘の刀をさして神風連、西南の役動乱のさなかをとび廻った。長ずるに及び軍人となり、やがて大津事件や日清戦争にあい、またロシア帝国の南下政策におびやかされる弱小国の一人として熱心にロシア研究を志し、ついに身をもって諜報勤務にその一生を捧げる境涯に立ち至ったのである。>
(中公文庫 『城下の人 石光真清の手記』 カバーより)

Ishimitsu1_1Ishimitsu2_1Ishimitsu3Ishimitsu4この四部作の手記の一冊目を読んでいる。 活字が極端にちいさくて目が疲れるのだが、おもしろい。
まだ、幼年期から少年期にかけての部分、明治16年に士官学校幼年生徒隊(のちの陸軍幼年学校)に入校するところまで読んだだけだが、波瀾にとんだ人生の幕開けといったところか。

このブログにしつこく書いた、勢古浩爾さんの 『新・代表的日本人』 (洋泉社 新書y)には、このように紹介されている。
Seko_nihonjin_3<広瀬武夫が生まれた三ヶ月後の明治元年八月、大分県の隣県の熊本市に石光真清は生まれた。幼名は正三。長じて陸軍軍人となる。しかし、そのことが真清を数奇な運命の波に放りこむことになる。生きているあいだには、運命などない。死んでから、運命がきまる。真清は、自分の意思で立ちながら、現在のわたしたちから見るかぎりにおいて、運命に翻弄された、というほかはない。>
(勢古浩爾 『新・代表的日本人』 洋泉社 P.46)

『城下の人』 の冒頭、真清が四歳でジフテリヤに罹り、呼吸困難に陥って危うく命を落としそうになったときのエピソードが感動的だ。
当時、ジフテリヤは「ノドケ」と呼ばれた難病で、もはや手の施しようがなく、あとは臨終を待つだけという状態になった。
添い寝して看病を続けていた真清の母(弟の真臣を身ごもっていた)は、手の届くところにあった硯箱から何を思ったか筆をとりだした。
筆の毛をむしりとり、その竹筒を真清の口の中にさしこんで、それで真清ののどに詰まっていた痰を吸いとった。二昼夜、一睡もせずに吸い続けたおかげで、真清は一命をとりとめた、という話だ。

四冊読みおえるのに、たっぷり時間がかかりそうだが、ひさしぶりに夢中になって読んでいる本だ。

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2007年3月 9日 (金)

【読】今週の一冊

今週前半は、香月泰男さんに関する本(立花隆 『シベリア鎮魂歌――香月泰男の世界』 文藝春秋)を読んでいたが、第一部(再録「私のシベリヤ」)までで中断。

Kazuki1_1Kazuki_gabunshuuそうこうしているうちに、いい本をみつけた。
『香月泰男 シベリア画文集』
(山口県立美術館/監修・中国新聞社/発行・2004年)
AB版、123ページ。
週刊誌大で写真がきれいだ。
シベリア・シリーズの全作品が、写真と香月じしんの文、それに山口県立美術館学芸員による解説で紹介されている。
これで1500円(税別)という価格が信じがたい。
図書館から借りてきた大型の 『シベリヤ画集』 よりも図版がきれいだ。

もう一冊、新書を読んだ。
しつこいようだが、またも勢古浩爾さんの本。
Seko_shirasu_3勢古浩爾 『白洲次郎的』 洋泉社 新書y 124 2004.12
白洲次郎、正子夫妻が、いまちょっとしたブームらしい。
この二人について、ほとんど知らないし、白洲次郎という人にもさほど関心はない。
が、この本はそれなりに面白かった。
「それなりに」なんて、著者に失礼かもしれないが、まったく期待せずに読みはじめたのである。
勢古さん流の人生論である。 一本、筋が通っているのだ。
この本の後半に、とつぜん出てくる大工の棟梁の話がよかった。
三浦綾子さんの 『岩に立つ』 という小説の主人公、鈴木新吉という実在した大工の棟梁の話だ。
白洲次郎より、ぼくはこういう人にひかれる。
勢古さんはこう書いている。
<小説のなかでなら見たことがあるが(おもいだせないけど)、現実に、鈴木新吉のような真っすぐな人間をわたしはこれまでにただのひとりも見たことがない。 石光真清を生み、白洲次郎を生み、鈴木新吉を生んだ明治は、やはりえらい。>

同感だ。
身のまわりから明治生まれの人が姿を消したが、ぼくの知っている明治生まれの人たち(無名の人たちばかりだが)も、みな、気骨があり筋が通っていたと、今になって思う。

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2007年2月20日 (火)

【読】人生論

よりによって、こんな気恥ずかしいタイトルをつけることもなかろうに・・・。
いや、ほんと、恥ずかしい。
それでも、中学生の頃にちゃんと読んでおけばよかった、と思う本が多い。
その一方で、中学生の頃ならとうてい理解できなかっただろうな、と思うものも多い。
「人生論」である。

