カテゴリー「阿部謹也」の8件の記事

2014年3月 4日 (火)

【読】さて、軽めの本を

サブカテゴリーが 「こんな本を手に入れた」 でも、図書館から借りてきた本が多い。

きのう読みおえた、内容・ボリュームともに重厚な本から解放されて、ほっとしている。
意地で読み通したようなものだ。
翻訳ものは、片仮名の地名・人名が多くてくたびれた。

 → 2014年3月3日 (月)  【読】コートジボワール
   http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-981e.html

さて、図書館からまとめて借りてきている本でも、ということで昨晩から読んでいる。
岡崎武志さんの、軽い本だ。

岡崎武志 『あなたより貧乏な人』
 メディアファクトリー 2009/10/16発行 238ページ 1,200円(税別)

一種の読書ガイドなのだが、「貧乏」の視点からさまざまな物書き、書籍を紹介している。

目次から拾いあげると、こんな内容。

プロローグ ビンボー原論
 日本人には貧乏がよく似合う/時代のキーワードは「貧困」/黒澤も小津も描いたビンボー/
 みんなで一緒に貧しくなればいい/他
第1章 富裕より貧格の人びと
 死神博士はホームレス!?――【天本英世】
 貧乏でも死ぬまでモテモテの詩人――【金子光晴】
 貧しくても頭のなかは無限の広がり――【稲垣足穂】
第2章 愉快痛快!有名人の貧話 ※〇貧
 赤瀬川原平、岸部四郎、西原理恵子、吉田拓郎、得能史子、群ようこ、他
以下、第6章まであるが、割愛。

目次にでてくる人名だけ、おもなものをあげると――
吉永小百合、森茉莉、成瀬巳喜男、岡本喜八、三好達治、石川啄木、五木寛之、浅沼稲次郎、等々。

プロローグに書かれている、岡崎さんの「貧乏」への思い――今の日本の見せかけの豊かさへの疑問――には、おおいに同意する。

<金のつかいっぷりからすると豊かに見えるが、服装も立ち居振る舞いも、ヤンキーがそのまま大人になったような親、そしてその予備軍としての子どもが、いま日本国中、幹線道路沿いに並ぶチェーン店にあふれ出している。これは戦後の焼け跡と並ぶ、荒廃した光景だろう。/これなら、もっと生活水準の低い昭和三十年代の方がましだった。>

他にも、図書館から借りてきている興味ぶかい本が数冊。
岡崎さんのものは、再読も混じっている。

阿部謹也さんの本 『知のノウハウ 読書力をつける』 (日本経済新聞社・1997年)は、これまで知らなかった本。
図書館の書架をこの目で実際に見て歩くと、こういう本がみつかるものだ。

       

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2013年11月11日 (月)

【読】世界教養全集

市役所の近くに用があってでかけたので、中央図書館に寄ってみた。
館内の検索端末で、著者名「モース」をキーワードに検索。
こんな本があったので借りてきた。

エドワード・シルヴェスタ・モースの『日本その日その日』を読んでみたかったのだ。
「世界教養全集」、懐かしい。
「日本教養全集」というのもあった。
古書店でもあまり見かけなくなったが、さすがに図書館、全巻揃っていた。
もっとも、開架に置ききれず、閉架書庫にはいっていたが。

平凡社 『世界教養全集 7』 1961年(昭和36)11月発行
 「秋の日本」 P.ロディ/村上菊一郎・吉氷清 訳
 「東の国から」 L.ハーン/上田保 訳
 「日本その日その日」 E.S.モース/石川欣一 訳
 「ニッポン」 B.タウト/篠田英雄 訳
 「菊と刀」 R.ベンネディクト/長谷川松治 訳

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522ページのコンパクトな本一冊に、これだけ詰まっているのだから、すごい。
もっとも活字はちいさいが。

