宮本常一 『辺境を歩いた人々』 (河出書房新社) のおしまいのほうを読んでいたら、笹森儀助と石光真清が、満州で出会っていたことが書かれていた。
石光真清の手記 『曠野の花』 に、このときのことが書かれているという。
『曠野の花』 は、すこし前に読んでいた。
https://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_bd47.html
どうりで、笹森儀助という名前になんとなくおぼえがあるような気がして、ひっかかっていたのだ。 なるほど、合点。
『辺境を歩いた人々』 の目次には、四人の名前しか出ていない。
近藤富蔵、松浦武四郎、菅江真澄、笹森儀助。
しかし、宮本さんの文章には、その時代に彼らをとりまいていた魅力あふれる人々がたくさん紹介されている。
笹森儀助の章では、田代安定(あんてい)と伊能嘉矩(よしのり)の二人にかなりのページが割かれていて興味ぶかかった。
彼らは、明治18年頃(日清戦争の年)から、沖縄や台湾を歩いて調査した人たちだ。
笹森儀助にとって、沖縄探検の先輩にあたる。
笹森儀助の琉球列島探検は徹底していて、明治26年、沖縄本島の那覇に着いたあと、宮古、石垣、西表、鳩間、さらには与那国島まで足をのばし、沖縄本島に戻り、奄美大島をみて鹿児島に戻る、四か月以上の旅をしている。
現在のように、交通が発達していない時代のこと、船とじぶんの足だけが頼りの旅。
マラリアにも苦しめられ、野宿もいとわない旅だったらしい。
すごいな。
ところで、この本の巻末年表も興味ぶかい。
その一部を抜粋してみよう。
1754(宝暦四) 菅江真澄、三河国に生まれる
最上徳内、羽前に生まれる
1771(明和八) 近藤重蔵、江戸に生まれる
1778(安永七) ロシア人、クナシリ島に来る
1780(安永七) 間宮林蔵、生まれる
1782(天明二) 伊勢国の光太夫ら、ロシアに漂着
1783(天明三) 東北地方大飢饉(翌天明四年まで、天明の大飢饉)
1784(天明四) 菅江真澄、信濃から越後、奥羽、津軽、南部への旅
1785(天明五) 徳内、幕府の調査隊に加わり、千島列島の旅へ
1788(天明八) 真澄、津軽から松前へ、寛政四年(1792)まで松前地方の旅
古川古松軒、幕府の巡見使に加わり東北地方へ
1792(寛政四) ロシア使節ラクスマン、伊勢の光太夫らを送って松前に来る
1798(寛政十) 徳内、第六次蝦夷探検でエトロフへ
重蔵も同行、モヨロ湾に「大日本恵土呂府」の標柱を立てる
1799(寛政十一) 重蔵、第二回の蝦夷地探検
間宮林蔵と松田伝十郎、蝦夷地探検、冬をすごす
東蝦夷地が幕府の直轄支配地になる
1800(寛政十二) 重蔵、高田屋嘉平とともにエトロフへ
伊能忠敬、初めて北陸と蝦夷地の測量
1805(文化二) 近藤富蔵、生まれる
1807(文化四) 近藤重蔵、利尻島を探検
西蝦夷地が幕府の直轄支配地となる
1808(文化五) 間宮林蔵、カラフトから黒竜江方面の探検
間宮海峡を発見
1811(文化八) ロシア艦長ゴロウニン、捕われる
外国船打ち払い令
1814(文化十一) 伊能忠敬、『沿海実測全図』完成、ロシアとの国境を決める
1818(文政元) 松浦武四郎、伊勢国に生まれる
1821(文政四) 幕府、蝦夷地を松前氏に返す
1823(文政六) シーボルト、長崎に来る
1826(文政九) 近藤富蔵、人を殺める(翌年、八丈島へ流刑)
1829(文政十二) 真澄、秋田の角舘で死去 重蔵、江州で死去
1836(天保七) 最上徳内、死去