Seko_jinseiron懲りずに、しつこく、勢古浩爾さんの本を読んでいる。
『結論で読む人生論』
 ―トルストイから江原啓之まで―
 (草思社 2006.5.31)
なかなか面白い本なのだ、これが。
「ひとは人生でふたつの台地を登る」 という譬え(たとえ)がいいな。
いかにも「腑に落ちる」表現で、好きだ。
<ひとは人生でふたつの台地を登る。 年齢という台地と、社会的位置という台地だ。 だれもがそのふたつの台地を登り、長い平坦な道を歩いてから、坂を降りてゆく。 台地の高さも傾斜も形状もひとによってちがうだろう。 登るときの人生、歩むときの人生、下降するときの人生は、それぞれ異なるだろう。・・・> (第1章 賢者かく語りき P.15)
わが身に引き寄せてみると、そろそろ下り坂が近いのかもしれない。 見えてきた、と言えばいいのか。
あれこれ悩みながらも、日々を生きていくのだろうな。

こんなくだりもある。
幸田露伴の 『努力論』 を引き合いにして――。
<努力が「吾人の未来を善くするもの」ということを、いまの人間たちは信じられなくなってきているのだろう。 努力してもしなくてもどうせ将来がだめなら、努力なんかしても無駄だ、ましてや努力した挙句に会社に捨てられるではないか、というわけだ。 大体、努力しろというのなら、その対価となる保証をよこせ、というのである。 なにがちがうのか。 人生観がちがってきているとしかいいようがない。 自分の力で台地を登っていこうとする人生観と、台地よおまえが低くなれ、ならないなら他に自分だけの気楽な丘を作ればいいんだ、という人生観のちがいである。> (第5章 まじめな人生はつまらないか P.152)

これまで、ぼくは、人生を山登りに譬えて考えることが多かったが、ちがったな。
山登りは、遠大な目標をたてて(とりあえず頂上が目標になる)、そこを目指してゆっくりゆっくり、ペースを乱さないように一歩一歩・・・という感じだが、さて、頂上に着いたら下山ということになり、それが登りとおなじぐらい長い道のりなのだ。
そもそも、人生の目標など立てたこともないし、生きていくうえで、ゆっくりと下り坂ということもないだろう。
いつまでも、頂上でのんびりしていたいものでもあるし。
台地、と考えると、なるほどと思う。
台地の上をうろうろしながら、気がついたら台地の端まできている、後はその台地を下ってゆく。 そう考えることにしようか。

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2007年2月 9日 (金)

【読】飽きずに勢古本

最近、あきれるほど【読】(読書日誌)ばかりだが、やむをえない。
【遊】(おでかけ日誌)に書くネタもないし、【楽】(音楽日誌)に書くほど音楽も聴いていないので。 【山】(山日誌)も、思い出ばなしになってしまうのが、淋しい。

Seko_ganbun_2性懲りもなく勢古浩爾である。
『ああ、顔文不一致』 (洋泉社新書y 144 / 2005.12発行)
意図がよくわからない本ではあったが、それなりに面白かったな。
<人間は「かんばせ」で生きることができるのである。>
なんて、なかなかいいセリフもある。
この人の本は、ちょっと悪ふざけが過ぎるんじゃないか、と心配しながら読んでいると、最後の落しどころというのか、胸にズシンとくるものがあって、それが魅力なのかもしれない。
五木寛之ファンでもある(そんなこと公言していいのかどうかわからないが)ぼくにとっては、嬉しい一言も。
<五木寛之の覚悟はほんものか。 (略) それでも五木の覚悟はほんものである、といっていいはずである。彼の顔が担保だ。>
これだけだと、なんのことかわからないが、上の「(略)」の部分はこうだ。
<小説よりも、現在の作物のほうにこそ、五木の「文」はあるという気がする。 ほんものだといっていいはずである。 もしこの「文」がほんものでなかったら、他にほんものはないだろう。 だって『大河の一滴』『人生の目的』『運命の足音』『他力』『元気』『不安の力』『天命』『百寺巡礼』 だよ。 『蓮如』もある。 たまったもんじゃない。 いや、伊達や酔狂でこれだけほんもの的、覚悟的なものが書けるはずがないのである。>

あとがきで、なぜか沢木耕太郎の『天涯』という著作にふれている。
勢古さんは、写真を撮られるのも、著作に顔写真を載せるのも嫌いだという。
そういえば、ちくま新書にぼやけた写真があるだけで、この洋泉社の新書やPHP新書には写真を載せていない。 ちょっと立川志の輔似の顔だと思うが。
写真を撮られるのが苦手なので、自分で小さなカメラを買って「撮る側に回ることにした」という。
そんな話の後で、『天涯』にふれ、あれほどの写真は撮れないと言っている。
カメラを買った「遠い理由」が、「沢木耕太郎氏の『天涯』に影響を受けたこと」だという。

とまあ、こんなことを電車の中で読んだので、昼休みに近くのBOOK OFFで『天涯』(三分冊)の一巻目を入手。
単行本ではなく文庫(集英社文庫)で、写真の小さいのが物足りないが。
いい写真ばかりである。 勢古さんでなくても、こういう写真が撮れるといいな、と思う。