ところで、「教養」といわれると、なにやら身構えてしまうのだが、阿部謹也さんによれば、ほんらい人間にとってもっと基本的な「知」を指すらしい。
私には「知恵」という言葉のほうが、しっくりくる。
明治期、外国の概念を無理やり漢語に翻訳した日本の知識人の感心できない遺産なのかも。

<教養という言葉はある種の威圧的な響きをもっている。「あの人は教養がある人だ」というような言葉を聞くと、そばにいる人は自分には教養がないことがあげつらわれているように思ってしまう。しかしそれでは教養を身につけるにはどうしたらよいのかと考えるとそれは実に曖昧なのである。……>

<たとえば農業に従事している人を考えてみよう。彼らは自分たちの仕事が人々の生活を支えていることを知っていたであろう。自分たちの仕事が社会の中でどのような位置を占めているかについては自ら考えをめぐらすことはなくても、知っていたであろう。ただし彼らがそのことを言葉に出して語るためにはもう一つの「教養」つまり文字が必要であったから、それが言葉になるためには長い年月が必要であった。しかし彼らはこうしたことを身体で知っていたから、「いかに生きるか」という問いを立てる必要もなかったのである。こうした人々の人生に向かう姿勢をあえて教養というとすれば、それは集団の教養というべきものであろう。>

(阿部謹也 『「教養」とは何か』 講談社現代新書 1997年)

阿部謹也さんの著作を読んだとき、まさに目から鱗が落ちる思いを何度も経験したものだが、いかんせん、もう忘れてしまっているんだなあ。

 

講談社現代新書は、カバーが新装になって味気なくなった。
あの、黄色い杉浦康平デザインがよかったな。
私が持っているのは、下のカバーの古い版。

Abe_kinya_kyouyou_3 Abe_kinya_seken_2

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2007年1月13日 (土)

【読】勢古浩爾さんの三冊目

ひさびさの読書日誌。
長ったらしいので、興味のない方は読み流していただきたい。

年があけて最初に読みおえた本がこれ。
Seko_kouji2_1勢古浩爾 『自分をつくるための読書術』
 ちくま新書 134 1997.11 \680(税別)
― カバーから ―
<「自分」をつくるということは、割合しんどいことである。 そんな思いまでして、しかもどんな保証もないのに、なぜ「自分」をつくらなければならないのか。 いったいなんの得があるのか。 理由は簡単だ。 「自分」をつくらないで生きていくことは、もっとしんどいからである。>

このての読書案内が好きなので、おもしろそうだなと思って読みはじめた。
なかなか刺激的な内容である。
冒頭、<はじめに ――「自分」をつくるとはどういうことか>から、意表をつくようなことが書いてあり、うなってしまった。
<人間の気質や性格(人間性)は、そのほとんどが三歳までにできあがってしまうから、それ以降どんなに変えようとしても無駄である、という考えがある。 悪あがきはやめなさい、というわけでもあるまいが、この三歳決定論に関しては、わたしも基本的には信じるほかないという気がする。 しかし、だから自己形成へのあらゆる意思や試みは無効であるという諦観にわたしは同意しない。 もしも自分で「自分」をつくることができないのなら、そんな「自分」にひとは責任をとる必然性がまったくないからである。
(太字は原文のまま)

全6章のタイトルをあげておく。
この章題に勢古さんの考え方がよくあらわれていると思うのだ。
各章の末尾に、ブックリストがあり、勢古さんの推薦書があげられている。
そのなかで、ぼくが興味をもった本も書いておこう。
(読んだことのある本も、いくらかあるが、もういちど読んでみようかと思う)

第1章 「世間」を生きぬくための読書 ~あらゆる形式を疑え~
阿部謹也さんの「世間」論からはじまるところが、ぼくにはうれしかった。
■ブックリストから■
『無名人名語録』(永六輔/講談社文庫)
『アイルトン・セナ日本伝説』(松本洋二/新潮文庫)
『この国のかたち(四)』(司馬遼太郎/文春文庫)

