カテゴリー「こんな本を読んだ」の131件の記事

2008年8月 7日 (木)

【読】この夏、あの戦争を考える

今日から、こんな本を読んでいる。

Hosaka_ano_sensou保阪正康 『あの戦争は何だったのか』
 ― 大人のための歴史教科書 ―
  新潮新書 125  2005.7.20 720円(税別)

あの戦争とは、もちろん先の戦争。
といっても、敗戦からすでに60年以上たっている。
生身で戦争を体験した人も、年々少なくなっていく。

私は、戦後生まれ。
いわゆる団塊の世代よりも、少し後に生まれてきた。

ところで、「戦争を知らない子供たち」 という歌がある。とつぜんだが。
<1970年に発表されたジローズ(第二次)のヒット曲。作詞は北山修、作曲は杉田二郎。>(Wikipedia)

私はこの歌に、ずっと違和感をおぼえてきた。
(今知ったのだが、作詞は北山修だった。北山修は嫌いではないが……)
はっきり言うと、こういう甘っちょろい歌は嫌いだ。

「戦争を知ろうとしない大人たち」 ――皮肉のひとつも言ってみたくなる。
いい大人になった杉田二郎がいまだにこの歌をテレビ番組で歌う、あの神経が理解できない。
……などと、過激な発言をしてしまったが、お許し願いたい。


こんなことを書いたのも、この本の冒頭に私をうなずかせることが書かれていて、思わず膝を打ったからだ。

<「太平洋戦争とはいったい何だったのか」、戦後六十年の月日が流れたわけだが、未だに我々日本人はこの問いにきちんとした答えを出していないように思える。
 例えば、いくつかの象徴的なことを提示してみよう。>


続けて、著者は、こんな例をあげている。

<ひとつは夏の甲子園での八月十五日のセレモニー。 正午のサイレンに合わせて高校球児たちが一斉に黙祷を捧げる。 それは当たり前のように繰り返される「美しい光景」と評されている。 しかし、私にはどうにも違和感を覚えてならないのだ。 平成に入って生まれた彼らが、本当にその意味を理解しているとは思えない。 もう六十年前の戦争にどうして頭を下げなければならないのか。 真剣に黙祷する彼らに同情してしまう。 無意味な儀式以外の何物でもないように思うのだ。>

そこまで言わなくても、と思われるかもしれないが、私も同じことを感じ続けてきた。
高校野球そのもの、夏の甲子園大会じたいが、かなりインチキくさい。
(高校生の野球を見ることは嫌いではないが)

あのセレモニーも大人の押しつけだと思うし、黙祷することよりも、もっと戦争のことを知らしめるべきだと思う。
(もちろん、高校球児たちが自発的に黙祷したいというのなら、おおいにけっこうだ)
今、高校で、どこまで先の戦争(第二次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争)のことを教えているのだろうか。


著者があげる、別の例。

<またこんなことも、私には奇妙に感じられてしまう。 広島市の広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に記されている 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」 という碑文である。 何を訴えたいのか、よくわからない。 不思議なことに、この文に主語はない。 原爆を落としたのはアメリカであるはずなのに、まるで自分たちが過ちを犯したかのようである。 どうして誰も変に思わないのだろうか……。>

私も、まったく同じことを感じ続けてきた。
「原爆許すまじ」 というのも、おかしな物言いだ。
まるで、「原爆」 という物体だけが悪いような、これも主体(主語)をぼかした言い方である。 何度でも言うが、あの原爆を投下したのは、アメリカ合衆国の軍隊であり、投下命令をくだしたのは当時の大統領である。 その理由のいかんにかかわらず、私は許せない。


日本人の戦争感は、あんがいこういうところにあらわれているのかもしれない。
つまり、責任の所在をあいまいにしたままの厭戦気分、あるいは、戦争はいけないことだ(これは当たり前)、の一点張り。

いや、べつに反戦運動にけちをつけているわけではない。
私だって、戦争はいやだし、反対である。

ただ、そこで思考停止してしまってはいけない、という思いが強い。


<ロンドンには「戦争博物館」というものがある。 ここには第一次世界大戦以降の戦争の歴史が淡々と展示されている。 ナチスドイツの制服や武器といったものまでもドキュメントとしてある。 しかし、決して非難めいて陳列されているわけではない。 また館の入口には館長の言葉として、こう書かれている。 「展示をしっかりとご覧下さい。 全て現実にあった出来事です。 そして後は自分で考えることです」 と。>  (本書「まえがき」より)


この本は、好著である。
この季節、こういう本を読んでみるのもいいと思う。
明後日は、ナガサキに原爆が投下された日。
ヒロシマ、ナガサキ、敗戦の日、と続く。



※2008.8.10追記
「戦争が終った日」は、8月15日ではない、ということをこの本であらためて認識した。
昭和20年(1945年)9月2日、東京湾上のミズーリ号で降伏文書に調印した日が、日本の 「正式な」 敗戦の日である。
(世界の教科書でも、皆、第二次世界大戦が終了したのは9月2日と書かれているという)
8月15日を「終戦記念日」などと言っているのは、日本だけだという。
(8月15日は、日本が降伏を表明した日、著者に言わせると 「単に日本が 『まーけたー』 と言っただけにすぎない日」 ということになる。

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2008年7月30日 (水)

【読】昭和16年夏の敗戦(続)

こんなに面白い本だったのかと、あらためて感心しながら読み続けている。
はじめて読んだのは、今から10年以上前かもしれないが、面白かったという印象しか残っていない。
われながら、情けない記憶力だ。

Inose_shouwa16nen猪瀬直樹
『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』
小学館 「日本の近代 猪瀬直樹著作集 8」

第二章 「イカロスたちの夏」 にさしかかって、がぜん面白みがましてきた。
ところで、イカロスって何だっけ?
ああ、そうだった。
ギリシャ神話にでてくる、翼をもった人物。
「父ダイダロスの作った翼をつけて、いましめを忘れて高く飛びすぎ翼を固めていた臘が太陽の熱で溶けて海に墜死」(三省堂「新明解百科語辞典」)

知っていたつもりで、じつはよく知らないことの、なんと多いことよ。
中学、高校のときに、もっとベンキョーしておけばよかったと、今さらながら思う。

「統帥権」 についても、この猪瀬さんの本で、あらためてホントーのところがわかった。

<当時のわが国の国家意思は「統帥(大本営)」と、「国務(政府)」の双方の会議により発動された。 (中略) 旧憲法では統帥権は、"神聖にして犯すべからず"で政府は関与できない。 統帥部(大本営)は政府と別個に作戦を発動できたのである。 軍部独走の素地はここにあるのだが、旧憲法の制度上の欠陥を補うために、統帥部と政府の双方の会議は、「政府、大本営連絡会議」でなされた。 その形式的承認儀式が、天皇臨席の「御前会議」である。> (P.110)

天皇に対する事前の「根回し(奏上)」があって、御前会議はその形式的な追認だったということも、私は認識していなかった。
御前会議では、天皇は原則として意見を述べることをしなかったという。