Seko_nihonjin_2『新・代表的日本人』 (洋泉社新書y 165 / 2006.12発行)
今日から読みはじめたのだが、これはいいな。
先の本の、くだけた語り口とは打って変わって、真面目な文章である。
「内村鑑三の名著『代表的日本人』を念頭においている」のだそうだが、しかも「いうまでもなく」と断っているのだが、いかんせん、ぼくは内村鑑三など名前しか知らない。
・・・そんなことはともかく、8人の気骨ある日本人を紹介している本なのだ。
広瀬武夫(日露戦争の旅順口封鎖作戦で命を落とした軍人、司馬遼太郎『坂の上の雲』にも登場していた)、次に、石光真清(広瀬武夫と同じ、明治元年生まれ)が登場する。
(今日読んだのがこのあたり)
石光真清は、四分冊(中央公論文庫)の手記で馴染みがふかい。
ただし、この四冊、たぶん、ちゃんと読んでいなかったのだ。
勢古さんのこの本で、あらためて石光真清の生涯のアウトラインを知り、すごいもんだと感心した。
石光真清の「手記」も、ちょっと前から読み始めたのだが、いまは中断。
一度にいろんな本を読めるほど器用じゃないので、あらためて、ということにしてある。

・・・なんだか、いっぱい書いたな。
明日は、ひさしぶりの「おでかけ日誌」が書けるとおもう。
車で、月例の墓参(あきる野市)の後、こんにゃく屋(一穂)、豆腐屋(桧原村のちとせ屋)へ、というコースを予定している。

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2007年2月 3日 (土)

【読】勢古さん三冊

勢古浩爾さんのPHP新書三冊。
『「自分の力」を信じる思想』 (PHP新書 169) 2001/9
『おやじ論』 (PHP新書 242) 2003/3
『ああ、自己嫌悪』 (PHP新書 370) 2005/10
Seko_jibunSeko_oyajironSeko_jikokeno他にもまだ出版されている著作があるかもしれないが、ぼくがみつけたものはこれだけ。
新書ばかりである。
この人は、ハードカバーの大げさなつくりの本を好まないのかもしれない。ペーパーバックが似合っている。
この人は信頼できるな。
たとえば、次のような言葉が、(ぼくにとって)その裏づけだ。

<現在、最も真摯に人生の意味を問いつづけている作家は、五木寛之を措いてほかにはいない。 顔が美形だから、作家の余技と見られがちだがかれの人生論は信用ができる。 特徴は「暗さ」である。 そこがまたいい。>
<波乱万丈とか人生は楽しまなきゃ損だ、とか言っているやつらの考えに対置するには、この「みっともなくても生きる。苦しくても生きる」というのは有効である。 「人間の人生」を受け入れよ。 そのなかで翻弄される「自分の人生」もまた受け入れよ、と五木は言っている。 受け入れて、とにかく「生きる」ことだ、と。>
  ― 『ぶざまな人生』 洋泉社新書y 第六章 P.211~ ―

「人間の人生」「自分の人生」とは、こういうことだ。
(おなじ『ぶざまな人生』 第一章から)

<ひとは「人生」というものがどこかにある運命のように語る。 なんでも生じ、なんでも入る器のように。 「それが人生」だ、というように。 そのような「人生」はあるのか。 ある。 それが「人間の人生」だ。 自分のちっぽけな意思など翻弄してしまう「人生」である・・・(中略)。
そのような「人間の人生」に抗いながら、なおも自分の意思で生きようとするのが「自分の人生」である。 その必死さが、健気ともぶざまともなる。 これ以外にあるほかない人生は、この「ぶざま」以外に生きることのできなかった人生である。>

部分的な引用なので、わかりにくいかもしれないが、ぼくは大きくうなずくことができる。
吉本隆明さんについて、こんなことばも書いている。

<若くして胸に刻んだ言葉は、ひとつである。 日々の生活は平凡で退屈でくそおもしろくもない、という考えはよくありがちな根本的な錯誤で、そのような生活のなかにこそ波瀾も万丈も修羅もあるのだ、という吉本隆明の言葉である。 (中略) もし真に平凡な人生というものがありうるなら、それは理想の人生と言っていいのではないか。 わたしは「平凡」も「ふつう」も軽蔑しない。>

「喝!」

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【読】勢古さん四冊

とうぶん、はまりそうだなぁ。
勢古浩爾 『ぶざまな人生』 (洋泉社新書y076 2002/12)を読み始めている。
おもしろく、ためになる。身に沁みる。

その他、洋泉社から数冊出ている。
画像は省略するが、PHP新書からも数冊。
じつは、すべて手元にある。 読んでみようと思う。

だいたいの内容は、帯の文句で想像がつくと思うが、『新・代表的日本人』 がとくに興味深い。
広瀬武夫、石光真清、中江丑吉、小倉遊亀、笠智衆、須賀敦子、白川義員、陽信孝、の八人がとりあげられている。勢古さんが選んだ、「世界に誇るべき日本人」だという。
(石光真清、笠智衆、白川義員の三人以外、ぼくはよく知らないが)

Seko_buzamaSeko_ganbun_1Seko_shirasu_1Seko_nihonjin_1   

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2007年2月 2日 (金)

【読】勢古さん二冊

どうも、この「さん」という呼び方が、じぶんでも落ち着かないのだが、「氏」と呼ぶのもなんだし、呼び捨てにもしにくいので・・・。

この一週間で、勢古浩爾さんの新書を二冊読んだ。
Seko_zokubutsuSeko_mitomeyo勢古浩爾
『この俗物が!』
 (洋泉社新書y 100) 2003/12
『わたしを認めよ!』
  (洋泉社新書y 018) 2000/11
タイトルこそきついが、じっくり読ませる本。