第2章 「弱さ」を鍛えるための読書 ~一冊の本は決定的に発火する~
<学生時代、『共同幻想論』という本が薄暗い生協の本棚に平積みにされていたのを思い出す。ベストセラーだという噂は知っていたが、なにがキョードーゲンソーロンだとわたしは無視した。吉本隆明氏が何者かはまったく知らなかった。自慢じゃないが相当無知であった。・・・大学卒業後のある日、友人のNが「おまえなんか吉本があうんじゃないかなぁ」といった。かれの真意はわからなかったが、わたしはその日、はじめて吉本氏の本を買った。> という、勢古さんが出会った「衝撃的かつ決定的な一冊」は、吉本隆明さんの『情況』(河出書房新社)。
■ブックリストから■
『共同幻想論』(吉本隆明/河出書房新社、角川文庫)
『犠牲』(柳田邦男/文藝春秋)
『夜と霧』(V・E・フランクル/みすず書房)

第3章 「論理」の力をつけるための読書 ~読むなら考えよ考えぬなら読むな~
論理(論理的な考え方)はたいせつである。しかし、論理の限界点には<理不尽>がある。・・・と勢古さんは言う。
<「自分」をつくるうえで論理の重要性はいくら強調してもしすぎることはない。だが論理だけでひとを感動させることはできない、というのもまた事実である。論理がその力をもつためには、論理に根性がはいっていなければならない。>
この章で引用されている、吉本隆明さんの次のことば(『カール・マルクス』から)は、ぼくも好きだ。
<市井の片隅に生まれ、そだち、子を生み、生活し、老いて死ぬといった生涯をくりかえした無数の人物は、千年に一度しかあらわれない人物(註:カール・マルクスのこと)の価値とまったくおなじである。>
■ブックリストから■
『重力と恩寵』(シモーヌ・ヴェイユ/ちくま学芸文庫)
『敗北の構造』(吉本隆明/弓立社)
『ぼくならこう考える』(吉本隆明/青春出版社)

第4章 「理不尽」を生きるための読書 ~すべての本を軽蔑せよ~
■ブックリストから■
『悲しみの家族』(宮城賢/春秋社)
『岸辺のアルバム』(山田太一/角川文庫)
『冷い夏、熱い夏』(吉村昭/新潮文庫)
『人間の土地』『夜間飛行』(サン=テグジュペリ/新潮文庫)

第5章 「覚悟」を決めるための読書 ~わたしがルールブックである~
この本を通して、<自分さがし>などするな、ということが繰り返し言われている。
同様に<自分らしさ><人間らしさ>などという、口あたりのいい、それでいて何の意味もない言葉を痛烈に批判する。読んでいて爽快。
■ブックリストから■
『単純な生活』(阿部昭/講談社文芸文庫)
『神聖喜劇(全5冊)』(大西巨人/ちくま文庫)
『鹽壷(しおつぼ)の匙』(車谷長吉/新潮文庫)

第6章 「自分」をゆさぶるための読書 ~自分に関係のない本などない~
著者・勢古浩爾さんは、若い頃(およそ30年前)、ほぼ一年をかけてヨーロッパ、中近東、アジアを旅し、そのときに持っていた本は、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ペーパーバックの原書)一冊だけだったという。
■ブックリストから■
『昭和精神史』(桶谷秀昭/文春文庫)
『ねむれ巴里』(金子光晴/中公文庫)
『東南アジアを知る』(鶴見良行/岩波新書)
『深夜特急(全6冊)』(沢木耕太郎/新潮文庫)
『望郷と海』(石原吉郎/ちくま学芸文庫)
『広島第二県女二年西組』(関千枝子/ちくま文庫)
『泥まみれの死 「沢田教一写真集」』(沢田サタ編/講談社文庫)
『大地の子(全4冊)』(山崎豊子/文春文庫)
『城下の人』『曠谷の花』『望郷の歌』『誰のために』(石光真清/中公文庫)
『生きることの意味』(高史明/ちくま文庫)