(昭和)天皇の戦争責任、ということも考えてみる。
猪瀬直樹はこう書いている。
昭和16年12月1日、日米開戦を決める御前会議のくだり。

<セレモニーは数時間後に控えている。 天皇は日米開戦を避けたがっていた。 皇太子時代の英国留学で「初めて自由を知った」天皇が以来すっかり欧米贔屓になっていたことはよく知られている。/だからといって天皇が平和主義者だったということにはならない。 中国侵略については比較的寛容だったし、日米開戦についても、終戦の「御聖断」を下すことができたくらいなら、もう少し積極的な役割を果たしえたのではないか、後日、議論が分かれたところである。> (P.94)

いまやすっかり悪者扱いされている、東條英機についても、冷静な記述がされている。
(猪瀬直樹は「東條」と表記していて、この字が正しい。「東条」は新字体)
綿密な調査・取材のたまものだと思う。

東條英機は、じつに実直な軍人で、第三次近衛内閣の総辞職後、陸相をやめて用賀にあった自宅にひきこもるつもりで、荷物を運びはじめていたという。
天皇による組閣の大命は、東條じしんも、周囲の誰も予想していなかったことだった。

首相(陸相、内相を兼任)になった後、日米開戦決定までの四十五日間、なんとか開戦を引き伸ばそうと、主戦論者(統帥部)と、開戦に消極的な天皇及び閣僚との板挟みで腐心していた、というのが猪瀬直樹の記述だ。

その東條も、日米開戦決定後、急激に「挙国一致」で戦争遂行に邁進していく……。

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2008年7月28日 (月)

【読】昭和16年夏の敗戦(猪瀬直樹)

猪瀬直樹が書いた本を続けて読んでいる。
去年の5月に、ちょっとだけ紹介した本。

 2007年5月30日 【読】日本の軍隊(続)
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_5fd2.html

Inose_shouwa16nen_2猪瀬直樹
 『日本人はなぜ戦争をしたか 昭和16年夏の敗戦』
  日本の近代 猪瀬直樹著作集 8
  小学館  2002.8発行  269ページ 1200円(税別)

昭和16年夏、日米開戦(真珠湾奇襲)の四ヵ月前の8月16日、平均年齢33歳の「内閣総力戦研究所」 研究生で組織された模擬内閣は、日米戦争日本必敗の結論に至り、総辞職を目前にしていた――。

信じがたいことだが、日米開戦前に、総力戦のシミュレーションをしていたのである。
これはフィクションではない。

ずっと前に一度、文庫本で読んでいたのだが、なぜか手放してしまった。
あらためて著作集の一冊で読みはじめている。

猪瀬直樹は、近ごろいろんなことを始めたので嫌われているようだが、私は嫌いではない。
明快な文章を書く人で、綿密な取材・調査をベースに書かれたこの人のノンフィクションは、面白いと思う。

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2008年7月25日 (金)

【読】この本もおもしろい

こんなタイトルばかりだが、本のことしか書くことがないので。
それにしても、暑い。
夜、家のなかにいても汗だくだ。

すこし前に、このブログでちょっとだけ紹介した本。

 2008年5月18日 (日) 【読】「作家の誕生」(猪瀬直樹 著)
 http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_be86.html


今日から読みはじめたこの本は、予想にたがわず面白い。
猪瀬直樹の書いたものも、昔から好きなのだ。

Inose_sakka_tanjou猪瀬直樹 『作家の誕生』
 朝日新書 048  2007.6発行
 244ページ  720円(税別)

古今東西、作家と呼ばれる人たちは、変わり者が多いと思う。
近所に住んでいたら、おつきあいするのがためらわれる、そんな人ばかりだ。
私には、作家をあがめたてまつる趣味はない。
人間くさいエピソードが好きである。
だから、この本が面白い。




<川端康成は五年生の秋、手帖にこう書き込んだ。
「内藤千代子のホネームーンやエンゲージで読んだような男学生と女学生との交際が懐かしいものとして現れる。 自分もあんなに交わってみたいと思う。 草平氏と明子(はるこ)さんの煤煙がまだ読まないながら浮ぶ。 自分もあんな恋をしてみたいような気がする」
 夏目漱石の弟子のひとり、森田草平の『煤煙』は、ある事件の一部始終をありのままに書いた小説だった。 (以下略)>  ― 第2章 スキャンダルとメディア より ―

明子(はるこ)とは誰か。
当時は権威があった会計検査院の課長の娘。
日本でひとつしかない女子大、日本女子大に進んだ
「ギリシャの情熱的な叙情詩人」 サッフォーに似た
「二重瞼の西洋人的な面立ちと地黒の肌」 を持った二十二歳の女性。

次のページの写真を見て驚いた。
「明子(平塚らいてう) (1886~1971)」 のキャプションがある。
たしかに、西洋的な容貌の別嬪である。

そういえば聞いたことのある二人の心中未遂事件。
その顛末をありのままに書いたのが、森田草平の 『煤煙』 という小説だったらしい。
森田草平は、才女といっていい平塚らいてうに、体よく翻弄されたのである。

「故郷に妻子を置いて上京し、別な女をつくったりして、そこそこに蕩児」 であり、「女のあしらい方を心得て」 いたはずの森田草平だったが、明子に 「自分はダブルキャラクターよ」 などと言われ、どういう意味だね、と訊ね、逆に 「なんだと思います?」 と突っ込まれて、狼狽するのである。

ただの情けない、すけべおやじである。

ちなみに、夏目漱石は、心中に失敗して世間の強い風当たりを受けた弟子の草平を、自宅に置いてかばったという。
また、『三四郎』 のヒロイン、美禰子のモデルがこの明子だったという。
有名な話かもしれないが、私は知らなかった。
恥ずかしながら、『三四郎』 もまともに読んでいないし。

ただ、こういう、きわめて人間くさいエピソードが私は好きだ。

それにしても、作家と呼ばれる有名人よりも、市井の無名の人々のほうが、人間としてまっとうな生き方をしているんじゃないか、と私には思えてならない。

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2008年7月24日 (木)

【読】この本がおもしろい

きのうの続きである。
私にしてはめずらしく、一日で読みおえてしまいそうな勢い。
まだ50ページほど残ってはいるが。

Masataka_tensai正高信男 『天才はなぜ生まれるか』
 ちくま新書 466  2004.4発行
 203ページ  680円(税別)

「障害(障碍)」ということを、考えさせられる。
この本にとりあげられている六人の 「天才」 は、いずれも、何かしらの障害をもっていた。
(広義の意味での「学習障害」)
障害をもっていたからこそ、偉業をなしとげることができた、と著者はいう。

そして、これまで流布されてきた 「偉大な天才」 の神話をくずして、彼らを等身大の人間としてとらえる。

トマス・エジソン (注意欠陥障害)
アルバート・アインシュタイン (読み書きと計算の学習が困難であるという意味での狭義の学習障害)
レオナルド・ダ・ヴィンチ (アインシュタインと同様の障害)
クリスチャン・アンデルセン (文法障害)
グラハム・ベル (他人の気持がわからない障害=アスペルガー症候群)
ウォルト・ディズニー (多動症、多動障害、多動症候群)