『この俗物が!』
<俗ニ生キ俗ニ死ス人間が、それでも生きる覚悟において非俗でありたいと願う人々に贈る、おもしろくて切ない「当世俗物図鑑」>
これでも、まだ胡散臭い気がしたが、読み始めるとうなずくことばかり。
終章、「非俗の人」(第五章)で、沢木耕太郎の『無名』にえがかれた、沢木耕太郎の父親のことをとりあげている。
この『無名』をぼくは読んでいないが、勢古さんはここで次のように書いている。
<沢木耕太郎は父親を八十九歳で失ったが、その死(と生)を書いた『無名』(幻冬舎)は佳品である。 前もっていっておくと、その父親が非俗の人である。 この親にしてこの子あり、というほどにはわたしは沢木自身を知らないが(本だけは多少読んでいるが)、たぶん父親はその徹底した非俗性においてはるかに沢木以上である。 余計なお世話だが、『無名』というタイトルよりも、「非俗の人」のほうがよりふさわしいと思えてくる。 このような人がいるのである。 そして、このような人がいるということは、ほかにもいるということだ。>
これに続けて、『無名』から引用して、沢木耕太郎の父親がどういう人だったかを紹介している。
沢木さんの父親のような存在は、ショックだった。
『無名』を読んでみようと思う(BOOK OFFで購入)。

もう一冊、『わたしを認めよ!』は、承認論といえばいいのか。
章立てが、まるで『共同幻想論』(吉本隆明)のようだ。
「孤独論」「自己証明論」「家族承認論」「性的・社会承認論」「反承認論」「普通論」「最終承認論」。
もちろん、吉本さんほど難しくはないが、この著者の他の本と比べると語り口が静かで重い。

承認とはなにか。 著者によるとこういうことだ。
<「承認」とは、他人によって、最終的には自分じしんによって、自分という存在が認められ、受け入れられることである。 「認める」とは、より多く、行為や態度に関わるものであり、「承認」とは、それらを包摂してなお、存在そのもにに関わるものである。>
<ひとは承認なしでは生きられない。 この低能が、という一言によって、あるいは最低の男ね、という面罵によって、わたしたちはいとも簡単に傷つく。 自分という存在がその瞬間に転覆しそうになるのだ。 傷ついたあとで、猛然と反発する。・・・>

第三章「家族承認論」で、「無条件の承認は存在の引き受けである」という。
<おまえは「生きていても、いいんだよ」。/わたしたちは自分という存在への、この根源的な承認を必要としている。 そしてこの根源的という意味において、原則的にそれが可能なのは家族による承認をおいてほかにはない、とわたしは考える。 (中略) それは自分という存在が、たしかにこの世の中に受け入れられている心的安心であり、すべての承認のなかで最も基本的かつ重要な承認である。>

引用ばかりになったが、このように硬いことばかりが書かれているわけではなく、さまざまな本をとりあげて、それを題材に勢古さんの持論を展開している。

<本書は軽くて単純だが、すこしだけ深いのである。>
と書いているが、まったくその通りだと思う。
「軽い」かどうかはわからないが、書いていることはいたってシンプルなことかもしれない。
終章「最終承認論」で、どう生きればいいのか、ということが(もちろん著者の持論だが)理解しやくす書かれている。
五木寛之さんの『他力』が引用されているのが(いい意味で)意外だったが、ぼくは勢古さんの持論に同意できる。
この本には感動した。

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2007年1月24日 (水)

【読】ばかぼん

勢古浩爾著 『まれに見るバカ』 (洋泉社文庫 2006.2.20発行)は、おもしろかった。
巻末に 「バカ」によって「バカ」を制すためのブックリスト というのが載っている。
つまり「バカ本」 が紹介されている。
ほんとうに 「バカじゃないのか」 と思うような本から、有益な本まで、この人らしい基準で選ばれた本がずらり。
その中で、読んでみたいと思わせる本が二冊あった。

一冊は、西岡常一著 『木のいのち木のこころ(天)』 (新潮OH!文庫)
これは、こんど古本屋で探してみよう。
著者は宮大工だった人で、こういうことを言う人らしい。
(『まれに見るバカ』 P.254~255から孫引き)

<弟子も始めは何もわかりません。 そのほうがよろしい。 何も知らんということを自分でわからなならん。 本を読んで予備知識を持って、こんなもんやろと思ってもろても、そうはいかんのです。 頭に記憶はあっても、何もしてこなかったその子の手には何の記憶もありませんのや。 それを身につけにくるのが弟子です。 (中略) なかなか手と頭はつながらんのです。>
<(学者)は体験や経験を信じないんですな。 本に書かれていることや論文のほうを、目の前にあるものより大事にするんですな。 学者たちと長ごうつきあいましたけど、感心せん世界やと思いましたな>