以上です。 ああ、しんど。
もちろん、ぼくには、こんなにたくさん読めやしないが、何冊かは手に入れて読んでみたい、あるいは再読したいと思ったのである。
この新書は、良質のブックガイドであり、骨のある自前の「思想」が語られている一冊。

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2006年9月22日 (金)

【読】世間 (4)

さらに続くのである。 興味のない方は、読み飛ばしてください。
(引用も多いので、読みにくいと思う)
Abe_kinya_rekishi_2『日本人の歴史意識』 という本の中で、阿部謹也さんは、「日本人にとって歴史とは何か」 というテーマを「世間」という視角から考えている。
『「世間」とは何か』(講談社現代新書)では、もっぱら日本の歴代の文学を題材に論じていたが、この本では、専門の西洋史(中世史)にも触れながら、西欧社会と比較して、日本の「世間」の特殊性をとことん論じている。

阿部さんの著作にぼくが好感を持つのは、学者が研究テーマとしてとりあげるという通りいっぺんの関心ではなく、自分自身の(生活を含めての)モンダイとして、学者らしい緻密で論理的な考察をしているところである。

<「世間」の中で閉塞させられてきた個人を解き放たなければならない。 しかしそれは西欧の個人の歴史をなぞるようのものであってはならない。 ・・・西欧の個人は人間を世界の覇者として位置づけ、他の動植物を人間に奉仕するものと見なしてきた。 このようなキリスト教的な人間理解を私たちは共有できない。 私たちにはそれとは違った「世間」の歴史があるからである。・・・> (第9章 日本人にとって歴史とは何か)

阿部さんは、さらに、
「世間」の中で個人を解放してゆくのは極めて困難な道ではあるが、「世間」の中にありながら、歴史を自分自身の体験として身近に引き寄せるためにはどうしたらよいか?
と問う。

その答えに、ぼくは勇気づけられたのだが・・・
<多くの人が「世間」の中で安住し、歴史を「世間」の外で演じられているドラマとしか見ていないときに、自ら直接歴史と出会い、歴史を描くためにはまず「世間」と闘わなければならないのである。・・・> (第9章 P.201)

うーん。 あんまり闘いたくはないな。
できることなら、世間と折り合いをつけながらケンカせずに生きていきたい、というのが怠惰なぼくの考え方なので、どうなるかと思っていたら・・・次のことば。

<しかし「世間」との闘いは単純な闘いではない。 「世間」の中で自分の道を切り開いてゆくための闘いだから、「世間」と正面からぶつかる必要はない。 笑顔で「世間」の人々と付き合いながら、自分の道に関しては徹底的に闘う姿勢を静かな態度で示さなければならない。・・・> (第9章 P.202)

ぼくは、吉本隆明さんの生き方を思いだした。
心に銘じよう。

長くなったが、ひとまずこれでオシマイ。
下の2冊も、これから読んでみようと思う。

Abe_kinya_gakumonAbe_kinya_chuusei_1『学問と「世間」』 岩波新書 735
  2001.6.20 第1刷 / 2003.7.25 第5刷
本日入手。 読み始めたところ。
『西洋中世の愛と人格 「世間」論序説』
  朝日新聞社 1992.12.10
本棚で眠っていた本。内容がやや専門的だが、今なら読み通すことができそうだ。

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【読】世間 (3)