― 本書まえがき より ―

 <(前略) 私はこの本で、障害にもかかわらず、それを克服して偉大な足跡を残した人の伝記を単純にまとめようとしているわけでは、決してない。 たとえば今あげたアインシュタインをとってみても、彼が障害者であったことを記すに際し、従来どう書かれていたかというと、判で押したように 「彼は障害があったにもかかわらず、やがて物理学者として……」 という風な表現をとっているのに気づくだろう。 つまり、障害を克服してがんばったのだと伝えようとする。
 しかしながら、この発想は全く誤っている、というのが本書のメッセージの核心にほかならない。 「障害があったにもかかわらず」 ではなくて、「障害があったからこそ」、彼は後世に名を残す発見ができたのであると、私は考えている。 それは、他の五人についても全く変わらない。
 障害を持つことは、必ずしも当人にとってハンディキャップとして作用するとは限らない。 それどころか、正反対に、強みとして働くことも珍しくないのだ。 それを、すぐに弱点ととらえてしまうのは、健常者の思いあがりというものである。
 障害があるから能力の面で不足していると考えるのは、決してまっとうな発想ではない。 (後略)>

 <健常者の生というのは、思いのほか画一的である。 今日の日本の教育は、子どもに 「がんばれば何でも望みはかなうんだよ」 と、万能感を植えつけることに躍起となっているものの、育つ人材はどんぐりの背くらべである。 (中略)
 障害というのは、個々人を比べてみて、その質と量において、誰ひとりとして他の人と同じということがない。 (中略)
 その力は、健常者の思い及びもしないことをしでかすことがある。 すると障害者の方が、人間生来の力を出していることになる。 そのことを私は、この本で書いたつもりだ。 (後略)>



まさしく目からウロコの落ちる本であり、きわめてまっとうな内容の本だ。

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2008年7月22日 (火)

【読】ほんとうは怖い感染症

感染症一般というよりも、新型インフルエンザが怖い。
この本を読んで、だいじょうぶだろうかという気になった。

Okada_harue_kansenshou_2岡田晴恵  『感染症は世界史を動かす』
 ちくま新書 580  2006年2月発行 286ページ

1918年 スペインかぜ
1947年 イタリアかぜ
1957年 アジアかぜ
1968年 香港かぜ
1977年 ソ連かぜ

これらは、皆、新型インフルエンザ、つまりインフルエンザウィルスの 「大変異」 (フルモデルチェンジ) が引き起こした、世界的規模の大流行の記録である。
人類は、この新型ウィルスに対して、今のところ無力である。
あらかじめワクチンの用意ができないからだ。
(新型ウィルスに対するワクチンが準備できるまで、半年かかるという)

ちなみに、風邪とインフルエンザは全く違うが、普通のインフルエンザなら予測によって予防ワクチンの準備が可能。
毎年おこなわれる、インフルエンザ予防接種がこれだ。
毎年流行するインフルエンザは、ウィルスの 「小変異」 (マイナーチェンジ) なので、ある程度予防策がとれる。


高病原性H5N1型鳥インフルエンザは、これまで人類が経験してきた過去の新型インフルエンザとは、大きくちがうという。

今のところ、トリからしか感染しないが、人間のあいだで感染がひろがるように変異するのも、どうやら時間の問題らしい。
それほど、ウィルスってやつは、ヒトの手に負えないものらしい。


忘れずに、心の準備をしておこうと思う。
それにしても、日本の行政がこういうことに鈍感である、ということもこの本でよくわかった。

あと30ページほどで、ようやく読み終える。



― 以下、Wikipediaより ―

H5N1の特性
伝染力
H5N1は野鳥に感染することによって世界中に広がる可能性がある。H5N1は突然変異と遺伝子の再集合を起こすことにより、今まで感染しなかったヒトなどの動物に感染するようになることも考えられる。

高い変異率
インフルエンザウイルスはRNAウイルスであるため、突然変異率が高い。また、新たな変種が生まれる原因には、同じ宿主に2種類のインフルエンザ・ウイルスが感染した場合、ウイルス・ゲノムが分割されることによって遺伝子の再集合が起こり、遺伝子組み換えが起こることがある。これにより、病原性のなかった株がヒトに対して病原性を持つようになる可能性がある。

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2008年7月17日 (木)

【読】感染症は世界史を動かす

タイトルは、本の題名。
すこし前に古本屋でみつけて、面白そうなので買ってあったもの。
今日から読んでいるが、すこぶる興味ぶかい内容だ。

Okada_harue_kansenshou_2『感染症は世界史を動かす』
 岡田晴恵  ちくま新書 580 2006.2

― 著者略歴より ―
岡田晴恵(おかだ・はるえ)
1963年生まれ。 共立薬科大学薬学部大学院修士課程卒業。
順天堂大学医学部大学院博士課程中退。 医学博士。
専門は感染免疫学、ワクチン学。
現在は国立感染症研究所ウィルス第三部研究員。
その間、マールブルク大学ウィルス学研究所に留学する。
(以下略)

― カバーより ―
歴史からなにがしかを学びとり、自衛、防衛するための手がかりを見出せないだろうか。 それが本書を書く、私の強い動機となった。 さらに、ふり返るだけでなく、前を向きたい。 それは、私の職務上の意思であったかもしれない。 このことから、最後の章では新型インフルエンザの危機管理にも言及した。

この本の冒頭、ドイツの古い大学街マールブルクをはじめて訪れたときのエピソードがいい。
聖エリーザベト教会を訪れ、13世紀、ハンセン病に尽くしたエリーザベトという女性に思いをはせるところは、感動的だ。

― あとがきより ―
 私が世界やその歴史とのつながりをもって感染症を捉えなおすきっかけとなったのは、ドイツ留学であった。 地続きのヨーロッパにおいては、戦乱に明け暮れるのと同じくらいのさまざまな感染症に脅かされながら、歴史を刻んで来ている。 ドイツの古い街には、そこかしこに感染症の惨禍をしのばせる跡が残っていた。
 私の住んだマールブルクもまた、ハンセン病に尽くしたエリーザベトの眠る街であった。 私の下宿の窓を開けると、山上に方伯城が見え、目の前にはエリーザベト教会が壮麗な姿で立っていたのだった。 (後略)

このように、しっかりとした動機で書かれた本なので、読み応えがある。

― 目次より ―
第一章 聖書に描かれた感染症
 中世のハンセン病、イエスの治療と教会のハンセン病対策、他
第二章 「黒死病」はくり返す?
 ハーメルンの笛吹き男、フィレンツェを襲ったペスト、他
第三章 ルネッサンスが梅毒を生んだ
 シューベルト、モーパッサンとハイネ、ニーチェ、他
第四章 公衆衛生の誕生
第五章 産業革命と結核
 結核のロマン化、劇作家チェーホフの結核、
 樋口一葉、正岡子規、エンゲルスの見たロンドン、他
第六章 新型インフルエンザの脅威
第七章 二一世紀の疾病

残念なことに、エイズ(HIV)とC型肝炎(HCV)という、現代の大きな二つの感染症については触れていないようだ。
詳しく書かないが、C型肝炎に無縁ではない私にとって、ちょっと残念。

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2008年7月 4日 (金)