いいなぁ。 こういうことを言う人。
もう一冊は、きょうの昼休み、たまたま近くのBOOK OFFでみつけた。 105円で購入。
吉野敬介著 『やっぱりおまえはバカじゃない』 (小学館文庫 1998.3.1発行)
Yoshino_baka勢古さんに、「この本には感動した」 と言わせた本。
以下、勢古さんによる紹介文を引用。(『まれに見るバカ』 P.51)
<著者は中学・高校時代を徹底的に不良(元暴走族特攻隊長)でとおし、大学受験四ヶ月前の偏差値は英語、国語、社会、三教科あわせて80にも満たなかったという極めつきの劣等生である。 (中略) その極めつきの不良が、副題に「偏差値25からの超大学受験術」とあるように、一念発起して受験をめざし、超人的な努力の末、見事国学院大学に合格する、という体験談である。>
大学卒業後、「代々木ゼミナール人気ナンバーワン古文教師」になったという、これまた魅力的な人物である。
きょうのぞいたBOOK OFFには、この著者の別の文庫(続編)もあったが、そのカバーには、パンチパーマの「いかにも」という風な写真が載っていた。買わなかったけれど。
などと書きながら、この『やっぱりおまえはバカじゃない』のカバー見返しをみると、そこには著者紹介文と、迫力ある顔写真が・・・。
ついせんだって防衛戦に勝った、ふてぶてしいチャンピオンの面構えに似ていなくもないが、ぼくはこういう人は好きだな。

明日から、この本を読んでみよう。

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2007年1月23日 (火)

【読】乗り過ごす

ひさしぶりに、やってしまった。
通勤電車で座席に座って本を読んでいて、乗り過ごしてしまったのだ。
朝の中央線快速電車。 お茶の水で乗り換えるはずが、気がつけば神田駅を発車するところだったので、終点の東京駅まで乗ってしまった。
山手線で秋葉原まで戻り、総武線に乗り換え、遅刻せずに始業時刻にはまにあったが。
やれやれ。

Seko_marebaka原因はこの本。
勢古浩爾 『まれに見るバカ』 (洋泉社)
人をバカよばわりすることは、著者も言っているように 「普段の生活のなかで」「めったにあることではない」。
新明解国語辞典にも 「人をののしる時に最も普通に使うが、公の席で使うと刺激が強すぎることが有る」 と書かれている(と、勢古さんが書いている)。
本の題名をみただけで読むのをためらう人もいるだろうが、ぼくはこういう本が好きなのである。
痛快だし、著者によれば 「本書を通読されたあと、もしかしたらあなたに、なぜだかわからないが、生きる勇気みたいなものが湧いてくるかもしれない。 心もポカポカしたりして。」 という本らしい。
赤坂憲雄さんの、いささかかた苦しい内容の本(『山の精神史』)を読んだあとなので、気楽に読めて、いい。

この本で、勢古さんがとりあげている本。
Kure_bakakusuri呉智英(くれ・ともふさ) 『バカにつける薬』 (双葉文庫)も、ずっと前に読んだことがある。 おもしろかったなぁ。
呉智英さんの本は、一時期、熱心に読んだことがある。
勢古さんによれば、「どの本もほのぼのとしている。文章がくどくないから、読後感がいい。」
たしかにそうかもしれない。
勢古さんは、呉さんに対しては好意的なように思う。
呉さんは中島みゆきの熱心なファンだし、二人には共通点があるのかもしれない。

Yoro_bakanokabe評判になった、こんな本もあったっけ。
養老孟司 『バカの壁』 (新潮新書)
こまったことに、この本を読んだかどうか、記憶にない。
読んだ形跡はあるし、パラパラとめくってみると、かすかに読んだおぼえがある。
だが、読後の印象が思いだせないのだ。
それほど感じるところがなかったのか。 いまとなっては不明。
これよりも、同じ養老さんの本では、『からだを読む』 (ちくま新書) がおもしろかった。
これまた、内容をあまり憶えていないけれど、この人の本では、説教くさくない科学的な(解剖学的な)ことを書いたものの方がいいと思う。

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2007年1月14日 (日)

【読】赤坂憲雄さんの柳田国男論

先日、地域図書館から借りてきて読みはじめた本。
読みはじめるまでは、ちょっと腰が引けたのだけれど、これがおもしろい。
勢古浩爾さんの言葉を借りれば、「根性」が入っているのである。
Akasaka_yanagita_yamaAkasaka_yanagita_hyohaku赤坂憲雄
『山の精神史 柳田国男の発生』 1996年
『漂泊の精神史 柳田国男の発生』 1997年
(共に小学館ライブラリー)

もう一冊
『海の精神史 柳田国男の発生』 2000年
http://skygarden.shogakukan.co.jp/skygarden/owa/solrenew_detail?isbn=4093873283
をあわせて、三部作ということらしい。
(この本も図書館にあったが、さすがに読みきれない)
以前から気になっていた本なので、とりあえず2冊借りてきた。
二週間じゃ読めないので、たぶん貸出延長だなぁ。

重要なことではないが、赤坂さんは小平市在住らしく、図書館の「市内在住者コーナー」という書棚にその著作があった。そういえば、椎名誠氏も小平在住だったっけ。

【ちょいと註釈】
「根性」という言葉が誤解されるといけないので、勢古さんがこの言葉をどういう文脈で使っているか書いておこう。
<・・・論理がその力をもつためには、論理に根性が入っていなければならない(わたしは以前はこの「根性」という言葉がきらいであったが、いまでは相当偏愛している)。それが思想である。その論理の根性を知るための好個の例として、ここで二冊の本を紹介しておきたい。>
その二冊目の紹介。
<もう一冊は、シモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』(ちくま学芸文庫)である。この本は本書で引用した本や推薦書のなかではもっとも難解(後出の『「正法眼蔵を読む』と双璧か)であるかもしれない。カントやヘーゲルのようにチンプンカンプンというのではなく、ヴェイユがなぜそのように考えるにいたったかという思考の基盤とその道筋がひどく辿りにくいのである(論理が徹底的に隠され、根性だけが残っている)。・・・>
 ― 勢古浩爾 『自分をつくるための読書術』 ちくま新書 P.97~99 ―
ぼくはこの部分を読んで、いつかヴェイユの『重力と恩寵』にもトライしてみよう、などと無謀にも考えてしまった。