1840(天保十一) 清国でアヘン戦争
1841(天保十二) 天保の改革始まる
1844(弘化元) 松浦武四郎、蝦夷、カラフトの探検を志して旅に出る
1845(弘化二) 武四郎、蝦夷地探検
笹森儀助、陸奥国弘前に生まれる
1846(弘化三) 武四郎、第二回の蝦夷地探検
1847(弘化四) 近藤富蔵、流刑先の八丈島で『八丈実記』を書き始める
1849(嘉永二) 武四郎、第三回の蝦夷地探検(おもに千島列島)
最初の北海道地図『蝦夷大概図』を描く
1851(嘉永四) 武四郎、『三航蝦夷日誌』35冊を書き上げる
1853(嘉永六) ペリーが浦賀に、ロシアのプチャーチンが長崎に来る
1856(安政三) 田代安定、鹿児島に生まれる
1860(万延元) 井伊大老、桜田門外で暗殺
1867(慶応三) 明治天皇、皇位につく
1868(明治元) 伊能嘉矩、岩手県遠野に生まれる
1869(明治二) 松浦武四郎、北海道の道名、国名、郡名を選定
1880(明治十三) 近藤富蔵、罪を許される
1887(明治二十) 富蔵、八丈島で死去
1888(明治二十一) 松浦武四郎、死去
1889(明治二十二) 帝国憲法発布
1890(明治二十三) 教育勅語発布、帝国議会召集
1893(明治二十六) 笹森儀助、南島探検をし、『南島探検』をあらわす
1894(明治二十七) 日清戦争勃発
1895(明治二十八) 日清戦争勝利、台湾を譲り受け、台湾征伐を行なう
1902(明治三十五) 笹森儀助、第二代青森市長に 日英同盟
1904(明治三十六) 日露戦争勃発
1905(明治三十七) 日露戦争勝利、カラフトの北緯50度より南側が日本領土に
1914(大正三) 第一次世界大戦に参戦
1915(大正四) 笹森儀助、死去
1925(大正十四) 伊能嘉矩、死去
1928(昭和三) 田代安定、死去
もう一冊、宮本常一さんの同じシリーズで、こんな本も出ていたので入手。
宮本常一 『南の島を開拓した人々』
河出書房新社 2006.1.20発行
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309224458
この本の目次に登場するのは、次の七人。
中川虎之助を除いて、私の知らない人ばかりだが。
藤井富伝(諏訪之瀬島を開拓)
中川虎之助(石垣島・台湾で精糖事業を興した)
村岡伊平治(南洋で出稼ぎ女性に尽くした)
菅沼貞風(南方交易史を研究)
太田恭三郎(タバオで麻園を経営)
原耕・捨思 兄弟(南方漁場を開拓した兄弟)
石光真清 『曠野の花』 中央公論社(中公文庫)
― 「異郷の同胞たち」 (P.57) より ―
三等客車の中には露支韓人の下層階級のものばかりがそれぞれ自国語で語り合っていたが、私はただ一人窓際に坐って前途をぼんやり考えていた。 そのうちにうとうと眠ってしまった。 汽車が停ってふと眼を覚すと、六十歳を少し越えたと思われる日本人が乗込んで来た。 私はその風体を見て思わず微笑した。 ところどころ破れて色のさめたフロックコートに、凸凹の崩れかかった山高帽をかぶり、腰にはズダ袋をぶらさげ、今一つ大きな袋を肩から斜めに下げていた。 しかも縞のズボンにはカーキ色のゲートルを巻き、袋の重みを杖にささえて入って来たのである。 (略) 「わしは青森の者でナ、笹森儀助と申しますじゃ。 老人の冷水と笑われながら、笑う奴等には笑わせておいてナ、飛び出して来ましたじゃ。 これもお国へのご奉公ですよ」 (後略)
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