【雑】【読】二十歳のころ

いろんなカテゴリーに突っ込んだけれど、思い出ばなしである。

今日は暑かった。
もう七月だから、こんな暑い日があっても不思議ではない。

今頃の暑い日には、二十歳の頃、はじめて上京した日を思い出す。
じりじりと暑い日だった。
私のおぼろげな記憶では、七月の初旬。
二十一歳の誕生日をむかえて、すぐの頃だった。
(記憶に自信はない)
頭陀袋ひとつ背負って、友人を頼っての上京だった。

あの頃、実際には何も希望がなかったけれど、捨て鉢な勇気のようなものは持っていたように思う。
金もなく、住まいもなく(居候生活と住み込み生活がしばらく続いた)、職のあてもなかったが、絶望はしていなかった。

若い頃はよかった、と思うわけではない。
あの頃に戻してやる、といわれても、お断わりである。

だが、なぜか懐かしい思いにかられる。
歳をとったのかな。

Tachibana_hatachinokoro_3『二十歳のころ』 I 1937-1958
 立花 隆 + 東京大学教養学部立花ゼミ
 新潮文庫  2002年1月
 (親本 新潮社 1998年12月)

萱野茂さんの項が読みたくて、ずいぶん前に買った本。
だから、他の人の項は読んでいない。

二十歳前後の大学生が、著名人にインタビューして、その人たちの二十歳の頃の話を聞き、文章にまとめるという、面白い試み。
今、あらためて見ると、興味深い人がたくさんとりあげられているのだった。
それぞれの「二十歳のころ」の時代背景もわかって、なかなかいい本なのだ。
(まともに読んではいないけれど、そう思う)

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2008年7月 1日 (火)

【読】気になっていた本(宮本常一)

いちど読みはじめたことがあったが、すぐに挫折した本。
挫折の原因は活字の小ささ、といういささか情けない事情だが、いま再挑戦している。
これが、じつに面白い。

宮本常一さんの、いまや古典といってもよさそうな代表作。

Miyamoto_wasurerareta宮本常一 『忘れられた日本人』
 岩波文庫 青164-1
 1984.5.16 第1刷発行
 1995.7.5 第28刷発行

28刷とは、さすがによく読まれている本だ。
それにしても、活字がなぁ……。
そろそろ、大活字本じゃないといけないか。

少し前に読んだ 『クマにあったらどうするか』(姉崎等、木楽舎)のあとがきに、宮本常一さんのこの本の方法(聞き書き)を参考にしたと書かれていたので、読んでみようという気になったのだ。

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2008年6月30日 (月)

【読】星野道夫と見た風景 (星野直子)

こんな本もあった。
いつ手に入れたのかも覚えていないが、まだ読んでいなかったようだ。

Hoshino_naoko『星野道夫と見た風景』
 星野道夫 星野直子
 新潮社 とんぼの本 2005.1.25

1993年に星野道夫さんと結婚した直子さんが、星野さんのことをこう語る。

― 本書 P.120- ―
 01年の夏には、アラスカの海でクジラを追う道夫さんを長い間サポートしてくれた、リン・スクーラーの船に乗る機会がありました。 私と翔馬(注:星野夫妻の子息)、それに私の両親に、クジラを見せてくれるためです。
 船上でのある夜、リンにも協力してもらってできた 『森と氷河と鯨』 の本を渡したとき、彼がおもむろに、私に尋ねたんです。
「ナオコはクマを許すことができたのか?」
 私は、
「クマを許せないと思ったことはない」
 と答えました。 なぜなら、カムチャッカに迎えに行ったときの道夫さんの表情には、苦痛の影が少しもなかったから……とても静かな顔でまるで眠っているようだったから。
 もし、その表情に苦悶や痛みを見ていたら、クマに対する想いはちがったものになっていたかもしれません。

この本は、いい。
星野直子さんの文章も、好ましい。

フェアバンクス郊外の住宅地の森の一部を購入して、友人の大工に頼んで作った星野さんの家の写真がある。
落ちついた造りのログハウスのまわりに、花がたくさん咲いている。

「もともとは岩がごろごろしているような粘土質の斜面の土地で、どちらかいえばやせた土質」 だったところへ、「業者に頼んで肥えた土を運び込んでもらい、種をどっさり蒔いたのだ」 という。 (本書 P.12)

星野さんは、とてもいい場所で最後の数年を暮らしたのだった。 

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2008年6月27日 (金)

【読】星野道夫さんをめぐって (続)

この本のつづき。

Hoshino_eien_no_manazashi『星野道夫 永遠のまなざし』
 小坂洋右、大山卓悠 著
 山と渓谷社 2006年

巻頭に星野さんの人なつっこい笑顔のカラー写真がある。
デナリ国立公園、1984年というキャプションがついている。
ほんとうに、少年のような屈託のない笑顔だ。

そのページに続いて、星野さんが最期をむかえたカムチャッカ半島南端のクリル湖周辺の写真と、星野さんを襲ったとみられるヒグマの写真が掲載されている。
北海道をおもわせる、美しい風景だ。
あの事故さえなければ、ここはここで、すばらしい場所だっただろう。

キャプション 「星野道夫が最後に見た風景」
―― 北緯51度、カムチャッカ半島南端部にあるクリル湖は、周囲45キロほどもある大きなカルデラ湖。 周囲には富士山にそっくりのイリインスカヤ山など、標高1500~2000メートル級の火山が点在している。 (中略) ベニザケを餌とするヒグマも多く棲息し、その密度は世界でも有数。 (後略) ――


ところで、この本の最終章だけは、星野さんと親交のあった 大山卓悠(おおやま・たかひろ)さんが執筆している。
星野さんの人がらが生き生きと描かれていて、好感がもてる文章だ。

その中に、ほほえましいエピソードが書かれてる。
星野さんが結婚する前の話だと思う。

大山さんは家族を連れて、フェアバンクスの星野さんの家に遊びにいった。
星野さんの家は、白樺とアスペンとトウヒの森の中にひっそりと建っていた。


―― 以下、原文から引用 ――

「じゃあ、今夜はぼくのいちばん得意なスパゲッティーを作りますから」
 星野道夫は得意顔で宣言した。 すると四歳になるぼくの長女がすかさず言った。
「パパもスパゲッティー得意だよね。 アルデンテだもんネ」
 子供は正直だというが、残酷でもある。 星野道夫はそのひと言にプレッシャーを感じてしまったのかすっかり緊張し、緬を茹でながらしょっちゅうスパゲッティーをすすっている。 緬の固さを確かめていたのだと思うが、それを見ながら長女が心配そうに言った。
 「星野さん、スパゲッティーをみんな食べちゃうんじゃないの」
(中略)
 結局、長女の予感は的中し、最初に茹でた分では皆の皿に行きわたらなかった。
「すみません。 ちょっと味見しすぎちゃったみたいで……」
 星野道夫は頭をかきながら、新たにスパゲッティーを茹で直した。

  ― 本書 第四章 「星野道夫が残してくれたもの」 より ――


この後、星野さんが大山さんのアンカレジの家を訪ねたときのエピソードが、とてもいい。
星野さんと大山さんのお嬢さんが、ムース(アラスカに住む大型のヘラジカ)の干からびた糞を投げっこして遊びだした。
その時、星野さんは容赦なく四歳の少女に糞をぶつけるのだった。