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2007年1月13日 (土)

【読】勢古浩爾さんの三冊目

ひさびさの読書日誌。
長ったらしいので、興味のない方は読み流していただきたい。

年があけて最初に読みおえた本がこれ。
Seko_kouji2_1勢古浩爾 『自分をつくるための読書術』
 ちくま新書 134 1997.11 \680(税別)
― カバーから ―
<「自分」をつくるということは、割合しんどいことである。 そんな思いまでして、しかもどんな保証もないのに、なぜ「自分」をつくらなければならないのか。 いったいなんの得があるのか。 理由は簡単だ。 「自分」をつくらないで生きていくことは、もっとしんどいからである。>

このての読書案内が好きなので、おもしろそうだなと思って読みはじめた。
なかなか刺激的な内容である。
冒頭、<はじめに ――「自分」をつくるとはどういうことか>から、意表をつくようなことが書いてあり、うなってしまった。
<人間の気質や性格(人間性)は、そのほとんどが三歳までにできあがってしまうから、それ以降どんなに変えようとしても無駄である、という考えがある。 悪あがきはやめなさい、というわけでもあるまいが、この三歳決定論に関しては、わたしも基本的には信じるほかないという気がする。 しかし、だから自己形成へのあらゆる意思や試みは無効であるという諦観にわたしは同意しない。 もしも自分で「自分」をつくることができないのなら、そんな「自分」にひとは責任をとる必然性がまったくないからである。
(太字は原文のまま)

全6章のタイトルをあげておく。
この章題に勢古さんの考え方がよくあらわれていると思うのだ。
各章の末尾に、ブックリストがあり、勢古さんの推薦書があげられている。
そのなかで、ぼくが興味をもった本も書いておこう。
(読んだことのある本も、いくらかあるが、もういちど読んでみようかと思う)

第1章 「世間」を生きぬくための読書 ~あらゆる形式を疑え~
阿部謹也さんの「世間」論からはじまるところが、ぼくにはうれしかった。
■ブックリストから■
『無名人名語録』(永六輔/講談社文庫)
『アイルトン・セナ日本伝説』(松本洋二/新潮文庫)
『この国のかたち(四)』(司馬遼太郎/文春文庫)

第2章 「弱さ」を鍛えるための読書 ~一冊の本は決定的に発火する~
<学生時代、『共同幻想論』という本が薄暗い生協の本棚に平積みにされていたのを思い出す。ベストセラーだという噂は知っていたが、なにがキョードーゲンソーロンだとわたしは無視した。吉本隆明氏が何者かはまったく知らなかった。自慢じゃないが相当無知であった。・・・大学卒業後のある日、友人のNが「おまえなんか吉本があうんじゃないかなぁ」といった。かれの真意はわからなかったが、わたしはその日、はじめて吉本氏の本を買った。> という、勢古さんが出会った「衝撃的かつ決定的な一冊」は、吉本隆明さんの『情況』(河出書房新社)。
■ブックリストから■
『共同幻想論』(吉本隆明/河出書房新社、角川文庫)
『犠牲』(柳田邦男/文藝春秋)
『夜と霧』(V・E・フランクル/みすず書房)

第3章 「論理」の力をつけるための読書 ~読むなら考えよ考えぬなら読むな~
論理(論理的な考え方)はたいせつである。しかし、論理の限界点には<理不尽>がある。・・・と勢古さんは言う。
<「自分」をつくるうえで論理の重要性はいくら強調してもしすぎることはない。だが論理だけでひとを感動させることはできない、というのもまた事実である。論理がその力をもつためには、論理に根性がはいっていなければならない。>
この章で引用されている、吉本隆明さんの次のことば(『カール・マルクス』から)は、ぼくも好きだ。
<市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかあらわれない人物(註:カール・マルクスのこと)の価値とまったくおなじである。>
■ブックリストから■
『重力と恩寵』(シモーヌ・ヴェイユ/ちくま学芸文庫)
『敗北の構造』(吉本隆明/弓立社)
『ぼくならこう考える』(吉本隆明/青春出版社)

第4章 「理不尽」を生きるための読書 ~すべての本を軽蔑せよ~
■ブックリストから■
『悲しみの家族』(宮城賢/春秋社)
『岸辺のアルバム』(山田太一/角川文庫)
『冷い夏、熱い夏』(吉村昭/新潮文庫)
『人間の土地』『夜間飛行』(サン=テグジュペリ/新潮文庫)

第5章 「覚悟」を決めるための読書 ~わたしがルールブックである~
この本を通して、<自分さがし>などするな、ということが繰り返し言われている。
同様に<自分らしさ><人間らしさ>などという、口あたりのいい、それでいて何の意味もない言葉を痛烈に批判する。読んでいて爽快。
■ブックリストから■
『単純な生活』(阿部昭/講談社文芸文庫)
『神聖喜劇(全5冊)』(大西巨人/ちくま文庫)
『鹽壷(しおつぼ)の匙』(車谷長吉/新潮文庫)