しつこい性格なので、まだ書いている・・・。
阿部謹也さんの著作に触発され、自分にとっての「世間」というものを考えてみたりしている。
阿部さんの本に、どんどん目を見開かされる感じ。
「目から鱗がおちる」というが、ぼくの目にも固い鱗が、いつのまにかいっぱい付着していたようだ。
Abe_kinya_rekishi_1阿部謹也
 『日本人の歴史意識 ―「世間」という視角から―』
  岩波新書 874  2004.1.20
「世間」とは何か。
この本の 「はじめに」 によれば、「日本人全体に共通する生活の形」であり、欧米にはない、日本独特の生活の形である。
<欧米では12世紀以降個人が生れ、長い年月をかけて個人が形成されていった。 明治維新の際に日本は欧米の思想や技術を取り入れ、個人の思想をも取り入れた。 しかし欧米で数百年かけて形成された個人を一挙に取り入れることは不可能であった。・・・>
ソサイェティーという言葉に社会という訳語が作られたのが、明治十年のことであり、インディヴィデュアルという言葉に個人という訳語が作られたのが、明治十七年であった。> (「はじめに」 P.5)

「社会」とか「個人」といった観念は、日本ではたかだか100年ちょっとの歴史しかないのである。 この認識がたいせつだと思う。
他にも、明治初期に日本語に訳された欧米の言葉(観念)がたくさんあるはず(調べていないけど)。
いっぽう、「世間」という言葉、観念は、万葉集の時代から延々と日本人の中に息づいていたのである。
「世の中」、「浮き世」、「憂き世」も、「世間」とほぼ同義(時代によって変化してきたが)。
「世間」は、もともとサンスクリット語で「否定されるべきもの」を意味する"loka"(ローカ)の訳語だという。
仏教思想からきた言葉だ。

阿部謹也さんは、この本の「あとがき」を次のように結んでいる。
<日本では古来、世の中を無常とみなし、変わることのない運命として受け止めてきた。 日本で明治以前に社会科学の芽が育たなかったのには「世間」がもつこのような情感が大きな働きをしていたと思われる。 私たちの心の底にもそのような想いがないといいきれるだろうか。 社会は自分たちが造っているのだという実感を身につけるためにも、この「世間」を対象化することから始めなければならないのである。・・・>

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2006年9月21日 (木)

【読】世間 (2)

阿部謹也さんの「世間」論の続き。
Abe_kinya_seken_2『「世間」とは何か』 (講談社現代新書)は、日本に住むわれわれが「世間という枠組みの中で生きている」という主題のもと、日本の文学者たちが描こうとした「世間」の本質を解き明かそうとする労作である。
ざっと目次を紹介しよう。
序章 「世間」とは何か
第一章 「世間」はどのように捉えられてきたのか
  歌に詠まれた「世間」  仏教は「世間」をどう捉えたか
第二章 隠者兼好の「世間」
第三章 真宗教団における「世間」 ――親鸞とその弟子たち
第四章 「色」と「金」の世の中 ――西鶴への視座
第五章 なぜ漱石は読み継がれてきたのか ――明治以降の「世間」と「個人」
第六章 荷風と光晴のヨーロッパ

この本の要約がぼくにはまだできないので、「おわりに」(あとがき)から引用してみたい。
<私たちはしばしば「世の中はままならないものだ」という。 古人もしばしば「思い通りにならないもの」として世の中を歌っている。 無常観の底にはそのような想いも込められている。 しかし世の中が私達一人一人の思い通りにならないことは当たり前のことである。
日本人は何故このような嘆きを千数百年にわたって繰り返してきたのだろうか。 ここにも世間のあり方があると私は思う。 日本人はごく例外的な人を除いて個人であったことはほとんどなかった。 皆何らかの世間を構成し、その中で生きてきたのである。・・・>
<世間の問題は、私達自身を分析する試みである。 だから一部の人にとっては見たくないものを見せられるものとなるだろうし、心弾むものではないかもしれない。・・・>

阿部謹也さんが言うように、これまで誰も、この「世間」というものをまともに考えようとした人がいなかったのである。 とくに、日本の学者は、西洋流の「社会」という物差しでしか日本「社会」(じつは「世間」という古臭い実体)を分析しようとはしなかった。

<わが国の社会科学者は、学問の叙述に当たっては西欧的な形式を用いながら、日常生活の次元では古来の世間の意識で暮らしてきた。 したがって叙述の中に自己を示すことができなかったのである。 わが国の学問にはこのような問題があると私は考えている。・・・> (「はじめに」)