―― 以下、原文から ――

(前略) 長女も負けじと両手で糞をすくい取り、星野道夫にぶつけ返した。 さあそうなると二人とも、つかんでは投げつかんでは投げの激しい交戦になった。 星野道夫も娘も必死の形相で投げ合っている。 娘はまだ四歳の子供だ。 そんな年端も行かない女の子に、星野道夫は大人に対してするように真顔でぶつけている。 いずれ娘は泣き出すに違いないと、傍ではらはらしながら見ていたが、結局二人は飽きるまでぶつけ合って平気な顔をして息をついた。
「ああ、面白かった。 星野さんまたやろうね」
「ウン、ここはいいね。 フンがたくさんあるもんね」
 二人は息を切らしながら、目をきらきらさせてうれしそうに話している。 そんな二人を見ながら、ぼくは何か未知のものに触れたような気がした。 星野道夫も娘も、ぼくが生きる世界とは別の境界に住む人々のように見えたのだ。 あれほどひどくムースの糞をぶつけられて、なぜ長女は泣き出さなかったのだろう。 とても痛かったはずだ。 星野道夫も星野道夫で、いい大人がたった四歳の子供にああまですることはない。 まるで子供同士の喧嘩のようだった。 そう思った途端、ぼくは二人の関係がすっと理解できた。 そう、二人は子供同士で、それも仲のよい友だち同士なのだ。 (中略) 泣き出さなかったのは、星野道夫が大人でなかったからなんだ。
 星野道夫の人間性にそんな一面があることを心に留めながら、ぼくと彼の付き合いは続いていった。

  ― 同 P.221~ ―

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2008年6月26日 (木)

【読】星野道夫さんをめぐって

こんな本が私の本棚にあった。
何年前に買ったのかも忘れてしまったが、機が熟したとでもいうのだろうか、読んでみることにした。

Hoshino_eien_no_manazashi『星野道夫 永遠のまなざし』
 小坂洋右(こさか・ようすけ)
 大山卓悠(おおやま・たかひろ) 著
 山と渓谷社 2006.9.30

カバーの写真は、1996年8月4日、クリル湖畔でくつろぐ星野道夫さん。
カムチャッカ半島南端の、すばらしい風景だ。
しかし、これが彼の最後の写真になった。
四日後の8月8日未明、一頭のヒグマが星野さんのテントを襲い、星野さんをくわえて去ってしまった。
悲惨な事故だった。
享年43歳。

この本は、星野さんがなぜヒグマに襲われたのか、その真相を追い求めた話だが、それだけにととまらず、星野さんの生き方と晩年にやろうとしていたことを、友人の立場からていねいにたどっている。

私は、星野さんがクマに襲われたニュースをほとんど憶えていない。
そもそも星野道夫という人を当時は知らなかったから、関心もうすかったのだろう。
そういえば、ひとりの日本人「動物写真家」が、カムチャッカ半島でクマに襲われて死亡したニュースが流れていたような気もする、という程度だ。

この本を読みはじめて知ったことだが、当時、流されたニュースは誤解を招くものだったようだ。
「獰猛な一頭の人食い熊に襲われた」 というニュアンスで、クマはやっぱり怖いものだという誤った風聞がひろまったらしい。

星野さんを襲ったヒグマは、ロシアのある人物がエサを与え続けて 「餌付け」 したことにはじまって、人間の食糧を襲うようになり、しばしば撮影現場の近くに出没していたという。
(星野さんは、日本のテレビ局の撮影に同行していた)

「餌付け」 という日本語は誤解を招くかもしれないが、英語では Food Conditions といい、人間の食べ物の味を覚えて人間を恐れなくなったクマを指すという。
つまり、人馴れして、人間のそばに行けば食べ物があることを知っており、それが意外と簡単に手に入ることを学習してしまったクマである。
けっして、「獰猛で人間を食うクマ」 ではなく、本来の野生が人の手によって狂わされた特殊な個体なのだ。

続きは、また後日。


ちなみに、この本の著者のひとり、小坂洋右さんという人は、すこし前に私が手にいれた本の著者と同一人物であることを知った。
不思議な符合である。

Kosaka_ainu_ikiru小坂 洋右 著  写真/林 直光
『アイヌを生きる 文化を継ぐ 母キナフチと娘京子の物語』

 大村書店   1994.4.20

小坂洋右
1961年札幌市生まれ。旭川市で育つ。北海道大学卒。
アイヌ民族博物館勤務などを経て、1989年から北海道新聞記者。
(『星野道夫 永遠のまなざし』 山と渓谷社の著者略歴より、抜粋)

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2008年6月25日 (水)

【読】魔法のことば(星野道夫) 続々

Hoshino_mahou『魔法のことば』 星野道夫 講演集
  スイッチ・パブリッシング 2003.4.25

この本については、感じるところがたくさんあったので、何回も書いてしまった。
あと数ページを残すばかりとなった。

繰りかえし語られるエピソードも多いが、それは何度聞いても飽きることのない昔話、物語に似ている。

巻末、池澤夏樹さんが寄せた文章 「星野道夫の講演」 に、池澤さんらしい鋭い考察がある。
引用ばかりで気が引けるが、いくつかポイントを書いておこう。

<星野道夫が優れた話し手であったことは、その講演を文字で読んでいるだけでもわかる。 彼の話はただの情報ではない。 彼自身が二十年以上をかけて得た知恵を語るものであり、その背後にはアラスカの自然と先住民の暮らしという叡智の体系があった。>

<彼自身それを本などから得たのではなく、時として非常な危険に満ちた体験を通じて体得し、また村々の老人たちの話を聞くことによって集めたのだ。>

星野さんは、アラスカの自然にひかれていたことは確かだが、それ以上に、アラスカに住む人々が好きだったのだと思う。
星野さん自身がこう語っている。

「もしアラスカに人が暮らしていなくて、美しい自然だけだとしたら、僕はアラスカにそれほど魅かれなかったでしょう。」 (本書 P.276 1996年5月12日 八ヶ岳自然ふれあいセンターでの講演)

たしかに、星野さんの撮った雄大なアラスカの風景、動物たちの写真はすばらしく、感銘を受けるものばかりだが、私がそれ以上に好きなのは、エスキモーやインディアンと呼ばれる人々(星野さんは彼らをこう呼んでいる)のじつに魅力的な写真の数々だ。
あるいは、人間の気配が感じられる、朽ち果てたトーテムポールや、クジラの骨の墓標を撮った写真がいい。

星野さんの晩年(突然の事故死だったから、晩年ということばがふさわしくないかもしれないが)、アラスカのインディアンやエスキモーに伝わる伝説(ワタリガラスの伝説)のルーツを追って、シベリアへ足を伸ばそうとしたのも、星野さんが人間を好きだったからだと思う。

池澤さんは、上に引用した文章に続けて、星野さんの講演についてこう書いている。

<本当は公民館や講堂ではなく冬の炉端で、あるいは夏の夜に星空を見ながら、聞くべき話かもしれない。 また、できればあなたは子供であった方がよかったかもしれない。 もちろん、それをこの本で読むのではなく、彼の話を直に聞ければそれがいちばんよかった。 でも贅沢は言うまい。 (後略)>