第6章 「自分」をゆさぶるための読書 ~自分に関係のない本などない~
著者・勢古浩爾さんは、若い頃(およそ30年前)、ほぼ一年をかけてヨーロッパ、中近東、アジアを旅し、そのときに持っていた本は、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ペーパーバックの原書)一冊だけだったという。
■ブックリストから■
『昭和精神史』(桶谷秀昭/文春文庫)
『ねむれ巴里』(金子光晴/中公文庫)
『東南アジアを知る』(鶴見良行/岩波新書)
『深夜特急(全6冊)』(沢木耕太郎/新潮文庫)
『望郷と海』(石原吉郎/ちくま学芸文庫)
『広島第二県女二年西組』(関千枝子/ちくま文庫)
『泥まみれの死 「沢田教一写真集」』(沢田サタ編/講談社文庫)
『大地の子(全4冊)』(山崎豊子/文春文庫)
『城下の人』『曠谷の花』『望郷の歌』『誰のために』(石光真清/中公文庫)
『生きることの意味』(高史明/ちくま文庫)

以上です。 ああ、しんど。
もちろん、ぼくには、こんなにたくさん読めやしないが、何冊かは手に入れて読んでみたい、あるいは再読したいと思ったのである。
この新書は、良質のブックガイドであり、骨のある自前の「思想」が語られている一冊。

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2006年12月29日 (金)

【読】勢古浩爾さんの二冊目

『風の王国』 という長編小説を読み終えたので(読後感はさわやか、しかし、後味が軽い)、目先のかわったものを読んでみようかな、ということで。

Seko_kouji3勢古浩爾 『こういう男になりたい』 (ちくま新書)
すこし前に読んだ 『思想なんかいらない生活』 (ちくま新書)も面白かったが、この本も痛快。
タイトルは男性論のようだが(実際、そうなのだが)、そこいらの軽薄でなんの役にもたたない駄本とはちがう。
なかなか骨のある人なのだ。
ずばずばと気に入らないものを切っていく文章は小気味がいい。

各章の扉に、なぜか石川啄木の詩歌の一節が引用されていて、啄木もいいな、という気にさせられる。
<男とうまれ男と交り 負けてをり かるがゆゑにや秋が身に沁む>
<誰が見てもとりどころなき男来て 威張りて帰りぬ かなしくもあるか>
<こころよく 人を讃めてみたくなりにけり 利己の心に倦めるさびしさ>
<何となく自分をえらい人のやうに 思ひてゐたりき。 こどもなりしかな。>
<大いなる水晶の玉を ひとつ欲し それにむかひて物を思はむ>
<放たれし女のごときかなしみを よわき男の 感ずる日なり>
<あたらしき心もとめて 名も知らぬ 街など今日もさまよひて来ぬ>

ブックガイドとして読んでも、おもしろい本だ。
ちなみに、啄木歌集については――
 久保田正文編 『新編 啄木歌集』 (岩波文庫)
 啄木に意外と「男」に関する歌が多いのを発見した。
 啄木のひたむきさと卑小さを描いた傑作に関川夏央原作、谷口ジロー漫画
 『「坊ちゃん」の時代』(双葉社)の第三部『かの蒼空に』がある。
と紹介されていたり。

著者の勢古さんは、若い頃(といっても、三十代後半)に、石原吉郎論を書いたというのも、なにやら好感がもてる。
<大学をでて宙ぶらりんの気分の時期に、自分みたいなおもしろくもなんともない男は、一生女から好かれないだろうな、とおもった。 (略) ジャーナリストになる希望もついえた。 どうしようかと途方にくれた。 とにかく仕事がしたいと思った。 ぼちぼち本を読むことを覚え、わら半紙にすこしずつ埒もない文章を書くようになった。 本を出したいという気持ちはこれっぽちもなかった。 夢でさえありえなかった。 三十代後半に四百枚の孤独な「石原吉郎」論を書きおえたとき、世間ではなんの役にも立たない自信らしきものがすこしついただけであった。 もう「夢」がなければ、自分のいまいる「一所」で「懸命」にやることだけが残された。> (P.128~129)

勢古浩爾(せこ・こうじ)
1947年大分県生まれ。明治大学政治経済学部卒。
現在、洋書輸入会社に勤務。1988年、第7回毎日21世紀賞受賞。
市井の一般人として「自分」が生きていくということの意味を問い、独自の思考を、まさに「ふつうの人」の立脚点から展開し続けている。
著書に『中島みゆき・あらかじめ喪われた愛』(宝島社)、『自分をつくるための読書術』(ちくま新書)。
  ― 『こういう男になりたい』 (ちくま新書/2000年5月) 著者紹介から転載 ―

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2006年12月 1日 (金)

【雑】だいじなもの

きのうの続き。
勢古浩爾さんの 『思想なんかいらない生活』 (ちくま新書)の巻末ちかく、こんな言葉があって、ずっしりと響いた。
きわめてまっとうな、ごくふつうの考え方。
でも、つきつめて自分に問いかけてみると、このシンプルな言葉こそ、人が生きることの真実かもしれない。

