【読】再読 「菅江真澄 みちのく漂流」
5/5に図書館から借りてきて、まだ半分ほどしか読んでいないけれど、とても面白い。
再読である。
この前読んだのは、7年前の夏だった。
【読】菅江真澄みちのく漂流 2007年8月11日 (土)
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_7618.html
読んだ本の内容を、あんがい覚えていないものだ。『菅江真澄 みちのく漂流』
簾内敬司 (すのうち・けいじ)
岩波書店 2001/1/29 発行
226ページ 2300円(税別)
菅江真澄の「みちのく」での足跡をたどる紀行文のようでもあり、エッセイともいえる。
(日本エッセイスト・クラブ賞受賞)
どことなく、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズを思いおこさせる文章の運びだ。
― Amazonサイトより ―
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000010697
内容(「BOOK」データベースより)
漂泊者真澄の日記・地誌は、帰還の地をもつ者の旅の記録ではなかった。マタギの生態と鉱山労働、山岳信仰と海神八百比丘尼の伝承、十三湊を拠点とする安東水軍と蝦夷の一族の物語。北のトポスに折り畳まれた生と死の痕跡を、真澄の旅をとおし、著者自らの肉体に沈められた記憶としてたどる、もうひとつの道の奥。天明・天保飢饉の余燼のくすぶる真澄の東北と、現代の風景は異なっているだろうか。「辺境」から見た、日本近代の意味とは何か。江戸末期と二〇世紀末と、二百年を隔てた転換期の東北北部―菅江真澄の足跡を追い、その眼差しと重ねつつ、北の飢餓回廊とその固有の日と夜を描く、現代の東北風土記。
菅江真澄は謎の多い人物だが、不思議な魅力があって、妙に惹かれる。
たいへんな苦労をしながら、彼はなぜ、みちのくや蝦夷地を長年にわたって漂流し続けたのだろう。
今回、この本を読みながら北東北(みちのく)の地図を見ているうちに、私もいつかこの地を訪ねてみたい気持ちになってきた。
第三章 「椿の海の神々の行方」 が、ことに興味ぶかい。
八百比丘尼伝承、小野小町伝説にからめて、北東北に渡ってきた椿の由来に想いを馳せるという内容。
ここで、森崎和江 『海路残照』 という本が紹介されていて、興味をそそられた。
<若狭をはじめ能登、越後、佐渡といった各地に残る八百比丘尼伝承を対馬暖流文化の所産としたのは、森崎和江の『海路残照』(朝日新聞社)である。この書によれば、その対馬暖流文化は能登半島で消滅する。したがって、八百比丘尼伝承も能登半島を分水嶺のようにして途切れていくというのであった。> (本書 P.64)
Amazon
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J80AG2
e-hon
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000018959534&Action_id=121&Sza_id=F3
― Wikipedia 「人魚」 の項より ―
八百比丘尼
若狭国のとある漁村の庄屋の家で、浜で拾ったという人魚の肉が振舞われた。村人たちは人魚の肉を食べれば永遠の命と若さが手に入ることは知っていたが、やはり不気味なためこっそり話し合い、食べた振りをして懐に入れ、帰り道に捨ててしまった。だが一人だけ話を聞いていなかった者がおり、それが八百比丘尼の父だった。父がこっそり隠して置いた人魚の肉を、娘が盗み食いしてしまう。娘はそのまま、十代の美しさを保ったまま何百年も生きた。だが、結婚しても必ず夫に先立たれてしまい、父も年老いて死んでしまった。終いには村の人々に疎まれて尼となり、国中を周って貧しい人々を助けたが、最後には世を儚んで岩窟に消えた。
八百比丘尼の伝承は日本各地にあるが、中でも岐阜県下呂市馬瀬中切(旧益田郡馬瀬村中切)に伝承される八百比丘尼物語は「浦島太郎」と「八百比丘尼」が混ざった話として存在し、全国的に稀である。
京都府綾部市と福井県大飯郡おおい町の県境には、この八百比丘尼がこの峠を越えて福井県小浜市に至ったという伝承のある尼来峠という峠がある。
| 固定リンク
| コメント (2)
| トラックバック (0)
最近のコメント