<これは彼が語ったところを本にまとめるという変則的な成り立ちの本である。 読み手の方もこれを読むのにはちょっとした工夫がいるとぼくは考える。 (中略)>

<まず、ゆっくり読むこと。>

<次に、一度にたくさん読んではいけない。 彼は本当に大事なことしか言わなかった。 そして本当に大事なことは何度でも言った。 先住民の語り手は同じ話をいくどとなくする。 大事なことはそうやって聞き手の心の奥深くにしっかりと刷り込むものなのだ。>

星野さんが、あの事故にあわずに仕事を続けていたなら、今の私とほぼ同じ年齢になるはずだ。
(同期といっていい年齢の人だったから)
今頃どんな写真を撮り、どんな話を聞かせてくれただろうか、と思う。
さびしいことだが、しかたのないことである。



以下、全くの蛇足で、星野さんの本の価値をおとしめるものではないのだが、この本(2003年4月25日 第一刷)には、あきらかな誤植がいくつかある。
まちがったまま受け取る人はいないだろうし、その後訂正されているかもしれないが……。

P.70 「第三章 めぐる季節と暮らす人々」 の講演場所
 北海道十勝市清水町 → 北海道上川郡清水町
※私は、市町村合併でこんな市(十勝市)が誕生しようとしていて、それを先取りしてこう記述したのかと思った。 一瞬だが本当にそう思って、調べたりした。

P.266 「第九章 100年後の風景」 の講演場所
P.286 「第十章 インディアンたちの祈り」 の講演場所
 山形県八ヶ岳自然ふれあいセンター → 山梨県八ヶ岳・・・
※これも、一瞬だが、山形県にも八ヶ岳という地名があるのかと思った。 厭味でも皮肉でもない。

八ヶ岳山麓で星野さんが講演していた頃(1996年5月)、私は、まさにその八ヶ岳連峰の南端にある山小屋へ、足繁く通っていた。
その当時、星野さんのことをまったく知らなかったので、今からおもうと残念なことをした。
しかし、これも人生での巡りあい、「縁」というものなのだろう。

星野さんは、八ヶ岳山麓での講演で、八ヶ岳によく通っていた頃のはなしもしている。
彼にとっても思い入れの深い土地だったようだ。



【参考サイト】

(星野さんの写真が見られるサイト)
写真家 星野道夫 | 富士フィルム ウェブ写真美術館&ショップ
 http://fujifilm.jp/promotion/museum/photographer/hoshino/index.html

(星野さんの事故死の謎を追求した本)
山と渓谷社-商品紹介>星野道夫 永遠のまなざし
 http://www.yamakei.co.jp/products/detail.php?id=340200

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2008年6月24日 (火)

【読】魔法のことば(星野道夫) 続

「switch」 19994年7月号 (Vol.12, No.3) を手に入れることができた。

Switch_100407特集 星野道夫
 狩猟の匂いを我々は嗅ぐことができるか

モノトーンの星野さんの写真が表紙に使われていて、なかなかいい。
先日読んだ
  『終わりのない旅 星野道夫インタヴュー』
 (スイッチ・パブリッシング)
の元のインタビュー記事が掲載されている。

LONG INTERVIEW
 「原野に生命の川が流れる」 (P.49-62)
 文 湯川豊 / 写真 垂見健吾

今読んでいる講演集 『魔法のことば』 (スイッチ・パブリッシング) にも、ちょうどこの時期(1994年)の講演が載っている。
南東アラスカに、星野さんの関心が移っていった時期だ。

星野さんの「魔法のことば」を、ここでまた引用したい。
(1994年4月9日、第4回国際イルカクジラ会議江ノ島フォーラムにて行われた講演。講演タイトルは「南東アラスカとザトウクジラ」)

 エスキモーの考え方、精神世界というものはだんだん消えつつありますけど、一つはイヌアという考えが精神世界の中で非常に大きな意味を占めています。 イヌアというのは、あらゆる生物や、山とか川とか流氷などの無生物も含めて、すべてのものに人間が住んでいる。 つまり万物が人間のように生きているという考え方があります。 (中略) もう一つはシラという考え方で、災害や病気など人間の手に負えない超自然の世界を支配している神の存在をさします。 このイヌアとシラと霊魂が昔から彼らの精神世界を支えている。 (後略)  ― P.199 ―

 生物は気が遠くなるくらいの時間を経てここにあるわけですが、毎年そこに戻ってくるザトウクジラと氷河と原生林、この三つをテーマにそのことをとても分りやすく表現できるんじゃないか、そう思ったわけです。 (中略) そういう長い時間ということを考えたときに、では人間の持っている時間とはどういうものなんだろうか、(後略)  ― P.202 ―

この後、星野さんは面白いことを言っている。
私はちょっと意表をつかれたが、なるほどなと思う。
引用だと長すぎるので、一部を要約して引用する。

 歴史というものは、それほど遠いときに起ったものではない。 ずっと続いているということだ。
 人間の歴史を頭の中で考えるとき、人間の一生を基準にしたスケールで考える。
 例えば、弥生時代を考えたとき、それが1800年とか2000年前の遠い昔の出来事のように思ってしまいがちだが、人間の一生を辿っていくことで見てみる。
 弥生時代がどれくらい前かというと、自分が今ここにいて、その前に親がいて、その前にまた親がいて、そういう人の一生を繋げていくことによって歴史を見ていくと、弥生時代なんていうのは人間が一列に並んだら60人から80人くらいが並んでいるに過ぎないのではないか。

(以下、原文)
 つまりその一列に人間が並んでいる場合に、ふと自分と血が繋がっている弥生時代の人間というのは、顔の形さえきっと見えるんじゃないかというふうに思ってしまう。 そういふうに考えると、人間の歴史はとても短いような気がしてしょうがないんですね。 つまり地球のスケールや歴史を考えた場合、一億年というタイムスケールはやはり手が届かない。 例えば恐竜が絶滅した何万年前というのはちょっと僕らの感覚では分らないけれども、一万年前だったら人間の歴史を遡ることで本当についこの間のことのように感じられる気がするんです。  ― P.203 ―



Hoshino_moritohyouga『森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて』
 星野道夫 1996.12.10 世界文化社

月刊「家庭画報」 (世界文化社刊)に、1995年8月号から1996年9月号まで連載されたが、星野さんの急逝(1996年8月8日)によって、未完のままとなった。
星野さん晩年(結果的には、だが)の大きな仕事のとっかかりだった。

Life is what happen to you while you are making other plans.
(人生とは、何かを計画している時起きてしまう別の出来事のこと)
― 星野さんの友人だった シリア・ハンターのことば ―

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2008年6月23日 (月)

【読】魔法のことば(星野道夫)