<思想なんかなくてもきちんと生きていける。 あたりまえのことだ。 ほとんどのひとが、思想などと関係なくきちんと生きているのだから。 しかし、だからといって無知であっていいはずはない。 世界の「問題」をいささかも必要としなくても、関心はもったほうがいいにきまっている。 そして人々は実際に関心をもち、知識を吸収しようとしている。 しかし、それも自分の「ふつう」の生活を維持していくためであり、本来からいうと、それは余剰なことなのだ。>

<俗なことをいうが、思想なんかはいらなくても、衣食住を支えるためにある程度の金は必要である。 いまだに人生の基本は、そのような原始的な条件に規定されている。 つねに金のことばかり考えているのは卑しいが、金それ自体を卑しむのは間違っている。 金が逼迫すれば心が逼迫するからだ。>

このあと、著者がほんとうに言いたかったと思われる言葉が続く。

多少余裕のある金と、健康と、できればひとりの愛する者。 それがあれば、過剰な富も、名声も、権力もなんの必要があろうか。 だれにも見られず、だれにも知られない人生であって、なんの不服があろうか。>

これを読んで、三十年前に亡くなった祖母のことを思いだした。
ぼくら家族と同居して、生まれたときからぼくら(孫)を可愛がってくれた、父方の祖母。
寡黙で、働きもので、愚痴ひとつもらしたことのない明治生まれのひとりの女性。
祖母から、もっともっとたくさんの、人生の知恵を学んでおけばよかった・・・。
後悔先に立たず。

この年齢になって、ようやく、ほんとうにだいじなものがわかってきた(ような気がする)。
小難しい本を読んだり、たくさんの金を求めたり、不平不満をもらしたり、会社に嫌気がさしたり、人をどなりつけたり、満員電車の中で他人をうっとうしく思ったり、夜遅くまでパソコンに向かってキーボードをたたいたり、翌朝になって早く寝なかったことを後悔したり・・・そんな自分も、ありのままの自分ではあるが、なにもかも余計な気がする。

こころ穏やかに、飄々と生きていけるといいな。
(今夜は、ちょっと沈みがちだが、こんなこともあるさ)

2006/12/2 写真追加
勢古浩爾 著 『思想なんかいらない生活』 (ちくま新書 479)
 『自分をつくるための読書術』 (ちくま新書 134)
 『こういう男になりたい』 (ちくま新書 247)
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2006年11月30日 (木)

【読】思想なんかいらない

月曜日だったかな、勤め先の近くの新古書店(BOOK OFF)で、タイトルにひかれて買った本。 350円だった。
Seko_kouji_1勢古浩爾 (せこ・こうじ) 『思想なんかいらない生活』
  ちくま新書 479 (2004.6.10)
著者については、よく知らない。
ちくま新書 『自分をつくるための読書術』 『こういう男になりたい』 の二冊、宝島社 『中島みゆき・あらかじめ喪われた愛』 という著作あり。
現在、洋書輸入会社に勤務(サラリーマンらしい)。

この本、じつに胸のすくような爽快な内容。
読み始めるまでは、なんだか怪しげな本かな、と思っていたが、とんでもない。
とてもしっかりした内容。 かつ、説得力あり。 しかも、わかりやすい。

 「思想」というものは、私たちの生活に必要なのだろうか?
 あるいは、思想や哲学が、今のこの生活に必要なのだろうか?
   ― カバー見返しから ―
著者のこたえは、「そんなもん、いらん」 「もっと大切なものがあるんだよ」 ということか?
目次をあげておこう。

第一章 知識人にご用心
第二章 「ふつうの人」、インテリに叱られる
第三章 いったいなんのための思想か
第四章 インテリさんがゆく
第五章 本は恥ずかしい
第六章 勝手に「大衆」と呼ばれて
第七章 思想なんかいらない生活

この第四章で槍玉にあげられている、インチキなインテリども(著者がいうところの)には、竹田青嗣、加藤典洋、橋爪大三郎、小浜逸郎、柄谷行人、蓮実重彦、大澤真幸、福田和也、中島義道、永井均、池田晶子、姜尚中、副島隆彦、・・・なんて名前がずらり並んでいるが、自慢じゃないがほとんど知らん人ばかり。
それが、おもしろいのだ。
エラそうなことを書いている、これらの人々の著作から例をひいて、いかにわけのわからないものを大層ぶって書いている輩かということを、しつこいくらいに、これでもかと書き綴る。
その一例をあげようと思ったが、めんどうなのと、夜も更けてきたので(とっくに寝る時間だ)やめにする。
読みながら、ほんとうに何度も声をあげて笑ってしまった。 爆笑。

こんな紹介だと、誤解されるかもしれないが、著者の意図(意思)はきわめてまじめ、好感がもてる。
すくなくとも、次の二人のことを教えてもらえたことで、ぼくはこの著者に感謝したい。

その一人は、エリック・ホッファー。
アメリカの 「沖仲士の哲学者」と呼ばれた人(らしい)。
『エリック・ホッファー自伝』 (作品社)、『波止場日記』 (みすず書房) というのを読みたくなった。

もう一人は、ぼくも名前だけは知っていた、シモーヌ・ヴェイユ。
フランスの高等中学の哲学教師(つまり、インテリ)だったが、工場労働者(女工)の世界に飛び込んで、『工場日記』 を残した。 これも読んでみたくなった。

そして、これは蛇足だが、あとがきの中でこう書いているのが、ぼく