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2006年9月19日 (火)

【読】世間

先日亡くなった阿部謹也さんの著作 『「世間」とは何か』(講談社現代新書)を読み返した。
Abe_kinya_seken_1阿部謹也 『「世間」とは何か』
 講談社現代新書1262 (1995.7.20)
前に読んだのは、たしかこの本が出てすぐの頃。
今から10年も前なので、内容をほとんど憶えていなかったが、今回再読してみて、とてもスリリングな内容だった。
日本に「社会」(society)はない。 あるのは「世間」という魔物である。
西洋の人が言う「社会」は、「個人」という概念の定着していない日本には存在しない。
(みんな日本にも「社会」があると思っているが、それはウソである)
ぼくなりの乱暴な要約だが、このような著者の主張にうなずかざるをえない。

「世間」・・・この言葉を、ぼくらは日常生活の中でしょっちゅう使っている。
「世間を騒がせて申しわけない」というのが、不祥事を起こした人たちが記者会見などで言うことば。
「私は悪くない」が、「世間を騒がせたこと」については「申しわけない」と、お詫びするのである。
♪いいえ 世間に負けた~♪ という歌の文句もある。
「世間体が悪い」「世間知らず」「世間を騒がす」「世間に顔向けできない」・・・等々。
ぼくらの体にしみついた、この「世間」とはいったい何か。

阿部謹也さんが終生のテーマとしたこの問題に、ぼくもこだわってみたい、と考えたのだ。
Abe_kinya_rekishiそんな折、面白い本をみつけた。
阿部謹也
 『日本人の歴史意識 ―「世間」という視角から―』
  岩波新書874 (2004.1.20)
上の講談社現代新書の続編ともいえるもの。
きのうから読み始めた。
(図書館から借りたのだが、今日、本屋でみつけたので買った)

他にも、『西洋中世の愛と人格 「世間」論序説』 朝日新聞社 (1992.12.10)
という著書もぼくの手許にあるのだが、まだきちんと読んでいない。
(買ったまま放置してあった)

読み終えたら、このブログで紹介できればいいな、と思っている。

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2006年9月10日 (日)

【読】阿部謹也さん

阿部謹也さんという歴史学者の訃報。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0909/001.html

―朝日新聞(2007.9.10朝刊)から―
<ヨーロッパの被差別民に目を向けた「刑吏の社会史」、定住民と遍歴の民の交錯を描いた「中世を旅する人びと」(サントリー学芸賞)などの話題作を次々と発表。故網野善彦氏らとともに、社会史・中世史ブームの中心人物となった。/また、独立した個人が構成する「社会」とは異質な「世間」をキーワードに、「『世間』とは何か」などで独自の日本文化史・社会論を展開した。>

ぼくにとって、網野善彦さんとともに学ぶことの多い学者さんだった。

Abe_kinya_fuehuki『ハーメルンの笛吹き男』
 1974.10.28 平凡社 / 1988 ちくま文庫
これまで歴史学が触れてこなかったヨーロッパ中世社会の差別の問題を明らかにし、ヨーロッパ中世の人々の心的構造の核にあるものに迫る。新しい社会史を確立するきかけとなった記念碑的な作品。




Abe_kinya_keiriAbe_kinya_sekenAbe_kinya_kyouyouAbe_kinya_hoshi









『刑吏の社会史』
 中公新書 1978
『「世間」とは何か』 講談社現代新書 1995
古来から、日本人の生き方を支配してきた「世間」という枠組、兼好、西鶴、漱石らが描こうとしたその本質とは。西洋の「社会」と「個人」を追及してきた歴史家の視点から問い直す。
(この本を読んだとき、目から鱗が何枚も落ちた思いがした)
『「教養」とは何か』 講談社現代新書 1997
『中世の星の下で』 ちくま文庫 1986 

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