通勤途上で何を読むか、じつは難しい選択である。
活字が小さい本は目がつらいし、分厚い単行本は重い。

そうだ、星野道夫さんの講演録があった、ということで、今日から通勤途上で読んでいる。

Hoshino_mahou『魔法のことば』 星野道夫 講演集
  スイッチ・パブリッシング 2003.4.25

タイトルがいい。
星野さんのことばは、ほんとうに魔法のようだ。
語られているのは、いつも同じことが多いが、何度聴いても(読んでも)あたたかい気持になれる。

  彼は本当に大事なことしか言わなかった。
  そして本当に大事なことは何度でも言った。 ――池澤夏樹


 ……人間にとって大切な自然が二つあるような気がします。
 一つは、皆にとっての身近な自然です。 例えば家の近くの森や川、鳥だとか、そういう日常に近い自然の大切さがありますよね。 それは日々の暮らしの中で変わっていく自然ですが、もう一つ、遠い自然も人間にとって大切なのではないかと思うんです。
 そこには一生行けないかもしれないけれども、どこか遠くにそういう自然が残っていればいつか行くことができるかもしれない。 あるいは、一生行けないかもしれないけれども、いつも気持の中にある、そういう遠い自然の大切さがある。
 それはアラスカだけに限らず、アフリカであれ南米であれ、また日本であれ、たとえ自分がそこに行かなくても、日常の暮らしに関わりがなくても、ただそこにあることで人の気持が豊かになる自然があるのだと思います。

(本書 P.98-) 「第三章 めぐる季節と暮らす人々」
 1993年2月6日
 北海道清水町で行われた写真展「アラスカ」に際して行われた講演

 1993年2/6~11 「ALASKA 風のような物語」 北海道清水町文化センター


星野道夫公式サイト
 http://www.michio-hoshino.com/index.html

スイッチ・パブリッシング
 http://www.switch-pub.co.jp/

―上記サイトより―
星野道夫 (ほしのみちお)
写真家、作家。1952年千葉県市川市生まれ。76年慶應義塾大学経済学部卒業後、アラスカ大学野生動物管理学部に留学。以後アラスカに身を置き、厳しい自然に生きる動物や人々を撮り続け、誠実な人柄を表すような透明感あふれる文章も高い評価を受ける。96年8月8日、取材先のカムチャツカ半島クリル湖畔にて、ヒグマに襲われ急逝。享年44歳。

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2008年6月22日 (日)

【読】星野道夫さんとクマ(続々)

星野道夫さんの魅力は、なかなか語りつくせないのだが、ちょうど今読んでいるインタビューの本に、探していた言葉がみつかった。

Hoshino_yukawa_interview『終わりのない旅 星野道夫インタヴュー』
 湯川豊  スイッチ・パブリッシング 2006.8

すこし長く引用する (本書 P.114-)。
星野さんの思想の核がよくあらわれていると思うので、彼の語り口をそのまま省略せずに引用してみる。

(湯川) さて、最後にひとつうかがっておきたいことがあります。 星野さんは、いろんなところでたびたび、人間のいない自然、人間のいない世界について書いていますね。(中略)
 人間のいない自然というものがある。 人間が見ない自然、人間を知らない自然。 人間が見れば、その瞬間にすでに見るということで人間が自然に関わるわけだでれど、ときとして、見ながらも、その見たことから、人間の関わらない自然の世界を直観することがある。 星野さんが語ろうとしていることは、そういうことですね。

星野 あのう、自分でもよくわからないんですが、子どもの頃からずっと、ある一つの映像みたいなものがあるんです。 昔、北海道に対して強く憧れていたとき、開拓時代のことを書いた本なんかを読んでいて、北海道にクマがいるということをすごく不思議に思ったことがあった。 思ったことがあったというより、そんなふうに思い続けていた時代があったんです。
 自分が本を読んでいるそのとき、あるいは東京で電車に乗っているとき、同じ時間に、北海道のどこかの山の斜面を、クマが歩いている。 確実に。 当たり前のことですよね。 でも、北海道の遠さとかクマという動物の大きさがごっちゃになって、そういうヘンな感じをもったと思うんですが、今自分が生きている瞬間に、日高なら日高の山のなかで、クマが呼吸していたり、歩いたり、木をとび越えたりしている。 それをすごく不思議なことのように思った時代というのがあるんですよ。 そして、子どもじみた考えなんですけれども、自分がまったくいない、消えた状態で、上からそっとでもいいから、山のなかを歩いているクマを見てみたいなあ、と思った。 今この瞬間、クマは自分とは関係なく、どこか山のなかを歩いている。 それを見たい。 でも自分がそこにいたら、もう出会っちゃっているのだから、自分のいない状態でのクマは見られない。 その自分のいないときのクマの映像を見てみたいという憧れがあって、そんなふうに思うと、なにか現実の世界が漠々としたものに思われてくる。 ……なんだか子どもじみた、それだけの話なんですが。 でも、そんなことが、自分が自然というのは本当に面白いなと思う、最初のきっかけだったんですね。

淡々と語られているが、このような感じ方が星野さんのすごいところだと思う。
星野さんの写真とエッセイの底に、通奏低音のように流れる自然観である。
自然観というよりも、地球観、宇宙観とでも呼びたいような、スケールの大きな感覚。


北海道のヒグマの本からはじまって、こんなところまできてしまった。

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2008年6月21日 (土)

【読】星野道夫さんとクマ(続)

Hoshino_coyote_no2「coyote」 №2 2004.10.8
  特集 星野道夫の冒険
 株式会社 スイッチ・パブリッシング

この中に、「星野さんへの質問箱」 というページがある。
星野さんは、このように質問に答えている。

 クマに出合ったらどうすればいいんですか?
 そうですね。 それこそがアラスカにおける永遠のテーマの一つだんだけれども、誰も正しい答えは持っていないんですよ。 でも僕が思うのは、みんな、二つの間違いを犯すケースが多いんです。 一つは怖がりすぎるということ。 クマと出合った時に、やっぱりクマも怖いわけだからとっさに判断するわけですよね。 怖いから襲うか、怖いから逃げるかって。 そういう時にこちらが落ち着いていると、クマにもそういう気持ちが伝わると思うんです。 (後略)

この雑誌はとてもすばらしいのだが、引っ張り出してきたのにはわけがある。
今日、近くの図書館から、星野さんへのインタビューの本を借りて、読んでいるのだ。
ぐいぐい引き付けられる内容で、今日中には読み終えるだろう。

Hoshino_yukawa_interview『終わりのない旅 星野道夫インタヴュー』
  ― 原野に生命の川が流れる ―
 湯川豊 スイッチ・パブリッシング 2006.8.22

このインタビューは、1994年2月、星野さんが帰国していた折に二回にわたって行なわれたもので、「Switch」 同年7月号に掲載され、星野さんの死後、『表現者』 という本に収録されたものだ。
「Switch」 は持っていないが、そういえばこんな雑誌があったな、と思いだしたのが上の 「coyote」 だ。


Hoshino_hyougensha1Hoshino_hyougensha2『表現者 星野道夫』
 株式会社 スイッチ・パブリッシング
 1998.9.10
何年か前、星野さんのことを知った当時、立て続けに読んだ本のなかの一冊。
図書館から借りて読んだのだが、深く感銘をうけ、その後購入。

湯川豊さんは、文藝春秋社の編集者だった人で、星野さんと親交があったそうだ。
星野さんの 『旅をする木』 (文藝春秋社) は、湯川さんが編集者だったときに、「原稿を書くのにまとまった時間をつくるのがむずかしい、といった彼に、僕(という読者)に宛てた手紙を書くかたちにしたら、と勧め」、「三部に分かれているうちの(I)の部分は、その手紙がそのまま収録されている」 という。
(『終わりのない旅 星野道夫インタヴュー』 はじめに/湯川豊)


ということで、いま読んでいるインタビューは、私には再読のはずだが、胸にしみる会話である。
巻末に、池澤夏樹さんの一文があるが、その中で池澤さんはこう書いている。

<星野道夫が死んでもう十年になると聞かされて、ぼくは驚く。
だってあれはついこの間のことではなかったか。 (中略)
星野道夫はアラスカを自分の領域として選んだ写真家であり、行動的な思索者だった。 死んだ時、彼には写真と文章を通じて伝えるべきメッセージがあった。 その内容は決して単純明快なものではなく、一点の写真、一行の文章によって伝わる部分もあれば、彼のすべてを見てすべてを読んでも掴みきれないものもある。 (後略)>

<彼が遺した写真と文章は福音書によく似ている。 一行だけでも意味が深い一方で、ぜんぶを読んでもまだその全容は理解できないと思わせる。 繰り返しの多い、しかも強烈なエピソードに満ちた、フラクタルな文体。>

 (本書巻末 「星野道夫の十年」 池澤夏樹)


星野さんが遺したたくさんの写真、文章は、汲めども尽きない清冽な泉のようだ。



※ フラクタル fractal
 自己相似図形 小さな部分が全体の図形の縮小である図形
  (三省堂 コンサイス カタカナ語辞典 第2版)
いかにも池澤さんらしい理科系用語だが、星野さんの文体の特徴をよくあらわしていると思う。

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2008年6月20日 (金)

【読】星野道夫さんとクマ

めずらしく四日間で読みきった本。
それほど、引き込まれる内容だった。

Anezaki_kuma『クマにあったらどうするか』
  ― アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 ―
 聞き書き 片山龍峯 / 語り手 姉崎等
 木楽舎 2002年

最終章(第八章 クマの生きている意味) 、とつぜん星野道夫さん(写真家、故人)の文章が引用されていて、はっとした。

以下、引用と孫引きばかりでちょっと気がひけるが。
(原文の漢数字はアラビア数字に置き換えた)

<本書 315ページより>
 姉崎さんは、2001年6月に、長い間持っていた銃を手放した。 (中略)
 12歳から77歳まで65年間にわたって狩人として生きてきた姉崎さんは、鉄砲を手放した今、ヒグマをどのように思っているのだろうか。 そして、ヒグマが生きている意味をどう考えるのだろうか。 アラスカでクマをはじめ野生動物と自然を撮ってきた写真家の故星野道夫氏は、クマの生きている意味について次のように述べている。
「もしもアラスカ中にクマが一頭もいなかったら、ぼくは安心して山を歩き回ることができる。 何の心配もなく野営できる。 でもそうなったら、アラスカは何てつまらないところになるだろう」
「人間は常に自然を飼いならし、支配しようと考えてきた。 けれども、クマが自由に歩きまわるわずかに残った野性の地を訪れると、ぼくたちは本能的な恐怖をいまだに感じることができる。 それはなんと貴重な感覚だろう。 これらの場所、これらのクマはなんと貴重なものたちだろう」
(『ベア・アタックス』) と。 この文章を読んだとき、姉崎さんならば、クマが生きている意味をどのように考えるのだろうか、無性に聞いてみたくなった。


星野道夫さんが書いたか、語ったものの中で、私の記憶に強く残っているエピソードがある。
正確ではないかもしれないが、星野さんが高校生の頃、電車のつり革につかまって、ぼんやりと北海道のヒグマのことを思っていたという、そのような話だ。
都会の電車の中で、じぶんは今こうしているけれど、同じときに、北海道の広大な山中をヒグマがゆっくりと自由に歩きまわっている……。

このイメージが、私には鮮烈だった。
星野さんはそういう少年だったから、アラスカの広大な自然を、じぶんのフィールドに決めたのだと思う。

姉崎等さんという、和人を父に、アイヌ女性を母にもった根っからの猟師は、生き方こそちがっているが、星野道夫さんの考え方に通じるものをもっている。


もう一箇所、この本のあとがきで、星野道夫さんの文章が引用されている。


<本書 338ページより>
 私たちヒトは望むと望まざるにかかわらず、これからも野生の生きものたちの性格を変えてしまうほどの重大な影響を及ぼしながら進化の道を歩むことになる。 そのことを考えると、私たちヒトは、他の生きものたちから生き方を問われているのだと思い知るのである。
 一方、私たちヒトもクマがこの世界に存在することで大きな影響を受けている。 写真家の星野道夫は、
「アラスカの自然を旅していると、たとえ出合わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。 (中略) クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれる」 (『星野道夫の仕事 第3巻』) と延べている。


思わぬところで、星野道夫さんの世界とつながった本だった。
ひさしぶりに、星野さんが残した美しい文章に触れたくなった。

Hosihino_books1_3Hosihino_books2
 

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2008年6月17日 (火)

【読】クマにあったらどうするか(続)

昨日、この本のタイトルをまちがえて書いてしまった。
クエスチョンマークは、いらなかった。

Anezaki_kuma『クマにあったらどうするか』
 ― アイヌ民族最後の狩人 姉崎等 ―
 木楽舎 2002年

今日から読みはじめたのだが、とても面白い本だ。
「クマに会ったら……」 というのは、この本の章題のひとつだが、内容はもっと幅広い。
根っからの狩人が、インタビューに答えるかたちで、山歩きのこと、クマや山の動物たちのことを語る。

こういう生き方もあるのだな、と感心する。
猟のための山歩きを長年続けた人だが、学ぶところが多い。

姉崎さんは、山を歩くときに余分なものを持たない。
米、塩、飯盒、ナイフ、ナタ、ノコギリ、細引き、かんじき、マッチ、小さなリュック、それに 「エキムネクワ」 という木の杖、それぐらいだ。
衣類も、いたって素朴なものだ。
着更えも持たないというし、手袋は軍手一足だけ。

とうぜん、山の中では簡単な小屋がけをするか、野宿。
マッチだけで火をおこし、山の中でとったものを食べる。
焚き火のやり方だけでも、そのあたりのヤワな 「サバイバル書」 より、よほど役に立つノウハウが満載。
山は、本来、こういうふうに歩くものなのだな。

毎日、都会の喧騒の中で生活していると、この人のような素朴な山歩きが懐かしくおもわれる。
読んでいて、元気がでてくる本だ。


第一章 こうしてクマ撃ちになった
第二章 狩人の知恵、クマの知恵
第三章 本当のクマの姿
第四章 アイヌ民族とクマ
第五章 クマに会ったらどうするか
第六章 クマは人を見てタマげてる
第七章 クマと共存するために
第八章 クマの生きている意味


ちなみに、インタビュアーの片山龍峯さんは、3枚組CD 『アイヌ神謡集をうたう』 の監修者。

【参考】
 2007年9月11日の記事
 【読】アイヌ神謡集
  http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_3d54.html

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